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ドキュメント内 『宗教研究』180号(38巻1輯) (ページ 57-62)

  

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(56)  56 

  

㍽二十四日︑日記に到達した︒ 

    

    卸 回心とは︑人格の体制の変化による価値 観の転換とするとき︑我々は︑ここに彼らの回心 を 見ることが出来よう︒     七 その時期は︑梁川においては︑三回の見神が始 まった明治三十 セ 年の夏より秋にかけてであり︑ 樗牛 においては︑ 

の 比較的考察  にしても︑彼らはこれを契機として︑思想上に 大きな変化をとげた︒梁川は︑時間の制約を超え た ﹁常楽の今﹂ある  ことを確信した面九 %  といい︑ 樗牛は ﹁ 吾等 0 弱き命の強くなる様に感じらる﹂三十五年一 月 二日付︑姉崎へ︶ と  洩らし︑清沢も又﹁絶対無限の妙用に乗托して ︑任運に法爾にこの境遇に 落 在せるものとして の自己﹂三十一年十月 

と  骸  の  の  し  度 

を 

に対し 

宗教的  物 

、  「信仰 か  の  て 

て、 

そ  におい  の信仰 が  晴  ら  す  侍  れ  で  地  詰 これ  移行  骨の  現わ  自覚  かし 

染  も  発     、  代  三  る  代  で  あ  め  る 

川  よ  展  梁  質  へ  者  こ  に  あ  る  時  も のであろう︒石木とは︑病に倒れた保養時代の ︑ 右 に 滴 たる清水の如き観照的心境の謂とも思わ れるが  ほ又 ︑﹁ 教 界時号 こ によって︑改革の狼火をあ げた緊迫の時代でもあった︒ 騰扇 とは︑文字通り 無用者 

︒この自覚によって ︑ 彼の宗教的信念は確立さ れた︒浜風とは︑晩年︑風の多い大浜に安住を決め た心境  ろ う ︒このような区分が ︑ 当を得ているか︑ ど︐ ヮ かは此処では触れない︒ただ言いうることは︑ 建峯 ・  は ︑自力精進の傾向が著しく︑石大時代を過渡 期 として︑それが 膿扇 ・浜風時代の徹底した他力 主義 へ 

とである︒ 

の 過程を比較してみると︑先にも述べたよ う に 樗 牛 においては︑非宗教的︵ 或ぃほ反 宗教的︶ 時 代から  と no コづ のⅠ︵したのに対し︑梁川・清沢では︑ 多 少の曲折や他要素との複合 は あっても︑基本的 な 一 つ  的に強化・徹底化された形式をとった点が興味 ふか い ︒すなわち梁川の見神︑清沢の精神主義は ︑初期  川 が洗礼を受けたキリスト教︑清沢が得度を受 けた真宗の信仰と無縁ではなく︑むしろそれを 基 盤 にし  の 極限において開発したということである︒それ は樗牛 のように﹁ 無 信仰から信仰﹂への転回で はなく  り 高き信仰へ﹂の突入であった︒ただそれが︑ 清 泥や 樗牛 にあっては︑比較的徐々なる過程をと っ たの  においては︑潜在的な準備期間の後﹁見神﹂と いう 形式で︑急激な発現をみせたのである︒しか し 何れ 

     

                    

とこ 

病 とさ 

ひる 日 

れたと 苦悩が 

回心 そこに 

梁川 ていた 

づき希 が卒業 

︒ へ 

から 

無限︵  ろで彼らの回心の時期が ︑い づれも発病後の療 養 中であることに注目するべきであろう︒彼らは 共に︑当時 難 

れた肺結核を病んでいた︒人格の安定に︑生理 ・生物学的基礎の重要なことは言う迄もない︒ 人 は ︑いっ か亡 

のあることを承知していても︑健康である限り︑ 無限の生命感に満たされている︒しかし恢復し 難い病に侵さ 

知った時︑忽ち自信と希望とは崩壊する︒そこ には︑病の直接的苦痛がある ぼ かりでなく︑それ に 伴う様々の 

集中する︒その時︑人は真に心理・生理的な 危 機 に直面すると 喜ロ えよう︒ 

とは︑このような危機的事態においての︑人格 体制転換に よ る高適応とも考えられ︑梁川・ 樗牛 ︐清沢らが︑ 

おいて如何なる適応を試みたかが興味ふか い ︒ 

ほ ︑すでに伝統的なキリスト教から離れ︑ュ % 一 アリアン風から更に﹁倫理をもって信仰に代える 時代﹂を経過し 

︒この時期を貫ぬいたものは︑﹁この頃は身体大 いに肥え︑何となく英気腕になる﹂とか︑﹁身心 健全﹂︑﹁元気 

望も湧き出た日﹁大理想に目って前進せよ﹂︑﹁ 人の世にあるの雙ののの トづ のならざるべからず︑お ︵ ョづ のならざる ︵ 2 ll ︶ ︵原文︑勇︶ ず ﹂︑﹁ ム ﹁二・三年の中に蓄積して︑他日大雄飛 をこころみん﹂の如き一連の文字である︒この 心 ぬ 態度は ︑彼 

に 際して提出した論文﹁道徳的理想論 ヒに 集約 されよ う ︒それに ょ れば︑道徳的生活とは︑﹁ 有 限 ︵小我︶が 

大我︶に 向 って精進するの 宙 ㌍ 幅笹 とである︒ 梁 川 にとって理想とは︑現実から断絶した絶対の 彼岸ではなか  Ⅰ / Ⅹ 

  

﹁ 此 頃の僕の精神には︑この一両年の間に 膠 醸し 来 ったかとも思われる一種の変調が現われてき た ﹂三十五年四月二 

十四日付︑姉崎 へ ︶と自覚し始めた三十四年から 一 二十五年の間である︒清沢においては︑彼自ら回 恕 するように﹁人生 

に関する思想一変し ︑略は 自力の迷情を翻 転し 得たりと錐も⁝云々﹂︵全集七巻四七五頁︶の垂水 療養時代から︑河合  経やェピクテ タスによって開発される明治三十 一年の晩秋に至る頃までである︒ 

(58)  58       h"'c Ⅰ ‑,. づ ‑@ ・ 

     

  

  

  

  

  

  

  

     

  

  

ギ 

Ⅱ 

     

の 要求だにあらば︑神の愛との感応あるべし﹂と い う 感応道交の神学的構えを体制化するに至っ た ︒しかし実際 は︑ 

窩 要求の構えのみっくられて︑内容はいまだ 与えられていなかった︒激しい情動だけが︑彼の 人格を支配していたので  鋤 ある︒この人格体制が極限に達し︑心身 衰 頭 に伴う甘 P 佳日薄を待って発現したのが︑いわ ゆる見神の実験である︒ 

砒 見神には︑常に求めて止まない者が ︑ 遂に 求めて行なかった悲哀の高潮を︑情緒的前提とし ている︒その絶望の悲哀 

㍽感が︑見神では︑そのまま 慰 籍の快感とし て 作用していることに注目するべきであろう︒         

ぬ樗 

半も︑結核によって海外留学の夢が破 られた︒東京美術学校教授に任命されていた彼が ︑独仏伊 へ 美学研究の目 

宗 的で留学する件は︑明治二一十三年六月十三 日の官報に見られる︒彼自身は︑九月出発を前に  ﹁この上は丈夫にて立身 5  ︵ リハ ︶ この傾向 は ︑当時同様な悩みをもっていた 申桐 権 太郎︐魚住 影雄 らとの道交を通じて更に強めら ね ︑遂に﹁熱き 至深 

     

った ︒﹁相対理想を離れて絶対理想 は ない﹂と 見 た 彼は︑﹁自家実現 " 田 T おヰま 

き目の 

ヵヰ ︵㌍ 拍配 ヱを通じて︑そこ 

への到達を可能と信じていたのである︒ 

こうした理想追求の過程において病魔に倒れた 梁 川に ︑理想 は ︑実現不可能な絶対の彼岸へと 転 位した︒この欲求 ︵︒ い ︶ 不満は ︑ 強い緊張となって彼に内在化したが︑ や がて︑神戸療養中における教会との 再 接触など を 通じて︑人格神恩  慕の念に転した︒彼はその頃﹁ 殆 んど一年間の 休養三昧︑何をか得たるかと問われなば⁝中略 唯々一種の人生観を  冥想と実験との上より得たるように御座候︒ 御 承知の如く保守的神学の中に養われたる昔の理想 一 たび破れてより︑ 

久しく暗然懐疑の迷津に 街 復し 候 いしが︑今後 の 病気によりて︑たしかに一道の光明を得 候 よう 存候︒もはや我は 一  種の立脚地を得たれ ば ︑従来のように︑動もすれ ば 懐疑 し 失望し煩悶 し 放棄するが如きことなか るべしと存候︒哲学的  抽象の理念にあらず︑オーソドッ ス の信仰にあ らず︑将又︑卒業論文を草せし折の偏狭頑固の道 徳 的理想にあらず︑ 

自由なる思索の結果として︑自由なる経験の結 果 として︑我が意識の実験的証明として天地の父 を 認め中條﹂ 釜 十年 

二月三日付︑水口 鹿 太郎へ︶と書いている︒ 

   る  決  一  の  ら  可 

に   ミ反 

     

  

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は  定  か  と  々  か 

  

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宗教的人間の  比較的考察 

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ドキュメント内 『宗教研究』180号(38巻1輯) (ページ 57-62)

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