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1870年代前半の新渡戸稲造― 「英語教育」の意義と「使命」の発見 ―

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(1)

はじめに

 英文著作『武士道』

Bushido, the Soul of Japan

(1900) の 著 者 と し て 知 ら れ る 新 渡 戸 稲 造

(1862

-

1933)は,明治日本を代表する英文家と して,内村鑑三や岡倉天心と並び称される存在 である。幼少期を過ごした盛岡(旧南部藩)に おいて,はじめて「英語」に接触した新渡戸は,

その印象について,「未知の世界の生活や活動 が眼前に広々と開けてきた」[

Nitobe

1972

:

515]

と述べている。

 1867年に元服した新渡戸は,武家の子弟の 例にもれず,剣術,槍,柔術の教練を経験し た[オーシロ

1992

:

11

-

12]。実際,新渡戸家の 邸内には柔道場が設営されており,武道はいか なる場合においても実践的でなければならない とする先祖伝来の立場が尊重され,「当世具足」

という,いわば鎧を着用した状態での稽古が行 われていたという[石井

1934

:

42]。

 ところが,1872年になると,佩刀禁止令の発 令により,新渡戸は帯刀を禁じられた。刀に道 徳的高潔を保証する象徴としての意義を見出し ていた新渡戸は[

Nitobe

1972

:

508],廃刀の際 に自覚した喪失感について,以下のように述べ

ている。「臆病な行為と卑劣とは,刀に対する 凌辱であった。英雄的行為は急速にその芳香を 喪失した。私は刀にかけて誓約することを学ん でいた。商人は,虚言を吐いても,悲鳴をあげ ても,逃避しても,恥辱ではないかもしれな い。刀を脇に差していないからである。けれど も,サムライは妄りに帯刀していたわけではな い。高貴なる者の義務を表象する刀を放棄した 時,しばらくの間,高座から転落したような心 地であった。いかなることであっても,良心の 呵責なしに実行できるような気がした。道徳観 念が麻痺した状態に陥る危険であった」[

Nitobe

1972

:

509]。以上の発言は,いわゆる下級武士 出身者の一般的な現実認識とは著しい対照をみ せているという意味で,注目に値する。

 たとえば,合理的思考に基づき,封建制度 がもたらした慣習や精神を蔑視した福沢諭吉 は,帯刀の無意味を悟り,刀をペンに持ち替え ていた。ところが,福沢とは異なり,実学に偏 重する功利主義的傾向には決して流されること がなかった新渡戸においては,武士的慣習の衰 退がもたらした負の側面,すなわち,没道徳へ の危機感が明瞭に反映されている様子がみられ る(1)。しかし,同時に「人間が因習の足枷から

*早稲田大学大学院社会科学研究科 2010年博士後期課程満期退学(研究生)(指導教員 池田雅之)

論 文

1870年代前半の新渡戸稲造

― 「英語教育」の意義と「使命」の発見 ―

小 林 竜 一

(2)

解放され,未経験の行為に着手するとき,どれ 程進歩するのか見当がつかない」[

Nitobe

1972

:

505]とも考えていた新渡戸は,故郷の盛岡で はなく,東京で西洋文明に接触することを強く 希望した。

 本稿では,新渡戸が幼少期を回想した英文著 作『幼き日の思い出』

Reminiscences of Childhood

(1934)に基づいて考察を展開し,西洋との接 触によってもたらされた新渡戸の精神構造を分 析する。すなわち,新渡戸の言説に即したアプ ローチを通じて新渡戸が受けた「英語教育」に 再検討を加え,若き日の新渡戸の実像を捉える ことが,本研究の主眼である。

1 盛岡から東京へ

 1870年に学制が発布されると,東京では明治 政府の主導のもと,数校の小学校が開設された が,盛岡のような地方の教育機関においては,

「漢学」や「武道」といった伝統的な訓練が継 続したとされる[

Nitobe

1972

:

507](2)。しかし,

すくなくとも「英語」に接触する機会があった 新渡戸は,「英語」を肯定的に捉えていた。「国 語よりも英語にすっかり魅了されてしまった。

国語の勉強では,孔子の『論語』や孟子など,

哲人が若者の心に伝えようとしたことについて は些かも理解することなく,ただ大声で朗読し た」[

Nitobe

1972

:

515]。この発言から,東洋古 典の素読という旧弊に不満を抱きつつあった新 渡戸の心境が読みとれる。

 1871年,新渡戸は叔父の太田時敏が住む東京 へと移ったことを契機として,英学修業に邁進 するのであるが,新渡戸が上京に至る経緯に関 しては,新渡戸の内発性を重視した考察が必要 とされるように思われる。というのも,従来の

研究では,新渡戸が因習的教育に不満を抱いた ことが原因で上京に至ったという側面が一様に 見落とされていたように思われるからである。

その結果,これまでの研究者の関心が,新渡戸 をとりまく外発的要因に傾斜した結果,新渡戸 の上京の動機やその背景に関する諸説について は混乱がみられる現状となっている。

 たとえば,1990年代に出版された研究書のな かで,ジョージ・オーシロは次のように述べて いる。「母,せきはめまぐるしく変化する当時 の情勢を考え息子たちの将来のためにどのよう な教育がよいかと模索していた。出世のために は,東京で学ぶのが一番であると判断したせき は,東京にいる亡き夫の末弟,太田時敏のも とに稲造と道郎を送ることにした」[オーシロ

1992

:

12]。この記述の問題は,新渡戸をはじめ として,母親の周辺に位置する人間の存在が完 全に捨象されていることにある。ゆえに,オー シロの分析は,あたかも新渡戸の上京が,母親 の一存で決定された行動であるかのような印象 を読者に与えている。

 また,1980年代には,佐藤全弘が79歳で歿し た祖父の傳が残した「遺旨」にしたがって新渡 戸の上京が実現した,という見方を提示した

[佐藤

1980

:

16]。おそらく,新渡戸の旧友のひ とりである宮部金吾の「小伝」を踏襲した見解 であると思われるが,オーシロの説とは逆に,

母親である勢喜の存在が完全に捨象されている という問題点が指摘される。したがって,両者 の視点では,上京に至る過程の正確な把握には 到達し得ないと判断せざるを得ない。

 さらに,1960年代に刊行された著作のなかで,

松隈俊子は,女手ひとつで新渡戸を適切に養育 することの困難を悟った新渡戸の母が,祖父傳

(3)

との相談の結果,新渡戸を上京させた,として いる[松隈

1969

:

12]。実際,祖父は息子の太 田時敏に対して「東京で教育することは至極結 構,彼奴(新渡戸稲造)は正しく導けば,国家 に役立つ著名な人士になるであろうが,万一間 違うとおそろしい悪党になりかねぬ」[

Nitobe

1972

:

518]と書き送っていた。たしかに,祖 父と母親の存在に配慮されているという点で,

オーシロ説と佐藤説の折衷ともいうべき松隈の 周到な記述には妥当性があるようにみえるかも しれない。

 ただし,何れの見解においても,外発的要因 が強調されてはいるが,新渡戸の内面が全くと いっていいほど考察の対象とされてはいないと いう点において,周到な松隈の見解でさえ,新 渡戸の実状から乖離している可能性があるとい えるし,読者の誤解を生ぜしめる余地もある。

 しかし,新渡戸の発言が考察の対象とされる 場合には,注目すべき事実関係が浮上する。事 実,英語との接触を契機として上京を切望した 経緯について,新渡戸は以下のように述べてい る。「覚醒した好奇心は,私を学習に駆り立て,

私は東京を見たいという熱望に憑衣されてし まった。東京には国内から名士が集まり,そこ では偉大なる事業が進捗中であると家を訪れる 人士が母に話をしていた。私は気の毒な母に嘆 願し,東京へ行かせてくれ,東京に行きさえす れば,きっと偉い人間になれるのだと,そう幾 度も責め立てた」[

Nitobe

1972

:

515]。すなわち,

この新渡戸の言葉こそ,新渡戸の内発性の端的 な反映にほかならない。以上の発言には,新渡 戸の強固な主体性がはっきりと認められる。

 その一方で,別の見方もある。たとえば蝦名 堅造は,新渡戸の叔父である太田時敏が認めた

書簡の存在に注目し,時敏による強い勧誘が働 いたことに注目する[蝦名

1986

:

20]。たしか に,新渡戸の上京の正確な経緯の把握を期する ためには,叔父の意向に留意する蝦名の視点も 重視される必要があるといえる。実際,新渡戸 を養子として迎えるべく,新渡戸の上京を積極 的に慫慂したのは,叔父の時敏であった。

 時敏の関与について,内川永一朗は次のよう に述べている。「明治政府が旧来の藩政を廃止 して全国に郡県制度をしき,中央集権体制への 移行に踏み切ったのは明治四(一八七一)年で ある。体制変革の流れを直視して太田時敏は,

盛岡の自宅にいた傳のもとへ手紙を送った。明 治四(一八七一)年七月である。「時勢が変わっ た。道郎や稲造を東京に出して修業させてはど うか」という趣旨の文面だった」[内川

2002

:

5]。さらに,以上のような時敏の動向ついて,

新渡戸が以下のように説明する。「新時代の者 を教育することによってのみ,一族と藩主が勤 王派に降伏した汚名を払底することができると の決意を強固にし,私を養子にすることに同意 するように私の母に要求した。これは私にとっ ては時機を得た提案であった。というのも,前 述したように,私は東京に行かせてくれと母を 絶え間なく責め立てていたからである」[

Nitobe

1972

:

518]。以上の新渡戸の発言に即していえ ば,新渡戸の上京は,母の一存によるものでも なければ,祖父の遺旨のみによって決定された わけでもないといえるであろう。逆にいえば,

養父の意向や盛岡の学習環境に不満を抱いた新 渡戸の主体性といった要因が,新渡戸の上京に は大きく作用したといえそうである。

(4)

2 太田時敏 ― 叔父から養父へ

 1871年8月,次兄の道郎,および,後に盛岡 市長,盛岡電灯会社,そして岩手日報の社長を 歴任し,盛岡の名士として活躍した清岡等とい う友人を伴い[石上

1968

:

33],新渡戸は当時 東京の京橋で洋服店を営んでいた叔父,太田時 敏のもとに上京した。後年,新渡戸が『武士 道』を捧げることになる時敏は,封建制度下に おいては相続人が不在の場合,封土が没収され ることを理由として,家督を相続するという名 目で,新渡戸家よりも多少家格の高い太田家の 養子となっていた[石上

1968

:

31]。

 時敏は芝区明舟町という南部藩の下屋敷に居 を構えていた。とりわけ佐藤昌蔵とは,同郷の 誼で,昵懇の間柄であったという。なお,佐藤 の息子が新渡戸の生涯に強い影響を与えること になる昌介であるという事実関係についても,

ここで強調しておきたいところである。という のも,叔父の交友関係が,後年の新渡戸の運命 に決定的な影響を及ぼすことになるからであ る。叔父(以降

養父)が新渡戸を養子として 迎え入れたことを契機として,新渡戸は太田稲 造へと改姓した[内川

2002

:

5]

 明治維新の頃,新渡戸家が属していた佐幕派 が勤王派に敗れたことで,時敏はかねてよりこ の敗北に心を痛め,時流に取り残されるという 危機感を持っていた。勤王派は寛大であった が,新渡戸の故郷で戦後処理にあたっていた将 軍は,家老の楢山佐渡という人物に切腹を命 じ,その介添人として,時敏が選ばれたが,苦 楽を共にした友人を馘首することが忍びないと いう理由で藩を脱走して以来,時敏は東京で隠 棲していた[

Nitobe

1972

:

516

-

518]。

 やがて,政府の政権運営が安定するにつれ,

相続した土地家屋を売却して得た現金を元手に 商売に着手した時敏は,国許で使っていた家来 を呼び,番頭や手代として雇用した。ところが,

贅沢な暮しを好んだ番頭は,客に対して甘言の ひとつも捻り出せないという有様であったにも かかわらず,妾を囲うに至り,そうした「士族 の商法」による放漫経営は,災へと転じること になった。結局,東京の一等地で3年間ほど店 を維持した時敏は,数万円の借金を抱えて廃 業した。その際,時敏は失敗の責任を全て背負 い,妾を囲った番頭の独立生計の道を整えたう えで,所有していた不動産を全て売却し,長屋 に移住したという[石井

1934

:

27]。以上のよ うに,新渡戸が上京した頃の時敏は逆境に直面 していたという状況についても注意しておきた い(3)

 切腹して借金返済の道を断つという選択をし なかった時敏について,新渡戸は以下のように 述べている。「當時僕は子供ながらに記憶して ゐる。一月前に住むでゐた家をくらべると實に 云い樣もなき違ひであつた。前にゐた家は門も 两側に長屋があり庭には泉水があり,大きな大 名の下屋敷然としてゐた。然るに今度の家は,

四疊六疊二疊の小屋同然の家で,この家に入る 木戸幅三尺の粗末なもので噂に聞ゐている所謂 裏長屋であつた」[石井

1934

:

27

-

28]。このよ うに,幼かった新渡戸は,没落した時敏の状態 を鋭敏に捉えていた。その後官吏となった時敏 は,報酬の大部分を借金の返済に充当しなけれ ばならなかったという[石井

1934

:

28]。養父 の生活条件が激変したことは,養父の新渡戸に 対する態度にも,少なからぬ影響を与えること になったと考えられる。

(5)

3 東京での英語体験

 1872年,新渡戸が最初に入学した築地外人英 学校は,営利目的で設立された私立学校であっ た。養父がキリスト教宣教師が伝道目的で設立 した学校を嫌悪していたため,この学校が選ば れたとされるように[オーシロ

1992

:

13],養 父は西洋の倫理道徳を信頼していなかったよう である[

Nitobe

1972

:

524]。

 築地外人英学校について,新渡戸は以下のよ うに書いている。「ここは,さる進取的な中国 人と日本人が投機的な事業として始めた学校で ある。この種の学校は何校か建てられたが,教 授陣は,海軍からの脱走兵,ヨーロッパからの 密航者,支那の開港地から渡航してきた無一文 のゴロツキ,はては,輸入商店を解雇された店 員であることも稀ではなかった。こうした手合 が主張した教える権利なるものとは,白人であ ることにほかならない。連中のなかに,おそら く一人たりとも道教信者やキリスト教信者は存 在しなかったであろう」[

Nitobe

1972

:

524]。新 渡戸はこのように述べ,過渡期の学校の混乱を 批判的に伝えている。とくに「教える権利なる ものとは,白人であることにほかならない」と いう発言からは,新渡戸が盲目的な西洋崇拝を 唾棄していたことが読みとれる。

 他方,敗者意識を抱え,生活条件の激変に危 機感を強めつつ,没落士族となった時敏は「家 名を辱めぬため,代々仕えた殿様を辱めぬた め,旧敵官軍の人間を凌ぐ偉い人物になる義務 がある」[

Nitobe

1972

:

524]と,そう新渡戸を 強く諭していた。

 しかし,皮肉なことに,幼い新渡戸は養父の 態度を「完全な俗物にするための訓練に心を傾

けている」[

Nitobe

1972

:

524]と解釈した。養 父による精神的抑圧を感じつつ,毎日2時間を 英語学習に費やした新渡戸は,次第に家庭や学 校で道徳的感化を得られぬことに対して強い不 満を抱くようになる。ついに国語学習の目的を 喪失し,無断欠席が常態化した新渡戸は,この 欠席を利用して,家庭と学校では得られること のない道徳的教訓への接触を試みたのである

Nitobe

1972

:

523]。

 国語の授業中,新渡戸は常設小屋で催される 講談に足繁く通っていた。こうした行動は,幼 年時代の新渡戸の素行が必ずしも品行方正では なかったという一面を伝えるものである。とこ ろが,この点に関しても,従来の研究において は黙殺されている。しかし,この体験は,『武 士道』の執筆や啓蒙書の刊行にみられるような 後年の新渡戸の業績を考える時,決して軽視さ れてはならないのではないだろうか。というの も,常設小屋に通う正当性について,新渡戸 が以下のように釈明しているからである。「私 は常連になってしまった。叔父であれば,この ような四方丸見えの外聞もない場所には決して 来ないだろう。そこで聴く話は,いつも偉人の 物語であるとか,気高い行為の物語であると か,悲哀の物語などである。(中略)私は話を 終わりまで聞き,高潔な行為や情け深い犠牲の 物語に心を高められた思いで常設小屋を出たも のだった。私は国語の本を読んでも,些かの 感動もおぼえたことはない」[

Nitobe

1972

:

525

-

526]。以上の発言は,「道徳的教訓」を求めて常 設小屋に通った経験を通して,新渡戸がすでに 後年の著作で使用する情報を吸収したこと,な らびに,啓蒙書の読者対象の実状を把握してい たという見方を成立させる根拠となりうるとい

(6)

う点で,注目に値する。すなわち,上京1年目 の新渡戸には,早くも英文著作『武士道』の執 筆に直結する特質をすでに内面化しつつあった と考えられる

 以上のように,無断欠席を善用し,道徳的教 訓や神道の教義に接触したことで,築地外人英 学校時代の新渡戸は精神的には成熟したとい えるであろう。ところが,新渡戸の眼に「唯 物論者」として映っていた養父は[

Nitobe

1972

:

529],新渡戸の内面の変化については些かも頓 着することなく,無断欠席という可視的な現象 のみを捉えて,新渡戸の勉学の進捗状況を否 定的に判断した[

Nitobe

1972

:

530]。その結果,

1873年,養父は新渡戸を南部藩主が経営する共 慣義塾へと転校させた。入学と同時に寄宿舎に 預けられた新渡戸は,週に1度,養父のもとに 帰宅することを許可されたという[松隈

1969

:

15]。

 文京区本郷の湯島天神下にあった共慣義塾 は,1870年に旧八戸藩主南部利恭によって設立 された英語学校であり[蝦名

1986

:

20],多く の南部藩の子弟が通っていた。しかも,私塾全 盛時代の明治初期において,共慣義塾は,福澤 諭吉の慶応義塾,および中村正直の同人社とと もに,「東京の三塾」として並び称される私塾 の名門であった[内川

2002

:

123

-

124]。

 盛岡藩の知事を辞職し,郷里の青年を育成 することを意図して共慣義塾を設立した旧藩 主の南部利恭は,旧藩士の人望を集めた佐藤 昌蔵に依頼して,旧藩の子弟に東京遊学を勧誘 した[内川

2002

:

5

-

6]。その設立の背景につい て,内川は以下のように推察する。「南部利恭 の胸中にあったのは,明治維新では薩長に対抗 して,幕府側につき,賊軍の汚名を受けたこと

の無念を晴らすために旧藩士の子弟の教育に力 を注ぎ将来に夢を託そうということであったろ う」[内川

2002

:

6]。むろん,佐藤の勧めにし たがって新渡戸を入学させた養父も,南部利恭 が抱いた情念を共有していたと考えられる。時 敏と佐藤昌蔵との間には家族を交えた交流が あったことについては前述したとおりである が,新渡戸の入学を契機として,新渡戸と佐藤 昌介は同じ下宿で共同生活を営むことになった

[オーシロ

1992

:

28]。

 共慣義塾で使用された教科書は,すべて英語 で書かれており,授業は日本人教師による訳読 とアメリカ人女性による発音とが並行して行 われた。当初,下級クラスに入れられた新渡 戸は,クワッケンブス(

George P. Quackenbos

の文法書を学んだ(4)。さらに,共慣義塾には クワッケンブスの『米国史』を教科書として 使用する最上級のクラスが設置されたほか(5), ピ ー タ ー・ パ ー レ ー(

Peter Parley

) の『万 国 史』

Universal History

(1872)が使用されたクラ ス,ならびに,ミッチェル(

Samuel Augustus

Mitchell

)の地理を学ぶクラスも併設されてい

た[

Nitobe

1972

:

531](6)

 しかし,寄宿舎生活を強いられたことによ り,精神的な拠りどころとなっていた神社や 講談の常設小屋から,新渡戸の足は必然的に 遠のいた。その結果,勉強への専念を余儀な くされた新渡戸は,ただちに頭角をあらわし,

選抜クラスへと進級した。そのクラスでは,

ウェーランド(

Francis Wayland

)の『道徳科学』

Elements of Moral Science

(1835)の縮約版が教科 書として使用された[

Nitobe

1972

:

533]。

 ただし,当時の新渡戸は,依然として道徳上 の問題に苛まれていた。アメリカが一度たりと

(7)

も他国を侵略したこともなければ,他人種に対 して不当に残虐な扱いをしたこともないとする ウェイランドの文章に触発されたという指摘も あるが[松隈

1969

:

20],本稿では,「内なる警 告の声」[

Nitobe

1972

:

533]に傾聴していない ことを自覚していたという新渡戸の発言を重視 したい。要するに,新渡戸が直面した問題は,

多分に内的なものであったのであり,すでに自 己の心中において信仰の萌芽が存在しつつあっ た新渡戸は,無意識のうちに信仰の対象を求め ていのであろう。

 ある日,1等賞をとり,賞品としてアーヴィ

ング(

Washington Irving

)の『ジョージ・ワシ

ン ト ン 伝 』

The Life of George Washington

(1855)

と文房具を与えられた新渡戸は,意気揚々と養 父に報告した。ところが,新渡戸の報告を受け た養父は,「偉大なる賞を得んとする者は,取 るに足らぬことで満悦してはならない。お前は 大いなる報償を目的としなければならない。社 会に貢献する高官を目的とせよ。名誉と尊敬の 殿堂を目的とせよ。偉大なる業績を目的とせ よ。これらがために,克己勉励せよ。つまら ぬ褒美で喜ぶようでは,嘆かわしい」[

Nitobe

1972

:

534]と述べ,新渡戸を一蹴した。厳しい 言葉を浴びせられた新渡戸は,慙愧に堪えぬ思 いであったが,養父の峻厳なる言葉が慈愛(

a

kindly tone

)に支えられていると感じ取ってい

た[

Nitobe

1972

:

534]。こうしたところにも,

新渡戸の鋭敏な感受性が反映されている。

 新渡戸は養父を「唯物論者」であるとみなし ていたのであるが,肯定的な見方をすれば,希 望的観測に捉われることなく,眼前の事実に基 づく的確な判断力を有していたという面で,養 父はプラグマティックな人物であったといえる

であろう。かつて「無断欠席」をした新渡戸に 対し,より厳しい環境を整えたこのプラグマ ティストは,新渡戸の英語学習の進捗状況に 鑑み,さらに新渡戸に多くを要求し,当代一 流の学校に入学させることを決断した[

Nitobe:

1972

:

534]。

 ところで,築地英学校と比較すると,新渡戸 の成長に大いに披益した共慣義塾であったが,

南部家の財政事情により,1876年には経営権が 増上寺の元住職であった神原精二という人物に 譲渡され,そのわずか10年後の1886年9月,功 利主義的実学思想を提唱した慶応義塾の興隆を 尻目に廃校となった[内川

2002

:

123]。「東京 の三塾」を担う一翼にしては,あまりに呆気な い幕切れであったといえる。逆にいえば,この 早すぎる閉校から判断すると,新渡戸を転校さ せた養父の決断が適確であったということであ るかもしれない。

 1875年,12歳となった新渡戸は,東京外国語 学校の入学許可年齢に到達した[

Nitobe

1972

:

534]。新渡戸はかつての築地外人英学校や共慣 義塾への入学時と同様,養父の意向にしたがっ て,官立の東京外国語学校に入学することに なった。

 東京外国語学校は,1869年に設置された開成 所の語学科,および,1871年に開設された外務 省が管轄した語学所を合併し,1873年に開校さ れた。後に英語科は独立して東京英語学校へと 改称され,やがて帝国大学予備門から第一高等 学校へと発展する。キリスト教が解禁されたこ の年には,大阪と宮城に師範学校が設立され,

翌1874年には,女子師範学校も設置されるな ど,日本の教育体制は目覚ましい進展を遂げて いた[松隈

1968

:

21]。

(8)

 クラスは「通弁」志望者を対象とする上等,

および,専門諸科への入学希望者を中心とする 下等とに大別されており,修業年限は2年と規 定されていた[鈴木

1986

:

65]。学費は無料同 然で,地位,階級,および貧富の差が問われる こともなく,入学の機会は全国民に開放されて いた[

Nitobe

1972

:

535]。

 同校には新渡戸をはじめ,加藤高明,末松謙 澄,高田早苗,佐藤昌介,渡瀬寅次郎,大島正 健,田中館愛橘,石川千代松,宮部金吾,穂積 八束,市島謙吉,天野為之,山県悌三郎,内村 鑑三などが在籍した[内村

b

1984

:

408]。教師 は全員がアメリカ人やイギリス人を中心とする 外国人で構成されており,日本で最高水準の授 業が展開された。

4 「英語教育」の意義 ― M・M・ス コット

 1877年,東京英語学校は東京大学予備門と改 称され,第一級であった16歳の新渡戸は,17歳 の内村鑑三,そして18歳の宮部金吾らと同級と なったが,ここで新渡戸は,終生忘れられぬ恩 師に邂逅した。その人物こそ,M・M・スコッ

ト(

Marion M. Scott

)である。スコットについ

て,新渡戸は次のように述べている。「スコッ ト先生による熟練した手ほどきのおかげで,私 は自分の勉強に興味を抱きはじめた。先生のよ うに私の向学心を奮い立たせる教師に師事した ことは,後にも先にもない。おそらく,私と同 様,数多くの同窓生が,このケンタッキー出身 の老錬なる教育者に対して同じ感慨を抱いてい たであろう。この男は,教育者として最高で あった。すなわち,生徒各自の若き魂に内在す ることを抽き出すのである。彼には計算が正確

でないとか,代数の公式を正確に把握していな かったということがよくあったが,たとえ間違 えようとも,また,たとえ解らぬことがあろう とも,決して恥じているようにはみえなかっ た。彼は一瞬とて学識のある素振りをしたこと がない。彼には学識よりも偉大なる何かがあっ た。すなわち,叡知である」[

Nitobe

1972

:

540

-

541]。このように,新渡戸は学生の内発性を巧 みに誘導するスコットに関して,その英語教育 者としての手腕や教師としての態度を高く評価 している。

 なかでも,スコットが最も得意とした分野 は,「英作文」であった。いわゆる「発信型の 英語力」の養成においてすぐれた手腕を発揮し たスコットについても新渡戸は言及している。

「英作文を教えるテクニックにかけて,スコッ トには驚嘆するほかなかった。我々の思想が具 体化され,明確になったのは,文章を書くこと によってである」[

Nitobe

1972

:

541]。

 さらに,新渡戸を「驚嘆」させ,その端倪す べからざる「発信型の英語力」の涵養に披益し たスコットの「英語教育」については,新渡戸 と机を並べて学び,新渡戸と同じく「英文著作」

によって「日本文化」を発信した内村も,口を 極めて礼賛している。内村は以下のように述べ ている。「私をして今日あらせてくれた過去の 教育的要素のなかで先づ指を屈したいのは大学 予備門時代において幸にも受け得たスコツト氏 の語学教育である。彼の授業を受ける以前に 私が費した年数はかなりに長かつた。また私を 教へてくれた英語教師は随分多かつた。しかし 其頃私のみならず,私時代の学生大多数にとつ て,外国語の課業は最も煩はしい,否最も嫌な 学課の一であつた。しかるにスコツト氏のメソ

(9)

ツドは私等をして英語の勉強に多大の興味を覚 えさせるに至つた。……此人の英語教授を大学 予備門に於てうけた時,私等は全く一の新天地 に導き入れられたやうに感じた。その以前に行 はれた英語教育をかためて居たのは単語暗記主 義と文法尊重主義とであつた。然るに此人によ つて,私等が教へられたのは全然その反対であ つた。といふのは,単語一つ一つの意義を記憶 させられるよりも,寧ろ若干数の言葉が相集ま つてなして居る集団の内容を理解するやうに導 かれたのであつた。此等の集団を名附けて文法 学者はフレーズとかクローズとか云うであらう が,其名称は兎に角として,私等は当時此等を もつと広義に解してゐた。……スコツト氏のお 陰で,私等の注意は単語の煩はしさより解放さ れて,言葉の集団が有する其内容の意味に初め て導き入れられた。次に彼の工夫として思ひ出 されるのは文法上の術語とか規則とかに拘泥し ないで,毎週一回かなりに多くの英文を作らせ た事,またかやうにして英語を実際上に運用し て以て我々自身の思想感情を発表させたことで あつた。かやうな手引によつて,形式文法第一 主義より一転して,私等のひき入れられたのは 作文尊重主義であつた。その以前に英文法の講 義を私等のために聞かせてくれた教師は幾人で あつたかもはや記憶して居ないが,どの先生も どの先生も文法のアナリシスに囚へられて,八 品詞中動詞の中程に来る頃には既に時間がなく なつて,大抵其講義は打切られてしまつた。随 つて肝心のシンセシス(総合的の組立方)など 全く教へられずに学期や学年の終りとなるのが 常であつた。しかるにあの七面倒な

parsing

どで私等青年を困らせずに,スコツト氏はいき なり作文を私等に課して,英語其物を実際につ

かはせてくれた」[内村

a

1982

:

550

-

552]。

 以上の内村の発言は,スコットによる「英語 教育」の方針を余すことなく伝えている。つま り,たんに闇雲な「暗記」を排するばかりでな く,「論理的思考力」への依拠を強調すること もなければ,瑣末な「文法事項」に拘泥するこ ともないスコットの「英語教育」の主眼は,「多 くの英文の作成」と「思想感情の発表」を意図 した「作文尊重主義」にあったといえるであろ う。すなわち,スコットによる「英語教育」は

「思想行為」に直結していたのであり,スコッ トは「思想感情」と「作文」との結節点として の役割を演じつつ,「知識」という「断片」で はなく,「思想表現の媒介」としての「英語」

を伝達したのである。そうした意味において,

スコットの「英語教育」は,新渡戸や内村をし て,「英語」の根底を支える文化の領域への接 続を可能にするものであったと考えられる(6)。  スコットが提唱した「英語教育」が「思想行 為」へと収斂するものであったとすれば,「英 文学」に対する新渡戸の基本的認識も自ずと理 解される。スコットから「英文学」の手ほど きを受けた新渡戸は,シェイクスピアの卓越,

ベーコンの叡知,ミルトンの気品,ゴールドス ミスの寛大を学び,ミルトンの『失楽園』を入 手するに至るが[

Nitobe

1972

:

541],「英文学」

から思想を吸収した新渡戸は注目すべき発言を する。「英文学が如何に遠大な芸術的効果をも たらすかを思う。東洋人が読むと,美しいもの というよりは,力あるものとして迫ってくる。

言語表現の美に関する限り,中国古典が卓越し た美で我々の心を打つが,英文学が伝える思想 は,内容を装飾する華麗な文体と比較すると,

遙かに重要なのである」[

Nitobe

1972

:

542]。こ

(10)

のように,文体や形式ではなく,「英文学」の

「力と思想」に積極的な意義を認めた新渡戸は,

修辞的要素ではなく,「英文学」の背後にある 精神を吸収しようとしたのである[

Nitobe

1972

:

542]。そして,「英文学」の根底を支える特質 こそ,新渡戸のいう「キリスト教の永続的感化 力」にほかならない。

 「英作文」と「英文学」を学んだことを契機 として「キリスト教」への渇望を強めた新渡戸 は,「日本人とキリスト教」という問題意識を 持つに至る。たとえば,スコットから英語で文 章を書くようにと奨励された新渡戸が「日本に キリスト教を伝える重要性」と題する2頁の作 文を書いたことは,新渡戸が抱えた問題意識の 一具現にほかならない。

 このテーマを選んだ直接的理由として指摘さ れるのは,以下の二点である。第一の要因は,

スコットがチャールズ・ダーウィン(

Charles

Darwin

)の提唱する「進化論」を支持する立

場から,『聖書』の記述の荒唐無稽を貶める発 言を繰り返していたという事実である[

Nitobe

1972

:

543]。このようなスコットの思想的傾向 に反撥した新渡戸は,この点に限り,スコット を反面教師とした。そして第二に,新渡戸は

「英文学」に接触するにつれ,無意識のうちに

「キリスト教」に感化されていた。この問題に 関して,新渡戸は以下のように述べている。「あ の特定の主題を私が選んだより妥当な理由は,

英語の読書から無自覚のうちに受けた影響のた めである。教科書は概ね英語であったが,私に とっては良かれ悪しかれ,唯一の知恵の木で あった。すでに述べたように,私は情緒的であ り,宗教的思想にみちた書物に述べられている 物語は,私の柔軟な心に強い印象を与えた。私

は深い憐憫に飢えていたのである。私の心は幾 度も無窮の孤独に覆われ,心の内外に非常な空 虚があった。救済の希望を幾許かでも与えてく れそうなものには,藁をも掴む心地であった。

おそらく,福音書の物語が私の心中に喚起した 不思議で神秘的な意識が,未だ一度も教会のな かに入ったこともなければ,宣教師と話をした こともなかったにもかかわらず,祖国の人間を 有能にし,彼らを世界の国々のなかで偉大なる 諸力とするには,キリスト教の導入が不可欠で あるという,初心な見解を書かせた主たる原因 であった」[

Nitobe

1972

:

543]。

 スコットは,新渡戸の「日本にキリスト教 を伝える重要性」を高く評価し,1876年にク ウェーカー教徒の聖地フィラデルフィアで開催 された「アメリカ独立百年記念博覧会」に郵送 した[オーシロ

1992

:

15]。翌年,新渡戸の「日 本にキリスト教を伝える重要性」は,穂積八束 らの文章とともに,『ニューヨーク・イブニン グ・ポスト』に掲載されることになった[松隈

1969

:

46

-

47]。その10年後の1886年には,新渡 戸がボルティモア友会会員として認められ,正 式にクエーカー教徒となったこともあわせて考 慮されるのであれば,新渡戸がすでに「日本人 とキリスト教」という問題意識を持っていたこ と自体,興味深い事実であるといえる。

5 「使命」の発見 ― 新渡戸家と明治 天皇

 かねてより養父の時敏から佐藤昌介を模範 とするようにと諭されていた新渡戸は[石井

1934

:

56],政治にかかわる職業が立身出世への 唯一の道であると考えていたこともあり,養父 や母親の意向にしたがって,社会的出世の可

(11)

能性がある政治の分野へと進む予定であった

Nitobe

1972

:

545]。福沢諭吉の演説を聴講する ために,慶応義塾の演説館にも足を運んでいた 新渡戸は,演説の内容は忘れてしまったとしな がらも,学問を専門家の占有から解放し,広く 国民に普及させることの意義を提唱した福沢 に対し,親近感を抱いていた[伊藤

1988

:

295

-

296]。このように,あらゆる機会を活用して,

新渡戸が将来の方向性を模索していた様子がみ られるが,なかでも以下の新渡戸の発言は,新 渡戸が精神的な転機に直面していたことを裏書 きするものである。「政治面で卓越することへ の憧憬は,外部観察による精神の働きの結果で あり,内的要請ではない。私が13歳から14歳に なる間に起こった2つの事件は,天職に関する 考え方の方向性を,政治への軽率な野心である とか,個人的栄光への憧憬から引き離して,完 全に変革してしまった」[

Nitobe

1972

:

546]。こ の発言にみられる新渡戸の将来の方向性を転換 させた「2つの事件」の概要は,以下のとお りである。

 ある日,文部省視学係の西村貞という人物が 生徒監として東京英語学校に着任した。大学で 化学を専攻していたという西村には,健康を害 したために止むを得ず中途で学問を断念せざる を得なかったという事情があった[松隈

1969

:

27]。この人物が,寄宿舎で新渡戸の精神に決 定的な影響を与える演説を行った。その時の様 子について,新渡戸は以下のように述べてい る。「彼はまだ若かった。彼の年長の同僚が官 僚的で人を寄せ付けない雰囲気であったのに対 して,彼は私達に対して殆ど対等に話しかけて きた。この同情的な若者は

N

(西村)であった。

その晩の会で,彼は非常に真剣な態度で,ここ

にいる若者は祖国が実際に如何なる点で皆の貢 献を要求しているのかを須く熟考すべきである と訴えた。これは大きなテーマであったが,こ の男が明確に指摘したことは,科学,すなわち,

化学,物理,天文等の自然科学の研究が日本で 最も欠落しているということ,および,西洋の 卓越はこの方面にあること,それに何より,こ の方面で日本が立ち遅れている限り,日本の法 律と政治を整備したとしても,日本は西洋に拮 抗することはできない,というものであった。

私は感動して,その夜は眠れなかった」[

Nitobe

1972

:

546

-

547]。

 当時,新渡戸と同室の酒井佐保という学生 は,西村の演説を聴講したことが契機となり,

法律を捨て,物理学へと転じたという。西村の 演説の影響力の端的な一例であるといえる[石 井

1934

:

55],立身出世を渇望する学生の多く が,理科志望を蔑視する風潮がみられたが,国 威発揚のために自然科学の分野における専門家 の育成を要請した西村の演説によって,新渡戸 家の伝統に忠実であるために政治面で卓越した いという新渡戸の当初の野心は,激しく動揺さ せられたのである。そこで新渡戸は,西村に対 して「科学をやるとしてどういう科学があるの ですか,どれが自分に適しているのですか」[佐 藤

1980

:

21]と質問したが,西村は新渡戸の問 いに対する具体的な回答までは準備していな かった[佐藤

1980

:

同上]。結局,新渡戸は方 向性が未定の状態に追い詰められてしまったわ けである。以上が新渡戸の当初の目的を挫いた 第1の事件の顚末である。

 さらに,1876年夏,東北,北海道地域の安定 のために,岩倉具視,木戸孝允,大隈重信を従 えた明治天皇が東北に巡幸した際,行在所とし

(12)

て祖父の傳邸が選定され,そこで明治天皇が一 夜を過ごしたという出来事が,第2の事件で ある。時の青森県令である塩谷良翰が明治天 皇に言上したことにより[内川

2002

:

8],明治 天皇への謁見を許された家族は,祖父傳,父十 次郎の疎水,開拓事業の功績を称えられ[佐 藤

1980

:

21

-

22],褒美として多くの下賜金と下 賜品に加えて,「良き事業を続けんことを望む」

Nitobe

1972

:

549]という言葉を賜った。その 時の様子について,新渡戸は次のように述べて いる。「私は東京にいた。あらゆる新聞が私達 の家に天皇が立ち寄られたことを報道したと き,私は自分の家族の歴史と,今後の自分の責 任の重大とに思いを馳せ,胸の高鳴りを覚え た。」[

Nitobe

1972

:

549]。とくに,「今後の自分 の責任の重大」という新渡戸の発言は,新渡戸 が祖父の傳を中心として継続されてきた開拓事 業を継承しなければならないという自己に課せ られた使命を自覚したことの瞬間であったと考 えられる。

 明治天皇の東北行幸を契機として,新渡戸家 の伝統を強く自覚した新渡戸は,先祖に対する 関心を強めていく。新渡戸は次のように述べて いる。「私は自分の先祖についてしきりに知り たいと思うようになった。養父は様々な古文書 や,11世紀まで遡る家系図を見せた。養父は,

私の三代前の先祖が,それぞれ如何なる政治的 原因で迫害され,流刑に処せられ,蟄居を命じ られたのかを詳細に語った。父が亡くなる頃,

祖父より遙かに大規模な開墾計画に着手してい たこと,ならびに,父が独立領地を設立してい るとの不当な嫌疑をかけられていたことを詳細 に明かした。そういう次第で,私は開拓者の仕 事が新渡戸家の伝統であると考えるようにな

り,私も新渡戸家のためにその伝統を背負う義 務がある,さらに重要なことに,天皇のために 微力なりともこの義務を果たすべきであると,

そう考えるようになった。私は政治家になる夢 を断念しよう。たとえ養父を悲しませても断念 しよう」[

Nitobe

1972

:

549

-

550]。この発言は,

新渡戸の精神において,新渡戸家の伝統への忠 誠と明治天皇への忠誠とが矛盾することなく両 立したことの一具現であるといえるであろう。

 しかし,すでに新渡戸の内面においては,さ らなる変化の兆候が芽生えていた。「英文学」

との接触を通じてキリスト教に親近感をもった 新渡戸は,かねてより入手を切望していた『英 訳聖書』を明治天皇からの金一封を元手に購入 した。すなわち,新渡戸には,「英文学」の感 化により,すでにキリスト教を受容する土壌が 整えられていたのである。

 以前はキリスト教を邪教視していたにもかか わらず,ある日,友人宅を訪問した新渡戸は,

立派な装丁が施された『聖書』に目をとめた。

友人が離席している頃合を見計らい,『聖書』

を手にした新渡戸は,偶然にもキリストの磔刑 の場面を目にしたために,キリスト教に対して 恐怖感を抱いたという。しかし,スコットから

「英文学」の薫陶を受けたことにより,新渡戸 のキリスト教観は次第に変化し,キリスト教は 必ずしも邪教ではないと認識するに至った[大 友

1985

:

44]。

 以上のような新渡戸の行動は,一見すると,

天皇に対する背信行為のようにもみえる。しか し,新渡戸は,キリスト教について次のように 考えていた。すなわち「入信したわけではな かったが,異国の宗教を生噛りしていたこと が,家名の誇りを毀損することであるとは思え

(13)

なかった。私は家の伝統というものを,単なる 祖先崇拝に比較して,多少なりとも高所から見 るようになっていた」[

Nitobe

1972

:

549]。以上 の新渡戸の発言には,普遍性の優越を前提とす る思考がみられるが,このことは,すでに新渡 戸の精神において,新渡戸家の伝統,ならびに,

明治天皇が体現する日本,そして,本来であれ ばそうした伝統的精神に反撥するはずのキリス ト教信仰が,相矛盾することなく両立し,新渡 戸のライフコースにおける行動規範となりうる 可能性があったことを示唆している。

結  論

 以上,本稿では新渡戸の手になる回顧録『幼 き日の思い出』に依拠しつつ,若き日の新渡戸 が経験した「英語教育」と「使命の発見」に関 して,新渡戸の内発性を重視して考察を展開し た。新渡戸の内発性と太田時敏の判断の方向性 が一致した結果,新渡戸の上京が実現するとこ ろとなった。その後,太田時敏の意向にしたが い,築地英学校から共慣義塾を経て東京英語学 校へと進学した新渡戸は,

M

M

・スコットと いう優れた教師による「英語教育」に接したこ とにより,新渡戸の英語学習は思想行為に収斂 した。藩閥の背景のない新渡戸にとり,出世の ための技術であり,より西洋文明に接触するた めの手段であった英語が[北岡

1993

:

181],キ リスト教信仰を涵養する媒体としての意義を有 するに至った。

 こうした経緯を踏まえると,文明開化という 時代思潮のなかで,新渡戸は常にその最先端に 位置しつつ,西洋文明の感化に曝されながら成 長した人物であったようにみえる。にもかかわ らず,明治天皇の存在を強く意識せざるを得ぬ

という体験をつうじて,新渡戸は先祖の存在や 日本の伝統的価値観についても問題意識を涵養 せざるを得ない状況におかれた。しかも,若き 日の新渡戸には,すでに精神の空虚を強く自覚 する面があったことも見逃されてはならない。

少年時代の体験が終世を支配すると考えたの は,思想史に精神分析学を導入したエリック・

エリクソンであるが,こうした精神的傾向はす べて,後年の新渡戸の精神を形成する要因とし て重視される必要があろう。つまり,立身出世 と開拓事業の継承,西洋と日本,および,日本 におけるキリスト教の普及など,いずれも相矛 盾し,容易な解決を許さぬ問題ではあるが,早 くも10代前半にして,新渡戸はそうした難問に 対峙しなければならなかったのである

 とはいえ,たとえアポリアに直面することが あろうとも,新渡戸は自己の内発性に依拠する ことにより,問題を安直に解決するという態度 を拒絶した。いかなる境遇であれ,自己の内発 性に依拠する新渡戸の態度は,新渡戸の精神の スケールを尋常ではないものとした一因であ り,新渡戸が近代日本の象徴としての刻印を歴 史に残した根本的特質であったと考えられる。

 新渡戸の精神が「明治精神の表象」であると すれば,列強の圧力のもとにおける日本の近代 化は,夏目漱石がいうように,たしかに外発的 な側面もあったのかもしれないが,新渡戸の精 神構造を理解するためには,内発的な要因をも 同時に重視する複眼的な視点が要求されている ように思われる。

 結局のところ,若き日の新渡戸の精神が体現 したように,外発性的要因と内発性要因の相剋

―そして両立―こそ,近代日本の精神にダイナ ミズムをもたらし,明治日本人のスケールを巨

(14)

大なものにした所以であるといわざるをえな い。

〔投稿受理日2011. 6. 18 /掲載決定日2011. 6. 30〕

⑴ 亀井俊介は「明治の英語」(『亀井俊介の仕事3

―西洋が見えてきた頃』南雲堂,1988年所収)に おいて,新渡戸,内村鑑三,ならびに岡倉天心に とり,英語の習得が思想行為であること,ならび に,その背景には日本人の文化的「自足」感の動 揺や崩壊がみられることを指摘している。

⑵ ただし,蘭学の大家として知られる大島高任が 日新堂の創設に参画し,英学担当者となっていた ことなどから,南部藩においては,洋学が興隆し ていた可能性がある。大島は新渡戸が生まれた 1862年に箱舘奉行所に在任していた人物であるが,

ラナルド・マクドナルドの門人であり,ペリーの 通訳をつとめた名村五八郎をはじめ,塩田三郎,

杉田斎宮,岩井万蔵,武田斐三郎などと議し,南 部藩の藩政改革を建白した。そこで大島は,英語,

フランス語,ドイツ語の訓練,ならびに,小学校 における西洋学の導入を提言したのである。しか も,盛岡は西洋文化の入口である函館とは地理的 にも接近していたのであり,東京から離れている という理由で西洋化とは無縁であったという認識 は,的外れであろう。(池田哲郎 1965「南部の英 学 ― 盛岡一高蔵英学資料」『日本英学史研究会報 告』参照)

⑶ 『武士道』が時敏に捧げられたことはよく知られ ているが,新渡戸は『人生読本』(1934)に収載さ れた「無名の偉人」と題する文章においても時敏 を礼賛している。

⑷ 出版年代から考えて,An English Grammar (1871)

が使用されたのかもしれない。

⑸ 使用テキストはIllustrated School History of the United States and the Adjacent Parts of America (1876)であろう。

⑹ テキストはThe New Primary Geography (1872)で あった可能性がある。

⑺ 内村は,スコットが提唱した方法論を咀嚼し,

これを普及させた人物として,浦口文治の名を挙 げている。

参考文献

石井 満 1934『新渡戸稲造伝』関谷書店

石上玄一郎 1968『太平洋の橋―新渡戸稲造伝』講 談社

伊藤正雄 1988「新渡戸博士と福沢諭吉―“啓蒙的 自由主義者”の双璧―」佐藤全弘編『現代に生き る新渡戸稲造』教文館

内川永一朗 2002『新渡戸稲造―永遠の青年』(財)

新渡戸基金

内村鑑三a 1982『内村鑑三全集30』岩波書店

――――b 1984『内村鑑三全集40』岩波書店 蝦名賢造 1986『新渡戸稲造―日本の近代化と太平

洋問題』新評論

ジョージ・オーシロ 1992『新渡戸稲造―国際主義 の開拓者』中央大学出版部

大友 浩 1985「洗礼」札幌市教育委員会編『さっ ぽろ文庫34 新渡戸稲造』北海道新聞社

北岡伸一 1993「新渡戸稲造における帝国主義と国 際主義」『岩波講座 近代日本と植民地 4 統合 と支配の論理』岩波書店

佐藤全弘 1980『新渡戸稲造―生涯と思想』キリス ト新聞社

鈴木俊郎 1986『内村鑑三伝 ― 米国留学まで』岩波 書店

松隈俊子 1969『新渡戸稲造』みすず書房

Nitobe, Inazo, Reminiscences of Childhood in The Works of Inazo Nitobe, vol. IV (Tokyo: University of Tokyo Press, 1972)

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