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一  ‑‑  り

ドキュメント内 『宗教研究』180号(38巻1輯) (ページ 77-83)

て  ま  て  日  元  え  し かしながら︑その華厳においても︑両三相対の 生成 力 動が︑不二絶対の自己展開におわり︑真に 生成 力動 とはな  なかったと評せよ う ︒天台を相即的一元論とよ ぶなら︑華厳 は ︑流出的一元論である︒真の生成 力 動は⁝相対的 

  対立ないし対決の場において可能というべく︑ ︐ ︶の問題は︑日本へと︑もちこされることになる   

四 ︑絶対開会と相対開会 

本天台にいたって︑開会に関し︑大きな論議が 生じた︒それは︑さきにふれたごとく︑開会にほ ︑廃立がふくま  いるか︑いないかということである︒廃立︵相待 妙 ︶がふくまれるとして︑その開会を﹁相待 妙 開ム匡 とし︑ ふ  れないとして︑その開会を﹁絶待 妙 開会 とよ んだ︒﹁相待 妙 開会しということが︑あり ぅるか ということにつ ︵ @, 4 ︶ は ︑日本天台において︑﹁ 論 陽一条目 ︵ 0 4  ︶ L となっ たので︑﹁法華 略義 見聞﹂の中巻に ︑ 

の四 とお りと なろう︒ にあたるものとして︑ 最 澄 ︑円珍︑それから︑法然の相対主義的な念仏 一門を ぅけつ ぎなが ︐ :それを不二絶対の理によって整合づけた親鸞 ︑および︑対地的には︑日蓮を ぅ けて︑約部 奪 釈 ・法華一乗を強調      

対立でもなく︑たん    

  

78 

  

ンテ  ﹁ 

就 

︐ 

開 

ムム  ‑ 

︒相待開会五時︒ 待対 義也︒ 対 

︐ 

三 

教徒  ‑ 

顕 :一円 妙 三池︒絶待 

妙云  ︒ 

絶 

‑‑ 

権実 待対 

‑ 

也 ︒﹂     と のべ︑そのあとに︑相待 妙 開会についての 各 種の論義が紹介されている︒ 

そこで︑しられることは︑﹁絶待 妙 開会﹂とは︑ 絶対なるものと相待なるものとを︑まったく 平 等 ・同一とみるこ 

なる無差別でもないから︑相待 妙 開会とされる ゆえんである︒絶待 妙 ︵開会︶という面からみれ ぼ ︑絶待 妙 開会は 

︑ 

﹁能所不立の絶待 妙 ﹂︑相待 妙 開会は︑﹁能所相 立の絶待 妙ロ ということになる︒これを図形で もって︑いいあらわ 

せば︑絶待 妙 開会は︑すべての点が中心となる 虹 ハ限 円であり︑相待 妙 開会は︑絶対なるものが︑ 統一するもの︵ 能統 

ことして︑統一されるもの︵両統こすなわち 相対なるものの頂点および中心をなしている 無 限 円錐といえよ う 

︒ 

ちなみに︑相待 妙 開会が強調されてゆくと︑ 相 対 廃立の色彩をおびてくる︒ 

いま︑日本天台のあゆみ︑および︑それに関係あ る 講師の立場・思想を︑この絶待 妙 開会︵絶対 開会︶・相待 妙開 

会 ︵相対開会しないし︑相対廃立によって ︑分 類してみると︑まず︑ 型 としては︑ 

︵世界観︶ ︵対地判︶ 

絶対  相対 

絶対  絶対 

相対  相対 

相対  絶対 

‑.y. 円 

  

  

  

  

  

  

しっ っ ︑世界観的には︑ 天 ムロ本覚思想の影響を 

︐ ヮ けた日蓮門下などをあげることができよう︒ にあたるものとして  は ︑天台本覚法門があげられよ う ︒ としては︑ いわゆる鎌倉新仏教の法然︑道元︑日蓮が代表 的であろう︒かれら 

  に 共通するところは︑不二絶対から面工相対に おりたち︑仏︑仏法︑浄土などを︑凡夫︑世法︑ 絨 土などに対する 相  対酌絶対者として有化し︑定立し ︑ そ う するこ とによって︑現実対決ないしは改革あるいは実践 の力動 性を獲得した  ことである︒かれらの特色は︑不二絶対論を推進 していった 天 ムロ本覚思想と対比されるとき︑ 鮮 明に︑つかむことが 

できよう︒最後の は︑ 純円 猫砂・超人醍醐の約 部奪釈約 一乗観に反対し︑ 諸 数包容・ 約 数年秩 の 絶対 判 に立つとと 

もに︑世界観としては︑不二本覚思想を批判し︑ 二元相対におりたったもので︑宅地肩 証真 ︑真 迫 ︑普験徳門などが 

好例である︒ 

宅地肩 証真は ︑源平争乱時代に出た天ムロ学僧で︑ ﹁法華三大部私記﹂︵一一六五 大剣 草 ︑一二 七 完成︶をあら  わし︑約部 奪釈 的な主張および本覚法門を批評 した︒ 真追 ︵一五九六 一六五九︶は︑日蓮宗 か ら 天台宗に 転宗し︑ 

証 真の私記にのっとって︑日蓮宗に批判をむけ るにいたったもので︑それに関する論著として ﹁破邪顕正記﹂と 

﹁禁断日蓮 義 ﹂とがある︒ 普寂 徳間︵一七 七 一七八一︶は︑浄土宗西山派の出身であるが︑ 諸宗博学で︑とく  華厳思想に立脚しつつ︑天台教理を釈し ︑ ﹁ 法華三大部 復真妙 ﹂をあらわした︒ 普寂は︑安 楽律唱道・四明天台  復帰によって 天 ムロ本覚思想を終息せしめた 慈山 砂丘二六三七 一山八九 ︶・ 光謙霊空 ︵一六五 二 一セ 三九︶にた 

  

は ︑本覚思想のみならず︑ 妙楽 湛然・四明知礼の 性悪説をも否定したの 

離 で︑そこで︑壁ユ︐雪空の四明大ムロ復帰に は︑ なっとくいかなかったのである︒かれは︑ ま た︑天 ムロ性悪説によって   ぉ 華厳を解した 鳳溥 ︵一六五七 一セ 三八︶に たいしても︑非難をむけた︒ 鳳譚は ︑華厳を天 台 によって解したのであの     教 るが︑ 普寂は ︑天台を華厳によ づ て解した ので︑かれは︑他宗のものまで︑ 天 ムロ性悪にかぶ れたことを難じつつ︑ 自       

  

ちに華厳の研究がふかまることによって︑性悪説 の 非をさったと述懐 

  

﹁本覚 ヒの 語は︑﹁大乗起信論﹂ 

﹁本覚義者︒ 対 :始覚 

義証 

︒ 以 ︐始覚者 同 ︐本覚 ‑ ︒ 始覚義者︒ 

とあるのが︑最初の用例である︒ 

ところで︑﹁起信論﹂においては︑ 何 始覚 b と 相関的にもちい  ︵ 6 4 ︶ 依 ︐本覚 ‑ 故 市有:不覚 ‑ ︒ 依 :不覚 ‑ 故説 ︒百ニ始覚 ‑ ︒ 

られたものであり︑両三相対の生滅門のもので ある  五 ︑本覚論と絶対 視  している︒かれは︑性悪ないし 理毒 ︐俗諦などの 強調は︑現実肯定の 一 辺に堕するものであると 評した︒ 

以上のごとき A.B.C.D の型について︑ な お ︑興味ぶかいことは︑そのいずれにおいても︑ 真如随縁の華厳的  世界観が採用されつつ︑ A と B においてほ ︑真 如の現実生成ということが︑現実同化となり︑ そ の点から︑不二絶対  を 強調する密教︑禅観の摂取となり︑ C と D の ほうは︑真如随縁ということが︑真如の浄による 現実対決という運動  となり︑その点から︑浄土数の相対正義 的 ありか たが︑注目されたことである︒たとえば︑ C 型 では︑日蓮に浄土教  的 世界観が濃厚に吸収されており︑道元に廃立 的 念仏一行のありかたに賛意を表するところあり   

に ︑それがみられる︒ 真遇 は︑学説としては︑ 証 真の﹁三大部私記﹂に︑信仰としては︑源信の ﹁往生要集﹂による  ことを︑みずから︑のべており︑かれは︑即身成 仏 ・此土浄土・不二絶対仏の説を否定している ︒ C と D ︑とくにも  C のタイプ は ︑宗教的実践にとみ︑それがおこる には︑時代・社会の様相が︑そうとう関係して いるとかんがえられ  るにたいし︑ A と B ︑とくにも B のタイプ は︑新 罵 学的思弁のなかに︑ふかく︑ほいっていったも のであるといえる︒ 

その点︑ B は︑折口 学 思考のクライマックスをしめ すものと称し ぅ るが︑それだけ︑宗教実践の面 では ︑ 頽 落の危険性  をふくむものであるにたいし︑ C は︑哲学思考の 面からは︑一段さがったものであるが︑そうする ことによって︑宗教 

実践の動力を復活しえたものといいえよう︒ 

(so)  80 

  

が ︑日本天台にきては︑本覚を強調して不二組 対の真如 門 にまで︑もちあげ︑本覚と真如を同一 規 し︑ここに︑いわ  ゆる 天 ムロ本覚思想の形成となる︒たとえば︑ 源 信 八九四二 |一 0 一七︶ 作 となっている﹁本覚 讃 釈 ﹂︑﹁真如 観 ﹂に 

︑ 

﹁ 

此 小目︒本本覚真如 理也 ︒﹂︑﹁本覚貞女 

ロ︑ 

繋 " 心 ︑︵ 8 4 

﹂ ︶  ﹁ 

此 一実真如 ノ理ヲ ︒我見ナリ ト 知 り ヌル︒ 此 別本覚真如 ノ 理工 帰 

︵ 

︶ 

スル ︒﹂︑コ一切衆生音本覚真如 ノ理ヨリ出 

タリ︒︵㏄︶ 

﹂などと︑﹁本覚真如 L をいい︑おなじく源信 作 となっている﹁ 観 

︵ 0, 

︶ 

小路 要集 ﹂にも︑ 

︵ 

︐  ス  5 ︶ 

コ帰 :本覚真如玄理 

‑ 

時 

︒ 

只是顕 ︐本有三千 

‑ ︒ 

始非 " 得 :果位万徳 

‑ ︒ 

皮知 ︒我等一念心性︒無始 已 釆偏 :三身万徳ニ 

とて︑本覚真如がとかれている︒そして︑誠心 ・衆生そのまま︑本覚真如のあらわれであり︑も とより仏であると 強  謝 する︒このような本覚真如説は︑そうとり︑ 

︐ 

フき ぼりにされた本覚思想であり︑平安末期 二 二世紀後半︶から 鎌  倉 初期︵ 

一 

三世紀前半︶にかけて︑あらわれて くるものとおもわれるのであり︑源信の﹁往生 要 集 ﹂や﹁一乗 要決 

﹂ 

にはみられず︑さきの書は︑この時分の偽作とみ    

本覚思想が︑いっそ う 高潮してゆくと︑本覚 真 如は ︑凡夫衆生のうちにひそむ 理 としてでなく︑ 衆生のすがたその  まま︑あるい ほ ︑そのものとして︑主張される にいたり︑さらにほ逆転して︑凡夫衆生のすがた こそ︑永遠絶対なる  ものであり︑それを捨象した仏というものほ ︑む しろ︑ 仮 りのものであるという 説 さえ︑みえて くる︒両三相対の事 

︵ 

相 ︶にたいして︑不二絶対の理︵性︶を強調し ︵酔顔 本 ︶︑さらに逆転して︑不二絶対の理を 

︑ 

両三相対の事にあ  趨 てはめ︑両三相対の事そのまま︑ないし︑ そのものこそ︑不二絶対の理︵事実相︶であると 主張してくるのである︒ 

雛本覚田頭 

本は︑ 納の一一刀論であり︑その一一 九輪には︑本質と現象との差別はない︒そこで︑ 本覚一元の理は︑そのま 

目ま︑現実岩相に適用され︑事の一元論とな 

す︑ 

る 

︒ 

理顕 本本覚から︑事実相︑事の一念三千︑事 円 ︑事観などと︑逆に事 ぃ 

  ・有限・相対なるものとして理の普遍・無限・ 絶 対 なるものによって否定 ︑ ︑ 8 1  したのが︑こんどは︑理の二刀論によって事を 

︐ 

つ らづけし︑普遍化し︑絶対化する︒すな む ち 

︑ 

埋木 事 未から高本 理 

ドキュメント内 『宗教研究』180号(38巻1輯) (ページ 77-83)

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