道徳頽廃の原因を追求して之が伝統を古典に探る
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(2) . 第6 巻 第2 号. 北海 道学 芸 大 学 紀 要 (第一部). 昭和30年1月. 特別寄稿. 道徳額廃の原因を追求 して之が伝統を 古 典 に 探 る 学. 長. 田. 所. 哲. 目 第 ー 章 第 二 章 第 三 章 第 四 章 第 五 章 第 六 章 第 七 章. 第 九 章. 太. 郎. 次. わが民族道徳性に現代思潮は高く 涙打つ 無純論の影響は無宗教の民族に及 ぶ 唯物賓存主義と無料論者人格の影 響 現代の道徳を頼癌に導いた要因 わが園現代道徳の重囲性と混観 ^口問題と進化論がわが民族道徳 を歪めた 科学主義と生命主義が宗教を疎外 した. 第 八 章. (其の-). 科挙とマルキシズムが却って宗教 を求める レキシズム精紳の宗教に通ずる マ′. もの 第 十 章 所謂無宗教の民族から宗教 所謂 的民族 へ 第十-章 家庭道徳から職業道徳へ 第十二章 ブルジョアジイとプロレタリアの 倫理 第十三章 西洋古典からス ピノザとライ プニ ッツに道徳性を探る 第十四章 老、 荘、 旬、 韓非、 孔孟の思想に 道徳性を探る 第十五章 輝の思想に道徳性を探る 第十六章 万葉集、 源氏、 平家物語、 茶道に 道徳性を探る 第十七章 和歌に見る道徳 性の謎霧. 第ー章 わが民族道徳性に現代思潮は高く 濃打つ 現代人の倫理が世界の何処に ′おいても困難な状態に置かれ、 特に敗戦した我民族の道徳性が大き く動揺していることは何人も認む る所であろう。 大海の波浪は風雨暗曇によって毎日のように変動 をつづけている。 大浪小波に調和があって、 恰かも平和の象徴であるかの如き春の海にも 一朝 、 、 嵐が来るや、 漣の美しい調和がやぶれ、 波浪が荒れまくることになるのである。 波浪は海の呼吸で ありわれわれの生活の消長にも似ている。 わが民族の肉体的な戦争は敗戦を以て十年前に終りを告 げたが、 現今依然として精神的な戦いの場にあるとも云いえよう。 武器を用意しての平和は真の意図が何処にあるのかわからない。 全くもって不安が多い。 マス・ コミュニケーションの暴力、 小数の権力者による多数の人の幸福の犠牲がありゞ 集団的利益主義も はびこっている。 専門政治家の不誠実と徹底的な責任回避の世の指導者達と口に正義と公正を唱え ながら抑圧を蔭に蔵した欺1 踊民主々義や、 自由主義が横行する。 全くいたるところにみちみちた矛 盾性に遭遇するのである。 人間の高貴であるべき魂すら金銭のため、 安い価格でうりわたした民衆 は、 街頭に闘争を繰返している。 そして大衆勢力の中にのみ一身の安全を托することができると考 える。 人々を憎んで憎み尽した上でなくては愛されぬと考える。 暴圧や粛清 リンチの後ならでは自 由は得 られぬと考える。 こんな人々が多くなるのだ。 た とえば野獣狩にその日その日をすごしてい る人々の肉体への強い関心は、 やがて肉体主義となり ひた すら性欲第一主義へ突進 する そして 、 。 人間は唯現実の流れに身をまかせて居れ ばよいと云う彼のデカタニ ズムに陥ってゆくことになるの であろう。 死線すれすれの窮乏生活を味つたからこう なってきたと考え 旅の恥はかき 捨て式の利 、 己義主を民主主義とまちがえてしまう。 現今こんな自己喪失者としての人間が多いのは悲しむべ ・き -1-.
(3) . 田. 所 哲. 太. 郎. 事だ。 0 )の言葉をかりれば 『人間は霊魂と肉体の統合としての精神であるのに精神と訣別 キルケ ゴール( するのは死に至る病だ。 人間は往々にして自己自身を精神として意識することを忘れてしまう。 そ して神のうちに自己の根拠を求めずに、 漠然として抽象的な一般社会や国家の中に安 住 し 没 入 し て、 自分と云うものを忘れ、 自分の才能は唯単なる働くための力としか考えない傾向こそは近代の 病気である』 と述べている。 現代は 『現実面の政治、 経済、 法律と、 理想面である、 学問、 芸術、 1 ) 宗教、 道徳との両面の間に深淵を生 じた( 。』 2 ( 西田博士 )の道徳の根源的なるものは、 おもうにその人が、 真理を知ることの大きい自己となる に従って、 自己を実現するのである。 だから知識の深遠になるに従って、 非自己的なものも自己の 中に包含して来る。 之に従って理性的要求が大きくなるから、 現実と離れた高い目的を持って実行 に移るであろう。 強い意味において、 或る理想を現実にせんが為め実行せんと すれば矛盾衝突が現 実と理想の間にある。 そこで精神の苦悩を排除して、 高い道 徳性の発露してゆくことになるのであ る。 意志が客観的となり、自己を滅する偉大なも のとなる。 かくて釈迦、基督の精神が千年後にも万 人を動かす力を有するのである。 それゆえに自己の心を自覚せぬ嬰児時代が最も尊いとされる所以 でもある。 そして我々の道徳に偉大な力を与える勧善懲悪的大主宰者があればそれは神であるとカ ントも述 べている。 我々が達する能わざる理想を実現 し得た人々を尊敬することは、 その人への服 従することになるのである。 然も恐怖をもってではなく、 苦痛を逃るる為めでもなく、 富士山に登 ったり大洋を望んだ時のように、 絶大な力に打たれてこの情念を生ずるのである。 《道徳はノv性自然の上に根拠をもったものである。 何故善をなさねばならぬかは人性の内から説 明さるべきものであり、 道徳の威厳は不測の辺にあることは次の西行法師の歌でもわかる》と西田 博士は説いている。 「何事のおはしますかは知らねども、 かたじけな さ に 涙 こ ぼ る る』 か く て 内 心 の自由と平静とが得られるであろう。 だからこそ心は常に平和である。 《善が美であるのは人間の 本性より出た自 然の行為で、 然も至誠であるからで、 道徳上にも寛容の情が生ずるのである》とも なる。 然か 説いている。 同時にまた《調和 が善であ り、 中庸が善であり、 それは自他一致、 愛とも・ る されたときである》とも西田博士は述べてい も、 これこそ自己の内面的要求の満 。 ベ と 上のもの ルグソンの動的な知性以 させる 徳 は 開いた魂の道 集団は開いた魂の道徳を凋落 。 で、 福音書にあるようなものである。 即ち 『人汝等に…語れり、 されど吾汝等に…告ぐ』 の対句と 3 )の 二 コ マ コ ス 倫 理 学 の して 流 布 して い る 静 的 道 徳 に対 して 云 わ れ る も の で あ る。 ア リ ス ト テ レス(. 中にも述 べてある。 『人間的善が政治の究極の目的でなくてはならぬ。 まことに善は個人にとって も、国 家 に とっ て も、 同 じ こ と で あ る に して も、 国 家 社 会 を 善 と す る こ と が、 大 き い 事 で あ る』と。. エートス即ち倫理的性状は、 教養のある、 よき判定者として熟成されると云う。 ペ シ オ ドス の 言 葉 に 『み ず か らょ き す べ て を さ と る は、 お よ そ 最 も す ぐれ た る 人 に て、 ま た よ き. 言葉に従うもよき人なり』 とある。 アリス トテ レスは、 人々の魂に関しての善は、 最もすぐれた意 味の善であると した。 それは人間の最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活 動だからだ。 古 代デロスの銘に 『最もうるわしきは、 他にすぐれて正 しきこと…云々』 とあり、 『真の意味での善 き人知慧ある人は、 いかなる運命にも見事に堪え忍び与えられたものを基礎として、 常に最もうる わしき働きを行うのである』 。 (0) (1) (2) (3). キルケ ゴール : 死にいたる病 ベルグソン : 道徳と宗教の二源泉 西田幾太郎 : 善の研究 アリス トテ レス : ニコマコス倫理学 一2ー.
(4) . 道徳煩庭の原因を追求 して之が伝統を古典に探る. あらゆるものを逃避し、 恐怖し、 何事にも堪え得ぬものは、 怯儒だ。 何も恐れず 進んで行くは 、 、無謀で、 あらるゆる快楽をも慎まぬものは放爵である。 かくて節制も勇敢も 過超 と不足の間の中 、 庸で保たれる。 肉体的快楽を慎む事で自らの悦びを感ずる人は、 節制 でi 帯しさを耐えながら、 悦を 感ずる人が勇 敢だと教えている。 要するに中庸とは過超と不足との一つの悪徳の中を発見し之を選 ぶことだと中庸の徳を説く。 )も道徳の最高原理は人間学の基礎に立脚・ 4 カント( し道徳学の法則に従って行動する能力ある意志 としての実践的理性であり、 理性の命令は意志を強制する、 と云う。 彼の激情や熱情の抑制克服 、 及び冷静な熟慮は種々の点で、 善いことであるばかりでなく、 人格の内的価値の一部をすらなして いる。 善なる意志は、 他に較べものにならぬ程高く評価される。 そしてたとえ効果が有っても無く ても、 この価値を増減はしないと述べている。 然かも善なる意志という概念は、 すでに自然的常識 に内在しており、 教え込む必要があるというよ りは、 むしろ啓発しさえすればよいのだ がこれを 、 含んでいる義務の概念を持ち出す必要がある。 種 々の義務の理念から、 全く離れてしまわぬよう に、 行為を守 り、 義務法則に対する不動の尊敬を心中に保持してくれるものは透徹した確信以外に あり得ない。 それは理性によって仮借なく命ぜらるる行為である。 最高の善として神の概念も出 る。 かく人間個々の道徳性を発揮しつつ協調して、 社会集団国家や人類愛となるのは開ける魂の道 徳だ。 人倫の原理である倫理の実行面は、 道徳であると云える。 社会的道徳が民主政治に始まるべく 『人民の人民による人民のための政治』 であるのだ。 民主的とは衆知衆能によることであるが、 現代の世界的場面は、 非常に困難性をもっている。 ラ ジオ、 テレビ、 飛行機の時代では遠くイランやエジプ トの事件も 、 日本に直ちに影 響があ らわれ る。 集団社会の複雑さは多岐を極め、 専門的知識と経験とをあ らゆる方面に必要とする。 自然科学 は一方大きく深い技術と認識とをもって社会に関与せねばならぬ。 かくて人間と人間の間に存在し た知識、 経験、 判断力の相違も解消せんとしている。 舷に神智のような洞察でなくては判定出来な い場になるわけで、 個人というものが、 軽視されてくる。 そして謙遜と科 学的精神を具備し 真実 、 を以て充された叡智が必要になってくる。 また総体の意志をまとめる為の堅忍的勇気も、 なくして はならぬ非常に六かしい場になってくる。 マルキシズム倫理においては集団民族の幸福の為めに個人を犠牲にする革命正義が、 大きく打出 され て い る。 こ の社 会 意 識 は道 徳 性 が あ る と い っ て も よ い が、 (マ ルク ス) 『意 識 が 生活 を き め る の. でなく、 生活が意識をきめる』(スターリン)『人々の生き方で、 彼らの考え方もきまる』 ので、 生 きる為に働き、 恋愛し、 結婚し、 税金をおさめるというように、 封建制や資本主義の弊に、 人間闘 争の場も、 生活の全体と考えるのだ。 この社会は階級社会であり、 経済的には人間は人間による搾 取と支配との対立であるから、 そういう社会の道徳はてってい的に考え直さねばならぬ と い う の だ。 道徳も従来のものはブルジョア道徳だと断じるのは此処から発している。 道徳も社会的や物 質 的な根源によるとされ、 社会の不正や不合理にたいする怒り、 偽善や虚偽への憎み、 そしてそれへ の反感、 生活からの分裂の苦 しみを持つことによって社会的闘争になるのだとする。 かくて物質か ら来る精神的変革へ進むのだから、 単に古き道徳的なものの範 囲に留ってはならないとする。 かく 唯物論は古き道徳から離れると見るのである。 5 { ) 人間心理や社会や政治などという現代的状況を 生々しい現実性において考 近 代実存主義は、 、 える。 人間の現実を先きに立てるから、 『行動の外にリアリティはない』 とする。 諸行動もまた生 (4) カント : 道徳の最高原理 (5) 三宅剛一 : 実存の倫理道 (徳の危期) -ラー.
(5) . 田. 所. 哲. 太. 郎. 活以外の何物でもないとする。 従って観念論的な倫理に対 して、 はげしく抗議する。 同様に内面性 や宗教性を以て、 安易に幻想に入るようなことは無いから、 外観的に非宗教性のように見える。 た だ真実なる実存のために、 真理を照し出 して、 生きた真理 でなくてならぬとする。 だから素朴なる 哲学であり、 倫理である。 良心もまた自己存在の媒介となるもので、 身近なものへの配慮で心奪わ れ て は な らな い と す る。. 科学的文明 は倫理の問題に影響をあたえた。 ラジオ、 テ レビ、 飛行機等の科 学機械は、 世界の人 間を機械化し非個性化する文化を到来した。 約千年の間、 東洋の伝統下にあった我々日本人は、 こ れに対して本能的に反擬する傾向がある。 然し全面的に否定は出来ない科学文明は、 人間そのもの の性格をも変貌せんとしている。 科学文明は近代の人間自体の作った偉大な人間楽園であって、 叉 6 )は述べる。 そして超自然物 (水素爆弾) としての近代 の科学産 同時に人間地獄でもあると下村氏( 物は、 古代のロ ゴス的理性と異つた実験的理性と予想する倫理に変貌してゆくであろうと述べてい る。 逆に 『進化論』 は人間の祖先を猿以上の動物にまで発祥を楓下げた。 マルサスの人口論は人間の繁栄 のための生殖問題は食糧に直結するも のであるから、 あらゆる知 性と技術を動員して食糧増産を企図する。 そ こで自然科学特に技術的機械的文化建設を重要視し、 唯物的肉体主義に傾いていった。 特に我国の産児制限をば生活難を打破 する手段として行おうとす る。 優生保護法を盾にとって、 姫娠中絶を日常茶飯事として行う現今であり、 人々は高い文化の水 準で生活する為めに、 人道や人権をも無視するに至った。 そして貞操を売るも の、 扶養家族を 生活 戦場に酷使するものが社会にあふれて来た。 このようであれ ば道徳問題が次ぎ次ぎに歪められてゆ くのも当然であろう。 唯物論ができて以来、 無辞論的に走った 近代人はマルクス《宗教は阿片なり》の言葉で信仰を失 ってしまった。 宗教は道徳の母であるに拘らず、 ローマ教会は宗 教を支配層 の論理的防衛武器に堕 落せしめさらに勤労層への精神慰安をあたえる、 妖怪宗教に変化せしめたo なおマルキシズムすら 近代に至ると宗教化したことは、 わが国の忠孝や国家神道や天皇を宗教化したのと同一である。 わ が民族が終戦後このような宗教を失った代償に、 新興宗教は雨後の符のように生れて、 大殿宇が建 てられている。 わが日本民族は今こそ武士魂や仁義ややくざ者的信仰を捨てて、 真の善なる意志の 尊厳性を無限に高める宗教によらねばならぬの だ。 その内容をなすも のはキリストの愛か、 仏陀の 慈悲か? 欧米思想か ら道徳性の偏向か 《『人間的善』 が政治の究極の目的だ》 と ギ リ シャ の ア リ ス トテ レスが述べてから今日に至るまで 『人間的善』 のための法律が行われている。 然し刑罰だ統制だ克 巳だと並 べても不完全なものが多くやはり最後は至高の善として神 の概念までも進まねばならぬで あろう。 この場合、 常識的な道徳的諸概念から法則が生れるのだが、 道徳学の枠に人間を あてはめ てはならぬ、 人間学の上に基礎を置かねばならない。 理性の命令に対 し意志を強制することが道徳 2 Jは 述 べ る。 の最高 原 理 で あ る と カ ン ト(. われわれは自分の最大幸福のため必要な手段を選ぶ ことに熟達してこそ、 利巧と呼ばれるように なる。 信用を失わぬ為めに、 嘘の約束をせぬ、 いわゆる道徳的命令により、 強い意志で法則の下に 自身を規定して行為する力に振っている。 だから理 生の存在者としての人格をもって凡ての事柄を 処理する。 他人も常に目的として使用し、 決して手段として使用すべきではない。 嘘の約束をした 者は相手を手段として利用せんとしたものである。 他人の権利を侵害するのは、 他の人格を単に手 Pち人間性と人間性とふ 段 とするからである。 道徳原理による行為即ち理性的存在者相互間の関係艮 づくものであってはな 向教育 ) に基 ( 偏 れ合う処に基づく義務は、 決 して感情とか衝動とか傾向性 (6) 下村寅太郎 : 科学文明と倫理 (道徳の危期) - 4ー.
(6) . 道徳頭廃の原因を追求 して之が伝統を古典に探る. らない。 何故なれば、 理性所持者の尊厳という理念から出るもので、 道徳性と道徳能力のある限り 人間性こそが尊厳を有する唯一のものだからである。 尊厳を無限に高 めること (至高は神仏に至る) に反する場合は己の神聖を流すことになる。 道徳 的に善なる白からを律することが低下し、 尊厳の根拠が崩壊する。 この自 律の法則に合致する意志 は、 絶対的に善なる意志である。 この意志で道徳的に強制されることが、 責任である。 この責任よ り行為することが即ち義務である。 然も理性的存在者の意志は自由の理念の下でのみ自己の意志で あることが出来るのだ。 自由の理念の中には自 律の概念が不可分に結合してお り自律の概念にはま た道徳性の普遍的原理が結合している。 そして理性が叡智界という超越的概念のもとに目的とする 2 )はいう。 道徳法則に対する生きいきとした関心を 普遍の国というすばらしい理想があるとカ ント( われわれの内に産み出して行かねばならぬ。 人間学から見れば、 存在は人間のうちに人間を通 して現われる。 人間は小宇宙であり小神格でも ある。 神々は人間の像に似て作られている。 しかし同時に人間は自然の隷属である。 神の像に似て いる点から人格である。 人間は精神的な心的な内的な存在である。 人間らしい人間の状況は精神的 状況である。 1 )は、 <閉つた魂>の道徳として例を蟻の幸福と蟻の巣 (集団) の幸福との中間 またベルグソン( の何物にか懸り求めた。 之に対して<開いた魂>は全人類を包容する。 愛は動物や植物や自然全体 にまで及ぼされるからである。 勿論此愛に家族愛から祖国愛さらに人類愛に拡散されていったもの だが前二者には排他的なものも含まれているから、 闘争をも惹起する<開いた魂>の人類愛は、 愛 のみである。 自然全体に及ぶ愛はルソーの山獄、 ローマ人の田園山野の魅力や水の清涼さへの感情 5 )に含ま 的な愛を意 にする。 かくて自然の感情と呼ばれるものは、 東洋特に日本に於いて禅の思想( れ ている。. かくて解放の感情は安楽も快楽も富にも無関心であり、 こうしたものから離脱すれば荷物が軽く なる。 ベルグソンは附言する 『都市道徳を規則正しく実践する者は、 社会と個人に共通する諾々の 物質的抵抗の相互干渉の表われである安易感を経験する。 しかし自己を開くは自分の眼の前で物質 的障害が除かれて行くからすっかり歓喜にひたる。 後者は前者以上のものであり、 前者は静的なも ので知性以下にあること蟻の巣の場にも見られる。 後者は動的のものであり知性以上の も の で あ る』 と。 だから 『ひと汝等に…語れり。されど吾汝等に…告ぐ』という福音書の深い意味の言葉も生 れるのである。 こうした魂の出現は生の推進力であり、 創造的努力の本質である。 創造的情緒が拡 がり、 霊感を得た魂はこれを放射して不可抗力的な魅力となって諸人を引きつけるのだ。 かような偉大な有徳者を古い昔に思い浮 べ、 彼等の言葉と行為とを思い浮かべるとき、 諸人は本 能的にひきつけられざるを得ない気分になるのである。 かくなるときに道徳、 倫理、 哲学を超越と 宗教に投入するということになる。 これは知性以上のものであるから、 愛は飛躍すると云ってよか ろ う。. 6 )は 『善』 は個人において実現される とするのは誤りで、 最高善は愛され 現代の哲学者ラッセル( る相手の最高善と関連すると説く。 幸福な生活に熱意ある人々の希望によって支配される。 現実以 外の何物も考えぬようなことなどは、 人間にとっては牢獄のようなものだ。 これを脱して最高善に 7 )は有限な現実存在としての人間だから、 現実存在に終始せね 希望を持つべきだと説く。 高橋・ 博士( ばならず容易に全人として人間存在であり得ないのだ。 有限なる人間が無限なる存在に於いて始め (1) ベルグソン : 道徳と宗教との二源泉. (5) 鈴木大拙 ; 禅思想と自然 (6) ラッセル : 教育論 (7) 高橋里美 : 私の哲学と人生観 -5-.
(7) . 田. 所. 哲. 太 郎. て全人であり得て理論も実践も包含することに なるのだ。 そして良心なるものは集中せる自己が自 己に対 してなす無声の話しかけである。 叉自己緊張であり自己統一であり全意 向の方向付けを決定 するのである。 そして実践的自己統一とは未だ最後の自己統一ではなく、 その根底には更に深い愛 の自己統一が横わっている。 この愛の自己統一に比較すれ ば実践的自己統一は尚お分散的であり弛 緩的でもある。 それは集中せる分散であり緊張せる弛緩である。 我々が人生にあって求むる最大な ることはこの愛の自己統一と確実性とでなければならぬ。 叉人間存在は 『世界的存在』 としてある 環境につながり自己個性と社会的自然的環境とに処する用意が必要だ。 この知命の根拠として、 真 善美の÷致点に聖なるも のの存在を思う。 即ち絶対愛のなかにこそ自己の根拠としての愛と神的愛 との交渉の天地があると思う。 然るに現代大衆の特 色はこの世界を全くよそにしているわけではないが、 事実的現実として 存在 している世界を根拠として自分を認識しているようである。 一面近代集団大衆は個人現存を放棄し、 万人平等の構想がはばをきかせている。 そして大衆の特 殊性の一つは衝動的に動くことであり暗示にかかりやすいこと、 不寛容なこと、 変動しやすいこと などである。 また大衆は一切を隣鋼して偉大な人間を育てず、 同じ型の人を作りだす。 そして大衆 に奉仕すると称 してわれわれの主人になる。 子供も家族の解体で版上げられ全体のものとなり、 結 婚は多く の場合契約的になってくる。 かくて生の不安から自己存在さ え失いそうになる。 誠実な熱 情の代りに政治的熱情を叫ぶ。 個人の健康の心配に代って、 大衆的健康経営があらわれる。 教育ま でも現実的に修業した。 また医者は療養の大量消化に向っている。 即ち出来るだけ多くの療養を出 来るだけ早く処置すれ ばよい事になった。 やがて個人的なものとして存在すべきものが、 大衆経営 的なものに変り、 集合手段で目標明確さを欠いたまま行われる。 かくて人間が人間であることの喜 びも、 自分自 身で励むことのよろこびも失われて来た。 自己自身の存在を無力化して集団組織に於 いて、 異質的な利益のモザイク構造を与えるため、 相互に譲り合って、 決断を回避し、 妥協に落付 く。 個人への信頼は欠如 し人間性が弱体化し、 責任と義務から遠 ざかった人々が、 ただ秩序と協力 の撹乱を防ぐために、 世界から神を取り除いて生活 しているのである。 奴隷にされても何んの抵抗 もせずに生きて行けると考 えている。 他の人々を圧する優勢な力しか一身の安全はないとして恐怖 しながらも権力に盲従している。 その権力は唯大衆の合理的な現存秩序を与えるも のである。 職業 上の所属や党派という共同体によらず、 人間と人間とのふれあいのなかでともに進んでゆかなくて はならぬ。 真実なもの、 偉大なもの、 高貴なものを たい得る人間の行く べき 『この道』 は、 自分を 8 )は 欺くことをしらない者にのみ準備されているのだ。 それを忘れて来た現 代であるとヤスパース( 警 告 して い る。. かくも現代の道徳性は集団という大浪によりて 『自分自身のもの』 そして 『自己であるもの』 の 小波は打ち消されているのである。 人間であることの偉大な奮起は 『自己であること』 を忘れて集 団のために水平化されたものによって閉塞されている。 そして唯大衆の政治的経済的勢力に隷属す るから精神的創造性は望まれずまた精神的に端正であることも困難であるのだ。 だから芸術の場と 訓育と教養が別々に切り離され学問の研究者と学者とをきりはなし、 神を存在せずとし、 人間その ものも無価値なものとして切りはなしてしまったのであろうか?かの戦争で人海戦術によりて幾千 人も殺徴されるのである。 恐らく 今日の英雄とは光なき活 動の中に名声なき実行の中に自分自身を 立てていく力をもった人であろう。 そして抵抗や拒絶によって動揺されない人 で唯々 『この道』 を 無言で着々と進み得る人であろうとヤス パースは嘆じている。 若し現代人に彼の打算を妨害するも のと絶えず対立し野獣的生存競争よりほかには何一つ残 らぬならば、 人間の高貴さは何処に消えぅ (8) ヤス パース ; 現代の精神的状況 -6「.
(8) . 道徳頗廃の原因を追求して之が伝統を古典に操る せるだろう。 この高貴なものとは哲学的宗教的生活から生れる信仰の真理の中に立 つ事によって得 られる。 この高貴さによって美術、 文学、 哲学の遺産を失わずに近代人の経営にのみ没落して行く 無節操も防止されよう。 若し信仰が完全に喪失したならばみずから神を失った機械人間とかいうも のになる。 そして魚のように死ぬと考えるとき、 人間の高貴も尊厳はない。 そして自由や信仰や自 己存在は没却されてしまう。 ドストエフスキーの 『罪と罰』 や 『白痴』 や 『カラマ ゾフの兄弟』 は 神のない場で生きる人の例だ。 一ッ穴のムジナで互にすねに傷もっ身同志には善悪の区別を抹殺さ れる慾望も感じないのに小女を凌辱してその小女が自殺するのを、 そっと傍観しているというよう に人間を下落させたのも、 一切を許されている無神論の徹底から来るのだ。 だから無神論になれば 善悪の区別が無くなり世界に人間しかいないから何をやってもよい、 人間同志で妥協さえすればい かなる悪をやってもよい。 人間同志の殺数でも人海戦術としてゆるされているのだ。 これもまた無 神論からくる自由の考え方である。 自分を支配するものがいないと云う意味で徹底的に自由なので ある。 自分の主は自分だけである。 それだから自分は自分を徹底的に自由に扱い得るのだ。 それだ から何んでも自分に対 して自由に命令することが出来る。 自分の命を版り死ぬことさえ命令する自 由を持って来た現今の人々でもあるのだ。 即ち無神論の徹底は自殺だ。. 第二章 無碑論の影響は無宗教の民族へ及ぶ 人非人と云われた神を恐れざる民族には宗教も信仰も無いのだ。 この宗教とは結婚式や死の悲し みを慰めるために葬式で処理する宗教ではない。 原始宗教を尋ねて見ればわかる。 仏教で釈尊がマ カ ダ国の主舎城を出た時、 城の東北にそびえる聖山に入り阿弥陀如来と浄土の存在を、 真に救われ る道として悟った。 またキリストも 『み国を来らせ給えみ心の成るが如く地にもならせ給え』 と祈 って社会悪を根底から改革せんと叫んだのであった。 ナザレの大工の子であったキリストの生んだ 新約聖書に 『目には目を、 歯には歯をと云える汝等聞けり。 されど我汝等に告ぐ。 悪しき者にさか らうな。 人もし汝の右の頬を打たば左をも向けよ』 仇に報ゆるに仇をもってせず、 愛をもって仇に 打ちかてと教えてあったのだ。 嬢に個人の人格の尊厳も自由も平等も社会生活の中に基礎づけて考 えねばならぬであろう。 物質的労働と精神的労働と分化してた瞬間から分業が現われたとマルクスは云う。 自然科学者も 経営者も化学物理者も金銭出納者もかれらの分業から離れて音楽や絵画や和歌俳句を通じて人間ら しい精神生活に到達する。 現実生活の手段たる学問的活動の分業に専念すればこそ、 毎日毎日の人 生の心の糧として精神的なる他の任意の部門を趣味として修練せんとするのだ。 彼の経済人に新ら しい力を与えるためにも俳句の趣味や、 禅思想の生活をその人生に織り込むのが必要である。 若し これを欠く経済人は行き詰りが人生に到来して一つの計算器に過ぎないものとなるであろう。 分業となったとき意識は自己を世界から解放して道徳を構成する。 然し自己の解放でなく寧ろ自 己自身を深く自覚することから道徳が生れるのだと考える。 人間の見出した意識も初めから 『純粋 な』 意識としてではない。 『精神』 は初めから物質に 『とりつかれ』 ている運命にあると云ってい る。 然し人間にとっての物質即ち人間生活に入った物質は、 いや精神的面を考えずには取扱われな いものだ。 主食の米は単に肉体の栄養として次の活動に入る潜勢力を精神に与える。 のみならず水 田に働いた人々への感謝の念も意識すべきだと思う。 マ ル クス(のの宗 教 否 定 は フ オイ エ ル バ ッ ハ の ドイ ツチ エイ デ オ ロ ギー の 中 に 述 べ ら れ て い る よ う. に 『政治的法律的道徳的人間』 に目をつけて 『人間』 を宗教的に説明する宗教の支配が前提とされ つぎつぎにす べての支配的関係が宗教関係から説かれた。 また青年ヘーゲル派の空想を非難もして (9) マルクス : フオイ エル バッハ (ドイ ツチェ・イ デオロギー).
(9) . 田. 所. 哲. 太. 郎. 『人間の諸関係その全行動その姪格と制限は、 人間の意識を、 人間的な批判的なまたは利己的な意 識と坂替える。 かくすることによって人間の諸制限を除去せよという道徳的所要請を人間に課する …云々』 意識が現実の世界にのみとらわれているのではなかろぅか?そして人間の動物的な所に依 存するから、 利己的にもならざるを得ないのであろう。 それだからマルクスは人間歴史の第一の前 提は… 『第一確認さるべき事実は、 これら諸個人の身体組織と、 これによって与えられた…人間そ のものの肉体的性状…』 と云って、 精神的と云う方向を除いている。 また 『人間は意識によって宗 教によって動物から区別されうる。 人間自身が自己を動物から区別し始めるのは彼らが彼らの生活 手段を生産し始めるときである』 と云うが、 披に精神的生活も亦生活手段であり、 その所産でもあ るのだと思う。 マルクスの此論旨から精神的面が全く除かれて いることは、 次の句でも 明 か で あ る。『すなわち諸個人が何であるかは彼 らの生産の物質的諸条件に 懸っている』 と。 また歴史の推 進力として戦争を坂り上げ 『戦争そのものがま た一つの規則的な定通形態なのであって…』 とある が然しよく考えるとそれのみでない。 キリスト教の伝え広められたのも、 東洋の仏教の伝播も、 支 那の道教でも、 孔孟の教の伝播も平和を通 じて行われたものが多いのだ。 わが国の遣唐使は平和の 使者として叉仏教を麦那から伝来する際には僧が平和の使者として一つの大きい規則的交通形態と なった。 またマルクスはい う 『奴 隷制は相変らず全生産の基礎だった 。平民は自由民と奴隷との中間にあ っ て 遂 に ル ン ペ ン・ プ ロ レ タ リ ア ー ト以 上 に 出 な か っ た。 … 云 々』 と。 ル ン ペ ン ・ プ ロ レタ リ ア-. トは非常にシイタ ゲられたと云うが東洋仏教思想や孔孟の教からは、 ルンペンはむ しろ精神的に自 由な点から奨励もされて いる。 安那の陶淵明は士族に生れた学者だが、 任官をやめて田園生活をし た。 彼の有名な帰去来の辞がある。 また、 かれは人間は何よりも人間に向って忠実でなけれ ばなら ぬゆえ 『結庵して心静かなる場に居れば、 土地も自然も社会も静かな辺鄭になるのだ』 と詠ってい る。 また 一生涯を通じて旅から旅へと暮した芭蕉の生活もある。 一体禅師は蕪候に教を垂れ、 その 報酬にもらった銀製の癌の現実的な経済的価値高いものを弊履のように捨て、 門前の群がる小供た ちに与えて旅をつづけた。 また儒教思想からも、 仏教思想からも立身 出世の現実主義を卑しみ任官 を嫌った風習があらわれた。 叡智の賢人であれば竹林の七賢のように人生を行けるのである。 自己 放棄によって人を助け得ることの道徳を学ぶことができる。 またマルク スは云う。 『比較的大きな 諸国をまとめて封建王国となすことは、 土地貴族にとっても諸都市に とっても、 一 つの必要な事で あった。 それに支配階級たる貴族の組織は どこまでも、 その頂 点に一人の君主を持っていた』 と。 社会制度の欠陥の上にさらに欠陥をっみかさねる状況を悲しみ批判している。 此点は確かにその通 りで大いに悲 しまねばならないと思う。 然し一面教育の場は貴族が競うて物質的よりも精神面を重 んじまた宗教をも建てて都市の一要素としたから女化高い王国も出来たのであった と云える。 また マルクスは云う 『諸観念諾々の表現意識の生産は、 まず第一に人間の物質的活動と物質的交通との うちに、 現実生活の言葉のうちに、 直接に編み込まれてい る。 …民族の政治、 法律、 道徳、 宗教、 形面上学等々の言葉において表示されるような精神的 生産についても同 じことがいえる。 …彼らの 生産諸力と次に対応するところのその最高 の諸形態に至るまでの交通との一定の発展によって制約 さ れ てい る。』 と然し精神的には必ず しもこれに制約を受けない。 また云う 『人間が語り想像し表. 象するところのものから、 または語られた、 考えられた、 想像された、 表象された人間から出発し て、 そこから肉体をもった人間に 到達しようとするのではない。 ここでは現実に活動する人間から 出発するのであり、 そして人間の現実の生活過程からこの生活過程のイデオロギー的諸反射と諸反 響との発展をも説明するのである』 と。 これは人間をば動物性即ち物質性を主体とした点から語る のである。 然し経済が人間労働の結果であり、 労働は個人の心的状況を予想するものあり、 その性 -8-.
(10) . 道徳頗廃の原因を追求して之が伝統を古典に探る 格は人間の精神的道徳的性質によって決定さ れる。 経済は心的環 境のうちに完全に展開されるもの である。 フオイ エルバッハは無神論哲学的に説き マルクスはこの宗教観を社会生活に適用 した 、 。 宗教は人民の阿片であると云ったのも、宗教的虚妄を説いたのであった キリスト教は世の富者権勢 。 者を支持し現存の社会悪を正当化したことはたしかだ 然しこれは宗教の罪ではなく キリス ト教信 。 、 者の誤りから来たものであった。 マルクスは道徳的現象と経済的現象とを混 同して 社会的正義と 、 真理 (ュー トピア社会主義) の観念から発 した倫理的社会主義をブルジョア的と蔑視した そして 。 プロ レタリアー トが、 あたかも神の選民であり 他一切の階級は搾取の原罪にけがれている と考 、 。 えた。 それだからプロ レタリアー トのみは自由であり、 純潔であり 未来の人間の最も道徳的なタ 、 イ プであると考えた。 そのためにプロ レタリアー トが救世主に代り 人類の解放者であり 救済者 、 、 で ある と考 えた。 現 実 の プ ロ レタ リ ア ー トか ら 観 念的 プ ロ レタ リ アー トに へ と宗 教 化 した も の の 考. え方である。 そして信条はむしろ書は悪から生れ、 光が闇から、 自由は暴圧から 友愛は憎悪から 、 生れるといってヘーゲルの弁証法を正当 化した。 マルクス主義的宗教は、 人間の人格は手段であ り、 社会活動力の対象に過ぎない。 慈悲や憐欄を期待せず神と精神を否認するから 良心の自由も 、 l o ) は述べている な い の で あ る と ベ ル ジ ヤ エ フ( 。. ) によれば個人的に行わるる道徳良心の改造や宗教的魂の転心は 社会革命による人 務台博士(u 、 間革命とは何のかかわりもない。 然し時には個人の意識における一種の革命であるから 道徳的改 、 心や宗教的回心を意味する場合もある。 それは前者後者の間に意識変革の一線が引 かれると述べて いる。 人と物とに対する愛欲の念に就いて人間革命は個人的でなく、 多数者の存在のし方に於ける 複数の変革であって、 単独者の良心や魂の変革ではないとも述べている。 だから貴重な人類共同の 女化意識倫理意識が破損されるような行過ぎがあれば、 たとえ革命の側に味方するとも、 人類共同 の文化自由の為めに、 万人に対 する一人として抗議する態度が必要だと述べられる。 然し実際の場 合、 大衆に万人に従うことの多いのは否み得ないと思う。 勿論労「動者は意識を自覚 し、 悦びを持っ て労働する。 しか しこれも革命後のことであるが、 封建的資本主義的に労働を強制されて来た者 はかくて唯物論に親近を感 じ、 自然と物質に接し神秘的で神聖な人格とやらには見向きもしないの は、 抑 圧されて労働したからだと述べている。 そ して人間の本性の先天的価値を認める観念論は全 く無力であるとする。 自由は観念論のみで支えるものでなく、 唯物論的自由も労働を通じて獲得さ れるとも述べている。 そして人間価値尊厳の思想が人間平等の思想にとって代えられた。 そして現 代人の求める宗教も個人個人の魂の救いや慰めでなく 人類全体の平和と幸福を要請している。 人類 の宗教としては世界平和に無関心であ り、 大衆の救済に無関心であってはならないのである。 然し 社会的生活のために労働する人間は、 古典哲学における人間の価値とか人間の尊厳という考え方を 理解することが困難となっている。 それも人間の尊厳を説くものは多く被 抑圧者の労働者に味方で なく、 支配者の味方であったからだ。 然し人間価値と尊厳とは人間の本性として具るものだ。 要するにマルキンズムの社会変革が行われると否とに拘らず、 人間の悪を解消せねばならぬこと は明かである。 此社会変革で少くも社会を起源とする悪は根絶できる。 然もこの悪が絶対多数だ。 しかし人間それ自体に原因する悪貝 =ち怠惰もあろう、 病弱や愛欲もあろぅが、 マルキシズムとても 之を解消 し得るとは考えない。 従って社会変革が此等の悪も同時に撲滅するとは考えな い の で あ る。 唯に考えぬのみでなく正直のところ関心を此方面にあま り持たなかった事も事実である。 即ち 現実的に重要性を認めなかったと云えばよいであろう。 然し第三者から考えて一方にキリスト教的 な愛が説かれて居り、 叉他方に仏教的な慈悲が説かれている。 此世に憎しみを消すための愛と慈悲 (lo) ベ ル ジ ヤ エ フ : マルクス主義と宗教 11) 務合理作 : 社会革命と人間革命-マルクス主義か宗教か (. -9ー.
(11) . 田. 所. 哲. 太. 郎. とがあるとすれば、 当然マルキシズムとても問題とせねばならぬと云える。 尚おまた十九世紀には大衆の大いな額鰭が始まった。 それは市民の生活は宗教に無関 心 と な っ たことだ。 そして労働者の生活は (プロ レタリアー トは未来の人間の最も道徳的なタイ プとの考 え) 覚醒することによって教会を見捨ててしまった。 深く浸透して ゆく無宗教性は人間を支配した 8 )は 説 く。 と ヤ ス パ ー ス(. マルクスの宗教を捨てた理由とおぼしきものを ドストエフスキーの作中の一人の人物に 云わしめ よう。 『ロシア人に世界中の どの国民よりも一番容易に無神論者になり得る傾向をもっています。 しかもたんに無神論者になるばかりでなく必然的に無神論を信 じます』と。然し無神論を信ずるとい っても超越的な何物かに対する信仰を含んでいる。 何故ならば人間は自己存在を問題とせねばなら 1 2 ) ぬ動物であり超越 を求める動物であるから、 即ち人間は超越に関わらざるを得ない。 と高坂氏( は述べている。 その超越を人々はマルキシズムに求めるのであろうか。 勿論時代は次のやぅなキリス ト教会えの非難のあったときである。 ベリンスキーのゴーゴリへの 手紙の一句を引用する。 『今ロシヤが虚脱せる眠の中で不安に当面 している。 しかも正に此時に自 まるで鏡で 分の驚くべき芸術的な深く真実な作品によってロシヤの自覚を、 かくも力づよく促し、 . 見るように、 自分自身を眺める可能性を、 ロシヤに与えたところの偉大な作家が本を出し、 その中 でキリストと教会の名において野蛮人=地主に農民からもっと多くの金を取れと教え、 もっと農民 を悪罵せよと教えている。 …このことさえも私を憤激に駆り立ててはいけなかったのであろ うか? …もしあなたが、 私の生命を奪おうという企みを暴露 したとしても、 その時でも私は、 この恥ずべ き著書のゆえに、 あなたを憎むほどにはあなたを憎まないであろう。 …このことの後ですら尚あな たは自分の本の方 向の誠実さを信じてもらいたいと欲している!否もしあなたが悪魔の教でなく、 本当のキリストの真理で満されたら』. 第三章 唯物、 実存主義と無神論者人格の影響 西欧に於けるキリスト教ローマ教会への反感は神の否定にまで進んだ。 これはニイ チエー以 来の懐 従思想から出ている。 キルケ ゴールの述べるように、 原罪を負うて創造主である神 が、 何故この織 れた世にわれ等を生み給いしや疑わざるを得ない。 奇蹟を通じて 偶像化された神はわれらの造り上 げたものである ことを曝露した。 自然科学の発達で唯物論が高く人々に買われ、 やがて実存主義哲 学の起るに至って、 愈々無神論に帰依する人々の数を増加した。 そしても し食物によって、 わたく しの生命を維持し、 衣服によって身体を包み、何らかの住居を所有せぬ子らは、わたくしの哲字的著 作も科学的 発見も芸術的創作も道徳的評価も行えない。 だから食物の必要は認識や精神的創作より も緊急である。 かくて家屋の土台のみによって部屋の性質や家の内の生活迄も支配されると考える ようになった。 労「動者の心的状況は、 その人格は精神的道 徳的性質によって決定されるものである ことに注意せず、 かくて人間の思想や精神状況が貧困や富裕や欠乏や余剰によっても歪曲されるも のであり窒息させられるものと簡単にきめた。 1 ) の い う ヒ ュー マ ニ ズ ムと して は 3 ま た 無 神 論 的 な 実 存 主 義 の 一 つ の 例 と して あ げ る。 サ ル トル(. 『神は存在しない我々はそのことのあらゆる帰結を追求して行かねばならない』 と前世紀の人々が 既に考えた。 神々無用の仮説と化し、 ヒューマニズムから社 会文化倫理も神なしに説定されると考 えた。 然るにサルトルの現代実存主義のヒューマニズムとは神が存在しないということを苦悩とす (8) ヤス パース : 現代の精神的状況 2) 高坂正顕 : 現代宗教講座 1 (1 3) 西吾隆治 : 宗教とは何か-現代宗教講座 1 (1. 一iQ-.
(12) . 道徳頭廃 の原因を追求して之が伝統を古典に探る. る立場だと云うのである。 彼はもし神が存在せぬなら、 どんなことをしても許されるだろう』 と云 う ドフトエフスキ←の主義を引いて、 これこそ《実存主義の出発点だ》と云っている。 彼は人間存 在の根底が無であると考え、. 自己の内外に恐るべき何物も・ないとする。 無神論から実存主義が成立 つとする。 何物もないのが人間の自由を意味するとするこの思想が古くから芽生えていたことも大 きい原因だ。 かくて哲学的に認識さるる真理も、 創造さるる差も、 道徳的善も、 人間の魂の光明も、 単に経済 生活や利害関係によって消長するという誤った考に陥った。 特に青年層 プロレタリアートが権力獲 得のために戦った影響は大きいものだと思う。 近代商業女明叉は歴史的経済時代における道徳的欠 陥を暴露したこの時代の欠陥である下層男女に自由平等を供給しなかった資本主義の害悪は、 死肉 切開された。 ヤチーニ氏の言葉をかりれば 『彼等の心に憎悪力や湧き出て愛情を凌駕している。 憎悪 1 4 ) は 初 め か ら 神 を 意 識 して い は相 当 な根 拠を 持 つ と して も 正 しい 事 では な い』 と。 然 しマ ルク ス(. た。 彼はュダヤ系の多くの著名なユダ ヤ教の神学者を出した旧家に生れた。 神学から神に対する信 ・ 仰を取り去れば、空白で仕事がなくなる。マルクスは初め哲学でそれをやろうとした。 先ずヘーゲル の 哲学 か ら神 の観 念 を 除 い て しま お う と した。 併 しそ れ は 思 っ た よ り 困 難 な 仕 事 で、 . ス はヘ マ ル ク・. ーゲルの哲学を修正する代りに今後は彼一流の経済学を完成することで哲学というもの自体を経済 学で置き換えることにした。 そしてそれまでの凡ての哲学をもう役に立たないものにする最後の完 壁な哲学を創始することによってであった。 そして経済学は神を観念的として否定することを彼に 許したから経済学が神になった。 本来、 経済学であるものが、 神に取って代り絶対なものとして信 仰された。 生涯の間貧苦との戦で身体の健康をも害した彼だ。 十二年の間の苦難と病患との闘争最 初の十年間に一家の飢餓に瀕し自 己の着物をさえ生活費を得るため入質して暮し、 精神的環境も失 意で愉快なものではなかった。 それだから愛情などは一生の中に出し得なかったと考えられる。 彼の英雄的努力は プロ レタリアの自由のため共産党宣言から巴里の革命、 アメリカ南北戦争の労 働階級の北方への同情、 リンカン大統領への支持などで見られる。 一面他人の独創を全く 承認せず 第一人者たることも熱望し、 知的寛大さを全く欠いていたと云う。 彼は人間の物質的環境について 無類の深さをもって書いている反面には、 人間の内面的実質を洞察することは稀であった。 換言す るに東洋人の精神生活の深い特色に対しては全く理解の片鱗もできない型の人であった。 またルソ ーの哲学のように民衆の深い感情から直接に湧き出たものでもない。 彼の主張する人間労働という のは 『無差別的人間労働』 を意味するものだ。 量的等化であって質的等化ではない。 それは単に努 力と時間によって評価することであって、 努力の質によって評価することではない。 従って学問教 養の場の深さや質的高貴なものなどは度外視されている。 さらにまた重役の任務や企業家の仕事を 労働と見るべきものでなく、 価値を創造しないと論ずる。 そして重役的任務の所得を単純に隣婚だ と した。. メーリングの選集 ブルジョアジイ の武装解除社会のおそるべき死苦を短縮し集約するための革命 軍の創設は資本主義の道徳的欠陥を論じて良き社会を造ると云うマルキシズムが、 元来理想主義に 極力反対しているに拘らず理想に吸込まれる。 これに共鳴することが一般的道徳の欠けている傾向 にある。 それにマルクス主義の中に現在幾千年人類の持って来た道徳-<嘘を吐いていけない〉と か、 <人に対しては真実でなければならぬ>とかいうような道徳はブルジョアの造ったものでマル キシストに適用しないものだとの考えからである。 観念論世界を否定し精神世界をも否 定 し た の は、 人類の頭脳の中で変更翻訳された物質世界に外ならぬものを現実であるとしたからだ。 ヘー ゲ ルは思惟行程に現実世界の創造主であるとした、 人間の歴史を動かしている原動力を人間の理想と ) 吉田健一 : 現代文学 に於 ける神の問題-現代宗教の講座 1 (14.
(13) . 田 所, 哲. 太. 郎. か目的とか精神とかに置いた。 かくして川合博士が述べる 『マルキ シズムの認識論から来る結論では肉慾は悪い拝金は悪い貧慾 はいけないと決める。 その道徳的理想はマルキシズムからは出て来ない。 残るものは人間は唯物論 的利害 に依ってのみ動くものだという人間観である。 然も個人と社会とのつながりに関する結論が皆舷に来る。 現実を幻想的に説明した者とは甚しく 異質的だ。 また 『現代精神は権戒を信せず伝統を斥け、 無条件に何物も受け入れず、 批判に批判を 重ね、 然も確信 と真実に飢えている。 真実が無いから信念もない』 とはべりソスキーの 述 べ る 処 だ。. かくて現代人は、 大衆勢力しか一身を托する安全の場 が無いと考え、 恐怖しながらこの権力に盲. 従する。. 第四章 現代の道徳を頭廠に導いた要因 徳 唯物無神論的な思想があふれたときに、 人々 は ドエトフスキーの 『罪と罰』 の中の数々の不道 が説ける如 教育心理学 じめる 。 や、 『白痴』『悪霊』『カラマ ゾフ兄弟』 に見る人非人的行為をしは 1 5 ( ) は述べる、 実 イデッカー のである ハ するも て行動し創造 格とは人間中にあり 。 く民族の伝統性 践的理 生の発源は、 実践的自己の本質に関係し、 さらに道徳的自己意識にかかわる のであると。 カ ントは道徳人間の本来的自己及び本質を人格と呼んでいる。 人格そのものは道 徳的法則の理念であ りて、 それと不可分の尊敬を伴うものである。 尊敬とは道徳法則への感受性であり、 つねに同時に 愉楽であり、 人間目からを楽しん でいるも のとして経験する自己感膚が伴うのである。 尊敬は物件 に係りなく、 何時も人格にのみ係る。 尊敬は自己の自己自身にたいする責務的存在様式でもある。 同時に本来自己存在であり、 道徳的感情は自己を服属させ且つ帰依させるのである。 争のみで、 自我 8 )によれ ば現代人は またヤスパ ース「 .打算を妨害する鬼共と対立して野獣的生存競 中心主義が多いと。 為に道徳性ある人こそ現代の英雄である。 今人間における高貴さは秀才 でも人 ことに責 類学種族でもなく、 また非凡な創作品を 出す天才でも ない。 空虚を感ぜず自分自身である の高貴 任を持つ人である。 自分を他人に結びつける 『自己であること』 を知る人である。 そして真 そして人間 さは孤立した存在にはなく自立的人間が、 互に結合している忠実さを持つことにある。 ともいえる『無』 存在の高貴は哲学的生活とも称 され、 信仰と真理の中にある ことである。 信仰喪失 で に直面しても、 『自己であること』 の力が内的行動を産み出す自由や信仰や自己存在が没落する ′ こ死ぬなどと考えるより以上 のものが人間 である。 あろうと考え 『無』 である如 くt 1’ の述べる処である。 神は道徳 一面宗教が道徳教育の母体であることは彼のフオイ エルバッハ(6 的立法者である、 人間の父 である、 聖なる者、 義なる者、 親切なる者、 慈悲深い者 である。 ローマ 物の尺度 人や ギリシャ人は 徳や気分や激情を、 独立の本質として神格化した。 ことに人間自らは万 の こ の感情の本質に人間 ずると ろ であり、 現実性の尺度である。 また歓喜に静かに目から至福を感 うちにある最も美しい高貴なものを見るという神的な本性をもっている。 人間が動植物自然一般を 美しいと嘆美するのは人間の内面 生活による。 動植物と本質的に異つた宗教心と云う徳をもってい の特 るのである。 ライ プニッツの言葉を かりれ ば、 人間の魂のすぐれたす べてのものは、 神の本質 呪う処の 性である。 しかも神を道徳本質として、 善をば愛しおこない讃え、 悪をば罰 ししりぞけ、 ・ が絶 本質と規定する。 そして悟J性の超人的な本質即ち超 個人的な本質が支寸象化されて神となり悟 姓 (15) ハイ デッカー : カントと形面上学 (8) セスパース : 現代の精神的状況 (16) フオイ ュルバッハ : キリスト教の本質. -IZ-.
(14) . 道徳頒廃の原因を追求 して之が伝統を古典に探る. 対尺度となったとき神の旋であるという。 カントも云うように神は云わば道徳律そのものである 。 ただしそれの人格化されて考えられたものである。 そして此道徳律は不可避的にいずれの人間をも 謙虚にする。 キリス トが他者の為めに受難し、 かくも己を空うし、 低ぅし、 小さくせしは汝等にそ れと同じ事をなさしめんが為めであった。 宗教的な人々一切を一つのものに帰している 感性的で 。 はない。 これに反して無宗教者には兎角主観的専断的高慢軽薄の行が多い。 神は純粋精神であり、 光にみちた自己意識であり、 道徳的な人格性であること勿論だ。 その神は 魂を休息所と して宿ると昔から宗教家は説くのである。 だから神はそれ自ら人格であ り 理念であ 、 る と さ れ る。 そ して 信仰 と は 人 間 の こ の 神 性 を 信 ず る こ と で ある だ か ら 人 々 の 一 切 の 善 を 神 か ら 。. 期待するような心情の中の勇気でもある。 ルッターは率直に信仰をば神の創造者だと云う。 もし徳 が見せられるものな らばその美しさによって凡ゆる人の心を奪いとり 感動させるであろう 他人 、 。 は私の良心の対象化されたもので道徳律とか礼儀作法とかによって他人の意識と固く結びついてい る。 元来神の存在の証明は理性の限界を超えている。 カントの云うように、 神の存在は理性から証 明されえない。 注目すべきことは神の経験的現存という概念が唯物論の盛になった近世になって初 めて完成されたことである。 何は兎もあれ無神論が凡ての道徳原理をあらため、 人倫的根拠および 紐帯を否認するのである。 だが戦争も数人の指導者の考で起 し得る。 然し戦争を して罪を犯 した民 1 7 ) の 言 で あ る。 族自 身 の み に よ る も の でも な く も っ と根 本的 な 問 題 で あ る と は シ ュ プ ラ ン ガー(. 経済と技術や法律や道徳や学問と芸術などが病気に構っていると考える。 だから何れの民族にあ っても現代ほどの道徳の旗廃は歴史に見 ざるのもその為めであろう。 魂の故郷を忘れ、 深淵に脱落 しっふある人間は、 倫理外の面にとらわれている。 生活にのみとらわれ、 市場を統制すれば 『闇取 引』 があらわれ、 法治国家は血なまぐさい権力 闘争の場を演出する。 そして国民生活の節度に脅か され .国民道徳が額廃する。 ヘー ゲル或はマルクスのいずれの世界観にくみするに しても、 文化を 担う個人達をば然るべき無意味な圧倒力で包み宿命の如くに何ものかがおそいかかって来たと シュ プ ラ ン ガ← は 云 う。. 欧米大工業の発達は高度の資本主義をもたらし、 世界経済が拡張された。 経済的利益は諸国民を より一層緊密に結びつけろを期待したに反して、 世界を戦争へと導いたに過ぎなかった。 更に工業 は技術の多大な進歩を可能ならしめこの技術を戦争による破壊に用いる最高度の武器たらしめた。 この大 工業こそ 文化の均衡と秩序を混乱させた。 現代人は経済を祖先の神と交換したとも云える。 為に経済人外の政治家も法律家も宗教家とても経済に雇従し人間の魂を安価に貢いだ。 民衆は街路 上に闘争を繰返 して、 社会人の足や食を奪 動こ至った。 権力あるものは経済をむさぼり、 人欲の限 りを尽し、 弱き者は常に貞操を経済と交換する。 彼のペスタロッチ の警告した 『工業化と共に国民 教育に対する責任も、 最大限度に高揚されねばならぬ』 という言葉をおろそかにしたことに原因す る。 人権の宣言良心の自由、 信仰の自由、 思想の自由、 の根本を為す良心も失い、 末法の世地獄 に 等しき絵巻を社会に見るに至った。 経済をかくも歌眉せしめたのは、 何故であろうか?深くわれ等 の哲学と芸術と科学の文化の基礎を探るならばそこに遠因が見出されるであろう。 現代の独逸哲学 8 )の言葉をかりよう。 現代の芸術文学は、 人間を人間の総体性においてとらえたもの 者ヤスパース( だが、 芸術をとおして、自分自身を含蓄ゆたかにする教養がなくなったと。科学も亦非凡な業績を現 代に於いてあげているとは云え、 自然科学の今日の根本思想は終局真理としてよりはむ しろ応用さ るべきものである。 全体の意味に支えられた教育がなくなろうとしている。 精神科学は人間的な教 養の心かけを欠いたままであるように哲学に於いてもまた人格から人格へと譲渡されてゆく信念の (17) ェ ・ シュ プ ラ ソ ガ- :. 文化病理学. 8) ヤスパース : 現代の精神的状況 (i -13一.
(15) . 田. 所. 哲. 太. 郎. 伝承がなくなろうとしている。 そして残るも のは技術的熟練の技価や形式の学である。 かかるもの が今日の道徳の頒廃をもたらした大きい原因とも云わざるを得ないと思う。 それだから哲学は現実 任をとらずに哲学史的になりつつあった。 理想、 実証、 新カント、 批判主義と論争に 的な生活に責, のみ耽り、 ニイチェやキルケ ゴ【ルを文学者と見倣して、 白から混乱の中 に入った。 然しいかに 生 きる事が出来るかを解決してやらねばならぬ責任がある。 宗教とても尚活動的な 生活エネルギーとして存立することなく、 僅に窮境の慰めとして然も信仰 を喪失している。 徒らに世俗化して信頼なく打算 のみとなった。 このことが 『神は存在しない』 の 叫びとなり、 人間を無価 値にし人間殺数をさえ許すことになる。 人間が自分で自分を救うことが現 在の哲学する人に必要である。 精神分裂症に雁っていると見らるる現代人には霊と肉、 悟性と感性 心と身体との分裂を如何に克 服するかに欠如 している。 現代人の救済は芸術、 科学、 哲学を通 して 教育の新たにされねば文化病の治癒に望み得 ないであろう。 即ち芸術は今より教育的で含蓄豊 かで ,学には叉知識や研究の全体の意味に支えられた教 仕事場で教養を与えるようになることである。 科 育が必要である。 哲学にありては人格から人格へと譲渡される信念の伝承が必要であるo 精神科学 では人間的な教養の心掛けを与える。 宗教に人生究極 の意義を次の如く誘導すること で あ ろ う。 『己がすべてを捧げる者のみぞ救わるべくもあれ、 たとえ全世界を汝が物とすることが出来たとし ても、 それによって汝の魂を誓わば何の得るところがあろうぞ?』 である。 紘にこそ教育の役目が あるのだ。 教育に根源を為す生活をもとにして、 精神的世界の教育を包括す べきである。 換言すれ ば政治経済法律の現実面と学問、 芸術、 道徳、 宗教の理想面とを包括した精神 生活の全体を訓育せ ねばならぬ。 人間は生物学的な遺伝による存在と本質的に伝統によりて生成したも のであるとヤスパースは言 う。 人間の教育と は教養が彼の第二の天性として与えられる迄に入り込ませる。 人間が自分自身た ることが決定的になれば現実とひとつのものになる世界はいよいよ明かになる。 そして教育は厳格 な真率さであり生活、 労働、 行動の基礎となる教養 である。 即ち 『人間になること』 に奉仕するこ とが教育の道である。 然らば教育の頒廃は人間の頒廃でもあろう。 理念の統一がない。 教育学的努力は全体から支持されていないと無力化する処に現 代の不安があ . るといえよう。 歴史的な伝統を 放棄せず技術的能力 の修行や、 実物的知識の獲得や、 現在の世界に ついての定位についても教育は施されねばならない。 職業上の所属や 党派という共同体を起えて、 こ於いて共同体となる所に社会道徳が生れる。 人格の養成をすることに信 人間と人間とのつながりマ 頼して彼等の意志の目的を達せしめることである。 そして基本的に連続して 『自己である こと』 を 学習することが教育の真髄である。 そして教育と国家との関連とは 『教育はまず人間の態度に無媒 介的にあらわれて、 それから現存 保護と国家との現実に則する精神的作品をわ がものにすることに よ っ て自 分 を奮 起 さ せ る こ と で あ る』 と ヤ ス パ ー ス は 述 べて い る。. 西欧の教養 は古代を自分のものとす るにあった。 『人間であること』 の偉大な奮起は古代との新 たな接触や和解を通 して起るのである。 古代を忘れたところに野蛮が出ると云うのは、 目からの根 底を失うからだ。 然らば東洋の樟思想は教養の偉大なものであろう。 1 7 87年、 既に人権宣言があった。 『実に良心の自由、 信仰の自由、 思想の自由への要求そのもの から生れた』 このことは近代世界観の生れる前徴である。 人間の本質が動物であるから『自己保存』 切の敵意』 が文明の衣服の下から 『性的欲求』『権力意志』『生存競争』『自己への対抗する者への一・ 自律 個人の自由 だから民族自決権の理論は 赤裸々に出るのである。 、 平等な どの思想となった。 、 デモクラシーにも 倫理的性格を持ちこみ、 何れも人々の良心の命令によって文明の病気を治療す べ きである。 しかるに皆歪められて癌疾となってしまっている。 だから良心ある教育、 ,倫理的基礎を -14一.
(16) . 道徳頭廃の原因を追求して之が伝統を古典に探る 持った政治教育が必要になるのだ。 人間生活の美しきものを探るとき、 宗教教育に展開を求めることになる。 過去の罪を償わんが為 めに、 現実の世界を逸脱して宗教界に身を投じた人々は沢山ある。 最も深刻に罪悪を犯 し、 戦場に 数千人の人々を殺 したような武将であればこそ、 美しき生活にあこがれるのだ。 彼の熊谷次郎直実 が弓矢を捨て、 家族を捨てて僧籍に身を投じたのも、 この為めである。 然し現実の世界を離れての 美しきものであっても、 円満な生活であり得ない。 それであるから石川丈山の如きは僧籍に入り得 ぬのであった。 丈山は長い間禅僧と交り宗教を探り尽したが、 人間生活の完成も得ぬことを知っ て、 蘭学や諸学に光を求めたことがわかる。 宗教は人生を美化し精神の疲れを治癒する薬ではある が、 日常食ではあり得ないとも云えよう。 減に道徳が生れる。 かくの如く宗教は人間生活の追求にありて道徳の行く道と同一のものではあり得ないことはわか る。 然し道徳教育の上に大きい貢献をなすものが宗教であることは云うまでもない。 彼のアメリカ 新教育は児童が日曜日にはキリスト教会に通い宗教的訓育を受けつ>あ るので成功するのだ。 第五章 我国現代道徳の重属性と混乱 民族の道徳性はその民族の良識を示すものであり、 良識は、 また、 社会に於ける心の豊かな国民生 活によりて最もよく窺われる。 政界も財界も学者も宗教家も国民の指導者たるものは 勿論民族大 、 衆の思想も趣味も女芸も亦目か ら正しい常識を持つものでなければならぬと思う。 現在わが国政界 の騒擾や財界の危期、労資の闘争 や世間の情死、自殺、殺人、強盗等々声に耳をおおい目をふさぎたい ほ ど不祥事件の続出を見るのは悲しい限りである。 この社会混乱は日本人として初めて悲痛な体験 をした敗戦の結果であるが、 これを生み出した原因には深いものがあると思う。 空前の敗戦の為め に、 空前の言論の自由を得たのは意外なほどだと正宗白鳥は云う。 天皇制に対するきたんなき批判 があちらからもこちらからも出た から、 戦争の力は日本人の思想も趣味も非常に大 きく変えたと思 っていたと白鳥氏は云う。 然るに戦争中あまり盛んでもなかった歌舞伎も、 終戦後お そろしく人々 が熱狂し 『忠臣蔵』 には惑溺をしている。 見る人々に日本特有の古き芸術を鑑賞することによろこ びを感じさせる。 人々は敗戦後非常に変った平和に対する気持をもっていると思ったのに、 一面で は依然として不思議な現象を見るのである。 忠臣蔵のようなものを愛玩し、 男は腹を切り 女は身 、 を売ることを人生最高の理想としている舞台に、 大衆は絶好の詩を感じるの だ。 判官の腹切り 勘 、 平の腹切り、 本蔵の腹切りそれぞれの腹切り振 りに戦後尚お悦楽を感ずるのだ。 今日でも芝田村町 に浅野匠守終鷺の地の石碑が立つている。 大衆の読物にも 『太閣記』 や 『宮本武蔵』 や 『侠客』 や 『やくざ者』 、 流行歌にも、 浪曲にも戦前や戦争中と同様にもてはやされるのがある。 純文学でも単 に古典研究のみでなく、 昔情調の古い態度や、 古い詞句が喜ばれて いる。 以上は正宗白鳥が 『文壇 五 十 年』 に 述 べ て い る こ と で あ る。. 日本歴史に空前の敗戦を経験し、 天皇制に反対の思想もでた。 しかるに拘わず旧態依然たるもの が大衆の芸術、 女学、 鑑賞物にあるのは不思議である。 昔ながらの封建時代のノ V情話や武勇伝が純 文学の中にも潜んでいて、 それが読者を喜ば している。 敗戦後は今後どんな事があっても、 戦争に 加わらないと、 覚悟 した人間精神も、 それを貫くことが出来ないで、 多数の者の中には戦争につい て郷愁をさえ感じているらしくも見える、 と白鳥氏は追記している。 この矛盾は近代の唯物論が生活に しみ込む代りに、 肉体主義傾向からであろう。 『命あっての物 種』 だ 『死んで花見がなるものか』 と云う傾向である。 従来の精神主義のみに傾いて健康な肉体主 義を忘れていた反動に入っている。 特にアメリカ的な社会心理学では、 肉体について強い関心を示 す。 然も米国人の自然を征服する体力は、開拓者精神の基盤であるとして大切に育てられた 戦後そ 。 -15-.
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