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‑太平洋を越えた運動史への想い‑

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Academic year: 2022

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(1)早稲田社会科学総合研究第8巻第3号(2008年3月) 研究ノ‑ト なぜ日本社会主義同盟は大事か. ‑太平洋を越えた運動史への想い‑. 篠. 田. 徹. ここでぼくがこれから述べようとするのは、太平洋を真ん中に日本を含む東アジアと南 北アメリカ大陸、そしてオセアニアをも舞台として巻き込んだトランス・パシフィック・ サンディカリストたちの運動史への見取り図、正確に言えばそうした運動史を書くための 粗い序論である。日本社会主義同盟に連なる人びとが様々な形で表現した運動風景は、ぼ くがトランス・パシフィック・サンディカリストと名づけたネットワーカーたちが、一九 世紀の半ばを過ぎてから太平洋を囲むあちらこちらで、紡いでは解き解いては紡いできた 「諸連合の連合」というその経験の積み重ねのなかで、第一次大戦後の日本という歴史空 間において、それまでとそれからの運動経験を繋ぐひとつの結節点をもった瞬間であった というのがぼくの見立てである。ただこの文にぼくが託すのは、たとえ一端でも見取り図 の披涯とそこへ至る道筋をつけることにあって、日本社会主義同盟に関する史実の検証は その任にふさわしい論者による他稿に譲るのはもちろん、この文自体同盟のことを多少と も了解している読者に問題提起する心積もりで書いている。 もっとも見取り図といっても、その中味はまだまだ荘漠としたもので、これから証明し なくてはならない仮説の塊といってもいい。 その意味でこのエッセイは、そのひとつの字 義である「試論」であるより、もうひとつのそれの「自由な形式で書かれた思索的色彩の 濃い散文」(広辞苑)の体裁をとる随筆とよぶべきだろう。. 実際これから述べたいことを. 表現しようとするとき、ぼくにはこの文体しかないのが正直なところである。. いや、この. 文体でしか誤魔かせないほど、ぼくの考えはまだまとまっていないと告目したほうが、も もっともそこには後で述べるように、運動史の実践的な意義にふさわ っと素直であろう。 しい文体の模索というぼくなりの思惑がないといえば嘘になるが。 どちらにせよ場違いな 言語空間に戸惑われた読者には、ぼくの綴り方がなお暗中模索であることを平謝りすると して、とにかくぼくの言い分を聞いてもらうとしよう。. そもそもぼくが日本社会主義同盟は大事だと思ったのが次の一文である。.

(2) 私は『日本社食主義運動小史』を書くについて、『週刊平民』の合本を繰返し繰返し接げて見 いろいろ昔しの事を思ひだすのは面白いもので、殊に其の昔時と今日との形勢の異同を考 た。 へあはせて見るのは、非常に興味のある事だった0. 其の中で、殊に深く私の感じたのは、『週. 刊平民』が半年ばかり、発行を績けた頃から、諸地方に頼々として『読者曾』とか、F貢話合』 とか、『研究曾』とかいふ者が出来、それが次第に発達して、後には全国の殆んど至る虞に同 志の小団体を馨生させてゐた。所が、昨今の形勢は余ほどよくそれに似てゐる。. 堺利彦が一九二四年三月に出た『社食主義』第四号に、「小固体費生の機運」と題して寄 せた巻頭言の一節だ。 すでに同盟は解散したとはいえ、いうまでもなくここには、その発 起人のひとりでもある堺が日本社会主義同盟に多様な進歩主義者の大同団結の受け皿を託 した状況認識が示されている。. これまで日本社会主義同盟は、日本の左翼運動が独自の政. 党ないし前衛組織、もっとはっきり言えば共産党を旋回軸にして、政治勢力として実質化 していくための「過渡的組織」として理解するのが一般的だった。. 例えば岡本宏は一九六. 八年に著した『日本社会主義政党史序説』で、同盟を第三章の共産党成立論の初節で取り 上げた。またその一〇年後に増島宏が編んだ『日本の統一戦線』で藤井正は、 社会主義同盟に体言された『大同団結』の時期は、社会主義運動の大衆的基盤獲得を意図した 準備組織の時期であったが、真に大衆的な運動をまきおこすためには、明確な政治理念と実際 行動に通した組織体が、すなわち労働者階級の前衛政党が必要であった。. 社会主義運動が実際. 的な大衆運動の問題に直由し、労働者階級を先頭とする民衆のたたかいが、科学的な政治指導 の必要性を明らかにする段階にいたって、共産党結成が具体的な課題となるのである。. と左翼運動の冷戦史観から、同盟を前衛党結成における従属変数扱いする。 こうした左翼近代化論は、すでに梅森直之が平民社百年の国際シンポジウムの報告を纏 めた『帝国を撃て』の序文で以下のように述べた如く、堺が同盟と類似の状況を共有した とする平民社理解にも見られたことであった。 社会主義にせよ、民主主義にせよ、平民社をその源流に位置づけるこれまでの研究は、暗黙の うちに平民社を、より高次の水準に到達する「前史」として位置づけてきた。. 研究者は、より. 正しい社会主義、より正しい民主主義を、すでに知っているという立場から、平民社の歴史的 経験をとりあげ、それを論評してきたのである。. こうした「右肩上がり」の運動発展観で平民社を「段階」として評価する従来手法に対し て、体制に闘いを挑む(contend)運動は象徴的な対抗理念や文化として基層低音の如く 時空を超えて総体として底流しており、従って特定な組織や思想体系など絶対的な指示対 応物はなく、その時々の条件のなかで具体的な運動のありようが構築と脱構築を繰り返す という「可塑的」な運動循環観で、平民社を、そして社会主義同盟を一九世紀から今日ま.

(3) なぜ日本社会主義同盟は大事か. で、そして恐らく明日にも世界に伏流するそうした闘う運動総体の「顕現」と考えるのが ぼくの立場だ。 『帝国を撃て』のなかの「平民社とグローバリズム」でベン・ミドルトンは、ぼくが考 える近現代の闘う運動総体を「下からのグローバライゼーション」と呼ぶ。. それは、経済. を基点に政治や社会、そして人びとの日常を支える文化までが、地球大での資本をはじめ 人的、物的資源の移動を司る統治枠組みに親定される「上からのグローバライゼーショ ン」に、これに抗う様々な集団が国境を越えて発信しあい行動を共にする動きが世界大で 広がる棟を表している。. そしてミドルトンの主張をぼくの言葉で言い直せば、こうした下. からのグローバライゼーションの伏流は、上からのグローバライゼーションが通信運搬手 段の技術革新に支えられ始動し今日帝国主義の時代と呼ばれる一九世紀後半から潮となっ て世界の岸辺を洗い、各地で多様な形の闘いが構築されて一つの高潮を迎える二〇世紀努 頭に、その支脈は日本にその顕現として平民社を誕生させる。 ミドルトンはこの二〇世紀努頭の連動風景、とりわけ平民社が各地に多様な形でその刻 印を増殖させていったそれを、「一枚岩的な単数形の運動ではなく、多元的な多数の活動 の複合として構成されている、中心のない多重的なエネルギーの重複調音という脱中心 型」な特徴をおさえて、『もうブランドはいらない』以来同じ特徴を示す現代の反グロー バリズム運動を聞達に措写しつづけるナオミ・クラインの「諸運動からなる運動」(A MovementofMovements)状況にあてはめる。. ただ平民社は勿論、日本社会主義同盟がよ. り自覚的に獲得をめざした共同性あるいは協働性に重きをおきたいぼくは、クラインがそ の名もAMovementofMovementsなる題名の反グローバリズム運動に関する共同論集で使 った「諸連合の連合」(CoalitionsofCoalitions)の方を好んで使うのだが。 ミドルトンは彼と同様の平民社理解を立つ梅森の『初期社食主義研究』の平民社百年記 念特集に寄せた「星をつなぐもの」で、梅森が「平民」という象徴で「多数」という複合 的なアイデンティティを勢力化しようとしたことを引いて、その多元的な繋ぎの観念と 「諸連合の連合」という平民社の運動文化との整合性を指摘する。. 一方クラインは諸連合. の連合の構図を、「今日何千もの集団が、生活のあらゆる場面におよぶ私化とあらゆる活 動や価値の商品化ともいえる共同の敵勢力に対して管して闘いを挑んでいる」と説明す 前段をとらえて、剥きだしの資本主義がそれまで社会にあまた存在した共同体を破壊 る。 した二〇世紀努頭と、グローバル・キャピタリズムが国家が肩代わりした擬似共同体を溶 解した二一世紀のそれを重ね合わせるのもよい。. ただぼくは、後段の諸連合の連合が今日. で言うところの公共性の再興を意味していることに注意したい。. 先のミドルトンの指摘に. 戻れば、平民社は「平民」という集団範噂をもって、連合という共同性構築を堆積するな かで「多数勢力」の集合的アイデンティティたらんとした。 では社会主義同盟は何を集団範噂から集合的アイデンティティにしようとしたのか。. こ.

(4) 4 こでもまたミドルトンと梅森の主張に耳を傾けよう。. ただし今度はなかばチャレンジする. のだが。ミドルトン日く、「平民社は単一的で階級的なアイデンティティを中心として平 民主義のために闘争を遂行したのではな」い。. この言を梅森が啓くと、「多数が‑者へと、. たとえば『プロレタリアート』という主体へと収赦する必然性をかたること一一平民社の 戦略には、こうした「マルクス主義」的な対抗戦略とは異質な要素‑‑『多数』を‑者に 収赦するのではなく、『多数』を構成する個人の多様性を際立たせながら、あくまでも多 数者としてのネットワークを構築することであった」となる。. 前者にはE.. P. トムスンが. 大著『イングランドにおける労働者階級の形成』で主張した階級形成の歴史性による階級 が指示するものの相対性を留保しておいてもらいたい。. 後者には、論理的には矛盾し実践. 的にも困難であったにもかかわらず、日本の労働運動にはこれを両立させようとした運動 伝統があることを思い出してもらいたい。 実際この伝統は遅くとも、平民社の人びとが直接行動派と議会政策派に分かれていくの を止めようとし、社会主義同盟を通じた多元的多数派の形成でその分裂を再度包み込もう とし、「収欽」一点張りの日本共産党を見限りそれでも「想像の共産党」をめざして労農 派を形成し、そして戦後「巨像のような」多数派の統一組織をめざした総評とそして「国 民的階級組織」たらんとした社会党の影となり日向となって叱喧激励するまで、堺、荒畑 をはじめ名うての階級的ネットワーカーたちによって継承されてこなかったか。. これこそ. ぼくは、戦後だけでも毛沢東からは社会党を「五万の党員で二〇〇〇万票を取る不思議な 政党」と首をひねられ、大河内一男からは総評を「企業別組合を中心とした民衆組合」と 半ば開き直った評価を受けた日本の労働運動の摩討不思議の淵源と考える。. さらに言え. ば、後で触れるがそもそも平民社あるいはその前の時代から日本の労働運動には、諸連合 の連合型を模索した運動伝統は芽吹いていたといっていい。. ちなみに大正期の社会運動、. とりわけ労働運動関連の論稿を集めた『荒畑寒村著作集』の第二巻の解説で、編者の渡部 徹は大正期社会主義運動の陣容を堺利彦総監督、山川均監督、寒村コーチ件主将と例えな がらこう述べた。 山川は・一日いわば左翼運動の参謀総長として戦火の直接及ばぬ大本営で大所高所から、運動の 戦略・戦術に指示を与える風であったのに対し、寒村は前線部隊長として、戦陣にあって、直 接の戦闘指揮者であり、時に単騎敵陣に突入することも敢えて辞さぬ行動型であった.. その後前衛党の存在を前提とした協同戦線論を展開し、その後も広く言えば広義共産党文 化圏のなかで自らの社会主義運動を律していた山川とその文化国から比較的自由であった 荒畑との違いは、こういうところにあるのだろうか。. それはそうだとして、この自由人荒. 畑の背景に名著『平民社時代』をはじめ、折に触れて平民社経験を基点に考え行動してき た彼の連動キャリアとそれを支える諸連合の連合という運動伝統を考えないわけにはいか.

(5) なぜ日本社会主義同盟は大事か. *VB ともかく先の設問に戻れば、社会主義同盟は「平民」ほど明確な集団的アイデンティテ ィを打ち出してはいなかったが、この時代とりわけ一九三〇年代前半までは「無産者」あ もっとも同盟後は諸. るいは「無産階級」がその筆頭候補であったことは間違いなかろう。 連合はあったがその連合を体現する組織を指摘することは難しい。. そしてこの諸連合の連. 合をめざしたのが人民戦線事件で一応のピリオドを打たれた三〇年代半ばからの地域連合 から出発し社会大衆党を受け皿とした諸団体連合の動きではなかったか。. 注意してもらい. たいのは人民戦線とはいうものの、コミンテルンの指示を受けようにも三〇年代前半から 日本には共産党が実質的に存在機能せず、猪俣都南男や高野実らをはじめとする「はみだ し労農左派」がそれまでの試行錯誤と被差別部落や在日朝鮮人のグループや新仏教運動を 含む多様なネットワークを通じて積み重ねてきた産物といった方がいい。. その時彼らのア. イデンティティは無産から労働に移りかけていたのは、この日本型人民戦線のグループが 共同で出した運動総合誌のタイトルが『労働雑誌』だったことからも伺える。 この一旦は頓挫した諸連合の連合型労働運動の試みは戦前戦後の両世代の協働によって 戦後高野総評として結実する。 な大衆運動に積極的に関与した。. 高野総評は内に閉じこもる企業別組合を外へ出そうと様々 総評大会は基地から女性や人権そして障害者まで他の国. では見られぬ多彩な来賓や傍聴人で賑わった。 る、「総評は民族の苦悩の柱となった」。. その光景を見て高野の名句の一つが生まれ 実際この時期「労働」は当時日本の多数派の集団. 的アイデンティティになりかかっていたし、また積極的な国際連帯を通じてその多数の状 況を知らせるニュースは平民社のそれがそうだったように、様々な国籍であふれた。. そし. て労働運動は諸連合の連合と共に歩んで任務が果たせると高野は信じていた。 その後も労働運動をはじめとして諸連合の連合の模索は途切れていない。 代後半の状況は再検討に値しよう。. 確かに六〇年. 今日のNPOブームにもその匂いが咲げないことはな. 反グローバリズム運動の潮はこの国の岸にも届いていよう。 い。. ここでぼくが仮でも訴え. たいのは、ぼくらは諸連合の連合の運動伝統をもっており、その伏流は平民社、日本社会 主義同盟、人民戦線、高野総評というように時期をおいて様々な形で顕現しながら絶える ことがない、これである。. 先にぼくは、この諸連合の連合という運動伝統を語るにあたって、二〇世紀努頭に日本 を巻き込んだ下からのグローバライゼーションということを言った。 この点でこれまで多くの初期社会主義研究者は、平民社となかでも米国を含む世界のそ れこそ各地の諸連合の連合との関わりについてたくさんの発見を積み重ねてきた。 れらの事実の発見が、ぼくらの過去と現在、そして未来の体制に挑む柿う運動経験あるい. ただそ.

(6) 6 はそのありようを考えるにあたって、何を意味しているかについては、梅森やミドルトン を除いてはそれほど議論されてこなかったように思う。. それを論ずるには、いまさっきぼ. くが運動文化や運動伝統といった言葉を使ったことから話を始めねばならない。 者にはさぞかしこれらは耳慣れぬ用語であろう。. 多くの読. ただ闘う運動の理念や政策、組織や活動. の端々にあらわれる「しきたり」や「作風」といったこと、運動自体の構成あるいは構造 の特異性といったこと、その時々の条件や環境にあわせてそのあらわれようが様々なバリ エーションやレパートリーをもつこと、そのなかには必ずしも一般に想像される蘭うイメ スコットが『弱者の武器』をはじめ彼の諸著作 ージとは異なる、例えばジェームズ・C. で広範に展開したインフラ・ポリティックスとよばれる日常生活上の静かな抵抗も含んだ それ、さらにそれらのありようから時間と空間を超えて連綿と続く特徴的な運動底流が垣 間見れること、そして闘う運動とはそれらを包含した総体でつかまねばならないこと、こ れらを考えるのに、ぼくにはどうしてもこれらの用語が必要になる。 もし文化を生活の仕方あるいは転じてある集団に特有のまとまりをもった生き方と解せ ば、ぼくらはそれをしばしば過去に学ぶのはよくあることだし、ぼくらのそれぞれの世界 で生きた、あるいは生きている誰かに自分を引き寄せて、これからの自分のありようを考 えることもめずらしくない。 そうしたことを闘う運動に即して考えることはそれほど突飛 な話ではなかろう。 そもそも運動の世界には指南書のような教科書があってそれが受け継 むしろそうした連動. がれたり行き渡ったりして型にはまった活動が広がるわけではない。 だからこそ歴史意識というものが大事になる。. あるときぼくらが自分を誰かに重ね合わせ. たとき、それまでのさまざまな達巡がなくなると同時に、重ね合わせた自分の思いという ものが新たな創造を生むことで伝統がもつ革新性が生まれる。. とりわけ諸連合の連合のよ. うな組織や構成人員でその伝統を辿ることができない運動文化の場合、こういうことはな おさら大事になる。 実はぼくがこういうことを考えるときにいつも帰る文章がある。 批評家T. S. エリオットの「伝統と個人的な才能」の一節だ。. 文芸. 少々長いが吉田健一の名訳. で勘弁していただこう。 もし伝統というもの、何かを伝え、何かを受け継ぐということが、単に我々の直ぐ前の時代に 属する人びとが収めた成功を臆病に、盲目的に真似て、一歩も自分で踏み出すことをしないこ とであるならば、『伝統』ははっきり否定されなければならない。. 我々はそういう単純な流れ. が砂の中に消えるのを何度も見て来たのであって、新しいということの方が、繰り返しよりも まだしも増しなのである。. 伝統というのは、そういうことなのではない。. それは遺産として相. 続出切るものではなくて、伝統が欲しければ、非常な苦労をしてこれを手に入れなければなら ない。 それには第一に、歴史的な感覚というものが必要であって、これは二十五を過ぎてから も詩人であることを続けたいものには、まず絶対になくてはならないと言っていい。. そしてこ. の歴史的な感覚は、過去が過去であるということだけではなくて、過去が現在に生きていると いうことの認識を含むものであり、それは我々がものを書く時、自分の世代が自分とともにあ.

(7) なぜ日本社会主義同盟は大事か. るということのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学全体、及びその一部をなしている自 分の国の文学全体が同時に存在していて、一つの秩序を形成していることを感じさせずには置 かないものなのである。 この歴史的な感覚は、時間的なものばかりでなくて、時間を越えたも のに対する感覚であり、そして又、時間的なものと時間を越えたものを一緒に認識する感覚で もあって、それがあることが文学者に伝統というものを持たせる。. そしてそれは同時に、時間. の流れの中で彼が占めている位置と、彼自身が属している時代に対して、彼を最も敏感にする ものなのである。. 個人が創造的に活用してはじめて伝統という集合財はつねに豊潤かつ革新的でありつづ けるのは文学も連動も同じであろう。. ではなぜ伝統にこだわるのか。. いまのぼくらにはそういうことを考える運動史が必要だからだ。. 運動史家のジェーム. ス・グリーンの次の一文はこのぼくの気持ちを代弁してくれる。 「運動史」という言葉はこれまで体制に挑むさまざまな闘いに関するあらゆる著作や論考に対 して用いられてきた‑‑‑事実歴史学をはじめ政治学や社会学は社会運動に関して移しい研究蓄 積をもつ一一ただわたしはこの運動史という言葉をずっと限定した意味で使っている。. つまり. わたしにとって運動史とは、学問的関心とならんで倫理的、政治的関心から体制に挑む闘いの 研究を一所懸命にやっている研究者や実践家の手による仕事のことなのである。. 実際わたし. は自分の仕事を、六〇年代に公民権運動やその前後に起きた例えば女性運動といった体制に挑 む闘う人びとの側に立ちながら、そうした闘いのあるべき姿を歴史に学ぶことで現状を変えて いこうとした仕事に連なるものと考えているのだ。 ぼくは自分がやってきたことを人前でいうのは好きじゃない。. あれこれいわれるのが怖. いからだ。 ただ二〇年労働運動のことばかり勉強してくると、本当のことだからこれぐら いは言ってもいいと思う。 きなことは間違いない。. ほかのことができないからというのもある。. でも労働運動が好. 労働運動が盛んになることは、ぼくらの社会にとっていいことだ. とも思っている。 そしてぼくが労働運動のなかでも最も親しみを感じているものは、これ まで論じてきた諸連合の連合型のそれなことも確かだ。. 以前は気恥ずかしく言えなかった. が、もう今この思いだけで一緒に闘いの現場にいなくても、ぼくはこの人びとと立場を共 有したがっていることは否定しょうがない。. では自分の仕事をどこにつなげたいと考えて. いるか。ひとつはこれまで興味をもってきたグリーンがいうアメリカの労働史だ。. もうひ. とつは戦後まもなくから八〇年代くらいまであった労働ジャーナリズムの系譜だ。. これは. もともと労働省や企業の人事が労使関係の安定こそが民主的な社会のもとで会社や国を発 展させると育てた結果でもある。. とはいえ曲がりなりにも体制に闘いを挑む革新陣営があ. ったおかげで、そこがあるべき労働運動の姿をほかの連動と絡ませながら諸連合の連合的 なフォーラムの観を呈したことも事実である。. その範噂に含まれる雑誌は『世界』『展望』. 『朝日ジャーナル』『月刊労働問題』など多岐にわたる。. ちなみに荒畑は戦後この多くに自.

(8) 8 らの経験を語りながら建設的な運動の現状批判を載せつづけたo こういうぼくにとって先の意味で言う運動史が大事なことはいうまでもない。. だがぼく. らのいまの運動とりわけ労働運動もこの運動史を必要としていないか。 運動が停滞しているからではない。. 「失われた一五年」のおかげで、いまは諸連合の連. 合にとってそれを必要とする環境は整いつつあるようにも見える。 やる発想がなかったりそれがあっても自信がない。. だがぼくらにはそれを. あたかもはじめてのことだと思ってい. るからだ。あきらかにぼくらは、平民社や日本社会主義同盟をはじめとして過去のぼくら がして来たこととそれを可能にしてきた運動伝統を忘れているのである。. そしてなかでも. 一番の問題でしかもこの節の最初の問題提起に関わることは、ぼくらが過去に下からのグ ローバライゼーションのなかでトランス・パシフィックな運動文化圏を織り成し、そのな そうだとす かで時に奇抜な方法も駆使しながらその土壌を何度も掘り返してきたことだ。 るならば、ここまでのぼくの話を踏まえると、ぼくらはまず錯綜する事実の底流にながれ る総体としてのトランス・パシフィックな運動文化圏の運動史を紐解き、そこにおける伝 統の革新を叙述するなかで日本の運動経験を語らねばならない。. そこでトランス・パシフ. ィック・サンディカリストである。. この文の冒頭で述べたように、ぼくのトランス・パシフィック・サンディカリストたち の物語を綴る作業はまだ著についたばかりというのが正直なところだ。. そこでこの文がぼ. くの作業のこれからの長い道のりを照らしてくれることを期待して、ここではこの物語に ついてこれまで考えてきたことをいくつか覚書風にしたためることで、このエッセーもま とめて締め括ることとしよう。 トランス・パシフィック・サンディカリストとはどんな人のことをいうのか。 それは順を追っていけば次のように説明することができる。. まずこの人びとの運動は、. 近代以降の世界資本主義システムにおいてそのシステム上不可避な問題が危機的状況を呈 する際に現れる反システム運動の一部を構成する。. この反システム運動は総体として世界. 資本主義のシステム問題を発生原因として共有しながら、構造条件と形成過程が異なる空 間を移動するに伴ってその運動特性に意味変容が生じる。. その結果運動の言説や手法が構. 成する特異性が一定空間ごとに生成され、それらが相互に関係しながら同時にそれぞれが 特性ある運動伝統を内包・外延する運動文化圏を構築していくことで、この反システム運 動に多元的普遍性がもたらされる。. この運動文化圏のひとつが太平洋を囲む地域で横断的. に発展したトランス・パシフィック・サンディカリストのそれである。 では世界資本主義に不可避なシステム問題とは何か。. それはこのシステムが利潤と正統. 性の確保の両立を図るために、限定的な再分配を通じたシステム内の分割支配を周期的に.

(9) なぜ日本社会主義同盟は大事か. 行わねばならない所から生ずる。. このため世界資本主義はその利潤の永続的追求のために. 地理的空間において地球大に経済的な拡大再生産を続けるとともに、それぞれ地域の社会 的空間においてシステム内の分配と参加をめぐる諸集団間の線引きを行う政治過程を周期 的に繰り返し、またそこにここで言う運動が多様な形態で生じる。. この世界資本主義のダ. イナミズムはそのステージを時間と空間にしたがって移動させるとともに、それぞれのス テージは相互に連関しながら発展する。. このステージ間の相関過程には、それぞれのアク. ターが意図的あるいは意識的に互いの結びつきを強めようとする直接的な相関過程と、ダ イナミズムに巻き込まれた離れたステージのアクターが必ずしも意図せずあるいは意識せ ずに、けれどもこのシステム問題に関連してそれぞれのアクターが起こした一連の行動や その想定外の結果によって、つまりどちらかと言えばシステム上の発展プロセスによって 相互に結びつけられる間接的な相関関係がある。. よりわかりにくい後者の例を労働運動で. 考えると、戦間期にアメリカが移民制限を行った結果、欧州と米国の双方で再分配の政治 過程をめぐって構造変容が起こり、欧州ではファシズムにより労働運動がシステムから排 除される一方米国では労働運動がシステムに包含されたことがある。. これを仮にトラン. ス・アトランティツクな運動文化圏の出来事として考えれば、それはあたかも戦間期の世 界資本主義の構造変容をめぐる大西洋を越えた労働連動の間接的な相互連関過程、あるい はこの双方の労働運動の歴史的共通性に着目すればトランス・アトランティツク・コーポ ラテイストたちの運動の地理的ステージを越えた空間移動とそれに伴う意味変容の過程と みなすこともできるし、これに直接的な相関過程の部分を加えそれを時間軸で前後で伸ば していけば、一九世紀後半から今日に至るまでのトランス・アトランティツク・コーポラ テイストたちの運動史を綴ることもできよう。. これと同様の着想で語りたいと思っている. のがトランス・パシフィック・サンディカリストの物語な訳だが、ぼくがいま密かにライ フ・ワークとして心に措いているのが、この二つの運動史を、欧州を起点にしたその人種 的側面を絡めた「ホワイト・エンパイア」の膨張とそれに対する「ノン・ホワイト・ムー ブメント」の相関史のなかで、大西洋を基軸にコーポラテイストを「東回り」の、サンデ ィカリストを「西回り」の潮流と考えながら、これまでの世界史特有な国別の時系列史で はなくいま述べたステージ間の相互連関に焦点を当てたグローバル・レーバー・ヒストリ ーなのだが、もしご興味とお時間のある方は生活経済政策研究所が出す『生活経済政策』 の二〇〇四年から五年にかけて「グローバル・レーバー」というタイトルでトランス・パ シフィック・サンディカリスト部分の雛型のようなものを書かせてもらった連載をお読み 頂ければこの構想の一端をご覧頂けよう。 随分脱線した。 トランス・パシフィック・サンディカリストたちに戻ろう。 この人たちの運動文化はどんなものか。. それはあこがれの生き方を思い描き、それを同. じような思いの人びとと共有し、そういう自分たちに誇りをもち、それを侵されることに.

(10) IO 抗おうとする、開かれた自前の文化といえよう。. いうまでもなくこういう運動文化は、特. 定の組織やイデオロギー、そして理論に限定されるものではなく、それはいわば暗い地下 室に閉じ込められた者が天窓から射し落つ一瞬の舷しい光を見たときのように、届かぬ希 望の人生に挫けそうになる毎日のなかで、それでもいつかそれがかなう日が来るという啓 示、それは名著『アナーキズム』でジョージ・ウッドコックが指摘した「対抗理念」に近 OKではなぜぼくはアナーキストとはいわないでサンディカリストとこだわるのか. ひとつ はこれらの人びとが前者より後者で呼ばれることが多いという事がある。. ただこれまた名. 著『仕事』でスタッズ・クーケルがぼくらの眼前に繰り広げてくれたように、労働問題は この人たちの生きたあるいは生きる時代において、諸価値の源泉として日々の糧から国の 営み果ては死後の世界にも関わる話であり、さきの運動文化をあえて広い意味での「自 治」の問題と考えた場合、そこと切り離せぬこの人たちのことをぼくはやっぱりサンディ カリストと呼びたい。 それに先のコーポラテイストとの対比の話もあって、そういう意味ではコーポラティズ ム論の泰斗フィリップ・シュミッタ‑が「いまもなおコーポラティズムの世紀なのか」の なかで、現代アナーキストの論客の言説に依拠しながら、多元主義、一元主義、コーポラ ティズムという国家を前提とした歴史的な利益媒介システムに対する対抗理念として必ず しも国家を前提としない利益集成のシステムをサンディカリズムとしたことも、ぼくのこ だわりを後押しする。 いずれにせよサンディカリストとアナーキストは相互に排他的な呼称ではなく、ひとり の人が併せ持つこともあって、相互に乗り入れ可能な属性と考えていい。 ちなみにウェッブ夫妻は「サンディカリストとは何か」というパンフレットでこの人た ちのことを「この人たちの運動にははっきりした信条や定式化された処方薬があるわけで はなく、そこにあるのは色々な想いや考えのメドレーと言ってもいい。. ただこの運動が肉. 体賃金労働者たちの世の中と既存の労働運動に対する失望を表していることは間違いな い」と述べているのはさすがといえる。 いずれせよこのサンディカリストとは、例えば一九〇〇年代から二〇年代まで欧州並び に北米で一時旋風を巻いた「革命的サンディカリスト」に限定されないし、そもそもそれ はある生活環境を共有した者のムードであると考えていい。. .. ではこのトランス・パシフィック・サンディカリストの連動文化は具体的にはどのよう な形で先の諸連合の連合とそれと親和的で共生的な労働連動と結びついていったのか。 こには改革連合とでもいえる繰り返される、いわば一つの伝統的革新化した運動パターン が存在した。すなわち一九世紀後半からこの地域の階級、人種、ジェンダーに関わる平 等、民主主義あるいは人権、そして独立や反植民地主義あるいは反帝国主義のための闘い. そ.

(11) なぜ日本社会主義同盟は大事か. は、宗教運動、農民運動、労働組合運動、協同組合運動、慈善運動をはじめ必ずしもこう した問題を一義的に取り上げることを目的にして動いていた訳ではない改良的グループの なかの異端派が、必要に応じてやそれぞれの置かれた状況あるいは互いに共鳴し合う理念 や信条から自生的ないし派生的にそれゆえ縦横無尽に結びつきあって組まれていったこと に特徴がある。 それだけにその連合の担い手は草の根レベルの活動家あるいはそうした活 動を何より大事に考える人びとが多く、従って彼ら彼女らはまず人びとの日常生活のなか の自律した共同の空間から先の諸問題を立ち上げる、あるいはそれら諸問題をそうした空 間の具体的な文脈で考える心の習慣を有し、それが草の年民主主義的な下からの問題解決 を促進させる。 こうしたサンディカリストたちは、グラムシがいう伝統的な知識人と有機 的あるいは相互連関的知識人の後者にあたり、最近で言う「グローバルに考え、ローカル に行動する」というのもこの人びとの十八番であったといえよう。. 彼ら彼女らは常に活. 動、いやもっといえば生活を通して対抗的理念に連なる考えを様々な形で与えられてはそ の都度噛み砕きそれをまた生活や活動を通して仲間に知らせさらに研磨させると同時に、 そうした情報を組織や関連する特定機関ではなく手に入るあらゆる媒体、例えばそこには 子供の頃聞いた寝物語やコミュニティに残る記憶や果ては都市伝説なども含むものを使っ て入手しては発信し、時には海を越えた遠くの見えないまた知らないけれども共感する自 分と似たような相手と経験を共有する。. 『初期社食主義研究』の「特集幸徳秋水」にのっ. た「幸徳秋水と帝国主義‑の根元的批判」のなかでミドルトンは「幸徳のテクストもま た、ある言説のネットワークのなかのひとつの結節点として、「関数的で相関的」(フーコ ー)に読まれなければならない」と述べたが、これらの草の根活動家の言説こそこうした 共同作業の産物といっていい。. そしてこれこそこの人びとに特徴的な運動における歴史意. 識あるいは伝統のノン・アカデミックな摂取過程ともいえる。 ではなぜトランス・パシフィックなのか。. ベネディクトアンダーソンが『三旗の下』. で指摘するように、一九世紀後半の世界資本主義システムの中心である欧州は二、三度の 「革命騒ぎ」はあったもののそれは体制を転覆させることはなくむしろ相対的安定期にあ ったのに対して、当時なおシステムの辺境にあった米国、中国、日本は内戦を経験し、他 杉原薫・玉井金互が のアジアは植民地化とそれとの小競り合いや衝突の渦中にあった。 『世界資本主義と非白人労働』で描いたように、世界資本主義は奴隷制廃止後のこの頃 「白人」という特権を労働の体制内化のために操作化すると同時に、そのコストを奴隷に 代わる「非白人」のスラム的労働市場に転化し、この労働分断に伴う特権意識を「見えな い上乗せ賃金」にして「白人労働」からシステムの正統性を調達した。 これに対して『アメリカにおける白人意識の構築』をはじめする著作でデイヴイッド・ ローデイガ‑が指摘するように、ジョン・ブラウンなどの白人の戦闘的奴隷廃止運動家は 当時から、また二〇世紀に入ってからデュボイスら黒人の革新的知識人がシステムの中枢.

(12) ¥2 国の内部にあるスラム労働者も含めて「非白人勢力」の結集とそれによる世界資本主義に 対する反システム運動を展望した時、トランス・パシフィックはトランス・アトランティ ックと肩を組む筈であった。 ところが南北戦争後アメリカは先の労働分断を受け入れシステム中枢入りし、続いて日 本も結果としてシステム中枢側に立ったというのが彼らの結論だが。 トランス・パシフィック・サンディカリストたちは、この太平洋を囲む地域を世界資本 主義システムの覇権をめぐる日米二つの帝国がせめぎあう所となるなかで、それに立ち向 かう一種の階級・人種交叉連合の営みを何度も失敗しながらも繰り返し試みる。. やっかい. なのは、この営みが先のシステム間蓮のところで説明した間接的な相互連関過程を通して 行われてきたことによる特有の現象を呈するところだ。. すなわちこの営みは、例えば日米. の活動家が共同の敵に対して自覚的にしかも対等の共闘を組んで両国で明示的かつ一斉に 行われるのではなく、お互いが知らずに勝手にやっていたり、その時でさえも互いの関係 は差別意識を挟む敵対的であったり一方の闘いが盛んであるとき他方は沈黙していたり、 けれどもそれはあたかも他方の反システム運動がいわば太平洋を回遊して一方へ動いたか つまりここでの諸連合の連合は幾つもの一方に偏った のような痕跡が残っていたりする。 「想像の共同体」の複合体ということになる。 だとしてもトランス・パシフィックな反システム運動の存在は否定できない。 事なことは、ぼくらがいままでの言説構造ではなかなかうまく捕まえることのできないこ の運動現象に、何とか新たな語り口を与えることだろう。 ひとつはカナダの大平原地域をひとつの「想像の共同体」と見立ててその形成史を書い たジェラルド・フリーセンが言うように、共同体形成の潜在資源である一種の一族意識、 共通の宗教と言語、そしてコミュニケーション・ネットワークに目をむけることであろ もう一つはこの地域で、例えば日米双方で反システム運動の並行的発展状況をつかま う。 え、その間に直接の関係はなくとも類似の運動状況を発生させる政治経済的あるいは社会 文化的構造条件が成立していないか、そしてその上で先の共同体形成の潜在資源が相互の 並行的発展を間接的に結びつけるシステム連携機構になっていないかを考えることだろ う。 そして一番大事なのは、あたかも両端が顔を合わせず勝手に話をしながら真ん中の進行 役がそれらのエピソードを取り持って全体として一つのストーリーが進むような三人漫才 のネタ、つまり間接対話的な平行発展のモメントをとりあげてそれをいま言った構造要件 と絡ませながら、それがあたかもトランス・パシフィック・サンディカリストの一つの典 型的な物語として時空を超えて傭轍できる例えば日米双方の活動家やそのグループを見つ け出すことだろう。 勿論そのモメントには、先に述べたように平民社、社会主義同盟、人民戦線、高野総評. ここで大.

(13) なぜ日本社会主義同盟は大事か. 13. といったトランス・パシフィックな下からのグローバライゼーションの伏流が顕現する時 が含まれるのだが、果たしてそんなケースがあるだろうか。 それがいるのである。. 荒畑寒村とウイリアム・Z.. フォスターの両人と彼らの系譜だ。. ここまで来れば荒畑を選ぶのにもはや訳はなかろう。 「わが国の社食主義運動の成長は、 荒畑寒村その人の成長でもあったと」という荒畑の『日本社食主義運動史』の序に寄せた 山川均の一節は、荒畑をして日本における諸連合の連合の第一の陶土であったことを物語 ではフォスターはどうか。 ってもいる。 日本ではアメリカ共産党の草創期以来のコミュニストで戦後を含めた長い期間スターリ ニストとして党に君臨したというイメージが強いかもしれない。 だが彼の政敵・論敵はし ばしば彼の多彩な運動遍歴、とりわけサンディカリストとしてのそれを挙げ、彼の運動本 籍はここで後は共産党を含めてその時々の現住所に過ぎないと不信感を露わにする。 だが 最近彼のそうした諸連合の連合型の労働運動との親和性に再評価の声もある。 日く彼は常 に労働連動と他の社会運動との接点を考え、中道左派連合の多様な可能性を模索していた 彼はこの点でサンディカリストと言っても一般にいわれる幸徳が付き合ったrWWあ と。 るいはウオプリーズと違う。彼のキャッチフレーズは一貫して「内側から穿つ」と「戦闘 的少数派」だ。 つまり労働者本隊のなかにあって、中から急進化を図るというのが彼の信 条で、もともとウオプリーズだった彼はこれで裸を分かった。 なるほどこの労働運動論は コミンテルンのものだという人もあろう。だがロシア革命当時レーニンを含めて西欧先進 労働組合に影響力を持たなかったそれが、フォスターを彼の信条ごと丸ごとリクルートし たという話もあるOそしてこのフォスターの二原則こそ第一次大戦後に日本の労働連動に 導入され定着したものだと彼の『アメリカ政治史概説』の翻訳で訳注をつけたのが、山辺 フォスターは日本との接点は共産党に入ってから、それも極めて間接的な形で 健太郎だ。 だけだ。 では誰がこれを日本に伝えたか。. 荒畑である。 『寒村自伝』でも書いているが、. もともとウオプリーズ型のサンディカリストだった彼は、イタリアの運動の破産とフォス ターが指導した第一次大戦直後の鉄鋼争議を観察して「フォスター主義者」になった0. そ. の後彼は大阪で編集していた『日本労働新聞』でフォスターの『大鉄鋼争議とその教訓』 というその仔細で冷静な経験分析の書の一部を訳載している. ではなぜ荒畑はフォスター に従ったのか。 ぼくにはなるべくしてなったと思えてしかたがない。. 実はフォスターは荒畑より一回り. 年上だが、運動歴はほぼ同時期の一九〇〇年代前半に始まる。 詳細は省くがその後二人は 驚くほど並行した運動遍歴をこの時まで重ねる。勿論互いに知らないままに。 何がそうさ せたか。 一九世紀後半から太平洋の両岸で並行的に形成されてきたトランス・パシフィッ ク・サンディカリストの運動文化の磁場ではなかろうか。一つは南北戦争から再建期を経 てこの時期に至るアメリカと明治維新から自由民権を経て同じくこの時期までの日本は、.

(14) <」 多様なコミュニケーション・ネットワークに支えられて旺盛な結社文化を形成する点で似 ているだけでなく、それがまた世界資本主義の発展に対するキリスト教の危機対応に促さ れている点でも繋がっている0. 日本の社会主義運動においてユニタリアンを始めとするキ. リスト教会内の社会派がアメリカ経由でもたらした部分が重要であることはよく知られて だがアメリカの中西部から西部にかけてもウオプリーズを含めて急進的な社会連動 いる。 が同じ社会的福音派に相当依拠していることを忘れてはならない。. そして両国ともにそれ. が教会内の異端派によるもので、主流派がアメリカでは体制に組み込まれ、また日本では 体制から排除されたために、双方ともこの危機の時代にキリスト教がその救済の使命を果 たせないなか、いわば異端派が西方移動することで新たにトランス・パシフィックな根拠 地を形成したとも見れるのである。. ちなみにこれらラディカル・クリスチャンが体制に挑. む運動に貢献するのが世界資本主義の発展において様々な意味で最も苛烈な影響を受けた 地域、すなわちアメリカの西部の鉱山、森林、港湾、太平洋の海上、日本の鉄道、花街、 そして足尾であるOそして荒畑もフォスターもこの連動文化圏から彼らの活動経歴が始ま ちなみに彼らは学歴も同じように初頭程度だったが非常な勉強家で戦闘的活動 っている. 家、すなわち有機的知識人の素養と経験を備えていたこと、フォスターが過酷な海上労働 で一般労働者や左翼知識人より人種差別から相対的に自由であったことや荒畑が独学なが つまり彼. ら英語をマスターしていたことも彼らの運動社交圏を近づけさせていただろう。 らは無意識ながら同心円のトランス・パシフィックな運動家系に育ったともいえ、この点 同じサンディカリストでも大杉は違うのである。 この荒畑とフォスターの関係に第一大戦後は猪俣都南男が加わる。 は大戦後暫くアメリカ共産党と強い接点を持って後帰国する。. ご存知のように猪俣 そして生涯の「弟子」とな. る高野実と出会うわけだが、そこで労働運動を志望する高野に「教科書」として渡すのが 先のフォスターの『大鉄鋼争議』だ。. その後彼らははみだし労農派としていわば荒畑の手. を焼かせるのだが、ちなみに猪俣の「横断左翼論」はフォスターの先の二原則の彼なりの 解釈の結果とも読める。 そして彼らはこれに基づき共産党系を含めて諸連合の連合に努めるのだが、その過程で いわば「提携」するのが労働運動では荒畑の弟子筋が多い全労系だ。. ちなみに彼らは荒畑. 門下にあった二〇年代前半自他共に「野武士姐」と称したが、これをフォスターの「戦闘 的少数派」の類語と解してはいけないだろうか。 こうして日本で受けたフォスター主義は実はアメリカでは弾圧もあって労働者本隊から は排除され党内でも影響力を失っていく。. これが再び勢いを吹き返すのがアメリカ共産党. が人民戦線に舵を切って新たに誕生した産業別組合組織CIOに大挙入っていく三〇年代後 半なのだが、ここで興味深い日本のフォスター主義者との連関が見られる。. 三〇年代前半. 以来大阪を中心に横断左翼論は労働団体の合同や農民運動や他の社会運動との連携が次第.

(15) なぜEl本社会主義同盟は大事か. 15. に実っていくことで現実化していくが、これを機に猪俣と高野はこの諸連合の連合の共通 メディアとしての『労働雑誌』を創刊することは前に述べた。. その時彼らは仲間の加藤勘. 十を訪米させ悪化する日米労働者の関係改善を図ろうとする。. その時の労働雑誌が催した. 激励座談会で在日朝鮮人労働者がアメリカにおける自分たちのカウンター・パートたる黒 人労働者の状況をよく見て来てほしいと加藤に望む。 一時的に困難になる。. その後加藤の訪米直前査証の発給が. 西海岸の保守派組合の大物が歓迎しなかったらしい。. これを助けた. のが日米の友好発展をキリスト教的非戦の立場から望んでいた在日クェ‑カーたちであ そしてこれと連携したのが労働雑誌の発刊に協力した新仏教運動の急進派妹尾義郎で る。 あり、彼らがアメリカで頼ったのが当時の社会派プロテスタントの大物で鉄鋼争議時代の フオスタ‑の「盟友」であった。. 彼は妹尾への手紙で英語が苦手ならエスペラントで書け. と文通を要望した。かくして査証が下りた加藤はアメリカの各地で保守派組合内で健闘す るフォスター派の歓迎を受ける。 そしてニューヨークでアメリカ共産党書記長から野坂参 三を紹介され、日本での人民戦線結成を強く促される。. 帰国後加藤はフォスター派の健闘. に刺激され社会大衆党との連携に努めるが、この話をアメリカが日本に人民戦線戦術を持 ち込んだとするのは早計だろう。 むしろ仕掛けたのは共産党とは一線を引きながら党なき 「想像の共産主義者」の自負を強くもっていた猪俣、高野が独自の情報収集で得たフォス ター派の動きと野坂との特別な関係を利用していわばそうとは知らぬアメリカをも巻き込 んでの諸連合の連合結成‑向けた一大プロジェクトを起したのではなかったか。 その後日本の人民戦線事件と厘を接してアメリカで人民戦線戦術が本格化し、労働総同 盟や共産党系組合にいたフォスター派はCIOへ移り、フォスター自身は党内での影響力を 大きく失っていく。ところが組織化の前線とりわけ黒人やカトリックの強い地域では、そ うしたアンチ・レーバー勢力への連合形成の処方隻が満載のフォスターの『大鉄鋼争議』 のリメイク版がバイブルとなって草の根活動家の読まれるところとなった。. 要するにこの. 話は、第一次大戦後日本へその軸足を移したトランス・パシフィック・サンディカリスト の運動が三〇年代後半以降それが困難になった日本からアメリカへまた生き場所を求めた と解釈できないか。 もしそうだとすると同じことは実は高野総評にもいえるかもしれな い0当時アメリカは組合を含めて諸連合の連合には真に生きにくい場所だった。. 確かに高. 野総評は反米の旗を振ったがそれはトランス・パシフィック・サンディカリストを嫌うア メリカ、つまり「自分たちが思うアメリカ」ではないという意味ではなかったか。. 四〇年. 後高野を偲ぶ集会で当時高野のライバルであった新産別の三戸信は猪俣・高野を「アメリ カン・サンジカリスト」と呼んだ。 その意味するところはこの文章でのそれに近い。. そし. てこの時CIOで「歌う労働運動」でスターだったピート・シーガ‑は自分の生き場所を失 って意気消沈していたが、当時日本で高野総評が後押しした歌声運動で盛んに歌われてい た「原爆の歌」を聴いて勇気づけられる。 それから一〇年して彼は公民権運動とベトナム.

(16) IS 反戦で揺れるアメリカでラディカル・フォーク・シンガーとして誰もが知る存在となる。 その彼の最も有名な「ウイ‑.. シャル・オーバーカム」をはじめ日本にフォークソングを. いち早く紹介したのが大阪労音で、そこに高石友也をはじめ後に日本のフォーク・シーン をリードした若者たちが出入りして、食るようにそれをコピーしていた事は余り知られて いない。 これ以上予告編はいらないだろう。. 早くぼくが本編を書くことだ。. いまは最後に日本社. 会主義同盟と関わりのあるエピソードを記してこの文章を終わろう。. 実は荒畑をはじめ日. 本のトランス・パシフィック・サンディカリストたちは、フォスターをはじめアメリカの カウンター・パートたちと想像の共闘を行っていたというものだ。. 一つは同盟が結成され. た頃、『日本労働新聞』に載っていたアメリカ労働総同盟の風刺画のことだ0. それは下部. から突きあがるストライキの要求をゴンパースが躍起になって封じ込める構図だが、漫画 の文字は日本語で、実はすぐ前に出たアメリカの急進派の雑誌『リベレータ‑』に載った アート・ヤングの絵を文字だけ日本語にして転載したようだ。. ところがこの漫画が掲載さ つまり. れた『日本労働新聞』のその頁の論文は賀川豊彦の急進派批判への反論であった。 『日本労働新聞』はその風刺画を掲載することで日本の労働総同盟の保守派指導者の批判 をすることが太平洋を越えた共闘であることを、同様の状況にある米国事情を同紙でよく 知る読者に示したかったのだろう。. アメリカ側はおそらくこのことを知らない。. もう一つこれは梅森がぼくに教えてくれた話から始まったことで、同盟が解散して後の ことだが、著作家組合を通じて同盟にも関与していた前田河東一朗が二五年に出した『大 暴風雨時代』の驚くべき内容についてだ。. それは三人のシカゴ在住日本人の生き方を当時. のアメリカ左翼の分派状況に重ねて物語ったプロレタリア小説の名作だが、この長編小説 のクライマックスは主人公がウオプリーズの活動家として大戦中の鉄鋼争議を率い鎮圧に 向かった州兵の銃弾に倒れそれを日本から亡命したばかりの大物活動家が助け起こすシー この頃ウオプリーズに日本人がいた可能性は高い。 だがこのようなシーンがあった ンだ。 かどうかは定かではない。 けれども数年前にあったフォスターの鉄鋼争議については大新 彼らはど. 聞が連日一面で報じたからこの本の読者で覚えている者も少なからずいたろう. う思ったろうo少なくとも日米急進派の共蘭に想いを馳せて興奮を覚えた者もいたのでは なかろうか。この頃アメリカの労働運動に対しては講和会議に続く国際労働会議で、日本 に対する人種差別的な後進国扱いしたゴンパースに憤慨した運動家たちが多かったのも事 実だ。だが実際には日米共闘の話は急進派も含めて少なくとも盛り上がることはなかっ た.ところがこの日米急進派あるいはトランス・パシフィック・サンディカリストの共闘 の可能性に、興奮どころか真剣に恐怖感を覚えた人びとがいた。. 内務官僚である。. 〇年、その名も『IWW:世界産業労働者団』と言う本が出る。. 著者は川島正次郎、戦後. 自民党の幹事長、副総裁を歴任した寝業師で有名な政治家の若き日の著作だ。. 一九二. 彼はその当.

(17) なぜ日本社会主義同盟は大事か. 時内務官僚として警保局にいた。その上司の警保局長の永田秀次郎が序文でウオプリーズ は対岸の火事に非ずとの趣旨を書いている。 同じ頃別の内務官僚がシカゴを訪れ、かの地 の保守派の組合指導者にどうしたら社会主義を防げるかと尋ねている記事が現地の組合新 聞に載っている。日本の事情を知らない相手が答える。. 「早いところしっかりした労働組. 合を作れば大丈夫さ」と。その官僚がそのアドバイスで後に労働組合法の制定に尽力した かはわからない。 けれどもトランス・パシフィック・サンディカリストの存在を信じてい たのは何も運動家だけではない。. I7.

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