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『障屏画と狩野派〈辻惟雄集 第3巻〉』

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Academic year: 2021

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(1)

v     

 

第一章

 

大和絵屛風の展開

   

1

第二章

 

室町障屛画研究史

 ――  

回顧と現在

   

31

第三章

 

桃山障屛画

   

57

第四章

 

南禅寺本坊大方丈障壁画の様式および筆者について

   

91

第五章

  ︽聚楽第図屛風︾

について

   

143

第六章

 

狩野派の誕生と興隆

 ――  

正信・元信・永徳

   

165

第七章

 

狩野永徳

︽松に叭叭鳥

柳に白鷺図屛風︾

   

195

第八章

 

伝狩野永徳

︽四季山水図屛風︾

   

211

第九章

 

長谷川等伯

︽松林図屛風︾

   

217

第十章

 

長谷川等伯

︽老松・猿猴捉月図襖︾

︵金地院︶

   

223

第十一章

 

狩野探幽筆鳥類写生帖模本

︵大英博物館蔵︶

について

   

229

 

      

239

挿図一覧

(2)

第一章

 

(3)

︵初出︶

﹁大和絵屛風の展開﹂

︵﹃

国華創刊百年記念

(4)

3 第 1 章 大和絵屛風の展開

はじめに

  ――   屛風絵と障屛画 ﹁屛 風 は 風 を へ だ つ る 也﹂  ――  こ れ は 江 戸 時 代 の 文 献 ︵﹃夏 山 雑 談﹄ ︶ に あ る 言 葉 だ が、そ の と お り、 ﹁屛 風﹂と は 元 来﹁風 を ふ さ ぐ﹂と い う 意 味 で あ り、そ の た め の 日 常 の 用 具 ︵調 度︶ を さしている。それは、実際には、風ふさぎのほか、建物の間仕切りや目隠しなど、さまざま な用途を合わせ持つ生活の必需品であった。そしてその多面的な機能のなかに、屛風に描か れ た 絵 や 模 様 に よ っ て 生 活 空 間 を 飾 る ︵荘 厳・装 飾︶ と い う こ と も 含 ま れ る。こ れ に よ っ て、 実用の具である屛風が美術と密接なつながりを持つに至るのである。 ところで、屛風とよく似た役割と機能をもつ調度として、襖 ︵襖障子︶ や衝立 ︵衝立障子︶ があ る。このうち衝立は屛風と同じく中国から来たが、一方、木の枠に紙や布を張り、それを左 右に引いて開け閉めする襖は、中国ではあまり例を見ず、おそらくは柱構造の日本家屋に合 わせて屛風から転化したものと思わ れる。この、姉妹のような関係にある襖と屛風は、日本 の 家屋の調度のなかでとりわけ重用され、寝殿造から書院造へという住宅建築の発達に合わ せ て そ の 形 式 を 発 展 さ せ て い っ た。同 時 に そ れ ら ︵障 しょ 屛 うへ 具 いぐ ︶ に 描 か れ る 絵 画 ︵障 屛 画︶ も ま た、 互いに密接な関係を保ちながら、日本絵画史のなかでの重要で特徴的な分野を形作っていっ た。それは、中国の屛風絵や衝立絵が、唐代をピークとして、以後は次第に職人の仕事に委 ねられるようになり、それに合わせて質的に低下していったようなのと対照的である。 このような日本の障屛画の歴史を調べる場合、障害になるのは、古代・中世の遺品が極め て少ないという点である。障屛具は、消耗品であり、使い古されれば廃棄され、絵もそれと

(5)

4 運命をともにする。建物自体の焼失、解体もこれに加わる。折り畳んでしまっておくことの できる屛風は、襖絵にくらべて、保存にはやや有利である。 ようやく室町時代になると、障屛画の遺品が、あるまとまりをもってわれわれの眼前にあ らわれるようになる。ただし従来は漢画系障屛画の占める割合がほとんどで、大和絵系はご く わ ず か し か 知 ら れ な か っ た。そ れ が 第 二 次 大 戦 後、新 た な 大 和 絵 障 屛 画 ︵ほ と ん ど が 屛 風︶ の遺品がつぎつぎと世に出、戦前からのものを加えてその数は四〇点を越す勢いである。そ れらによって、室町時代後半期の大和絵障屛画のイメージがかなり鮮明なものとなり、その 予 想 外 の 質 の 高 さ、表 現 の 豊 か さ が あ ら た め て 注 目 さ れ る に い た っ た。今 回 の 展 示 ︵﹁国 華 創 刊 百 年 記 念 室 町 時 代 の 屛 風 絵 展﹂東 京 国 立 博 物 館、平 成 元 年︶ の 大 き な 意 味 は、そ う し た 室 町 大 和 絵屛風の全貌をはじめて世に示すことにある。 以下の私の解説は、大和絵屛風に焦点を あて、それの十六世紀にいたるまでの展開を、襖 絵 の動向とにらみあわせながらたどってゆきたい。

 

平安時代の屛風絵

日 本 に 伝 わ る 屛 風 絵 で、最 古 の も の は、正 倉 院 伝 来 の 有 名 な︽鳥 毛 立 女 図 屛 風︾ ︵挿 図 1︶ ある。そこにみられる豊麗な美人の顔立ち、流暢な衣文線は、八世紀、唐代の絵画技術の水 準を示すものだが、周知のように、その衣裳や樹木に鳥の羽毛が貼られていたということは、 唐代において、絵画と工芸とが、装飾という共通の目的のためにあえて区分されなかったと

(6)

5 第 1 章 大和絵屛風の展開 いう事実を示唆していて興味深い。この性格は、のちの大和絵に根強く伝えられてゆくので ある。 九世紀末の遣唐使廃止以後、大陸との正式な国交の途絶により、いわゆる王朝の国風文化 が形成されてゆくなかで、大和絵が誕生したことは知られるとおりである。大和絵という呼 称は、それまで唐絵画の画題の模倣に終始していた障屛画のなかで、身近な日本の自然や風 俗 に 取 材 し て 描 く 新 し い 傾 向 が あ ら わ れ、そ の よ う な 絵 を 従 来 の 絵 ︵唐 から 絵 え ︶ と 区 別 す る た め に 生まれたものであった。すなわち当初は障屛画に限って用いられる言葉であったわけである。 だがそうした日本的題材への指向は次第に世俗画の主流となり、画風もそれに適したものへ と 改 め ら れ て ゆ く。そ れ に 合 わ せ て 大 和 絵 は、画 題 を 意 味 す る 言 葉 か ら 画 風 ︵様 式︶ を 意 味 す る言葉へと転化していった。 平安の当時、貴族たちの間では、祝宴 の場を飾る屛風に和歌をよせる風習があ り、そ の 折 々 の 歌 ︵屛 風 歌︶ が 数 多 く 記 録 されていて、そこから四季絵、月 つき 次 なみ 絵 え 、 名所絵とよばれる題材の屛風が盛んに描 かれたことが知られる。景物画という名 で総称されるこれらの題材は、季節感に 富んだ日本の自然景と、それに合わせて 営まれる人間の生活の諸相とを、文学的 挿図 1   ︽鳥毛立女図屛風︾   奈良・正倉院

(7)

6 情感をこめて描き出すものであった。その画風の実際は、遺品が少ないのでよくわ からないが、平安時代の屛風の唯一の遺作である東寺本 ︽山 せん 水 ずい 屛風︾ や、平安より少 し 時 代 が 下 っ て 十 三 世 紀 初 め の も の と さ れ る 神 護 寺 本︽山 水 屛 風︾ 、あ る い は︽源 氏 物語絵巻︾ の画中に描かれた屛風などによってわずかにうかがい知ることができる。 なだらかな丘陵と平地、水辺のつらなる景色を、俯瞰の視点からパノラマ風にとら え、建物、人物をあちこちに点在させたものである。緑青や群青で装われた山並み や丘は中国の青 せいり 緑 ょく 山 さん 水 すい の手法に由来するものである。後のものにくらべ、さほど装 飾 的 に は 見 え な い が、十 二 世 紀 の 文 献 に 見 え る 泥 でい 絵 え 、淡 たん 絵 え ︵淡 は タ ム = 濃 む に 通 じ る︶ の手法による屛風は、金銀泥 でい を用いたもっと装飾性の強いものであったろう。徽宗 皇 帝 の コ レ ク シ ョ ン に 入 っ て い た︿倭 やま 絵 とえ 屛 風﹀ は、 ﹁設 色 甚 だ 重 く、金 きん 碧 ぺき を 多 用 す﹂ と﹃宣 せん 和 な 画 が 譜 ふ ﹄に記録されているので、おそらくこの類であったかもしれない。遺 品のないことが、それ以上の推測をさまたげるが、近世障屛画に開花した濃 だみ 絵 え の祖 型は、あるいはこのあたりに求められよう。

 

鎌倉・南北朝時代の大和絵屛風

障 屛 画 の 遺 品 は、十 三、 四 世 紀 に お い て も 依 然 少 な く、も と 壁 貼 付 絵 で あ っ た 法 隆寺の ︽蓮池図︾ ︵現在二曲屛風一双︶ 、もと衝立障子絵であった北野天満宮の ︽舞楽図︾ 、 ︽高野山水屛風︾ ︵一二八〇年代︶ ︵挿図 2︶、︽山水屛風︾ ︵金剛峯寺本 ︹挿図 3︺、醍醐寺本 ︹挿 挿図 2   ︽高野山水屛風︾   京都国立博物館

(8)

7 挿図 3   ︽山水屛風︾   和歌山・金剛峯寺 挿図 4   ︽山水屛風︾   京都・醍醐寺  

(9)

8 図 4︺、五 島 美 術 館 本︶ 、︽地 獄 極 楽 図 屛 風︾ ︵十 三 世 紀 後 半・金 戒 光 明 寺︶ 、︽文 王 呂 尚・商 山 四 皓 図︾ ︵も と 襖 障 子 絵・十 四 世 紀 後 半︶ な ど が 知 ら れ る に 過 ぎ ず、題 材、手 法 と も や や 特 殊 な も の と いえる。それに対し絵巻の画中に描かれた障屛画には、かなり豊富な種類が見当たり、それ らは当時の障屛画の全般をうかがう手だてとなる。そこから知られる新しい動向として、ま ず あ げ ら れ る の は、中 国 か ら も た ら さ れ た 新 し い 唐 絵 ︵漢 画︶ の 手 法、と く に 水 墨 の 手 法 に よ る障屛画がさかんに描かれるようになったという点である。だがこのことは、大和絵が障屛 画の主座を漢画に譲り渡したことを意味しない。大和絵屛風には、ハレの場の飾りとしての 機能がますます期待されていたようである。この時期の大和絵障屛画、とくに後半の南北朝 時代のそれは、つぎの時代における新しい表現のための準備期、変化の過渡期であったとい えるだろう。屛風の地が絹から装飾により適 した紙へと移ったのもこの南北朝時代であった と みられる。 画中画に見るこの時期の大和絵障屛画の特徴は、まず、海景 ︵浪、岩、洲浜など︶ を描くもの が目立つということだろう。海景図は、唐の李昭道によって創始されたと﹃歴代名画記﹄に あり、平安時代の大和絵もすでに名所絵の画題としてとりあげていたが、中世の大和絵にこ れが好んで描かれたことは、海岸の風光美を誇る日本の景物画の題材として当然のなりゆき であり、それが後に出る室町時代の ︽浜松図屛風︾ に発展していったのである。 次に目立つのは、平安大和絵以来の好みの画題である四季の草花にまじって、花木、花鳥 が新しい画題として登場していることだろう。平安時代にはあまり描かれなかった花木、花 鳥が流行した背景には、宋元花鳥画が輸入され珍重されたという事情がある。江南の職業画 挿図 5   ︽親鸞上人伝絵︾   千葉・照願寺

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9 第 1 章 大和絵屛風の展開 家が描く彩色の ︽蓮池水禽図︾ はいちはやく絵仏師によって学ばれ、前記の法隆寺の ︽蓮池図︾ のように、中国画と見まがうような精巧なものが描かれた。それが僧院の襖絵の画題として もとりあげられた例を、千葉・照願寺の ︽親鸞上人伝絵︾ ︵一三四四︶ ︵挿図 5︶の画中画からうか がい知ることができる。遺品の欠如は残念だが、宮廷や寺社の絵所を拠点とする大和絵師た ちは、宋元花鳥画に刺激されて、新しい画題・手法をさまざまに試みていたと思われる。

 

縁とりの変遷と一双形式

この時期における屛風絵の形式の変化についてもここでふれておかねばならない。まず、 縁 へり とりの変遷である。屛風の縁は、元来、先出の ︽鳥毛立女図屛風︾ がそうであったように、 一 扇 せん ︵屛 風 を 構 成 す る 一 枚 一 枚 の パ ネ ル を 扇 と い う︶ ご と に 軟 ぜ 錦 きん を つ け ら れ て い て、そ の 形 式 は、 十三世紀前半まで変わらなかった。それが、十三世紀中頃に二扇単位にまとめられるように な っ た こ と が︽ 当 麻 寺 縁 起 絵 巻︾ ︵光 明 寺︶ 画 中 画 な ど か ら わ か る。先 出 の︽高 野 山 水 屛 風︾ の 縁 はその貴重な実例である。さらに十四世紀前半になると、現在の屛風にみられるような、縁 を全体の上下左右の縁にだけ施すという形式が一般的となる。 このような縁とりの変化が、日本で自発的に起こったのか、それとも中国での屛風絵の形 式の変化に合わせたものか、については検討の余地があろう。例えば明代前半ころの作とみ ら れ る 伝 周 文 矩 の︽合 楽 図︾ ︵シ カ ゴ 美 術 館︶ ︵挿 図 6︶ み る と、主 人 公 ︵韓 熙 載︶ の 後 ろ に 廻 ら さ れた長い大きな屛風は、明らかにこの全図縁とりの形式になっている。しかもその画面は、 挿図 6   伝周文矩 ︽合楽図︾   シカゴ美術館

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10 真ん中の大木の幹から枝が左右に張り出すという、ちょうど桃山時代の花木図と同じ構 図をした着色画であるところが興味深い。それはともかく、この全図縁とり方式により、 屛風の画面を使って連続した大きな構図を組み立てることが可能になった。 縁 と り の 新 形 式 に 合 わ せ て、六 曲 ︵六 枚 折︶ 一 双 と い う 屛 風 の 基 本 形 式 が 定 ま っ た の も こ の 時 期 ︵十 四 世 紀︶ で あ る。屛 風 は 奈 良 時 代 の こ ろ か ら、六 扇 つ な ぎ を 基 本 的 な 単 位 と し て、そ れ を 一 畳 と 呼 ん で い た。こ の 一 畳 ︵帖︶ の 単 位 が 長 ら く 続 い て い た の を、ペ ア を 単位と見なすように改めたのである。もっともこの場合にも、 ㈠ 正倉院の屛風に﹁一具両畳十二扇﹂と数えられるものがあった ︵﹃献物帳﹄ ︶ 。 ㈡ 永 祚 元 年 ︵九 八 九︶ 、日 本 僧 奝 ちょ 然 うねん が 宋 皇 帝 に 献 納 し た︿倭 絵 屛 風﹀ が﹃宋 史﹄に﹁一 双﹂と記されている。 ㈢ ﹃宇津保物語﹄に﹁屛風一双﹂ 、﹃住吉物語﹄に﹁びょうぶ一よろい﹂とある。 ㈣ 先述の泥絵屛風には、 二帖が対になっていたと思われるものがある 。 といった前提がすでにあり、それが規格化されたのが南北朝のころというほうが正確だ ろう。そしてこの一双形式の固定が、両隻通して横に拡がる統一的構図の発展を可能に したのである。 ちなみに、文献から知られる平安時代からこのころにかけての屛風の寸法は、高さ三 尺、四尺、四尺五寸、五尺、六尺と用途に応じてさまざまで、まれに七尺、八尺もあっ た よ う で あ る。な お 六 枚 折 屛 風 の ほ か 四 枚 折 屛 風 も 平 安 時 代 か ら あ っ た こ と が、 ﹃明 月 記﹄の記事などからうかがえる。 挿図 7   伝周文 ︽四季山水図屛風︾   東京国立      博物館

参照

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