様のテーマを設定して方法論の壁にぶつかったことのある者であれば︑だれもが痛快に感じるだろう︒
終章でも言及されているが︑現代に生きる我々の宗教性が育まれる場の一つが︑日常生活に空気として浸透している﹁メディア﹂である︒
石井研士は︑自らの著書においてマスメディアの宗教の扱いが大衆にもたらす影響力について警鐘を鳴らし続けてきたが︑﹁地縁や血縁に依拠した伝統宗教の希薄化と︑宗教団体に対する忌避感の増大といった日本の現状にあって︑宗教に関する新たな制度的基盤﹂︵三七九頁︶としてメディアが機能するとき︑そのメディアの影響力に対して我々はやはり無自覚であったことを本書もまた提示する︒既に四章や六章の結論や﹁たとえ実生活から宗教的な次元との直接的な関わりが失われたとしても︑我々の中に宗教的な願望がある限り︑宗教表象は無限に産出され︑マスメディアから消えることはないだろう﹂︵三七九頁︶という著者の指摘が示すように︑本書の︽恐山のイタコ︾はまさにその現実を我々に突き付けたのである︒
本書を通じて︑大道氏のイタコへの眼差しを︑大道氏を﹁メディア﹂として感じさせていただいた︒氏の今後の更なる探究を祈念する次第である︒ 藤原崇人著
﹃ 契 丹 仏 教 史 の 研 究 ﹄
法藏館 二〇一五年二月刊A5判 ⅴ+二三八頁 七〇〇〇円+税 蓑 輪 顕 量 本書は契丹の仏教史に関する本格的な研究であり︑注目に値するものである︒中国の仏教に関する研究は︑教理や思想の研究さらには歴史的研究にしても︑漢民族を中心に︑中原部に活躍した諸王朝における仏教の研究が主流を占めてきた︒周辺部における仏教の研究は︑チベットを別にして︑それほど多くは蓄積されていない︒なかでも︑契丹の仏教に関する研究は稀少であり︑それだけ価値があるということができる︒そのような状況の中で︑契丹が開版した大蔵経が︑山西省朔州市応県の木像仏塔の釈迦如来座像の中から発見されるに及んで︑急に耳目を集めることとなった︒契丹版大蔵経が注目を集め︑また北京郊外の房山雲居寺の刻経も︑契丹の時代に大いに進んだことが知られている︒契丹王朝︑とくに只骨朝以降︑仏教との結びつきが緊密であったことが︑先行研究によって明らかにされていたのであるが︑その具体的な姿はまだ十分には解明されていなかった︒その未解明であった王朝と仏教との具体的な関わりを明らかにした点が︑本書の一番の評価されるべきところであろ
あると推定する︒ 第2章は﹁契丹皇帝と学僧︱道宗朝の学僧鮮演とその著作をめぐって︱﹂と題する章で︑皇帝と学僧の関係を明らかにする︒契丹の仏教では天台︑華厳︑法相︑密宗など︑唐代に盛んであった教学が修学されていたことが既に明らかにされているが︑具体的な姿の解明は不十分であった︒そこで︑学僧の鮮演に注目することで︑契丹の仏教の一端を明らかにする︒彼の事跡は墓碑の銘文に残り︑そこから彼が皇帝の道宗査刺︵在位一〇五五︱一一〇一︶に重用され︑上京開龍寺の講主と︑夏の都と冬の都のルート城に位置する黄龍府講主の地位を与えられていたことが知られる︒鮮演が皇帝と密接な関係を持ち︑皇帝の移動とともに夏冬の都に出仕できる空間に居住し︑時に移動して︑その任に当たっていたことを明らかにする︒夏冬の都間を皇帝が移動するに合わせ︑帝師がともに移動する例が元代のカアンに見出されていたが︑その先例になることが契丹朝にあったことを示す︒
また高麗の義天との関係が注目され︑鮮演が出した書状から︑高麗の義天が朝鮮半島に失われた典籍の将来に尽力する発端になったであろうことを明らかにする︒
第3章は﹁契丹皇帝と菩薩戒︱菩薩皇帝としての道宗︱﹂と題する章で︑道宗と菩薩戒の受用をめぐるものである︒契丹は支配層である貴族階級の人達の菩薩戒受戒が盛んであったが︑そこには政治的な意味合いも見逃すことが出来ない︒とくに受戒には懺悔が伴うが︑この懺悔が重要な役割を果たした︒契丹には﹁内殿懺悔主﹂という呼称があり︑実質的に戒師を指した う︒そこでまずは全体の構成を簡潔に紹介することから始めたいと思う︒
本書は序論から始まり︑第1章から第6章までの中心的研究部分︑そして結論を述べる︑全体で八章から構成される︒序論は先行研究を纏め︑今までの中国仏教研究が︑隋︑唐から五代十国そして北宋︑南宋︑元︑明と次第するという視点で行われてきたが︑それとは異なった相承関係が存在したことを忘れてはならない事を説く︒隋︑唐︑五代十国から契丹︑金︑遼へと次第する系譜が存在し︑その最初に契丹が位置付くことを確認し︑その研究の重要性を明らかにする︒
第1章は﹁契丹帝后の崇仏の場︱興宗朝における慶州の位相︱﹂と題し︑慶州における仏教の存在形態について論じる︒内モンゴル地域の東部︑赤峰市バイリン右旗ソボルガソムに広がる慶州城址に興宗只骨によって建立された釈迦仏舎利塔︵通称︑白塔︶が現存している︒この仏舎利塔は高さ七十三メートルにも及ぶ八角七層の楼閣式塼塔であるが︑その中から出てきた白塔碑文と呼ばれる銘文から︑当時の慶州の仏教状況について言及する︒それは︑契丹にも僧官が置かれたこと︑しかもその制度は後代の金に継承されたこと︑すなわち北宋が後の周辺国に影響を与えたのでなく︑契丹の制度が継承される系譜が存在することを明らかにする︒また置かれた僧官に僧録司なるものが存在し︑特別に慶州に置かれたものであったが︑それは契丹が夏と冬と︑その都を移動する生活を送ったが︑両季節の都の中間に位置する慶州は︑自然と他の地域とは異なった重要性を帯び︑それが僧録司なる官を慶州に置くようになった理由で
が民衆の信仰実践の上にも用いられた︑即ち菩提心戒として受用されたと推定する︒
第5章は﹁契丹仏塔に見える密教的様相︱朝陽北塔の発現文物より︱﹂と題する︑遼寧省の西部︑古代より遼寧省の交通の要衝として栄えた都市である朝陽市の中心部にそびえ立つ二基の仏塔の内︑北塔に関する論述である︒この北塔は高さ約四十三メートル︑方形十三重の密檐式塼塔であり︑その初層の各壁面の正面には釈迦如来像が彫出され︑その左右には供養人や八大霊塔が描かれる︒仏塔の地宮に奉納された﹁第三度重修﹂題記磚を手がかりに契丹の仏教信仰の一端を明らかにする︒そもそも北塔の創建は隋代に遡り︑唐代に修復され︑契丹の興宗只骨の重煕年間︵一〇四二︱四四︶に︑再び修復された︒この修復に関連する刻記が存在し︑そこに俗官の名称が多数登場するが︑唯一の出家者の名前が宣演大師である︒この宣演大師は︑天宮に経筒を奉納した蘊珪を指すと思われ︑北宗の修福を担当していた弟子の要請で︑責任者として関与したものと推定する︒契丹の修復時には隋代由来の仏舎利を見出すことは出来なかったが︑この時︑新たに契丹の僧侶︑慈賢の翻訳した陀羅尼などを法舎利として奉納したことに注目する︒地宮に奉納された石経幢が法舎利と見なされた︒慈賢の翻訳した陀羅尼は﹃仏説金剛大摧砕延寿陀羅尼﹄であり︑また記名のない﹃大随求陀羅尼﹄も︑異訳の唐の宝思惟訳や唐の不空訳が存在するが︑ここに使われている訳語は宝思惟訳に近似するが異なることから︑慈賢の訳出したものであると推定する︒慈賢は陀羅尼の文章のみを精力的に訳出したが︑それは契丹において舎利塔が数 と推定されるが︑道僧査刺は自らの信頼する僧侶として守臻の門下を重用し︑皇帝︑皇族︑大臣とともに受戒を行った︒そこには︑菩薩戒を皇帝の権威の下に価値付け︑臣下を菩薩戒の受戒を通じて統一的に︑また一体感をもって支配しようとした可能性があると指摘する︒また臣下にしてみれば︑宿営地の内殿において受戒に預かることは自らの地位の安堵を意味した︒皇帝が製作したと考えられる﹃発菩提心戒本﹄は︑皇帝の菩薩戒との関わりを密接に示すものとして位置づけられ︑﹁皇帝と菩薩の相即﹂という新たな位置づけの中で契丹の政治は安定し︑それは北宋との関係の上でも良好に働いたという︒
第4章の﹁契丹の受戒儀と不空系密教﹂は前章を継承し︑また契丹に栄えた密教について考察する︒契丹では密教が栄えたことがすでに松永有慶氏や上川通夫氏によって指摘されていたが︑それは大日経系と金剛頂経系の密教であったという︒本章では︑前章を受ける形で︑受戒の次第や作法を説いた﹁授戒儀﹂を検討する︒房山雲居寺の石経に残される﹃発菩提心戒一本﹄に注目するが︑この石経には﹁沙門志仙記す﹂との題文があり︵以降︑この授戒儀を志仙本と呼ぶ︶︑当時︑雲居寺には﹁志﹂の字の就く僧侶が数多く住していたという︒この志仙本と第3章で検討した﹁発菩提心戒本﹂の間には関係があると推定される︒また仏宮寺に発見された﹃受戒発願文﹄とも比較考察を試みる︒その結果︑不空訳の﹃受菩提心戒儀﹄を下敷きにしていたことを明らかにする︒菩提心を戒とする見方は不空三蔵以降に形成されたと推定され︑しかも︑この系統の授戒儀が皇帝︑貴族等の授戒に用いられたことから考えて︑不空の密教
る︒それも皇帝とその被支配者との関係や︑歴史的な考察に多くの紙面が割かれており︑所謂仏教学的な見地からの意見が少ない︒若干︑仏教史という名称に違和感を抱いた︒第2章︑第 3章では︑菩薩戒の受戒が検討されているが︑その政治的な意味合いが中心であった︒﹃発菩提心戒本﹄や﹃発菩提心戒一本﹄という名称からすれば︑それは明らかに授戒儀であり︑戒儀が重要な意味を持ったことを︑皇帝が授戒に関与し︑皇族や群臣がそれに預かったという点から︑導き出したところには大いに賛意を表する︒例えば日本の伝戒史の上でも︑鑑真の来朝時に時の太上天皇や皇后が受戒に預かったが︑その意味は︑朝廷として正式なものとして公認したことに他ならなかった︒単なる受戒儀ではなく大いに政治的な意味合いを帯びたものであったことを指摘するのは優れた見解であろう︒また︑高麗の義天が︑仏教書蒐集のために契丹国にも情報蒐集の手立てを講じ︑鮮演に仏書を求めた点などの詳細が明らかにされたことは大いに有意義であろう︒このように歴史研究に主眼を置いて︑本書は書かれていることは否めず︑教学的なところに踏み込もうとする姿勢を時折︑見せるのであるが︑若干物足りなさを感じるところもあった︒例えば︑第2章で言及された華厳学僧の鮮演であるが︑華厳の学僧であることを指摘するのであれば︑当時の華厳の教学や実践にも触れてほしかった︒華厳宗は︑唐代の教宗として天台︑法相宗と並び立つものであり︑しかも︑最近では法蔵の頃から禅宗の興隆の中で影響を受け︑実践面すなわち止観の修道の上でも独自の見解を持ち︑それは続く澄観や宗密に至って顕著になった︒明らかに禅宗との関係を持ち︑修行 多く建立されるようになって︑そこに納めるものとして陀羅尼が屡々用いられたので︑その用に供するためであったと考えられるという︒いずれにしろ不空と慈賢訳の陀羅尼が契丹では受用されていた︒
第6章は﹁立体曼荼羅としての契丹仏塔﹂と題して︑現存する契丹時代の最大の規模を誇る中京大塔を考察する︒契丹は﹁造塔の時代﹂と言われるほど仏塔を多数造立したが︑この塔は﹁大明塔﹂とも呼ばれ︑高さ約八十メートル︑中国国内で第二位の高さを誇る︒この塔は鎮州市の広済寺塔︑北鎮市崇興寺西塔と類似するとされ︑主要尊像は﹃大教王経﹄に基づく大日如来及び過去七仏であり︑三つの塔はその共通性から︑一連の発展段階上に存在するのではないかと推定する︒歴史的にも中京地域と遼西地域はひとまとまりの地域であったという︒成立の順番は広済寺塔︑崇興寺西塔そして中京大塔であったと考えられ︑装飾の上では︑多くの尊格が壁面の装飾に︑すなわち人目に触れる場所に設置されるようになったところに特色があるという︒朝陽北塔の場合は塔内の法幢であったことと比較すれば︑衆目の触れる場に置かれたことに意味があり︑それは査刺政権の目指した希求︑すなわち攘災︑延寿︑滅罪を︑僧俗一般が目に触れる形で提示したものであった︒最後に結論の部分であるが︑ここでは︑今までの六章の小結を簡潔に再説し︑本書の研究の意義を纏めている︒
以上︑本書全体を要約してきたので︑以降は評者が感じたことを記したい︒まず︑本書は﹁契丹仏教史﹂と銘打ってはいるが︑契丹の政治・社会と仏教の関係についての考察が中心であ
い︒しかしながら︑民衆の側から見た仏教の受用の実態は︑もう少し明らかにならなかったのだろうかという点である︒というのは︑同じく中国仏教の南北朝期の石刻資料を網羅的に集めて研究した佐藤智水氏や倉本尚徳氏の研究が念頭に浮かんだからである︒とくに倉本氏の﹃北朝仏教造像銘研究﹄︵法藏館︑二〇一六年︶は︑邑という単位の仏教信仰を石刻資料から明らかにした力作であるが︑同じように石刻資料を用いることによって︑為政者側の仏教受用だけではなく︑民衆の側の仏教受容も明らかにすることができるように思われたからである︒評者は契丹時代の石刻資料がどのくらい残されているのか知らないが︑明らかに出来る点は︑まだ多く残されているように思う︒
とはいえ︑契丹時代の仏教の実態を具体的に明らかにした本書は︑今までの内外の研究を踏まえて執筆された優作であることを確認して︑本書の書評を終えることとしたい︒ 道の上でも興味深い見解があったことが知られている︒とすれば︑その後をうけた契丹の華厳宗の中で︑どのように修行道が位置づけられていたのか︑興味が湧くところである︒また︑契丹が重んじたものが密教であったとしても︑密教にも修行実践は存在する︵例えば阿字観は密教の代表的修行である︶ので︑契丹の密教の修行の実際にも触れてほしかった︒陀羅尼の実践が﹁攘災﹂﹁延寿﹂﹁滅罪﹂という効能をもたらすという言及があったが︑陀羅尼が︑僧俗ともに修行としても用いられていたのであろうか︒この辺りまでも踏み込んでほしかった︒さらには︑契丹の密教が︑唐代の密教を発展させたもの︵そのままの継承ではないという点で︶であるという見解にも︑賛同するものであるが︑契丹の密教では﹃釈摩訶衍論﹄に対する注釈が注目されるところである︵日本に将来され東密で研究された︶ので︑契丹ではどうであったのだろうか︒さらには契丹の訳語僧として慈賢が注目されていたが︑北宋にも施護という密教の翻訳で注目される人物が居る︒北宋の密教における翻訳と契丹におけるそれとはまったく関係なかったのだろうか︒などなど︑無い物ねだりのような感が否めないが︑仏教学をする立場からは気になった点である︒内容的に正確さを期した努力がよく分かる論調であったので︑なおさら踏み込んだ論述がほしかったと思う次第である︒
さて︑もう一つ気になったのは︑結論のところで著者が述べていることでもあるのだが︑本書は文献だけではなく石刻資料という︑今まであまり活用されてこなかった歴史資料を用いて契丹の仏教の実態に迫ろうとした力作であることは間違いな