レッシングの劇作品に於ける登場人物の性格形成(2)
宮永義夫
本稿は,レッシングの主要な劇作品の登場人物が共通に備えている普遍的な性格要素を探る試みの第 2部である。メタシアターの機構を更に詳細に検討し,演劇意識を持った登場人物の振る舞いを考察す る。同時に,メタシアターの観点から悲劇を新たに捉え直し,「賢者ナータン」をメタシアターの中に位 置付ける。 キーワード:レッシング,演劇性,ナータン,メタシアター,悲劇 1.レッシングとメタシアター再考 筆者は,本論に先立つ「レッシングの劇作品に於ける 登場人物の性格形成(1)」(1992)1)の中で,劇作品考察の視 点を得る為に,「性格論」の立場を取ることを述べたが, このいわば「素朴心理学」的方法を用いることは,作品 を構成する要素(プPット,モチーフなどと色々に言え る)が登場人物の行為に還元される割合が,他のジャン ルに比して大きい演劇に対しては,ごく自然である。文 学作品は,最終的には美学・芸術学的にその位置を定め られる(これはその作品の価値評価だけに止まらない) と思われる。即ち,文学作品はその「如何にあるか,wie?」 (属性)が問われる。演劇が芸術である限りに於いては, 演劇作品もまた,美学・芸術学的に定位されて然るべき であるが,演劇が文学である要件をなしている「人物の 行為」の属性は「倫理」なのである。ということは,「性 格論」は演劇の美学的要素の多くを登場人物の行為の倫 理に帰属させていることになる。一般的に言えぽ,これ は必ずしも勧善懲悪を意味しないし,そもそも価値評価 に止まらないのだから,善悪二元論は避けられるであろ う。ましてや,「この登場人物はよい行いをした,従って, この劇は美的に優れている」という論理は普通はあり得 ない。しかし,レッシングとその同時代人の使用した論 理は,反論を含めて,これに近いものであった。 筆者は,劇作品の芸術性を登場人物の行為の倫理性に 於いて見るこの方法に普遍妥当性を見出し,様々に応用 しようとする者であるが,少し敷桁すれば,以下のよう になる。「美」の実質は時と共に移り変わるが,芸術作品 ならば思想内容,メッセージを包み込んで,最終的には 美を追求するのが本来の姿である。美の追求の中には, その時代に通用している「美しさ」に対する反発や挑発, 作品としての纏まりの拒否といった否定的行為も含まれ る。他言すれば,芸術作品の場合は多かれ少なかれ美的 な優劣が問題であり,テーマとして美的優劣問題の占め る割合が即ち,その対象の芸術性の濃淡(良し悪しでは なく)を示しているのである。また一方で,どちらかと 言えぽ内容に関わる,登場人物の倫理についても,その *山梨県中巨摩郡玉穂町山梨医科大学ドイッ語 (受付:1994年9月5日) 優劣,即ち善悪を問題視する傾向の強い作品ないし時代 とそうでない作品ないし時代がある。そしてまた,倫理 と美の同調性の強弱にも時代性が現れる。 (1)に於いても指摘したように,演劇は舞台芸術として 視覚的・美術的側面がある。この造形芸術的側面に属さ ないものを文学的側面(即ちテキストとして読める側面) として取り扱うことにしても,演劇には上演という作用 形態があるために,読者にも二重の形態がある。演劇の 作用・受容を模式的に表せば,次のようになる: 作品→第一次読者(演出家,俳優)→上演→第二次読者 (観客) ここで,第二次読者(観客)というのは,上演に於いて 文学的体験を享受する者という意味である。第一次読者 は必ずしも演出家,俳優である必要はない。勿論,第一 次読者と第二次読者が同一の人物であっても構わない。 小説などについても,実は事はそう単純ではなく,作者 が作品を物して,それが読者の目に触れるまでには,出 版などという手続きを経るのが一般的であるから,その 間には編集者などの特殊な読者が介在する。しかし,こ のようなことは作品の生産過程に属する事柄で,通常は 出来上がった作品の受容だけを問題にすれぽよい。とこ ろが演劇(戯曲)の第一次読者は,上演という生産過程 に潜在的に関与する。これを顕在化させるのが演出家等 ということになる。上演に向けての作業は,視覚的・造 形的部分を見定めて,具体化していくことである。第二 次読者は造形されたコンテキストの中にテキストを新た に編み直すのである。文学的部分として継続するのは, 登場人物の言動部分,即ち科白であるが,科白の美的側 面,見事な言葉づかい等は,詩でも小説でも実現するこ とができる。戯曲の文学的部分で,その他のジャンルで 実現できないような事柄はないと思われる。しかし戯曲 は,登場人物の行為がなければ成り立たない。どの文学 ジャンルでも,人物の行為は大切な要素だが,人物の行 為への依存度が高けれぽ高いほどその作品は「ドラマ チヅク」なのである。 一例として,原理的にリアリズムの演劇というものを 上述のシェーマに当てはめてみる。リアリズムはその原 義から言っても,リアルであることをその美的目標の第 一に掲げる。作品の美的優劣はリアリティーの多少に よって決まる。リアリズムはいわば「仮想現実」を作り 出す仕掛けである。他のジャソルであれば,テキスト自体の仕掛け(テキスト・ストラテジー)や書くことの仕 掛け(エクリチュール)といった外枠のようなものがあ るが,演劇の場合は舞台に「仮想現実」を現出させよう とするので,リアルさの要請とは即ち,無色透明に,枠 を感じさせずに,人物の行動がそのまま見えることであ る。この舞台上の「ヴァーチャル・リアリティ」が演劇 用語で言う「イリュージョン」である。人物の行動以外 に見えるものがないという意味で,倫理(行動原理と言っ てもよい)と美との同調性は非常に高い。あるいは,倫 理と美はほぼ等しい。リアルであることは,原理的には 善悪の価値判断を超越していることを含意することが多 いであろう。しかし,実際の,文学・演劇史上に言うリ アリズム演劇にあっては,社会批判性が強く,従って, 善悪が多少とも明確になっていることが多いように思わ れる。 このように見ると,演劇とリアリズムは本質的に結び ついている。勿論,文芸学上の「劇的」,「持情的」,「叙 事的」といった概念の中には,物事の時間的展開の特徴 等,他の要素も含まれているので,一概には言えないが, 少なくとも,この側面だけで言えぽ,リアルなことと劇 的であることは等しい。リアリズムが薄くなると,それ だけ演劇性(これもここだけの意味)が失われるのであ る。不条理演劇などは,殆ど前述の「外枠」だけからで きているようなものであり,あたかも上演された小説, 詩の如きものなのである。近現代に於ける,戯曲の中の ドラマ(性)の衰退,あるいは,筆者の着想した戯曲の 小説化といった問題は,様々な姿で現れ,感得されてい る。近年,しばしぼ話題になる意味での「演劇性」とは, 「演技」や「身体性」などという言葉と共に,発信者の 行為が,例えば芸術である演劇という場では,受容者に 芸術体験をもたらすように,ある特殊な場に於いては, 行為,あるいは,「演技」という疑似行為がある種の,特 別な,強い体験を与えることを言っており,そのような 特殊な場の近代に於ける消滅,あるいは復活への願いや 試みに関連して用いられることが多いようである。演劇 の文学性,文学の演劇性といった,今,ここでの問題は その一部をなしている。このような原理的な問題は,稿 を改めて考察する価値があると思われるが,以下に今一 度問題点を簡単に纏めておきたい。 演劇は伝統的に文学の一ジャンルであり,文学を解釈 する手法を演劇にも応用する。戯曲を読む場合と小説を 読む場合では,それぞれ異なる仕掛けの中へ入り込むこ とはあろうが,読書行為としてはなんら変わりがない。 しかし,上演を見る場合には,造形的側面が切り放され て,文学的側面は登場人物の言動のみになる。従って, 登場人物の言動を離れては,戯曲は文学として成り立た ない。ジャンルの区別を流動的なものと見れぽ,登場人 物の言動への依存度が高い作品は演劇的(戯曲的)であ ると言える。純粋なリアリズムに於いては,登場人物の 行為の性格(評価をすれぽ価値)がそのまま戯曲の性格 (価値)を表す。敢えて単純化すれぽ,人物の性格=戯 曲の性格である。勿論,普通は中心となる「主人公」を 措定できることはできるが,いずれにせよ,戯曲の性格 と言うときには,少なくとも登場人物全体の性格という ことになるので,比喩の域を出ない。 ところで,純粋なリアリズムというものはあり得ない し,リアリズムから離れれぽ離れるほど,登場人物の言 動から透明度が失われる。これは必ずしも人物の言語が 不明瞭になることを意味しない。舞台上の言動の意味が 何らかのフィルターによって観客には異なる意味になる のである。また,人物の言動への依存度が比較的少ない にもかかわらず,形式的には戯曲の体裁をとっている作 品が上演された場合,言動以外のあらゆる要素が具体化 されるか,甚だ疑問である。具体的に表せない精神的「外 枠」は,舞台上の具体物にシンボライズされる他は消え てしまうのだろうか。そうではなくて,古来より演劇構 造そのものの中に「枠」を作り出す機構があるのではな いか。例えば,劇中劇やナレーションも「枠」を形作る。 分かり易く単純化して,小説は地の文と登場人物の対話 から成り立っているとする。同じ内容を戯曲化すれぽ, 地の文は,ト書きになるもの,舞台装置に変わってしま うもの,心理的な表現の多くのように,演技術に反映す るものなどに分裂してしまって,多分,空隙は避け得な い。言語芸術として残るのは登場人物の言動だけだが, 言語そのものは小説と同じであるし,それを再現するデ クラメーションは演技術に属する。そうすると,目の前 で行為すること,それのみが演劇の特性であるし,その 行動の意味が正しく,その戯曲の本質なのである。そこ で,小説を舞台化するときに,外枠を壊さない最も極端 な安全策は,登場人物の言動を演じてもらい,後は,す べてナレーションで聞かせるというものである。しかし, それでは戯曲にする意味がないから,登場人物自身がそ の機構を持っているのが最もよい。人物の演技自体が枠 を出たり入ったりするのである。ブレヒトの叙事演劇に もこのような側面があるが,言ってみれば,人物の性格 そのものがその枠を作り出すような演劇がある。ライオ ネル・エイベルが名付けたメタシアターがそれである。2) 但し,以下に展開する考察に於けるメタシアターは,筆 者が摂取,消化したものであり,エイベルの言うメタシ アターとは全面的には一致するものではないことを予め 断っておく。 レッシングの問題圏もメタシアターの観点から考察す ることによって,新たに明確になる点が多々あるように 思われる。その前提として,前述の倫理と美の関係の指 標に照らした場合,レッシングはどのような位置を占め ているのかを確認しておきたい。ごく通念的に言えぽ, 啓蒙主義時代は善悪には敏感な時代であったと言えよ う。近代の大きな流れとしてのリアリズム傾向が顕著に なった時代でもある。一方で,バウムガルテンやカント の論考に代表されるように,倫理から離れた美の独自性 が認められるようになった。この第三項は前二項とせめ ぎあう関係にある。レッシングもこの緊張関係の中を行 きつ戻りつしているように見える。「ラオコオソ」に於け る彼の主張は,美の論理に倫理(行動原理)が従属して いるということである。即ち,芸術のジャンル(ここで は造形芸術と時間芸術=文芸)によって美の要請が異な
るのである。ヴィンケルマンは,ギリシャ人の感情の抑 制というモラルが美を生んだと言う。レッシングはこれ を逆転して,苦痛の最高の瞬間を造形すれば醜になると いう美的な要求から,決定的瞬間を避けたのだとする。 造形芸術に対して行動原理を言うのは少し無理があるか もしれないが,つまりは美の理念が先行して,内容を包 む様式が規定されるのである。レッシングによれば,ギ リシャ人達は感情の抑制などと言うことはしなかったの であって,文学に於いてはむしろ,感情の吐露に重きが 置かれている。3)この論理によって,彼はヴィンケルマン への反証を為すとともに,ジャンルの美的要求の違いを 明確にした。文学とは即ち時間に沿った行為を描くジャ ンルである。行為に於いては感情が重要だとする考えは, 彼のバックボーンをなしており,生涯に亘って,さまざ まな現れ方をしている。「ハソブルク演劇論」その他に於 いて,アリストテレスのEleosをMitleid(同情)と訳し たのはレッシングの大きな業績だが,4)その背景には,ニ コライ,及びメンデルスゾーンとの演劇に関する往復書 簡に表明されているように,Der mitleidigste Mensch ist der beste Mensch.(最も同情心に篤い人物が最もよ い人物である。)という彼の価値観がある。5)文学の美学 的観点に限って彼の感情論を見れば,これは造形(空間) 芸術と言語(時間)芸術を分ける基準になっていると同 時に,歴史的には,バロックの極端,非リアリズムに対 して,等身大の生身の人物を登場させよというリアリズ ムの要求であることは通説になっている。レッシングの 発言は,感情の抑制や平常心,無常観などをよしとした 貴族的バロック芸術に感情の発露や感受性をもって対抗 した,市民芸術宣言という側面がある。ここには,倫理 感の摩擦があり,そういう所では善悪が強く意識される。 倫理が美に先行し,規範となる。行為を描く文学に於い ては,その全体を纏める態度の基準が市民倫理に則るこ とになる。まして,その態度の中にはリアリズムへの志 向が含まれるとあっては,演劇に於いては,行為の倫理 的判断だけが見えるのである。 この問題を巡るレッシングの思索は前述のニコライ, メンデルスゾーンとの往復書簡に於いてかなり明確にそ のプロセスを跡づけることができる。ニコライやメンデ ルスゾーンがいわばバロックの美学を受け継ぐ形で,倫 理からの美の独立を主張するのに対して,レッシングは 彼のリアリズムから,登場人物の倫理によって,美が規 定されると言う。6)リアリズムのこの方向は,演劇の美的 構築物としての外枠を透明化し,内容=行為を仮想現実 化することである。恐らくはリアリズムの本質に関わる 問題であると思われるが,彼のリアリズムは二方向性が あり,いわば逆転的にも働くのである。彼は人物にリア リティーを求める。人物がリアルであることは,美的効 果から遡及的に要求されることである。こちらが「ラオ コオン」に於ける彼の見解に準ずる方向である。人物に リアリティーを与える為に,彼は・ミロックの超人的,無 情非情の人物像に抗して,喜怒哀楽の感情豊かな人物像 を対比させ,同情心を中心とする感受性の高い人物を高 く評価する。これにより生じる問題点は,第一に,そも そもこれは文学(演劇)を離れた「道徳性」の問題であ ること,第二に「評価」が含まれていること,第三に, その「評価」の基準が定まってしまう危険が生じてしま うことである。「評価」が含まれていることは,既に述べ たように,リアリズムを理念とする演劇の文学的側面に 於いては,倫理=美であるから,倫理上の評価=美的評 価になる。レッシングはこれを肯定している訳であるが, 演劇とは,正にそのようなものであることを理解する上 で,我々はレッシングに多くを負っている。それを否定 することは,リアリズム及び演劇性を否定することであ る。しかし彼は,その「評価」に更に一定の基準を与え てしまっている。ということは,美的に優れた演劇作品 であるためには,その基準に合致する必要がある。ある いは合致すればよい。これでは確かに演劇の可能性を狭 めてしまう。歴史的に見れば,レッシソグは市民劇を, 市民劇のみを顕彰しようとしたのである。 レッシングのこのいわぽレトリックの勇み足は,ジャ ンルを越えて,演劇以外へも波及する問題をはらんでい る。演劇(実は市民劇)ならば,連鎖反応的に同情心に 篤い人物を肯定的に描くことになるが,美的要請の異な る造形芸術であっても,芸術を離れた道徳は同じである。 従って,作品への倫理的要請に変わりはなく,評価も含 まれている。しかし,演劇ならぽ美的要請の外枠を透明 化して,直接的に道徳を表現することができるが,造形 芸術は道徳の表現に美的フィルターがかかってしまう。 むしろ造形芸術は,行為に伴うものである道徳を表すこ とに適さず,それを目標としない。美的要請を同じくす る文学ジャンル内の小説はどうか。小説は,むしろ人物 行為の外にある枠の方に重点があり,やはり間接的であ る。道徳を表現するには,演劇が最適だということにな る。芸術は須らく道徳を表現すべきかどうかについて, レッシングの発言は全体としてそれを首肯したい傾向に あるように思われるが,その延長上にある,演劇が芸術 の最高のジャンルである,という観念に至るには抑制が 働いているようでもあり,詳細は未だ筆者の知るところ となっていない。この点は,更に考究したい。しかし, 少なくとも,演劇は道徳を表現すべしと考えていたこと は,確かであろう。 ところが,彼の実作は,確かに,道徳の表現や,行動 の評価として捉えれぽ,非常によく理解されるのだが, 何か,もう一ひねりしてある感じは,かつてより否めな かった。つまり,直接の行為 筋は例示としてあって, それを評価する行為が見え隠れするように思ったのであ る。ここで多用している用語を使えば,レッシングも作 品には「枠」をはめているということである。レッシン グの,この,自身の主義・主張に相違する反リアリズム の「枠」はどこに由来するのかを説明しようとすると, 例えぽ,彼のリアリズムが持つ向かい合わせの鏡のよう な性質に帰着してしまった。つまり,自身の芸術上の主 張に従ってリアルな人物を造形して行動させると,その 人物の一定の倫理性によって逆に芝居の美的要素が染 まってしまうということが起こる。そのことをレッシン グは,ある程度のところで保留,抑制したい,あるいは
まだ迷いがあって,そこまで踏み切れないでいるのでは ないかと考えたのである。「ラオコオン」でのプロセスと 演劇論でのプロセスは逆転しているではないか。また, このことと密接に関係して,レッシングの作品は理論の 実践・応用のようなもので,理論的に,当然,演劇が道 徳の表現には最適であることは明らかであるし,市民道 徳として,同情心,共感の心が称揚されるのももっとも であるが,これは市民劇というジャンルの為のストラテ ジーであり,彼にとっては全てがテクニックの問題で あって,彼の内実とは余り関係がないのであろうかとい う思いもあった。7) レッシングの劇作品が,前述のような演劇論,芸術論 を含む,理論,思想上の問題を検証する場になっている と捉えられることを示唆してくれたのは,主にテア= ネッデソとジーモンである。8)9)内容として理論や思想を 持つことならぽ,なにも特筆すべき事柄ではなく,作品 が理論の実践であるというのならば,問題はないのであ るが,ここで検証の場というのは,レッシングの作品の 中には,彼の思想,主張を司るような人物が存在して, ジーモソの表現を借りれぽ,「間主観的」に対話の中で批 判されながら,その思想を練り上げていくということで, その思想が内容,テーマであることはさりながら,作品 の構造に深く関わっていることが特徴である。さながら, プラトンの「対話編」を思い起こさせるようなところが あるが,これは,筋を人物の行為に還元させるリアリズ ムとは異なる行き方である。レッシングは,理論に於い ては,リアリズムの純粋な骨組みを示すが,実作に於い ては,リアリズムの検証を行っているのである。多くの 彼の作品は,従って少なくとも二つの枠の構造をもって いる。しかも,レッシングが劇中の対話の中で検証しよ うとする思想は,芸術論が多いし,少なくともそれを含 んでいるのである。さらにそれが演劇論となると,さす がにケースとしてはそれ程多くないようにも思うが,見 えない劇の劇中劇とでも言うべき,生粋のメタシアター となるのである。 エイベルの「メタシアター」は,本来,悲劇との対比 の内に構想されたものである。それはジョージ・スタイ ナーの「悲劇の死」を踏まえて書かれており,近代に於 ける悲劇の成立の困難さの原因と悲劇に替わる劇形式に 解答を与えようとしたものである。したがって,変質し た悲劇に新しい名を与えただけだとも言える。逆に,そ れだけ「悲劇」を厳密に捉えているのである。元来,「悲 劇」と対立する概念である「喜劇」などに於いては,初 めからメタシアター的な要素が多々あるのである。ここ では,「悲劇」の代替物としてのみ「メタシアター」を捉 える必要はない。「メタシアター」は,近代的自我の所産 である。「この世は全て舞台」(この感覚は極めてバロッ ク的と言われる)との意識を持った登場人物が自分の属 する芝居の演出をしたり,筋書きを書こう(書き換えよ う)とする。劇中に於いては実人生に他ならない筋立て を演出,演技しようとする演劇意識を持った登場人物の みが今日の観客の興味を惹くとエイベルは言う。1°) 然らぽ,「悲劇」とは何か。これを定義するのは容易で はない。アリストテレス以来の細かい規定を無視して, 大ざっぱに「メタシアター」との対比で言えぽ,「演出家 意識」のない登場人物の破滅の劇なのである。勿論,エ イベルはこのことを直裁には語っていない。しかし,彼 の言うメタシアターが演出家意識を持った人物の劇であ り,それが悲劇に替わるものであるならぽ,当然そうい うことになる。しかし,運命に流される人の劇ではない。 大いなる意志の人の劇であることは間違いない。ギリ シャ的な意味での悲劇は,不可避的因果律の中で進行す るが,演出家的人物ならぽ,その運命を何とか自らの手 で変えてやろうとの意志を持つであろう。しかし,悲劇 の主人公は,その運命を生きようとする意志を持つので ある。 エイベルは,ギリシャ悲劇の本質をなす二つの「運動」 をソフォクレスの二つの「オイディプス」劇に見ている。 彼はその際に,二つの重要な概念を提示する。「ヒューブ リス」と「デーモン」である。11)アリストテレスによれば, 悲劇の運動は人物の「過失」に始まる。エイベルは, 「ヒューブリス」を過失の最も本質的なものと見ている。 筆者はアリストテレスの「過失」(ハマルティア)の主旨 を必ずしも「ヒューブリス」に繋がるものだとは考えな いが,12)さしたる「過失」も見当たらないにも拘わらず, 仮借ない破滅への道を辿る主人公が本質的に備えている 性質として「ヒューブリス」を措定することは説得的で ある。「ヒューブリス」とは只の慢心,不遜ではない。悲 劇的因果律の中で破滅した者がなお生き延びた場合,そ の者は「デーモン」となる可能性がある,とエイベルは 言う。「デーモン」とは一種の霊的な存在である。「ヒュー ブリス」とは,悲劇を未だ体験せざる者が,あたかもそ れを体験したように,自らの中にデーモニックな霊力が あるかの如く振る舞う,劇的不遜なのである。「オイディ プス王」は破滅の劇であり,「コロノスのオイディプス」 はデーモンの劇である。これらの相互補完的作品で悲劇 の全領域がカヴァーされているのである。「ヒュープリ ス」がなければ,不可逆的な悲劇の運行は始まらず,破 滅しなけれぽ,「デーモン」にはなれない。但し,必ずし もデーモンになる訳ではない。エイベルは,デーモンの 劇も破滅の劇に劣らず悲劇的だと言っているのではある が,「デーモン」の存在そのものが悲劇的なのか,デーモ ンの霊力によって影響を受ける人物が悲劇的であるのか は曖昧である。行為があって初めて劇的になるのである から,前者の場合,存在そのものでは,そもそも劇的で ないであろう。後者の場合,行為とはいっても受難であ る。受難劇にはなっても,悲劇にはならない。破滅に至 るのだとすれぽ,「アンティゴネー」のクレオンのように, やはりその人物にヒューブリスがあるのであろう。「デー モン劇」のカテゴリーはなくてもよいことになる。更に 後者の場合,デーモンの力によって劇の進行が左右され るのであるとすれば,これはメタシアトリカルな構造が あるのではないか。ここに,メタシアター論のアポリア があると思われる。演劇が舞台上に仮想現実を創り出す ことだとすれば,仮想である限り現実に「枠」をはめる ことが本質であり,演劇はその「枠」の拡大・縮小はも
とより,多重化や,透過性の変更まで自由自在に行える ことになる。決して「悲劇」と対立的,あるいは相補的 関係にある訳ではない。一旦,「メタシアター」の概念を 得た後は,「悲劇」は「メタシアター」の枠内のあり方の 一つに過ぎないのである。このことは悲劇とされる「コ ロノスのオイディプス」とメタシアターとされるシェイ クスピアの「テンペスト」の類似を指摘すれぽ事足りる であろう。デーモンであるオイディプスには霊力が備 わっている。一方,プロスペローは,霊力というよりは, ロマンチックな魔法を駆使する術を持っている。この超 越的力を有する人物によって,彼らと接触する人々の運 命が左右されるのである。そして,オイディプスの場合 は,その死によって,プロスペローの場合は,その魔法 を捨て去ることにより芝居を終結させる。異なる点と言 えば,プロスペローが徹頭徹尾,演出家であるのに対し て,ギリシャ悲劇には,どうしても越えられない超越的 外枠=神意,天命があることである。オイディプスの霊 力は,天命を常人より遙かに明確に認識することにある。 「コロノスのオイディプス」の作品全体がオイディプス の死への準備,即ち,天命の実現への準備であるし,息 子達への呪いというものも,いわば,神意がオイディプ スの口を借りて伝達されているのだと捉えることができ る。オイディプスは演出をしない。天命に従うのみであ る。その死は破滅ではない。むしろ恩寵である。そして コロノスにも恩寵が約されている。これを悲劇の一領域 とすることに異を唱えるものではない。しかし,実質は 形を変えて近代に出現するキリスト教劇,殉教劇の系譜 に連なるものではないか。17世紀にコルネイユが改めて 言ったことは,殉教劇を悲劇として認めよということで あるし,レッシングの主張は,殉教者は「過失」を初め, (悲)劇的性格を備えていないから,相応しくない,そ れよりは市民劇がよい,というものであった。13)しかし, それは本来の悲劇に戻ったのではない。新たな受難劇を 創り出したのである。ちなみに,プロスペローも,オイ ディプスと違って,その前史において体験したことは, 破滅ではなくて受難である。そして「テンペスト」は赦 し,融和へと向かう。近代に於いては,ヒューブリスを 持たなくとも,苦難は襲って来る。そのようなものも悲 劇の範疇にいれても構わないだろう。しかし,破局回避, 赦し,融和に終わるものは,ヘーゲルによって,狭い意 味のDrama/Schauspielと呼ばれるものである。ドラマ になるか,悲劇になるかは,登場人物の演出嗜好次第と いうことになる。 主人公の演劇意識そのものが問題である「ハムレット」 は,エイベルによってメタシアターの噛矢,典型とされ るが,意識が前景に出ているということは,メタシアター 性自体が問題化されているといってよいのではないか。 ハムレットは,メロドラマ的な筋立てに抵抗しつつ,悲 劇を演じようとするのか,逡巡したあげくに,エイベル が最終的演出家と呼ぶ「死」に演出を委ねることにな る。14)人物でないものに演出家を振り当てることに疑義 がないわけではない。これは天命に身を委ねたことにな らないか。「コロノスのオイディプス」タイプの悲劇であ る。ハムレットが最終的に演出を放棄して,天命に従っ た為に,「ハムレット」はメロドラマの筋書きに戻ってし まったように見えるが,少なくとも次のようには言える だろう。「ハムレット」は,演出の失敗を描くメタシアター である。エイベルは,ハムレットは悲劇に於ける筋書き の呪縛とも,メロドラマに於ける筋書きの歪曲とも無縁 な所で,「死」を特殊な運命としてではなく,普遍的な相 に於いて捉えている,と言う。15)即ち,仮想現実相があり, より普遍的な演出相があるが,更に上位の普遍性をもっ た,その中では,誰でもが定められた役を演ずる演技者 にならねぽならぬ改変不可能な相があると認識していた のである。その認識によって,ハムレットは,オイディ プスと同じく,デーモンになり得ているのではないか。 ハムレットにヒューブリスがあったかどうかは,にわか には判断し難い。しかし,「ハムレット」によって近代の ヒューブリスがとのようなものであるか,感得すること が出来るように思う。それは「死を演出すること」であ る。「コロノスのオイディプス」に不活性ながらメタシア ターの萌芽をみることが出来るのと同様に,「ハムレッ ト」の中に近代の悲劇の可能性と方向を探ることが出来 るのではないか。 ここまでジーモソとエイベルに触発された思索を観念 的に展開してきたが,以下では技術面に触れておく。 「メタシアター」に於いては,登場人物は,演出家意 識を持つといわれる。舞台上で演出がなされれぽ,それ は劇中劇になる。仮想現実枠より小さい枠は舞台上に再 現される。しかし,ジャンルとして「メタシアター」を 捉えると,そこに必要なのは仮想現実を超えた,より大 きい,理念的,観念的枠組みなのである。上位相に移行 していることを舞台上(仮想現実相内)で見せる為には, 覗き窓のようなものが必要になる。舞台上の現実の時間 の流れが止まってしまうから,筋の停滞が起こる。そし て筋の展開には直接関係のない思索が展開する。理想的 には,その芝居自体や筋立ての意味,意義を直接問うも のであればよい。しかし,このようなものは希で,一見 何の関係もなさそうにみえる展開の中に意味が隠されて いるのである。逆に,明らかに筋から離れた議論が展開 すれぽ,その有効性はともかく,メタシアター的構造を それだけ一層色濃く示唆していることになる。とはいっ ても,また一方で,思索や反省,状況の一般的,普遍的 把握のないような科白は,浅薄なものであって,多少と も深みのある科白ならぽ,思索を含んでいる。そういう 科白は既にメタシアトリカルではある。相が変わるかど うかは,相対的なものに過ぎないかも知れないが,その 思索の中に,現実を演技している,言い換えれぽ,現実 は可能性の一つだという意識が含まれているかどうかが 鍵になるであろう。ハムレットの独白はこの機能を持っ ていると考えられるのである。 II.「賢者ナータン」とメタシアター 筆者は,ラルフ・ジーモンの「理論の虚構化」説によっ て,ナータンがレッシングの理論をこのドラマの中で相
対化する対話の主宰者になっていると捉えられることを 知ったが,ナータンのこのあり方は,メタシアター的演 出家のそれではないかという着想を得た。レッシングの 他の作品も,メタシアター的に捉えられる側面をもって いると思われるが,特に「ナータン」の場合は,周知の ように,ライマールス断片をきっかけとする神学論争の 経過の中で,敵側の策動の結果,事実上論文の執筆を止 められてしまったレヅシングが,芝居でならものが言え るだろうと思って書いた作品であり,必ずしも,筋の運 び,物語が重要ではなく,メタシアトリカルな意見のや りとりが表面に出ている。その場合,前述したように, 筋の運びがリアリズムを犠牲にする限界まで停滞させら れ,言葉が場面をはなれ,一般化した意味付けがなされ る。以下に,そのように捉えられる場面を拾い出して考 察する。その際,対話の内容を問題にせざるを得ないが, 眼目はあくまでも構造にある。 1.賢者ナータンその人の性格 ナータンには,賢者という形容がついているが,3幕 5場,サラディンとの対話に示されているように,何を 以て民衆がナータンを賢者と呼ぶのか特定することは出 来ない。16)彼はその全人格を挙げて賢者である。勿論,善 行や施しはするであろう。しかし,それ故に賢者である のではない。賢者とは全人格を以てしか表すことの出来 ないものなのであろう。2幕3場,アル・ハーフィから 聞いたところとしてシッタが紹介するナータンの人物像 は,1)大商人である,2)金儲けを卑しいとは考えな い,3)金離れがよい,4)偏見に毒されていない精神, 5)徳に開かれ,美に敏感な心,という理想的人物であ る。17)この人物が登場して,観客の期待を裏切ることはな い。しかし,賢者であることを示す行動は,3幕7場有 名な指輪の喩え話シーンを含めて,ないといってよい。 3幕7場は,ナータンが殆ど唯一試練に立たされる場面 で,確かにナータンの品格が最も問われている場面では あるが,ここは頭を働かせて切り抜ける所と捉えられる から,ナータンの知恵のある者としての側面が出ている のである。全体の筋立ての中でナータンの取った行動は, 留守の間に家が火災にあった際,養子のレヒャを救い出 した神殿騎士を探し出して御礼をしたこと,行動とは言 えないかもしれないが,サラディンに拠金を要請された こと,神殿騎士の素性を探り,レヒャの兄であり,サラ ディソの弟の子であることを明らかにしたことである。 このような場面場面の行動ではナータンの全体を知るこ とは出来ない。つまり,これらの行動は賢者なるが故の 行動ではない。そこには個としてのナータンが存在する。 にも拘わらず,観客の期待を裏切らず,あらゆる所で, 破綻を来さず賢者として振る舞っているということは, そこが賢者たる所以かも知れないが,用心深く破綻を示 す行動をしない,あるいはむしろ,行動の前に,いわぽ 先験的に賢者として存在するのである。 これは,レッシングの人物造形としては,むしろ後退 である。「ミンナ・フォン・バルソヘルム」に於いては, 筆者もかつて指摘したように,人物は,行動から帰納さ れて初めて性格を持つことになった。18)個性の誕生であ る。しかし,「賢者ナータン」では問題圏が異なる。この 作品に於いても,他の人物は行動から帰納される性格を 持っている。ナータンも筋立てに規定された人物として は,個別の性格を持つであろう。しかし,賢者としては 普遍的性格を持つのである。行動から賢者を帰納するこ とは出来ない。同時に,賢者という性質から行動を演繹 することも出来ない。賢者は行動によって規定されない。 演劇は,人物の行動がなけれぽ成立しない。ということ は,賢者は芝居の外にあって,全体を統括しているので ある。「賢者」という属性はそれだけ重い。「賢者」とい う属性によって,メタシアトリカルな構造が生まれるの である。「賢者ナータン」はナータンの演ずる芝居ではな い。むしろ,筋に巻き込まれることを避けているのであ る。ナータンは「テンペスト」のプロスペローのような 存在として,劇を統括し,采配を振るうのである。 ナータンは統括者として,いわばナレーターのような 働きもある訳であるから,その点からも存在は行動では なく,言語に大きく現れる。モノロークもいくつかあっ て,確かにメタシアトリカルな働きを多少ともしている が,大きいのは,議論,あるいはむしろ,ナータンの教 え・諭しのやりとりであろう。その際に,相手方からの 反論,批判,修正もあることはあるが,ナータンの優位 が崩れないのは,構造上の要求と同時に,ナータンの意 見がレッシングの思想の代弁に他ならないからである。 いわぽナータン≒レッシングの手のうちにあり,啓蒙可 能な人物とのみ議論は成り立つのである。従って,総主 教との対決は巧みに避けられている。19)その小型版が ダーヤとの対話である。ナータンとダーヤの対話はすれ 違ってしまい,そのまま打ち切られてしまうことが多い のである。 2.メタシアター的場面 「賢者ナータン」という作品の成立自体が,前述の如 く,神学論争をきっかけにしているだけに,論争面の上 に筋立てが乗っている二重構造が色濃く感ぜられる。微 細なレヴェルでは,例えば語の使用にもそれは当てはま る。日本語もその例に洩れないのではあるが,特に,ド イツ語等のヨーロッパ系言語に於いては,人物をその属 性によって名付けることが多い。そうすると,ある個人 がその属する集団に一・般化する,ないしは,その集団を 代表するものとして捉えられがちになる。従って,以下 のことは,必ずしもレッシングの意識的なテクニックと は言えないのではあるが,回教,ユダヤ教,キリスト教 の,あるいは,それぞれの教徒の宗教的寛容と融和をテー マとしているこのドラマの場面に於いて,ある人物が○ ○教徒と呼ばれれぽ,仮想現実=演劇相から思索相へ転 換され易いのである。4幕4場, サラディン キリスト教徒,興奮するでない.ノ2°) 実際にこのような呼びかけの形になっているのは,サラ ディンが支配者らしい態度で数回行うものに限られる
が,集団全体を指す時は勿論のこと,個人を指すときで も,このような一般化が行われていれぽ,演劇の枠を超 える契機が潜んでいるとみて間違いないであろう。 実際に思索相に移転して,劇の進行をいささかでも止 め,対話が行われれば,メタシアター的場面ということ になるが,現代の非リアリズム演劇と異なり,近代の作 劇法上のリアリズムがやっと緒についたぽかりの時期の この作品では,劇の進行をなるべく止めないようにして あり,それが技でもある。その中で目立つ,一場面にま で拡大されたナータンの説教(1幕2場),この作品に特
徴的なExkurs風シッタのキリスト教徒批判(2幕1
場),そしてこの作品の中核をなす指輪の喩え(3幕7場) に触れておく。こうしてみると,悠々と寄り道をしてい るのは,前半,即ち,提示部に多いことが分かる。前半 は,背景を説明して明らかにしておかなければならない ので,必然的に叙事的になる。そのついでに様々な思索 が紛れ込み易い。後半になり,4幕2場で,神殿騎士が, 助言を求めると称して,ユダヤ人がキリスト教徒を養女 として育てていると訴えたことから,総主教の探索の手 が伸び,少しは緊迫してくると,ナータンも歴史的一個 人として,劇に巻き込まれて行動せざるを得なくなって くるから,相移転は目立たなくなる。 α)1幕2場21) 劇の冒頭から,筋展開はしばしば止められる。レヒャ は,火災の中から救い出してくれた神殿騎士にもう一度 会いたいと切望していたが,その願いは聞き入れられず, 神殿騎士も姿を消してしまった。そこでレヒャは,あれ は天使だったのだと夢想している。この場面は,レヒャ の夢想をナータンが覚ます場面である。夢想家について のレッシングの考え方は,メンデルスゾーンとの往復書 簡に窺われる。メンデルスゾーンが考える劇的効果の最 大ののものは「感嘆」であって,これは模倣願望を強く 惹き起こすという。「同情」を重視するレッシングの反論 は「感嘆」が強すぎると,善悪の理性的判断なしに行動 に移る「夢想家」を作り出す,というものである。レッ シソグは,奇跡や殉教者にも懐疑的であった。22)ナータン の展開する論理は,サラディンの恩赦によって九死に一 生を得た神殿騎士に救われたこと自体が充分に奇跡で あって,この上実体のない天使などは持ち出さなくとも よい,伝承された目覚ましい事績だけに奇跡があるので はない,夢想していると,仮に恩人が病気で姿を見せな いのかもしれないのに,現実的な対処ができない,とい うものである。この論理は自足的な所があり,これを以 て劇の展開の中でダーヤ及びレヒャを攻めるのは酷な感 じは否めない。議論の為の議論であり,劇中ではナータ ンも冗談半分なのである。なお,この場面は3幕1場の レヒャの内省に繋がっており,そこでは殉教者伝説のよ うな,信仰の爽雑物に対する拒否感が語られている。23) β)2幕1場24) この作品のトーンは,先に見た1幕2場等の思想開陳 でほぼ定まっている。この作品では,レッシングのキリ スト教批判が最も強く出ている。シッタの一般化した発 言にもその一端が覗ける。この場面のように,発言を少 し一般化して,ついでのように思想化することは多々あ り,詳細に検討すれぽ至る所にこのような仕掛けは存在 するだろうと思われる。シッタの発言の要旨は,キリス ト教徒は本来の人間性に帰することまでも,信仰に帰し ている,結果として,キリストの徳ではなく,名のみを 問題にする,ということである。サラディソはこれを受 けて,悪いのは神殿騎士であって,キリスト教徒ではな いと訂正し,劇の進行を呼び戻すのである。一般化され た発言は,これによって直ちにメタシアター的構造を生 み出す訳ではないが,これがなければその構造は出来な いから,いわば萌芽をはらむものとして,注目に値する。 γ)3幕7場25) この有名な指輪の喩え話のシーンで問題なのは,内容 ではなく,純粋に構造である。サラディンは5場で,ナー タンから金を取るための芝居をしているのである。即ち これは劇中劇構造になっている。それを6場で嗅ぎ取っ たナータンは7場で喩え話をするのである。これは,ナー タンがナレーターとして,外構造にいることになる。喩 えの最後にサラディンを裁判官に準えようとする。つま り,相手を枠内に引き入れてしまうのである。これでサ ラディンの外枠は壊れてしまい,対等な関係に立つので ある。こういう籠絡の仕方はナータンの自家薬篭中のも のである。この場面は,内容の面からだけではなく,構 造上もナータンのあり方の典型を示していると思われ る。真実を常に一歩先に知って,場面を主宰し,最後ま で破綻しない,このような賢者の権能をナータンはどこ から得ているのであろう。彼もまた,コロノスのオイディ プスのように,デーモンではないのか。彼は,ガデに於 いて,妻と七人の息子を,キリスト教徒によって焼殺さ れるという苦難を経ているのである(4幕7場)。26) 注 一続く一 1)宮永義夫(1992)レッシングの劇作品に於ける登場人 物の性格形成(1).山梨医大紀要,9:117−123. 2)エイベル.L(1980)メタシアター.高橋康也,大橋 洋一 訳,朝日出版社,東京.3)Lessing G. E.(1990)GOTTHOLD EPHRAIM
LESSING WERKE UND BRIEFE Band 5/2, hrsg von Wilfried Barner, Deutscher Klassiker Verlag, Frankfurt/M..4)Lessing G. E.(1990)GOTTHOLD EPHRAIM
LESSING WERKE UND BRIEFE Band 6, hrsg von Wilfried Barner, Deutscher Klassiker Verlag, Frankfurt/M..5)Lessing G. E.(1990)GOTTHOLD EPHRAIM
LESSING WERKE UND BRIEFE Band 11/1, hrsg von Wilfried Barner, Deutscher Klassiker Verlag,Frankfurt/M.. 6)同上. 7)宮永義夫(1988)レッシングのAffekt理解とその背 景.山梨医大紀要,5:82−90. 8)Ter−Nedden G (1986) Lessings Trauerspiele. Metzler, Stuttgart. 9)Simon R(1991)Nathans Argumentationsverfah− ren:Konsequenzen der Fiktionalisierung von Theorie in Lessings Drama Nathan der Weise. DVjs,4:609−635. 10) 2)127. 11)同上,12−32. 12)全くの善人が破滅するのは耐え難いからである. 13)5) 14) 2) 109. 15) 2) 113. 16)Lessing G. E.(1990)GOTTHOLD EPHRAIM LESSING WERKE UND BRIEFE Band 9, hrsg von Wilfried Barner, Deutscher Klassiker Verlag, Frankfurt/M.,551・552. 17)同上,526. 18)宮永義夫(1990)演劇理論と「ミンナ・フォン・・ミル ンヘルム」.山梨医大紀要,7:68−75. 19) 20) 21) 22) 23) 24) 25) 9) 16)587. 16)491−497. 5) 16)541−543. 16)517. 16)555−562. 26) 6)596. Abstract Die Charakterbildung der Figuren in Lessings Dramen(2)