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「おとずれる記憶、おくりとどける記憶―その後

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立教大学ジェンダーフォーラム2013年度公開講演会

「おとずれる記憶、おくりとどける記憶―その後

残骸にふれること 残骸にふれること 残骸にふれること 残骸にふれること…… …… …… ……岡村 岡村 岡村 岡村

夏枝 夏枝 夏枝 夏枝

の黄麻(サンベ)の の黄麻(サンベ)の棲殻 の黄麻(サンベ)の の黄麻(サンベ)の 棲殻 棲殻 棲殻

ス ミ カ

へ へ」 へ へ 李 静和氏(り・ぢょんふぁ/成蹊大学教授)

2013.7.10(水) 18:30~20:30 立教大学池袋キャンパス8号館2階 8201教室

○司会・豊田由貴夫:それでは、定刻になりましたので始めさせていただきます。

今日は非常に暑いなか、たくさんの方に来ていただきまして、ありがとうございます。

立教大学ジェンダーフォーラムの 2013 年度公開講演会を始めさせていただきます。

今回は、成蹊大学教授でいらっしゃいます李静和先生をお招きして、「おとずれる記憶、お くりとどける記憶―その後」ということでお話しいただきます。

先生のご紹介はこの後、別にしていただくことにしまして、私からは、立教大学ジェンダー フォーラムの紹介を簡単にさせていただきます。

毎年、このような公開講演会を開催しております。それから、年に数回、もう少しテーマを 絞りまして、ジェンダーセッションという形で、いろいろなテーマを扱った講演会のようなも のを開催しております。随時、ホームページなどで宣伝しておりますので、どうぞご参加くだ さい。

それから、今日の配布物のなかにアンケート用紙も入れておきましたので、ぜひ、ご記入、

お願いしたいと思います。

申しおくれましたが、私、ジェンダーフォーラムの所長をしております豊田です。よろしく お願いいたします。本日の司会を務めさせていただきます。

李静和先生のお話の後に、時間的に余裕があれば、質疑応答の時間をとりたいと思いますの で、ぜひ、ご質問などお願いいたしたいと思います。

それでは、最初に、李静和先生の紹介をお願いいたします。

文学部の新田啓子教授にお願いいたします。

○新田啓子:初めまして、新田と申します。

私のような者が李先生、李さんの紹介をできるのか、ちょっと不安でいっぱいなのです。李

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静和先生は、こちらの黄色いチラシにありますように、韓国・済州島から 1988 年に来日して いらして、現在、成蹊大学法学部政治学科教授でいらっしゃいます。

先生のというか、静和さんのお仕事は、一言のちっちゃな言葉に閉じ込めてしまうのはそぐ わないとは思うのですが、一面から言えば、アートと政治から、国家によって分断された人々 の経験を再びつなぎ、悼まれない死、省みられない暴力を考察するための思想を紡いでこられ たと言えるのではないかと思います。

個人的なことをお許しいただければ、私が初めて静和さんのお仕事に触れたのは、青土社か ら刊行された『つぶやきの政治思想――求められるまなざし・かなしみへの、そして秘められ たものへの』のもとになりました、1997 年の『思想』を読んだ時でした。当時、アメリカに大 学院生として留学していたのですが、家族に送ってもらったのですね。

当時、これを読んだときに心のなかに起こった嵐というのは本当に忘れられませんし、今で も、それは何度もよみがえってまいります。その後、実際にご面識をいただき、肉声を聞き、

そして人となりを存じ上げるという僥倖に恵まれ、本日、この場でお話しいただけるという大 変貴重な機会を得ることができました。

先生、今日はご登壇、本当にありがとうございます。

ちなみに、今回のご講演は、実に李さんが実際に聴衆の前に立つイベントとしては7年振り なのですね。この間、活字となった言葉や、あとはシンポジウムなどへのご登壇などは数々あ りましたが、講演という形でご登壇なさるのは 2006 年以来でございます。

本日、最初に公示させていただいた演題は、「おとずれる記憶、おくりとどける記憶――そ の後」となっておりました。これが実は、7 年前の 2006 年に、公開講座シリーズ「戦後 60 年 からのまなざし」のなかで行われたご講演、「おとずれる記憶、おくりとどける記憶」にちな んだものでございます。その時のお話をもう一度繰り返して、そして、その後、さまざまにご 思索なさったことを共有していただくという趣旨で、このようなテーマを構想しました。

ただ、皆様の配布物にございますように、本日はより具体的な主題をいただいております。

「残骸にふれること。……岡村夏枝(オハヂ)の黄麻(サンベ)の棲殻へ(7 月 10 日のための タイトル)」というものです。

オ・ハヂさんの――あるいは岡村夏枝さんというお名前での――お仕事をご存知の方もいる

かと思います。テキスタイルや染色でインスタレーションなどをつくっておられるアーティス

トの方ですが、本日はオさんの作品が、李さんのお話とともにビジュアルで提示されます。作

品と李先生の言葉の、つまり 2 つのメディア表現の共演といいますか、それらが斬り結び、そ

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して協調し合いながら、ここで起こす作用というか反応というか、そういうものを目撃し、私 たちもそれに参加させていただくという機会になるかと思います。

ちなみに、オ・ハヂさんの作品は、こちらもコピーとして皆様のお手元に配られている李静 和さんの編著書ですね、そこにも登場して参ります。『残傷の音』という本ですが、レベッカ・

ジェニスンさん始め、いろいろな方がご論考のなかでオさんの作品に触れていらっしゃいます。

それでは、李先生、よろしくお願いいたします。(拍手)

「残骸にふれること 残骸にふれること 残骸にふれること…… 残骸にふれること …… ……岡村 …… 岡村 岡村 岡村

夏枝 夏枝 夏枝 夏枝

の黄麻(サンベ)の の黄麻(サンベ)の の黄麻(サンベ)の の黄麻(サンベ)の棲殻 棲殻 棲殻 棲殻

ス ミ カ

へ へ へ へ」 」 」 」

○李 静和氏:暑いですね。多分、今日が一番東京は暑いんじゃないかなあ。ここに来るのが 大変だったんです。でも、皆さん、こんな暑いなかで、本当によく来てくださいました。あり がとうございます。

そうですね、今日、私がここでお話しする形式、一応、講演という形はとっていますけれど も、形式そのものが、何か論考を書いて、皆さんに主張をしたり、あるいは発言をしたりする ことはできないと思います。もともとそういうことより、ひたすら考えるというか、考えて、

疲れると横になる、その反復ですね。そうやってなんとかしのいでいるんですけれども。

今日は、ずっと考えていることをひとつの糸にして、この国へ来て出会った友人たちの仕事・

作業へ私なりに応答する時間に、言葉でもって運ぶことができればと願っています。

私自身の母語である韓国語と、もうひとつの言葉、日本語との境界の場所、そこからいつも 聞こえてくる、ある耳鳴りのような、いまだにわからない場所ですけれども、そのときに、死 者たちの、「客死」というか。今、日本語ではほとんど死語になっていると思うのですが、こ の何十年「客死」のことをどこかでずっと思ってきたんだなということに、逆に気づきました。

そのどこかの、「客死」のどこかのほとりでさまよいながら手繰る姿を、私はどこかで考えて いたのかなと。

常に何かが影のようにあって、その“影のような”その領域を日本語でするのに至るまでに は……とても立っていられない、もしかして這い舞うことになるかもしれません。

今日、7 月 10 日、この真夏の下で、皆さんとの大事な時間をいただいておりますが、

「客死」とともに「残骸」の場所へと思っています。

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「残骸」に触れること、どういうふうにそれが可能なのか、あるいは不可能なのか。

ここで在日三世の作家オ・ハヂのことを考えています。岡村夏枝という名前、夏枝、非常に きれいな名前なんですけれども、韓国語では夏

と読みます。夏にゆらいでいる枝。15、6 年 前、初めてオ・ハヂに出会ったときのことを今でも憶えていますが、彼女の作品、彼女のもう ひとつの言葉、それに私自身の糸をひとつ重ねて、彼女の糸と私の糸がこういうふうに織り合 っていく、そういう作業をいつかできればなと思っていました。

ハヂのサンベ、

サンベは、地方によってその風習は違いますが、儒教の伝統の強い朝鮮では人が亡くなった ときに、ほとんどの儀式をこのサンベでもって行うんですね。

ハヂの祖母、おばあさんが亡くなる前に残した長い布、これがそのものなんですけども、黄 色い色のいわゆる麻、大麻をサンベと言います。

ここからオ・ハヂの作品の世界が広がってゆきます。あるいは始まることになりますが、そ

のサンベをたどる時間とともに、今考えている残骸にふれることへ、近づけたらなあと願いな

がら、今日、この場所にいます。

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ただ、今日は、私はいわゆる批評のようなことはしません。できないと思います。逆に言え ば、むしろ作家の作品を裏切っていくことになると思います。まるで違うところに持っていく、

あるいは移転させるかもしれません。

それはオ・ハヂの作品から

黄麻 ジュート 数多くの女性たちの手 祖母と孫娘 そっと渡すもの 遺言 糸を結びほぐしほどく手のあと

を丁寧に、オ・ハヂの作業の時間に重ねながら、読んでいくことになると思います。

( ( ( ( 生きながらえること、島・言葉 生きながらえること、島・言葉 生きながらえること、島・言葉 生きながらえること、島・言葉・ホンミョ ・ホンミョ ・ホンミョ ・ホンミョ ) ) ) )

ここでひとつの残骸の姿を考えてみたいと思います。

すべてがなくなった、しかし、すべてが残されている。

「残骸」の姿というか、この「残骸」のことを考えるときに、まだ名付けることはできない と思いますが、そういうことを、そういう何かの空間を、もしかしたら「残骸」というふうに。

朝鮮半島の南の南にある島、済州島からこの国へ私は渡ってきましたが、その島では 1947 年から 54 年までの長い間、島の人々を虐殺し続けた四・三事件

1

が起こりました。この四・三 事件をめぐる研究および作品などの蓄積が、タブー視されてきた厳しい条件のなかでも、それ でも多くの方たちの努力によってなされてきました。

その長い島の闘争と虐殺のなかで島の生存のための言葉といったらいいでしょうか、わかり

1 194731日を起点にし、194843日発生した騒擾事態、さらに1954921日までの武力衝突と鎮圧過程 のなかで住民たちが犠牲となった事件。(済州四・三特別法第二条の記録)

1948510日、国連臨時朝鮮委員団の監視下、南朝鮮だけで単独選挙が行われ、815日に大韓民国政府が樹立し た。さらに、99日に北半部で、朝鮮民主主義人民共和国が樹立し、南北それぞれに分断国家が成立することになった。

しかしそれに先立つ43日済州島で、南朝鮮単独選挙は朝鮮分断に連なるものとして、民衆蜂起が起こった。これに対し、

政府樹立後もアメリカ軍の指揮下、軍警や西北青年会など右翼テロ団による凄絶な島民弾圧が行われ、130余りの村が焼か 3万とも5万ともいわれる無実の島民が虐殺された。(「済州島四・三事件65周年追悼の集い」パンフレット)

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ませんが、済州島で使っている言葉は、今の沖縄の方言と同じように、ほかの地域に住んでい る朝鮮半島の人たちがほとんどわからないぐらい違う方言です。1947 年から 7 年、 8 年、長く 続いた悲惨な虐殺、そのなかで、陸地、韓国の半島から軍隊、名前もまさしく完全討伐隊とい う部隊が当時の李承晩政権によって送られます。

九連隊、二連隊、幾つかの部隊、その部隊の兵士たちのなか、生き残った何百人の兵士たち の証言をめぐって、いくつかの研究がおこなわれていますが、そのいくつかの研究から読み取 れる事実があります。討伐隊と生きのびるために必死であった住民たちの間に交わされた言葉。

そのなかではある残骸としての日本語の姿がありました。

かつて沖縄でも方言でしゃべると、間諜として見なされるという事実がありました。それと はまったく同じ状況ではないかもしれませんが、討伐隊は“流配地”、“敵地”とした島の人々 を赤と見なし、暴徒と名づけ、無差別に虐殺します。そのなかの日本語ですね。

ここで兵士たちの証言を見ます。“島の人々は誰でも暴徒のように見えた、言葉がまったく 通じなかった、日本語で話すと通じるようになった、なぜかほとんど日本語がよくできた、日 本語を使った以降は大丈夫だった

2

”。このような証言からあらわれる、島の言葉と日本語の間。

さらに、島の人々を異民族、あるいは劣等民族のように見なすきっかけにもなった島の言葉と そこから生きのびるための日本語の間。

残骸としての日本語、島の人々が確実に覚えていたその言葉、その日本語。

その姿を、その島から逃れてきた詩人キム・シジョン(金時鐘)の“日本語”、そして今こ こにいる私自身の日本語のなかからもその姿を見てしまうのです。

2011 年 3 月 11 日、けっして忘れることのできないことが東北の地方で起きました。それか ら、しばらくたって東京から帰郷した若い友人のいる南三陸へ私は向かいました。 2012 年の春、

5 月です。

そのとき本当に何と言うのでしょうか。何も、いまだに言葉にならないのですが、すべてが

2 ホ・ホジュン「済州四・三の時期 討伐隊の済州島認識と大量虐殺の論理」、キム・ウンヒ「九連隊、二連隊出身兵士た ちの証言 採録の成果と課題」、『タランシ洞窟の四・三 遺骸発掘二〇周年記念全国学術大会の報告書』2012329 日。日本語未訳。

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なくなったところ、何もない、しかし、すべてが残された、その海の、それを“瓦礫”とも言 われましたが、残骸の海、何もない、しかし、すべてが残されているその場所に立ったときに、

お互いに会えない死者たちの、死者たちの、死者たちの。

しかし、まだ行方がわからない。残されている日常の破片たち、ある種の異物のように積み 重ねられているものたち、それから、それにさわっていたり、触れていったような、そういう いろんな時間たち。あの海の近くの南三陸のすべてがなくなっていて、しかし、すべてが残さ れた場に立った瞬間……、これをどう名付ければいいのか、そのことが、なぜか重なってきた わけですね。

“何かがあるんだけれども、しかし何もない、でも、すべてが残されているような”。

もう一度島のところに考えを移します。島のもうひとつの「残骸」ですが、ホンミョがあり ます。これは日本語で何と訳せばいいのか、

あえて言えば、虚の墓、仮の墓ですね。仮の墓。

先ほどお話しました四・三事件という長い虐殺の時間、島のほとんどの人々がいなくなった 事件、その後、残された人々がお墓をつくる。しかし、お墓をつくれない、行方不明になり探 せない遺体をどうすればいいのか。そのとき、どこにもない、しかしどこかにはあると思い、

その求めを込めて、仮につくるお墓ですね。行方不明になって、あるいはわからない、そうい うときにつくるホンミョ。たくさんの場所に、村ごとに、今現在までもつくられています。

起き上がる遺体たちを抱えて生きる余分の時間 生きながらえること 島の生存の言葉 残骸の日本語

瓦礫とともにある葬 仮の墓 ホンミョ 瓦礫にかたちを与える

残骸の場所に立ち止まること

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( ( ( ( 秋田 秋田 秋田 秋田雨雀・ 雨雀・ 雨雀・土方 雨雀・ 土方 土方 土方  ・  ・ ・ ・オ オ オ オ ハ ハヂ ハ ハ ヂ ヂ・シン ヂ ・シン ・シン ・シン ドンヨプ ドンヨプ ドンヨプ ドンヨプ ) ) ) )

「骸骨の舞跳」という作品を覚えていますか。

1923 年、関東大震災の後に皆さんご存知の朝鮮人虐殺事件が起こります。まもなくして 1924 年、青森出身の作家の秋田雨雀(1883 年-1962 年)が書いた戯曲です。「演劇新潮」に発表 したものの、この作品のために同誌は発売禁止となり、結局、何十年後にやっと全体が今、こ うやって読めるようになっています。

あの当時、東京ではかなりの混乱が起き、そういうなかで人々はさまざまな地域へ避難して いきます。救護班が設置され、そこでは避難してきた人々が、一緒に眠ったり、食べたりした わけですが、その救護班のテントのなかのひとつの時間を秋田雨雀が戯曲にしたものです。

少し読んでみます。

3

自分の孫や家族たちが死に、大変な目にあって避難してきたある老人ともうひとりの避難者 である青年の間で次のような対話がなされます。

靑年 (笑ひながら)火事ぢやありません、汽關車の音ですよ。こゝは東京から百五十里も離れた ところです。地震も火事もやつて來やしませんよ。

老人 さうでせうか?……でも朝鮮人が火をつけて歩いているといふ噂ぢやありませんか……ほん とに怖ろしいことですね……。

靑年 (語氣を强めて)あなたもそんなことを信じてゐるんですか? 僕等はもう少し自信を持ち ませう。僕は出來るだけの事を調べて來てゐるんです。

老人 さうですか?……でも嘘にしては大變な嘘をこしらへたものですね……この噂から、汽車の 沿道で、澤山の朝鮮人が殺されているといふのは眞 實ほんとうでせうか?

靑年 それは眞實です。僕は昨日から色々な事を見せられて來ました……僕は日本人がつくづく嫌

3一緒に参照するものとして「一九一三年一〇月、内務省警保局長から各府県長官宛に「朝鮮人識別資料ニ関スル件」と題 した一通の秘密文書が発送された。同文書は「近時短髪和洋装ノ鮮人増加ニ伴ヒ形貌漸次内地人ニ酷似シ来リ殆ンド其 甄 別

けんべつ

ニ苦ムモノ有之」と言い、識別のための資料を送付したのであった。つまり、「内地」の警察は治安上の必要から在日朝鮮 人の取締りを必要としており、そういう取締りの第一歩は朝鮮人を見分けることからはじまるものであった。同「識別資料」

は、「骨格及相貌」「言語」「礼式及飲食」「風俗」「習慣」の項目に分けて、朝鮮人の見分け基準として提示している。」

(李昇燁「第5章『顔が変る』―朝鮮植民地支配と民族識別」 竹沢泰子編『人種の表象と社会的リアリティ』岩波書店 2009 年)

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やになりました。もう少し落ちついた人間らしい國民だと思ひました。それが今度のことですつか り裏切られてしまひました。この絕望は可なり深いものです。

(この會話の間に奥にゐた一人の男が顏を上げて、二人の方を視つめてゐる。眼を異様に 輝かしてゐる。)

老人 私は何にも知りませんけれども、朝鮮人が何もしないのだとすると可憐いさうですね……何 うしてまたそんなに亂暴なことをするんでせうね?

靑年 あの人達には自信がないんです。他人の着せた衣服を大事に着てゐるだけです。僕は國民と して日本人には失望しましたが、人間としての日本人には失望してゐません。何處の國民でも、人 間としてはみんな善良な無邪氣なものです。

老人 でも……私は日本人ですから、やつぱり日本人はいい人間だと思つてゐます……。

靑年 さうです、僕もさう思ひたいんですけれども、昨日から日本人のしたことを見てゐると、こ れが同じ同胞のやることゝは何うしても思へなかつたんです……あんなところを見た人でなければ、

とても僕のこの氣持ちは解らないでせう。

老人 何しろいやな世の中になつたものですな……あなたはこれから何處へいらつしやるんです か?

靑年 僕は靑森の方へ歸ります。靑森には 兄 妹きやうだい達がゐるんですから……。*

ここで自警団たちが入ってきます。自警団たちはそのテントのなかにいた、“朝鮮人らしく 見える”ある若い人に向かって、

(自警團員は提灯を振り廻はして避難民の中を歩き廻はる。看護婦は蒼白な顏をして一團

の後を追うて行く。)

(自警團員の一人は、老人と靑年の背後に小犬のやうに蹲んでゐる一人の男の周圍に立 つ。)

鉢巻 こいつだ!……こいつだ!……提灯を出せ……皆なこの顏付を見ろよ……。

ある男 (二十四五歳の勞働者風の男)僕は何もしないんです……。

學生 (眞似をする)僕は何もしないんです……。

陣羽織 やつゝけちまへ……やつゝけちまへ!

甲冑 亂暴なことをするな……己れが今調べて見るからな……おい、犬、お前は朝鮮人だらう?

嘘を言つちや爲にならねいぞ……。

(10)

ある男 僕は日本人です……皆さんは何をするんです?

學生 「ぼくは日本人です」……そんな日本人があるかえ?

甲冑 靜かにしな……お前の名は何んてんだえ?

ある男 僕は北村吉雄つて言ふんです……。

(自警團員は笑ふ。)

甲冑 ふむ。北村吉雄か……年は幾つだえ?

ある男 僕二十四歳です……。

甲冑 ふむ、何年生れだえ?

ある男 (非常に苦しむ)僕……僕……僕……。

(自警團員一齋に笑ふ。)

靑年 (急に立上つて)よし給え! 君達に何の權利があつてそんなことを聞くんですか? そ んな權利を何處から持つて來たんです?

老人 (はらはらして)およしなさい……およしなさい……。

甲冑 (靑年を見て)君は一體何んだえ?

靑年 (靜かに)僕は人間です……。

甲冑 それや人間にきまつてらあ……人間か獸かつて聞いてるんぢやない、何ういふ人間かと いふことを聞いてるんだよ……。*

そこで先ほどから老人と話していたその青年が、その自警団たちに向かって声を上げます。

靑年 (……)君達のいふやうに、この人は朝鮮人かも知れない、しかし朝鮮人は君たちの敵では ない。日本人、日本人、日本人、日本人は君たちに何をしたらう? 日本人を苦しめているのは、

朝鮮人でなく日本人自身だ!*

戯曲の後半のところで、ついにその青年は自警団たちに、

靑年 (……) 化石しろ、

醜い骸骨!

化石しろ、

醜い骸骨!

化石しろ、

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醜い骸骨! *

発表されたのは 1924 年、禁止された何十年を経て、その後、この朝鮮人というところの、

朝鮮という字を消して発表されます。秋田さん自身は自分の戯曲について、無知というか、あ る無知に怒りを感じたということで、一種の「死の舞踏」を考えていたと言っていますが。

骸骨の舞 加害の記憶 自分になにをしたのか 繰り延べられる残骸ひとつひとつ

少し場所を移転して、死の身振りを考え続けた、ある人のことを思い出したいと思います。

偶然にも島のゲリラとして生き、あの死の時間から、虐殺の時間から、残された私の父と同じ 年に生まれ、父と同じく 50 代で亡くなった秋田の土方(1928 年-1986 年)、彼の言葉をこ こで照らし合わせてみます。

舞踏を成立させているものも、やはり傷という技術なのだが、舞踏はその傷にすでに 形かたちという戒め を、告げてもいるのだということを重視する必要もあろう。*

かたち

という戒めを、告げている。

先ほど影の領域という言葉を言いましたが、その影とどこかでつながるのか、もしくは遮ら れていくのか。彼の言葉をもう少し引いていきます。

そのとき私は言葉の及ばぬ世界にふれたのであった 死は硬直であり生の頽落かも知れぬが、そこには、

生からの発言を受けつけぬ断固、、たるものがあった

柔らかい生の名残を侵し、顔容は締って光り、肉体を、

あるもの、、と化せしめてゆくのを見た。私は死の 威厳、、が徐々に浮きあがってくるのをそこに感じた。

死は千万言を吸いとって返答、、はない

(12)

(……)死は生の発するいかなる音声をも吸いとって反響、、しない *

しかしです、

死者はすでに、死を裏切っているかもしれません。

こうして私はやっとオ・ハヂの、残骸のなかを舞う、裏切りの身振りのなかへ、たどり着け るのかなと思います。

2013 年 3 月、大雪のなかの青森を訪ねました。青森市所蔵作品とオ・ハヂのコラボレーシ ョンが行われている国際芸術センター青森をおとずれました。作家がちょうどこの 10 年間続 けている作業だと思いますが、ここで、これまでの道のりを少したどっていきたいと思います。

彼女のサンベですね。祖母が亡くなるときに残されたサンベ。 1912 年生まれで済州島の島か

ら 10 代の頃この国へ渡ってきた祖母が亡くなる前に残したサンベです。

(13)

それからもうひとつ、残されたチマチョゴリ。まるで隠されているかのように、島の小石で つくられた畑のタム(壁)がサンベの糸の間から滲んであらわれる、チョゴリの姿のおんなた ち。刻まれている、しかしうっすらとしかあらわれてこない、ある姿たちですが、これは彼女 の作品のはじまりの場所かもしれません。

もうひとつは残された祖母の遺品、このチョゴリを壁に掛け、それを作家自身が撮影したも のです。

その後の彼女の作品・作業は、常にこのチョゴリの姿に見つめられているようにも思います

が、スカート、朝鮮語ではチマと言いますが、そのチマをつくる時間がしばらく続きます。

(14)

「花斑─かはん─」。これはさまざまな試みを経てついにあらわれた作品のひとつだと私は 思っていますが、ここで少し制作の過程での作家の言葉をお伝えしたいと思います。

ガラスの器の中には数本の針が収まっている。針の先は針山に刺さっている。それぞれの針穴に は糸が通され、隣り合う糸は結ばれ、ガラスの器から糸が湧き上がり、器にそって網の目にひろが っていく。そして、床にむかっておちていく。その糸の端は、チマ(スカート)へと繋がっていく。

チマ(スカート)は、今まさに脱ぎ捨てられたように空気を含んでいて、そこには、身体のぬくも りが残っているかのように、柔らかな明かりが点っている。明かりにともされたチマ(スカート)

の表面には、うっすらと花模様の刺繍が浮かび上がっている。

(15)

針の縫い目

チョゴリからチマまで そして花斑へ ひっくり返された洞窟 針を飲み込んであらわれた 殻の身体 残骸

残骸の場所

(16)

作家はどこかで常に身体のぬくもりのようなものを求めつつ、そこで作品を糸との出会いで もってつくっているようにも思われますが、彼女のこだわっているぬくもりや皮膚の感触とい うより、逆に作家の意図を裏切ることになるかもしれませんが、ここで私は今考えている「残 骸」に触れるところに持っていきたいと思います。

遺品、あるいは残された何かの、そのものが抱えているある種の沈黙。言い換えれば、作品 そのもののまなざしの、作品そのもののある沈黙のところに、私はなぜか引かれていきました。

この「沈黙」は、鵜飼哲さんが、ある文章のなかで触れました、

作品の「まなざし」の強度とでも言うべきものである。それは、現状の力関係を反映せざるをえ ない言説にはない「沈黙」に固有の「正しさ」、「無条件の呼びかけ」をはらむものだった。

と言うときの沈黙の場所につながると思います。

沈黙、そのものの固有の正しさ、あるいは、無条件の呼びかけをはらむもの、残骸の姿。

(17)
(18)

気配があるのを我々が感じるというよりは、気配を形にすること、それを繰り返し、繰り返 し、反復するオ・ハヂの作品のなかには、それがある種の時間性を持ってあらわれているんだ と思います。この時間については綿密にたぐる必要があるとは思いますが。

残骸に触れるある道を彼女の作品から、制作過程の彼女の言葉をお借りしながら、もう少し

たどっていきます。

(19)

青森の作品ですね。もうこの段階で、彼女は絹から離れることになります。均一した糸の絹 のところから、ジュートというか黄麻のロープに入っていきます。ジュートロープ、これは非 常に粗いものです。

幅が 8.8 メートル、高さ 6 メートル、奥行きが 35 メートルのスペースを完璧に覆った作品 ですね。天井ぎりぎりの壁から作品が垂れ下がっています。

このジュートロープは作家の制作ノートによると、バングラデシュの女性ひとりひとりが撚 ったものを、福井県の団体が輸入し、それを取り寄せたもので 、“機械が製糸する均一感とは 違う彼女たちの手の痕跡を残している”ものだということです。

このジュートで作った作品を見るため、少し時間を前に戻します。ジュートで織ったものを 今度は石膏で全部固め、それを壁に覆います。それが棲殻

ス ミ カ

、殻ですね。殻にしてしまいました。

ジュートのロープで編んだものを、壁に掛けると同時に、それを石膏で固めて、もう一回、死 なせる。ひとつの棲殻の作業、住む殻の仮の墓ですね。棲みの殻。

遠い遠い、もう、気が遠くなる、長い時間のなか、ひたすらほぐしていく、また結ぶ。特に ジュートは非常に粗い、原料に近いものですので、手に染みた色あせた血の痕跡は、ほぐして はまた結ぶ反復のその時間とともに“管”になってあらわれます。下にはほぐしたものがその ままになっていますが、こうなってくると、最初のころの彼女の作品の言葉、記憶、あるいは 物語、そういう言葉のタイトルが消えていきます。untitled へ。

ひたすら、黄麻のジュートのロープをほぐしたり、あるいは結んだりとする作業。

(20)

どこからなのかわからない、そのどこからかはじまってくる、垂直とはけっして言えないこ

の“くだり”を含み、オ・ハヂの作品のなかの止まっているように流れている時間のことを考

えることは、ここでは留めておきたいです。

(21)

もう一度青森に戻ります。「

大雪のなか、青森にたどり着きました。

帳がありました。

8月17日収蔵庫での調査

へ。いつものように机に資料を出し、床に布を敷き、カメラ、手袋を出し、準備をはじめる。この 日の予定は、カヤ、下着類の調査。収蔵室内でカヤの入った箱を見つけるも、高い所にしまわれて おり、職員の方にお手伝いいただいて箱をおろす。その箱を開けると、一枚の半紙に墨書きで手紙 がしたためられていた。

制作者 吉川ひさ 明治二年生

昭和三十八年二月八日 明治十年 麻の種を植える 麻の繊維を取り、その麻を織り

自分でカヤを作り、嫁入り道具として持参 金具も付いていたが戦時中

貴金属と共に提出し、現在は付

「針々

しんしん

と、たんたんと」。

たどり着きました。この空間のことは今でも思い出します。

日収蔵庫での調査5日目。10時半すぎ、収蔵庫に到着。職員の方にあいさつをして2階 いつものように机に資料を出し、床に布を敷き、カメラ、手袋を出し、準備をはじめる。この 日の予定は、カヤ、下着類の調査。収蔵室内でカヤの入った箱を見つけるも、高い所にしまわれて おり、職員の方にお手伝いいただいて箱をおろす。その箱を開けると、一枚の半紙に墨書きで手紙

吉川ひさ 当時十五才

昭和三十八年二月八日 九十四歳で死亡 麻の種を植える

麻の繊維を取り、その麻を織り、

自分でカヤを作り、嫁入り道具として持参 金具も付いていたが戦時中金物提出の折、

に提出し、現在は付いていない

孫 北畠みつ *

今でも思い出します。そこには蚊

時半すぎ、収蔵庫に到着。職員の方にあいさつをして2階 いつものように机に資料を出し、床に布を敷き、カメラ、手袋を出し、準備をはじめる。この 日の予定は、カヤ、下着類の調査。収蔵室内でカヤの入った箱を見つけるも、高い所にしまわれて おり、職員の方にお手伝いいただいて箱をおろす。その箱を開けると、一枚の半紙に墨書きで手紙

(22)

「残骸」に触れる。

すべてがなくなった、しかし、すべてが残されている、その気配 そういうオ・ハヂの棲殻

ス ミ カ

を、死者の時間との その場所、沈黙の姿に触れようとしてみました

「残骸」に触れること、それ自体 このオ・ハヂの何も語らない、

反復しかない、糸、黄麻、ジュート 残されたものそれ自体というよりは

ついてくる独特な“乾き”。

作家オ・ハヂの姿勢ですね。

しかし、すべてが残されている、その気配を形にする。

を、死者の時間とのある近さ、そういうことを考えながら 触れようとしてみました。

に触れること、それ自体の可能性、あるいは不可能性、

何も語らない、生理的な感情あるいは感触がそぎ落とされ ジュートとの時間。

残されたものそれ自体というよりは、むしろそこから仮のものを再びつくり出すとき

を形にする。

そういうことを考えながら、

生理的な感情あるいは感触がそぎ落とされ、

そこから仮のものを再びつくり出すときに、

(23)

再び戻ってくる記憶たち

遠い遠い記憶たちが重なり どこにもなかった未来を呼び戻す 地面から起き上がる遺体たち 苦痛の移転

踏みとどまる地点 捨て置かれた時間

しかし残されるある親密感

済州島 青森 南三陸 秋田の残骸の

その地面から起き上がり再び覆っておりてくる ハヂの花斑 黄麻の棲殻

ス ミ カ

最後にもう一回、ある死のところに戻ります。死者との非常に近い場所。死者になっている 自分自身を見つめるひとりの詩人の言葉、シン・ドンヨプ(申東曄、1930 年-1969 年)の言 葉を、在日の詩人でもあり、すばらしい翻訳家でもあったカン・スン(姜舜)の翻訳で紹介し ながら、この時間を終えたいと思います。

遠慮などいりませぬ 気ままに往き来なされ

なきが如く空けておいた私の場所。

来たりて、歌に踊りごちゃ混ぜに

気のすむまで踏み鳴らしつつ暮らしなされ。

ひとしきり笑い興じた一群が去ったら 私は死んだまま眼をむき

切り刻まれた額に胸や腰

荒涼たる冬の野を見渡すつもりだよ。

陽や吹雪、愛や呪文、

何ひとつ報いることもなく

(24)

転び落ちていったことは

いまなおわが峰そそり立つ恵みあればこそ。

燻れば また崩しましょう 世の中より、

白紙一枚ほど低い場所へ

私の私

なきが如く横たわり。

潔よく千万年与えつづけましょう

愛と憎しみ縺れ合って水に馴れるように。

風に風がまじり合って生きられますように。

*

ありがとうございました。

2013 年 7 月 10 日 李静和

(25)

*[引用テキスト]

秋田雨雀「骸骨の舞跳」『現代日本戯曲選集 8』 白水社 1955 土方『土方全集Ⅱ』 河出書房新社 1998

申東曄、姜舜(訳)「私の私」 『申東曄詩集 脱殻は立ち去れ』 梨花書房 1979

呉夏枝 Haji OH

京都市立芸術大学美術研究科博士号取得。主に染織、刺繍、編む、結ぶなどの技法をつかって作品を制作。民俗/族衣装を 象徴や記号的にとらえるのではなく、第二の皮膚としてとらえ、自ら染め、織り、仕立てるなどして作品を制作。近年では、

織物や、編み物を記憶や時間が織込まれたメタファーとしてとらえ、織りものをほぐすことで織り込まれなかったもの、言 葉として表れなかったもの─「沈黙の記憶」─を顕在化しようとするインスタレーションや、音声や写真を使った作品など も展開している。主な展覧会に2013年呉夏枝×青森市所蔵作品展「針々と、たんたんと」国際芸術センター青森、2012

「VOCA展」上野の森美術館、2011年「Inner Voices─内なる声─」金沢21世紀美術館、2010年「やっぱり本が好き!国 際ブック・アート・ピクニック」中之島図書館(大阪)、2009「HOME」国際芸術センター青森、など多数。大阪在 住。最近の展示にEX・POTS 2011-2013展「光のけはい、ゆらめく影」(2014、ブレーカープロジェクト、大阪)がある。

http://hajioh.com/

*[オ・ハヂ 引用テキスト]

夏枝×青森市所蔵作品展カタログ「 針 々

しんしん

と、たんたんと」 国際芸術センター青森 2013

[オ・ハヂ 写真引用作品]

「三つの時間」(2004)

サンベ(大麻布)、アイロンプリントペーパー

「彼女の見つめる風景」(2008) 絹糸、真鍮製フック

ほぐし絣、抜染、ネットワーク

「花斑─かはん─」(2007)

ポリエステルオーガンディー、絹、針、鏡、

アクリル、電球 刺繍

「記憶の棲 殻

スミカ

」(2010)

ジュート(黄麻)ロープ、銅線

「妹からのてがみ」(2009)

ジュート(黄麻)ロープ、刺繍枠、針、蜜蝋、鉄製フック ニッティング、マクラメ

「untitled」(2010)

ジュート(黄麻)

かぎ針編

「untitled」(2011)

ジュート(黄麻)ロープ、銅線

「あるものがたり」(2010)

ジュート(黄麻)ロープ、絹糸 オリジナルテクニック

写真協力:呉夏枝、豊永政史、山本糾 国際芸術センター青森

(26)

○司会・豊田由貴夫:李先生、どうもありがとうございました。

ちょっと時間がとれますので、会場から質疑応答の時間がとれるかと思います。

あと、今日は、オ・ハヂさんがいらっしゃっているんでしょうか。

○李 静和氏:はい、そうです。いらしています。オ・ハヂさん、どこに座っていますか。

○司会・豊田由貴夫:あるいは、一言、コメントいただきましょうか。もしよければ。

○李 静和氏:ぜひ。マイク。(拍手)

○オ・ハヂ(呉夏枝)氏:初めまして。オ・ハヂといいます。よろしくお願いします。

今日は、私の本当に尊敬する李静和さんに、これまでずっと作品も足を運んで見にきていた だいて、こういうふうに李先生を通していろんな人に作品を見ていただけて、本当に感謝して います。ありがとうございます。(拍手)

○司会・豊田由貴夫:ありがとうございます。

会場から、もし、ご質問ありましたら、あるいは、オ・ハヂさんにでもご質問ありましたら 受け付けたいと思いますけど。いかがでしょうか。

○李 静和氏:ぼーっとしているので、皆さんから質問を受けても、何も答えられないかもし れませんが。

○司会・豊田由貴夫:私からちょっとよろしいでしょうか。

今日、オ・ハヂさんの作品を紹介していただきましたけど、オ・ハヂさんから紹介の仕方に ついて、もしコメントをいただければと思ったんですけど、いかがでしょうかね。

○李 静和氏:自分の作品の前で作家は言いにくいかもしれませんね。

○司会・豊田由貴夫:そうですね。作品は、一度作品になった以上は、もう解釈は鑑賞する人 の側にゆだねられるようですけれども、今日の李先生の解釈について、もし、コメントでもあ ればと思っているんですけども。特にいいですか……。

○オ・ハヂ(呉夏枝)氏:難しいんで、ないですね。

○司会・豊田由貴夫:難しい問題。もし、一言でもいただけるのなら……。ちょっと出てきて いただいてよろしいですか。

○オ・ハヂ(呉夏枝)氏:大変難しい問題だと思います。

いろんなことを考えながら作品をつくっています。いろんなふうに作品を解釈してもらった

らいいとも思っているんですが、殻ということは、私のなかではすごく意識している部分では

あります。それは、やっぱり私が製作を始めたきっかけというのが、この今、前にスライドが

写されている李先生が、静和さんが紹介してくださった私のハルモニの遺品のチョゴリなんで

(27)

す。それがスタートです。

チョゴリを祖母が亡くなった後、部屋にかけておいたんですね。そのときに、そのチョゴリ の脱け殻というか――チョゴリが脱け殻に見えたというか――そこにチョゴリしかないんだけ ど、私の祖母を見たんですね。

そういう私がチョゴリに対して向けている視線とか、そういうものが作品にあらわれたらい いなというふうに思いながらつくっている部分はあります。それが、具体的にこういう着るも のの形をしているときもあれば、ほかの形になっていることもありますが、そういうところに 触れてもらったなというふうに思います。はい。

○司会・豊田由貴夫:ありがとうございました。もう、無理やり引き出してしまいましたけれ ども、どうもありがとうございます。

会場からいかがでしょうか。

では、ちょっと内輪なんですけれども、先ほど紹介していただいた新田啓子先生、お願いい たします。

○新田啓子:すみません、お許しいただければ。

今、オ・ハヂさんのお話を聞いたうえで、先ほどの李さんのお話をもう一度反芻してみると、

「残骸に触れる」と言った際の残骸の意味として、「すべてが残されている」ということをお っしゃったと思います。

日本風に言うと「空蝉」という言葉もあるんですが、おばあさんが今はいらっしゃらない、

でも、この脱け殻になったチョゴリをかけて、そこにおばあ様をごらんになったというその言 葉に、「訪れる記憶」を受けとめる行為が表れていると感じました。まだ実はそこに残ってい るすべてものを私たちが受けとめ、それに応答するということ。その行為が、オ・ハヂさんの 場合は創作に結びついているんですが、その際、このチョゴリに応答していくというひとつの 行為が、なぜチマをつくるという行為になったのかということについて、もうちょっとお話し いただければなと思います。チマをつくりつづける、チマをずっと与えつづけるということ―

―白い絹の作品を拝見したと思うんですが――チマをつくるのはなぜかという点に、お二人の 対話が表れると思うのですが。

○司会・豊田由貴夫:これはお二人にできれば伺ったほうがよろしいですかね。

李先生と、それからオ・ハヂさん、もし、チマについて、チマをつくるということについて ちょっと語っていただければと思いますが、いかがでしょうか。

○オ・ハヂ(呉夏枝)氏:チマをつくること……、チマをつくることというのは、いろんな意

(28)

味があるんですけど、女性が着るものであるということもそうだし、あと、幾つかの作品は、

私のなかで下着のチマをイメージしているということもひとつあります。

もうひとつは、チマチョゴリを着たときに、女性が座る姿勢があるんですけど、立て膝をつ いて座っている、そのふくらみとか、そういう形からイメージされるものというのを私は意識 してチマをつくるように……、そのなかにある空間を、そのなかに何があるのかというのを想 像させる形として、チマはあるんじゃないかなと思ってつくっているというのもあります。

○司会・豊田由貴夫:ありがとうございます。

もし、李先生、何かコメントをいただければ。

○李 静和氏:実はもうひとつの領域があって、なぜ、ハルモニなのか、この“ハルモニ”の 領域。これを今、もちろんチマと言ったときのぬくもりとは、断ち切ったところから、全く違 うハルモニという存在を。

オ・ハヂの作品、それは偶然かもしれませんが、あるはじまりのところに、やはりハルモニ なんですね、脱け殻のこのチョゴリという領域。

ハルモニというこの領域をどういうふうに思想として語れるかを常に考えていますが……。

○司会・豊田由貴夫:ありがとうございます。オ・ハヂさん、よろしいですか。

新田先生もよろしいですか。

ほかにいかがでしょうか。あるいは、今日のお話に関連しなくても、ぜひ、李先生にお聞き したいこととかありましたら、受けられると思いますけれども。

○李 静和氏:日本語は大丈夫でしたか。

○司会・豊田由貴夫:はい。

じゃ、質問いただきましょうか。

○質問者:今日はありがとうございました。

済州島の儀式のことで、韓国の儀式なのかもしれないのですが、サンベを弔いの儀式のとき にどういうふうに使うのかというのが、ちょっと私、知識がなくてわからないので、もしよか ったらオ・ハヂさんの作品で、そのおばあ様とオ・ハヂさんとお母様が 3 人写った写真、あれ がすごく印象的だったので、サンベというのは、どういうときに使われるのかというのを教え ていただけたらなと思います。

○李 静和氏:私もサンベのことが気になって、ちょうど島にいる母といろいろ対話をしまし

たけれども、子どものころ村のお葬式に行きますと、皆さんサンベの服を着ていました。私自

身も着たことがあります。男性の場合にはハンボクといって、それで羽織るものまでつくるわ

(29)

けですが、さらに帽子みたいに被るものがあって、その上を結ぶものとして済州島のススキを 使います。島ではススキが身近なもので、黄麻のジュートのように非常に粗いのですが、それ でもってひとつのひもにして結んだりします。女性の場合は直接髪をススキのひもできれいに 結びます。

もちろんサンベは、科学的にやっぱり風通しがよくて、亡くなった方の遺体を安置するまで には時間がかかりますので、そういう意味で空気を通して、さらに、清潔に保つための布とし て黄麻が使われたようです。黄麻が持つ性質から選ばれたという経緯もあったようですね。

○司会・豊田由貴夫:質問の方、よろしいでしょうか。じゃ、前の方。

○質問者:質問というより、ちょっと先生に、私も韓国人で、どれぐらい聞きたいことが通じ るかわかりませんが、私が李先生の文章に触れるときには、何か言葉であるというよりも空間 的なものを常に感じ、空間とか表現できないある種の何というか、何か温かみというか、そう いった普通にほかの研究書籍を読むときと違う、そういう空間的なものを感じます。そこでち ょっと先生に伺いたいのは、作品というのは、ある意味で空間の表現だったりすると。それに 対して、書かれた言葉というのは、とても限られた線のような、線の概念と空間の概念のよう に常に思ったりします。一方、先生の今日提示された仮のお墓という、形はあるけれども、そ のなかは何もないというか、それは、記憶そのものという複雑な空間の概念のような気がしま すし、もうひとつの言葉、借り物としての済州島における日本語というものも、音としてはあ るけれども、実際、発する者にとっては、借り物の言葉で、それは生き延びたいという強い欲 望なり、何かもうちょっと深い悲しみのような表現です。なので、この2つを先生が残骸とい うふうに提示したのは、もうちょっと広い意味の可能性のようにも思えたりします。これは今、

自分の悩むところでもありますので、特にこの借り物、ホンミョ、仮のお墓と済州島における 日本語の表現に対する先生の思いというのか、そういうのももう少し詳しく聞けたらなと。ち ょっと質問が上手くないんですが、そういうふうに思いました。

○李 静和氏:そうですね……。

ちょっと答えられないですね、今のところは。

でも、既に私が伝えたかったある空間の感触というか、ご自分なりに今、つかんでいると思 うんですけども……、どうなんですかね、その辺は。

先ほど私が紹介しました、自分が死者になって、その死者を見つめる詩人のシン・ドンヨプ

(30)

の詩もひとつ、お墓のことで、まだ今日は話していませんけれども、仮のお墓とともにシミョ

4

があります。それもひとつ、死者とともに、少なくとも 3 年ぐらいそばで、日常をともにする ことですが、その行為も仮の墓ですね。

多分、私の思う、ものを考え、書くという行為は、この仮の墓、またはシミョの時間を生き ることではないのかなと思っています。

ただ、シミョ(待墓)の時間とホンミョ(仮の墓)の時間とは、また違いますが、そこから あらわれるのが空間として言えるかもしれません。

○司会・豊田由貴夫:よろしいでしょうか。ありがとうございます。

○李 静和氏:ありがとうございます。

○司会・豊田由貴夫:ほかにいかがでしょうか。お願いします。

○質問者: 今日、この黄色い紙を読んでますと、詩的緊張という言葉があって、僕、実はこの 詩的緊張という言い方は、初めて目にした言葉なんですね、どなたが書かれたかは知らないで す。私、李静和さんの文章を断片的に読んでいるんですけど、とっても興奮するんですね。今 日もお話を聞いてて、それが詩的かどうかは僕のちょっと感性が大したことないんであれです けども、すごく興奮しているんです。

ああ、よかったな、ちょっと何にもお返しできないけど、よかったなというところをふと見 ると、この詩的緊張とあって、この詩という言葉というのは、言偏に寺と書くんですね。言偏 に寺ということ自体が、何か殻、脱け殻みたいな、何かどこかで通じるものを僕なんかは感じ るんですね。寺山修司だと思いますけども、活字は言葉の墓場であるみたいなことを書かれた と思いますし、どこかに何か漢字というものが持っている身体性みたいなものが、李さんの何 か、ちょっと図抜けた言葉に対する手つき、繊細なものをも言葉が逆に引き出してもいるよう なおもしろさも含めて、とっても興奮しました。

今回は、このような話からジェンダー学の新たな導きを得ることを目指しているんですよね。

どのような導き方が今日の先生の話から導かれる感じがあったのか、その辺の感想を主催者に 聞きたいと思います。よろしくお願いします。

○司会・豊田由貴夫:なるほど、はい。

李先生が、今日、最初にお話ししたと思うんですけども、特に自分の主張をここで伝えると いうよりは、先生からお話があったのは、場を共有したい、それから、皆さんと一緒に考えた

4 シミョ(待墓) 喪の期間3年間、お墓のそばに仮小屋を建て暮らすこと。喪失を生きること。待つこと。

(31)

いというような趣旨だったと思うんです。はい、皆さん、それぞれの思惑で考えていただけれ ばというのは、私のとりあえずの逃げたような答えになってしまいますけども、これで皆さん のそれぞれのジェンダーに関する思いを考えていただくための材料にしていただければという のが、私からの意向です。

○質問者:ひとつのコメントと質問をさせていただければと思います。

私は、映画研究というなかで、在日の象徴であるとか、記憶の問題、あと沈黙ということに ついて考えてきたんですけれども、いつも象徴の問題を考えるときに、何か政治的な記憶であ るとか、政治的な何か言葉を使ってしまう、使うことが多かったんですね。

ただ、それとは別に、自分自身のハルモニやハルボジたちの記憶を考えるときに、そういう 何か、もちろんハルモニ、ハルボジたちの記憶というものにいろんな面で歴史とか政治という 問題がかかわっているかもしれないけれども、政治という政治の言葉では語れないようなもの があって、そういう何かもやもやしているものがあったんですけれども、何か今日、先生のお 話を聞いて、またハヂさんの作品を見せていただくことで、わからないもやもやしながらも記 憶になっているもの――ハルモニやハルボジたちの記憶かは、まだ私もわからないんですけれ ども――そういうもやもやを探って、たどっていきたいなというふうに思ったというのが、ま ずは感想というかコメントです。

質問のほうは、今の方のおっしゃられること、いろいろ共感するところがありました。

あと、その前の方の質問等も少し関連していて、関連しているんですけれども、李先生がお っしゃられた、何もない、しかしすべてが残された場所、あるというよりは、すべてがなくな っているということが日本語で語られるところに、私たちの想像や、思いの馳せ方がすごく喚 起されます。先生にとっては、この言葉、日本語でこういうことを語るということに、どのよ うな……、韓国語で同じことを語るよりも、このことは日本語でやはり語られることは何でし ょうか。

○李 静和氏:韓国語では語れないですね。自分の言葉は通訳も翻訳もできない。自分の今日 話した言葉は、翻訳も通訳もできない。今、正直、わからないです。

○質問者:とても本当に、先ほどの方もおっしゃられたように、緊張と喜び、もうすごく感じ るものが多くて、疑問に思ったことを口に出してしまいました。

○李 静和氏:「つぶやきの政治思想」を 1997 年に書いたときに、半世紀以上『火山島』を

書き続けていらっしゃるキム・ソクポム(金石範)先生が応答の文章で、“全景の一方とでも

いうべき忘却のなかに、「ふるさと」がある。断ち切ったか断ち切られて去ったか、作者の心

(32)

の海の上に浮かぶ忘却の島のことだが、その断絶のはざまに、ことばのこと、朝鮮語と日本語 との関係があり、それは意識のなかの言語機能の断絶を超える苦しい操作、たたかいを生み出 してくる。作者は日本語以上にもともとの母語でもある朝鮮語にすぐれているのだが、それで も朝鮮語でじかに書かない、からだが書くことを許さないのはなぜか。それは、ここが日本の 土地だからということではない。朝鮮語で書けば死ぬかも知れないし、とするとそれはなぜか”

と書いていました。そのとき、実は考えたくなかったですし、わからないままにしておきたか ったのですが、まさか 15 年もたって、今日、この場でその質問が再び戻ってくるとは思いま せんでした。

でも、わかりません、本当に自分の今日、ここでお話ししました、あるいは運びました、こ の日本語を自分では通訳も翻訳も全くできません。そこはまだ、わからないですね。わからな い領域です。

○司会・豊田由貴夫:はい、よろしいでしょうか。もうお一方で最後にしたいと思います。

○質問者:ありがとうございます。本当に久々に先生の話を聞いていて、とても嬉しかったの と、今、先生がおっしゃっていた、先生の今日の講演を聞きながら、最初は私も、自分が韓国 人なので、韓国語でメモをとりながら、ああ、これは韓国語でメモがとれないんだということ で、始まりの 10 分以後は全部日本語でメモをとっていったんですね。

だから、それ、韓国語で置き換えるその途端、もう死んでしまうというか、その意味が変な 形で、文字で残ったというのを自分が今、先生の講演を聞きながら、すごく経験をしたところ です。それと関連して、もうこれは質問としてまとめることができないので、感想というか、

ちょっと先生の今日の話で自分が得たものを申し上げたいと思います。

最初に、自分のなかで今の韓国語でメモがとれなかったという部分がずっと残っていたのは、

やはり島の人々が虐殺の嵐のなかで生きるために使った、その言葉が日本語であること。それ なりには四・三をやっているつもりなのに、それに全然気づかなかった、この自分の無知に対 して、すごく恥ずかしいと思いつつ、私は、この残骸としての日本語という言葉の異質性を思 い出しました。

それは、日本植民地支配でもなく、もちろんその後、3 年ぐらいたっているなか、日本では ない済州島で、その人たちが一番、人が本能として反応する、死を目の当たりにして出た言葉 が日本語というのは、今日、自分にとってすごく衝撃でした。自分にとって日本語というのは、

植民地時代にいろいろな被害を受けた方々がその時期を語るとき朝鮮語で語れない、そのとき

を語ることは、韓国の人々に向かって語るときも日本語でしか表現できないという部分です。

(33)

私は、それでしか体が覚えていない言葉という経験を人々がしていたのを、今日再び思い出し て、そういう意味での残骸としての言葉という部分を、今日、ちょっともう一回、思い出しま した。もうひとつは、最後に先生が関東大震災のときの朝鮮人虐殺の話をしてくださったんで すけれども、今年 90 年ということで、いろいろ調べるなかで、やはりそのとき朝鮮人たちが 死を目の当たりとして使った言葉は、アイゴだったんですね。

アイゴというのは、朝鮮人なら普通に本当に自然に出る朝鮮の言葉です。アイゴ、アイゴと 言ってどうしようということを表したため、あそこは朝鮮人だということがわかったという。

私はこの違い、つまり 47 年から 54 年の間、植民地支配が終わった済州島では、生きる言葉と しての言葉は日本語が残骸として残っている一方、 1923 年の関東大震災のとき、日本で生きる 朝鮮人の言葉は朝鮮語だったということこの違い――同じ残骸として残る言葉の時間、空間が 決定している違いという部分――を、今日すごく想像できました。そういう部分が想像できた のが、今日先生から訪れをいただいたことです。自分が、ちょっとその残骸に触れる可能性と いうか、創造力を今日は得たなということは、すごく嬉しくて、最後に一言、言いたかったん です。ありがとうございます。

○司会・豊田由貴夫:ありがとうございました。

司会の不手際で進行が上手くいきません、申しわけありませんでした。

それでは、本日の公開講演会、これでお開きとさせていただきます。

李先生、どうもありがとうございました。もう一度、李先生に拍手をお願いします。(拍手)

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