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説 二

 

 

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重度障害新生児の生命終結

カダイク事件高裁判決•

その他

山 下 邦 也

I • 最近,

は し が き

オランダにおいて二件の重度障害新生児に対する積極的な生命終 結事件に司法判断が下され,話題を呼んだ。 プリンス事件についてはアル クマー地裁 (1995年 4月 26日), アムステルダム高裁 (1995年 11月7日) がそれぞれ無罪判決を出し, カダイク事件についてはフロニンゲン地裁

(1995年 11月 13日)が無罪判決を出した。

(1XZX3) 

に紹介を試みた。

これらについては私自身すで オランダでは安楽死は原則的に嘱託殺人罪として違法で あるが,患者の真剣な要請に基づいた安楽死が判例と医療実務によって一 緒に固められた厳格な注意要件を遵守して実施された場合には緊急避難の 抗弁に訴えることができるとされており,世界的にもその動向が注目され てきたところである。いうまでもなく新生児は要請をなし得ない存在であ るので, オランダの用語法において安楽死事件ではあり得ない。

イギリスの刑法学者ジョン・キオンはその編著(JohnKeown, Euthana ‑ 四八

sia Examined.  Cambridge University Press,  1995)の一篇で, プリンス 事件についてのアルクマー地裁の無罪判決の記事(The

April 1995)に拠りながら,オランダ社会は任意の安楽死の合法化から非任 Independent, 27 

16-3•4-810 (香法'97)

(2)

意の安楽死の合法化へと「生きる価値のない生命の毀滅」 (acceptance of  the principle that certain lives are not'worth'living and that it  is  right  to terminate them. p. 287)へ向かって滑り易い坂道を急滑降していると断 罪している。他方,全体としてオランダ・モデルなどを市民の視点に立脚 するものであるとしてむしろ肯定的に評価する見方もある(例えば,松田 道雄「お医者はわかってくれない」図書 1996年5月号,岩波書店, 10‑16 ページ)。いずれにせよ真実がどのへんにあるのかを知るためにはもう少し 事態を詳細に検討する必要があると思われる。

1996年 4月4日にカダイク事件に対するレーワルデン高裁の無罪判決 が出された。後述するように,この判決を受けて,重度障害新生児の生命 終結措置に対するオランダの刑事政策方針は固まってきたようである。本 稿では,これらの動向に触れながら,高裁判決とこれに関連する議論を紹 介してみたいと思う。また高裁判決が依拠した基本文献のひとつであるオ ランダ医師会の討議ノート『重度欠陥新生児』も,関心のある人には参考 になると思われるので,本稿の末尾に資料として掲載しておく。

(1)  「軍度障害新生児に対する治療の中止と生命終結ー一〜オランダのプリンス事件判 決をめぐって一ー」中山先生古稀祝賀第一巻所収

(2)  「重度障害新生児の生命終結に対する第二の無罪判決ーーーオランダのカダイク事 件地裁判決をめぐって 」香川法学 161

(3)  「オランダにおける新生児医療の限界論と法的論議」香川法学 15巻 4号

四八

11  •

最近の動向

プリンス事件とカダイク事件についてすでに紹介したものの中でも,そ の都度,若干の関連情報を織り込んだが, もとより断片的なものにすぎな い。それを補う意味で,ここでは,まず,これらの判決についてのシュプ ルーベンベルク教授とレフェマーテ教授によるコメントを摘記することか

ら始めよう。

16--3•4-809 (香法'97) 2 ‑

(3)

最近,医薬の投与によって重度障害新生児の生命を終結させた医師た ちに対する二つの判決が出された。プリンス事件(アムステルダム高裁)

とカダイク事件(フロニンゲン地裁)においては,耐え難く,絶望的な苦 痛に苛まれ,余命の相対的に制限されていた新生児が問題だった。

プリンス事件の最初の判決(アルクマー地裁, 1995426日)では医 師は無罪判決を受けた。しかし,地裁判決は意思無能力者に対する生命終 結と安楽死(要請に基づいた生命終結)との間で明晰な区別をしなかった ので,批判された。地裁はこのケースで患者自身の要請は両親の要請によ って簡単にとって代わられるとしたように思われる。その控訴審において,

アムステルダム高裁は首尾の整った判決をした。カダイク事件においても フロニンゲン地裁は明瞭な判決をした。両判決においては,次の三つの中 心的な問題が論じられた。

その病状は治療によって改善することができたか?

苦痛緩和措置は生命終結に対する代案であり得たか?

それが適切な代案でなければ,積極的な生命終結は正当化され得た か?

第一の問題については,両事件の裁判官は病状からみて治療の見通しは なかったと結論した。助言を求められた専門家たちは両ケースで治療は無 意味であるとした。

第二の問題については,プリンス事件で証言した専門家たちは苦痛緩和 措置に消極的だった。赤ん坊は医薬の投与によって「物体のように天と地 の間を漂う状態」におかれるだけでなく,治療なしの長期の緩和措置は複 雑な事態を招来しただろうと述べた。カダイク事件においても,地裁は,

専門家の助言を受けて,苦痛緩和措置は全く無意味なオプションであると いう見解を採用した。

第三の問題については,苦痛緩和措置によって十分に処理され得ない重 大な苦痛が残存する以上,積極的な生命終結は正当化されると判断された。

四八〇

3~- 16--3•4~808 (香法'97)

(4)

裁判官たちの判断は,基本的にオランダ小児科学会の報告書『なすべき かなさざるべきか』 (1992年)とオランダ医師会の討議ノート『重度欠陥新 生児』 (1990年/1993年)の見解に基づいたものであった。

ところで,両判決は医師たちの間に異議と情緒的な反発を引起こした。

プリンス医師とカダイク医師の行為は謀殺罪に該当するものとして審理さ れたからである。謀殺罪は意図的な生命終結に対する法的ラベルであるが,

このようなラベリングは両ケースのように困難で複雑な状況に直面させら れた医師たちの認知世界からかけ離れたものである。この反応は,高検検 事長会議が当初,訴追を見送ろうとした事情を考えるならば,よく理解で きるところである。しかし,ソルクドラファー法務大臣はプリンス事件を 最高裁に上告するよう指示した。それは政治的理由による訴追である。こ の取り扱いは同様な事件が生起しても申告をしないでおこうとする気運を 医師たちの間に醸成した。不申告によって医療に関わる重要な問題が再び

(1) 

オープンに論議されなくなるとしたら,それは悲しむべきことである。

上述のように法務大臣はプリンス事件が最高裁の特別手続きに服するこ とを強く希望した。これは両当事者からの上告はなくとも,刑事司法執行 の斉一性を確保するため最高裁の法律顧問が職権で提訴できるものとされ ている。しかし,その後の経過において,最高裁の法律顧問はプリンス事 件についての法的判断は高裁判決で尽きているとし,特別手続きをとらな かった。プリンス医師の側は不満はあるものの,上告による財政的,その

(2) 

他もろもろの負担と危険からこの手続きをとることを避けた。

四七 九

1996年4月4日,カダイク事件に対するレーワルデン高裁判決が出され た。高裁は地裁判決を破棄・自判し,再びカダイクに無罪判決を言い渡し た。当日の新聞報道は,判決とその周辺の状況をおよそ次のように伝えて いる。

—ーレーワルデン高裁は,開業医カダイクを法的訴追から解放した。高裁 16-3•4-807 (香法'97) ‑ 4 

(5)

は医師の行為は謀殺罪に該当するが,可罰的ではないとした。高裁はカダ イクは医療的または倫理的にそれ以上の医療措置ができなかったと判断し た。カダイク事件は法務大臣によって意思無能力者に対する生命終結行為 を法的ルールに乗せるテスト・ケースとして訴追を指示されたものであっ た。高裁はこれに対して緊急避難の成立を認めた。カダイクはこの事件を 最高裁へ上告するべきかどうかを検討している。彼は上告による財政的負 担も懸念している。このことについてカダイクは法務大臣と協議し,検察 庁の決定を待機することになるだろう。彼は高裁が寛大な無罪を宣告した ことに満足している。しかし,「生命終結行為をめぐる不安定性はなお続く」

(3) 

と語っている。

その翌日, 4月 5日の新聞は,「重度障害新生児の生命を医学的及び倫理 的に注意深い方法で終結した医師はもはや訴追されない」というレーワル デンの検事長スティーンハウスの談話を報道した。次のような要旨である。

レーワルデン高裁は,昨日,開業医カダイクを法的訴追から解放した。

昨年 11月,アムステルダム高裁は,プリンス事件で同様の判決を言い渡し た。「我々は医師に権限を委譲してはいない。しかし,カダイク事件やプリ ンス事件の枠組みで行為した医師をもはや訴追すべきではない」とスティ ーンハウスは語った。彼によれば,これはもともと同僚の検事長たち全て の見解であった。しかし,法務大臣の指示によって訴追が開始されたもの である。司法当局によれば,昨年 10月以来, 5人の医師が重度障害新生児 の生命を注意深い仕方で終結したケースがあるという。疑わしい 1件を除 いて,これらのケースは,大臣の同意を得て検察官によって不起訴処分に 付された。

検察庁はカダイク事件を最高裁に上告しない意向である。「我々の望んで いたことが達成されたので,そう決定した」。彼は二つの判決によって法的 土台が固められたので,最高裁による処理が必然的であるとは思わないと 述べている。法務大臣は最高裁に対して「法の利益における」上告を求め

四七八

·~5 16--3•4-806 (香法'97)

(6)

ることができる。彼女はプリンス事件ではそうしたが,拒否された。カダ イクは専門職グループの利益を考えて上告を考慮中であるが,これについ

(4) 

て大臣と協議することになるだろう。

その後,最高裁への上告はなされないことになった。 6月4日の記事はい う。

最高裁は軍度障害新生児に対する医師による死の容認について,当面 どのような判断もしないようである。カダイクは,昨日,法務大臣の手紙 を受け取り,上告の要請を取り消した。大臣は最高裁で一緒に争うことを 拒否した。カダイクによれば,訴訟コストを支払ってくれる匿名のスポン サーが現れたということであるが,上告の危険は大きい。最高裁が彼に有 罪を宣告する可能性もあるし,事件が他の高裁に差し向けられ,再び長い 苦労を経験しなければならない恐れもある。カダイクは,全医師の利益の ためにこれを敢行する意思はあったが,大臣の回答を得て,上告しない決

(5) 

意をした。

四七 し

みたように,オランダではカダイク事件のレーワルデン高裁判決を契機 に治療の中止の後,疼痛コントロールが無意味と考えられる重度障害新生 児の苦痛を除去するための生命終結行為が注意深い医療行為の外形で行わ れる限り,それは謀殺罪には該当するが緊急避難として正当化されるとい う司法判断がいちおう確立されたことになる。そして,検察庁の方針とし て同様なケースでは不起訴処分に付されることになった。

レーワルデン高裁判決はこのように重要な意義をもっている。以下,判 決をみていこう。

(1)  C. Spreeuwenberg J. Legemaate, Levensbeeindiging ernstig gehandicapte  pasgeborene.  Medisch Contact,  Jaargang 51/9 februari 1996,  p.  195. 

(2)  C. Spreeuwenberg, Levensbeeindiging  uit  de  strafwet?  Medisch  Contact, 

16-3•4··805 (香法'97) ‑ 6 ‑

(7)

Jaargang 51/1 maart 1996,  p. 281.  (3)  NRC Handelsblad, 4 april 1996.  (4)  NRC Handelsblad, 5 april 1996.  (5)  De Gelderlander, 4 juni  1996. 

1 1 1   • レーワルデン高裁判決 ( 1 9 9 6

4 月 4 日 )

カダイク (49歳)は,フロニンゲン北東の人口 1,200人からなるホルビ ールデの田園地帯の開業医である。彼の患者たちは広い近隣地域からやっ てくる。本件の女児の両親もそうした周辺の町の住人であり,カダイクを ホームドクターとして登録している。カダイクは事件を隠蔽することなく,

事前に検察官とも連絡をとり,また自ら申告したが,予想と期待に反して 訴追され,事件が公になった。そのことで,彼がいちばん恐れたのは自分 の患者たち,とくに老人たちの反応だった。しかし,ホルビールデの住民 たちも,同僚医師たちも全て彼を全面的に支持した (NRC Handelsblad,  10 april 1996.)

以下の記述は判決文によるが,例えば, 1.から 5.など極端に圧縮した部 分もある。

1. から 5.の概要

フロニンゲン地裁は, 19951113日,被告人(以下では単に被告と 表記する)を謀殺の訴追から解放した。これに対して,検察官と被告はそ れぞれ 19951115日と 19951120日に書面をもって期限内に控 訴した。控訴審では,高検検事長の陳述,医療専門家の証言,さらに被告 の供述,及び弁護人の抗弁が聞かれた。高裁は地裁判決を破棄し,改めて 自判することとなった。

四七

6.  検察庁の公訴権

6.1.  弁護人は「生命終結の申告手続き」は nemo‑tenetur原則,とりわけ

7~- 16  3•4~804 (香法'97)

(8)

四七 五

ヨーロッパ人権条約第6条第 1項にいう刑事上の罪に問われた何人も黙秘 することができ,その有罪判決に協力するには及ばないという「公平な裁 判」を受ける権利に抵触するので,検察庁には公訴権がないことを宣言す べきであると主張した。

6.2.  高裁はこれについて次のように考える。

患者の死が自然的原因によるのものであると確信できない担当医は遺体 処理法第 7条に基づいて死亡証明書を発行せず,この事実を自治体の検死 医に申告しなければならない。状況次第では,とくに本件のような場合に

は,医師による生命に対する犯罪が問題である。医師の職責から派生する このような関係は,それ自体としては nemo‑tenetur原則に抵触するもの ではない。なぜなら,医師は起訴された場合には,なお自由にその地位を 決定できる,つまり,有罪答弁をすることも,しないことも自由に決定で きるからである。高裁の判断では,弁護人の意図とは異なり,本件の医師 は自ら生命終結行為の申告手続きを行ったものであり,真実に反する死亡 証明書を書いて(文書偽造罪になる)その責任を免れようとしたものでは

ない。

6.3.  被告は第一審から控訴審に至るまで,その行為に対する責任が明瞭 にされることを望んでいだ。被告が自由に選択した審理態度に照らしても,

本件訴追が,弁護人がいうように,差別的な取り扱いであるとか,いちじ るしく人権に抵触しているとか,いうことはできない。

6.4.  弁護人は,被告は 1994年 4月25日の検察官ケーネ氏との電話での やりとりを通して訴追されないだろうと信じることができたと主張する。

6.5.  これについては,被告自身の宣言,第 1回と第2回の公判,さらに ケーネ氏の宣言に基づいて判断されることである。これらによれば,彼が 訴追されないだろうと期待したとしても,そのことのゆえに,検察庁に訴 追の権限がないということにはならない。

6.6.  弁護人は,検察庁は被告の行為自体の非難可能性を審理するためで はなく,菫度障害新生児に対する生命終結行為についての法の発展のため

16-3•4-803 (香法'97) 8 ‑

(9)

の手段として本件を起訴していると論難している。しかし,この分野での 法の発展は,弁護人も承知しているように,すでに同様のケースで開始さ れているのであって,それは個々の医師にそれほど介入的でない仕方で行 われている。

6.7.  高裁はこの抗弁を却下する。

本件訴追は,レーワルデンの高検検事長に対する法務大臣の 199412 月2日付け書簡による指示に基づくものである。なるほど検事長会議は,

裁判において有罪判決を得られることはないだろうとの判断に基づいて本 件を訴追しない立場を採用した。大臣はこの立場に理解を示したが,事柄 の他の側面を考慮し,異なる判断に達した。大臣の書簡は次のように述べ ている。「私は医師による重度欠陥新生児の生命の積極的な終結が不処罰に とどまるかどうかは裁判官に提起されるべき問題であると考えます。なぜ なら,本件では意思無能力者に対する安楽死の適用が問題であるからで す」。その立場は,安楽死,自殺援助及び要請のない生命の短縮に関する医 療的干渉との関連で立法者が選択した出発点に一致するものである。これ らの行為の可罰性は完全に維持されているが,医師が注意深い医療行為の 枠組みでこれらの禁止規範に違反した場合には,状況次第では正当化され るというにすぎない。また大臣の立場は,(要請に基づかない)生命の短縮 に至る積極的な医療干渉の全ケースは原則的に裁判官に提示されるべきで あるという当時の内閣と下院が合意した出発点 それは遺体処理法の改 正法案の上院における回答覚え書きに反映されている立場 と一致す る。かくて,高裁は,訴追権限の濫用があったとか,訴追の決定には諸利 益に関する不適切な考慮が先行したとかいうことはできないと考える。大 臣の上述の書簡及び 1995524日付けの女児の両親に対する書簡に照 らして,また論告において示された検事長会議の立場に照らして,一定の 状況における医師の行為を訴追することに大いなるためらいがあったと考

えることはできない。

6.8.  高裁は,抗弁を個別的にまたは全体的に考えて,検察庁の公訴権が

四七四

~ 9 16-3•4-802 (香法'97)

(10)

認められると判断する。

7.  証 拠

高裁は次の証拠手段を使用する。

7 .1.  控訴審の公判における被告の以下の供述。

私はデルフゼイル町において 1994年 4月 26日当日, 1994年 4月 1日に 生まれた女児に大量の Stesolidをゾンデ経由で投与し,さらに約 30分 後 にAlloferinを筋肉注射しました。私はこの医薬の混合が致死作用をもつ ことを知っていました。私は,このことについて,あらかじめ女児の両親 と何度も話しました。彼らはこのことの実施を私に何度も明示的かつ真剣 に要請しました。女児は 22時ごろに死亡しました。

7.2.  「不自然死に関する報告」文書はフロニンゲン地域の検死医,デッカ ーによって 1994年4月 27日付けで作成された。それは次の通りである。

署名者,

J .

デッカー,フロニンゲンの検死医は,デルフゼイルにおいて 1994年4月 1日に生まれた Xの死は 1994年4月26日当日,自然的原因に よって到来したと確信するものではないことを証言します。署名者は死体 を自ら検分したことを証言します。

四七

8.  起 訴 理 由

これらの証拠は単に事実証明の一部にすぎないが,これらの内容は原因 たる事実と状況を示している。これらに基づいて高裁は被告は第一の起訴 理由及び第二の起訴理由で述べられた事実を行ったものと認定する。これ

らの起訴理由は次の通りである。

第一理由  

カダイクは, 1994年 4月1日に生まれた女児に両親の明示的で真剣な要 請に基づいて大量の Stesolidを投与した後, Alloferinとの混合によって,

それが致命的な作用を及ぽすことを知りながら,これを筋肉注射すること によって,デルフゼイル町において 1994年 4月26日当日.故意に子ども

16--3•4--801 (香法'97) ‑ 10  ‑

(11)

の生命を奪った。

第二理由:

カダイクは, 199441日に生まれた女児に冷静かつ平穏な熟慮の 後,大量の Stesolidを投与した後, Alloferinとの混合によって,それが致 命的な作用を及ぼすことを知りながら,これを筋肉注射することによって,

デルフゼイル町において 1994426日当日,故意に子どもの生命を奪 った。

9.  抗 弁

9.1.  被告側は公判において無罪を主張した。その理由は,耐え難く,絶 望的に苦しんでいる患者に対して注意深い医療行為の枠組みで医師によっ

てなされた生命短縮行為は起訴理由でいう「生命剥奪」の概念には当ては まらないというものである。弁護人はこのようなケースでは通常の用語法 からも,医療倫理的な観点からも,生命剥奪ではないというのが今日の社 会的な見方であると主張している。しかし,刑法第二編第十九章に関する 法史も,今日の社会的な見方も,持続的で耐え難く苦しんでいる人の生命

を注意深い医療行為の枠組みで終結した医師が他人の生命を奪った者とし ては扱われないという主張を正当化するものではない。第十九章は「生命 に対する犯罪」を扱っている。第 287条,第 289条,第 290条,第 291条 及び第 293条は常に「生命の剥奪」という文言を使用している。上記の法 史によれば,立法者は「生命剥奪」に随伴する特別な状況を識別しており,

より重いまたはより軽い処罰事由のあることを認識していたことは明らか である。第 293条は,その人の要請に基づいて,つまり,その人の承諾を 得て,その生命を剥奪する者を可罰的であると規定している。立法者の観 点からは承諾は生命剥奪の可罰性を取り除くものではない。しかし,立法 者はこの事実に次のような性格を与えた。すなわち,法は「人の生命に対 する攻撃として行われた行為でなくとも,一般的に当然に払われるべき人 間の生命に対する敬意を損なう行為を,行為者の動機がどうであれ,処罰

四七

 11  16--3•4-800 (香法'97)

(12)

する」と。

第293条の文言と法史によれば,「生命を剥奪する」という術語は,(要 請に基づいて)他人の生命を「取り去る」ことを意味する。高裁の判断で

は,「生命の剃奪」という術語を他のように解釈する理由はない。

弁護人は, 9.1. で言及されたような行為は今日の社会的な見方からすれ ば生命の剥奪とは解釈されないと述べている。しかし,それは,現在,医 療界において,またより広い社会において,この行為の許容性について大 いに論議がなされているという事実を無視するものである。それは,例え ば,遺体処理法改正に関する議会文書(議論)が証明しているところであ る。

10.  評 価

10.1.  高裁は,第一の起訴事実は可罰的事実とはならないと考える。

10.2.  高裁は,第二の起訴事実は犯罪,謀殺罪に該当すると考える。

四七

11 . 医療上の特例の抗弁

11.1.  弁護人は,被告には医療上の特例が適用されるべきであるから法的 訴追から解放されるべきであると主張した。その趣旨は,医師としての被 告はその職務の執行において刑法第二編第十九章には書かれていない医療 規則に従って行為したということにある。

11.2.  医師が患者の生命を奪う行為には自明のことながら刑罰法規が適 用される。法史は,その技能の規則に従って行為した医師が,刑罰法規の 作用のもとには来ないと考えられるような,どのような接点も提供してい

ない。

11.3.  9.2. で述べたように,医師による生命終結行為の許容性に関する社 会的な議論においても,故意の積極的な生命剥奪がレーゲ・アルティスに 行われた場合には,刑罰法規の作用が及ばないと考えられているというど のような手がかりもない。

16--3•4 ‑799 (香法'97) ‑ 12  ‑

(13)

11.4.  立法者は,ここ 10年(広義の)安楽死問題と医師の地位問題に広 範かつ詳細に取り組んでいる。そこでは,医師による生命終結は要請があ ろうとなかろうと刑罰法規の射程内にあるという立場が明示されている。

この事情も裁判官が医師の致死行為に医療上の特例を適用することを妨げ させている。医師の行為の正当化を判断するには医療専門職的基準が非常 に軍要である。

11.5.  高裁はこの抗弁を却下する。

12.  事実の可罰性

12.1.  高裁は公判における文書資料と口頭の議論に基づいて次のように 事実を認定した。 1994年 4月1日にデルフゼイル町のデルフジヒト病院で ひとりの女児が生まれた。彼女は,裂けた口蓋,裂けた上唇,鼻の異常,

突き出た額,脳天の皮膚の欠損,両眼の異常な位置,低い耳の位置,短い 首,指の異常な位置など多様で重大な生まれつきの異常をもっていること が直ちに現認された。染色体異常の存在が推認された。異常の結果として 呼吸の中休みが起こった。顔つきが蒼白になった。時々,人工呼吸が施さ れた。小児科医のダウフルは人工呼吸が施されなければ子どもはすでに死 んでいただろうと述べた。子どもは正しい診断のために,誕生の翌日,直 ちにフロニンゲンの大学病院に送られ,新生児病棟に受け入れられた。そ こで 13トリソミーが存在する大きな蓋然性が調壺された。そして,この染 色体異常をもつ子どもの予後は非常に悪いものであることが両親に話され た。両親と担当医との間で,非常に暗い予測から,将来的には人工呼吸と 蘇生術を施さないという合意がなされた。また,フロニンゲン大学病院の 調査では女児の腎機能の悪化が確認されていた。両親は子どもを自宅の近 辺,または自宅に連れ帰ることを求めたので, 1994年4月3日に再びデル フゼイル町のデルフジヒト病院に連れ戻された。この後,小児科医のドウ フルは女児が時々顔色を変え,段々それが顕著になってきたことを現認し た。彼は子どもが死ぬことは明らかだが,なお 1週間から 2ヶ月ほどは生

四七〇

‑ 13 -~ 16-3•4-798 (香法'97)

(14)

四六九

きるだろうと考えた。このことは両親にも明瞭に知らされた。彼らは女児 が長くは生きないだろうことを理解して,彼女を自宅へ連れ帰り,最期の 日々を彼らの身辺で過ごさせたいと希望した。 199447日に小児科医 のブルスマは,染色体培養の結果, 13トリソミーの存在が確認された事実 を両親に話し,改めて女児の生存見込みについてどのような期待ももてな いことを明らかにした。女児は再び産科病棟に連れ戻された。両親は赤ん 坊の授乳と世話の仕方を体験学習するためになお 1週間病院に滞在した。

女児はゾンデ経由で授乳されなければならなかった。 1994412日に 彼女は安定した状態で病院から退院した。両親は自ら自宅で子どもの世話

をした。医療的ケアは家族のホームドクターである被告によってなされた。

なお,彼はすでに女児の誕生当日に病院で同席しており,その数日後も再 び病院へ出向いている。両親は被告に対してデルフジヒト病院の小児科医 と常にコンタクトしてくれるよう求めた。 1994419日ごろ容体が複 雑化した。皮膜・頭蓋欠損のひとつが厚くなり,組織が出っ張り,脳髄が あらわれた。この出っ張りは大きくなり,女児の状態を悪化させた。被告 は小児科医と相談して傷を脂性のガーゼで覆い,包帯を巻いた。彼と外科 医との間でコンタクトをとるようにという小児科医の指示は被告本人によ って両親に告げられた。両親は,医療的侵襲(とくに皮膜・頭蓋欠損の手 術による縫合)は子どもにとって苦痛と危険が大きすぎ,またいずれにせ よ生存見込みも少ないという理由でこれを拒絶した。赤ん坊は抱き上げた り,おむつを替えたり,傷のケアをしたりする度に甚大な苦痛を示した。

被告はこの苦痛を緩和するために鎖静剤 Paracetamolを与えた。赤ん坊は 軽い痙攣を起こし,授乳の間に何度も青くなった。それは呼吸状態が悪化 したものと解釈された。数分後に呼吸は回復した。痙攣に対しては Stesolid

が投与された。そうこうするうちに,両親は子どもが体験しなければなら ない苦痛の限界が現れたようだと話すようになった。彼らは,女児をさら に苦痛が襲い,脳膜の出っ張りが増大し,もう医薬に反応できなくなった ときには苦痛から解放して欲しいと被告に頼んだ。被告は肯定的に応答し

16 3•4·797 (香法'97) ‑ 14  ‑

(15)

た。その日,後頭部の出っ張りがさらに大きくなり,脳膜からは規則的な 出血が始まり,脳液が流出するようになった。彼女は段々と青くなり,ひ どく悲しそうにうめいた。医薬の持続的な投与にもかかわらず,とくに背 中が伸びるような格好で身体を伸ばした。傷口は悪臭を放ち始めた。それ は炎症であると解釈された。出っ張った脳膜が破裂し,致死性の出血が起 こる現実的な危険も出現した。 1994年 4月25日,両親は,被告に対して,

赤ん坊の生命の終結について真剣に検討してくれるよう具体的に依頼し た。彼は両親にさらに熟考することを求めた。彼は,その後,検察庁にコ ンタクトをとった。翌日,被告の要請に応じて同僚のホームドクターであ るデ・ブロインが医薬を入念に調べ,さらに赤ん坊を診察した後,両親と 話しあった。デ・ブロイン医師は,赤ん坊の状態について被告が説明した のと同じ判断を示した。そして,彼の所見として,子どもは絶望的な状態 にあり,その死は不可避であり,苦痛の持続と悪化が予見されると説明し た。積極的な生命終結についての彼のアドバイスは肯定的なものだった。

次いで被告は赤ん坊の状況について小児科医のドウフルにも電話で相談し た。そして,子どもの生命を終結することの是非についてドウフルの意見 を求め,同時に被告の考える生命終結の方法と手段の是非についても確認 を求めた。ドウフル医師はこれらに同意した。 1994年4月 26日,赤ん坊の 健康状況はさらに悪化し,そうこうするうちにもはや排尿もできなくなっ

た。午後8時ごろ,被告は子どもに大量の Stesolidを投与し,深い眠りに 誘った。その約 30分後, Alloferinが注射された。赤ん坊は母親の腕の中で 平穏に死んだ。 22時ごろ被告は赤ん坊の死を確認した。

12.2.  高裁は,まず, 13トリソミーの診断が確実に判定されたことについ て,また,この異常をもった子どもの余命は非常に制限されているという 事実について言及する。小児科と新生児学の専門医ブロウベルス博士は,

1996年 3月13日の弁護人の高裁宛ての書簡に添付された書証において,

13トリソミーは致死性の病気であると明言している。小児科の専門医デ・

リュウブは, 13トリソミーをもった子どもの約 90%はその症候群に伴っ

四六八

‑15  ‑ 16~3•4---796 (香法'97)

(16)

て出現する沢山の異常の結果, 1年未満で死亡すると書いている。これら の子どもには重大な成長障害がある。例えば,脳とあごの裂け目の不完全

さはしばしば呼吸障害を引起こす。常に重大な精神遅滞がみられる。同時 に,例えば,痙攣や運動遅滞のような沢山の神経性の異常がある。このよ うな不幸な診断が下された場合には人工呼吸や蘇生術を施さない決定をす ることがあらゆる専門家によって正当と考えられている。小児科医ファ ン・ブルッフェンは「人工呼吸や蘇生術などの医療は単に死の過程を引き 延ばすだけなので,ここでは比例的ではない。我々は短期間で死ぬ運命に ある子どもの生命力を決して新たに喚起しようとはしない」と述べている。

あらゆる専門家は,症候群の若干の外科的な治療も比例的でないと述べて

四六七

いる。

12.3.  助言を求められた全ての専門家は症状が相当に安定している状態 で両親の希望に従って両親自身に子どもの世話を任せる決定は正しかった と述べた。このようにして,子どもは自宅で最期を迎えることができたの である。両親が信頼を寄せているホームドクターの医療的ケアとデルフジ

ヒト病院の小児科医たちの支援はこの決定を適切なものにした。

12.4.  高裁は,ホームドクターとしての被告が積極的にではないが,重大 な障害のある子どもの生命の終結に介入する決定に直面させられた状況に おいては,その行為は,医療技術的な見地から,また医療倫理的な見地か

ら,適切になされた行為であったと結論する。

12.5.  短期間のうちに予測される自然死の瞬間まで両親に子どもの世話 をさせてあげようという全ての関係者の本来の意図は実現されなかった が,担当医としての被告が介入しなければならない状況が存在したことは 明らかである。関係ある全ての専門家の判断に従って,両親が外科的侵襲 は子どもにとって意味がなく,また負担が大きすぎるとしてこれを拒否し たとき,被告には二つの選択の可能性があった。そのひとつは子どもが戦 いを放棄するまで赤ん坊の苦痛と病状のできる限り適切な緩和に努めるこ

とであり,もうひとつは子どもの生命を積極的に終結して欲しいという両

16-3•4-795 (香法'97) 16  ‑

(17)

親の要請に応じることであった。

12.6.  高裁は,両親の要請の根底にはもっぱら子どもの苦痛に対する深い 思いやりがあり,その要請はよく熟考してなされたものであることは諸証 拠によって確認されているものと考える。小児科医ファン・ブルッフェン 女史は,両親は積極的な生命終結ではなく,最大限の緩和医療を提供すべ きであるという医療倫理観をもった人々と十分に議論した後に独自の決定 に達すべきであったと主張するが,この立場は全ての現実的な接点に欠け る。また,高裁の判断によれば,両親の同意を得るに当たって,被告が実 際にしたよりもっと詳細に生命終結の是非に関するテストをできる事情は 存在しなかったと考えられる。

12.7.  高裁は女児の生命を積極的に終結しようとした被告の決定の医療 倫理的な許容性に関して次のように考える。 1992年 11月5日に公表され たオランダ小児科学会の報告書『なすべきかなさざるべきか? 新生児 学における医療行為の限界』の第 6章第 2節によれば,その後の生命の非 澄刺性にかんがみて,十分に熟考した後に新生児の治療を放棄したところ,

予想に反して短期には死ななかった場合に意図的な生命終結をなし得るか どうかについてコンセンサスはないが,ほとんどの小児科医は自分自身で は実施しないとしても,そのオプションの選択は尊重されるべきだと考え ている。また 1993年 7月に公表されたオランダ医師会の「意思無能力の患 者の生命終結行為に関する討議ノート」第一巻『重度欠陥新生児』によれ ば,劣悪な予後のゆえにさらなる治療を中止したところ,予想に反して新 生児の意図された死が結果しない場合には積極的な生命終結は許容される

とされている。「苦痛の不必要な延期または悪化がみられる場合には,委員 会の見解では,安楽死薬の投与に移ることは確かに道徳的に適切である」。

本件で助言を求められたほとんどの専門家は被告の行為は医療倫理的な 見地から適切であったという見解を述べている。ただ,専門医ファン・ブ ルッフェンとリンデンボーム研究所のディレクターであるヨヘムセン博士 は異なった見解を示した。前者は,被告は古くからの医療倫理に従って行

四六六

―‑17  16-3•4-794 (香法'97)

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為しなかった,医師の責務は苦痛を軽減することにあり,患者の生命を故 意に終結することは禁じられている,と述べた。ヨヘムセンは,生命は神 の贈り物として,医療行為のための基本的な価値及び出発点としてみられ るべきであって,意図的に死を引起こすことは医師の責務と権限の枠外に ある,と述べた。彼らの見解では全ての意図的な生命終結行為は医療的権 限の枠外にある。しかしながら,両者は共に,被告は彼らとは別の医療倫 理的見解において適切とされる見解に一致して正しく行為した,と述べて

四六五

いる。

12.8.  高裁は, 12.7.に基づいて,要請に基づく安楽死及び自殺の援助の ケースと同様に,医療倫理的な規範に従ってなされた本件の行為はその状 況のもとにおいては許容されると判断する。

12.9.  本件の子どもはすでに死を予告され,死ぬために自宅に連れ帰られ ていたのであって,明らかに重大な苦痛にあえいでいた。高裁はこのケー スでは刑法 289条の規定に抵触して女児の死をもたらした被告の選択は正 当化されるものと考える。

12.10.  意思決定と実施の判断に際しては次のことが重要である。

両親と行為を実施する医師には診断と予後についてどのような疑いが あってもならない。

行為を実施する医師は,独立の,経験ある(ホーム)ドクターの診断 と共に,関係ある小児科医の一人と相談しなければならない。

行為を実施する医師は,その方法の正しさに確信をもって,良心的に かつ注意深い方法で死を招致しなければならない。

行為を実施する医師は,自分の行為について注意深い責任をもたなけ ればならない。

12.11.  高裁は,被告が置かれた状況は科学的に責任ある医学的知見と医 療倫理的に妥当な規範に従って緊急状況であったのであり,被告の選択は 正当化されると考える。それゆえ,結論的に,彼は全ての法的訴追から解 放される。

16--3•4--793 (香法'97) ‑ 18  ‑

(19)

13.  補足的な考察

13.1.  被告は「謀殺罪」という評価によって深く傷つけられたと述べてい る。この関連で,弁護人は,このようなケースでは,「堂々とした・寛大な 無罪判決」 (royalevrijspraak)がなされるべきであると強調した。

13.2.  高裁は,これに関して次のように考える。本件のようなケースでは,

謀殺罪という評価は確かに一般的な社会感情と一致しないが,立法者がこ のようなケースで選択した方法に従って審理を行うためには,このような 法技術的な術語は避けることができないものである。かかる評価(「予謀を もって」と表現される)は,十分に皮肉なことだが,意思決定手続きにお いて遵守された注意深さを踏まえ確信をもって実現されたことを裏付ける

ものとなる。

13.3.  オランダ刑事訴訟法における無罪判決は,原則として,被告は起訴 された事実を行ったものであるとは証明されなかったという判断以外のも のではなく,被告は起訴された事実を行わなかったという積極的な認定を するものではない。このように考えれば,本件の無罪判決は弁護人の求め るような「堂々とした」判断といえるであろう。高裁は,女児も両親もこ の医師のあたたかい配慮のもとにあったと判断しているのである。

14.  判 決

地裁判決を破棄し,新たに判決する。

上記の被告は第一及び第二の起訴事実を行ったものである。

第一の起訴事実は法に従って可罰的事実を生じておらず,被告はこのこ とについては全ての法的訴追から解放されると宣言する。

四六四

被告は第二の起訴事実を行ったと評価する。

l~- ー 16---3•4-792 (杏法'97)

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この事実は可罰的ではないと宣言する。

被告カダイクは全ての法的訴追から解放される。

彼には無罪が言い渡される。

以上は, Arrestd. d.  4 april 1996 van het gerechtshof te  Leeuwarden,  tweede meervoudige strafkamer, op het hoger beroep tegen het vonnis  van de arrondissementsrechtbank te Groningen d. d.  13 november 1995  in de strafzaak tegen: G.D. A. K. による。

I V .   意思無能力の患児の積極的な生命終結と緊急避難の成立

シュプレーベンベルクとレフェマーテが述べているように,プリンス事 件とカダイク事件では次の 3点が中心的な問題であった。

患者の病状は積極的な医療侵襲によって改善させることができたか。

苦痛緩和措置は生命終結に対する代案であり得たか。

積極的な生命終結は正当化され得たか。

四六

プリンス事件では患児の外科手術等は重大な症状にかんがみて意味ある 治療とは認定されなかった。疼痛コントロールの可能性について専門家フ ェルスロイスは非常に沢山の医薬を投与すればコントロールは可能だが,

それは患児を物体のように天と地の間を漂うような状態にさせ,しかも長 期間にわたるその持続は複雑さを増大させると証言した。それは常に新た

に治療すべきかどうかの問題を突きつけ,不安定と不明瞭な状況を生じ,

子どもの両親にとっても,主治医にとっても極めて負担が重い。フェルス ロイスはこのような状況では疼痛コントロールは医学的に無意味であり,

生命終結が優先されるべきだと述べた。同様に,ペータースは医学的にみ て疼痛コントロールは可能であり,しばらく延命できるが,死の開始が予

16-3•4--791 (香法'97) ‑20~

(21)

見されているケースでもそのような行為は医学的に無意味だと述べた。こ うしてアムステルダム高裁は「本件では科学的に責任ある医学的知見に基 づいて疼痛コントロールの方法は理性的に実施不可能であり,医学的に意 味ある行為ではない。プリンスの生命終結の選択は所与の事情のもとでは 正当化される。またその実施に当たり,プリンスが医療倫理的に適切な規 範に一致して,注意深さの要件を考慮して行為した事実から,緊急避難と

しての抗弁は妥当である」という判断を下した。

また,カダイク事件では積極的な医療侵襲は患児の利益を考えてほとん ど無意味であるとして,子どもの自然死の時点まで苦痛緩和の措置を講じ つつ基本的看護を持続することが意図されていた。しかし,呼吸状態の悪 化,脳膜破裂の恐れ,腎機能の不全が顕在化し,戦われるべき苦痛の限界 点に達したように思われた。被告にはこの時点でなお二つの選択可能性を もった。ひとつは「子どもが戦いを放棄する(死亡)まで苦痛緩和措置を 継続すること」(地裁判決では,専門家の証言に照らし,鎖痛医薬の投与は いずれにせよ腎機能不全のため副作用として死を招いたろうと判断してい る)であり,もうひとつは「両親の要請に応じて生命を終結すること」で あった。カダイクは後者を選択した。レーワルデン高裁判決は,専門家の 諸証言,オランダ小児科学会の報告書及びオランダ医師会の討議ノート『重 度欠陥新生児』を参照し,「被告が置かれた状況は科学的に責任ある医学的 知見と医療倫理的に妥当な規範に従って,緊急状態であり,被告が行った 選択は正当化されると考える」と判断した。

従来,オランダの判例法は患者自身の真剣な要請に基づく安楽死の実施 は所要の要件を充足したかどうかを判断して緊急避難として正当化される 場合があるとしてきた。それは刑法の規定とも関連する。安楽死について は第 293条(明示的で真剣な要請に基づいて他人の生命を奪った者は上限 12年の拘禁刑または第5類の罰金刑で処罰される)が適用される。一方,

要請のない謀殺罪については第289条(故意または予謀をもって他人の生 四六

21  16--3•4~790 (香法'97)

(22)

四五 九

らが生命終結を求めることができないという事実が決定的な役割を果たす とは思われない。意思無能力の患者が苦しみにさらされているときには治 療チームや同胞によってこのような配慮がなされることは当然と思われ

る」。

我が国では積極的な生命終結は患者がどのような極限的な状況にあろう とも許されないという考え方も強いが,生命保持の利益と苦痛除去の利益 を比較して例外なく前者が優越すると考えられているわけでもないようで ある。いわゆる間接的安楽死の場合には患者の同意は違法性を減少させる と共に苦痛除去の利益を優先する医師の選択は緊急避難として正当化され ると捉えられている。

現在のオランダでは生命短縮を伴う苦痛緩和は通常の医療の一部と捉え られており,それがベールで覆われた生命終結の行為でなければ刑法の問 題ではないとされている。オランダ医師会の『安楽死ガイドライン』 (1995 年)は次のように述べている。「苦しみの適切な緩和は通常の医療実践の一 部であり,医師の専門職的義務である。緩和ケアが生存の最後の段階で与 えられるとき,生命短縮という意図せざる副次的結果を伴う。患者の状態 が緩和ケアを必要としているため,この意図しない結果を受忍せざるを得 ない状況がある。介入が数個の結果をもつという事実は本来の目的から何 ら逸れるものではない。介入の本来の目的と起こり得る副次的結果とは明 瞭に区別されなければならない。目的と手段の関係を見失ってはならない。

必要以上の沢山の量が生命短縮の意図で処方されるならば,それは適切な 緩和ではなく,ベールで覆われた生命終結の問題である。他の医療侵襲の 場合と同じく,緩和剤の処方のためには患者の許可が必要である。患者が そうすることができない場合には,その許可が推定される。患者が意思表 示できるときには患者と相談して行われる。患者もしばしばその苦しみの ために緩和剤を要求する。かかる要請と安楽死の要請とは区別される。安 楽死には患者による明示的で,熟考された要請が必要である。適切な緩和 が患者の生命短縮に導くことが予想されるときには患者と議論すべきであ

16--3•4-787 (香法'97) ‑ 24  ‑

(23)

る。このケースでは,専門職の領域における医療侵襲が問題であるから,

刑法的審府はなされないが,不適切な介入があったときには懲戒審査の可

(2) 

能性がある」。

こうして,刑法的な意味における優越利益の逆転は積極的な生命終結の 場合にのみ問題になる。上に引用した医師会の『重度欠陥新生児』は新生 児には生命終結の要請はないが,逆に生命保持の要請もないとして,意思

(要請)のハードルが低くなると考えている。ノートの他の個所では,積 極的な生命終結という生命保持の原則との激烈な衝突を回避するためにも 提唱される「疑わしい場合には医療を控えよ」という原則について検討し ている。カダイク事件でも患児は人工呼吸をしなければすでに死亡してい たといわれていたのであるから「疑わしきは控えよ」の原則に従えば,困 難な問題は避けることができたはずである。しかし,出生初期の段階で生 存の可能性を否定することは患者の利益ではないとして「疑わしきは行え」

という原則が優先されるべきだと提言しているのである。いずれにせよ,

例外的なケースではディレンマは避けられず,患児の利益を一貫して追求 する限り,非常に例外的な場合には積極的な生命終結に直面させられるこ

ともあるというのである。重度障害新生児医療に特有の倫理的問題が意識 されていることが分かる。しかし,重大な苦痛の除去が患者の利益かどう かについて,成人の意思能力ある患者と対比しても問題点が指摘されるで あろう。意思の要素のハードルを低くすることは遷延性の植物状態患者や 痴呆老人など他の意思無能力者にも影響を及ぼすことが懸念される。両報 告書は,注意深さの要件,手続き的担保が重要であるとして,詳細な提言 をしている。レーワルデン高裁判決も,判決文の 12.10.において意思決定

と実施に際して遵守されるべき事項を列挙している。

しかし,手続き的担保だけで緊急避難として正当化できるかという問題 は解決されていない。オランダでは,そして,他の諸国でも,患者の要請

(自己決定権,自律性の尊重)こそ重要であり,敬意を払うべきものと考 えられてきたのではなかったか。我が国でも,積極的な生命終結の正当化

四五八

25  ‑ 16~3•4~786 (香法'97)

(24)

四五 七

を肯定する根拠があるとすれば,自己決定権の視点からアプローチすべき であろうともいわれ,「慈悲殺」肯定論は今日ではあまり聞かれない。オラ

ンダの状況をどうみるべきであろうか。

オランダにおいては任意安楽死協会の活動を中心にして,生死について の自己決定権を唱える声は高い。それは法的論議に反映しているのであろ うか。判決においてはかつて一度だけ自己決定権を承認して無罪(アルク マー地裁, 1983年 5月10日)が言い渡されたことがある。事件の患者は骨 折による身体不随で寝たきりで,聴覚障害,言語障害など老衰症状や不快 な昏睡状態も体験した 94歳の老女で,繰り返し安楽死の要請を行ってい た。この要請に応じた医師に対して,地裁は,本人以外の他者が生命終結 を援助する場合にも自己決定権を尊重すべきであるという世論が大きくな ってきているとして,その権利の衝撃的でない行使のためにはむしろ第三 者による援助は不可欠であり,このような殺害の援助が形式的には第 293 条または第 294条に該当するとしても,一連の注意深さの要件が満たされ

るときには,実質的違法性を欠如し,不処罰が相当であると判断したので あった。この判断は上級審では受け入れられず,結局,オランダ最高裁と

して最初の安楽死事件の判決において,医師の客観的な医学的洞察に基づ

<緊急避難の抗弁の可能性が示唆された(1984年 11月 27日)のであった。

そこでは,緊急避難の成立にとって里要な次の 3点が指摘された。

1.  専門的医学的観点からみて,患者にとって次第に増大する品位の低下,

またはすでに耐え難い苦しみのさらなる悪化が予想されたかどうか。

2.  患者は間もなく,もはや人間らしさに値する状況のもとで尊厳ある仕 方で死ぬことができなくなると予想されたかどうか。

3.  患者の苦しみを緩和するその他の可能な代替手段はあったかどうか。

いうまでもなく,これは患者の自己決定権ではなく,医師の側の判断を 問題にしている。刑法第 293条に該当する嘱託殺人罪として(患者の)「明 示的で真剣な要請」は不可欠だが,行為は他人の生命を奪うことである。

16-3•4-785 (香法'97) ‑ 26  ‑

(25)

緊急状況に置かれた医師は冷静な医学的観点から判断して,その例外的状 況では生命保持の利益よりは苦しみを除去する利益の方が優越していると 考えて行為したときには緊急避難として正当化される場合があるとしたの

(3X4) 

であった。患者の要請は謀殺罪の違法性を減少させるが,正当化するもの ではない。正当化の根拠は善行または慈悲の行為にあったともいえる。こ のケース以後,諸裁判所とオランダ医師会の「合作」によって医学的・人 道的・法的な注意深さの要件が練られていく。当該の患者の状況では生命 保持の利益よりも苦しみ除去の利益の方が優越するという判断は熟練した 医学的判断を要するが,そのためには患者との繰り返される対話や他の独 立した(担当医と特別の関係のない)医師のセカンド・オピニオンも必要 である。医師は,そのほか様々の注意深さの要件を充足しなければならな いのであって,単純な同情の動機や驚愕から不注意な行為に及ぶものであ ってはならないとされている。かくて行為は違法だが期待不可能性により 責任阻却される場合があるというのではなく,むしろ非・悪事または善行

を行ったがゆえに違法阻却が妥当だと考えられるようになったとみられ る。(タック教授によれば, 1980年代前半までは責任阻却説が有力であった ようである。)しかし,安楽死を実施した医師は犯罪容疑者として取り調べ を受け,時には有罪を宣告される。医師は安易に患者の要請を受託できな い。そこで,益々,任意安楽死協会などは死の自己決定権に訴え,安楽死 の法制化を求めるという動きになってきたと了解される。判例の主動向は

「死ぬ権利」を容認していないのである。有名なシャボット事件において,

最高裁判決(1994年6月21日)は「医師は,緊急状態において,一方で生命 を保持する義務と他方で治療を委ねられた患者にとりついている耐え難 く,絶望的な苦しみを軽減する義務との間で選択を迫られ,相互に競合す る義務のうちで最も重いものを選択したときには,緊急状況で行為したも のといわざるを得ない場合がある」とした。これは弁護側の自己決定権の 主張に対抗して明瞭に述べられた公式であったことが銘記されなければな らない。安楽死協会の嘱託医である精神科のシャボット医師は,もっぱら

四五六

27  16~3•4--784 (香法'97)

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