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――限定関係をめぐるディグナーガとクマーリラの一議論――片岡 啓 tadvat と apohavat

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(1)

tadvat apohavat

――限定関係をめぐるディグナーガとクマーリラの一議論――

片岡 啓

南アジア古典学 第 11 号 別刷

South Asian Classical Studies, No. 11, pp. 49–74 Kyushu University, Fukuoka, JAPAN

2016 年 7 月 発行

(2)

tadvat apohavat

――限定関係をめぐるディグナーガとクマーリラの一議論――

九 州 大 学  

片 岡  啓

´SV apoha 132:

n¯atmany avidyam¯anatv¯ad vi´ses.o ’pohas¯ucakah./

tasm¯an na tair vi´ses.yatvam. prakr.s.t.atvena n¯ılavat//

服部1975:33:〔「asatの否定」という1つのアポーハに限定された〕特殊〔で

あるapohavat〕は,〔他のアポーハが〕自らの中に存在しないのであるから,〔他

の「非壺の否定」等の〕アポーハを示すものではない。したがって,〔それは〕

n¯ıla(青)が優勢によって〔限定されて,n¯ılatara, n¯ılatamaとなる例〕のよう には,それら〔他のアポーハ〕によって限定されない。

1 アポーハ論研究

ウィーン大学に提出された博士論文Pind 2009(ネット公開)をきっかけに,アポーハ論 研究は新たな展開を見せつつある.筆者はこれをアポーハ論研究第三期の始まりと見なす.

第一期は1930年代,フラウワルナーによる一連のアポーハ論研究論文,および,サトカ リ・ムカジーの著書に代表される.1980年を挟む第二期は,京都大学を中心に花開く.そ こでの推進力は,言うまでもなく,梶山雄一(1925生,1961-88在職)と服部正明(1924 生,1961-88在職)とである.

1932 Frauwallner, Erich: “Beitr¨age zur Apohalehre. I. Dharmak¯ırti. ¨Ubersetzung.”

Wiener Zeitschrift f¨ur die Kunde des S¨udasiens, 39, 247–285.

1933 Frauwallner, Erich: “Beitr¨age zur Apohalehre. I. Dharmak¯ırti. ¨Ubersetzung.

(Fortsetzung).” Wiener Zeitschrift f¨ur die Kunde des S¨udasiens, 40, 51–94.

1935 Frauwallner, Erich: “Beitr¨age zur Apohalehre. I. Dharmak¯ırti. Zusammenfas- sung.” Wiener Zeitschrift f¨ur die Kunde des S¨udasiens, 42, 93–102.

1935 Mookerjee, Satkari: The Buddhist Philosophy of Universal Flux. Reprint.

Delhi: Motilal Banarsidass, 1997.

1937 Frauwallner, Erich: “Beitr¨age zur Apohalehre. II. Dharmottara.” Wiener Zeitschrift f¨ur die Kunde des S¨udasiens, 44, 233–287.

1951 伊原照蓮:「タットワ゛サングラハに於けるアポーハ説について」『文化』(東北大 学文学会),15-1, 14–29.

1953a 伊原照蓮:「陳那に於ける言語と存在の問題」,『哲学年報』14, 481–507.

1953b 伊原照蓮:「陳那の言語観」,『印度学仏教学研究』1-2, 156–157.

1960 梶山雄一:「ラトナキールチのアポーハ論」『印度学仏教学研究』8-1, 76–83.

1973 服部正明:M¯ım¯am.s¯a´slokav¯arttika, Apohav¯ada章の研究(上)」『京都大學文學 部研究紀要』14, 1–44.

1975 服部正明:M¯ım¯am.s¯a´slokav¯arttika, Apohav¯ada章の研究(下)」『京都大學文學 部研究紀要』15, 1–63.

本論考はインド思想史学会(20151219日,京都大学)における発表原稿に基づくもので ある.本研究はJSPS科研費15K02043の助成を受けたものである.

(3)

1977 Hattori, Masaaki: “The Sautr¯antika Background of the ¯apoha Theory.” In:

Buddhist Thought and Asian Civilization, 47–58.

1979 Hattori, Masaaki: “Apoha and Pratibh¯a.” In: Sanskrit and Indian Studies, 61–73.

1979 服部正明:Uddyotakaraに批判されるアポーハ論」『伊藤真城・田中順照両教授 頌徳記念:仏教学論文集』117–131.

1979 Katsura, Shoryu: “The Apoha Theory of Dign¯aga.” Journal of Indian and Buddhist Studies, 28-1, 16–20.

1979 赤松明彦:Dharmak¯ırti以後のApoha論の展開――Dharmottaraの場合――」

『印度学仏教学研究』28-1, 43–45.

1980 赤松明彦:「ダルマキールティのアポーハ論」『哲学研究』540, 87–115.

1980 服部正明:Ny¯ayav¯arttika,2.2.66におけるアポーハ論批判」『密教学』(松尾義海 博士古稀記念号)16-17, 15–30.

1981 小川英世:J˜n¯ana´sr¯ımitraApoha論」『印度学仏教学研究』29-2, 160–161.

1981 小川英世:「ジュニャーナシュリーミトラの概念論」『哲学』(広島大学)33, 67–80.

1982 Hattori, Masaaki: “The Pram¯an.asamuccayavr.tti of Dign¯aga with Jinen- drabuddhi’s Commentary, Chapter Five: Any¯apoha-par¯ıks.¯a: Tibetan Text with Sanskrit Fragments.” 『京都大學文學部研究紀要』21, 101–224.

1982 赤松明彦:Ny¯aya学派のApoha論批判」『印度学仏教学研究』30-2, 106–111.

1984 赤松明彦:DharmottaraApoha論再考-J˜n¯ana´sr¯ımitraの批判から」『印度学 仏教学研究』33-1, 76–82.

1984 桂紹隆:「ディグナーガの認識論と論理学」『講座・大乗仏教9:認識論と論理学』

103–152.

1984 長崎法潤:「概念と命題」『講座・大乗仏教9:認識論と論理学』341–368.

1986 Akamatsu, Akihiko: “Vidhiv¯adin et Pratis.edhav¯adin: Double aspect present´e par la theorie s´emantique du bouddhisme indien.” Zinbun, 21, 67–89.

1986 Katsura, Shoryu: “J˜n¯ana´sr¯ımitra on Apoha.” Buddhist Logic and Epistemol- ogy, ed. by B.K. Matilal & R.D. Evans, 171–183.

1988 桂紹隆:「ジュニャーナシュリーミトラのアポーハ論」『佛教学セミナー』48, 69–81.

1989 桂紹隆:「概念――アポーハ論を中心に」『岩波講座 東洋思想第10巻 インド仏 3135–159.

伊原1951他を例外とすれば2,本邦のアポーハ論研究は,梶山1960の「ラトナキールチのア ポーハ論」を嚆矢とする.そして,服部1973–75の記念碑的な労作「M¯ım¯am.s¯a´slokav¯arttika,

Apohav¯ada章の研究(上)(下)」(合わせて107頁)が続く.また服部の研究は,仏教文

献だけを対象としてきた前世代の研究手法からの脱却をも意図したものである.長尾雅人 (1907.8.22-2005.3.13,1935-71在職)に言及しながら服部は次のように述懐している3.「長 尾先生でも、佛教學の領域内では精密だが、佛教以外の領域にはあまり關心を向けないと いう傾向がありました。私の場合、他の領域のことをやっているうちに、もう少しインド 學一般の基盤から佛教を理解して行かなければならないのではないかということをだんだ ん感ずるようになりました。」4

21953年の伊原照蓮の両論文に対して原田和宗は次のようにコメントしている.原田1988:81:「尤 も、Th. Stcherbatsky (1866–1942)・伊原照蓮両博士が僅かながらPS V研究に先鞭をつけたが、先 駆的且つ部分的研究なるが故の宿命的ともいえる弊害を免れなかった。即ち、Dign¯agaapoha 説をダルマキールティ(Dharmak¯ırti: 600–660)風に解釈していく傾向などである。」

3「學問の思い出──服部正明博士を圍んで──」『東方學』113(2007), 173–202(引用は179 頁).

4学問の系譜について詳しくは片岡2008bを参照.

(4)

両雄の指導の下,京都大学を中心に本邦の仏教論理学研究が大きく進展したのは周知の通 りである5.アポーハ論研究は,梶山,服部,トロント大留学の桂紹隆(1944生,1968-1974 トロント留学,1976広島大学着任),そして,パリ第三大学に留学し博士号を取得(1983)

した若き俊英,赤松明彦(1953生)によって強力に推し進められた.さらに,桂が赴任し た広島大学からは小川英世(1954生)が,ジュニャーナシュリー研究をもって登場する.

しかし,1980年代末には,本邦のアポーハ論研究は収束に向かう.いわば「ブームの終 焉」である.第一期の研究の受容と消化,および,その修正.基本的なことは,ほぼやり 尽くされた観がある.1984年に刊行された講座・大乗仏教の第九巻『認識論と論理学』は,

本邦の仏教論理学研究が到達した高みを示す6.終息期の論文にあたる桂1988は冒頭「近 年のアポーハ論研究の進歩には目覚ましいものがある」と述べ,アポーハ論研究を振り返 る余裕を見せる.そこで言及されるのは,服部正明,ムニ・ジャンブヴィジャヤ,原田和 宗,ラディカ・ハーツバーガー,リチャード・ヘイズ,フェッター,シュタインケルナー,

戸崎宏正,太田心海,赤松明彦,大前太,若原雄昭,矢板秀臣,小野基,トム・ティレマン ズである.さらに桂は「従って、ムケールジー博士の史的三段階説は、全面的修正が要請 されていると言わねばならない。」と宣言する.本邦のアポーハ論研究が第一期の研究を乗 り越えたことが確認できる.

では,現在進行しつつある第三期の研究は,第二期をどのように乗り越えるべきなのか.

キーワードの一つが「写本」である.Pind自身は直接に写本を見ているわけではないが,

彼の研究は新たに発見されたジネーンドラブッディ註の写本に基づく.かつて服部が校訂 したディグナーガの『集量論』第五章およびジネーンドラブッディ註のテクストは,サン スクリット原典ではなくチベット訳であった.「非牛の排除」「牛でないものでないもの」な どという微妙な否定の意味論を論じるアポーハ論において,サンスクリット原典を欠く隔 靴掻痒のもどかしさというのは,専門家ならずとも容易に想像できるはずである7.その後,

1976年に出版されたNayacakraに付した詳細な脚注においてジャンブーヴィジャヤが『集 量論』第五章の多くの原典回収・還梵の試みを行った8.さらに今や,ジネーンドラブッディ 註サンスクリット原典に依拠するPindの原典回収努力により,(ところどころ穴があるとは いえ)より体系だった形で『集量論』第五章の全体が再構成されたのである.そのインパ クトは大きい.

『ニヤーヤ・マンジャリー』の写本研究を進める中で,2008年より筆者もアポーハ論研 究に取り組み始めた.その間の事情は金沢篤が編集する『インド論理学研究』第7号掲載の

片岡2014eで説明した.筆者の他に,本邦では現在,岡田憲尚,石田尚敬,中須賀美幸が積

極的にアポーハ論に取り組んでいる.また海外に目を向ければ,その名もずばりのApoha:

5同じ頃,apohaと並んで花を咲かせた主題にsvabh¯avapratibandhaがある.研究史については 詳しくは片岡2012cを参照.

6平川彰・梶山雄一・高崎直道編『講座・大乗仏教9:認識論と論理学』春秋社,1984年.

7『集量論』ではないが,筆者はNy¯ayama˜njar¯ıのアポーハ論を校訂した際に,ana na bhavat¯ıti

neti ko ’rthah. という一見奇妙な読みに写本で出くわした(刊本では冒頭部分はatra naとなって

いる).否定辞のnaにそのまま否定辞のaをつけてanaと表わしているわけである.ジャヤンタ の意図するところは「「非非でないのが非である」とはどういう意味か」となる.詳しくはKataoka 2008a:203(10)–202(11),及び対応する和訳の片岡2012b:69を参照.

8Cf.原田1988:81–80:「以降の学術書や研究論文が代々(無批判に)踏襲してきたこの解釈傾向の

払拭に繋がる、本格的な原典研究の幕開けはジャイナ学僧M. Jambuvijaya師によるPS Vの大量の Skt.断片の収集と部分的Skt.還元の試み(1976)に俟たねばならなかった。Jambuvijaya氏の労に 酬いたのは桂紹隆・服部正明・R. R. Hayesら三氏とR. Herzberger女史である。」

(5)

Buddhist Nominalism and Human Cognitionという論文集が2011年に出版された9.その元 となる研究集会はスイスで2006年に開催されたものである10.Tom Tillemans, Ole Pind, John Dunne, Pascale Hugon, Shoryu Katsura, Masaaki Hattori, Parimal Patil, Prabal Kumar Sen, Georges Dreyfus, Jonardon Ganeri, Amita Chatterjee, Bob Hale, Brendan

Gillon, Mark Sideritsが寄稿している.さらにジュニャーナシュリーミトラのアポーハ論

研究が2010年にLawrence McCreaとParimal Patilにより出版された.さらに最近では,

ラトナキールティのアポーハ論に取り組んだ成果がPatrick Mc Allister (1979年生)により ウィーン大学提出の博士論文(2011年)としてネット公開されている.

服部と同じく仏教伝統の外側から仏教史を眺めようとする筆者の研究は,クマーリラや ジャヤンタの肩に乗っかることでアポーハ論の発展史を見直そうとするものである.そこ で予想される史的展開は,ディグナーガ→クマーリラ→ダルマキールティ・シャーキャブッ ディ・シャーンタラクシタ・ダルモッタラ・カマラシーラ他→ジャヤンタ・スチャリタ・ヴァー チャスパティ→ジュニャーナシュリーミトラ・ラトナキールティという流れである.筆者が 特に力を入れて取り組んでいるのが,クマーリラとジャヤンタ,そして,クマーリラが批判 するディグナーガ,および,ジャヤンタが批判するダルモッタラである.また,クマーリ ラの ´SV註の一つであるスチャリタ註『カーシカー』についてはアポーハ章がこれまで未 出版であったため,現在,写本と格闘しながら校訂に取り組んでいるところである.デー ヴァナーガリー写本三つの他,細かいマラヤーラム文字の貝葉写本を一つ含むので,作業 に時間がかかったが,既に二つの校訂論文(ad ´SV apoha v. 1, vv. 2–94)を公開した.後 半部(vv. 95–176)のあと一つの校訂作業を残すのみとなった11

400 Bhartr.hari

500 Dign¯aga470–530

600 Kum¯arila

Dharmak¯ırti 600–660 Devendrabuddhi 630–690 700 ´S¯akyabuddhi 660–720

Jinendrabuddhi 710–770

´S¯antaraks.ita 725–788 Dharmottara740–800 Kamala´s¯ıla 740–795 800 Praj˜n¯akaragupta 750–810

Jayanta840-900

900 Sucarita

J˜n¯ana´sr¯ı 980-1030 V¯acaspati 1000 Ratnak¯ırti 1000-1050

本稿で取り上げるのは,この発展史の大枠の中でも「ディグナーガ→クマーリラ」とい う部分である.ディグナーガの位置づけについては,Pind 2009のサンスクリット原典再構 成により,今一度,より精確な見直しが求められる段階に入ったと考える.小川英世は「バ

9Apoha: Buddhist Nominalism and Human Cognition, edited by M. Siderits, T. Tillemans, A. Chakrabarti, New York: Columbia University Press, 2011.

10A conference on apoha semantics and human cognition, May 24–28, 2006, Crˆet-B´erard, Switzerland.

11スチャリタ註の校訂にあたって,大前太・志田泰盛による写本研究の成果を利用しえたことも,

「最近の研究状況の変化」の一つである.

(6)

ルトリハリ→ディグナーガ」の展開について示唆に富む論文を最近著している12.「ディグ ナーガ→ダルマキールティ」についても今後,より正確な理解が求められるはずである13. また,その際には,「クマーリラの介入」という視点が必要不可欠になってくると筆者は考 えている.「ディグナーガ→クマーリラ→ダルマキールティ」という流れを念頭に置くのが 最も穏当だと筆者は考えるからである14

第二期アポーハ論研究の金字塔と呼ぶべき服部1973–75を乗り越えるにあたって筆者が 依拠するのは次の三つの道具である.Pind 2009のディグナーガ研究,クマーリラの´SV写 本,スチャリタ註.いずれも服部が用いることができなかったものであり,最近の研究状況 の変化により入手可能となったものである.これらの道具を用いることで,服部1975の到 達点を見直すのが本稿の狙いである.´SV apoha 132というミクロな一事例に神経を集中す ることで,以上の筆者の意図するところを可視化してみたい.まず前提となるディグナー ガの議論(普遍実在論への批判)を押さえた上で,クマーリラのディグナーガ批判を捉え 直し,その上で,´SV詩節の解釈について議論するという手順で進める.

2 ディグナーガの議論の大枠

「有る実体」(sad dravyam)という表現がある.ここで「有る」と「実体」とは同一の指 示対象を有している(s¯am¯an¯adhikaran.ya).また,「青いスイレン」(n¯ılam utpalam)と同 様,両語の間には限定関係(vi´ses.an.avi´ses.yabh¯ava)がある.普遍実在論であれば,「有る」

が有性を表示し,また,「実体」が実体性を表示し,それらから理解される基体が二つの普 遍を有するという同居の図式が簡単に描けるはずである.

「有る」 → 有性 実体性 ← 「実体」

有るもの=実体

ディグナーガは,「有る実体」等という例文を念頭に置きながら,普遍実在論のいずれの意 味論モデル(個物表示説・普遍表示説・関係表示説・tadvat表示説)でも,この表現がうま く説明できないことをPS 5.2a以下で順番に指摘していく.PS 5.8cd以下でディグナーガ は,普遍実在論で言う「それ(普遍)を持つもの」(tadvat)が具体的に何を指すのかを考 察し,そのいちいちの可能性を排除していく.PS 5.9cd–10aにおいてディグナーガは,普 遍実在論者の考える「有」の意味,すなわち,〈有性を持つもの〉が,壺等(ghat.¯adi)とさ

12原田和宗の一連のPS研究は,「バルトリハリ対ディグナーガ」という視点を強調する.原田1988:81:

Dign¯agaBhartr.hariへの親密な依存はその見せ掛けの姿とは懸絶した思想上の溝と思想的対決と

を孕む、と。」 原田1988:79:「そういった資料比較の際に我々が従うべき解釈学上の一指針として 予め要請したのが「Dign¯aga vs Bhartr.hari」という視点であった。」

131988年の段階で原田和宗は次のようにコメントしている.原田1988:61, n. (17):apoha学説 に関する従来の論文等では、Dharmak¯ırti´S¯antaraks.ita等がDign¯agaの学説を継承・発展させな がら、独自のものを加えたという視点に立つものが多かった。しかし、私見では、Dharmak¯ırtiは確

かにDign¯agaの術語の幾つかを継承しながらも、Dign¯agacontextを逸脱した、又はそれに反す

る仕方でそれらを使用しており、Dign¯aga学説はDharmak¯ırtiの許でその原型を留めぬ程までに解 体されているといったほうが正確である。」

14フラウワルナーも想定する「クマーリラ→ダルマキールティ」の流れについては,Kataoka 2011a で詳しく論じた.

(7)

れる場合を考察する.本稿で取り上げるのは「青はより青」という喩例に関するディグナー ガの批判(PS 5.10d–11ab)と,それに対応するクマーリラの´SV apoha 132とである.

1. 言葉は他者の排除によって自らの意味を語るので,言語認識は推論に還元可能(1 2. 個物説批判(2ab

3. 普遍説・関係説批判(2cd–3 4. 普遍所有者説批判

4.1. 間接的に実体を従属要素として指すことになってしまう(4a 4.2. 転義的用法となってしまう(4b–7ab

4.3. 個物・普遍・関係にも転義的用法等の過失は当てはまる(7cd-8ab 4.4. 普遍所有者は個物か否か

4.4.1. 個物説の過失が「普遍所有者=個物群」説にも同じく当てはまる(8cd

´SV 128

4.4.2. 普遍所有者が個物群でないなら関係・有性でしかありえない(9ab ´SV

129–130

4.4.3. 単一の普遍所有者(例:或る瓶)は共通性たりえない(9cd–10a´SV 131

4.4.3.1. 普遍所有者が等しく「有」と呼ばれる適用原因が必要(10bc

4.4.3.2. 「青はより青」という喩例(10d–11ab ´SV 132 4.4.3.3. 意味上の含意はない(11c´SV 133–134

3 それを持つもの=或る一つの壺

「有るもの=(或る一つの)壺」とする説の利点は,「有る壺」(san ghat.ah.)という表現 に見られる〈同一の指示対象を有すること〉および〈限定関係〉を容易に説明できること にある.(以下,厳密には「壺」は〈壺性を持つもの〉である壺を意味するが,ここでその ことは問題にはなっていないので図式では途中を省略する.)

「有」 → 有性

有性を持つもの

∣∣

「壺」

しかし,「有」の意味は壺だけでなく布にも共通しなければならないはずである.しかし 壺は布の上に共通性としてあるわけではない.したがってこの説は容易に斥けられる.ディ グナーガは詩節(5.9cd–10a)で次のように述べる.

PS 9cd–10a: tadv¯an artho ghat.¯adi´s cen, na pat.¯adis.u vartate// s¯am¯anyam arthah. sa katham.

それを持つものという意味が[或る一つの]壺等であるならば,[それは]布等 には属さない.そのようなものが共通性たる意味でどうしてあろうか.

(8)

「有る」の意味が,有性を持つ或る一つの壺であるとすると,〈有るもの=壺〉は,布に は属さないので,「有る」の意味は,壺と布の両者に共通するものではなくなってしまうの である15

「有」 → 有性

有性を持つもの

∣∣

「壺」

? 布

3.1 「青はより青」という限定表現:青=より青

反論者は,この説を擁護しようと,PS(V) 5.10dにおいて,次の様な見解を提示する16. まず喩例としてn¯ılam. n¯ılataram(「青はより青」或いは「より青い青」)という限定表現が 導入される.「青」は青という性質を表示する.この時,青は,より青と別のものではない.

だから「より青い青」という言い方が成り立つのである.つまり「青」と聞くと,「どのよ うな青か」という特殊(vi´ses.a)への期待が生じるが,それに答えるのが「より青」という 限定なのである.「青は青でも,より青い青」という意味となる.ここでのポイントは,〈青〉

と〈より青〉とが別のものではない,ということである.ここで同一対象(青=より青)と なっている青は性質(gun.a)である.

「青」 → 青

∣∣

より青 「より青」

3.2 「有は壺」 :有るもの=壺

同じように考えると,san ghat.ah.(「有は壺」或いは「壺である有」)という限定表現につ いても,次の様に言うことができる17.「有」と言われると,有性を持つ実体が理解される

15Cf.服部1975:31:「多数のものに対して同一の語が適用されるのは周知の事実であるから,語の

表示対象は,多数のものの共通性,すなわち普遍という性格をもったものでなければならない。とこ ろが,語の表示対象はtadvatであるという説にしたがえば,sat〉が表示するのはsatt¯avat(存在性 をもつもの)であって,satt¯a(存在性)ではない。そして,satt¯avatは普遍の性格を有するものでは

ない。tadvatである対象が壺であるとすれば,それは布においては存在しない。そのような対象が

どうして普遍であろうか」とDign¯agaは述べる。」

16Cf.服部1975:31:「〈sat〉が表示するものが普遍ではない場合でも,sa ˙n ghat.ah.〉等における限 定詞・被限定詞の関係は成り立つという見解もある。たとえば,n¯ıla〉という語は青色のものに対し てのみ機能し,他の色をもつものに対しては機能しないが,n¯ıla〉という語を聞いた者には,その対 象が普通より濃い青色(n¯ılatara比較級)であるか,極めて濃い青色(n¯ılatama最上級)であるか を知りたいという欲求(¯a´sa ˙nk¯a(sic)が生ずる。そこで,n¯ılatara〉あるいは〈n¯ılatama〉という 語が用いられるが,tarap (-tara)tamap (-tama)は〈n¯ıla〉の限定要素(vi´ses.an.a)である。」

17Cf. 服部1975:31:「それと同様に,sat〉が壺に対してのみ機能する場合でも,sat〉はそれを

satt¯avatとして表示するのであるから,語を聞いた者には,対象が壺であるか布であるかを知りたい

という欲求が生ずる。そこで,n¯ıla〉をtarap等によって限定するように,sat〉を〈ghat.a〉によっ

(9)

が,そこから特殊への期待が生じる.それに応えるのが「壺」という限定である.「有るも のは有るものでも壺である有るものである」という意味となる.ここでもポイントは,〈有 性を持つもの〉すなわち〈有るもの〉が,(壺性を持つものである)壺とは別ではない,と いうことである.ディグナーガは反論者の説を代弁して次のように述べる.

PSV ad 5.10d: atha punar ananyasmin dravye vartate sadgun.am, sacchabd¯ad ghat.¯ady¯ak¯a˙nks.¯ay¯am. vi´ses.an.avi´ses.yabh¯avah. sy¯at, n¯ılatar¯adivat.

【問】またもし他ならぬ[同一の]実体(壺等)に〈有[性]を属性とする[実 体]〉が属しているならば,「有」という言葉から壺等への期待があると,限定要 素・被限定要素の関係が可能である.より青等のように.

ananyasmin dravyeという凝った表現を用いているのは,有性を持つものが壺等と別の

ものではなく同一であることを意図している.

「有」 → 有性

有るもの

∣∣

「壺」

4 答論 A :喩例は認められない

4.1 tadvat 説に従う場合

4.1.1 より青の喩例の不適切:青いもの≠より青いもの

ディグナーガは,この反論の問題点を次の様に指摘する.まず,実在論者が,ここで,

tadvat説に立っていることを思い出す必要がある.すると,青という性質を持つものであ

る〈青いもの1〉と,より青という性質を持つ〈より青いもの2〉とは実際には別のもので ある18.したがって,実在論者の喩例の図式は成立しない.つまりtadvat説では限定表現 を説明できないのである19

「青」 → 青

青いもの1

∕=

より青いもの2 「より青」

ジネーンドラブッディは次のように述べている(PST. ad 5.11a).

て限定して,sa ˙n ghat.ah.〉という表現がなされる。したがって,限定詞・被限定詞の関係はこの場合 にも成り立つというのである。」

18右下の数字は特定の個物であることを表わす.

19服部の次の説明はディグナーガの意図を捉えきったものではない.服部1975:31:「しかしDign¯aga によれば,この喩例は適切ではない。〈n¯ılatara〉〈n¯ılatama〉は,2個または3個以上の対象のうち で,青色が優勢なものに対して用いられるのであって,n¯ıla〉が〈n¯ılataran¯ılatama〉の表示対象 に機能するとは言えないからである。」

(10)

PST. Ms B 203b1–2 (Pind 2009:179, n. 162所引): n¯ıla´sabdo hi n¯ılagun.am.

dravyam abhidhatte. tac c¯anyatra n¯ılatar¯adau dravye na vartate.

というのも「青」という言葉は青を性質とする実体を表示する.そして,それ は,他,すなわち,より青いもの等という実体には属さないからである.

4.1.2 有るもの≠壺

同様に考えると,有性を持つものである有るもの1は,壺性を持つ壺2に属さない.し たがって,この説では「有る壺」という限定表現を説明できないのである.

「有」 → 有性

有るもの1

∕=

2 「壺」

4.2 普遍説・関係説に従う場合

4.2.1 喩例が適切となる場合:より性に限定された青性

限定表現が成立するのは,「青」が,(青・より青・最も青のいずれにも共通する)共通属 性としての青性(あるいは青性との関係)を意味する場合である.すなわち,次の様な図 式であれば,実在論者の喩例は例として通用する.まず「青」は青性を表示する.そして,

「より青」は,〈より一層であること〉という強度・濃度の度合いを表示する20.すなわち,

優越性(prakr.s.t.atva)を表示する.この場合にのみ,「より青い青」という限定表現の説明

が成り立つ.すなわち,優越性である〈より性〉に限定された青性を表わす限定表現とし て「より青い青」という表現が説明できるのである21

より性 ← 「より青」

「青」 → 青性

4.2.2 壺性に限定された有性

同様に,次の様であれば,「有は壺」(「壺である有」)という限定表現を説明できる.すな わち,「有」が有性を表示し,それを「壺」によって表示された壺性が限定するというモデ ルである.すなわち,壺性に限定された有性を「壺である有」という限定表現が表わすと 考えるのである.

20同様に,「最も青」は〈最もであること〉という強度を表示する.

21ここで問題となっている青という性質は,それ自体で共通する性格を持っていると考えられる.

すなわち,個物としての青1や青2は想定されておらず,最初から,共通するものとしての青という 性質を考えていると思われる.その共通する性格を明示するためにn¯ılatvaという表現を用いている が,青1や青2に共通する普遍としての青性を考えているわけではない.つまり,青性というのは,

ここでは,共通する青という性質のことである.

(11)

壺性 ← 「壺」

「有」 → 有性

4.2.3 普遍説・関係説は排斥済み

しかし,既に先行箇所(5.2cd)で,普遍・関係表示説は排斥済みである.したがって,こ のモデルは採用不可能であるとディグナーガは指摘する.ジネーンドラブッディは次のよ うに述べている.

PST. Ms B 203b2 (Pind 2009:179, n. 162所引): yac ca vartate n¯ılatvam.

tatsam.bandho v¯a, sa ´sabd¯artha eva na bhavati.

また,青性,あるいは,それ(青性)との関係は[より青い等の実体に]属し ているが,それ(青性・青性との関係)はそもそも言葉の意味ではない.

5 答論 B :喩例を仮に認めた場合

5.1 青いもの=より青いもの

次にディグナーガはPS 5.11aにおいて,この喩例を有効なものとして仮に認めたとして

も(upety¯api),実在論の主張が成り立たないことを示そうとする.まず,喩例の図式は,

tadvat説では次の様に説明できる.「青」は青性(青さという性質)を介して青性を持つ青

いものを意味する.ただし,その青性は,〈より性〉という優越性を持つ青性である.した がって,〈青を持つもの〉といっても,〈より性〉に限定された〈青性〉を持つものである.こ れにより,青いもの=より青いもの,という同一性が保証される.〈より性に限定された青 性〉を持つもの(青いもの)は,〈より青いもの〉と同一だからである22

より性 「より性」

「青」 → 青さ

青いもの

∣∣

より青いもの

´SV apoha 132への註釈においてジャヤミシュラはディグナーガの意図を次のように述べ

ている.

22Cf.服部1975:31–32:「この難点を回避するものとして,n¯ıla〉が表示するのは青色の普遍n¯ılatva であり,それは〈n¯ılataran¯ılatama〉の表示対象にも内在する,という見解が予想されるが,この 見解も,Dign¯agaによれば,sa ˙n ghat.ah.〉における限定詞・被限定詞の関係を説明づけるものではな い。」

(12)

´Sarkarik¯a 64.10–11: yuktam. n¯ıle. tatra n¯ılo gun.ah. prakars.¯aprakars.¯adi- bhedabhinnas tarab¯adibhir vi´sis.yate.

青の場合は当てはまる.そこでは,優越性・非優越性などの違いによって区別 された青という性質が,「より」等によって限定されている.

5.2 有るもの=壺

同様に考えると,壺性に限定された有性を持つものとして,〈有るもの〉である〈壺〉と いう同一物があることになる.

壺性 「壺」

「有」 → 有性

有るもの

∣∣

5.3 問題点:有性の上に壺性はない

しかし,この場合,青さの上に〈より性〉という優越性が限定要素としてあるのと同じ ように,有性の上に壺性が限定要素としてあることを認めなければならない.しかし,ニ ヤーヤ・ヴァイシェーシカの実在論において,普遍の上に普遍があることは認められてい ない.ディグナーガは「ジャーティにジャーティは無いから」(j¯ater aj¯atitah.)と簡潔に理 由を指摘する23

壺性 「壺」

?

「有」 → 有性

有るもの

∣∣

壺 ジネーンドラブッディは次のように述べている.

PST. B203b4–5 (Pind 2009:180, n. 169所引): satt¯ay¯am. ghat.atv¯adayo na santi j¯ativi´ses.¯a yath¯a n¯ılagun.asya n¯ılatar¯adayo vi´ses.¯ah., yatas t¯an vi´ses.¯an up¯ad¯aya dravye varteta.

23Cf.服部1975:32:「〈sat〉に表わされるsatt¯avatが所有する普遍はsatt¯aであり,ghat.a〉の表 示対象に内在する普遍はghat.atvaである。そして,普遍が普遍を所有することは認められないから,

satt¯aの中にghat.atvaがあるということはできないと彼は言うのである。」

(13)

有性に壺性等という特殊な普遍は存在しない――青という性質に〈より青〉等 という特殊があるのとは異なる――もし存在するのであれば,その特殊を引き 受けた上で,実体の上に属すことができるであろうが.

Pind 2009:A5による原典再構成24の欠落部を補いながら,また,一部の改良を加えるこ

とで,PSV ad 5.11abを筆者は次のように再構成したい.

[abhyupety¯api n¯ılatar¯adis.u n¯ılatvam.]25 naivam. sajj¯atir ghat.atv¯adij¯atimat¯ı yatas t¯an vi´ses.¯an up¯ad¯aya dravye vartam¯ano [ghat.¯adivi´ses.¯an ¯ak¯a˙nks.y¯at.

tasm¯ad etan na nidar´sanam.]

より青[いもの]等に青性を認めたとしても26,それと同様に,有性が,壺性 等という普遍を持つことはない.もしそうであれば[有性は]それらの特殊群

(壺性等)を引き受けた上で,実体に属すことで,壺等という特殊を期待するこ とができるであろうが.それゆえ,これは喩例とはならない.

6 議論の論理展開

ディグナーガの含意も含めて,議論の論理展開を整理し直すと次の様になる.まず,語 の意味を〈普遍を持つもの〉とする反論者である普遍実在論者(その中でもtadvat論者)

は,ここで,それを持つもの=(或る一つの)壺,と考えている.そして「より青」の喩例 により限定関係が可能であることを示す.「より青」の喩例において,青=より青,である ことから限定関係が可能であるのと同様に,有るもの=壺,となることでsan ghat.ah.(「有 は壺」)という限定表現が可能となる.

これに対してディグナーガは,答論において,まず,喩例を認めない立場を示す.そも そも反論者はtadvat説に立っているはずである.したがって,(青という性質を持つ)青い もの1≠(より青という性質を持つ)より青いもの2,である.したがって,同様に考える と,(有性を持つ)有るもの1≠(壺性を持つ)壺2,である.

いっぽう,もしもtadvat説ではなく普遍説・関係説に反論者が立つならば,(「より青」の 表示する)より性(優越性)に限定された(「青」の表示する)青性が可能となるので,「青 はより青」(「より青い青」)という限定も説明できる.同様に,壺性に限定された有性も可 能であれば「有は壺」(「壺である有」)も可能である.しかし,普遍説・関係説は既に排斥 済みなので,これは採用できない.

最後にディグナーガは,仮に喩例を認めた場合を考える.まず,青さの上に〈より性〉が あれば,青いもの=より青いもの,と言えるので,限定関係が説明可能である.同様に,有 性の上に壺性があれば,有るもの=壺,と言える.しかし,定義上,有性の上に壺性はな いので,これはありえない.

24“[...] naivam. sajj¯atir ghat.atv¯adij¯atimat¯ı yatas t¯an vi´ses.¯an up¯ad¯aya dravye varteta. [...]”

25V (Hattori 1982:114): khas bla ˙ns su zin ya ˙n s ˙non po la sogs pa la s ˙non po’i spyi ; K (Hattori 1982:115): ´sin tu s ˙no ba la sogs pa rnams la s ˙non po’i spyi khas bla ˙ns kya ˙n.

26Pind 2009:85: “Even though it were assumed that the general property blueness (*n¯ılas¯am¯anyam) is [resident] in [substances] that are bluer, and so on, (*n¯ılatar¯adis.u) nev- ertheless (*tath¯api) . . . ”

(14)

1. 反論:それを持つもの=或る一つの壺(PS 5.9c

1.1. 例えば「青はより青」という喩例において,青=より青(PSV ad 5.10d(→´Sar 64.6–9) 1.2. 同様に「有は壺」という限定においても,有るもの=壺(PSV ad 5.10d(→´Sar 64.4–6) 2. 答論A:喩例は認められない(PS 5.11a

2.1. tadvat説に従えば

2.1.1. 青いもの≠より青いもの(PSV ad 5.11a

2.1.2. したがって,有るもの≠壺

2.2. 普遍説・関係説であれば 

2.2.1. より性に限定された青性が可能

2.2.2. したがって,壺性に限定された有性が可能

2.2.3. しかし普遍説・関係説は既に排斥済み(PSV ad 5.11a 3. 答論B:喩例を仮に認めた場合(PS 5.11a

3.1. 青の上により性があれば,青いもの=より青いもの(PSV ad 5.11ab(→´Sar 64.10–11) 3.2. 有性の上に壺性があれば,有るもの=壺(PSV ad 5.11ab

3.3. しかし,定義上,有性の上に壺性はない(PS 5.11b(→´Sar 64.11–13)

ジャヤミシュラはディグナーガの原文を引用して,クマーリラが前提とするディグナー ガの議論を説明してくれているが,ディグナーガの論理展開の全てを網羅しているわけで はない.特に途中の答論Aに関しては省略しているのが明らかである.ジャヤミシュラを 援用する服部1975が,「より青」の喩例とのパラレルな構造について(後述するように)正 確な理解を持ち得なかったのは,ひとつには,このジャヤミシュラによる説明不足も一因 であると筆者は推測する.

7 クマーリラ

7.1 ´SV apoha 131

クマーリラは,ディグナーガが実在論に向けたのと同じ批判方法を用いて,ディグナー ガのアポーハ説を批判し返す.ちょうどディグナーガが「tadvatは具体的には何か」を問 うたのと同じように,クマーリラはディグナーガに対して「apohavatは具体的には何か」

を問い返す(´SV apoha 128以下).そして,壺等を想定する場合をディグナーガと同じよ うに批判する.すなわち,壺等は布等にないから共通性たりえず,したがって「有」の意味 とはなり得ないというディグナーガの指摘をそっくりそのままapohavat説に対して向け返 す27

27前提となっているディグナーガの議論について比較的詳しく説明した服部(30–32頁)である

が,´SV apoha 128–134本文そのものに対する後続箇所(32頁)での解説は意外なほどに短い.服

1975:32:Kum¯arilaによれば,「語は他者の否定に限定された対象を表示する」というアポーハ

論は,apohavatを語の表示対象を(sic)みなすものであるから,tadvat説に対するDign¯agaの批判 のすべては,アポーハ論に対して向け返されなければならない。Dign¯agaの論述の順序にしたがっ て,Kum¯arilaは,(1) k. 128a–c, (2) kk. 128d–130, (3) k. 131, (4) k. 132, (5) kk. 133–134に,

apohavatを語の表示対象とする説に対する反論を展開している。」筆者が取り上げる´SV apoha 132

についての解説は,これが全てである.したがって服部の理解については和訳そのもの,および,ディ グナーガのパラレルな議論についての解説(4)から探るしかない.

(15)

PS 9cd–10a ´SV 131

tadv¯an artho ghat.¯adi´s cen na caiko ’pohav¯an artho na pat.¯adis.u vartate vartate ’rth¯antare kvacit

s¯am¯anyam arthah. sa katham tasm¯ad api na s¯am¯anyam. v¯acyam.

「また[複数の個物群ではなく],アポーハを持つ一つの対象(非有の排除を持つもの,

例えば壺)が,何か別の対象(例えば布)の上に属することはない.そのことからも共通性 が表示対象となることはない」(131ab)とクマーリラは言う28.具体的に補うと次の趣旨 となる.「有」は非有の排除を持つ或る一つのものを表示する.ここで,非有の排除を持つ ものは,具体的には「壺」の表示する或る一つの壺である.しかし,この対象は,「布」が表 示する布という別の対象に属さない.したがって,共通性たりえないので,「有」という言 葉の意味たりえない.それゆえ限定も説明不可能である(131d: na ca vi´ses.an.am).ディ グナーガの議論(§1の図参照)とパラレルなのが確認できる.

「有」 → 非有の排除

非有の排除を持つもの

∣∣

「壺」

? 布

7.2 ´SV apoha 132

さて,本稿で取り上げる ´SV apoha 132が対応するのはPS(V) 5.11abである.ディグ ナーガの詩節は「仮に認めたとしてもそれはそうではない.ジャーティにジャーティは無 いから」(upety¯apy naitaj j¯ater aj¯atitah.)というものである.すなわち,喩例を仮に認め たとしても,反論者の主張は成立しないというのである.ディグナーガによる論理展開は 次の様なものであった.

3.1. 青の上により性があれば,青いもの=より青いもの(PSV ad 5.11ab)

3.2. 有性の上に壺性があれば,有るもの=壺(PSV ad 5.11ab) 3.3. しかし,定義上,有性の上に壺性はない(PS 5.11b)

テクストの対応は次の様なものである.

PSV ad 11ab ´SV 132ab

naivam. sajj¯atir ghat.¯adij¯atimat¯ı n¯atmany avidyam¯anatv¯ad yatas t¯an vi´ses.¯an up¯ad¯aya vi´ses.o ’pohas¯ucakah.

dravye *vartatam¯anah. ...

*vartam¯anah.]em.; varteta Pind

28服部1975:33:(3)1つのapohavatであるもの〔たとえば壺〕は別のもの〔である布等〕には決 して存在しない。したがって,語の表示対象は普遍でないということになる。」クマーリラが付した ekaという語は,先行箇所で否定した複数の個物群に対して,或る一つのものが意図されていること を示している.

(16)

まずディグナーガは「[青がより性を持つのと]同じ様には,有性が壺性等を持つことは ない」と喩例との違いを指摘する.そして,「もしそうであれば(有性が壺性等を持つので あれば),[壺性に限定された有性は]それら特殊群(壺性等)を受け取って(限定されて,

壺性に限定された有性として),実体(有るもの=壺)に属して…」と述べる.

壺性 「壺」

「有」 → 有性

有るもの

∣∣

しかし,詩節(PS 5.11b: j¯ater aj¯atitah.)で指摘した様に,有性の上に壺性は定義上あ りえない.このディグナーガの批判に対して,同じことはアポーハ論にも適用できるとク マーリラはやり返す.もしも非有の排除の上に非壺の排除があれば,限定関係が可能とな る.しかし,「それ自身(非有の排除)の上に[非壺の排除は]ないので」とクマーリラは 指摘する.ジャーティの上にジャーティがないように,排除の上に排除はありえない.

非壺の排除 「壺」

?

「有」 → 非有の排除

有るもの

∣∣

壺 ジャヤミシュラは次の様に説明する.

´Sarkarik¯a 64.15–16: tav¯api hy asadapohe naiv¯aghat.¯apoho ’sti. ata´s c¯atmany avidyam¯anam aghat.¯apoham asadapoho n¯aks.eptum. samartha iti tair n¯aghat.¯apohair vi´ses.yate.

というのも,君にとっても,非有の排除の上に,決して,非壺の排除は存在し ない.またこれゆえ,[非有の排除]それ自身の上にないので,非壺の排除を,

非有の排除は含意し得ない(n¯aks.eptum. samarthah.).したがって,それら非 壺の排除によって,限定されることはない.

ここでは,非壺の排除を非有の排除が含意するという構造が確認できる.ジャヤミシュ ラはクマーリラの表現における「示唆する」(s¯ucayati)を 「含意する」(¯aks.ipati)と置き 換えて説明していることになる.

スチャリタミシュラの説明も同趣旨である.

´SVK ad apoha 132: yathaiva hi sajj¯atir ¯atmany avidyam¯an¯am. ghat.¯adij¯atim.

na s¯ucayat¯ıti na tay¯a vi´ses.yate, tath¯asadapohen¯api n¯atmany avidyam¯anasya

(17)

vi´ses.ar¯upasy¯aghat.¯adyapohasya s¯ucanam. kriyata iti tair aghat.¯adyapohais tasy¯asadapohasya na vi´ses.yatvam. n¯ılasyeva prakr.s.t.atveneti.

というのも,ちょうど,有性が,それ自身の上に属さない壺等性を示唆しない ので,それ(壺等性)によって限定されることがないのと全く同じように,非 有の排除によっても,自身の上にない特殊である(vi´ses.ar¯upasya)非壺等の排 除(aghat.¯adyapohasya)の示唆(s¯ucanam)が為されることはないので,それ ら〈非壺等の排除〉によって,それなる〈非有の排除〉が限定されることはな い.青が優越性によって[限定される]ようには.

ここでも,非有の排除が非壺の排除という特殊を示唆するという同じ構造が確認できる.

すなわち,示唆するのは非有の排除(asadapohah.)だとスチャリタは考えている.そして,

被示唆対象となるものとして非壺の排除(aghat.¯apoha)という特殊(vi´ses.a)を考えてい る29

7.3 テクストの訂正

さて,以上を鑑みると,´SV apoha 132ab: na ... vi´ses.o ’pohas¯ucakah.という読み(A)

は,筆者の使用するマラヤーラム写本(Adyar No. 67593, 20N4, cf.大前1998)に支持さ れる様に,na ... vi´ses.¯apohas¯ucanamと訂正した方(B)がよいと思われる30

´SV apoha 132ab:

A: na ... vi´ses.o ’pohas¯ucakah.

B: na ... vi´ses.¯apohas¯ucanam

なぜならば,Aは,最も自然には次の様に解釈されるからである.

A.特殊は(vi´ses.ah.)アポーハを示唆するもの(apohas¯ucakah.)ではない.

しかし,この解釈は,上で見た註釈の理解と合わない.なぜならば,特殊は示唆するも のではなく,示唆される対象の方だからである.むしろ,求められている内容は,次のも のである.

29パールタサーラティの説明は以下の通りである.NR¯A ad apoha 132: n¯ılasya hy asti prakars.¯adisam.bandhah., j¯ates tu j¯atyantaren.¯asam.bandh¯an na tay¯a vi´ses.an.am. na hi j¯atyantaravi´sis.t.ar¯upatvam. j¯atyantare vartate, dravyasvar¯upam¯atravartitv¯ad iti. tad api tulyam ity ¯aha ... na hy asadapohah. sv¯atmany avidyam¯an¯an aghat.¯adyapoh¯an s¯ucayati. na hy *ek¯apoha- vi´sis.t.ar¯upatvam apoh¯antare vartate, yatas tena vi´ses.yeta prakars.en.eva n¯ıl¯adir iti.

*ek¯apohavi´sis.t.ar¯upatvam apoh¯antareem. ; ek¯apohavi´sis.t.o ’poh¯antareed.

「というのも,青には優越性等との関係があるが,普遍が別の普遍と関係することはないので,そ れ(普遍)によって限定されることはないからである.なぜなら,普遍Xに限定されたものであるこ とは,普遍Yにはないからである.というのも[普遍Xに限定されたものであることは]実体それ自 体のみにあるからである,と[ディグナーガが批判を述べたが]それも等しく[ディグナーガのアポー ハ論に対して当てはまる.……というのも,非有の排除は,自らの上にない〈非壺等の排除〉を示唆 することはないからである.なぜなら,或る排除Xに限定されたものであることが,別の排除Yにあ ることはないからである.もしそうであれば,それ(排除X)によって限定されるであろうが.ちょ うど優越性によって青等が[限定される]ように.]」

30またBの読みは´Sarkarik¯a 校訂本の末尾に付されたNotes(校訂者であるKunhan Rajaによる もの)に記された´Sarkarik¯a 写本中の´SV本文の読みでもある(190頁).したがって服部1975 参照可能だったものである.

(18)

B.[非有の排除は]特殊であるアポーハを示唆する(vi´ses.¯apohas¯ucanam)こ とがない.

まず,スチャリタは,説明の中で,vi´ses.a = apohaと解釈している.そして,そのことを 明示的に示している.つまり,vi´ses.¯apohaをvi´ses.ar¯up¯apohaと説明している.そして,そ れの「示唆がなされる」(s¯ucanam. kriyate)という構造を考えている.すなわち「特殊であ るアポーハの示唆」という解釈を想定している.この解釈に沿うのは,vi´ses.¯apohas¯ucanam という読みである.すなわち,スチャリタは,この合成語を,vi´ses.asya apohasya s¯ucanam と解釈していると考えられるのである.このスチャリタの敷衍説明は,マラヤーラム写本 の読みを強力に支持する.

vi´ses.a-apoha-s¯ucanam

(=vi´ses.asya apohasya s¯ucanam)

=vi´ses.ar¯upasya aghat.¯adyapohasya s¯ucanam (Sucarita)

いっぽう,もしも現行の読み(A)を生かすとするならば,次の様な凝ったバフヴリーヒ 解釈(apoha eva s¯ucako yasya sah.)をするしかない.

A’.特殊(非壺の排除)は(vi´ses.ah.)アポーハ(非有の排除)を〈示唆者〉と して有するもの(apohas¯ucakah.)ではない.

このようにすれば,「特殊(非壺の排除)は,アポーハ(非有の排除)を示唆者として持つ ことはない」と読めることになり,註釈者が前提としていた構造は守られる.しかし,ジャ ヤミシュラもスチャリタも,バフヴリーヒを前提としている風には見えない.いずれも「特 殊であるアポーハ(非壺の排除)を示唆する」という構造を考えているからである.既に 述べた様に,スチャリタの解釈(特殊であるアポーハの示唆)を生かすならば,Bの読み を採用すべきである.

Bを採用することによって,132aの「それ自身の上に」という語もよりよく説明できる ことになる.132abでは隠れた主語として,s¯am¯any¯apohasya或いはasadapohasyaが一貫 して考えられる.後半の132cdでも隠れた主語はs¯am¯any¯apohasya或いはasadapohasyaで ある.すると,132aにある「それ自身の上に」も素直に「共通性であるアポーハの上に」

或いは「非有の排除の上に」と解釈できる.s¯am¯any¯apohaは,対になるvi´ses.¯apohaという 表現から推測可能である.逆に,Aの読みのように「特殊」が主語では,非壺の排除が主 語として表面化することになるので,「それ自身の上に」が不自然となってしまうのである.

以上から,次の様にテクストを訂正する31

31その他,B (vi´ses.¯apohas¯ucanam) A (vi´ses.o ’pohas¯ucakah.)という変化が容易に想像でき ること(そして逆方向は考えにくいこと)も根拠となる.オリジナルのBは,意味上の主語であ s¯am¯any¯apohasya(或いはasadapohasya)が隠れているので,一見しただけでは文意が取りにく い.そこで読み手は主語・述語の構造をvi´ses.¯apohas¯ucanamの中に読み込む.その結果,vi´ses.ah. = apohas¯ucanamという構造を読み手は想像する.さらに,vi´ses.ah.の男性形に合わせてapohas¯ucakah.

という修正を行う.まとめると次のような変化が想定できる.

B: na ... vi´ses.¯apohas¯ucanam B’: na ... vi´ses.o ’pohas¯ucanam A: na ... vi´ses.o ’pohas¯ucakah.

(19)

n¯atmany avidyam¯anatv¯advi´ses.¯apohas¯ucanam/ tasm¯an na tair vi´ses.yatvam. prakr.s.t.atvena n¯ılavat//

b. vi´ses.¯apohas¯ucanam] Adyar ms. ; vi´ses.o ’pohas¯ucakah. Hattori

そのほか,初版本であるPandit editionとI1写本も,s¯ucanamと読んでいることが参考 になる32

7.4 服部訳の検討

Aの読みを前提とする服部による132abの和訳は「〔「asatの否定」という1つのアポー ハに限定された〕特殊〔であるapohavat〕は,〔他のアポーハが〕自らの中に存在しないの であるから,〔他の「非壺の否定」等の〕アポーハを示すものではない。」というものであ る33.これは次の様な構造を前提とした解釈と思われる.まず,「有」は,〈asatの否定〉を 持つ特殊であるapohavatを意味する.すなわち,非有の否定を持つものを意味する.しか し,他のアポーハである非壺の否定等はその特殊の上にはない.したがって,特殊が非壺 の否定等を示すことはない,と.

asatの否定 他のアポーハ(非壺の否定等)

特殊=apohavat

しかし,既に述べた様に,クマーリラの考える特殊は非壺の排除であって,非有の排除 でもなければ,ましてや,服部の言うapohavat,すなわち,〈非有の排除を持つもの〉では ありえない34.このことは註釈者が明確にしているとおりである.また,何が何を示唆する ことがないのかと言えば,これも註釈者が明らかにしている様に,非有の排除が非壺(等)

の排除を示唆・含意することがないのである.服部のように,〈非有の排除を持つもの〉が 非壺の否定等を示唆することがないわけではない.服部の解釈は,註釈から大きくずれる ものである.また,前提となっているディグナーガの議論からも外れるものである.

132cdに目を移す.服部は「したがって,〔それは〕n¯ıla(青)が優勢によって〔限定され

て,n¯ılatara, n¯ılatamaとなる例〕のようには,それら〔他のアポーハ〕によって限定され ない。」と訳している.彼の言う「それは」が指すのは,直前の特殊,すなわち,〈asatの否 定を持つもの〉である.つまり,服部によれば,非壺の排除等が〈非有の排除を持つもの〉

を限定することはない,という趣旨となる.しかし,既に見た様に,何が何を限定するこ とがないのかと言えば,非壺の排除が非有の排除を限定することがないのである.だから

32刊本・写本の情報についてはKataoka 2011aを参照.

33Chowkhamba第一版(C1, 1898年)はAの読みを有するが,そのテクストを底本としている

と考えられるG. Jh¯a の理解はBに即したものである.恐らくJh¯aは,P¯arthas¯arathi註(na hy asadapohah. sv¯atmany avidyam¯an¯an aghat.¯adyapoh¯an s¯ucayati)に即して訳出していると思われる.

結果的に,その理解は,Bの読みと合致するものとなっている.Jh¯a 1983 (1900–1908):320: “132.

TheApoha of ‘Asan’ does not indicate the particularApoha (of the non-jar, & c.), while these latter do not inhere in the former; consequently, the Apoha of ‘Asan’ cannot be qualified by these (Apohas), in the same manner as “Blue” is (qualified) by the successive higher degrees of its shades.”

34服部がvi´ses.aapohavat (satt¯avatとパラレルな非有の排除を持つもの)と考えたのは,直前の 131eko ’pohav¯an arthah.が話題になっていたからだと筆者は推測する.

(20)

こそ,ディグナーガの言う「ジャーティの上にジャーティはないから」すなわち「有性の上 に壺性がないから」という批判が,ディグナーガにも同じように向けられうるのである.

非壺の排除(特殊) 非壺の否定等

非有の排除 asatの否定を持つもの(特殊)

片岡 服部

8 結論

以上を踏まえて新しい読みに基づく次の和訳を結論として提案する.san ghat.ah. という 具体例を念頭に置きながらもクマーリラは一般的な形で述べているので,それに合わせて 一般式として訳出した上で,具体例に即した訳文も提示する.

n¯atmany avidyam¯anatv¯ad vi´ses.¯apohas¯ucanam/

tasm¯an na tair vi´ses.yatvam. prakr.s.t.atvena n¯ılavat//

一般:それ自身の上にないので35,特殊である排除を示唆しない.したがって,

それら(特殊である排除群)によって限定されることはない.優越性によって 青が[限定される]ようには.

具体:[非有の排除]それ自身の上に[非壺等の排除は]ないので,[非有の排除 は]特殊である排除(非壺等の排除)を示唆しない.したがって,[共通性であ る排除,すなわち,非有の排除は]それら(非壺等の排除36)によって限定さ れることはない.優越性によって青が[限定される]ようには.

PS 5.9c–11bにおけるディグナーガによる普遍実在論批判は多層的である.異なる立場

(tadvat説,普遍・関係説)を普遍実在論に想定した上で,自らの立場も複層(喩例を認め

ない立場・認める立場)となっている.ディグナーガの原文は簡潔であり,その意図を捉え ることは必ずしも容易ではない.文脈と論理展開とを整理しながら,それぞれの論点・論理 の流れを明確化する必要がある.ジャヤミシュラやスチャリタが解説しない答論Aについ ては特に注意が必要である.これによって初めて,クマーリラのパラレルな批判の奥行き が理解可能となる.具体的には「より青」の喩例について,いかなる構造がパラレルなも のとして問題となっているのかを明確化する必要がある.優越性と青さ,壺性と有性,非 壺の排除と非有の排除が,パラレルな要素として対応する.服部が捉え損なったのは,有 性の上に壺性がないように,非有の排除の上に非壺の排除がないという構造である.

優越性 壺性 非壺の排除

青さ 有性 非有の排除 喩例 普遍説 アポーハ説

35この一般式における隠れた主語は,abcとを通じてs¯am¯any¯apohasyaである.これはvi´ses.¯apoha という単語から想起可能である.したがって,¯atmani = s¯am¯any¯apoheである.

36複数形のtaih.は,PSV ad 5.11abt¯an vi´ses.¯anの複数形をそのまま受けたものである.ディ グナーガは壺等性(ghat.atv¯adij¯ati)に言及しているので,それとパラレルな非壺等の排除をクマー リラは考えていることになる.

参照

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