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まだないが︑それが到来したその時には︑いっも 既にその終りである死ではなく︑存在を否定し 無みする仕方で無 ぬに ︵否定的に︶有限化する可能的 死 ︵存在 可 能 性に外ならぬ︶ ︐牙 :実存の根源的在り方とし て 実存の歴史なので
ある︒死はその意味で︑無において有限的なる
@ ︶との開示である︒それほ︑経験事実に立脚する
死 との 取 違えを許さ
であって︑その意味で終末である︒
は ︑不条理で且つ偶然的であることであった︒ そ してそれもまた︑規定さ 妬 れえ かホ二 しお・ ︑ ・てあるから 虹ぶ ︑ある︐かか る 見出し方は︑状態度に関わることにおいてであ り ︑そして既に超え出てい
由 として脱け出︑そして通出するのである︒ そ の 仕方はどこまでも有限
鮎 的である︒根拠関係から出てゆくことにお いて︑根拠づけるものとしての有限的自由なので ある︒何故なら︑根拠と︶ 判明しての状態もまた無だからである︒腕白 的 不安がりが︑それへの態度決定として回れをあら わにするのである︒ 死 見出された状態性は︑かくあることにおいて 既 に ︑それと限定することとして有限的である︒ か かる事実的状態性 ︵ 簗 ︶ それと生の始源との混同を許さないのである︒ 例 えば︑存在の闇である︒ た いのである︒何故なら︑投げられてあること
跨 が何故であるかという問いを起しても︑見出 す 仕方としての関わり方が問題になるのであって は︑ 必ずしも歴史的被規定性とは解しがたいの である︒それは見出す
︑事実史的が問題な 仕方で投げる ぺ くあり︑投げるのはかく見出し ている 己 ねから投げるのである︒
殊し ︑理由づけされ えね それ︵不条理しは︑ 投 げられてある状態性以前に遡及する連続性を拒否 している︒その 通 ︵ 戎 ︶
のではないからである︒
状態性を問 う ことは︑何故かかるべくあるかで ほ なく︑投げ出されてあることにおいて町立てる ︑ 即ち︑それにお ける自由から問 う のである︒その意味で︑ 時熟 する実存的時間は ︑己 れの歴史の根源に目を向け ︐ Ⅰ︵ 3 レ ることはあっても︑
それほ呼ぶこととしては無差別であり︑生死を 自らの中に自然に包みこむ︒その無差別 は ︑根源 的に関わる仕方に おいて根源的に自らを 無 として開示する︒それを 無視した時にも無はたえず開示を止めない︒ 例 えば歴史的時間にお トお ・ ︶ いては︑﹁権威も︑知恵も︑名声も︑友情も ︑快 楽も ︑幸福も︑すべてはただ 風 ︑ただ 煙︑ くわしく 言えば一切皆無﹂と
根源的に開示される︒それは全てがはかなく 過 ぎ 去りゆく︑そしてそのはかなさの前にあっては ・人間の営みの全く 空しいことを伝えるばかりでなく︑呼ぶことと しての営みを根源的に開示しているのである︒ っ まり︑呼ぶこと︑ ま たは意味づけること全てが︑無にさしかけられて あることの開示である︒従って無の根源開示で ある︒
呼ぶのは︑あるものとして呼ぶのであって ︑な いものとして呼ぶのではない︒限定における不確 定 きは︑決してあ
ることそのものの否定ではない︒呼ぶという存在 構造 は ︑いわば︑有限における無の隠蔽若しく は ︑存在の欠如 態の においてあるのを見出すとは︑それであって ︑他 の 仕方であるのを見出しているのでほない︒ か くあるという限定を
受けておれば︑かくはありえても︑他でほあり︑ ぇ ないからである︒かく︑否定としての無は ︑現 在 においても︑既往 八 ント浅の麓 コ のの コ では井本ノ人の㏄ 旧 es さにおいても︑ 将来においても︑無化するものとして︑限りあ る ︵有限な︶実存を 生起すると言われねばならない︒実存はかく︑ 歴 史的的のの 0 まり ア ︵︶ @n アに己 れの在り様を生起する のである︒
三 ︑歴史の根源としての自然
歴史的実存は ︑ 無における有限的立場として 歴 史的時間に生きるが︑その根源から問われてこそ ︑相関的とされて いる生死は︑根源的に解決されるであろう︒何故 なら︑規定されえない︵ 無 規定︶としての無は ︑無化する存在可能 性 として無において貫いている︒貫くことにお いて有限的となる存在は︑根源的に無である︒ 然 しそれほ実体ではな
い ︵リアリティとしての様相的属性をもたない︶ から︑根源は無記である︒根源としての無は ︑ 生でもないし死でも
ない︒かかる無は︑ 言表 において無化するであ ろ う ︒そんな生もないしまたそんな死もないと︒
( ㏄ ) 36
既存とは︑あったことであるとはいいながら
既 にない︒そして将来にもあるとはいいえない︒
現 在 もまたとどめ え 淋 ない︒それは︑ 現丘 別における 虹じミ によって 限界づけられている︒換言すれば︑具体的生起を 通して無が現前する謂で 繕 ある︒無が限りある在り方を開示するから︑Ⅱ 出会って関わりあ ぅ 現象 ハ それは学的には呼ぶ ことではあるが︶を現象 蛙 としてたてうる︒ 既 在したとは︑この有限 的にたてられた現象の謂であり︑このたてられる こと ハ 経験もその一例で
無視なのである︒根源的に関わる仕方において 根源的に開示されてくる︑という所以である︒ シ ュ リング は その晩年
の 作品の中で﹁歴史の世界は ︑ 実は救いない光三 只を呈している︒生起するすべてのものは︑ 更に他の事柄が生起 し 得るために︑ただ生起するだけであり︑しかも 更に生起する事柄自身が ︑ 再びもう一つほかの 事柄からみれば︑ 過 ︵ お ︶ ぎ 去るべきものとなるのであり︑かくして根本 的には︑一切のものは︑無駄に生起している﹂と し ︑何故にそれらの
ものがあるのか︑換言 ロ すれば︑何故にそもそも 何かがあるのか︑何故に無ではないのかといい︑ 絶望的問いに答えよ ぅ とする︒従って無意味と空しさ ほ ︑根源的に 問うことにおいて根源的に開示される一切の在り 方であった︒
殊も ︑ 人の味わった全てほ過去において現前 し ているのであり︑それは 既 在したが︑現在にはも はや事実として 現 節 してないということである︒但しそれは・ 将 来 もまた現前しないということを意味しない︒ そ の既 在したというこ とは確実な事実で・そのことは現在においても 空 無 ではない︒つまり空無を意味しない︒あった ということは︑何人 といえども否定しえない確実な出来事だからであ る ︒その出来事のもっ意味としての空無は ︑毎 棚の開示として了解さ ︵ コ ︶ れぅる ︒
Ⅰ 一一 " "
いる︒それは自らの意志においてたち自己充足す るが故に︑虚無化されるのであるが・それを 通 じて示されるものは不易なる カ としての主の言葉であった︒すべて が 無記からたちあらわれてくるの ほ︑ 呼ばれるこ と ︵人が呼ぶべく あ るのではない︶においてであった︒永遠にあず からないものは亡びる 0 永遠にあずかるものは︑ 亡びをも亡びとせず ︵㏄︶ に栄 化される︒そこでは︑自然への 息 づきはその ままに虚無であった︒
さて無は︑可能的なものとして有限なる全体
閃
不 であり︑そこに︑無をして 無 たらしめる根源の 働きを見出しう る ︒何故なら︑無にさしかけられてある存在と して︑あからめられた ハ その 甲プ ︵ざは自らの 生 起を通してあからめ られるのである︶実存は︑そのあからめられる ナ ﹂とにおいて生死︑即ち︑歴史の根源 態 にふれ ざ る まえない︒この 歴 史の根源 態は ︑存在の闇への突入ではなく︑ 生 死のよって出てくる根として︑歴史が自然に帰る へき根源だったのである︒
︵ 錘 ︶ な 草の如く︑その栄華はみな草の花に似ている︒ 草は枯れ︑花は散る﹂のである︒全ては︑朽ち るべく虚無に服して ヰハ @@ ︒
﹂とにおいて救いの完成となるものであった︒ ロ ゴス は一面︑超越 的ではあるが・他面︑肉となることにおいて 現 実に働らきかける︒そしてこの現実はそのままに おいては︑﹁人はみ
えないこととしての 丑空記 なる存在の︑存在性を損 ぅ ものではない︒無は存在するものの存在とし て ︑その場面におい︶ てたちあらわれてくるのである︒逆に無は︑存在 をあらわにするといえよ う ︒ 例ぇぼ ︑白下異宝︑ 空 不異色を通して働く法は ︵ ぎ ︑ 無 化を通して開示される︒法はそのものとして ︑かかる 色空 ︵ 空
色 ︶をたてる分別 知 ︑それを超えた世界に属す る ︒それは自然を根拠として 月 づく法といえよう ︒そしてこのことが
自然への根拠づけであった︒空色ハ色 空 ︶がた てられることにおいて︑流転の実相を知る︒つま り︑ 空の開示であっ ︵ お ︶ かくて 無 といい︑存在といい・それらは無規定 ︵無差別︑無記︑無名など︶の相即的二面である ︒それは︑規定し
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