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再創造される「不在」の記憶

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Academic year: 2021

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再創造される「不在」の記憶

——映画に導入された静止画イメージ——

Re-created Memories of Absence

—— Still Images in Cinema

1W163100-0 早坂 苑子 指導教員

是枝 裕和 土田 環

HAYASAKA Sonoko KORE-EDA Hirokazu TSUCHIDA Tamaki

概要:本研究は、映画における静止画イメージ=「写真的なもの」による「不在」の表現の可能性を考察するものである。

まず、写真の不動性と「死」との結びつきをふまえ、「写真的なもの」の運動の凝固という性格が、映画に「死」を導くこ とを確認した。一方、「写真的なもの」は、映画という運動のなかに位置づけられていることで、写真には映しえない「生 命の震え」という運動を映し出すことを指摘した。そのうえで、写真を固定撮影した動きのない映像にストップ・モーシ ョンをかける表現を分析し、「生命の震え」の恢復によって、映画を観る者から写真の被写体を見返すまなざしが生じ、被 写体と観る者とのあいだに関係が結ばれていること、そして同時に、「死」を志向する動きによってその関係が断たれてい ることを示した。そこでは、「写真的なもの」によって、観る者が被写体との邂逅および喪失の経験が可能となり、「死」

がもたらした「不在」が再創造された記憶として立ち上がると考え、作品制作を通して「不在」の可視化を検証した。

キーワード:静止画、ストップ・モーション、不在、記憶表象 Keyword: still images, stop motion, absence, memory representation

はじめに

写真そのもの、そして、撮る/撮られるといった写真を対 象とした行為を組み込んだ映画作品は数多く存在してい る。レイモン・ベルールが提唱した「映画における写真と は何か」という問いを継いで、堀は、「映画に導き入れられ た静止画面」、ひいては、「厳密な意味での静止画面」のみ ならず、「映画の運動のうちに導入された不動性」を「写真 的なもの」と名付け、「死」とのかかわりを論じている(堀、

2008)。本研究では、「死」によって接触が不可能な人物の

「不在」を現在において立ち上げる映像表現の可能性を、

「写真的なもの」による運動の知覚という経験に見出し、

表象の仕組みを明らかにすることを試みた。

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「写真的なもの」と「死」

ロラン・バルトは、『明るい部屋』において、写真におけ る「ポーズ」を「死」とたびたび結びつけている。「ポーズ」

を構成するのは、「写真の現在の不動状態を過去の撮影の 瞬間に転嫁する」という「停止」である(Barthes, 1980)。

この言説をふまえれば、「写真的なもの」が映画の運動を停 止させるという意味において、映画に「ポーズ」を導入し、

「死」をも招き入れることとなる(堀、2008)。

「写真的なもの」が登場人物の「死」と結びついている 例として、池田敏春『天使のはらわた 赤い淫画』(1981)

と阪本順二『どついたるねん』(1989)を挙げた。これらの 映画はどちらも、ラスト・シーンにおいて、フリーズ・フ レームという「写真的なもの」が用いられている。ここで、

フリーズ・フレームの直前に導入された被写体の動作(よ ろめく、殴る)が、静止の印象を強めていることに注目し た。これは、「写真的なもの」が、映画という運動のなかに

位置づけられているからこそもたらされる効果である。し たがって、「死」そのものを呈示する写真に対し、「写真的 なもの」は「死」を動きとして観る者に経験させる。

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「生命の震え」

「写真的なもの」が写真と異なり、中断や凝固といった 運動を知覚させることが可能である点に着目し、ほぼすべ てのショットが静止画から構成されている、クリス・マル ケル『ラ・ジュテ』(1969)を分析した。同作のショット は、スチール写真ではなく、映画撮影用カメラで撮影した 映像から、1つのコマを選びコマ止めすることで作られた 静止画、すなわち「写真的なもの」である。

マルケルがなぜ「写真的なもの」にこだわったかを考察 するにあたり、同作において、唯一、動きをもったカット に着目した。それは、夢か現か、主人公の男が、記憶のな かの女と再会を果たし、眠っている女が瞼を開くシークエ ンスに挟み込まれている。そのカットで女はまばたきをす る。そのまばたきは、ベルールがロバート・シオドマクと エドガー・G・ウルマーの共同監督作品『日曜日の人々』

(1930)における静止画面のなかの明滅に認めた「生命の 震え」(今野、2009)と同じく、動かないはずの映像のな かに見出される。そこでは、「写真的なもの」が運動を内 包しているがゆえに、その運動が展開され、まばたきとい う「生命の震え」が映し出されている。写真と「写真的な もの」を分けているのは、この蘇生された運動であると結 論づけた。

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「生命の震え」の恢復と「死」の志向

写真家・牛腸茂雄の「不在」を主題とした佐藤真のドキ

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ュメンタリー映画『SELF AND OTHERS』(2000)には、

同名の写真集に収録された牛腸の写真作品を順に固定撮 影したシークエンスのなかで、牛腸のセルフ・ポートレー トのみにストップ・モーションをかけているショットがあ る。本章では、ふたつの「写真的なもの」が重なる表現に おいて経験される運動を考察した。

まず、ひとつめの「写真的なもの」である、写真を固定 撮影した動きのない映像を考察するにあたり、佐藤が写真 と映画撮影のカメラのあいだに見出している「空気」を分 析した(佐藤、2006)。佐藤の指摘する「空気」とは、静 止した映像に内包された運動であることから、「生命の震 え」であるといえる。『SELF AND OTHERS』では、牛腸 の写真作品における被写体のまなざしが、映画のカメラに よって捉えなおされることで屈折し、「生命の震え」を恢 復しているのではないか。そのため、セルフ・ポートレー トのショット以前の、他者を被写体とした写真のショット が繰り返されるシークエンスにおいては、「生命の震え」

によって甦った、被写体から撮影者へのまなざしを、観る 者は繰り返し受け止めることになる。したがって、セルフ・

ポートレートが映されるとき、観る者はほかの被写体たち に代わって牛腸を見つめ返すことが可能となり、牛腸が撮 影者として想起されることで、牛腸と観る者とのあいだに、

カメラを介した撮影者―被写体の関係が疑似的に築かれ るのである。

次に、ふたつめの「写真的なもの」として、ストップ・

モーションを考察した。「空気」を止める運動の導入が試 みられていることから、恢復された「生命の震え」を止め るような、「死」を志向した動きが提示されていると考え た。そこでは、写真が撮影される瞬間の疑似的経験がもた らされ、牛腸と観る者とのあいだに結ばれた撮影者-被写 体の関係が失われる。

ふたつの「写真的なもの」の導入によって、観る者は、

接触しえない牛腸と邂逅し、関係の綻びによって、経験し えない喪失をも味わう。このとき、写真のなかの牛腸は、

観る者にとって、痕跡性に基づく過去の存在に留まらず、

再創造された記憶のなかの人物となり、その「不在」は固 有の経験として立ち上がる。

4 作品制作:「写真的なもの」による「不在」の表象

これまでの議論をふまえ、作品制作を行い「写真的なも の」による「不在」の表象を試みた。8mmのフィルムカメ ラとビデオカメラの映像を織り交ぜ、筆者の祖父の「不在」

を主題とした作品『La vie en rose』を制作し、「生命の震 え」と「死」を志向した静止を可視化できるかを検証した。

写真の被写体に「生命の震え」を与えるために被写体が カメラを向く仕草を演出した。また、ストップ・モーショ

ンに代わって、粒子の荒い8mmフィルムで写真を撮影し、

被写体のまなざしを追って動きをつけた映像に、デジタル の静止画をオーヴァーラップさせ、運動の凝固の導入を試 みた。

写真の被写体が振り返る仕草の演出

デジタルの静止画のオーヴァーラップ

おわりに

作品制作を通して、「写真的なもの」による「不在」の表 象について、写真の凝固されたまなざしに運動を与え還す というアプローチを試みた。結果として、まなざしを動的 イメージとして映すことは、写真の被写体と撮影者のまな ざしのやり取りを明示し、より一層、過去において築かれ た関係性への疑似的な参与を観る者に促すことが導けた。

邂逅も喪失も経験しえない人物が「いまここにいない」

現在を、固有の「不在」の経験として知覚するために、「写 真的なもの」を考察すること、そして、表現することに通 底していたのは、写真という痕跡を手掛かりとして第三者 がどのようにその人の記憶を分有しうるかという問いで あった。過去の出来事を、写真をもとに再現するのではな く、「写真的なもの」の知覚を通して観る者に固有の経験を もたらすことは、現在に記憶を再創造することである。こ のような映像表現に、過去へと引き離されていく断片を現 在において掬い上げるための一途を見出したい。

参考文献(抜粋)

・ロラン・バルト(2015)『明るい部屋─写真についての覚書(花 輪光訳)みすず書房(原著は1980年)

・堀潤之(2008)「映画にとって写真とは何か1」『写真空間1』

pp.206-214.

・今野真(2009)「レイモン・ベルール講演会「映画と写真の出会 い」の報告」『映画学』pp.139-143.

・佐藤真(2006)『ドキュメンタリーの修辞学』みすず書房

映像資料(抜粋)

・ロバート・シオドマク、エドガー・G・ウルマー(1930)『日曜 日の人々』

・クリス・マルケル(1962)『ラ・ジュテ』

・佐藤真(2000)『SELF AND OTHERS』

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