• 検索結果がありません。

『宗教研究』180号(38巻1輯)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』180号(38巻1輯)"

Copied!
137
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次――

論文

1,

儒教の宗教的性格, 宮川尚志, The Religious Character of Confucianism, Hisayuki MIYAKAWA,

pp.1-24.

2,

死の問題:その実存論的追求, 鈴木康治, On Death, Kōji SUZUKI, pp.25-44.

3,

宗教的人間の比較的考察:梁川・樗牛・満之, 松本皓一, Comparative Study of Three Religious Men:

Ryosen, Chogyu, Mitsuyoshi, K

ōichi MATSUMOTO, pp.45-65.

4,

仏教における絶対観, 田村芳朗, The Concept of Absoluteness in Buddism, Yoshirō TAMURA,

pp.67-90.

5,

キルケゴールにおけるキリスト教理解の諸傾向, 渡部光男, Tendencies of S. Kierkegaard’s

Understanding of the Christianity, Mitsuo WATABE, pp.91-110.

展望

6,

「個」の探究をめぐる東西諸思想の出会い:第4回東西哲学者会議の報告, 三枝充悳, Mitsuyoshi

SAEGUSA, pp.111-123.

書評

7,

水野弘元著『パーリ仏教を中心とした仏教の心識論』, 平川彰, Akira HIRAKAWA, pp.124-129.

Posted in 1965

(昭和40)年

(2)

"

それを措いては中国・東アジアの思想・文化, 社 会 に関して何も語り得ない儒教① 0 コ︵︵ - の @u 王 リヨ の 性格については もとより種々 な 立場から発言目がなされよ う 。 儒 教を宗教とみなし ぅ るか、単なる倫理・政治ない し 教育学説であるか という、しぼしば論議に上った問題についても・ ﹁それほ宗教の定義による﹂といった答えから 一歩進んで、中国の 全歴史を通じて存続し変化し、近接した諸国に 伝えられた儒教の歴史的本質を、諸時代の社会の 中で取った形態から 探究しょうとすることほ 、 私のあえて企及でき ない深い洞察と広い展望を必要とする。むしろ 儒 教の性格をどう見た 格 かという学説史の記述が先行要件であろう が 、一方でほ中国宗教史に関心を持つ者として、 粗雑ながら私見をまとめ

ない。小論はこの二つの目的の間に動揺する不徹 鹿な試論の域を出ないで の

制約され、今日においても宗教の定義が一部学者 において、キリスト教を範型として下されがちで あるが、この傾向を推し進めるなら、中国史に 現われる 儒 ・ 仏 ・ 道

土め

宮川

儒教

宗教的性格

-@ 卜け

(3)

る 。日本人が学習しだのぱ中国におけるごとく、 祭天をはじめとする多くの祭祀や複雑な家族 構 成 ・社会身分の段階 に 応じた喪服等の儀礼 丘 伴った儒教文化の体系で 井上哲次郎博士が﹁孔子 は 教育の鼻祖であり、 み なく経書の読解とその日常倫理の教 説 に従士 実 示教の祖師とみなすべきでない﹂と舌ロい、北村沢 践 を主とする儒学で 吉 博士が、宗教と あったことは、近代の日本字者の儒教観に対し - L もある種の制約を与えた。 儒教の相異として、前者は﹁絶対自我の否定者﹂ を後 ・者は﹁絶対自我を内に含めた相対自我の実 現者 ﹂を考え・﹁ ︵ 4 ︶ 随 って儒教に宗教的分子を含んでいても、決して 並 目 通に所謂宗教と同一視するを得ない﹂とするの はこの例である。 し 明治以来の日本においても東洋の文化・精神を 論ずる者が、﹁儒教は宗教にあらず﹂というとき 、み 示教という一般 概念の内側から露呈するキリスト教釣籠型に対 して論者の執る 評価に左右されることのあるのを - 避けられない。儒教 という東洋の﹁ 道 ﹂ ほ 宗教以上のものであるから 科学陰日日の現代において意義を失わないし、 倫 理体系であるゆえに 八 % 的 普遍性を主張しうる。こういう立場は西 洋の宗教とともにその 反 宗教的な科学文明をもさ ばく両刃の剣とな へているが、これも学問的立場によるというより 時世に応じようとする意図が見られる。 がどんな意味でそうなのかは学問的な議論とい・ ヮ より広い意味の政治的見解に左右されるのを 免 れなかった事情を示 している。この三学者と同時代の中国人、梁啓超 は 儒教に対する見方を時期により変改したが、 ﹁中国歴史研究 法補 編 ﹂︵一九三三において中国宗教史の内容を成 すものは外来宗教と民間 祀 神の宗教的習俗であ り 、中国固有の道教 は 民族の誇りにはならない否定面を有し、儒教の 祭祀に宗教要素なく、仏教は折口学としての面が 多いという見解を述

れらはたがいに排他的でない﹂と述べているが、 儒教の寛容性について前者は肯定的、後者は否 定 的である。これほ︵ ︵。 l ︶ 彼らが体験した清末民国初年の中国宗教思想の 一般的傾向に影響されたものである。儒教が宗教 であるにしてもそれ

﹁三教﹂はどれも簡単に∼

臼おずロと

呼ぶだけで

済むかどうか疑問である。スートヒル

の 00

@

@

1円二のドアⅡのの

0

@O

口の

Oh O

す %

Po

︶やフロ l

トロの

Qq

00

@ ,C

コ P

oq

の ョ の

目の︵

おト

㏄︶は﹁中国には三つ

宗教があるが、

(4)

がし北村博士が﹁儒道の潤

源は

一種の宗教上の観

念を含んで居る﹂が﹁孔子は自ら一派特種の宗

教を立てなかった﹂

目白われるとき、︵Ⅰつ

論議の的である儒教の歴史的変

遷を明らかにする必要と、宗教的性格を問題に

せずに儒教の倫理も

政治・教育説も十分に限定できないのではない

かという予想を与えられる。まず儒教の起源、

いで孔子自身の宗教

観、さらに孔子以後の儒教の発達における宗教

をそれぞれ考える必要が生ずる。

しかしその前に、そもそも儒教が宗教なりやいな

やが問題となった契機が中国が西洋の宗教文化

接触したことで

あることに注意した

。すなむち

カトリ

ック

の伝道に関し

こされた典礼問題と、清末

国初年の孔教会運動

とは、一は

西洋人が儒教を自分の宗教に対立する

宗教と認めたことであり、他は中国人が孔子を

教主として全学

学か

解釈した儒教を素材として宗教を作ろ

とした

点で方向

反対であるが、ともに西洋の衝撃に

よる産物であること

変りはないと言える。

十六世紀末、明代中国に伝道を開始したイエズス

会の基本方針は・海外布教に当り積極的で自由

精神をもって

散地の伝統的習俗・宗教を尊重し、キリスト教の

真理を曲げない限り、務めてその固有文化と調和

することであった。

その伝道者は西洋古典ならびに最新の科学に精

通し、布教地の指導

と接触し西洋文明を知らし

めることにより彼ら

キリスト教への関心を高めさせた。おりしも

学界に

拾顕

した目色レコ

ハ の 日とオ

0 す

半日

とは

伝道する者にもされ

者にも自由で寛容な態度を取るのを許し趨を奉ずる士大夫であることを知り、儒服し酌,イエズス会士

格る

づ、テオ

・リッチ︵刈穂

空 自

でも道士でもなく、儒学った

やヵてイ

1日

反ま

者の奉ずる朱子学は無神論・唯物論の傾向

強いことを知った。しかし朱子学の立場を離れ

においては人格的、宇宙の主宰

である上帝の出

ポ 拝が行なわれていたことが証明できると考えた

。当世の儒教がその

(5)

ヰ ⅠⅠ

-

"" -"

-

丁 一こ r@ 一 "" "" 一 "

,一 " Ⅰ ""- - " 一一 一 " " "" " "

真の姿を失ったものとみなしてカトリック布教 の 意義を強調するとともに、復古精神を愛する 士 大夫をして彼らも 古 昔は真の神を知っていたのだと悟らせ、改宗の 途を広くせんとした。 一六 0 四 ︵万暦三三年・リッチの 著 わした漢文 の書 ﹁天主実義﹂の第二篇﹁解釈世人 錯認 天主 ﹂は中上と西土と 0 対話の形式を取り、天主教︵ローマ・カトリッ この趣旨を述べる。中止 が ﹁吾が中国に三教 あり、老子は無、 仏 教 は空、儒は有︵天極︶を宗とする﹂というの に 対し、西土は﹁古の経書を視るに、 舌 先君子 は 天地の主宰を敬慕 す ︵ 8 ︶ るを聞く﹂と答え、以下にキリスト教神学の論 理で 宋学の宇宙生成論を破っている。 さてキリスト教の神を漢語でどう訳するかが 問 題 になったが、リッチは一五八四年、最初に洗礼 を 授けた中国人情 徒 、洗礼名約物という者から﹁天主﹂の語を採 屈 することを提案された。しかし 古 儒教の精神が 人格神である 天 ・ 上 帝の信仰を認めたという三振により、リッチは ロの us にこれらの訳語を用いるのを是認した。 天 主の語は中国語とし ︵ つ ・︶ てはまず新造語と考えられたと見てよい。リッチ に 就き受洗した明の官吏 李之藻は ﹁天主実義真 刻序 ﹂において、 紫

陽氏宙

宋の朱子のこと︶が﹁ 帝者天之 主宰﹂と いったから、天王の義は利︵リッチ︶先生よりは じ まらぬ﹂と論ずる ︵ 0 1 ︶ が 、朱子学のため弁解するためであろう。 天主の語 は 神の人格性を表わすのに適当であり、 何より新しい感覚を持つので、リッチ以後の力 トリック教士は専 ら ﹁天主﹂をもって神を表わすべきことを強調し ・ローマ教皇庁もこれを支持した。イエズス会 土の採った中国の礼 俗に対する妥協の態度は・ドミニコ 会 ・フラン シスコ 会 らにより攻撃を受け、儒教の祭天, 祀孔 ・宗祖の儀礼がキリ スト敬信仰・教条と両立するかどうかに疑問がか けられた。リッチの採った解釈、すなわち天は 上帝であり、上帝は 神と言い換えうるし、孔子廟の祭りと家庭にお ける祖先崇拝は中国社会の認める習俗であり、 申 国人キリスト教徒が これに参加してよいという寛容な方針のみが明夫 に官吏や宮廷一部にもキリスト教徒を獲得でき た 原因であ つ 。︵ ユト 1 ー @@ ハ ︶ リッチの高弟とい, ヮ べき徐光啓の﹁非学童 疏 L 二六一六︶にいう、 ( 4 ) 4

(6)

儒教の宗教的性格

てい

る 、 之 を く の

。 修 藻 称 。 教

に 大 帝 ト 人 の 身 の せ こ 人 青苔

サこ

や、

す て 身

。 辛 を

苦 修

tc の 難 め

上 危 上

を先

に き に ひア し し

昭を事

覆う

す み る を る

を ス を

を し

る 咲 き れ

て に

宗 陥 中

@@ し

本とり、

七三年 般 人民

あり、ごとく

るをえ 勅は教 の便法

こ。一

六 塙貴 の の成果 百年ほ

・ あ の

皇庁

と認 セ一 規矩 を空

どっ,

霊 印 ま

を 証 た 存養

す 人 身

る 々 を の を を ィ参 言命 Ⅱ 以 し め サ ブ し て て 天

切 言 に

て @ ま

となす

為し、

@

5 ( 5 )

(7)

も 重点の置き方がちがい、この事 は また儒教の 起源・成立・変遷の問題とも関連する。 すでに 章柄麟

英姿

が ﹁匡救論衡﹂に収める﹁ 原儒 ﹂において論じたごとく、﹁ 儒 しには広中 狭 の三菱あり、 広 ︵ 4 l ︶ 命ぜられた。 南京条約以後、中国におけるキリスト教布教 は 公然と再開され、カトリックおよびギリシア正教 のほかにプロテス タントの伝道も開始された。神の訳語に何が適当 かということは後者にとっても問題になった。 モリソン カ 0 すのユ ま oq ふ mo 目 ︵ ト Ⅱ㏄㏄ 1 ト㏄㏄ 脂 ︶ やミ , ルン 圭 ・の・ミ @ ぎの ︵︶の︵の。 むの ︶の考えによると、カトリックが通用 する天主の語は地祇 を 連想させ、多神教の上級神と解せられやすく、 むしろ上帝の語が古来人心に尊敬の念を起こさ せ 、荘厳な祭祀を受 ける 独一 性を示し、中国人が好む対偶概念︵ 皇 天 に対し后土、上天に対し下地のごとき︶がない から採用すべきだと

は孔 教の教は釈・ 道 とともに宗教の意味に解すべ く 、﹁乱数 は未 だかっ て 霊魂を言わずんばあらず﹂ と断 ミロした。こ︵ i 6 ︶ の事 は 新教徒の中にも中国宗教の研究の機運が生じ てきた例であるが、 彼 のごときはマテオ,リッチを尊敬し、中国人の知 識 ・文化を高めることを目的とし、康有為と交 わり、 孔 教会運動に 賛成したのである。 もとより儒教について西洋人が知ったのは 々ェ ズス令士の紹介の労と・それにつ。つく典礼問題が 起こした波紋であ る 。ヴォルテール、ケネー ら フランス啓蒙思想 家の儒教評価については説くまでもない。一体、 中国で儒教の名は史 記 遊侠 伝 に見え、 孔 教の名も唐初審 書 尻籠仁賢 ︶にあるが、近代の孔教の語はおそらく西洋人の 眼に 映じたの。 コ ︵ 千 ま件田の日の反映であろう。この語が使用された 明らかな先例は一六八七年、イエズス会士ベル ギ 1 人の㌧ ア P-pb 口の の 0 目色音︵相店 理 ︶がの 0 コ ざり ぎダ の ビ睡 ︵二日㌧ ア臣 。 の 0 ロ ずけのと題する孔子 伝を著 わし、大学・中庸・ 論語のラテン訳を完

を音訳しラテン語の人名 風に 造語したの o コ hEn@ 拐から派生したが、 中国日本ではその 教 説は儒教と よぶ 方が普通で ある。ところが儒教というのと 孔 ︵ 子 ︶ 教 という のでは歴史的に見て

(8)

侵入した西洋文化に対抗しょうとして国粋正義

ィ霊

をあらわにすることを避けつつ結実しようと

したとき、孔子の教説の宗教化という方向へ進ん

だ。一九

0

︵光緒

㍾㌶

鰭駕

㍉㌶が

鮒鰐

㍑㍉

の声を聞いたことに対照

日不

くはあらゆる術士︵道家・神仙家から工作・ 弓 射の名人を含む︶を呼び、孔子を宗師とし仁義を 重んじ尭舜を祖述す るのを・ 儒 とよぶのは狭義の称である。さらに 胡 適は コ祝儒 @ ﹂におして 、 、、 @8@1 章 氏が申間の定義として 六 芸を知る者︵ 師儒 ︶ を 指したとするのは後漢代の説であるが、儒家 も道家も元来は広い範囲の徳行道芸の士を呼んだ 語 で、 一は 孔孟、 他 は 老荘を祖述する学派の称となったのは後代の @ ﹂とであるとした。 胡適は儒とよばれた人々が段の遺民で喪礼・ 占 ト など宗教儀礼に通じた知識人であったことを 明 らかにした。孔子 が 生まれた魯も、 宋 ・ 衛 諸国と同じく投文化が 濃厚に存続した地域であり、ただ支配者は周 族で あったが、段の文化 は 尊重され、 段 族も周の文化に同化した。﹁ 儒 ﹂ は段 代の遺風 てあ る特殊の服装、 逢衣 練れ型 ・ 博帯 ・ 高 冠を用い その動作・態度の文弱・ 迂緩 のゆえに﹁ 儒 ﹂と 呼ばれたと言う。津田左右吉博士は儒服・備悉 の 着用は漢武帝の世に 儒教が官学の地位を占めるまで続き、呪術・ 宗 教 的意義をもつ﹁ 礼 ﹂やそれに伴 う ﹁ 楽 ﹂もこの 時期までは儒者の間 で 演習されていたと言 う 。 才子が子夏に向かい﹁君子 儒 となれ、小人 儒と なるなかれ﹂ 縮也 六・一︵ぶと言ったのは儒の字 の 初見てあるとと L もに、孔子が従来の段族の宗教文化の中に育ち ながら、﹁ 儒 ﹂の 教説 に新しい道徳的意義を附与 せんとじたことを 示 している。また孔子が﹁述べて作らず、信じで 古 を 好む﹂ 寮而 七・一 - と言ったのはいわぬる 儒 教が 孔子に始まら ず 、先王の道がそのまま儒教であるという解釈 を 下させようとするが、孔子が特に崇敬したのは 段 族を征服・統治し

(9)

""@ "" " "-- コ """;

".

,@.

@@

@""@

一九 0 六年三月、学部支部省に当 8 ︶に諭し尊札 を 以て教育の宗旨となし天下に宣旨した。四月 、国子丞を設け、 文廟・ 辞推 殿の奉祀の事宜を総司させた。同士 一月に、孔子は至聖で徳は天地に配し、万世の師 表 なるを以て 升 の @ ぽ して ︵ 鈍 ︶ 大祀となした。従来清朝で官が行な う 祭祀に 大 祀 ・中祀・ 群祀 の 別 あり、これらは祀典に列せら れ ・民間非公認の淫 祀と 異なる。大祀 は天 ・ 地 ・ 社稜 ,宗廟など 自 然神 でなければ天子乃祖霊に限られたが・いまや 聖人孔子を申祀から 昇格し同等に扱った。 このときの 栄慶 らの上奏に﹁尊君・尊札・両全・ 尚武・ 尚 実を教育の宗旨となすべく、孔子 は道 は 大、能は博 く、

く 、 五洲 生民兵仰の聖であり、日本の尊王倒幕も 中国聖賢の学の功で あり、日本では西洋学術とともに儒学を採用し ている。﹂と述べる。﹁孔子を賛 揚 する歌を作り 、春秋の釈 菜 、孔子 誕日 ︵太陽暦八月二十七日︶に学堂で軟禁 作楽

じて学部の奏にも 西 洋の国君が 嗣 位するや信教の誓詞を宣べ国民と ともに 一 尊を定めることを指摘する。これらの 議 論 にほ、西洋諸国の 強いのは宗教のためであり、日本も漢学を重ん じ 維新の業を成しえたという意識が強く現われて いる。 清末の孔子崇拝は康有為の公幸 学 による儒教の 新解釈に基 く 変法自強運動により促進されたもの である。彼は一入 八六年に﹁孔子 改制考 ﹂一一八九二年中巳、一八 九一年に﹁新学偽経 考 ﹂を 著 わし、孔子は万世 の 教主であり、六経 ほ 制度改革のための孔子の制作であるとした。 + 沃た﹁大同書﹂を 著 わし、礼記 社 運 篇に 孔子の語 とされるものから 大 同世界というユートピア思想を展開した。清朝 がなお存続したころ・彼は立憲君主制を実現せん とし、一八九九年に 保皇 会を創立するや、孫文らの革命派と快を別 った 。 康 氏の破天荒な孔子解釈は、東漢古文経学 を 偽作の上に立っと 断じ 擬 古の風を開くとともに孔子を祖述者では く 創唱的宗教の教祖のごとく見なすに至った。 彼 じ しん、その﹁中庸 と "- - あ き

り、 年

張之洞 保教 」 「

早印任

れた。(

ぁ )

中 iC

ひ @ し 古 " 。

@

日 Ⅰ あ

土圭 串 @ ま 且 Ⅰ ち

是、

の 宗教 」 8 ) 8

(10)

: に 一体、清末の孔 教 尊重はキリスト教に対し国を護 るためであったが・西洋思想の中にも 反 キリス ト教 的なものが 次

格第

に比重を増しており、義和団事件以後、 中国キリスト教の布教方針も変化してきた。 梁 啓超が ﹁ 保教 ハ ㏄︶ 非所以尊札

理論﹂を

著 わしその中で、﹁かって自分ほ 保 教 党の首唱者であったが 本 ﹁ ほ 大敵となる﹂ と 臆面 もなく述懐し、キリスト 麹 教は弱いから対抗的に乱数を言 う 必要なし とその機会主義的変節を示している。

簗衰

もまた機会主義政治家にほかならない が 、市制実現のためには肥大 き通祭 とする大総統 需 有 した。通察というのは大総統・地方行政長官 がそれぞれ国民・地方人民を代表して天を祭るほ か 、国民が各々家で

」 ︵ 9 ︶ と 判定してⅤ、 る 。 国教と明記する条文を加えるよ う 、当時設置さ れていた憲法起草委員会に対し運動した。しかし 民国二年十一月に成 づたいわゆる天壇憲法草案では、﹁国民教育は孔 子の道を以て仏身の大本となす﹂ 下 九条三 % と 規定されるに留ま り 、 孔 教を宗教とは区別している。 清末最大の宗教問題はキリスト教の外国人によ る 布教と、偶者を含む中国人の仇教運動である が 、儒教国家の倒 @ お ︶ 壊 、五族協和の中華民国の建設は信教自由への 要求を実現させ、 反 儒教運動のきざしさえ始まっ た 。 孔 教会の活動は 衰世 凱 の市制運動の一翼だと舌口われるが一九一四 年 二月の衰大総統 合 にも、﹁国教を特定するに 便 ならず﹂とあり、 同七月、順天府民 紀 竜宮らが﹁孔子を教総宗主 に知 対 せよ﹂との 呈請 に対して﹁ 査 するに乱数 は 国教と定むる能わ ︵ オ ︶ 注 ﹂で 孔 教の教義を宣布する使命を信じ、孔子 の 予言 ロの 実現を考えた。 辛亥革命後、 康 氏の思想は守旧に傾き、一九一 三年、月刊﹁小恩雑誌﹂を発行し、国民の苦に 忍び ぬ 意を寓した が、 要は衰世 凱と 共和派との対立を憂い、乱数 を 国教とし国民的統一を考えた。彼の感化を受け た陳煥章 ・梁啓超・ 厳復らは一九一二瓦 季 3 年十月、孔教会を 組織し,機関誌﹁ 孔 教会雑誌﹂を発行した。この 年三月公布された 臨 特約 法 には人民が宗教上平等であること 審 五条 ︶、信教の自由をもつこと︵ - 八条 セ 芭を規定した が 、 孔 教会は孔 教を

(11)

ならな 四 管見の及んだ限り、もっとも端的に儒教 は 宗教 ではない、と力説するの ほ ﹁孔子哲学小史﹂を 著 わしたり ウ ・ ウチ

自ら祭りをなすをゆるすことである。同年十二 月 に冬至肥大典礼を令し・一九一五年七月には 国 天子のみ祭る特権を有した 祀 天の儀が国民一般 に 解放されたことは 特 - 記に値いする。 孔子祭も大祀として祭天と並行すべきことを 一 九一四年二月に令したが、これと同時に前述した よ う に 孔 教を国教 にはしないと定めた。乱数国教問題 は 衰の失脚 後もしばらく っ づき、民国五年六月、大総統黎元 洪は憲法審議会を置 き この問題を討議したが結論を見ず、一九二二一 年 十月、新任大総統督 鋸が 公布した悪名高い﹁ 賄 違憲法﹂では・﹁ 中 華 民国人民 は 孔子を尊崇 し 、かつ宗教を信仰す るの自由を有し、法律に依るに 非 ざれば制限を受 けず﹂︵十二条 - とあ り 、 孔 教は宗教とはついに認められなかった。 そ の後、国民政府や中共政府の憲法でほ孔子の教 説 に対する特別規定 ︵㌍︶ は 姿を消している。 このことはローマ教皇庁の儒教に対する態度にも 反映してきた。一九三九年、教皇庁機関紙つ ののの﹁ づ曲 ︵ 0 ︵朽つ ヨ曲コ 。 に ﹁中国の典礼に関する若干の儀式及び宣誓に ついて﹂が公表され、中国力トリック信者が孔子 廟や学校で行なわれ る 孔子に対する儀式に参加することを許した。 け だし国民政府は蒋介石の首唱した新生活運動に 伴 い 五四運動期の 反 教 思潮を清算すべく、読経・ 存 文の運動を起し たが、孔子に関する儀式は公民的なもの、 教は オ 凹田 0 コ でなく教育 儒の意義とした一九一四年の教育総長湯化 竜の 解釈が結局正しいとされた。満州国においても 教 皇庁 の 問 いに答えて、 ︵㏄︶ 孔子を祭るのは尊敬の念のためで白木 教 的でない と 言ったので、この処置になったものである。 こ こで典礼問題が最終 的に解決されたわけであるが、逆に言えば儒教 的 神政国家とよぼれる歴代王朝の治下では儒教 は も Ⅰはり古木 教 として 作 用 していたのでほなかろうかという疑問が再び 生ずる。ここで内外学者の客観的、非政策的な 儒 数 論を省みなければ

(12)

儒教の宗教的性格

大 禍 戊 や 注

も 草 は 七

に 華 セ を 述 こ あ 矯 八 袋 が の る 後 っ あ 特

後 楯

漢 に

宿

いて

き木士大太平 リヴ 孔子 n c ii )

産 と見る。孔子の正統教義は決して宗教と呼べ ない。倫理体系、 儀 礼 、人の生きる道、哲学、歴史、文学、文化な ど 何と呼ぼ ぅと 、白木 教 以外のものである、孔子は 超自然を説かず、 祖 先 崇拝もその教を宗教とするに足らぬ、 数 円の曲 0 日記はどの宗教の核心にもあるが、すべての 教 は 必ずしも宗教でな いというのがその所説である。 典 にかなう 社 章がほろ び 、女巫 妖槻が淫 りに 非 孝文帝の延巽二面七三年二月の詔によると、 護 神として孔子に附属する 文昌 ・魁星の諸神が あり、孔子は子授けの神になっていた。近世に と 当時の風俗を述べ、前記の孝文帝の詔をも 引 して以て非望の福を祈るを聴さない﹂と令した。︵ 5 c ︶ の 頃 あり、﹁流俗、婦人多く孔廟において子を祈 氏は正統教義と断わっているが、儒教 史 中の異 礼を進め殺生し鼓舞する。今後は酒 捕 のみを用 い 祭られたこととあわせ考え、儒教の歴史的展開に おいて科挙受験に関し往々神秘的な体験が物語ら い ている。六朝から 唐代 にかけ、老子を老君、孔 ﹁南朝との交戦地域に 肖 った 准 ・徐の地方の尼 唐 の 封演が 西紀人 00 年前後に著わした﹁ 封氏 端の事象をあげるなら宗教と呼ばざるを得まい 事 り、 殊に 衰慢 をなす。形を露わして夫子の楊 父 ︵孔子︶廟では、 祀 子を孔 父 という通称 させる。婦女が離合 儒者・文士の守 寝ふ じに登るあり﹂ 聞見 記 ﹂ 巻 一に儒教 おける 一 断面を知り 実はある。北魏の

(13)

ヰ "" .-"

@ @ ;@ 中

本書の第十 章 ﹁教理と実 修 とにおける儒教の宗 数百﹂はもっぱら儒教の宗教 体 もしくは儒教が 宗 教 なりやいなやを ︵ 仰 ︶ 論ずる。儒教は社会的教義として い く世紀も奨 ・実行され、人民により無批判的に受容され、 合理的 教 説の総体と してはもとより、情動的態度となったというゑ月 味 で、一種の信仰とみなし ぅる 。しかし儒教はその 教 説の象徴として、 神や超自然的教条の姿勢を示さなかったから 十 公 な意味の有神論的宗教でほない。けれども、 有 神 論の影響は理論的 体系としても、または制度化するように機能 す る 体制としても欠けていたわけでない。迷信 流 行の時代に発生し、 宗教が広範囲の影響力をもった社会の中で制度 化された儒教は伝統的社会環境で有効に機能する よ う にさせる多くの 宗教的要素を採用した。

て 、仏教という外来宗教の刺激を受けて儒教も いわゆる三教の 一 として、対抗的に宗教要素を加 えていったのではな いかという見解を引き出しうる。そしてこの時代 は 儒教の倫理・政教が概して振るわなくなった 時代であることに 注 煮 したい。 リウ 氏 と反対に儒教の宗教性を詳細かつ積極的に 論じたのほヤン氏である︵ 0. パ ・ ぺ麓 コ % Ⅰ オ目 - ぬ -O コ - コ 0 ア - コ ののの の 00@0 モ︶。 氏は ︶ 0 お日日目 おア の構造的見地と 下日づ三斗の機能的見地を結合し、宗教を﹁ 人間社会の紐帯を破 滅させる恐れのある 死 、いわれなき苦しみ、 説 明 できない挫折、抑制できない敵意といった悲劇 や ・また現実的経験 から生ずる矛盾した証拠に対し教条を弁明する という人生の究極的諸事件を処理するため設計さ れた信念、儀礼の実

制度的諸関係の体系﹂と定義する。また中国 の 宗教においてほ宗教の超日鉄 的 要因がそうでな いものより重要な作

,,

・・・・ , @ ・・

-@ ・。

・ ; ・

が 像

け 主

れ 神 加

ど と え も

な た ゥ

遣 唐

氏 家 代

の の に

記哲

述 単

子 に と の よ

宗 像

を て 要 設

わ 表 け

れ か す は ち る 正 が こ

た と 儲 く が ;

教混 確

の 令 士 了し し し(

た た 巴 に の 射 に リ

す 反

ゥ る し 氏 儀 、 は ネし 儒 し に 教 か も で し

は な

代孔

約千

化神 論

が 化

と あ は し

道教

後漢 した か と に ら 述 お 唐 にか

べい

る総て

。 ""

老 け

( 12 ) 12

(14)

Ⅰ・・: 弔 @ レ ・ ,

ことに祭祀の二重性格

@

子犬

論篇の

﹁君子は文と

なし百姓は神となす﹂︶を見出だす。

ヤン氏の書は近現代の中国宗教の宗教社会学的

研究であるためか、風水︵

墓相

︶・

扶札

︵自動書記︶

、儒林外史・

草堂筆記に見える士大夫に関する宗教観にも

面友し、きわめて超自然的な信仰をもつ中国民衆

社会に根を下した

隷 格

網をもった社会,政治的教義﹂として取り扱

する強い情動をもつ

教の宗教面を広範囲にわたり叙述した。

非有神論的信仰組織

また孔子が神格化されたことはないがその

礼拝に宗教的意義が全くないというのは誤りで

ルケースの

い,フ、

著しく宗教要素を備えた記念的礼拝であると号目

。そしてこれが士大夫だけでなく民衆にはたら

く強力な僧職制のない合理主義社会になるよう

中国を発展させるに力があったことを強調した

のである。

しかし儒教はそれほどムロ

主義ではなく、世界

を天が命じた全体で、意味に満ち倫理的に方向

けられた宇宙であ

という。儒教

・予定クリール氏のいうように

以前ついての発言口を取り上げ、孔子

・ ナ

%

信仰に本づく宗教的諸観念の下位組織を含

んでおり、

とは人間界を含む宇宙の人

態的曲コ

ro

づ 0

0 ぢ王りな

酌人であった。自然神の祭祀・祖先崇拝におけ

世俗的・道徳的機能が﹁

﹂として重視され

たことほ事実である

、なぜ祭祀の宗教的儀式が道徳を高め社会的

実践を規制すると考えられたのかというと、ここ

ヤン氏は易経・

子を引き、儒教が超自然的観念をもって民衆を

支配したとなし、懐疑的少数者が鬼神を信ずる

にかこまれていた

以上がヤン民 音と見た章人災 の 要旨であるが、以下さらに儒教の超自然的・ 礼 拝 的な面を分析する。孔子を不可知論者・ムロ 理 主義 ・梁啓超・陳独秀,胡適の説 は 、中国文明の尊さ を 弁護するためである。彼らは儒教が政教の抗 争な

(15)

可し、倫理的政治秩序を維持させる役割を果し たと述べる。 五 最近に提出された中国人学者による方向を異に したニ つの学説を述べたが、以下で簡単に東西代 表 的学者の本問題 に 対する見解を示しておこう。 レッグ ざ日 2 Ⅰの内港︵品品とごは四書・ 詩 ・ 書 ・左伝の英訳で不朽の功績を残したが、 彼は孔 子の天の思想は自

ミ ・監のら 0 ︵︵︶ ぎト 1% ピ ︶は中国人が古代か ら 自然と人間の調和に生きるのを正しいとし﹁ 道 ﹂を奉ずる宇宙主義 こ三くの︵㏄ @ ぴ日 拐から 儒 ・道が分かれ仏教さえ外部 から接木されたといい、国家宗教としての儒教 の 祭祀に叙述の重点 を 置く。儒教をⅠのにの ゼ の ナ の 日 。円居 @@0 臣 りの∼ のの 宙才 ︵︵の コ とよび、民衆にとっては祖先崇拝の みが宗教であった と 言い・孔子の﹁鬼神を敬して 遠 ざく﹂の語も宗 教 否定とは見ない。 ウェーバー

ま支ま

のすのⅡ㊤ まやこき ︶はその著 、﹁儒教と道教﹂において五つの世界宗教の中に 儒教を算えるが、 ト仁 コト ト e コ幅一 0 のの コ 0 目のⅡⅡ e ㌃㏄ -6 のすの 串 - コ ㎝︵の コ の せ の︵の 日 のりのⅡⅠ 0 す ㏄ コひ ﹁の㏄ し の日 0 口占 捧 Ⅱ けコ ㏄しこ言い、儒教 を 単に宗教とは考え ない。かえって彼は中国では、神の名で倫理的 要求をかかげる予言者も、救済の教義を説く独 立の宗教的勢力もな く 、主知主義は大衆を馴致する必要以外には 宗 教を軽視し、天地の祭祀は国事にすぎず、祖先 崇 拝 のみが国家の定め る 非聖職者の宗教であると言 う 。また礼は宗教 約か慣習的か分からない、儀礼は主に現世の運命 改善に、一部は祖先 の 供養㈲ために行なうが、自己の来世のためには 決して行なわれない。天子を救世主のごとく 待 望 することはあるが 絶対的ユートピアへの希望ではない。官の祭祀 からはエクスタシス・禁欲・冥想は排除される。 儒教は宗教に無記で 不可知論的であり、恩寵の観念はない。ただ 儒 教を支持する官人の身分倫理が部分的に宗教的に 条件づけられると 指 ( 14 ) 14

(16)

儒教の宗教的性格 に ん 保

学教

微意

点で

の再生

ず、

宗教した。

-,-4

家 出を考

だ,

v

ス の 。 直 趣 威 お

し を

宗性 役ヱ

が孔

な の

兵 乱

お 神 す お 迷 彩

的 は

き め ぐ の

、 う れ ゆ お

忌 子 宝 結 者 中

孔 想 」 教 諭 に 国 子 に を 性 す と で の あ 養 に る っ は

教 る 成 道 。 て 宗 説

健吉 聖教

の 宙 た ・ 性 代 な は 宗 の が を 中 る 法

数 珠

、 附 国 者 律

性 序 皇 与

と は の

農 光 岡

重 観 。 が た 民 王 じ

・先賢

見な

く 念は

宗教の 孔子が ・封邑

ぃ 本 有 官 ・ に 会 の つ 夫 て つ

が 来 勅 約 百 眼 活

、 主

動の分

、漢

以 は宗教 性の至 (国家) 宗教 的

られ、

後 約 高 宗

上 化

の で の 教 道 帯 し

儒あ

教る泉パ

源の・はた

仏文

機 を 一 で ト 二 字 能 国 穂 あ ロ 数 上 で 家 の り ン に の あ

に よ 在 る 孔 っ 仰 い な は 目 的 し (一心みホ教

仁一

%@

て ィ

な る 子 い の う っ 陰 覚 ・ と に こ っ 宗 に に と て

よ た

陽 的

と ほ 置 け 。 五 な 覚 教

も と を

哲 宗 徒 呪 的 は

15@ (@ 15@ )

(17)

TL

り 子 の

入 信

的 仰

を保

信仰 と

し し て

、 唯

天 一

の の

至 高

高 神

の を

源 太

込沖蓋 九)

薙 (

也 有

大 効 一 な 二 の じ は ・ 十

匹 く Ⅰ ノ べ を

か 検

ら 言寸 ざ し

( 16 ) Ⅰ 6 た ス 源 れ こ 以 自 バ め て 的 帯 い 高 さ ダ づ ら の 儒 上 身 i 立 あ 力 の は ク

ェ ツ け を

間 数

が に が 場 る ( た 足 り ク も 、 は 距 摂 め 認 l

古木

スル人ア

フ たこ 原始

に イ 離 理 で し か

千 が 博

と 一

関 教

,り適

l

用儒スな

「 し・ あ ま は ル さ 孝女 う 捷呈 で る た 了し

氏 れ は ェ く あ 。 は 子 に 精

天界

の 学 つ

る の

地史

者 系 結

と 三 城 の と 統 論 い つ の 溝 み だ を ぅ

為に

寒威

な て 出

べ う 代 を て と 否 と

そうと

分類し。この

教に古 考え を イ

し、

て紹介 同 た 伐 る ン す す

代 の 中 と ド る る の も プ に る 及 た そ 資 知 ト つ 」 し 。 の 格 れ ・ い と て

彼宗

とき、

余力ほ

のそに対しの宗教 国 示唆 き のブラ が な メ て は も が 教 せ い ソ 辻 本 、

傍観

襲 も ポ ベ 回 天 花 に に の タ た 知 よ な 触 よ の さ の 論 り

れ た 」 ら 限 ア で の 人 愛 て ず 界 の あ 証 格 し い " に 平 る で 神 " る そ 立 待 は 約 二 の つ 的 儀 な な

年礼

子が

人格ほど 事態 弍的

く。

帯 「 喪 の に 合 に か 力 」 を 伝 有 理 お ら ン の

主統

す 主

ト こ

強的

る 議 て 理 が と し 宗 と 的 理 的 「 を た 数 損 で 解 京 人 述 の に 摘 あ で 教 間 べ は 対

しるきへ

た」るの

同な

いせる

来す

態度

のま @ 臣 と = ロ 転換 は尊 天

観念 革 っ ッ 親 敬 は で は 令 た ク に の 非 な 複 的 こ ス お 原 人 く 雑 で と け 理 椿 家 で

あ は ク る を 的 族 と さ ・ た が か る宥 乳 ェ 孔 も 倫 の あ お れ イ 起 こ し 。 ) 子 @ 子 っ 理 連 る

(18)

アじ

㌔ -

儒教の宗教的性格

もの手筆一九・一一二人の生命を守る者 釜 進一 一 ・乙であり、孔子は天が彼に民を教える任務 を 与えたと感じたし 姦 政二・ 巴 、 天は 彼の為す事を知り、地上の君 主 が彼を用いなくても彼を嘉した愚問一四・二 毛 ︶と信じたと論ず ︵ 駿 ︶ る 。 孔子が厄難に際し天の語を口にした類・ 話 @ 筆 九 五 、 述而 七・二三 は 非宗教的な人の発言とは 受け取れない。 プ ラトーのアポロギア四一のソクラテスの目ロ に比 すべきものである。孔子自身こ ハ 3 5 @ ︶ % いて人格神の信 仰が後世の儒者には 受容されず、詩経に出ている天への懐疑論がつ いに勝利し、百子に至り・天は自然の理法と解せ られ、その説が漢儒 の 解釈を支配した。孔子 は 鬼神に対しては天使・ 悪魔の機能しか認めず、至上神の下位にあるも のとした。孔子は周 ゑ の神学説を一神教に至るべき結論に導いたも のである。 ダッ ブス博士のこの見解はわが和辻哲郎,津田 左右吉岡博士 は じめ、多くの学者の考えと異なる 。和辻博士 は 孔子 をいわぬる世界四聖の一人として﹁人類の教師﹂ と 呼び、天の使命を覚り、先王の道の使徒とし て 活動したと言う。 また論語の古い層において天は宇宙の主宰神と 認める証拠なく、人格神として信仰の対象とする ことなくして、しか ︵ 鱗 ︶ も十分に敬虔の念をもって対していた傍点 は原 き 、すでに孔子にとって天は理法であり、﹁ 天 何をか言わんや﹂ ︵ 陽 貫一七,一九︶ と 言 う ゆえんであると説く。 な お郭沫若 氏 はこの一句のみを挙げて天の人格性 を 否定した。しかし ︵ 彊 ︶ ヤン 氏 前引 書は ﹁天は言 う 必要がない﹂と解す る 。 クリール氏のい う ごとく、孔子の宗教思想にお いてどれだけ伝統が重くかぶさり、どれだけ創造 がはたらいたか は 、論語の章句の的確な解釈が成立しにくいた め 困難である。私見として孔子が﹁述べて作らず 、 信じて古を好む﹂ 無而七 ・こと言ったのを信ずるなら、保守性 強い宗教に関して孔子 は その祖先の文化遺産たる 段の宗教と混和し 矛盾を感じなくなっていた郁々 乎 たる周の宗教 伝統に従ったと見てよいのではなかろうか。 孟 ・ 荷 二子はじめ先秦 儒 家においては、孔子が新たに説いた道徳説が一層 深く究められ、宗教性は薄れたであろう。それ が 漢代になって儒家 17 ( 17 )

(19)

性格を帯びてきて、経書までも呪力あるものと して利用するに至った。後漢の古文学が訓話を旨 とし儒教が学問とし ︵㏄︶ て 固定したため、宗教を求める人心が孔子の代 わ りに老子をかつぎ道教の教主としたという 顧頷 剛の説があるが、 儒 教 もまた道教や仏教に対抗しその宗教面を押し 出してきたことはすでに 述 。へた。 呪術においては人間は神霊を自分以下のものと し 利用し、また個人本位で教団組織を確立しがた い ものとすれば、 漢代儒教が呪術・迷信の数々を包容しつつも・ 全 体 社会において宗教としての作用を果したと 見 るべきではなかろう 後漢天の 向 椛は黄老家であるが、自分の弟子を 顔淵・子貢等と孔子の弟子の名で呼び、道教徒 張 角の反するや、 @ ㏄ - ﹁将軍をして北向し孝経を玉腕ませたなら賊は消滅 すべし﹂と言った。漢代の正統教義に対抗する 異端・方術が呪術の 以外の学派の思想や民間の呪術・宗教的慣習が 儒教の体系に流入して、孔子が説きもせず、予期 もしなかったことが ︵ 甜 ︶ 儒教として通用した。 舖 ︶とくに講経学は経学に古木 教 的要素を加味し、これを宗教化せんと工作した 。孔子に関する神怪 ︵㏄ - な 伝説・の発生はその一の現われである。 もっとも津田博士は宗教というより呪術性を強 調 され、漢儒が天人の際や吉凶禍福を説きながら 宗教的心情がな く 、儀礼に含まれた宗教的意義を理解せず、 神 の 恩恵や権威を体験しなかったと述べられる。 この考えは同博士が へ ㏄︶ ﹁中国知識人が一般民衆の風俗にある呪術を高 い 意義の宗教に発達させえなかった﹂と言 う のに 関係する。中国文化 における宗教と呪術との先後・共存ないし絡み ム いはこれまた十分論議の的になる。 西漢の儒教は既述のごとく雑多な要素を吸収し 、 その中には呪術的なものも 少 くなかったが、 皇 帝を頂点とする 官 僚 国家の正統的な指導精神であり、むろん特有 の 教団を有するわけでないが、当時の基礎社会で あった家族を聖なる 共同体とⅡ︵ c 杉家族の連帯を保証する孝の徳は戦 国夫にできた孝経においては、孔子の説いたよ う な 日常の実践だけで なく 大 経・ 地義 とされ形而上的原理とされ、 当 時の社会では、ある人間が孝であると評されるこ とは キリスト教社会 - ﹁・ 6 , ︶ において﹁神を信じ教会に行く﹂ということが せ 間 に与える本人への信頼感と同じ効果があった ( 18 ) 18

(20)

儒教の宗教 自

義 和

事 仁 Ⅱ

不黍㌍ 寛 容

疑 惑 感 儒 教 が

異 端 %

%

19 ( Ⅰ ワ ) り Ⅱ 目 @@ Ⅰ を と 族 た つ こ 儒 た の 。 い と 教

異 宗

そ で を

な 教 こ 他 志 郎 る

教土

と に は ・ 亡 国 ぃ

伍 儒 道 人 化

わ し

教 教

れ て そ と

る る 書 の の と の

に男

宗教ものかる 相互 する の べ の

交儒

歩数

に は

を の に よ

道 家

ィ需 、 国 に に カ

教 濡

人 キ

に に あ

教のり教は

宗ス情

宗教

仲 裁

は 敬 意 教

め 的 識 と 置 た て 性 の の い 熱

論格傾射

議 を 向 決 こ がミ す 度 が に と あ る 外 は よ は る

。「

してことよ 規 たらい り進め 疑いな り

た ら か を も を と

は 退 居、 た う

絨し

る め わ が 。 ) て か ら れ 、 儒 仁 た れ る ど

を 意 ま 。 れ の 成

昔話

終 学

八 。 ご 民 っ に )

成果を期待し

るのではなかろうか。

孔子の学

が成立する以前に

ばれた知識

が宗教・呪術的専門家であ

直接の感化にあった弟子たちの信じ学び

なっ

たことがどんな性格を持ち、

たか。それは

ザラ

ツシュト

教説

が現世の道

徳を重視するが古来の

でヅデ

多いことと対比されることができまいか。

以後の学問が分派し、百子の

として儒家と対抗した法家が出た。﹁漢家自ら

制度あり。覇王の道を以てこれ

まで包容した漢代の儒教は中国文化の表看板

としての価値を、二千年にわた

漢儒の倫理的態度や自然的思想にはローマ帝国

ストイシズムを思わせるも

たことは否定できないが、孔子とそ

それ以前の伝統文化とどんな関係にあ

イズムを改革したとはいえ継受した

ような思想も生じ、そこから政治学説

、ともかくも維持した。

(21)

Ⅰ -

り ﹂︵論語・為政︶と説くのに注意し、儒教国家の民 間の宗教結社迫害の事実を示した︵同事上巻の序文、 一九 0 一年を参 昭じ 。スートヒルの書物は辛亥革命が政治に止まらず 、文化・宗教上の変革を伴うことを予見し、中国伝道 に肖 るべき者の ために本書を著わした。 ︵ 2 ︶津田左右吉儒教の実践道徳︵昭一三,岩波 全 喜一八九頁︶。 ︵ 3 ︶馬場奉告﹁孔子聖蹟 志 ﹂︵ 昭九 ・大東文化協会 ︶ 序 。 ︵ 4 ︶儒教道徳の特質と其の学説の変遷︵招人・東京 関 書院︶八六 l 七頁 0 ︵ 5 ︶儒学概論︵ 昭五 ・何方︶ セ 三頁。 一 ︵ 6 ︶イエズス会、特に東洋伝道については 円 ・ ナの 建 ヨロゴの羊一1ド ゴ の ヒ ゆの し ぎの ト 白のち・ トの ㏄ トざ 三の・︵ り 白の毛 ペコ Ⅱ オ 。 捧ビ Ⅰ佐伯好郎 清 朝 基督教の研究二九四九︶等を参照。 ︵ 7 ︶ 目 0 コ ふめのⅡ コぃ Ⅱ 巳 @ 。のの㏄のののの。 才 @ コ 0 が㏄ e 円です 出 0 の 0 ㌧ ず iec ず Ⅰ 鮨ゴのココ の 1 Ⅱ円のの田の仁Ⅱ 亡 の 絹 ⅠⅡ 出いゴ 0 コア あヰ 0 Ⅱ @ ロロのハトの の 3. 1松山厚三課 東西思想交流鬼︵昭一八・慶応書房︶ | 第三章方法 の 論議 | 註釈 か 、それとも孔子の原文 か 。 ︵ 8 ︶天主実義︵一九三五・上海土山袴 印 書館︶一五 | 二九頁。 ︵ 9 ︶佐伯 氏 前引、三二三頁。天主の語は古代 斉 の 地 方で祭られた八神の第一にあり、ほかに地主・英主な どある。しかし天主 は天斉 ︵捕︶ す なむち都の臨磯城南の五泉の崇拝であ り、天と 関係ない︵史記二八封禅書を見よ㌔胡床 に 封禅書の天主の 神名が広く常識として知られたとは考えられない。 冤 ︶﹁増訂 徐 文尼公案﹂春木,孝之漢女 稿附 。 蛮旦 統元 ・上海慈母堂刊︶。 茸 ︶溝口靖夫﹁東洋文化史上の基督教﹂二七七頁 以 下 、第四章﹁近世カトリックの伝教と支那文化﹂︵ 昭 一六・理想 社 ︶ 林 大市郎﹁十八世紀の仏南西 に 於ける支那 観と 某国恩 恕罪に及ぼせる支那の静 害 ﹂︵上︶︵支那学八巻二号・ 昭 一一Ⅰ耶蘇会 の 傾向と支那礼典問題。 尭 ︶ 節 ︶の 註 0 巻王に載せる。 朽 ︶矢沢利彦康煕 帝と 典礼問題︵東洋学報 三 0 巻 一 @ 三冊・昭一八︶。 れ ︶宮川清末教案船号︵岡山大学法文学部学術 紀 要一四・昭三五︶イエズス会 は 一八一四年に至り、 ピ ウス 七 世により再興 された。 C 20・ 20

(22)

儒教の宗教的性格 - 応︶の ア @ 口ののの刃の㌧ 0 の @to 屯づ 0-. 白や ・ ひ ︶ み ︵︶ののの︶・に Ⅰ㌧ 由 c 。の アご es のハ目の ぃ 目の︵ せ 。 デ日ト Z0. ト 6- ト ㏄㏄︶からの 引用文を載せる。 そ れは編者に対する質問に答えたもので下品・ せ ・ ,,の 。 50 匁の @ トのトオ の 0 コ ︵ す 0 の ア - 臣 es の日の∼︵ i ︶の︵ 0 のⅩ㌧Ⅰののの ヰア 0 口 9 更 " と 題する。 その筆者は本文に挙げた二人と附記されている。本文 にあげたほかの用語の中、天老爺は俗語、︵この語に ついては同書 く o-. パせ ㌧もを見よ。 宴円ざ ロロとするのは 誰 ︶神主は位牌を指す場合あり不可、ときどき使われる 伸夫 は 新語であ り 、﹁ 神 ﹂だけでは漠然とすると言っている。 無 ︶ 孔 教諭 序 ︵ 孔 敦朴 論 に載せる︶。本書は歴代 尊 礼記 と 合刻。中国道徳 会 により、民国二二︵孔子生誕 二四八四︶年上海で 初版が出た。圭一字の 刊 。 程 清の編に係わる。 待 ︶ 貧 ︶の小林氏論文二 0. 二九頁。 ︵れど﹁胡適 サ *tt@ ﹂第四集 巻一 ︵ムロ 北 ・ 民五 0 ︶。 面 ︶儒教の起源︵儒教の実践道徳二一三 @ 二 二四頁 。昭一三,岩波全書︶。 宛 ︶論語の篇 名 。以下の数字は上は篇の順序数。 下 ほ 章の番号を示 ユ 9 。以下これにならう。 ︵右︶叫の目古宮 曲 七の︵ c@ | Ⅰのの 圧コのぃ 三石目 e. ヒ写おゼ 。 0 ア ・ ロ 。の 0 コ ∼ e-@ 迅 c レ -@@ 。 P ︵ o1 ︵ レ - -0 目 0 ︵︶のの ヲ ︵ か ︵ い や ア ︶ 、 @ 叢 @ ㌦ n-@@@@@ で ち印の︵ トつ い∼。 巾む ︵ @ の ︶ 一 一 - 羽︶ 目 0 ひの ㌧すカ・Ⅰの ぺ 0 目の。 臣 " | ロゴの㏄口内㏄のの 圧毛りコ ㏄㏄の 0 Ⅰ ノ Ⅱ n@ の @ と ℡一 @@@ ㏄ @ ハ ︶ O Ⅱ @ ︵ @@@@@@p コ @ がヨバコ @4 プ ︵ し @ ∼ @@ め @H@o ヰ Ⅰ ヒ ・ @ 岸 R ま捧ト 、 珪片 ︵の。 臣 ト臣。 任コ屈乙患 - ぎ目痒 @0 コ、 Q&. す ゼロ・の・ ニざ ㌃ 0 コ pp 山下・ 巾 ・ メヌ ? 何円。 の田け串 Ⅰ 0 Ⅱ 宙可ハの ㏄ ダト の切 りレ で・り下Ⅱ 恭 ︶桑原 騰蔵 、支那の国教問題︵東洋史説苑・昭二 弘文室。三八 | 六九頁。︶ 宛 ︶歴代尊札 記 二四枚 左 ︵

註花

︶を見よ︶。 元 ︶ 同右 。孔子の誕生日を祝祭日とすることは本文 に 後述するように民国 セ年 、参議院議員であった乱数 会 の 陳煥 章の努力に より制定きれた。しかし学校では 紀念 式という形で行 なわれた。民国 一セ 年に察 元 培は春秋の祀礼典礼を廃 止したが、二三 年 以後復興に向かった。 @ ︶大同書はもと人類公理として一八八五 - 光緒 一 こ 早出版きれたが、そのときは大同の思想はなかっ た 。︵福井康 順 、 現 忙中国思想、昭三 0. 七 、孔 教 の問題。九四︵ 一 0 九 頁 ︶。写しおお e の・づア 0 ヨ旧 0 臣 ︵ 宙 ・ ミ @ ︵ す ぎ ヰ 0 口口 絃 。 口恥丘 之 o ︵ e のこ ∼ ,ぃ ︶: E コ ㏄のす二︶ ,アの O コ el 七目 On 一如㌧ ず臣 0 の 0 で プセ OfI ハ 。 p コ ㏄ べ し 1 安久。田ぎ・によると、康の自伝では一八八 セ 年に大同書と して改訂したが、本書の記事には一九 0- 年の米大統 領 マッキンレーの死が書かれている。ゆえに梁啓超 の ﹁南海先生 詩 21 ( 21 )

(23)

の田・

B

: ,

︶ ゆめ

︶︶

山圧倖

・Ⅰ・

N 柱|

0 オパカ由而

@0

伝レ毛の

mo

の 0

ヰ白

いザつ

げⅠ︶山ロ︵

帝し

0n

︵ふ

ののロロ㌧︵

pn

ま 。 の

︶宙の︵

q- ののの。

0 Ⅱ⑬

l の

0

コ Ⅰ 岸

n@

二の

1.

づす

ブ下

いり

コロを

e P

ミ日。Ⅰ・︶︶の・

︵本論一六頁参照︶

︵高田真Ⅰ

概観﹂附録

円汀

0

﹁元田

ミ 二 拉し宅のす

西洋人の孔子及び論語

つヨ

の コ

︵ ず

のの︵

︵のの

︵。

はじめ私が目下参照できなかったため言及しなかつた

学説が多い。

・仏の ト の㏄ ゲ ︵ 3 g ︶ ︵ 3 9 ︶ トサ田宙 ・ せ ・ト ム Ⅱ 副題は レ の︵ C 倖せ Oh の Q ヨのヨづ 。 曄屯 ぎ田︶ り目 p8 ︵ Q コの

m@o ) のコ倖 の 。 @ つり ハレⅢ ドア

Ⅰ 0 Ⅰ

Ⅱ 欝 O ㍉

C

集 ﹂の註では,一九 0 二年、康がイソ ド の ダ ー ジリソ 滞在中に完成したというのに 従 という。 笏 ︶福井博士前引 書 。 一 ・ ニ 、康有為の学説︵ 上 ・ 下 ︶特に一七頁。 ︵ 00 ︶高橋勇 治 中華民国憲法︵昭二三 て ︵四︶ 本ぎ 0.Qu ヌ 一戸 " ︵教務 紀略 ︶せ % まゐぴ臼コ 0 す 江ヱ 二色名 0. ゃ ∼・睦巳 @ 哩 - 生 。︶ Qp ∼ 茄 ︶辛亥 革曲荊 十年 川時白 世業第一巻 七 ・一九六二 ・北京︵新 民 四戦二期より転載Ⅰ - 肌︶ 木ず O.CE 木 @, 目 。や 00 の 由 ついて︵史学研究記念論叢。広島大学・昭二五。三八一 二 @ 九九頁︶ 立屯 については 木ず 010 仁木田 1 ㍉ 0 づ ・ いトト 四 ︵ 紐 ︶ ピ仁 まざ , 0 プ @ 一| 下のず 0 耳目 笘 。 屯簗の O コ hEn@p コ ㌧ す串 0 の 0 Ⅰ す せ -P ゆの 印 菊 ︶魏書 六 ・高祖 紀 。また北史 三 。 ︵㏄︶後述の・ パ ・ ぺ餓四 1% 臼 @m@o コぎ 0 ヒコ 盛のの 0 住よギ で ・ いひ 切片片 ︵ 舘 ︶Ⅰ 山 e 。Ⅰ 圧り ・ づ ・ p の ぴ 湯 @ イ ( ㌶ ) 22

(24)

儒教の宗教的性格

-

拍︶

戸 ︶ コ

宇の誘

ずヨ

Ⅰ リ 。

ロのヱぎ

。 トのト

㏄・

巳ぎ蚕舌コ

洩で・

ひ 小ナ

八千重目ハリニコ エ

Ⅱ③

まキ の㍉オ土︵二のの

本しコ

ベ目

N

ぎコピ リ ヨ仁丁

@

l

イ釜・︶

︶のっとと

する詰草には儒教の祭祀を詳述する。また同氏の

のり ︵ ぃふ

の コ

ず日の

ユ力三

@

四コロ

% ㌧

り ︵ り のり 仁

ざコ

@ のす

@

く二・Ⅰ

円アの

つ口コニ

ハ|

20

年ヰ口目

づ巨コ

9

つ 一のの・Ⅱの的

のト由 - 二夫

由 e

Ⅱのの セ

コユづ

の ト の㏄。ヒコ。

コ ・ づ ・ つ

-%

Q 安い

ヨヨ凹宙レ仁

︵の曲︵ ぃ ㏄

ド目 Ⅱ

オ巴ゐ

-0 コ携

oz- 簗 0 笹の

目しこま

ir

おり す丼由

Ⅱの︵ま寸

伍の Ⅰ

ミニ

︵︵

巴旗 @0

コのコ

・Ⅱ @-

緯コぬづ

・ い ㏄ べ

・また

@@ コ

︵気団

三ぴ

目口の

目 ・ 円笘

c ず 通二

のヨ

し ぽ内

-@ コ

+ 冨田田

おア ㏄Ⅰのすの

コ の

-@ri@

わ ㎡

Ⅰ二

% ㌍で

㏄つ1㏄の・なおこの中

て ﹁民徳

信 木立一︵顔淵

一一 -

七︶の信を宗教信仰の五味に解しているのは

誤 解 であろう。

巧 ︶Ⅰ

の すぎ

レ 三万年の。口銭

ず 。︶のり

q.

の アロ

の 0

コ朋

建ロ

仁の " ワミ

。よのの

け ㏄︵

㏄ ワ白缶

︵ い で ア せのお

- のコ

㏄︵

づ ・与り年

@

またⅠ

括刃

0-@m@o

教崎 の れ

一り

で市見

には論語の中の﹁

天 ﹂は㈲物質的矢、㈲至上の支配し

保持する力としての上天、㈲

命 と同義の天

㈹倫理的

天の四ありとす

@ ︶なお、宮崎市定中国古代における

天と

命と天

命の思想

| 孔子から孟子に至る革命思想の発展

-

史林

四六・一昭三八。

八四頁︶にクリールの挙げた二例︵﹁天生

徳 松子﹂と﹁

天 之将喪

斯文﹂︶は仮説の句と読むべく、論語の天はす

べて﹁断定的に

23 ( 23 )

(25)

- Ⅱ "-

… て ". コ @" ナモ五と ト 言えない不可知﹂のもの、鬼神の一種に体ならないと 説かれる。これは津田博士が﹁上帝は宗教的祭祀の対 家 であるが、 鬼 神の上にあり統御する地位にはなく、やはり一のデモ ソ である﹂︵論語と孔子の思想、全集十四巻四六八頁 ︵弘 @ 孔子 - 和辻哲郎全集六巻三四一 @ 三頁︶。 と通ずる。また 侯外 庵主 編 ﹁中国思想通史﹂一巻︵ 一 九五八・北京︶一五四頁に、﹁孔子が天を言 う のは 椋 嘆 または迫間の 璃 である﹂というのと同じい。ところが 侯氏 はそれが 天を意志ある人格神と考えた証拠とする。 @@ 天の思想 | 先秦の天道観︵岩波東洋思潮所収、一 二七頁︶なおこの語の出ている 陽貨 篇は武内義雄博士 によると盆棚 語 二所 究 、昭一四。二三 C 真 - 季 氏 ・ 微 千席とともに最も新 しい、報国 末 以前は遡らない後世の儒家の作という つ ⑭︶津田博士儒教成立史の側面︵儒教の研究第一 、昭二五︶。 - 町︶皇沢俊郎原始儒家思想と経学 - 昭二四・ 岩沌 ︶二六一頁川下、牛 卸的 性格の問題。 総 @ 朱 侃葦 東漢宗教史︵ 民二 C ︶。 ︵㏄︶論語と 孔 千の思想四二 0, 四六六頁等。 ︵㏄︶Ⅰ c ののや∼ - ノ白 ・ パ @ ︵りめ ドミお ・ オの -@ ㏄ @c コの c ︵︵二席Ⅱ 蛾 ︵︶ ミ臣︵弁円 富 二夫討夷汀の宗教、一九六三︶。 @ ︶漢代社会と孝の観念については、宇都宮 清古 漢代社中 硅 清史研究︵昭三 C ︶第二章六代帝国史概論 ︵六セ 頁 ︶ 面 ︶後漢書一一一・ 燭 行 伍 。 徳 ︶春秋時代的孔子和漢代的孔子︵古史 弁 二冊所収 - 一三九頁。 ︵㎝︶Ⅰ 0 のの で 才名のの 串 ず いヨ @ のり みロ のの のコ 年のぎ・ 串 ㍗㏄ 由 0 コぎ のアぎヂせ 0-. ダト の 伊 0 。のの︵ コ す べ邑 ㏄の C 臣 iv. ㌧ re おづ ・㏄ ︶・ ハ し。 コ宙仁り妊いコあ日欝 ㏄ p, 刃 宇陀 0 コ 。・はこうい う 試みの可能を認めていると 思 @ ︶漢書几,元帝紀。元帝の父、宣 帝 の 言 。 - ㏄ - 目 ・ く浦コっコオ ︵ コ 0 三 @ ・ オ 0 ヨの コ %0@0@ の日 ︶の コ ・ い ㏄一 ト 0 り笘 0 コ ・特にの ア ︶ づ すの ま ﹁ 0q ま % ニ五 @0 コの, Ⅹ オ笘何 @0 口の諸 章 。 田中耕太郎法家の法実証主義 - 昭二一こ。 - 研 - 拙稿 日 二の① 0 コ ︵佳ぃぎ三 N 主 ざ由えの oE チいすぎ p- Ⅰ ア 0 ハ リ 0 コ Ⅰ 仁 ハム りコ目円の Ⅱ ヂ 年のの @ っコ ・ め笘 ・ すぜや ・ 田円 ・ ミ目山内 ノ ア ︵。Ⅰの ひむ 。㊦円い コ円 0 Ⅱ 年 ㌧Ⅱの の の。 七 ・㏄Ⅰ1本の︶

(26)

題かく中心に置かれる。そしてそれを如何に四体的在り方を中心としてシェーマつけてい 現 一

める態度決定としてあるも

。それは換言

ロ すれば、

死のであった。従って、生存の見通しか絶望

的になって

生の如何ともなしかたさからくる

︵生命の飢餓状態におけ

その実存論的迫 求 -

がミ 問題

て取

と ら し

て る の

自 白目 己

(@ ど ・ ヮ直

す る か と

よ な

死、

の、 対決

し た 」 , 甲 O 、

が と 序 一生死の在り場 ニ 歴史的実存における 死 ︵歴史性の間題し

鈴木康治

その実存論的迫

求|

参照

関連したドキュメント

In section 3 all mathematical notations are stated and global in time existence results are established in the two following cases: the confined case with sharp-diffuse

Keywords: continuous time random walk, Brownian motion, collision time, skew Young tableaux, tandem queue.. AMS 2000 Subject Classification: Primary:

In this work, we have applied Feng’s first-integral method to the two-component generalization of the reduced Ostrovsky equation, and found some new traveling wave solutions,

In Section 3 using the method of level sets, we show integral inequalities comparing some weighted Sobolev norm of a function with a corresponding norm of its symmetric

Section 3 is first devoted to the study of a-priori bounds for positive solutions to problem (D) and then to prove our main theorem by using Leray Schauder degree arguments.. To show

Beyond proving existence, we can show that the solution given in Theorem 2.2 is of Laplace transform type, modulo an appropriate error, as shown in the next theorem..

While conducting an experiment regarding fetal move- ments as a result of Pulsed Wave Doppler (PWD) ultrasound, [8] we encountered the severe artifacts in the acquired image2.

Wro ´nski’s construction replaced by phase semantic completion. ASubL3, Crakow 06/11/06