軌道整列系 V 酸化物における 光誘起ダイナミクス
Photoinduced Dynamics in Vanadium Oxides with Orbital Ordering
早稲田大学大学院 先進理工学研究科
物理学及応用物理学専攻 複雑量子物性研究
能上 絢香
2013 年 2 月
1
目次
第1章 序論 3
1.1 本研究の背景 . . . 3
1.2 本論文の構成 . . . 4
第2章 AV10O15(A = Ba, Sr)の物性 6 2.1 電子配置と結晶構造 . . . 6
2.2 BaV10O15 の構造相転移. . . 9
2.3 電気抵抗、帯磁率 . . . 9
2.4 放射光粉末X線回折実験 . . . 12
2.5 光学反射率と光学伝導度 . . . 13
第3章 実験方法 21 3.1 試料作製 . . . 21
3.2 測定面研磨. . . 22
3.3 ポンププローブ分光測定 . . . 22
3.3.1 光源 . . . 22
3.3.2 測定系 . . . 25
3.3.3 データ取得法 . . . 26
3.4 光学反射率測定 . . . 29
第4章 AV10O15(A = Ba, Sr)の光誘起ダイナミクス 31 4.1 背景 . . . 31
4.2 転移温度以下におけるAV10O15(A=Ba, Sr)の光誘起ダイナミクス . . . 32
4.2.1 数psの時間スケールの光誘起ダイナミクス . . . 32
BaV10O15 . . . 32
SrV10O15 . . . 35
4.2.2 数10 psの時間スケールの光誘起ダイナミクス . . . 36
BaV10O15 . . . 36
SrV10O15 . . . 36
4.2.3 光誘起ダイナミクスのポンプ光強度依存性 . . . 43
目次 2
4.2.4 AV10O15(A=Ba, Sr)の光誘起ダイナミクスのプロセス . . . 44
4.3 AV10O15(A=Ba, Sr)の光誘起ダイナミクスの温度依存性 . . . 45
4.3.1 BaV10O15 . . . 45
4.3.2 SrV10O15 . . . 52
4.4 励起光波長依存性 . . . 52
4.5 まとめ . . . 53
第5章 BaV10O15 の劈開面における光誘起ダイナミクスの温度依存性 55 5.1 背景 . . . 55
5.2 研磨面と劈開面における光学伝導度の違い . . . 56
5.3 研磨面と劈開面における光誘起ダイナミクスの違い . . . 57
5.4 光誘起ダイナミクスの温度依存性 . . . 60
5.5 まとめ . . . 68
第6章 総括 70
第7章 謝辞 73
研究業績 74
参考文献 76
3
第 1 章
序論
1.1 本研究の背景
光と物質の相互作用に関する研究領域を光物性物理学と呼んでいる。光物性物理学は、物 質の光学応答を電子や原子と言ったミクロな立場から解明し、物性の理解を深めることを目 的とする。光と言っても目に見える可視光ばかりでなく、可視域の長波長側で電波との境界 領域にまで広がる赤外域の光、及び可視域の短波長側でX線との境界領域にまで広がる紫外 域の光も含まれる。また、光と物質との相互作用と言うのは、光が物質に入射してお互いの 間に作用が起こる場合だけでなく、物質から光が放出される場合もある。さらに、光が入射 することによって物質自体が別の状態になることもあるし、レーザー光照射の場合など、入 射光の強度が強くなると、例えば振動数が2倍、3倍といった高調波が発生するなど、非線 形効果が見られる場合がある。このように、光物性の内容は極めて豊富である。これまで、
光は物質の性質を探るプローブとして用いられてきた。しかし、近年のレーザー技術の急速 な発達に伴い、物性を光で制御したり、光照射によって新たな物質相を創成するというよう な、物質に働きかけて基底状態とは異なる新しい状態へと変換させる光の能力が注目されて おり、この物質改変のためのツールとしての光に力点をおいた研究が盛んになってきた。
このような光をツールとして用いた現象の事例として、強相関電子系における光誘起ダ イナミクスが報告されている。この物質系における電子状態は、電荷、スピン、軌道、格子 の自由度の間の相互作用によって支配されており、温度や電場、磁場、圧力などの外場に よって、電子状態の劇的な変化が引き起こされることがある。その代表的な例として高温超 伝導[1]や巨大磁気抵抗効果[2, 3]が挙げられる。近年、フェムト秒レーザー技術の発達に よって、超短レーザーパルス光を外場として用いることが可能となり、光照射による電子 状態の変化を引き起こす試みが、モット転移 [4–7]、電荷、軌道整列[8–23]、マルチフェロ
イック[24–27]、中性−イオン性転移[28]、電荷密度波[29–31]などを示す、様々な物質系
において研究されている。このような研究の中でも、光照射によって生じた局所的な励起状 態がきっかけとなって、巨視的な相転移が誘起される光誘起相転移は、光励起強度に対して 非線形な応答を示す協同現象である点、微弱な光で巨大応答が得られる点等の特徴的な点か ら、重要な現象として認識されている。また、超短レーザーパルス光の照射は、温度や電場、
第1章 序論 4 磁場のような外場の制御では到達することの出来ない新しい準安定な物質相を誘起できる可
能性を秘めているため、興味深い現象である。さらに、応用的な観点からも、光誘起相転移 は、電子状態が高速にかつ大きく変化するため、高速、高効率の光スイッチングデバイスの 新しい動作原理として期待されており、光と物質との相互作用を扱う光物性は、光産業技術 のベースとなるものである。
現在、様々な物質系において光誘起相転移の探索が行われているが、実現例は少なく、光 誘起ダイナミクスの統一的な理解のためには、個々の実験事実を蓄積することが重要となる と考えられる。本研究では、光誘起ダイナミクスを探索する物質系として、軌道整列系V酸 化物AV10O15(A=Ba, Sr)に着目した。この物質系において、BaV10O15では、軌道自由度と 格子の自由度が強く結合しているため、Vイオンのt2g軌道が整列し、V三量体を形成する 構造相転移が起こる。一方、SrV10O15は、そのような構造相転移は起こらない。よって軌道 と格子の相互作用によりもたらされる新しい光誘起ダイナミクスが期待される。すなわち、
この物質系は、軌道と格子の相互作用を通じ、軌道整列が光誘起ダイナミクスに及ぼす影響 を統一的な視点で理解するのにふさわしい系である。
1.2 本論文の構成
本論文は全6章から構成されており、以下に各章の内容を述べる。
第1章では、研究の背景と論文全体の概要を述べた。
第2章では、研究対象となるV酸化物AV10O15(A=Ba, Sr)の電子配置、結晶構造、電気 抵抗、反射率と光学伝導度について整理し、軌道整列とV 三量体形成の関係についてまと めた。
第3章では、実験方法について説明した。試料作製条件と、Tiサファイアレーザーを光源 とするフェムト秒反射型ポンププローブ分光測定の測定系、及びデータ取得法、光学反射率 測定系についてまとめた。
第4章では、AV10O15(A=Ba, Sr)の研磨面における、フェムト秒反射型ポンププローブ分 光測定の結果について述べた。そして相転移の存在がどのように光誘起ダイナミクスに影響 を与えるか考察した。BaV10O15では、10 K(転移温度以下)における光誘起反射率変化の時 間依存性の測定結果から、光照射により軌道整列が壊れ、その後、電子と格子の結合を通じ てエネルギーが格子へと移り、V三量体が壊れるという光誘起ダイナミクスが起こっている と考えられることを述べた。これは三量体相から三量体のない相への光誘起相転移であると 考えられる。また、この光誘起相は持続することが明らかになった。一方、SrV10O15におけ る光誘起反射率変化の時間依存性の測定結果からは、光照射によってサンプル表面に光誘起 状態が現れ、その後、光照射によって生じた格子歪みがサンプルの奥行き方向へ弾性波で進 んでいき、この格子歪みに伴って電子の励起状態が現れる、つまり、格子歪みと結合した電 子の励起状態がサンプルの奥行き方向へ進んでいくというダイナミクスが起こっていると考 えられることを述べた。さらに、ポンプ光強度依存性の測定も行い、BaV10O15とSrV10O15 では、異なる振る舞いが観測された。また、両物質の光誘起ダイナミクスの温度依存性につ
第1章 序論 5 いて述べて、BaV10O15においては、特に、転移温度より十分高温と転移温度直上での光誘起
ダイナミクスについて考察した。
第5章では、BaV10O15の劈開面における光学反射率の温度依存性、及びフェムト秒反射 型ポンププローブ分光測定で観測した光誘起ダイナミクスの温度依存性について述べた。
そして、研磨面と劈開面における光学伝導度と光誘起ダイナミクスの違い、及びBaV10O15 において、転移温度よりも高温の軌道整列していない状態における光誘起ダイナミクスを SrV10O15と比較するという観点から考察した。劈開面における光学伝導度の温度変化では、
研磨面とは異なる点が観測された。また、10 K(転移温度以下)において、研磨面と劈開面の 光誘起反射率変化の測定結果を比較すると、絶対値と時間依存性において異なる結果が観測 された。これらの違いについては、研磨面においてサンプル表面に残されたストレスによる ものであるという観点から議論した。転移温度より高温における光誘起反射率変化の時間依 存性は、10 KにおけるSrV10O15と類似したものが観測された。これより、BaV10O15でも転 移温度より高温では、格子歪みと結合した電子の励起状態は、サンプルの奥行き方向へと進 んでいくと考えられると述べた。さらに、光誘起反射率変化の振動の振幅は、高温から転移 温度へ向かって温度を下げていくにつれて、減少することが観測された。これについては、
転移温度より高温においても、局所的にV三量体が形成されているという点から考察した。
第6章において、本研究の総括を行った。
6
第 2 章
AV 10 O 15 (A = Ba, Sr) の物性
本研究で取り上げた AV10O15(A=Ba, Sr)の物性は J. E. Greedanら、梶田ら、星野らに よって研究されている[32–37]。ここではその報告をまとめる。
2.1 電子配置と結晶構造
AV10O15(A=Ba, Sr)は、Vの平均価数が+2.8(非整数価数)で、平均でそれぞれのVイオ ンに2.2個の電子が存在する。形式的にV3+(3d2):V2+(3d3)=4:1であるため、電荷の自由度 が存在する。
Vイオンは酸素イオンによって八面体的に囲まれているため、結晶場分裂により、図2.1 に示すように、Vの3d軌道は、3重に縮退したt2g 軌道と2重に縮退したeg軌道に分かれ る。ここで、酸素イオンのp軌道との混成により、Vの3d軌道の縮退が解けることについ て簡単に触れておく。5重縮退した3d軌道のうち、xy, yz, zx軌道は酸素のp軌道とpdπ混 成し、x2-y2, 3z2-r2軌道はpdσ混成する。pdσ混成は強く、pdπ混成は弱いので、p-d混成 によってd軌道のエネルギーが反結合軌道として上げられる効果は、pdσ混成の方が大きく なる。これにより、d軌道はエネルギーの低い3重縮退したt2g軌道と、エネルギーの高い2 重縮退したeg軌道に分裂する。
V2+はt2g軌道に電子が3個、V3+はt2g軌道に電子が2個入っている。よってV3+には軌 道の自由度が存在する(図2.2)。
次に結晶構造についてである。両物質は室温において同じ結晶構造である。図2.3に結晶 構造を示す。結晶系はorthorhombicで、室温における空間群はCmceである。c軸方向に O、V、AO7が層状に積み重なった構造をしている。図2.4(a)にab面においてVの2層を 取り出した図を示す。5個のVイオンから構成される船構造がab面に沿ってお互いにつな がった構造を形成しており、これは、Vの作る三角格子から規則的に三角形が抜けた構造を しているとみなすことができる。(Vイオンの欠損は、図2.4(a)の破線の丸で示している。) VO6 八面体は、z=0, z=1/4の面内で辺共有していて(図2.4(d))、z=0とz=1/4の面間 でも辺共有している(図2.4(e))。したがって、z=0とz=1/4の層の間のVイオンには大き な相互作用がある。c軸方向の積み重なりは、図2.4(a)に示すように、z=0とz=1/4では
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 7
O2- V2+,V3+
e
gorbitals
t
2gorbitals
3z
2- x
2x - y
2 2yz xy zx
dxy, dyz , dzx
図2.1 AV10O15(A=Ba, Sr)のVイオンにおける3d軌道の結晶場分裂
V
2+V
3+e
ge
gt
2gt
2g1 : 4
図2.2 Vイオンの電子配置
Vの船構造が逆向きになって積み重なる。一方、z=-1/4では、z=0からx=1/2だけずら した位置にVの船構造が配置される。この配置は図2.4(b)に点線で示している。よってz= -1/4とz=0の層の間では重なりが小さい。したがってAV10O15(A=Ba, Sr)はVイオンの bilayer構造と見なせる[33, 36]。BaあるいはSrは、欠損したVの三角形の中央に位置し、
Vイオンのbilayer構造の間にある(図2.4(c))。
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 8
O V V V
V O O
A O
7A O
7
図2.3 AV10O15(A=Ba, Sr)の結晶構造
V
a b
c
a b
c
(a) (b)
(d) (e)
z = 1/4 z = 0
(c)
A( = Ba, Sr)
図2.4 (a)z=0とz=1/4におけるVイオンのbilayer、(b)z=0とz=-1/4におけるVイオ ンのbilayer、(c)Vイオンのbilayerの間にあるA(=Ba, Sr)の位置、(d)z=0, z=1/4の面内に おけるVO6八面体の辺共有、(e)z=0とz=1/4の面間におけるVO6八面体の辺共有
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 9
2.2 BaV
10O
15の構造相転移
BaV10O15は130 K付近で構造相転移を起こし、空間群がCmce→ Pbcaへと変化するこ とが、J. E. Greedanらによって報告されている[33]。図2.5に粉末中性子回折実験による格 子定数の温度依存性を示す。どの軸方向の格子定数も130 K付近で急激に変化していて、a 軸、c軸は伸び、b軸は縮んでいる。
図2.5 BaV10O15の格子定数の温度依存性
2.3 電気抵抗、帯磁率
図2.6にBaV10O15 のa, b, c軸における電気抵抗の温度依存性を示す。室温から温度を下 げていくと、どの軸方向でも構造相転移温度Tc = 123Kで103倍増大する。T <Tc におい
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 10
0 100 200 300
10−2 100 102 104
T (K)
ρ (Ωcm)
SrV10O15
BaV10O15
ρ
bρ
cρ
a123K
ρ
b図2.6 BaV10O15の電気抵抗の温度依存性
て、電気抵抗の振る舞いは、熱活性型であると考えられる。活性化エネルギーは(温度範囲 に依存するが)、0.05 eV∼0.1 eVであり、電子構造にエネルギーギャップがあることを示唆 している。
図2.7にBaV10O15の各軸方向の帯磁率の温度依存性を示す。構造相転移温度123 Kにお
図2.7 BaV10O15、SrV10O15の帯磁率の温度依存性
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 11 いて、帯磁率においても不連続な跳びが見られる。跳びは約 20 %である。さらに温度を
下げていくと、T <43 Kでa軸方向の帯磁率χaは減少するが、χb、χc は増加する。これ はTN =43 Kより低温では、a軸が磁化容易軸の反強磁性となっていることを示唆してい る。なお、反強磁性の存在自体は、J. E. Greedanらによる比熱測定、中性子散乱実験から確 かめられている[35]。構造相転移温度付近に見られるヒステリシスの幅はおよそ10 Kであ る。T >Tc=123 Kにおける帯磁率の温度依存性において2つの解釈ができる。1つはキュ リー-ワイス則χ(T )=C/(T −θ)に従う振る舞いである。フィッティングから、キュリー定 数C = 1.46 Kcm3/V-mol、ワイス温度θ= −1.20×103 Kが得られており、これはGreedan らの研究結果[33]とほぼ同じである。キュリー定数C は、Vイオンのd電子がハイスピン 状態、つまり5個のうち4個がS =1(3d2)、残りの1つがS=3/2(3d3)をとるとしたときの 値C =1.175 Kcm3/V-molとほぼ一致する。もう1つはパウリ常磁性に従う振る舞いで、帯 磁率の大きさχ∼1×10−3cm3/V-molは、V2O3の金属相における帯磁率の大きさに匹敵す る[38]。V2O3において、パウリ常磁性は電子相関の効果の影響を受けている。BaV10O15の LDAバンド計算によるとχ∼1.3×10−4cm3/V-molであり、電子相関によって有効質量は8 倍大きくなっている[39, 40]。
一方、SrV10O15の電気抵抗は、図2.8示すように、温度を下げていくと増加し続けて、跳 びは見られない。図2.8には、各軸方向の電気抵抗を示す。これは、2次元のvariable range hoppingの温度依存性ρ(T )=ρ0exp[(E/kBT )]α,α∼1/3 [41]に従うと分かった。
0 100 200 300
10
−210
010
210
4SrV
10O
15ρ
aρ
bρ
cT (K)
ρ ( Ω c m ) BaV
10O
15( ρ
b)
T
c図2.8 SrV10O15の電気抵抗の温度依存性
SrV10O15 の帯磁率は、図2.7 に示すが、BaV10O15 と同様に、高温 (>150 K)では温度 依存性が小さいが、低温で値が大きくなる。150 K以上におけるキュリー-ワイスフィッ ティングからC =1.61 Kcm3/V-molが得られ、これはBaV10O15 の値と同等である。また、
θ=−1.70×103Kが得られ、BaV10O15における値より絶対値で1.5倍大きい。
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 12
2.4 放射光粉末 X 線回折実験
梶田らは放射光粉末X線回折実験を行い、その結果からRietveld解析を行って、最近接V イオンの結合長を見積もった[36]。構造相転移に伴い、Vイオンの結合のうち3つが大きく 縮み(3 %∼8 %)、他は縮みが小さいあるいは伸びることが分かった。図2.9に大きく縮小 するこれらの3つの結合を示す。3つの結合は三角形を形成しており、この結果より、構造 相転移によりVの三量体が形成されると考えられる。したがって次のようなt2g軌道が整列 するモデルが考えられる。三角形の各頂点に位置するV3+(3d2)イオンから、隣のV3+イオ ンに向かってt2g軌道(dxy、dyz、dzx)のうち2つが伸びている。このときVの結合長が縮ん でσ結合し、エネルギーの低い結合軌道とエネルギーの高い反結合軌道ができる。1つの結 合軌道には、三角形の1つの辺の両端に位置する、2つのV3+から2個の電子が入り、スピ ンシングレットを形成し、エネルギー的に安定する(図2.10)。なお、このようなt2g軌道の 整列がV三量体の起源になっていることは、共鳴X線散乱によって確かめられている[42]。 BaV10O15では、図2.9の矢印で示すようにVイオン5個のうち2個は三量体の形成に関与 していない。この三量体の形成に関与していないVイオンが磁気モーメントを持っていて、
TN=43 Kより低温で反強磁性的に整列すると考えられる。また、SrV10O15では、V三量体 の形成はないことが分かっている。
a b
c
図2.9 BaV10O15の構造相転移温度以下におけるV三量体の配置
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 13
yz
zx xy V
V V
O
O O
O
d
yzd
yz図2.10 Vイオンのt2g軌道の整列
2.5 光学反射率と光学伝導度
まず、BaV10O15の光学反射率と光学伝導度について述べる。BaV10O15の構造相転移によ る電子構造の変化を調べるために、梶田らは光学反射率スペクトル測定を行い、その結果を Kramers-Kronig変換して光学伝導度σ(ω)を得た[36]。反射率スペクトルを図2.11(a)Eka、 (b)E kb、(c)Ekcに示す。300 Kから温度を下げていくと、約1 eV以下の反射率が減少し、
構造相転移温度Tc =123 Kをまたいで約0.4 eV以下の反射率が不連続に減少していること がわかる。また、特にEka、Ekbでは約1.1 eV以上の高エネルギー側で、この振る舞いとは 逆に温度が下がると反射率はほぼ単調に増加していることがわかる。
これらの反射率スペクトルから得た光学伝導度σ(ω)を図2.11 (d)Eka、(e)Ekb、(f)Ekc に示す。各軸とも300 Kにおいて~ω=0 eVで有限の値を持ち、0.5 eV付近に幅広いピーク を持つ。温度を下げていくと、約0.7 eV以下の振動子強度が連続的にに減少していく。温度 がTc以下になると、スペクトルが高エネルギー側にシフトし、電子構造に約0.3 eVのgap が開く。このgapの開きは、2.4で述べたように、Vのt2g軌道が整列するためである。そし て、さらに温度を下げてTN以下になっても、σ(ω)はほどんど変化しない。
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 14
0 1 2 3
0 0.2 0.4 0.6 0.8
300 K 250 K 200 K 130 K
5 K 160 K
Reflectivity
110 K
h
−ω (eV) E || a BaV10O15 (a)
0 1 2 3
0 0.2 0.4 0.6 0.8
300 K 250 K 200 K 130 K
5 K 160 K
Reflectivity
110 K
h
−ω (eV) E || b BaV10O15 (b)
0 1 2 3
0 0.2 0.4 0.6 0.8
300 K 250 K 200 K
130 K 5 K
160 K
Reflectivity
110 K
h
−ω (eV) E || c BaV10O15 (c)
(d)
(e)
(f)
図2.11 (a)-(c)BaV10O15の光学反射率、(a)Eka、(b)Ekb、(c)Ekc、(d)-(f)BaV10O15の光学 伝導度、(d)Eka、(e)Ekb、(f)Ekc
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 15 この温度依存性を詳細に見るために、0.1 eV から 0.3 eV までの σ(ω) を積分して得
たspectral weightの温度依存性を図2.12 に示す。室温から温度を下げていくと、spectral
weightは徐々に減少していき、Tc で不連続な跳びが見られる。この結果は、Vのt2g軌道が
整列することによって、Tc でBaV10O15 のフェルミ準位付近にギャップが開くことを示唆 している。また、Tc よりも高温においてspectral weightが徐々に減少している。つまり0.5 eV以下のσ(ω)が抑制されているのは、局所的に軌道整列が形成されているためだと考えら れる。
図2.12 BaV10O15の0.1-0.3 eVのσa,σb,σcのspectral weightの温度依存性
次に、光学伝導度の異方性について見てみる。図2.13に(a)300 K、(b)5 Kにおけるa, b, c軸方向の光学伝導度スペクトルを示す。insetにはそれぞれの積分値を示す。高温相の300 Kでは0.5 eV以下においてσbが最もspectral weightが大きく、次にσcで、σaが最も小さ い。一方、低温相の5 Kでは0.5 eV以下においてσc が最もspectral weightが大きく、次に σbで、σaが最も小さい。温度によるこのσ(ω)の異方性の違いは、構造相転移が異方的な電 子構造を引き起こすことを示唆している。これは、V三量体は、bc面に平行に近い方向に形 成されることと関係している。
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 16
(a) (b)
図2.13 (a)300 K, (b)5 KにおけるBaV10O15のa, b, c軸偏光方向の光学伝導度スペクトル、
insetはσ(ω)の積分値を示す
次に、SrV10O15の光学伝導度スペクトルを図2.14 (a)Eka、(b)Ekb、(c)Ekcに示す[37]。 温度を下げていくと、どの偏光方向においても約0.5 eV以下のσ(ω)振動子強度が連続的に 減少していく。BaV10O15 では、図2.14(a)-(c)の破線で示してあるように、最低温において 電子構造に約0.3 eVのギャップが開くが、SrV10O15では、最低温においてもソフトにギャッ プが開く(ゼロに近い大きさのギャップが開く)だけである。
低エネルギー側のspecral weight の温度依存性を見るために、0.1-0.3 eVのσ(ω)の積分 値を温度の関数として図 2.14(d)-(f)に示す。一緒に、BaV10O15 のspecral weightも示す。
SrV10O15では、温度を下げていくとspecral weightは連続的に減少していく。この振る舞い は、Tc =123 Kで急激な変化が存在するBaV10O15とは大きく異なる。同じ図に、ギャップ の大きさとして、600∼200Ω−1cm−1付近のσ(ω)の外挿とx軸の交点をプロットしている。
BaV10O15では、Tc=123 Kでギャップの大きさが不連続に変わるが、SrV10O15では、その ような異常は観測されない。
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 17
図2.14 SrV10O15 の光学伝導度スペクトル、(a)E k a、(b)E k b、(c)E k c、それぞれの図 の破線は、BaV10O15の5 Kにおける光学伝導度スペクトルである、(d)-(f)SrV10O15(丸)と BaV10O15(四角)における0.1-0.3 eVのspecral weightの温度依存性(solid symbols)とギャッ プの大きさ(open symbols)、(d)Eka、(e)Ekb、(f)Ekc
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 18 図 2.15 に 、SrV10O15 と BaV10O15 の 同 じ 温 度 に お け る σb(ω) ス ペ ク ト ル を 示 す 。5
K(BaV10O15 の Tc より低温)では、SrV10O15 のスペクトルと比べて、BaV10O15 のスペ クトルは約0.3 eVだけシフトしている。これはTc=123 Kで電子構造にギャップが開くた めである。一方、300 Kでは、BaV10O15とSrV10O15のσbスペクトルはほぼ同じである。
BaV10O15のTc直上の140 Kでは、2つのスペクトルは異なり、SrV10O15のスペクトルには 約0.5 eV付近にピークがあるが、BaV10O15ではほとんど観測されない。
(a) (b) (c)
図2.15 SrV10O15とBaV10O15の光学伝導度の比較、(a)5 K、(b)140 K、(c)300 KでEkb
BaV10O15とSrV10O15 のσ(ω)スペクトルにおけるこの違いが、温度によってどのように 発達していくかを見るために、同じ偏光方向で同じ温度におけるBaV10O15とSrV10O15の σ(ω)スペクトルの差(∆σ(ω)=σBa(ω)−σSr(ω))を図2.16に示す。5 Kにおいて大きなへこ みが、EkaとEkbでは約0.4 eVに、Ekcでは約0.2 eVに観測された。これは、BaV10O15 において電子構造にギャップが開いたためである。また、このへこみは、全ての偏光方向に 対して、BaV10O15のTc =123 Kよりずっと高温から発達している。さらに、Tc より高温 のへこみのエネルギースケールは、Tcより低温と同等である。よってこの解析は、Tc より 高温のへこみは擬ギャップから生じているもので、この起源は Tcより低温におけるギャッ プの起源と似ていることを示している。つまり、Tcより高温でさえも、BaV10O15には軌道 整列の揺らぎが存在していて、これが状態密度に擬ギャップを作り出していると考えられ る[43, 44]。
最近のBaV10O15におけるNMR測定より、Tc=123 K<T <200 Kの温度領域において、
非等価なVサイトの数が高温相よりも多いことが示されている[45]。この結果は、Tc より 高温でさえも、V三量体が局所的に形成されていることを示唆している。σ(ω)スペクトル で観測された擬ギャップの形成は、このようなV三量体の局所的な形成に関係していると考 えられる。
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 19
図2.16 同じ温度におけるBaV10O15とSrV10O15の光学伝導度スペクトルの差、(a)E k a、 (b)Ekb、(c)Ekc、矢印は高温から低温へとTc=123 Kをまたぐ温度を示している
第2章 AV10O15(A=Ba, Sr)の物性 20 最後に、AV10O15(A=Ba, Sr)のσ(ω)スペクトルの全体的な特徴を述べる[37]。A =Ba
とSrにおいて全体的な特徴は似ているので、SrV10O15の300 Kと5 Kにおけるσ(ω)スペ クトルを図2.17に示す。同じ図に、スピネルMnV2O4のσ(ω)スペクトルを示す。MnV2O4 は、AV10O15と同様に、VO6八面体が互いに辺共有であるが、V3+(3d2)しかない。SrV10O15 のスペクトルにおいて、5 eV以下で3つのピーク(0.5, 2.5, 4.5 eV)が観測された。これらは 三角形で示している。一方、MnV2O4のスペクトルでは2つのピーク(2, 4 eV)しか存在し ない。MnV2O4に関しては、2つのピークは、V3+間のモットギャップ励起(2 eV)と、酸素 の2p軌道からVの3d軌道への電荷移動型励起(4 eV)によるものである[46, 47]。これらの 遷移は、MnV2O4 と同様にV3+イオンしか持たないぺロブスカイトRVO3 でも示されてい る[48]。これより、SrV10O15における2.5 eVと4.5 eVのピークは、同様にモットギャップ 励起と電荷移動型励起によるものだと考えられる。したがって、SrV10O15 における0.5 eV のピークはV2+(3d3)とV3+(3d2)間の励起によるものであり、in-gap stateとなる。BaV10O15 の場合、このV2+とV3+間の遷移は、軌道整列に関係した遷移となる。
図2.17 SrV10O15の光学伝導度スペクトル(300 Kが実線、5 Kが点線)とMnV2O4の光学伝 導度スペクトル
21
第 3 章
実験方法
3.1 試料作製
本研究で用いたBaV10O15, SrV10O15の単結晶試料は、本研究室の梶田氏、神崎氏、星野氏か ら提供していただいた。両単結晶試料はフローティング・ゾーン法により作製した [36, 37]。 まず、多結晶試料を固相反応法により作製した。BaV10O15多結晶試料は、BaCO3及びV2O3 粉末(高純度化学製)を、モル比が 1:5になるように秤量し、メノウ乳鉢で30 分程度混 合した。混合粉末を水圧プレス機を用いて棒状に成型し、Al2O3 ボートにのせて高温炉で Ar+H2(H2分圧7 % )中で焼結した。焼結は、1000◦Cまで2時間、1350◦Cまで3時間で 昇温し、1350◦Cで12時間保持した後、炉の熱慣性に任せて室温まで冷却した。またV2O3 は、真空デシケータ中であっても、長時間(1∼2か月)放置しておくと表面が黒色から青色 に変化していることがあり、酸化している可能性がある。そのため、V2O3を使用する際は、
毎回Al2O3ボートにV2O3を数gのせて、Ar+H2(H2分圧3 %)中で還元を行ったものを 使用した。炉の温度は920◦Cまで2時間で昇温し、920◦Cで30時間保持した後、炉の熱慣 性に任せて室温まで冷却した。SrV10O15 多結晶試料の作製では、Sr2V2O7を使用するため あらかじめ合成した。SrCO3及びV2O5粉末をモル比が2:1になるように秤量、混合し、ペ レット状に成型して空気中で焼結した。焼結は仮焼きと本焼きを行い、ともに850◦Cまで2 時間で昇温し、850◦Cで20時間保持した後、炉の熱慣性に任せて室温まで冷却した。仮焼 き後、ペレット中の均一性を高めるために再度粉砕、混合し、プレス形成して本焼きを行っ ている。作製したSr2V2O7とV2O3粉末を、モル比が1:9になるように秤量して混合し、棒 状に成型した。焼結方法はBaV10O15多結晶試料と同様である。
作製した5∼8 cmの棒状の多結晶試料を、フローティング・ゾーンにより単結晶へと成長 させた。結晶成長は、Ar+H2(H2 分圧 7 % )中、成長速度8 mm/h、シャフト回転速度9.8 rpmで行った。単結晶試料は、背面反射ラウエ法により軸方向を決定し、面を出した。単結 晶試料のへき開面の軸方向の決定も同様に行った。面の確認は、rigaku社製のX線回折装置
RINT-1100を用いて、単結晶X線回折実験で行った。
第3章 実験方法 22
3.2 測定面研磨
光学測定において、正確な反射率の測定を行うためには、表面からの乱反射を抑えなけれ ばならず、反射面をできるだけ平坦にする必要がある。そのために、測定面の研磨を行った。
研磨方法は、まず紙やすりで測定面を磨く。次に、硬質ガラス盤上で3000番のアルミナ 粉末とエタノールを混合した液を研磨剤として30分程度研磨する。研磨面がきらっと黒光 りする程度に研磨できたら、3000番での研磨は完了である。次に、さらに細かい6000番の アルミナ粉末を用いて、3000番のときと同様に、エタノールを混合して研磨する。これは3 時間程度行い、試料に蛍光灯の光を反射させたときに天井の模様がはっきりと見えるくらい になるまで行った。
研磨を行うと試料表面にストレスがかかるが、測定では試料表面にストレスがかかってい ないことが望ましい。そこでアニールによりストレスを取り除く方法が考えられる。しか し、アニールをすると酸化して反射スペクトル、ラマン散乱スペクトルが変化してしまうこ とが梶田、神崎らによって報告されている[36, 49]。したがって本研究では、研磨した未ア ニールの試料を用いた。
3.3 ポンププローブ分光測定
光誘起相転移のような高速で起こる現象のダイナミクスを高い時間分解能で観測する方法 にポンププローブ分光測定法というものがある。これは時間変化していく現象を連続ストロ ボ写真で撮影していくイメージの測定法である。
この測定には「ポンプ光」と「プローブ光」という2種類のパルス光を用いる。まずポン プ光を試料に照射して光励起する。ここに、ポンプ光に対して遅延時間tdをつけたプローブ 光を試料に照射し、試料から反射あるいは透過してきたプローブ光を検出してその変化量を 測定すると、プローブ光が試料に照射された時点での試料の励起状態の様子が観測できる。
そして遅延時間を変化させることで、励起状態の時間変化を観測できる。
本研究室では、フェムト秒レーザーを初めて導入したため、東京工業大学の腰原・沖本研 究室に見学をさせていただき、測定系の概略を教えていただき、これを基に測定系の立ち上 げを行った。以下で、本研究で行ったフェムト秒反射型ポンププローブ分光測定で用いた光 源及び測定システムについて説明する。
3.3.1
光源
本研究では、Ti:sapphire再生増幅器(Quantronix社製Integra-C2.0F)を光源として用いた。
Integraシステムの概略図を図3.1に示す。
種光として用いるフェムト秒パルス光源は自己モード同期の Er ドープ Fiber oscilla- tor(Quantronix Q-Light)である。このフェムト秒パルス光源の出力は10 mW、繰り返し周波
第3章 実験方法 23
Seed Mode locked Er-doped fiber oscillator
(Quantronix Q-Light) 790 nm
40 MHz 10 mW
< 100 fs
Strecher Compressor
Regenerative and Multipass amplifier system
Nd:YLF laser
(Quantronix Darwin-527-30-M) 527 nm
1 kHz 20 W
795 nm 1 kHz 2 W 130 fs 100 ps
図3.1 フェムト秒レーザーシステムの概略図
数は40 MHz、パルス幅は約100 fsである。Fiber oscillatorから出力されたパルス光は、エネ ルギーが数nJ/pulseと小さいので再生増幅器と多重パス増幅器を用いて増幅される。このパ ルスは後段の光学系の損傷を防ぐため、まず回折格子を組み合わせたStretcherによって群速 度分散を与えられて、パルス幅を100 psec程度に延伸される。伸ばされたパルスは再生増幅 器及び多重パス増幅器に入り、高エネルギーパルスに増幅される。増幅器ではゲイン媒質と してチタンサファイアが用いられており、その励起光源としてパルス幅150 nsecのNd:YLF レーザー(527 nm,20 mJ/pulse,繰り返し周波数1 kHz:Quantronix Darwin-527-30-M)が 用いられている。また、再生増幅器内の共振器へのパルスの出し入れは偏光子とポッケルス セルの組み合わせによってタイミングを制御している。増幅されたパルスはStretcherと逆 の速度分散を与えるCompressorによって元のパルス幅に圧縮された後、外部に出力される。
システムとして得られる最終的な出力は約2 Wで、繰り返し周波数は1 kHz、パルス幅は約 130 fsである。
上記のフェムト秒パルスレーザーシステムでは、得られるレーザー光の波長は795 nmで ある。本研究では、実験条件に応じてプローブ光として用いる光を自己位相変調(self-phase
modulation)という効果を用いて、白色光に変換した。変換により得られた白色光の波長領
域は約390 nm∼1380 nmである。
自己位相変調について簡単に述べる[50]。高い尖頭強度を持つ超短パルス光が光学媒質中 を通過すると、媒質の屈折率は光強度の関数となり、媒質の屈折率は変化する。これは3次 の非線形光学効果の一つで、光Kerr効果(非線形屈折率効果)と呼ばれる。一般の透明媒質 では、光強度が強くなると屈折率も大きくなる。光の位相速度は屈折率の関数であるので、
光強度の強い部分では伝播する光そのものの位相速度が遅れる。フェムト秒レーザーのよう に時間方向に強い光強度の変化がある場合、位相速度はパルスのピーク付近で遅れる。した がってパルスの立ち上がり部分の波長は長くなり、後半の波長は短くなる。この結果、レー ザーの基本波長を中心とした連続スペクトルパルス光が得られる。この様子を図3.2に示す。
第3章 実験方法 24
図3.2 自己位相変調
自己位相変調は媒質の屈折率変化が急激に起こるほど顕著になるため、短パルスを用いる ほど効率よく引き起こすことができる。しかも本質的にパルス幅を広げる過程ではないた め、この白色光をプローブ光として用いたフェムト秒時間分解分光の時間分解能の劣化が起 こらない。
本研究では、循環させた水にレーザー光を集光して波長変換を行った[51–53]。水は光路
長20 mm、材質は石英のフローセル(ジーエルサイエンス社製)に入れている。そこに強度が
約0.12 mJのレーザー光を f =35 mmのレンズで集光して白色光を発生させた。セルの表面
と裏面への損傷が起こらないように、セルへの集光位置は注意して調整する必要がある。フ ローセルの水を循環させなかった場合、光を集光した場所で水が沸騰し、泡が出てきて、泡 の部分にレーザー光が当たると白色光に変換されず、白色光が出たり出なかったりと、安定 した白色光が得られないという問題があった。そこで、水を循環させて熱が逃げやすいよう にし、さらに水を氷で冷却して、水の温度が上昇することを防ぐという工夫をした。フロー セルに関しては、最初、光路長10 mmのものを使用していたが、セルの表面と裏面が集光位 置の近くであるため焦げてしまい、焦げて損傷した部分にレーザー光あるいは変換後の白色 光が当たると散乱されてしまい、安定した白色光が得られないという問題があった。そこで セルを光路長の長いものにして、セルの表面と裏面に当たる光のスポットを大きくすること で、焦げることによる損傷を防いだ。また、セルを自動ステージを用いて動かすことで、熱 が一か所に集まらないようにと試みたが、セルの移動により白色光が不安定になるので、こ れは採用しなかった。また、サファイア板に集光することで白色光へ変換する方法も試みた
が[54–56]、水に集光した方が安定した白色光を得られた。
第3章 実験方法 25
3.3.2
測定系
本研究で行った反射型フェムト秒ポンププローブ分光測定システムについて説明する。図 3.3に反射型ポンププローブ分光測定法の概略図を示す。Ti:sapphire再生増幅器(Integra)か らの出力パルス光(795 nm)を2つに分けて、一方をポンプ光、もう一方をプローブ光とし て用いた。プローブ光は実験条件に応じて、自己位相変調により波長変換した光を用いてい る。最初にポンプ光パルスを試料に照射し、その後、ポンプ光パルスと遅延時間tdだけつ けたプローブ光パルスを試料に照射して、反射したプローブ光パルスを検出してその変化量
∆Rを測定する。遅延時間td は、ポンプ光の光路長を並進ステージを用いて制御することに よって変化させた。また、本システムの時間分解能は約250 fsである。
Variable optical delay
detector
sample
t
d795 nm
130 fs
図3.3 反射型ポンププローブ分光測定システムの概略図
図3.4に本研究で用いたポンププローブ分光測定の測定系を示す。ポンプ光は795 nm、プ ローブ光は795 nmあるいは波長変換した390 nm∼1380 nmである。プローブ光の光路は、
光路切り替えミラーを用いて波長変換する場合としない場合で切り替えている。波長変換し た場合は、795 nmの基本波をカットするために、適切なフィルター(赤外透過フィルター、
バンドパスフィルター)を用いている。プローブ光は、それ自身によって試料を励起する効 果が無視できる程度に、反射型NDフィルターで十分に強度を弱めている。その後、レンズ
(f =150 mm)で試料表面に集光する。試料からの反射光はレンズで再び集光され、分光器
を用いて波長を選択して検出している。検出器は SiフォトダイオードあるいはGeフォト ダイオードを使用している。検出波長によって、分光器の素子と検出器は表3.1のような組 み合わせで測定を行った。また、測定方法は2種類あり、プローブ光波長を固定し、並進ス
第3章 実験方法 26
表3.1 光学素子の組み合わせ
波長領域(nm) 回折格子 色フィルター 検出器
390∼680 1200本/mm, 500 nm中心 L-37 Siフォトダイオード
680∼800 1200本/mm, 500 nm中心 R-64 Siフォトダイオード
800∼1240 600本/mm, 1000 nm中心 R-64 Geフォトダイオード
1240∼1380 600本/mm, 1000 nm中心 S-1.1 Geフォトダイオード
テージを制御して遅延時間を変化させることで、反射率の時間変化を測定する方法と、並進 ステージをある地点で止めて遅延時間を固定し、プローブ光のスペクトルを測定する方法が ある。
ポンプ光は、光学チョッパーを通過し、反射型可変式NDフィルターで強度を調節した後、
レンズ(f =150 mm)で試料に集光される。ポンプ光の試料表面のスポット径(∼2 mm)は、
プローブ光(∼1 mm)に比べて十分大きいように、レンズの位置で調整している。また、ポ ンプ光をBBO結晶に集光して、SHG(第二高調波発生)を用いて、2倍波である3.1 eV(398 nm)の光に変換できるようにしている。
Ti:sapphire再生増幅器からの出力光は垂直偏光であるが、λ/2波長板を用いてポンプ光の
偏光方向を実験条件によって変化させた。プローブ光の偏光方向は検出器前に置いた偏光子 で選んでいる。特にプローブ光を795 nmのまま用いる場合は、偏光方向をポンプ光と直交 させ、検出器前に偏光子を用いることでポンプ光の散乱光を除去した。
また、試料はコンダクションタイプの液体ヘリウムクライオスタット(Oxford 社製 MicrostatHe)で冷却し、10 Kまで測定できる。
なお、この光学系では、レンズは石英ガラス、ミラーは反射による光の減衰を極力低減す るためにAgミラーを用いた。また、プローブ光の光学系において白色光変換後の集光には 放物面鏡を使用している。これは屈折率分散によるレンズの色収差を解消するためである。
近赤外光領域のポンプ光及びプローブ光は肉眼では見えないため、IR感知カードを用いて測 定系の調整を行った。
3.3.3
データ取得法
検出される試料からの反射率Ri の時系列変化の模式図を図3.5 に示す。ポンプ光はレー ザーパルスと同期を取ったチョッパーによって半分に間引かれて試料に照射されるので、反 射光は図のようにR,R+ ∆R,R,R+ ∆R· · · の繰り返しで得られる。
図3.6に、この測定における信号処理システムの概略を示す。この反射光の検出器からの パルス信号を2つに分けてそれぞれ別のロックインアンプに入力する。一方のロックインア ンプではレーザーパルスと同期した1 kHzの信号を検出し、Rの強度を取得する。もう一方 ではチョッパーと同期した500 Hzの信号を検出し、1 kHzの信号との差分∆Rを取得する。
第3章 実験方法 27
Regenerative amplified Ti:sapphire laser
795 nm, 130 fs, 1 kHz, 2.0 mJ variable ND filter
polarizer
BS
Ag mirror Optical Pump
chopper Probe
trigger
variable ND filter
variable optical
delay lense
lense cycling water
in flow cell parabolic mirror
variable ND filter narrowband filter, IR Transmitting filter
sample conduction-type
He cryostat
lense
monochromater polarizer
Si photodiode or Ge photodiode optical path switching mirror
Pre Amplifier
Lock-in Amplifier
Signal
PC GPIB
control
reference signal
図3.4 反射型ポンププローブ分光測定の測定系
第3章 実験方法 28 この操作により、時間的に近いパルスの差分∆R=|Ri+1−Ri|を取得でき、レーザーパルス光
の強度の揺らぎに起因するノイズを減らすことができる。
そしてこれら2つの信号をGPIBを通じてパソコンに取り込み、自動ステージと連動した パソコン上のプログラムによって反射光信号Rで規格化した反射率変化の時間発展∆R(t)/R を計算して記録する。
図3.5 反射率の時系列変化
図3.6 ポンププローブ分光測定システムにおける信号処理
第3章 実験方法 29
3.4 光学反射率測定
光学反射率は、波長領域1550 nm∼17710 nm(0.07∼0.8 eV)はFTIR分光光度計で、250 nm∼1800 nm(0.7∼5 eV)は回折格子を用いた分光器で測定を行った。図3.7にFTIR分光 光度計を用いた測定系の概略図を示す。この領域の光はIR感知カードによる追跡が困難で あるため、ガイド光を光源からの光の光路に一致させて、光学系の調整を行った。光源はグ ローバーランプで、検出器は液体窒素冷却のMCTディテクターを用いている。試料はHe ガスフロー式クライオスタットで冷却しており、300 K - 5 Kの温度領域で測定できる。
polarizer
green laser (guide light)
plane mirror Michelson
interferometer parabolic
mirror Globar
lamp
iris
concave mirror sample
He-gas-flow cryostat liquid-N2-cooled
MCT detector
図3.7 FTIR分光光度計を用いた光学反射率測定系
図3.8に、回折格子を用いた測定系の概略図を示す。ランプ光源から得られる白色光を色 フィルターと回折格子を用いて分光し、光学チョッパーを通した後に試料に照射した。試料 からの反射光を、測定波長領域に応じてGeあるいはSiフォトダイオードに集光した。フォ トダイオードからの信号は、ロックインアンプを用い、光学チョッパーと同期した成分を検 出している。測定波長領域に対する光源、色フィルター、回折格子、フォトダイオードの組 み合わせを表3.2に示す。試料はHeガスフロー式クライオスタットで冷却しており、300 K
- 5 Kの温度領域で測定できる。
反射率は Kramers-Kronig変換することで光学伝導度に変換している。この変換のため、
低エネルギー側(0∼0.7 eV)と高エネルギー側(5∼20 eV)は、反射率を適宜外挿している。
さらに高エネルギー側は反射率がω−4の依存性を持つと仮定した。
第3章 実験方法 30
表3.2 光学反射率測定における光学素子の組み合わせ
波長領域(nm) 光源 回折格子 色フィルター 検出器 250∼390 キセノンランプ 1200本/mm, 200 nm中心 U-330 Siフォトダイオード 390∼500 キセノンランプ 1200本/mm, 200 nm中心 L-37 Siフォトダイオード 390∼680 ハロゲンランプ 1200本/mm, 500 nm中心 L-37 Siフォトダイオード 680∼900 ハロゲンランプ 1200本/mm, 500 nm中心 R-64 Siフォトダイオード 800∼1200 ハロゲンランプ 600本/mm, 1000 nm中心 R-64 Geフォトダイオード 1200∼1800 ハロゲンランプ 600本/mm, 1000 nm中心 S-1.1 Geフォトダイオード
light source concave mirror
( f= 200)
color filter
monochro- mator
chopper
concave mirror ( f= 400)
plane mirror
iris concave mirror ( f= 125)
concave mirror ( f= 200) sample
He-gas-flow cryostat parabolic mirror iris
detector
図3.8 回折格子を用いた光学反射率測定系