――目次――
1,
宗教を語る時に捉へられるもの,宇野円空,Enkū UNO,pp.1-16.
2,
寧楽仏教と密教,大屋徳城,Tokuzyō ŌYA,pp.17-44.
3,
ころびイルマン不干斎ハビヤンの事,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.45-72.
4,
民俗文献の検討,松村武雄,Takeo MATSUMURA,pp.73-88.
5,
梵音仮名書き統一についての一提案,金倉円照,Enshō KANAKURA,pp.89-101.
6,
徳川時代における宗門手形,細川亀市,Kameichi HOSOKAWA,pp.102-107.
7,
紅頭岐ヤミ族の埋葬法について,鹿野忠雄,Tadao SHIKANO,pp.108-110.
8,
印度仏教美術研究資料,特に初期の研究について,財部健次,Kenji TAKARABE,pp.111-117.
9,
原始耆那教聖典の内容概観,龍山章真,Shōon TATSUYAMA,pp.118-130.
10,
ゾェデルブロームと宗教学講座開設,N. Söderblom, Einführung in die Religionsgeschichte, 2. Aufl.
Lpzg., 1928,
三枝義夫,Yoshio SAEGUSA,pp.131-135.
11,
宗教の民族学的研究への一寄与,秋葉隆,Takashi AKIBA,pp.136-138.
12,
如来大蔵経総目録について,桜部文鏡,Bunkyō SAKURABE,pp.139-148.
13,
『李朝仏教』を読む,江田俊雄,Toshio EDA,pp.149-155.
14,
最近の回心研究について,上野隆誠,Ryūzyō UENO,pp.156-161.
15,
米国派宗教心理学の清算,Uren, Recent Religious Psychology, 1928,増谷文雄,Humio
MASUTANI,pp.162-166.
16,
新刊紹介,pp.167-175.
しへ′\)
宗教といふ言葉の使用度が多くなるだけ、それだけ意昧の碓定が困難になるのは、言語畢的に
も敢曾畢的にもやむを得ないことでぁらう。西洋でもこれが事耳上主にキ,スト徽を蒋してゐた
、−L閉は、今からかへり見てよほど問題も少なかったが、それが他の教義憶系や歴史上の種々の異
数、▼、とに未開民族の信仰や行事をも総括するやうになつてからは、その意昧内容に根本的な炭
化があつた。これは思想史ことに宗教畢史の上での一大渾進でふ∵り、初期の宗教哲畢と一般宗教
史とい
へたやうでみる。さら㌃それが宗教畢や宗教膏畢の中心的目標として、宗教の本質とか宗教一般
などいはれるものを、よト多ぐ指示するやうになつてからは、通俗的にもこんな概念が頼嘗につ
よく印象されて、人々がこれを口しする時の考が、よほど複雑にもな㌔また時によつて区々な
内容をもつやうになつて凍てゐる
我国の宗教といふ語が、書から宗旨とか宗門とかいつたのと、可捏了りの開きをもつてゐるのは、
宗教を静る時に捉へられるも¢宗教を語る時に捉へられるもの
宇 野 固 空
∫宗教み語る時に扱へられるも¢
二
大健同じやうな知識や唐度の襲化にもとづくのであつて、それが一つの翻評語であつてもなくて
も、つまりは新しい意味を盛って取入れられた欺洲語のそれと、思想的に同じ役目をしてゐるわ
けである。したがってそれは偶数かキリスト敷か、それとも細道などの諸派の中で、自分が属し
てゐるか、または封手や多数の人々が信奉してゐると認めた一つの宗教鰭系を意味することもあ
♭、それらを中心にして大よそ知ってる限らの種々の宗教を概括することもあり、特に眞賓の宗
数とか若くは宗教その牒のといつたやうな観念を、主として表はしてゐる場合もある。
もちろんこれは言語の螢連若しくは樽毒性として普然のことであるが、これら種々の臭った憲
政が、入寸乱れてゐることは、一つは日本語の性質として、日常の曾話にも畢問上の議論や思索
︰に人ことに甚しくあらはれてゐる。ヨーロッパ各国の言語では同じ宗敦といつても、それを限
定する形容語句のほかに、その単数複数をしめす語尾の鼻化と、特殊的か汎解約かの冠詞の作用
などで、直接にもその意味が多少はつきら表はされる。ところが日本語にはこんな要素がないた
め、特に念を入れてそれを制限しないかぎり、上のやうな種々の意炊が、宗教といふ一語に混線
してあらはれ、そこから種々の誤解や議論のゆき蓮ひが起るばかり†なく、思考に射する言語の
機能は、話者や筆者のま観にまで反省と論理の錯綜を輿へる。
それで言葉の問題は別としても、私たちの宗教観や宗教論に於て、一つの宗教と諸宗教と、ま
βた各宗教と宗教一般といふこと∼が、はつきりと区別されずに取扱はれることば屡々あるので、
時としてはそれが自他を無意味な迷想に導き、無用の諭蹄を費させる仮になることが多い。それ
が或る程度までは宗教といふ事象の性質上除儀ないことでもあり、かつ個々の事賓と本質的概念
とは、もとより互に開聯して考へらるべきであるが、これがためにそのま眼鮎としで捉ふべきも
が見失はれ、いつか大なる誤審が是認されるやうなことがあつてはならない。そこで人々が宗教
を語る時には、これらの中でのどんな意味の宗教についてゞあるか、少くともこれを自分に反省
して見る必要がぁることは確かである。
欧米の赴曾で生れたこれまでの宗教の研究が、多くはキリスト教を出立鮎とするか締着鮎とす
るか、とにかくこれを規準として考へられたものでぁるのに封して、今後の我々の研究は東洋の
一
宗教特に俳致を中心とすべき甘といふ意見も、近頃さかんにぁらはれてゐる。道理写﹂とである。
けだし宗教の諸現象の訣明には、一つの宗教ことに内面的に著しく蓉展したもの.について、深い考察と理解をす∼めることが、何よ♭も適切な方法であることは疑はれない
も一宗教の原理が、必ゃしもすべての宗致を支配する普偏的なものでないことは注意すべきであ
って、もし特殊的なものを無制限に普編化するならば、・てれがいづれの宗教から見出された理法
であつても、その方法論的過失は同じことであ丁り、そこにまた一つの宗教と諸宗教との混同があ
宗教わ辞る時に捉へられるも¢ β宗救わ療盲時に捉へられるも¢
回
る。これがすべての宗教を批判せんとする宗教畢の立場からは、特に親しい宗教についての主観
的な見解が、
すい宗教については、この警戒も全く不必要ではない。
また同じ宗教でも、それを過去の歴史や現貰について考へるのと、その清水を泳想した♭主観
的に理想化して見るのと、その説明や評偶に甚しい偏庭のあることはいふまでもない。しかもこ
れがまたま軌の信仰や愛書と開戦して、畢的にも屡々錯綜して諭せられる場合が多いことは、こ
れを批判する上から見のがLてはならない事賓でぁる。客観的な考察には宗教の寮生や史質が主
として着目されるのに対して、自分の信奉する宗致は、それ自身にすでにその好ましい方面だけ
が邁揮されてをり、なほこれを未だ現はれない最上のものにすら引つけて考へることが多い。そ
こに同じ名を冠せられセ宗教が、質際は全くちがった封象としで典へられてゐるので、信者とし
ても批判者としても、これにもとづく議論の触齢に悩まされるのは、その宗教といふものに対す
る反省が十分でないことを示してゐる。
なほ歴史的に事賓としてあらはれた諸宗教、乃至まだ現賓にあらはれてゐないでも、具憶的な
ものとして想定された特殊の宗教のほかに、宗教そのものとか宗教一般といふやうなものは、一
つの抽象的な概念にすぎない七いふ非難がある。これは非難といふよ♭も、或る程度まで鼻音で 4
ある。しかしたとひそれは抽象的なものではあつても、研究の封象としての一つの存在ではあアワ
得るので、同時にそれは具髄的な特殊宗教とは甚別さるべきであり、鹿史的な事茸をかへらみて
の諸宗教といふ観念と、必ずしも同じものではない。これがまた賓際には屡々混同されて、宗教
一般と小ふことが、直ちに諸宗教もしくは各宗教の意味に理解されることは、特に歴史的科畢的な
考察に多い傾向である。したがって通俗的な宗教の論議に、この鮎から甚しい混乱が適って凍る
のは除儀ないことであるけれども、こんハ与意簸での宗教一ざ語るのにも、宗教史的な考へ方と宗教哲
畢の目標とするものとは、その間に可打7りの駐離がある。壊者を﹃あるべき宗教そのもの﹄と限定しないまでも、軍にこれを﹃あつた諸宗致﹄の普遍的な概括と解し去ることは許されない。
かくLて宗教といふ言葉や軌念が、時によつて種々の意味や範囲をもつことに注意するなら
ば、強ひてこれらを一義的に決定して見そ1とは、おそらく無理でもあら不必要でもあるだろう。
そしてむしろそれらの内容を、時に應じてはつきりと区別して考へ、特に度外成されやすい意義
に封して、その理解と反省をす∼めることこそ、いづれの側に向つても問題の解決のために要求
される鮎である。
かりにこれが事茸上の諸宗教をさす場合でも、人々がざんな事象を宗教と怒めてゐるかを考へ
てみると、その見込や解辞はさらに区々雑多であつて、これを一つの鮎に締結せしめることは容
宗教み蘇る時に捉へられるも¢ 五 占宗教を経る時lこ捉へられるもの
六
易でないのみならす、それには屡々宗教としての重要な方面が看過されてゐるものが少くない。
宗教を考へる時に、私たちは何よ♭もまづ一定の教義倍系や、これを信奉するどれほどかの人間
の集囲もしくは敦園組織を想ひ浮べる。そしてその各々の健系や個々の数園を一っの宗教と見な
し、それらの絶和が諸宗教であ♭宗教一般ですらあるやうに考へるのが、普も今もどこの社食に
も習慣づけられた傾向である。その僚系や組織の整理と制度化は、貰際に於て程度の問題であ丁ク、
それら相互の対立関係も、相反敵対から、類似聯合のそれにいたるまで、仝健が決して一様では
ない相対的なものであつて、一つの宗教としての単位は、つねに動揺して明確でないのである。
それにもかゝはらすこんな見方が少くとも常識的に、もつとも有力なものとして行はれてゐるこ
とは否定できない。そしてこれには教主や曾議によつて統制された集囲をま限として、カナダ監
督敦曾とか天台宗眞盛況といふやうな特定の敦園を、夫々れ一宗教と見る制度的な見解と、彿敦
マホメブート敦といふやうに、比較的にひろい統一をもつた教義燈系を、宗教の質憶と見なす考と
が、液温には区分されるのであるけれども、茸際には多くこの雨着が、どれほどかの歩合で結合
されて、便宜にしたがって人々の宗教観を形ってゐる。
それでこんな制度的i邑it邑。邑なもの、整頓承怒された∵室F≡isF乱もののみに宗教をみとめることは、一方では宗教の赴曾的集園的な見解となト、他方ではまたこれを輿へられた数囲や敦
β我と見なす客観主義ともへ与つて凍る。換言すればこの立場からする宗教とは、人々が宗教的生活
をいとなみ、宗教的になり得る唯一の手が∼らとしての散骨であ㍗り、各人がそれに蹄供し信奉す
ることよりは、その所信の封象としての教義そのものである。こんな見方は通俗的に捉へやすい
客軌的所奥への傾倒からも凍るが、特に散骨とその侍統を食重するカトククなどの思想に支拝さ
れ、宗教史に於てもその資料取扱の便宜から、自然に助長されてゐるやうである。だからこれに
対して宗教を各人の信仰にみとめる新教の傾向や、まとしてそのま軌的経験や意識に窒息する宗
教心埋草の立場からは、宗教が個人の経験であト、輿へられたる教義や敦園ではなくて、これに
開聯してま軌的な信仰や生活そのものだといふ個人的、主観的な宗教観が強調される。キリスト
教としてその敦囲や教義に宗敢の本鰹をみとめるよーリも、ことさらキリストの宗教といつて、キ
リスト自身の信仰や絶倫の内容に、宗教そのものが動いてゐると見るのは、宗教観としては可な
らの礎化でぁる。すなはち何基の宗致といふ時に、その人が属する敦囲や信奉する教義々さすの
が、集囲的客観的な宗教観であ︹1∵その宗教的ぢ経験そのもの、もしくはその信行の感度を意味
するならば、それは個人的主観的な見解が板柾となってゐるのである。
そしてこの場合になほその人の説くところの致や、信仰内容としての思想を、特にその宗敦と
見なすことは、素朴な批評などに屡々あらほれてゐるので、それは集合的に保持された教義を宗
宗教わ誇る時に捉へられるもの 七 7八
宗教む経る時に捉へられるもの敦とするのと同棲に、むしろ宗教の形態的な見方といふペきである。これに封して信仰から抽象
、
した思想や観念よhソヰb、これらを包括しての信仰の動き、すなはち個人や集園の宗教的憩度そのものに宗教をみとめるのは、機能的な宗教観とでもいふか、とにかく畢的には一つの重要な立場
である。スポートを考へるのに、野球蹴球庭球などの種類や形式をかへりみ、それらを支持する
組合やクラブを単位として見ることも必要ではあるが、これを本質的に見たら、人々が夫々れの
形と〝−ルによつて、遊び競ふことがスポートであるやうに、宗致の詩形感としての敦囲や教義
を是認しても、結局宗教がこれらの形式をとつてあらはれる集囲や個人の宗数的機能であること
は度外成してはならない。それ放この機能をその形愚によつて区分して諸宗数を教へることは便
︰宜の問題であつて、それらの形態そのものが宗教であると見なしては.、宗教を最密に考へたもの とはいはれない。もつともこの立場からは、一つの宗教といふものが、それを形膿的に見る場合のやうには、容易
にかつ簡明に捉へられない。けだし生活機能を中心として宗教を見る時には、たとひ人々の信仰
の内容や儀租の形式が一致してゐても、各人の経験や憩度に於て、夫々れ燭自の宗教があるばか
りでなく、桑園の宗教的生活でも個人のそれと同様に、時間的に断頗があるのであつて、それら
が必ずしも同じ思想や形式で一貫してはゐないから、極言すれば宗教的経験や感度のあらはれる
β回時ごとに、そこに宗教の単位をみとめる外ないことになる。こんなに突つめた宗教の把握は、
常識的には不可能に近いことであ♭、宗教の種類を宗教史的に考察するには、無用の努力でぁるか
も知れないので、したがって一つの宗致を、一定の時間塩績する各々の信仰状態や行男と見なす
ことは、塵尭上これまでの宗教観にはほとんどみとめられてゐない。しかし長い歴史と襲化をも
つ宗教を概括するためL、これをその形式の方面から捉へる必要はあるにしても、賃貸の上から
考へた宗教自健が、それらの形式をとつて動く人間の生活であり、時間的にぁらはれる経壌また
は活動の過程でぁることは事茸である。そしてこの意酸からする個々の宗教ほ、その経唸の内容
忠想や活動の形式の抽象ではなく、一定の時間有機的に連績する具億的特殊の生活態度であつて、
例へば人々が或る.日紳を想起してこれに斬る時、その紳の観念や所の形式よhソーb、その時虞に限定された斬ること自憶が一つの宗教だといはぎるを待ない。これはぁたかも衣服といふものを考
察するのに、その国土、性または階級による形式の種類を教へ、年齢、寒暑及び儀頑による舜化
を見ることも必要でぁるが、衣服の音質ほこれらの形式を配合して、装飾、保健、儀祓の機能を
.
はたすやうに仕立てられた装身物でふ∵り、 あるのと同棲である。もちろん機能的に見た宗致は、これを形憩的将にその知的思想的な方面から見た宗教に比べて、
宗教む経る時に捉へられるもの 九 9宗教を語る時に捉へられるもり
/︼○
具膿的な揮励や活動といひ得をのであつて、これ一で人間の生活全能から見たら、それもまた一種
の抽象的な存在であることは否定するわけに行かない。宗教的経験を単なる戚情として説明する
ことは、心理畢的にもとうてい許されない謬想であるけれども、それが生活反應の原始的な形鹿
で今Q情緒的複合から出立して、多少の観念や思想を包合した情操の鰻系をなすものでぁること
はみとめなくてはなら互い。それは信仰といひ愛といひ、尊敬といひ従属といひ、種々な言葉で
いひ表はされて、しかもそ汀が何れも適確にその宗教性を指摘し得ないやうに、事賓上時によつ
て囁々の心情を随伴し、それらの配合からまた複雑多様な慶化を示してゐるが、それらに共通す
る根本的な要素としては、畏敬または紳聖ともいふべき情操的複合を指摘することができる。そ
してこの複合はこれ一どその観念内容や、その戚情的色調強度などに分析抽象して見ない限り、現
賓の具憶的な経験ではあるが、質際生活に於てこれだけが他と切りはなされて、箪狗に純粋に経
験されることはきはめて稀でぁつて、その威受的な方面だけを見ても、上のやうな種々の随伴的
な戚憤や観念がこれと結合して、その多様ぢ慶化をあらはすばかりでなく、宗教とはいはれない
嫌多な経験にも不可分につながって、現賓の内部的な生活としての経験を形ってゐるのが常であ
る。紳命に封する畏敬の戚が同時に道徳的な義務戚でふγり、穀物の神聖は必然に経済的な償便意
讃とはなれないので、これらを全鰻として意識するのが、人々の生活紅顔の賓際である。それ故
JPこれらの経験の中から、特にその宗教的な要素や意味を、適確に分析七て見ることは、畢的な作
業としては可能でもあり必要でもあるが、その作業自慢が一つの抽象作用で通わ、それによつ七
獲たところの宗教なるものは、必ずしも具臆的な生活経験そのまゝ†はないのである。
ことに宗教的経験は一方でいちじるしくその勒向的な方面をいつ。すの情操といふ中にも里なー
る戚受ではない感動がふくまれ、その威傍白億が一つの心的感度に外ならないのであるが、さら
にそれは必然に衝勒や意志のはたらきと結合し、そこから内債的な活動や態凌がぁらばれるので、
それは屡々憶駿と呼ばれるやうに、内外の生活を通じて有梼的竺健をなすところの反應でゐ力
感度で雪。そしてこの宗教的勒向、ことにその内橙的な活動は、その心的経験に比較して、て
れ自燈に宗教的な特徴を示すこ.とが少く、むしろその内的経験の特徴によつて、それの宗教的性質をもつのであるから、外面的には他の非宗教的な生活々勒との分斉が明かでないばかゎでな
く、事賓上Ⅰ㌻り多くそれらと結合してぁらはれる。換言すれば宗教的な.動機による行動は、屏々他の動機による行動と苦行の上で一敦し、一つの行動に種々の勒梯が結合してはたらき、行勒の
性質をして多方面ならしめることが少くない。研究に没頭することがヽ串間への寄奥でもあると
同時に、宗教的な使命の落行でぁつたり、租先に射する奉仕として、民族の繁農をもたらす戦争
に徒事した♭、宗教的な行勒がそのまゝ道徳、政治、経済等の生活であるやうな場合は、個人で
宗教な語ろ時に捉へられるもの JJ宗教を誇る時に捉へられるもの
ーこ
も桑園でも賓際の生活には甚だ多いので、それらの動機は互に目的とな♭手段となり、時により
て豊作の位置をかへるけれども、他の動機を交へない純粋の宗教的な行勃は、生活全潰として見
て賓は陰ら多くないものである。祭祀や鹿邦など普通に宗教的な行勒と見なされてゐるもので
′
も、比較的に他の生活動機の加はることが顕著でないといふだけで、他方では衣食や娯業などで
すら、屡々それに宗教的な態度が加はつてゐることが多く、種々な生蒔々勒を、その一々につい
て宗教的打了ものと、他の系列に属するものとに直別することは、賓際に於て不可能に近い。そし
て宗教が他の動機をふくまない狗自の行動となつてあらはれるのは、最密にいふと極めて特殊な
場合であつて、むしろ他の生活々勒をそのま∼宗教的ならしめ、宗教的態度の下に行動せしめる
方が、事賓上はるかに多い。それ故行動の方面から見た宗教は仝健として、他の生活形式に依存
するともいひ得るであろうし、またぁらゆる行動に宗教的な態度や調子を典へるところに、宗教
の存在があると考へることもできる。この意味でも宗教は他の生活と分饉した特殊の行動や生活
ではなく、むしろ現賞の人間生活を、その動機や態度王っいて分析して見た時に、はじめてその
存在がみとめられる抽象的な機能にすぎないので、むしろこれを具簡約な生再現象の一断面と見
た方が、泉質に近いのではなかろうか。もし宗教をこんなに把捉することが謬でないとしたら、それを個億的に教へたり、普通にいは
J8れるやうな一つの宗教として指摘したりすることば、全然不可経でない←︺吉もよほど困難になつ
て凍る。そして宗敢を客観的形態的に見た時に、概括的にそれを幾つかに分類Lたり、教義や敢
園の形式に於で個々の票数といふものを考へたやうな意味と必要とは、この場合にはほとんど滑
滅する。もつともこの場合にもその宗教的憩度の基準となる概念や思想は、どれだけかその形式
を決定するものとして、宗教の類型を区分する一つの辛が∼りにはなる。また種々の生活々動に
あらはれる宗教的感度は、個人に於ても集囲に於ても、その主なる封象の観念や世界観、もしく
はその欲求の目的観念や理想などの思想的要素によつて、前後を通じて多少統一されてゐるか
ら、事ごとにあらはれる宗教的鰻度は必ずしも偶発的な、各自別々の衝動的な駿現ではなくし
て、少くとも人の年涯のどれほどかの時期、もしくは民族生活の或る時代を通じて、一つの宗教
をなしてゐるものと見なすこともできる。普通に宗敦は信仰だといふ前提のもとに、その思想内
容や信奉された教義に根本的な鼻動のないかぎり、人は同じ宗教をもつ
らも考へられてゐるのは、すなはちこの意味lこ於てゞある。しかし教義や思想が機能的に見た宗
教に於て、さまで根本的な要素でないことは、前にも一言した通りであつて、それは宗教を形式
上から概宿したり分類する指標にはなつても、必ずしも宗教の個別的単位を決定する所以ではな
い。宗教的思想や教義が同じでも、それに件ふ宗教的感度が人によつてちがふことはいふまでも
宗教を語る時に捉へられるも¢ J3宗教む語る時に捉へられるもの
一四
なく、同じ個人に於てすら、その思想や信仰が慶らなければ、いつもその宗数的態度が同じでぁ
るとはかぎらす、これらを現賓に一つの宗教と見なすことは、腋密な機能的考察としては昔を得
たものでな、︶。 まして人々の賓際生活には、その宗数的理想や観念の瀧制をうけない宗教的な態度や行男が、レ▲串賓上可ヤ∴り多くあらはれる。極柴往生を終局理想としてゐる儒者が一病気には平癒の所願や加
持を超んだ♭、一紳の鈷理を信じてゐるものが、卜占呪法などの調和に宗教的な畏敬をもつたり
することは、現賓の人生に於ては到底否定でないことであ・る。そして粕曹に廣汎な宗教的思想の
憶系をもつて、生活のあうゆる方面を細大となくこれに結合せしめて・虻る人々に於てすら、卒然
と接する自然現象や、経験を禁じ得ないことは屡々ある。これらを多軸的な宗教的生活だと批列する人もあろうし、斉
際多くの人はこんな断片的な経験をば、その倍仰の債系を中心にして見て、自ら宗教的なもので
はないとしで看過してゐる。しかし科畢的な立場からは、それが多軸的であらうと断片的であろ
ぅと、その経験、鮭度または行動が、性質上宗教的なものである以上、その人の中心的な宗教患
想や信仰に従属してもしなくても、それ自身で曹然その人の生活の宗数的方面を形くるといはぎ
るを得ないので、むしろそれらの一つ一つが機能的な宗教の畢位とも見られる。人々の宗教的生
、 ∫4活に於てこんな断片的な要秦が何れほどの部分を占めてゐるか、またその宗数的生活が金牌とし
てどこまで思想的に純分されてゐるかば、その思想や信仰の憮系の大小、組織の精粗、及びその
生活統制力の如何によるの一であるが、とにかくこの統制の中に入らない宗教的なものが、多少で
も人々の生活にあらはれる革質はみとめなくてはならない。
これをいほゆる既成宗教に封して、私は未成宗教といつて見たことがある。それは歴史的に成
立した宗教に封する措凍の宗教とか、兼務に預想される甥想的な宗教といふ意味ではない。その
行動や思想の形式に於て、集脚的に制度化されたものに封する個人的なものであ∵り、赦曾的に承
認されたものに対する猶創的なものでふ∵り、個人としても習慣的ではない偶費的なもの、健系を
へ仏さない未組織のものである。これが可だアり有力な信仰思想の燈系をもつ人々に於ても、その燈
係以外に歴々存在すること、またそれが性貿上皆然宗教と呼び得るものであつて、その宗教的生
活のどれほどかの部分を占めてゐることを認めるならば、信仰はつねに票数であつても、宗教が
必ず信仰でなくてならないとは誰が断言し得るか。人によつて或る時代や時期の宗敦生活を通
じて、これ一三質する思想信仰をもたないものもあウ、またその範囲が狭く連結のきはめて類い
ものもある。それが前後を通じて全鰻的に統一されないといふ理由で、断然その人に宗教を拒む
ことはできない。そこには粍成り敬重や憧統的な依成はなくても、非惟系的ぢ経験と猫創的な態
宗教か語る時に捉へられ・?もの Jβ皮とが宗教的にあらはれ得るであろうし、弔質入生はこんな宗教的生活によつて多分に恵まれて
ゐる。
これを宗教的生活として原始的なものであるとか、無侶危な宗教だとかいふならば、それは問
題が別である。今は思想的統合のない宗教的生活にも、事賓としての宗教が存在すること、及び
その一っ一つが宗致の貰健であることを認めたらいゝのである。そしてこんな意味での宗数は、
宗政一般といふ概念ではないと同時に、形態的に見て個々の宗教とか諸宗教とか呼ばれるものと
は全然ちがつてゐる。それは現賓の経験であり態度ではあるけれども、一そう贋い人間生活の一
断面でふ∵り、具健的な賓生活の一つの様式または調子にすぎない。これを抽象的な存在としての
宗教だといはれても、機能的に見た人生の事賓は如何ともすることができない。
宗氷な語ろ時に認へられ予bり Jβが叡山のま疏であ・♭、茂峨であつた。而して、邁那業を規定して、
︵こ︶ 凡遽那薬草歳々毎白長二念邁邦、孔雀、不審、傭頂、諸眞言等、護国要員といひ、
︵三︶ 連邦兼具令r催ユ習三部念諦︰といひ、文
事策偽敦±密政大 屋 徳 城
∴
平安朝に於ける沸教の基調は、南北に於けるあらゆる宗派の密教への行進曲でぁる。容海の暴
言宗は申すに及ばず。最澄に依って.創められた天台宗も、寧欒朝から引繚いた南都の六宗も、曹
密教への合洗が始った。﹁堆石一乗法、無二那無三﹂の一乗法華宗も、止軌、邁那所業の併置から
が既に密教への費足空不し、
︵一︺ 法華一乗奥言一乗有向優劣衰。寧発彿数と密教
一七 J7といふ先のほヾ璽見之れ密教を修業するのであつて、連邦業といふのは、密教の代名詞に過ぎな
かった。而して、止観光と遽邦業とを両翼とする叡山の沸教、いはゆる日本天台なるものが、其
毒しを
の後、漸く止艶美奇聞いて、遮那業への邁進は平安初期に於ける敦界の偉軌で無くて何であらう。
霊に璽軍事密を分ち、唯理和宏を治産由仁配して、止粗菓七宛て、芸岩美晶に配
して、邁郵菜に宛て、終に理同事勝の洗を荒するに及びては、四明峰上、止晩飯に没して、連邦
†がた
︵六︶ 正に天に押する粕では無いか。同仁、固珍を経て、安然に至っては、自ら挿して真言宗といひ、︵八︶
︵七︶︵九︶ 或は暴言法華宗の稀を生する状態と焉♭、金剛頂踵疏、蘇悉地産疏から、菩提場軽義輝、稔舐経 ︵十一︶ ︵十︶鹿の積出と焉り、四一十門、五時五敦の数列と鱒ヱしほ、天台の一流悉く密教の大海に朝して、
岱に沫泡の如き退部の名目を存するのみ。名は天台宗にして、其の賓は密教以外の何物でぁらう。
︵十二ノ謂はゆる台密なるもの即ちこれ、若し夫れ鳥旦の祖師を九鬼に起し凍らば、壊々たる萬里の白雲
に梵施せんのみ。
時は凡てを礎す。汲んや慶すべき要素を既に合存するに於いてを㌢斯くの如き叡山偶数の襲
化は固より怪むに足らぬ。併し斯様ぷ慶化を惹起した原因は決して峯海の暴言宗への翠なる撲倣
ではなかった。
夢真備歌ミ寮歌
︵rq︶ 大悲胎蕨菜軍港頂道場藤森畢言契膏声閲念滴文名顔護。 一入 J∂に過ぎなかった。障って重源に対しては、
或宰十任心−列一二代改葬今血疏不足奉諭撃
と庇し、或は五菜を奉げて、
ル††へ十︻︶ 今泉言宗此十住心次第用香、答有宝失政不一用こ十住心次第︰と弾した。併し復び大局に立って大観すれば、叡山宗徒の出費鮎は飽く迄出費貼として怒むべき
でみるが、その到着鮎も亦到着鮎として認めぎるを待ぬのである。何の謂ひぞや。即ち出費貼は
正しく、天台一大固致の半面たる邁郵業の宣場に存したが、到着粘は又正しく隷定の字面を越え
て、邁邦の全回何に没し去ったでは無いか。換言すれば、その日ら耕するが如く、真言宗と舜じ
丁つたではないか。邁郵業、畢吉宗、密教、名は三にしてその賓は即ち一、之れを耕して台密と
いふのである。
叡山沸教の斯る鍵化の契機を点すものは、大凡二に分つことが出水よう。一は即ち海彼の大陸
︵十五︶ に於ける密教の洗行であ♭。二は即ち閣内に於ける密教の要求である。中庸以後、晩唐の沸教は天台よbも、密致の全盛を示し、寧襲朝以来潜流した密数的要素ほ、容海の侍密を機骨として、
一大飛躍を蓬ぐるに至った。此の内外の二大契機は期せずして、平安初期に哲酵して、斯る基調
.
を創造したのである。而して此の気運は平安全期を通じて愈其の度一軍将加したのである。
寧策俳敦ミ帝政 Jタ駐 ︵一︶ 銭▲奉屯−筆致山澄利府毎春。︵惟荘集、笹十︶ ︵ニ︶ 天蓋法華宗年分草生式。 ︵王︶ 勒炎天真宗年分畢生式。 ︵ア︶ 的㌘示大官護国食滞護国樽軽明墳ニニ十五。︵斬戒論、巷岬︶ ︵五︶ 閉何等名琴錦教示、答請三乗敢是昇一顛、問何故彼三乗敢以負鼻崩軟↓答声眈毒手倶寧故也、同所一首理事供奉者其趣 如何、答世俗勝義副融不二鼻声理賀著三世如来月評意準星学事密︰同筆戯維摩般若法華等諾大乗敦於一此鱒寧何 等域耶、.答如毎腰椎摩等誇大乗数■骨是密教也、開署如レ重商是寧者、兵一︼今府立些弓祓撃有‘何等異沓彼華厳等経 姓一兵苧密、而声轟あ来訪智之旨︰故奥ム今所立見吉敷l別、仮令錐レ祝■少密官等ご㌘盛−究貞義如来祓密之意ギ庸一立地 慮那金剛頂等経戌皆究ユ婁如来事理倶智之藁是故匁レ別也。︵囲仁、蘇悉地経疏、巷一︶ ︵〇 例へげ敢時間答の如きも、具lこは乳首宗数時間答ミいふが如き、叉別に引くが如く、空海め十任心わ列Cて.眞 首宗の用香わ給するが如き、叡山の件数わ以て、眞官宗ご自群・して居る。 ︵3 大原三千院蔵の悪党大師停ほ内題に、比叡山延暦寺乳首法華宗第三法主志免大師侍ヾ−ぁる。新本ほ巻尾圧具薩暦 で、其の先に長放元年十l月云々ミぁる。 ( ′ヽ ′、 ( 」卜 十 −■一 一十● ■l■ 三三 =ニ ・一一 ) ) ) ) ︵︵︶ ︵九︶ ︵十︶ 寧築俳敢ミ密教 金剛頂綬疏七巷.蘇悉地群疏七巷、共に脚仁挟。 菩提場粧義痙五巷、阿珍群。 揃祀経疏三巷、安然鱗。 四一十門、五時五軟は安然の眞百宗教時問答に訊かれてぁる数列。 天産大師。 釘珍部、大日経指師。 安然撲、乳首宗教時間答、巷二。 却
︵十き 平安朝に於け竺二大努力の抗申ミ調和、英大手慈善。︵日本俳敢史の研究、琴一巻所収︶
二
以上は卒安朝に於ける三大宗派の一たる叡山宗の密教化の篠路である。次には、他の一宗派た
る事業沸教即ち奈良の六宗と密教との圃係を諭せんと欲する。これ正しく本論文の目的とする要
茹である。
︵〓 寧奨彿敦即ち飛鳥朝以水草斐朝迄に侍蒸した彿敢は、後世南都の六宗、又は舌京の六宗と呼ばるゝもので、謂はゆる倶合、成賓、三諭、法相、華殿、梓の六宗である。即ち支那でいへば、六
朝、隋、唐の沸教でぁる。随って、華族に幾身の密教分子があるとしても、其の他に於いては、
密教とは全く練の無い偶数で軋る。故に此の敷からみて、夫れ等の宗派と密教とは、内在的に何
等の親繰を有しないといはねばならぬ。
然るに草葉朝に行はれた偶数は決して右の如き五宗とか六宗とかの抽象的概念に依る数理では
なかつた。一部の有識階級の畢何は夫れ等の教理を研究したに相違ないが、夫れでさへが元々五
宗六宗といふやうな勃然たろ溝渠があつたのでなく、或は二宗、或は三宗を東草したのでぁる。
・
最澄が天台法華宗の名の下に、止軌、邁那、戒、藤の四宗を併置したのと、或鮎に於いて、共通
● の一両を有する。而して、夫れ等六宗の貰際的方面−換言すれば、草準備数の茸密約方面は願
事欒儒教ミせ敢 βJる臭った断面を残して居る。
畢欒朝には種々の経典が、﹁宗﹂に何等の関係無く、各其の燭自の内容を以て民衆に接鰯した。
金光明経、最膠王経、法華経、仁王脛、薬師経、種畜浮土経の如く、謂はゆる﹁宗﹂なるものゝ
背景を脱して、如賓に、赤裸々に、数理的背景、若しくは聯絡無しに、直に民衆に接触して、各
其の功果を奉げて居る。随って、夫れ等流行経典に説かれてぁる傍、菩薩乃至諸紳、諸天が其佳
良衆崇拝の封象と満った。輩師、阿浦陀、吉祥天、群才天の如き其の顕著なる例である。而して、
夫れ等の対象に向つて、所願し、希求したものは、往生得股、樽迷開悟といふが如き、宗教的欲
求の最上位に於ける満足もあつたに相違ないが、一般的には、持病延書、五穀成熟、天下泰平の
如き、極めて卑近な物的欲求の満足が研磨されて居る。之れは一面からいへば、密故に於ける新
府の心理と同一であつて、謂はゆる息英樹益の法に外ならぬのである。容海が加水の説法に浅噂
趣と秘密趣の二種があつて、諸経中の長行や偏頗は珪嗜趣で、病源や柴性を説く本草経の如く、
秘密趣は詩経の中の陀羅尼で、法に依って、薬を合せ、服用して病を除くやうなものである。今
若し病人に封し、薬方を披讃するも何の功かあらん。必すや薬を合せ、方に依って服食せねばな
らぬと詮き、最膠王経を講する寧欒彿致の最勝曾を許して、次の如く述べて居るのは、研か我田
︵二︶ 引水の嫌ひが無いでもないが、亦這般の油息を造破した明言でぁる。 寧欒償敦ミ密教 ウウ ノヽl′J然今併レ奉レ溝戯膵王折、低率共文壷談夷垂不詣俵レ泣声像、夢現修行姦レ国学祝甘露之撃恐閑レ撃醍醐之味可
︰三︶ 然るに、軍楽朝の係数に於いても、最膵三拝に多大の密教分子哲包合すること、薬師経の祉暢 ︵E︶燃燈などの謂はゆる延命法を除いても、僻種々り壇法の行はれた澄墟歴然たるものがある。即ち
︵五︶
︵六︶ 大群才天女壇、陳求壇等の行は、れた串が、正倉院文書の中に確鐙が今q。斯様に観察すると、寧奨朝には、たとへ、泰澄、小角等の密法に関するろら岬る樽詭を抹殺しうるも、荷動かす餞はぎ
る澄披が残る。而して、此れ等はたとへ井部に屈するものとしても、此の鮎に於いて、寧欒沸教
が密教に合流すべき内在的要素を包含することを認めねばならぬ。
次には大陸偶数の傾向との関係は、上述の叡山傭放と全く同一径路一ピたどつて居る。大日餌、
︵ヒ︶ 摩河術諭を始め、多くの膚部の典籍の輸入のあつた事は、背く間はすとするも、伺賽斐の六宗出身の留畢生が、大陸に於いて、.其の威する宗i巨細ち法相を、三論を学ぶと共に、或は畢ばゃし
て、密法を侍費し、購恋した例に乏しからぬ。今一二を奉ぐるならば、法相宗の登仙は大乗本生
︵凡︶ 心地軌経の評者であるが、五基山に於・いて、大元帥法を僧へ、三諭の常暁は雲仙の遣弟から大元 ︵九︶ 帥法を受けて、小栗栖に侍へて居る。此れ等は何れも法相を、三諭を畢ぶべく入唐した事が明かであるに拘らす、其漁期せざる結果の斯くの如きに立至ってゐるのは、正しく大陸の畢風に戚染し
たものでなくして何でぁらう。これ即ち中居以後、晩唐偶数の影響を蒙った活ける賓例である。
寧欒俳致モ密致 エフ寧欒儒教ミ密敦 二田
斯くの如き内在的要素と、外的影響とは、卒安朝に入って、愈其の度を高め、寧欒沸教の密教
への合流に加速度を典へたのでぁる。以下これに就いて詳に諭するであらう。
. 旺 ︵こ 信佗令には﹁宗﹂上る規定が無く、駈つ三ハ宗の名も見えねが、奈良朝の文書にほ、往々六宗の名が見えて居る。 正倉院文番の六宗厨子帳−こ見l少る宗名に、目撃戯畠、囲法性宗、鱒二給宗、仰律宗、糾薩婆多宗、抑成梵宗り六 でわろ。 ︵ニ︶ 宮中乳首院正月御修法奏状、承和元年十一月空海。︵性環集、巻九︶ ︵三︶ 日本にける金光明縛及び最疲王経、参照。︵日本件数史の研究、第一怨所収︶ ︵〇 俳枕兼師如爽本願経︵達磨笈多謬︶に、阿雛の問に封︺、救腕首薩が除病の法を説く中に、七日七夜八分斉む受け、 種々の法にて比丘ぉ供琴し、暮夜六時に祀痔・し、七航の菓師像ね達す、l一の倣前に七燈み置き、︵帥ち四十九燈 な鮎七︶四十九尺の五色の幡わ造り、斯鍔四十九題を積む.へき=どが速.へてぁろ。其の他、菓師躍にほ陀羅足り 誰出もわつて、頼政分子が少く互い。業師溜増光如来本願功徳経︵玄典許︺には、除滅一切衆生苦情の陀羅尼ざし て、南無薄伽伐帝、稗殺紐萱嗜、存瑠埠鉢卯婆嶋曝閣也、阻陀渦多邪、阿鼻嶋帝、三択三勃絶邪、恨娃陀、咤、 碑殺逝﹁々々々、々々就、三設硯帝沙河が説かれ、業師瑠璃光七仰木願功徳経︵二懸、哉沖誇︶l︰け、帝詫薄伽 伐帝云々 の阿C陀黒尾が紙かれてぁろ。叉、香積囲、金色襲米所行成就如死の陀羅尼も山亡てわー〃。 ︵諷︶ 揮疏出納帳︵天平膵賓五年︺ ︵六︶ 隋求地所解中綿所用井残雑物蔀︵天準賓幸四郎十月十六口︶ ︵七︶ 案文朝−こ於ける偶数典籍の停東に就いて、︵日本俳敬史の研究.第二笹併収︶ ︵∧︶琵仙ご其の縁の史料、︵日本沸教史の研究、弟l巷併収︶ ︵九︶星雲唐弟子耐≒人授常噴政夫元叩像法文道具等、︵大元帥阿咤繕俗大栗歪、嘉抄猷箭自警砂敵枇 gヰ三
軍安朝に入って、南都六宗と新興の叡山、末寺二宗との関係を観察すれば、最澄は初め南都と
好かったが、終には甚しき抗学を穎けて、其の死に及んだ。即ち一乗三乗諭と、大破小戒諭に依
って、嵐都六宗と正面衝突を演じたので、叡山の密教と南都との聯絡はあら得ない朕鰻と点った。
加ふるに、最澄の侍密は十分でなかったので、後れ自身でさへも、高雄に於いて、客渾の濯水に
浴した程である。之れに反して、垂海ほ常に南都諸大寺と園蒲なる交誼を結んで居たのみならす、
東大寺や大安寺と密接の関係があゎ、東大寺に眞言院を建て、輿頑寺に南固堂を建てるといふ機
運哲つかみ、其の影響は少からす首宗に及んで居る。随って、平安初期に於ける密教の潮流は東
寺方而から、大和へ流れる輯となつた。即ち弘仁三年十二月十四日の高雄雅頂曾には、大冊二十
二人の中、典頑、元興、東大、西大、大安等の南都誇大寺に属するものが、貿粂、澄得、卒智延
′ ︵一︶丑、脚環、願澄、股膠、蛋寵、光仁、悪讃、光忠、恵暁等の十鎗人が見えて居る。
興廟寺の南固堂に藤原内磨の螢麒で、冬嗣の道立するところ、不容茄索を本尊とし、容海之れ
を鏡した。之れ専ら藤原の繁柴を所願する馬である。其の因縁は不審罵索の浄土たる禰陀落山
には莞の吹いて居ることが、不垂扁東沖慶衰言霊語にみえて居るからで雪う。績いて
二五 寧無償敦ミ密教 停本 朝事 ︶大元法由来軍人別苦難記︶︹以上、監仙嘉¢後の荒に収ご β、;之れに開聯して、三宗問に群論具備の諭がある。先づ夫れから述べよう。即ち天台宗が之れを
償撰とすろに対して、南都と眞言宗は之れを具現とするのでぁる。奈良朝の末に戒明の手に依つ
︵菟.︶て、滞諭の侍蒸するや、先づ之れを疑ふたのは淡海の三船であつた。然るに、峯海は此諭を真言
︵六︶宗徒の必修すべきものと定め、弘仁十四年、巷言付五十ロを末寺に任せしむることを定められた
︵七︶ 時、大日経、金剛頂紆、蘇悉地理等と共に、繹諭等の十一諭を修むべく事を規定した。而して、 ︻ト︶ ︵八︶ ︵九︶之れ皇日足するものに、常暁があり、徳一があト、道詮があ♭、南都は留峯海の意見に賛した。
此にも亦眞言宗と南都諸宗との一敦が見られる。然る.に、天台宗は極力之れを否定七て、償諭な
︵十一︶︵十二︶︵十≡︶ることをま張して居る。最澄、固珍、安然の如き代表的の人物皆起って其の失を鳴した。
弘仁十三年二月、東大寺に重言院を建て、二十一倍を置いて、息英樹益の法を修し、淳頂道場を
︵円︶建立したのでぁる。此れ等の関係から、密教は六宗の問に入ら込むを待たわけである。
併し峯海と峯築偶数との間にも、御かの粁格が無い事は無かつた。即ち峯一声宗未汲の画題がそ
れである。此の諭は強ち南都と畢盲宗上の問のみならや.、天台宗との問にも問題と焉つたもので、いはゞ申安朝初期には一般敢界の問題であった。
証 ︵一︶ 漕頂歴名。 ︵ニ︶ 僧綱補任︵興福寺本︶第一義昔。七大寺巡鐙記。 寧策俳敬一1密教 1. ▼ ’、 ガ0000 ︵三︶ ⋮:中ぎ禰陥落山東山状像高村山王お有乱写状闘鶏撃、井貫心買拭大平正、山上寧諾聖樹撃樹藤枝学業、山下∴ガ ( ( ′■ ̄ヽ ( ( ノヽ 七 六 五 ■■ ) ) ) ) ) ホ鹿討街諭者桟持上顛敦盛持主祓撃大論撃先爽宕売声定、今以一瓦琉︼撃彼大乗可 ︵九︶乳首宗束瀧の帥易成併載の中に、天童京辟・官印貞成併者、罷軌義盛京痍之文㌫寧藍量産之行ご空曹提心論央一 此歴河野論−倶龍桝菩薩商法、茸有一相琴哉ミ鴻.へて居る。 ︵十︶ 蔵諒途方馳。 ︵十︼︶ 守護圃界章の巻上之上、野良食券撃破因数位去芸空ハの中に左の如く六失を畢けて居る。雰日、汝引南歴討衝撃 不レ足レ夢誠琴何者劉辞不参明敦、・隋唐滞日録不義瓦銀︼故、英数官学不レ似義軍故、其教理相違本革故、挑興事 象、眞酔夢梁、幸代筏提謬己同姦家琴著正義貧者従レ寿以降至高開元︼日録不レ載、疏師不−写l是以不足敵襲此論 大安寺戒明法師者天鹿年中自レ唐終末、尾張大恰都芦停槍勘日、己勘成壷垂巌何以森撃取挙華厳任り此亦一息夫 耳。 ︵十ニ︶ 智悪筆二蔵に文疑†る書の中に、左の如く準へてをる。
雷野草苛、聖霊貫最云巧彗、豊孟慧、什富澤、夢之不垂於壁表芸、席穿雪一審、
二亮 虻凛併敢ミ密敬 大キ種々魚獣︰︵出世解脱境像品第二十六︶ 淡海居士法子成明開梨香。 東大寺雪線、諸院章算四。類撃二代格、紋日本後記。 ・ 鼻音宗所畢鉾符論目線。 弘仁十野牛十月十日甘称。 哲填補光臥殊に、左の如く見えてをる。 繹晴謝紆論臨︼部lニ巷 法敏活押遣 巳上一部俵高官停法阿圃梨等中東死、徒£中天義博邑吐蕃叫未−事■彼此軍票 ︵軍︶ 乳首宗教時間答、帝︼の中に、左ゆ如く鼠髄論り竹串を彗へてなる。 同便調節論、昔者戒明和上相乗之時、有上浦濾俗一論定卓侶論り叉帝人寺新羅閣僚珍也底ニモ是論新見由大空山沙門月 息純血、而回引角ユ砲柑論−証、答有‘居き諭付‘四大一、後有島暦畏l夏草−七失可次有亀吉鹿部主奏八良書宗之蔵之中一流− 行天下可其甘符要撃貝鱒壁後有義基和上萩臨迷Ⅶ託中具骨鈷四人四失七失一論衰昇給小論痙下云工龍野軍歌引銭壷 墟”可レ謂額晦陸レ時、行蔵在レ蓮者也。 又、八束秘録︵上︶にも、左の如く述べくわる。 梓蝉河野論、硯材、戒明初来之臼、浩俗列挙霊神義徳溢師引用、叡山本師硬筆面第三東上開高大寺新羅付珍屯云. 新羅中朝月山息妄走、後潅和上黄泉育三挙溌膏天下哀裔真山遭詮和上放海破古画琴立夢高率 而Lて、数百宗教時問答、第一の中lこ.空藩の成就箕輪み離するについて、空海が侶論な引く串わ駿Lて、左め 如く述べて居ろ。 二者不レ検畠文眞悌是非小野引慌猛菩薩祝着見せ討好論文、此諒是海和上編東和上以可高論昆叡山及諸宗皆琴薗 論可夫引レ謹者可レ引鼻白地共詐之文可著一詐︼不詐不一足レ食レ詑乱。 伺、此の論争に申して托、南北朝に下りて、仁空り捜決抄、︵怨二、二︶果吏の揮厘討紆論温飯事︵梵舶抄巷十八︶ 宥峡の梓論紗︵巷一︶等ふ参照ぜよ。 四
異音未決の問題は穂一に依って費せられ、巷海を始め、済邁、呆貴等眞言宗例の反駁相速いで
起り、安然、宣淳等の天台畢徒又之れに呼應して、平安朝を通じての問題と腐った。
徳一は法相宗典頑寺の徒で、故ありで東国に居♭、岩波の徳一と辞せらる。又徳溢とも寄し、朗
′ 卒業沸教ミ密教最“渾・Lむ間に、一乗三乗の評論を惹起した卒安初期の一大給客である。徳一ほ大口経に封し、十 慮
の十一條の疑問である。
ほじり
今其の大綱を赦せんに、第一に結集老疑とは、大日経の首に、如是我開とあるが、此の経は彿
滅後入有年、大日加水が普資、執金剛手等の菩薩に封して説く所である。然れば阿難迦菓は既に
■
入滅して居るG若し龍樹の結集といはゞ、大日トり普貴に侍へ、普貿より龍樹に侍へたから、如
何ぞ龍樹我問と耕せん。然ら虻集者何人ぞ、著し普賢といはゞ、普貴は二乗凡夫の能見に非す、
何ぞ人間に交りて結集せんや。第二に紅塵疑とは、大日経の首に、﹁薄伽梵住コ金剛法界宮l設ユ此経ことある。金側法界宮は自受用の浄土か﹁他受用の浄土か、若し自受用の浄土ならば、下位見失、
虞不落失の二失がある。若し他受用土ならば、経に法界といふ。法界とは具如の名、鼻血理宮に ー
不逼ならざかなしで、摩醸首羅天王宮を指す事は出水ね。此の疑未決。琴こに帥身成彿疑とは、
瀧樹の尊書提心諭に、﹁今泉言行人能徒丸入魂位l考亦超i十地菩薩境界赤鼻言行人三行芦田、即
身成俳、一着行願、二者勝義、三者三度地とあるが、之れに二つの失がある。一行不具失、二閉
一の疑問を提げて常時の教界に獅子吼した。十一疑とは、第一 結集者疑 第二 容色掟 第三 卯月成体疑 幕四 五智疑
示偉人嫁 菜七 菩薩十地疑 弟八 梵字疑 弟九 毘度合那悌疑
嘗欒儒教ミ密致 第五 決定二乗疑 第六 駒井十 揮巷疑 第十一 銭塔疑
三〇
寧簗儒致き専政
二 慈悲失、行不具の失とは、凡て菩薩は無量の行を修するが、絶て六度に簸して悉く亜すのに、無
言の行人は六度の中の静鹿波鹿密だけで、除の出皮を行せぬから不具で㊦る。朗悲慈の失4は、
諸の菩薩は慈悲を旨とするのに、墨一声の行人は衆生を捻てゝ自ら先に成沸する履悲慈に於いて明
くる。笥四に五智疑とは、螢菩提心諭に、﹁東方阿閑彿成夫固鏡筆筒方貿生彿成年等位華南方阿
珊陀彿成−妙観琴買北方不定成就彿成コ々所作智串央批度合那倣成誌界智郎真如理︼﹂とぁるが、之れに二失ある。一諸傭智不平等失、二除彿無智失、不平等の失とは、一切諸俳笛五智を具するに、
五方の彿は各一智を成する。こは唯識、彿地等の諸論に達する。除俳無智の失とは、四分の彿各
一智を成せば、鎗の四腫上下の彿は何智を成するか。第五に決定二乗疑と宜、螢菩提心諭に、﹁決
定二乗之人堆顔入執誠有誌執大成一兎位︰以東身滅争赴義理撃知夫慮峯議然常寂姦レ可塾生︰
要待勤限等鱒方乃螢生﹂とあるが、之れに自語相違の失がある。即ち或は次身滅智といひ、或は要
特効限等満といふのが夫れである。第六に開示悟入疑とほ螢菩提心諭の註に、﹁準醜虞邁那経疏
翠東野阿軍配;渾法華経中開示悟入四字︼也、開字者開傭智見即是菩提心義也、示字者示彿智見、置菩提行義也、悟字者悟傭智見、是符菩提義也、入尊者入傭智見、是般担姫義也﹂とあるが、大 一
8経疏は一行の造、何の経論に依りて開示借入を解するか。又、開示悟入の解は法華諭に達する。
第七に垂薩十地疑とは、大日鮭、華良禽部品、梵網経等にいふ所と、寵樹の詮とは臭って居る。
ヱ妙如何か併設に背いて、菩薩︵龍樹︶の詭を信すべきか。第八に梵字疑とは、鼻音の徒は梵字は梵
天の作に非す、外道の作に非ず、偽の作に非す、法然にして在♭といふが、法然とは有馬か無焉
か、稔伽疏躍第五には、党天等の件とする。梵字は法然に在りといふは解すべからす。尭九に枇
成合都債疑とは、疏に﹁説︼︼此粧政即地底合邦俳本地抜身﹂といふが、本地法身とは理智不二の法
身に過ぎす。此の怯身は十地の菩薩の所見でない。執金剛手等何で之れを見、其の詮を開く串を
得んや。﹁若法身説法老芦誰説法、若芦機説法者不レ軍他受用身應義用−敦、夢二乗凡夫︼説腋考此亦 不迦・舜化身應二無用l致、﹂此疑未決。第十に経巻数疑と軒、開元銀に枇慮連邦経七審とあるが、地底合邦如非、金剛手菩薩等に封し三十二申牢記し、即ち第六巻で、未だ虜累品を載せす、終の行
に軌雷奉行と今一Q。然らば第六番迄は併設、第七巻は人師の作で、併設に非るペし如何。第十一
に鉄塔疑とは、寵柑南天鉄塔にで、金剛薩摩に受法すといふが、文偉か、口侍か、暴言者は金剛
智の説と辞するが、ロ侍ならば信するに足らず、文倍ならば明文を示せといひ、終に左の如く並
べて居る。
此所遥之諾疑間者、恐詐法差招l衰間墾唯欲誕訪疑密融智解二向臨信、藩学真宗l耳、民話同法者、其最速疑問森●軽彼萎次に稔伽諭に関する読が逓べてあるが、之れを最澄に対する徳一の態度に比較すると∵いかに
も穏和であつて、別人の軌があ一Q。尤も論敵に射する文でなく、抽象的に意見を費表したにも囚
寧聖沸教寸J密教 β∫るものであらう。
此の疑問に封する眞言宗側で意見を費表した人は、平安朝では客海と済邁を代表者とする。容
︵“︶ 海の答辞は秘密漫茶足付法侍に、溺波子、了本師の問答として出でゝ居るのが夫れでぁるといは ︵二︶︵三︶ れ、済邁のは疑難決断抄といふのであつたが、今は散逸して、宣汚の明矢石諭の中に引かれて残って居るのみである。
︵n︶ 天台側で意見を螢表した人は安然と宣淳の二人である。安然は菩提心義砂の中に、徳一の第四難に封して問難し、宣韓は明矢石諭を製して、徳一と済邁の意見を双ペ奉げて、自偶の意見を述
︵五︶べて居る。其の詳細は到底本論文の如き小篇では過し難いから、絶て省略に附する。
拉︵一︶ 笹第二末に出て居ろ。最も付法博ミいふ性質上、付法に閲すろ徳一の疑問帥ち第十一餞塔疑に封する答梓のみでぁる。
︵ニ︶ 済邁は文綱の子、出家Jて仁和苛性信法規王に徒ひ、密教を学び、怒耳院に化、し、天仁二年仁和寺の停法骨に講師写して理趣脛な請じ、性雀集が末部な亡逸し上のわ補ひ、招邁帽僚揮性⋮光軸脚砂三奪わ炎禁ト。又多く経論り
注疏わ作つtが、永久三年十一月十六日寂︺、九十一歳でぁつ㍗。 ︵三︶ 寛淳ほ停明か耽らす。正安、嘉元の頃、明失石論五懸な作って、諸宗の論難む決持・し㌔奄五、懸六の二等−ニ眞貫宗未決ミ、津浪の疑難決断抄な収ゆた。之れに依つて、徳一に封†ろ漸進の態度を知る串が出先ろ。弟五、弟
六の相関二巷li東寺の観音院lこ博lェり、巷五に、﹁正安元年己亥五月日記之、俗年七十六。夢空一年乙巳五月日再 論了、八十二。﹂第六ドニ、正安元年巳亥六月日記之、俗咋七十六。夢嬰:年云々︵第五ミ同じ︶の奥書がぁる。 寧欒償敬ミ聖致 32︵囲︶霊に、開基作垂嘉十妄決東還書L芸文窟J、些妄決如何夢之⋮て、左の如く答挿完Lお
て居る。
答今乳首宗石併教則寧哀歌二琴牽所蒜蒜、而四天真師誓、剛霊地監理欝敢之外、若妻還
密之歌哀、前四外更加東五故、今問鼓、汝俵義教何門垂疑、若約ネ乗︼汝我不レ立宝怖五賀一。若約義教義幹二
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加水芦喝故此軟申動学二切如野郎此轟也、若望−−此郁恵社主智門入員心木墾今虚妄智門一入轟界準五俳二 皆以−二間如爽−辞世、貞菅平等夏無議劣↓故不レ中誌壷〓諸廟智不平等失赤夢偏堵膵劣之社交十方併営同瓦撃 ●●●●●●●●●●●●●●●■ 故、不レ中森第二験併無智失霜汝雀以義教之撃雛義寧堅豆非毒手云々。 ︵吉や安朝に於け三夫努力の抗争王領和、第三章第五節参照。︵日本俳史の研究、第二巷所収︶五
其の後、密教の盛行に徒ひ、草葉偶数に於ける密教の浸潤漸く甚しく、奥頑寺の克典に至りて、
終に手島の一流を生するに至㌔永く其の法脈を存して、速く後世に及ぶ串と点った。其の他、
定深、珍海、貰範、寛容の如き人々が輩出して、南都の六宗愈多くl密教の影響を受け、申安兼に ′■至りては、全く密教に合流する婁と飼ったのである。
寧策俳敦i密疲事業併敦ミ電奴
三四
此れ等の影響が法式の上付アり、孝明の上なり、法具の上に移しく現ほれて居るが、併し夫れ等
はいつの時代に、如何なる方法に依って行はれたかは指摘ヰること甚だ困難である。叉、南都側
の侍詭に依ると、平安朝以前、既に善無長正博の密教が侍はつてゐたので、現行の修法や法式に
密教約分子があつても、夫れは台密、束密に閲しない奈良朝正博の密教であると主張するのであ
る。随って、夫れ等の一々に就いて論及する串は徒穿に属する場合が少くないから、まとして、
思想上の問題に就いて考察してみょう。平安初期から鎌倉時代にかけ七、南都六宗に属する撰述の中に、密教的色孝ぎ帯びたものが少
からすある。併し夫れは極めて一部分上止る事もあれば、多分に亘ることもある。先つ最も早い
時代の著作の中には、願暁の最勝王経玄梶の如き、其の例として寒ぐべきものであらう。
願暁は元興寺の畢何で、襲賓、勤操の二帥に三諭一で畢び、点軌六年五月十六日、已諦の穿に依
︵一︶りて梓師に任じ、同十六年三月二十七日寂した。かつて最膠王経の註祥十巻を編して玄梶といふ。
徒四位下文章博士播磨樺守菅原朝臣の序に、 斯乃金光理窟之妙鍵、最勝法門之玄梶、改名日一玄梶︰ とぁら、巷首に、蹄命三身正魔海 将燈四依大師等
∂≠我今暁rカ翠痙王一 顧若こ衆生︼住二不動一
との一個がある。一に興因を叙し、二に宗憶を顕し、三に数硫を明し、四に名義を辞し、五に本
文を解すといふ五門を開いて述べてあるが、多くは隋唐の註疏を緬給して文を溺して屠る。先づ
第一に戯奥の因縁を説くに、初に迫田を明し、後に別線を述べ、別線に略して六哉を奉げ、更に
四を加へて、五双十義を立て∼居る。即ち菩提捏柴一双、憤悔滅罪一双、顔敦秘密一双、諸人護
法一双、現利嘗金一双の五双で、更に夫れを開いて、一に捏盤を顕はさんが焉に、二に菩提を示
さんが焉に、三に憤悔を明さんが男に、四に滅罪を陳ペんが男に、五に菩薩行一里顕し、六に秘密
.塵を説く、七に人を護り物を勧め、入に法を護ら温を弘め、九に現曹を刺し、十に准益を得の十
義を述べてあるが、六に秘密法を説く傭の如きは明に密教に接鰯して居る。
六軍秘密法政有︼三類三部︰一世奇襲説、二大舞岡唱、謂覿自在、執金剛主、梵帝、四王、親王、
二天、南紳所詮、文虞顔也、初是磯部、観音畢言即蓮華部、除金剛部、三部各三郎成一丸部︰贋如ニ
︵二︶鮮悉地金剛頂等︰
即ち三論宗の願瞭が蘇悉地鮭や金剛頂経に関する知識を有する鮎は、明に平安初期の色彩で、寧
♯朝と殊るところである。随て六宗の畢者が密教に指を染めたのは頗る早かったといふ事が此の
例によつて、澄明さるゝわけである。
寧欒靡数ミ覆放 35三六 寧欒簡敢吏密致
平安中葉に及んでは、此の傾は愈助長せられて居る。その代表的人物が手島の眞典である。
異臭は兵藤寺の任、法相を栓室の仲算に受け、因明に委しく、且つ密教に心を傾け、著すとこ
ろが多く、世に子島先徳といふ。長保五年十月十六日法榛に叙し、寛弘元年十月十四日、七十歳
︵三︶にして寂しセ。薯はす所、因明四相違私記四巻、囚明四相違段格記一巻、因明纂要略記一巻、十
人道義群生起一巻、薩達磨芽茶利迦素但撹略領一巷、胎戴界儀軌解繹三谷、韓日是駄都私記一審
等がある。就中、胎裁界儀軌解繹と縛日羅駄都私記は密部に関する
\
決以凍の著作でぁる。彼れはいはゞ凄数に射する疑難であるが、これは正しく密教を姐逃したも
のである鮎に於いて、南都の畢徒に於けろ劃期的の撰述である。
︵円︶ 其輿は輿頑寺の畢匠として、常に北京の大骨に列し佗事が御堂関白記に散見して居る程でぁるから、台、東南東の畢徒と接する革も多く、自ら昔時の主潮たる密教を昧ふ横倉も多かった串と
思はるゝ。後世、手島の一流を点すも亦所以あトといはねばならぬ。具奥の密教に関する事相部類は随分渾山残って居るが、事相に回する事は門外漢たる金の分有
に非るを以て、今は終日尾駄都私記、胎就界儀軌解渾等に就いて、一應の解蒋を逓ぶるに止むる
外はない。耕日羅駄都私記は不審評の金剛頂蓮華都心念涌儀軌を注澤したもので、韓日羅駄都は金剛界の
3β楚菅でぁる。 秘密之法意趣難r解衰言印契任エロ輿享、但其軌行文障義蓬.始行初心之人可速三郎身成併有依−替 見︰指三共位次︰同率之発車留レ意耳﹂