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鎌倉時代の敬語二題

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290

はじめに

昨年から今年の春にかけて︑雑誌﹁言語と文芸﹂で︑平家物語講座

の語法面を担当することになり︑改めて︑平家物語を中心に︑鎌倉時

代の作品を精しく読む機会を持ったが︑今更ながら該時代の言語研究

には未開拓の分野がだいぶあること︑通説となっているものについて

も修正を加えるべき余地が大であることを痛感した︒調査︑研究の一

部は五回にわたり︑講座で発表したが︑本稿でも︑その続きという気

持ちで︑特に筆者の興味を抱く待遇表現について︑所定の枚数でさば

けるような事項二つを選んで︑姐上にのぼせることにしたい︒一つ

は︑待遇表現史上興味ある事項の一つである︑接頭語﹁御﹂の用法拡

大化過程に関する問題で︑形容詞直接法の成立についての考察︒この

用法が発生︑確立した結果︑形容詞にも︑近代語にみるような独自の

待遇表現形式がもたらされ︑用言における待遇表現の充実化が一躍促

進されることになったのであって︑その意味で該用法の成立時期がど

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶

鎌倉時代の敬語二題

l﹁御﹂の形容詞直接用法と﹁申せし﹂型接続形式とI

の辺にあるかを知ることは︑重要な課題となる︒本稿では︑それが通

説と異なり︑鎌倉時代後半にまで遡らせ得ることを論ずるものであ

デ︵︾O

もう一つは︑新生の接続形式である﹁申せし﹂型表現の問題︒これ

は︑待遇表現として取り上げるよりも︑助動詞の接続法の問題として

統語論の立場から処理するのが本筋であろうが︑本稿では﹁申す﹂に

焦点を絞れば︑当代の待遇表現研究でも︑付随的な扱いにはなるにし

ても︑当然取り上げるべき要あるものと解して︑論ずることとしたの

である︒その位相上の性格の究明が重要な課題となろう︒

なお︑右の二事項にわたってくどいまでに用例の吟味︑特に平家物

語のそれに言葉を費しているが︑これは︑そのような吟味の深化の有

無こそがこの稿の考察の妥当性を左右する岐路になる故である︒

一﹁御﹂の形容詞直接法について

日本古典文学大系の平家物語には︑形容詞に接頭語﹁御﹂の接した

森野宗明

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289

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶

八オナッカシイV型の表現が三例見出される︒

1故院のいまだ幼主ましj︑けるそのかみ︑なにとなき御手まさぐ

りの次に︑かきくもらかさせ給しが︑ありしながらにすこしもたが

はぬを御らむじて︑︹大宮ハ︺先帝の昔もや御恋しくおぼしめされ

けん⁝⁝

︵巻一・二代后︑ペ二○︶

2いかに御心ぐるしうおぼしめされ候らむ︒只今までは別の事も候

はず︒いつしかたれノーも御恋しうこそ候へ

︵巻一二・六代︑ペ三九八︶

3さやうの事につかへ奉るべき人もなきにや︒さこそ世を捨る御身

といひながら︑御いたはしうこそ

︵灌頂巻︑大原御幸︑ペ四三こ

しかし︑これらの例は︑現在︑額面どうりの評価を与えられてはい

ない︒すなわち︑これらの例の存在することをもって︑鎌倉時代に︑︑︑︑︑︑︑︑﹁御﹂に︑形容詞に自由に接する川法が発生していたことを示す証左

とする︑というかたちで︑肯定的には受け入れられてはいない︒鎌倉

時代には︑まだ︑﹁御﹂の該用法は発生しておらず︑それは︑室町時

代に至って成立をみるものであり︑したがってこれらの例は︑平家物

語にとっては決して当代的なものではなく︑非本来的後世的要素とし

て処理さるべきものである︑なによりの証拠に延慶本のごとき鎌倉時

代の言語を直接反映しているものには︑この種の表現が皆無であり︑

たとえば︑用例lについてみるならば︑﹁先帝ノ昔ノ御面影思召出サ

セ給テ御心所セキヲ﹂のようにある︑という事実が挙げられる︑とい

注1うのが通説になっているのである︒

筆者は︑しかしながら︑この通説に異を唄えたい︒平家物語の例を 一一

どのように処理すべきかは︑後に再び触れることにして︑鎌倉時代に

は︑﹁御﹂の該用法は存在しなかった︑という点に︑大いに疑いの存

することをまず論ずることにしよう︒

いうまでもないところであるが︑ある言語事実が︑ある時代に存在

したかいなかは︑その時代の言語資料として採用されうる現存諸作品

群を可及的広く渉猟するという作業を通じて︑はじめて明らめうるわ

けである︒﹁御﹂の該用法の鎌倉時代における存否の究明ももちろ

ん︑その埒外にあるものではない︒ところで︑現実にどの程度までそ

のような作業が推し進められたかというと︑残念ながら必ずしも充分

なまでに徹底されていたとはいい得ない︒当然検討さるべくして︑し

かも見落されていた重要な作品があるのである︒それは︑﹁とはずが

たり﹂である︒

﹁とはずがたり﹂が有用な言語資料として活用され得ることについ

注2ては︑かつて指摘したことがあり︑また︑それを主資料として︑﹁御﹂

の該用法同様︑後世の成立とされていた︑女房詞﹁くこん﹂︵酒の異

性3名︶が鎌倉後期には成立していたことを論じたこともある︒現在のと

ころ︑桂宮本以外に写本が伝わっておらず︑その唯一の写本がところ

どころに誤脱を含む︑必ずしも善本とは称し得ないものであり︑かつ

後世の書写になるものであるという点が資料性という面でマイナスに

なっていることは︑充分留意しておかなくてはならないが︑本作品の

成立が嘉元四年︵一三○六︶からおそくとも七年後の正和二年までの

注4間であることがほぼ確実なこと︑増鏡にも盛んに援用されており︑信

頼度の高い史的資料として重視されていたらしいこと︑雅俗混渚文で

注5はあるが︑当時の新しい表現と思われる語がかなり大胆に使用されて注6いると推定されること等は大きな魅力であり︑最近とみに盛んになっ

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4あらたまのとしともにも︑猶御わつらはしけれは︑なに事もはへ

なき御事也

︵巻一︑文永九年︑ペ一三︶

5御いたはしけれは︑御つかひな給ひそ

.︵巻一︑文永二年︑ぺ四二︶

6御人すぐななるも︑御いたはしくて︑御とのるし侍といらへは

︵巻一︑文永二年︑ペ五一︶

7したいに御わつらはしなと申をききまいらせしほとに

︵巻三︑弘安四年︑ぺ一三一︶

8女院の御かたへなりぬるにや︑た畠せおはしましぬるは︑いかて

か御うらめしくもおもひまいらせさらむ

︵巻三︑弘安六年︑ぺ一四一︶

9のとの師といふは︑神に︑ことさら御むつましくみやつかふ物な

りといふかまいりて

︵巻四︑正応四年︑ペ一八五︶

Ⅲ御所さまの御やうも︑御ゆかしくて︑みまいらせにまいりたれは

︵巻五︑嘉元二年︑ペニー︶

Ⅲ御おほつかなく覚えざせおはしましし程に︑はや御事きれさせ給

ひぬとてひしめく

︵巻五︑嘉元二年︑ペニー︶

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶ 物語一に所収のものである︒ た本作品の本文研究の成果を吸収しながら︑注意深く使用するならば︑鎌倉後期の言語資料として充分利用に堪えるものなのである︒

さて︑本作品には︑次のように︑﹁御﹂の該用法と認められる例が

かなりの数︑見出される︒なお︑テキストは︑桂宮本叢書︑第一五巻

︵巻五︑嘉元四年︑ぺ二三一︶

以上一○例の他に︑次の一例も︑問題がありはするが︑一応︑右に

準ずるものとして処理してよろしかろう︒

M御をさなくよりなれつかうまつりしに︑いまはときかせおはしま

しつるもかなしく︑いま一と出おほしめし立つる

︵巻一︑文永九年︑ペ二○︶

これらの八御十形容詞V表現については︑誤写︑誤文であると考え

るべき疑問点は︑格別に見出しがたい︒本作品の誤写︑誤文は︑用字

の形態の類似に基因すもの︑文脈の誤読や脱文に基因するものがほと

んどを占めているのであり︑さらに注記ないし注記的文句の混入が若

干認められるようであるが︑どの場合を採っても︑以上の八御十形容

詞V表現部にそのような誤りが生じたと考えるべき点は指摘されない

のである︒また︑伝写過程における後世語の反映という点に焦点を絞

っても︑日記という文学形態︑しかも広く流布することもなく︑比較

的狭い︑知識層に︑その高い資料性を認められながら伝写されていっ

たらしい点を考えるならば︑平家物語のごとく︑広く流布し︑時代と

ともに生き︑享受形態や享受層との関係等において多くの異本を産み

出していつた作品の場合に比し︑伝写される過程において︑その時代

の︑後世的な表現が︑前記のように誤りが犯されやすいケースを除去

しては︑軽卒に︑それも同一のものが繰り返してかなりしばしばもた

らされるという可能性は︑きわめて低いと考えられる︒この点からみ

一一一 旭御わつらはしうならせおはしますとて

︵巻五︑嘉元二年︑ペニー二︶

昭いまた御おさなく侍しむかしは︑なれつかうまつりしに︑御らん

しわすれにけるにや

(4)

287

右のごとく︑﹁とはずがたり﹂には︑八御十形容詞V表現が一○例

以上も存し︑それに徴して︑鎌倉時代のすくなくとも後期には︑すで

に︑該表現形式が発生していたことは︑ほぼ明らかであると考えられ

るのであるが︑その他︑傍証となし得るものが︑他にもある︒次に挙

げる吾妻鏡の例がそれである︒胴二品若公誕生︑御母常陸介藤時長女也︑御産所長門江七景遠浜宅

也︑件女房抵候殿中之間︑日来有御密通︑依緯露顕︑御台所御厭思

甚︑価御産問儀︑毎事省略云々

︵巻五︑文治二年二月二六日︶

古写本中善本と思われる吉川本を底本とした﹁鮒禰吾妻鏡﹂上巻ぺ

一五七に存するものである︒絡別の注記がなく︑このままに受け取

ってよろしいところと思われる︒該個所の読みであるが︑音読すべ

きものでないことは詳言の要もあるまい︒訓法としては︑﹁厭﹂字が

形容詞として訓まるべきことに存疑の点はないので︑これを︑いま︑

イトハシの訓みで代表させるならば︑問題は﹁御﹂の処理のみに絞ら︑︑︑︑︑︑︑︑れることになり︑結局︑㈹イトハシクオモヒオハシマス︵オハスま

たはマシマスなどとも訓み得︶コトハナハダシの類︑㈲オンィトハ 鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶

ても︑該八御十形容詞Vを︑後世の表現の伝写過程での誤り用いられ

て紛れ込んだものと解釈するのは当を得ないものであり︑おそらく︑

原本において当初より使用せられたものであり︑当時用いられていた

表現をそのまま採り入れたものであると推定すべきであろう︑といい

得るものである︒先ほども少し触れたが︑本作品には︑当時の口語な

いし口語的要素がかなり盛り込まれているのであって︑該表現は︑そ

れらの一環をなすものとして受け取るのが妥当である︒

ここで話を平家物語に戻そう︒以上の次第で︑鎌倉後期には︑﹁御﹂

の該用法があったことが主張し得る以上︑単に延慶本には例がないと

いう理由のみで︑覚一本等のそれを一途に鎌倉時代より後の表現の侵

入として無視するのは軽卒に過ぎはしないかということになろう︒末

流流布本などの場合は別にしても︑すくなくとも︑覚一本について

は︑これを重視して再検討するだけの価値が充分にあると考える︒用

例1.2.3すべて︑後に述べる︑﹁とはずがたり﹂の例などから推

定される︑﹁御﹂の該用法成立時の様相によく合致するものであり︑

砿極的に鎌倉時代語の投影として処理してよろしいのではあるまい

か︒

﹁御﹂の該用法のみに限らず︑一般に平家物語を言語資料として使

用する場合︑延慶本を基準とし︑それにみえれば可として採り︑みえ

なければ非として捨てるという傾向が強い︒たしかに延慶本には︑テ

キストとしてそれだけの強みを持ってはいるけれども︑言語資料とし

てあらゆる角度からながめるならば︑やはり弱みもあるのであり︑そ シクオポスコトハナハダシの類︑のいずれかの形に落ち着こう︒語序︑すなわち︑﹁御﹂の位置から考えるならば︑一般的にいっても︑また︑吾妻鏡の文章について調査した結果に照合しても︑の型は不可であり︑㈲型が可である︒すなわち︑この事実は︑当時︑﹁御﹂が普通の形容詞に接する用法があり︑行われていたことを前提としなければ説明が困難なのであって︑﹁とはずがたり﹂の例とともに︑﹁御﹂の該用法鎌倉時代︵後期︶成立説を主張する有力な証跡となるのである︒変体漢文体の作品にこのような例が見出されることは︑特に興味深い︒

(5)

286

の処理に当っては︑細心の注意を払うことが必要のようである︒例を

挙げて具体的に考えてみよう︒たとえば︑﹁侍り﹂の問題がある︒大

系本には︑﹁侍り﹂は一例のみで︑他はすべて﹁候ふ﹂であるのに対

し︑延慶本では︑かなりの量の﹁侍り﹂があり︑﹁候ふ﹂と混じ用い

られている︒鎌倉時代の口語にあっては︑﹁候ふ﹂が専用されていた

はずであり︑﹁侍り﹂は︑院政時代もかなりはやくから文語化する傾

向にあったことを想うと︑延慶本における該現象は︑なかなか興味深

い︒概して︑延慶本には︑党一本などに比して︑前代の語︑鎌倉時代

にも使用されてはいるが︑しだいに退化し文語化する傾きにあるよう注8な語の使用が顕著なのである︒この事実は︑延慶本には︑覚一本など

に較べて︑どちらかといえば保守的な規範意識が働いており︑用語の

選択もかなりきびしかったのではないかということを推測させる︒そ

れ故︑逆にいえば︑もちろん︑鎌倉時代の口語も色濃く反映はしてい

るが︑成立して日が浅く︑流通域も狭く不安定な表現は︑忌避される

むきがあったのではなかろうか︒このような解釈が容れられるなら

ば︑﹁御﹂の該用法は︑まさにいまだ広く慣用化される前の段階にあ

ったものであり︑不安定であるが故に採られなかったのであって︑用

法そのものが皆無であったから用例を欠くというわけではないという

注9説明を与えることが可能になるのである︒延慶本のかような言語性

は︑おそらく︑その読み本であるという文学性と密接な関連がある

︾つ︒

さて︑ここで︑鎌倉時代後期の︑いわば揺嬢期に当る該用法の特徴

について考えてみたい︒

まず︑第一に注意されるのは︑この表現が適用されている対象がき

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶ わめて高貴な人物に限定されていることである︒﹁とはずがたり﹂における一○例のうち︑地の文で使用されているものは︑例4.8.Ⅲ︒uの四例であるが︑すべて上皇についてのものばかりであり︑吾妻鏡の例も︑この作品では︑常に高い敬語を使用して待遇されている︑頼朝の妻政子について用いられたものである︒一般に︑新しい尊敬表現が登場する場合には︑当初においては︑特に客観的な技述部である地の文においては︑その使用範囲が特に高貴な人物︑待遇度の高い敬語を用いて待遇すべき人物に限られており︑やがて次第にその使用領域を拡張してゆく︑という傾向が看取されるのであるが︑その意味において︑﹁御﹂のかかる使用状況は︑まさに︑揺藍期たるにふさわしい現象であるといえる︒なお︑﹁とはずがたり﹂の残り六例︑および準ずべきもの一例は︑すべて会話ないし会話形式の表現部分にみえるものであるが︑それらも例6が作者に対する︑訪問者の会話部にみえる使用であることを除けば︑上皇︑女院︑神についての例のみである︒会話部は地の文と待遇機構が違質であり︑具体的な場面の制約がより強く作用して︑客観的にはさほどの地位を占めぬ人物︑地の文ならば︑当妖側敬語を使用しないか︑しても軽い程度の敬語の適用ですまされる人物に対しても︑かなり高い敬語が使用されることがしばしばある︒例6もそれに当該する例であり︑上述のところと抵触するものではない︒平家物語の例についても同様のことが指摘される︒例1は大宮が先帝のことを恋しく思われたというのであって︑先帝についての使用か︑大宮についての使用か︑紛らわしい点はあるが︑いずれにしても︑高貴の人物に対する使用である︒2は︑六代が母に送った消息にみえるもので︑例6同様のケース︑3は︑後白河法皇の会話部のもので︑建礼門院に対して用いたものである︒

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鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶

次に指摘されることは︑﹁御﹂が接する形容詞が︑客観的な事物の

様態の表示に関するものの類が乏しく︑大半が︑主観的な心情の表示

に関するものに偏しているという事実である︒平家物語の例まで含め

て︑純粋に様態表示の形容詞は︑わずかに﹁幼し﹂のみであり︑他

は︑﹁いたはし﹂﹁厭︵いとはし?︶﹂﹁うらめし﹂﹁おぼつかな

し﹂﹁恋し﹂﹁むつまし﹂﹁ゆかし﹂と心情表示の形容詞に集中して

いる︒例4︐7︑胆の﹁わづらはし﹂も︑一見︑病状が重い意の純粋

様態表示の形容詞かのようであるが︑元来は︑煩わしい︑気がかりで

あるという意の心情表示にポイントのおかれた言葉であり︑後には︑

様態表示に傾いたかたちで用いられた例もあるが︑﹁とはずがたり﹂︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑の当時では︑まだ︑周囲の人々がはらはらするほどに重くなる︑とい

うように︑多分に元来の意味を残曳した用い方であったのではないか

と思われる︒

右のような形容詞の偏在は︑該用法の成立と深くかかわりあってい

性︑るようである︒該用法の成立については︑はやく︑山田孝雄博士が︑

大著﹁平家物語の語法﹂において︑延慶本に︑﹁御心苦シ﹂の類の表

現があることを指摘され︑﹁御﹂の該用法は︑この種の表現から︹御

十名詞︺+形容詞I御十︹名詞十形容詞︺Ⅱ御十形容詞のごとき過程

を経て形成されたものと推定され︑現在︑通説となっている︒通時的

注皿に調べてゆくと︑大岩氏もいわれているように︑平安時代には︑﹁御

心長し﹂の類は見当るけれど︑名詞と熟合した形容詞︑たとえば﹁物

狂はし﹂︵平安時代では﹁物狂ほし﹂︶の類に﹁御﹂の接した形は見

出しがたく︑そのような表現が目につくようになるのは︑院政期以降

のようである︒こうした表現がある程度流通したあとを襲って︑﹁御

いたはし﹂の類が登場するわけであり︑山田博士のお説は︑成立時代 一ハ

をより下らせることを除けば︑首肯されてよい︒

ところで︑この名詞と熟合した形容詞類をみると︑その大半が﹁心﹂

と結合した︑心情表示の言葉であることが注意されるのである︒これ

は︑まことによく︑上記の﹁御﹂の該用法の偏りと符号するのであっ

て︑成立母胎それ自体に存した偏在がそのまま新生の用法に引き継が

れたということなのであろう︒やがて︑新生の該用法が広く慣用化し

確立するに至れば︑その接冠範囲も徐々に拡大化されるのであり︑か

かる偏在もまた︑その意味で︑揺態期たるにふさわしい現象というべ

きであろう︒

主要な特徴は︑以上の二点であるが︑なお若干の注記を付しておこ

︾つQ

該表現は︑当初は︑連用形のみに限定されていたという論につい

て︒土井忠生博士は︑﹁日本語の歴史﹂のなかの﹁鎌倉・室町時代の

国語﹂において︑覚一本別本︑八坂本の平家物語から例を引き︑﹁こ

れらは形容詞とは言え連用修飾語に立つものに限られている︒室町時

代にはその用法が自由になった﹂と述べて︑天草本平家物語等から︑

終止形︑己然形の例を挙げておられる︒この当初は連用形のみであ

り︑鎌倉時代に該用法が行われることがあったと仮定しても︑その用

法は決して自由に全活用形に及んではいなかったろうという考えは︑

また現在広く採られているところである︒しかし︑これが事実と合わ

ないことは︑﹁とはずがたり﹂の例をみれば︑瞭然であろう︒4︐5.

は己然形であり︑7は終止形なのである︒成立当初から︑諸活用形に

わたって︑かなり自由に用いられていたとみる方が適当であろう︒た

だ︑連用形の例が大半を占めているのは事実であるが︑これは︑一般

に形容詞の用例は︑連用形︑連体形︑特に前者にもっとも多くの例が

(7)

284

御かれうひんかのこゑならん﹂︵仏ノ御迦陸頻伽ノ声ナラン・源氏︑紅葉

賀︑大成一のぺ二三七︶のように︑﹁御﹂と名詞との間に連体修飾語が

介在する場合があるのであり︑大岩氏がいわれるように︑その同類と

して︑八御+ちかきゆかりV型として処理するのがよろしい︒ただ

し︑﹁御﹂の該用法が生じたあとでの当表現の処置は︑おのずから異

なるべく︑たとえば︑純粋の形容詞ではなく︑名詞熟合型のそれでは

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶ 集まるものであること︑つまり修飾機能がその主要な機能であること︑および︑﹁御﹂が冠せられるようなところは︑だいたいにおいて︑従来も何らかの形で待遇表現が採られている場合が多く︑特にそのような場合の待遇表現は︑形容詞を連用形にし︑﹁おはす﹂の類や動詞に﹁給ふ﹂を接した形の類を連接させるといった構成で行われることが多いこと︑に基因するものであろう︒さらに︑心情表示形容詞への偏在が︑八形容詞連用形十おぼしめす︒おぼえたまふ類V型の形をともすれば採りやすい︑という結果を招き︑そのような形で影響を及ぼしている︑ということも考慮に入れてよろしかろう︒この点は︑延慶本における﹁御心苦し﹂類にも指摘されるところである︒

次に︑八御十形容詞連体形十名詞V型の処置について︒平安時代の

作品にも︑次のような︑一見八御十形容詞V型に類する表現が︑まま

見受けられる︒

ひとの御をかしかりしこと蚤ものみわすれはてて

︵四条宮下野集︑桂宮本叢書︑ペ一︶

これらは︑﹁御﹂と名詞との結合がつねに直接という形で行われる

とは限らないということで説明さるべきであろう︒﹁これやほとけの かんの君の御ちかきゆかりそこらこそはょにひろこりたまへと

︵源氏物語︑竹河︑大成三のぺ一四六三︶ つゆ御うしろめたきふるまひあるまじきを

︵とはずがたし︑巻一︑文永九年︑ぺ二九︶

のごときは︑八御うしろめたき+ふるまひVとして捉えるべきであろ

う︒鎌倉時代では︑﹁御﹂の連体修飾語を介在しての名詞接合という

用法が︑影をひそめる傾向にあることも考え合わせられてしかるべき

であろう︒

なお︑形容詞を介在した名詞への接合という構成から︑次のことを

考える向きがあるかもしれない︒すなわち形式の上で直接しているの

は形容詞であり︑したがって︑元来は︑連体格助詞であった﹁の﹂が︑

八名詞十の+用言連体形︵連体修飾語︶+名詞Vという構成におけ

る︑八名詞十の+用言連体形Vの連接を契機にして︑主格表示機能を

も具備するに至ったように︑そのような連接構成を契機して︑実質的

にも形容詞と接合関係を持つようになった︑つまりそこに該用法がや

がて生み出さるべく胎胚していたのだという推測も︑一応成り立ちそ

うである︒しかし︑こうした八御十形容詞十名詞V型の表現は︑例が

きわめて稀であり︑特に鎌倉時代にそれが著るしく︑とうてい︑そこ

から該用法を発生させるほどの力があったとは思えない︒あるいは︑

その発生を助長したかはしれないけれども︑成立の母胎は︑やはり︑

前述したように︑あくまで︑八御心苦しV型の表現に求めるべきであ

ろう︒

鹸後にその使用層についてc鎌倉時代に生じた新しい表現には︑後

に広く流通したものもあれば︑後でもその流通層が必ずしも広範にわ

たっていないものもある︒﹁申す﹂に助動詞﹁き﹂の連体形が接する

場合にみられる﹁申せし﹂という特殊な接続形式は後者の一つであ

あるけれども

(8)

283

以上︑﹁御﹂の形容詞直接表現の成立について論じた︒該用法の成

立は︑﹁御﹂の用法の拡充化が︑ある意味では︑近代待遇表現の展開

過程を鮫も端的に示すものであることを想えば︑きわめて重要な問題

なのであって︑それが通説のごとくではなく︑すでに鎌倉時代には生

じていたことは︑待遇表現史上において鎌倉時代がどのような位置を

占めているのかを考究する場合︑大きな意味を持とう︒とにかく︑鎌

倉時代の待遇表現の研究は︑現状では︑不徹底であり︑ブランクにな

っているところが多い︒充分な資料が備っていないという点もあるにせよ︑資料の活用そのものに︑検討を加えるべき余地が大きいのでは

ないか︒慎重であるべきことは当然のことであるが︑度を越して︑せ

っかくの資料を埋れたままに放置するのはいかがであろう︒

1山田孝雄博士﹁平家物語の語法﹂第六章形容詞第五節敬語ぺ三九八三

九九︑土井忠生博士﹁鎌倉・室町時代の国語L︵﹁日本語の歴史﹂所収︶

ペ一六八一六九︑日本古典文学大系可平家物語L解説ぺ四三︑大岩正仲

氏司御l用法と意味lL︵﹁国語学L五二号︶ペ九七九八等参照︒なか

で︑日本古典文学大系﹁平家物語Lでの該用法の扱いは︑前記解説では︑ 鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶

り︑次項で述べるが︑鎌倉時代でも︑その流通層は狭かったらしい

が︑後世に入っても必ずしも広くはない︒特に貴族社会の女性層では

伸びなかった︒それに比すると︑﹁御﹂の該用法は︑広範に伸張し︑

特に女性層での使用が盛んになっている︒その点︑すでに﹁とはずが

たり﹂でかなりの例が見出されることは注目すべく︑中務内侍日記︑

弁内侍日記︑竹むきの記等に用例が見えない点︑おそらく女性層全般

にわたって使われ始めたものではなかろうが︑当初から︑女性層に伸

びる下地は充分あったというべきであろう︒ 八

可一般の形容詞の敬譲表現は︑まだ現われず⁝⁝Lと述べながら︑用例2

の頭注では︑﹁名詞を含まぬ形容詞に罰御しがついた例︒当時としては新

しい表現であったろうLと︑該語法の存在を認めるかのごとき説明を与え

ており︑統一されていない︒

2昭和三三年度東京教育大学国語国文学会研究発表会での口頭発表会﹁可と

はずがたり陰の用語l詞くこんLのことI鎌倉時代後期における宮廷女

流社会の言語についてlL

3司司くこんLということばl女房詞についての一報告lL︵可言語

と文芸﹂昭三五・七月号︶

4﹁桂宮本叢書L所収﹁とはずがたりLの解説ぺ一六以下参照︒

5酒の異名﹁くこんLが二二例の多きにのぼって使用されることがその題

著な事実であるが︑可をさないLの転化形﹁をさあいLが見出されること

も注意されよう︒この形は︑従来︑南北朝以降に生じたものとされている

が︑弘安十年十月廿九日の日付けが明記されている﹁米良文書L所収の﹁寂

円檀那職讓状L︵相田二郎氏可日本の古文書下Lの資料編ぺ五四五︶に

﹁そのほかをさあい物ともをは﹂の例があり︑可とはずがたりLの可をさ

あいちこ︵稚児︶﹂︵ペニセ︶が決して後生の語の誤入でないことを裏

付けており︑当時用いられるようになっていたものであることを示す︒そ

の他︑ハ・ワ行下二段動詞のャ行転化例が散見すること︑願望の助動詞

可たしLが頻出すること等︑当代的要素が濃厚に盛り込まれていることを

示す事例は多い︒

6松本寧一主氏﹁可とはすかたりLの誤写について﹂︵可文学・語学L昭三

四・六月号︶︑﹁詞とはずがたり陰本文存疑ll玉井・次田両博士説にも

関聯してlL︵可国語と国文学﹂昭三八・三月号︶︑次田香澄博士可司と

はずがたりL本文考﹂︵﹁国語と国文学﹄昭三七・一月号︶︑玉井幸助博

士﹁問はず語りL︵﹁言語と文芸L昭三四・三月号以降︶参照︒

7この例は︑純然たる︑形容詞の用言としての用法ではなく︑格助詞﹁よ

りLが接していることで明らかなように︑名詞化したものである︒ただ︑

(9)

282

形容詞﹁をさなし﹂に司御Lが直接することがあった︑ということを前提

として︑よく理解されるものであり︑その意味で︑準用法と考えておいて

よろしかろう︒

8ここで述べるような規範意識の反映とみた場合︑最もよく理解される語

例は他にもある︒助動詞可めりLの自由な使用が︑覚一本等に比して顕著

であり︑地︑会話にわたって九例も指摘されるという事実など参看すべき

である︒

9冨倉徳次郎氏は︑可平家物語の解釈と文法上の問題点L︵可講座解釈と

文法L第五巻所収Lで︑読本系と考えられるものには﹁侍りL司候ふLが

共存するのに対し︑語り本系と考えられるものには︑覚一本に一例可侍

り﹂の例があるのを除けば︑すべて﹁候ふLであることを指摘し︑しかし

ながら︑可侍りLの共存有無をただちに読本︑語り本という性格差に連結

させて考えるのは危険であり︑より以前の語られた平家物語に﹁侍りLが

なかったと断じることは避けるべきだと︑慎重論を述べておられる︒それ︑︑︑︑︑︑︑︑︑はそれで傾聴すべきであるが︑一般論としては︑読本系のものが︑読本で

ある以上︑構成や叙述態度において︑おのずから通行の物語類に近似する

傾きを持つであろうことは︑想像に難くなく︑そして︑その当時通行の物

語が︑その種類を問わず多かれすぐなかれ守旧的な規範意識に基づいた擬

古文体︑あるいは雅俗折衷体であることを考えるならば︑延慶木は︑読本

という文学性ゆえにその文体も擬古的要素をも包含することになったので

あり︑可侍りLの使用も︑語り本においても︑あるいは︑かって用いられ

たかもしれないが︑そして︑それを認めてもよろしいが︑読本にこそふさ

わしいものというべきであろう︒もっとも︑保元物語︑平治物語︑承久記

では︑だいぶ様子が異なるようであり︑具体的個別的には︑必ずしも︑一

律に処理すべきではなかろうが︒

加注1参照︒

u注1参照︒

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶ 院政期あたりから︑助動詞の接続法に揺れが生じて︑多くの助動詞に新しい接続のしかたが発生︑従来のそれに比せば︑微弱ではあるが︑ともかく従来のそれとともに用いられるようになったことは︑周知のことである︒

その一つに﹁き﹂がある︒﹁き﹂の連体形﹁し﹂︑己然形﹁しか﹂

がサ行四段動詞に接続する場合にみうけることがあるエ段への接続と

いうかたちがそれである︒この新しい接続形式は︑﹁まじ﹂に生じた

新接続形式︑﹁聞き入れまじ﹂の類などに比して︑発生がだいぶ遅れ

ているらしい︒﹁まじ﹂の︑たとえば︑下二段動詞へのイ段接続の例

注1が︑すでに院政初頭の作品にみられるのに対し︑﹁し﹂︑﹁しか﹂の

新接続形式は︑院政末期あたりまではくだるようで︑管見では︑宝物

集にみえる次の例が古いものである︒

又みだ︵阿弥陀︶如来は︑なたらんこぐ︵ゑ国︶のむしやうれん

わう︵無静念王︶と申せし時︵古典文庫︑ペ一二九︶ 付記

司御﹂の該用法の例としては︑他にも

立の冠の花の御姿︑衰させ給て︑墨染の御袖に藤の衣をかさねさせ給ける︑御意の程こそ御痛しけれ︒︵大系﹁保元物語Lぺ一八二︶

がある︒また︑通行版木の発心集巻三にも︑司御恋シク思奉リッレドLの

例がある由︵可国語の歴史Lの﹁中世Lの条︑ペ一三一︑浜田敦氏執筆︶︒

ただし︑保元物語の例は︑諸本によって異同がはなはだしい︒両例とも︑

心情表示の形容詞に直接したものであるし︑その点︑そのまま受け入れて

も支障はないもの︒

二﹁申せし﹂型の接続形式について

(10)

281

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶

古典文庫所収の本文は︑三巻本で︑平仮名古活字本﹁法仏集Lを底本と

し︑国会図書館蔵寛永頃古写本をもって校合したもの︒両本間には︑はな

はだしい異同がみられるが︑﹁申せしLの箇所は︑一致している︒

この︑サ行四段動詞へのエ段接続は︑まず︑宝物集にみるように︑

﹁申す﹂の場合に生じたものらしい︒他の動詞の例が︑より時代が下

って︑特定の作品において現われるのに対し︑﹁申せし﹂の類は︑右

の例をはじめとして︑より多くの作品に散在しているのである︒戦記

物グループに︑後述するごとく諸本間に異同を存する難があるにはせ

よ︑平治物語︑保元物語︑平家物語の各々にみえているのをはじめ︑

沙石集︵広本︶にも︑従来の﹁申しし﹂型を圧倒して︑かなりの量の

﹁申せし﹂の類が用いられているのである︒他の動詞における例は︑

これらの作品にはみられず︑それが目立って指摘されるのは︑管見で

は日蓮の文章のみである︒

故に釈迦如来世に出てましませしかば︑或は毒薬を食に雑て奉り⁝

︵司細柳日蓮聖人遺文L巻一︑四恩抄︑ペ一三四︶

是へ流されしには一人も訪人もあらじとこそおぼせしかども⁝⁝

︵右同︑巻一︑呵責誇法滅罪妙︑ペ七九○︶

例せば股の肘王に比干といゐし者いさめをなせしかぱ︑用ずして胸

をほる

︵右同︑巻二︑種種御振舞御書︑ぺ九六○︶

阿闇世王は賢人なりしが︑父をころせしかば︑即時に天にもすてら

︵右同︑巻二︑四条金吾殿御返事︑ぺ一五九三︶

不思議の日蓮をうみ出せし父母は日本国の一切衆生の中には大果報

の人也︒︵右同︑巻二︑寂日房御書︑ぺ一六六九︶ 一○

右に挙げたのはその一端で︑このような﹁ましませし﹂﹁おぼせ

し﹂﹁なせし﹂﹁ころせし﹂﹁うみ出せし﹂類の他︑﹁動かせし﹂な

どの例が︑多くの遺文の中に見出されるのである︒したがって︑﹁申

せし﹂類以外にも︑ェ段接続形式が行われたことは疑いのないところ

なのではあるけれども︑もし︑この形式が多くのサ行四段動詞に︑広

く斉一に発生したとするならば︑日蓮の文章のみというように特定の

作品に集中化するという現象を呈するのではなく︑多種の作品に現わ

れ︑かつまた︑すでに﹁叩せし﹂が鎌倉初頭期には生じていた形跡が

あるのであるから︑日蓮の遺文より遡った時代の作品に見出だせてし

かるべきであろうと推測されるのであるが︑管見の及ぶ範囲では︑前

記のように︑そうしたことを確実に示唆するような事実を知らない︒

沙石集のごとき︑﹁申せし﹂型を六例も用いているのに対して︑﹁申

しし﹂型はわずかに三例という︑﹁申せし﹂型優勢の作品においてさ

え︑それ以外の動詞におけるエ段接続例は拾い得ないのである︒

これは︑前述したように︑該接続形式が︑まず﹁申す﹂という特定

の動詞への接続において生じ︑﹁巾せし﹂類がある程度地歩を固めて

から︑他のサ行四段動詞に波及︑拡大していったことを示唆する事実

と考えるのが最も適切な解釈であろう︒これに付加するに︑日蓮の遺

文において︑﹁まします﹂などは︑﹁ましませし﹂類が使用される一

方において︑﹁ましましし﹂類の伝統的接続形式もそのまま併わせ用

いられる︑というように新旧両形式が混用されていて動揺しているの

に対し︑﹁申す﹂に限っては︑﹁申せし﹂類専一で︑﹁申しし﹂類が

見出されないという菫l﹁駕日薑人妻二三壽収のもの

の約三分の二を︑現在までに調査し終っているが︑﹁申せし﹂類が随

所に多数現われているのに対して︑﹁申しし﹂類は未見である︒残り

(11)

280

注2﹁申せし﹂類の成立については︑﹁申しし﹂の転とする説がある︒

転とは具体的にどういうことを意味するのか明瞭でないが︑﹁申し

し﹂という形が音転したものという意味であるならば︑そして︑その

ような意味以外︑その意味するところが捉えがたいのであるが︑適切

な説明とはいいがたい︒音転すべき理由が見出しがたいからである︒

何等の原因もなく︑﹁申しし﹂が﹁申せし﹂という形に転ずるとは考

えだかたいのであって︑その成立の由来は別に求められるべきであ

ろう︒敬語の動詞語彙には︑下二段活用に所属するものが多く︑さらにま

た︑サ変︑準サ変︵﹁おはす﹂︶のごときものもあり︑それらに﹁し﹂

﹁しか﹂が接する場合には︑いうまでもなく︑エ段接続となる︒おそ

らくそれへの類推が働いた結果生じた形なのではないか︒院政中期あ

たりから︑﹁申す﹂と︑謙譲語という点で同一グループに属し︑助動

詞的用法の面で使用域が重なり合う﹁まゐらす﹂が︑急速に勢力を伸

張してくるという事実が指摘されるが︑類推という点では︑特に︑こ

の近接した性格を持つ﹁まゐらす﹂が微妙な影響を及ぼしたというこ

とも考えられよう︒﹁申す﹂に限って発生していること︑および︑そ

の時期︑という二点を重視すると︑こうした解釈が鮫も穏やかなとこ

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶ 三分の一についても︑ざっと調べてみたが︑やはり未見︒まず﹁申しし﹂類は用いなかったものとみてよろしいIがあり︑これは︑該接続形式を受け入れた階層において﹁申せし﹂類が︑他の動詞に較べて︑比較にならぬほど地歩を強固にし安定したものになっていたことかを如実に示すものであって︑右述の該接続形式の成立︑展開に関する推定をより補強する有力な支えとなろう︒ 注3ところで︑﹁まじ﹂あるいは﹁べし﹂︵﹁見くし﹂の類︒ただし院

政期以後の散文にみえる場合のもの︶の場合に比して︑該新接続形式

が︑鎌倉時代においては︑それが最も広くみられる﹁申す﹂の場合に

おいてさえ︑使用例が見出される作品が狭い範囲に限られている︑と

いうことは注意を惹くところである︒﹁まじ﹂﹁べし﹂の非平安時代

的接続形式も︑決して諸種の作品に︑広範に︑かつ多量には︑拾い出

されるものではないが︑﹁し﹂﹁しか﹂の場合は︑もっと狭除であ

る︒いわゆる擬古物語においてはいうまでもなく︑それに比せば︑ず

っと口語的当代的要素の強い文章であっても︑宮延貴族社会の女性層

からうみ出された作品群︑すなわち健寿御前日記︑建礼門院右京大夫

集︑弁内侍日記︑中務内侍日記︑とはずがたり等︑また越部禅尼消

息︑夜の鶴︑乳母の文といった消息体文章等には︑まったく見出せな

いし︑男性の文章においても︑同様当代的要素をかたり含有するもの

でも︑源家長日記︑毎月抄︑飛鳥井雅有の日記類といった貴族層のも

のには例がない︒これらのものには︑いずれも﹁申しし﹂型の伝統的

接続形式が専ら用いられているのである︒﹁申せし﹂型は︑前述した

ところからも窺えるように︑軍記物グループや宝物集にわずかに例が

ある他は︑無住︑日蓮といった地方出身の僧侶の文章に目立つのであ

る︒

もっとも︑鎌倉時代の作品は︑﹁申す﹂の語尾が︑表記されない形

で伝えられているものが多く︑﹁申し﹂﹁申しか﹂という例が︑﹁申

しし﹂﹁申ししか﹂﹁申せし﹂﹁申せしか﹂の例に較べてずっと多い︒

したがって︑それらをどのように処理すべきかが問題になるわけだ

一一 ろと考える︒

(12)

279

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶

が︑語尾が表記されているものでは︑前述のように︑﹁申しし﹂﹁申

ししか﹂の例が︑特定のものを除いては︑普通に用いられているので

あり︑そうした一般的な状況において考えるなら︑無表記の﹁申し﹂

の類も︑まず︑特別な事情が考え得る場合をおいては︑﹁申しし﹂の

ように読んでおくのが穏やかであろう︒ただ︑特別な事情が考えられ

るような場合︑たとえば︑雑談集のごときものの処置については︑そ

う簡単に一般的な状況にあうよう読んですますわけにはゆかない︒古

典文庫所収の本文によれば︑該作品の例は︑すべて﹁申し﹂の類であ

ってどう読むべきか分明でないのであるが︑作者が沙石集と同一の人

物であること︑作品内容や文体も類似のものであることを重視するな

らば︑そして︑また︑重視すべきだと思うのだが︑﹁申しし﹂の類の

読みをとるよりは︑そのすべてが実際﹁申せし﹂の類であったかは別

として︑また︑それは所詮︑現状では明確にできないことなのだけれ

ども︑むしろ︑取扱いの態度としては沙石集に歩調を合わせて︑﹁申

せし﹂のように読むべきであろうとの線を打ち出すべきではなかろう

か︒

無表記の問題を︑以上のように処理するならば︑﹁申せし﹂類を中

心とした︑該接続形式が発生︑伸長した社会層がどのようなところで

あったかという位相上の性格がおおよそ察せられよう︒宮廷貴族社会

層においても︑散発的という程度には︑用いられることがあったかも

しれないが︑すくなくとも︑鎌倉時代では︑標準的な形と認められて

いなかったことは確実であり︑一般に︑特に文章語としては︑その使

用を忌避する傾向が強かったものと推定される︒これに対して︑弟子

が都ぶりに感染し︑京言葉を使用するのを強く誠めたという有名な逸

話を持つ日蓮の文章において︑﹁叩せし﹂類専用をはじめ︑同類の形 一一一

がかなり広く使用されているという現象が顕示されていること︑同じ

ように地方︵東国︶で成長した僧侶︑無住の文章にも︑﹁申せし﹂の

類が多く使用されていることは︑まことに興味深く︑この形式の社会

的な流通域を如実に物語るものといえよう︒すなわち︑下級貴族や庶

民層︑特に地方のそれ1日蓮︑無住の線からは︑一応東国で生じ展

開したということも想定されようが︑そこまで絞るには︑きめ手不足

であるlを地盤として伸張していったものと思われるのである︒さ

らに時代が下れば︑やがては﹁き﹂の文語化に伴って︑文章語として

しか使われなくなる運命を辿るのだが︑いわゆる擬古文と称せられる

文章にも︑この形式はl特に依然として﹁申せし﹂の類に顕著なの

だがl用いられるほど一般化するようになる︒お伽草子という名称

で包括されている作品には︑﹁申せし﹂﹁申せしか﹂専用のものが数

あることは︑それらの作品を通読すれば︑すぐ気づかれるところであ

る︒もっとも︑後に至っても︑貴族社会の女性の文章には︑他に比し

て例がすぐないのであるが︑これは﹁御﹂の形容詞直接用法の項で触

れたように︑必ずしもこの形が︑貴族社会の女性層には歓迎されず︑

充分浸透せずに終ったことを示すものかと思われる︒その点﹁御﹂の

該用法の場合とは︑当初から対疏的な様相を呈しているわけである︒

さて︑ここで︑平家物語に目を向けると︑大系本によれば︑校合に

使われた高良本に︑﹁まうせし﹂と訓んだ例が三箇所拾い出される︒

まうせし小師でおはせし大納言法師行慶と申は⁝⁝

︵巻七︑経正都落︑ぺ一○六︶

まうせし日ごろ人の申にたがはず︑御脳の剋限に及んで

︵巻四︑観︑ペ三二六︶

(13)

278

まう割年十四才と申し永暦元年三月廿日︑伊豆国蛭島へながされて

︵巻五︑文覚荒行︑ぺ三五三︶

巻四の例について︑大系頭注では︑﹁﹃申しし﹄とありたいところ﹂

と記されている︒単に︑平安時代の語法を標準とした場合それと異っ

た形である︑ということを指摘したにすぎないものならば︑とやかく

いうに及ばないが︑鎌倉時代の作品として︑﹁申せし﹂は穏やかでな

く︑﹁申しし﹂とあるべきはずだ︑という意味での注であるとする

と︑問題になろう︒たしかに︑大系本文によれば︑﹁申しし﹂と表記

されている例は︑すべて八例あり︑この伝統的な接続形式の方が普通

に用いられているという事実は︑看過されてはならないけれども︑宝

物集の例を重視すれば︑﹁申せし﹂型は︑いわゆる平家物語が成立し

たころには︑発生していたと考えられるのであり︑したがって︑﹁申

せし﹂の使用自体は︑その意味では︑特に疑点を挿むべき性質のもの

ではないのではないか︒かつ︑孤例ではなく︑三例までも挙げられる︑︑︑ところからいうならば︑高良本に限っては︑﹁申しし﹂型と並んで︑

それに比すれば微弱であるが︑﹁甲せし﹂型も行われたという事実

を︑そのままに受け入れてよろしいのであろう︒

もちろん︑延慶本にこの例がみえないのは当然のこととしてもl

この点については︑前に︑延慶本の言語の特徴について述べた部分を

参照のことI同じ覚一本系のものも︑高良本を除いては︑﹁甲せ

し﹂の確例がなく︑確かな例は︑すべて﹁申しし﹂であるらしい点を

考えれば︑諸系統の本文について︑広く両型の使用状況を精査しなく

てはならないけれども︑高良本の﹁申せし﹂が︑きわめて特異な事実

であることは認めるべきであろう︒しかし︑これは消極的に扱わるべ

きではなく︑むしろ︑高良本の本文の性格を考察する上で︑一つの興

鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶ 味ある材料を提供しているもとと評価すべく︑積極的に活用することが望ましいのではあるまいか︒すくなくとも︑鎌倉時代の語法ということで云為するならば︑格別に否とするには当らないのである︒

この場合に限らず︑新しい語法に従った表現に接する際には︑既述

したことを繰り返すようだが︑この表現はおかしいと簡単に片付ける

まえに︑まず︑広く諸本について︑その本文の言語の性格をも吟味し

ながら︑精査し︑また︑同時代の他の作品にも広く調査の手を伸ばし

て︑どのような観点に立って処理すべきか︑熟慮すべきであろう︒特

に︑平家物語︑保元物語︑平治物語などにおいては︑この点に留意す

ることが必要である︒

なお︑大系本平家物語にも︑活用語尾無表記︑訓み仮名たしの﹁申

し﹂﹁申しか﹂が頻出するが︑校注者は︑すべてを﹁申しし﹂型で読

んでいる︒これは︑前記のごとく︑底本たる龍大本での確例がすべて

﹁申しし﹂型であることから︑妥当な処置として従ってよい︒

1俊頼髄脳︵司日本歌学大系所収L︶に﹁聞き入れまじき事か﹂︵ぺ一五

○︶の例がみえる︒

2日本古典文学大系司保元物語・平治物語Lペ三三の注︑参照︒

3﹁コレラカナラズタヅネテミベキ事ナリL︵﹁長明無名沙L1日本歌学

大系︑ぺ二九三︶の類︒

︵昭三八・一○・一五︶

一一一一

参照

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