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『宗教研究』211号(45巻4輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

ライプニッツの悪, 田中英三, Über bas Übel im Denken bei Leibniz, Eizō TANAKA, pp.1-27.

2,

宇気比神話の諸様相, 大林太良, Comparative Remarks on the Myth of Oath-Making of Amaterasu and

Susanoo, Tary

ō ŌBAYASHI, pp.29-60.

3,

他力について, 星野元豊, On the Other-Power, Genpō HOSHINO, pp.61-75.

4, Prapatti

思想の歴史的展開, 徳永宗雄, Histrical Development of the Concept of Prapatti, Muneo

TOKUNAGA, pp.77-993.

5,

平家物語における人間観:その宗教的意味について, 舘熈道, Die Menschenansicht in der Erzählung

Heike Monogatari (Erzählung des Geschlechts Heike), Kid

ō TACHI, pp.101-128.

(2)

の問題

、古来人間にとって価値ある目標へ

志向の裏側で、種々の角度から論じられて来た

。だがそれ自身の

偶有な意味を

言わば表に引出して、構造や働

きの面から徹底させる試みは比較的乏しかった

言える。道徳や宗教

が、

悪を避けては推進されず、また人間が

、好

んで欲しない悪に

たえず転落する弱さを

内具す

るにもかかわらず、

それを直視し続けることは、困難であるばかり

嫌悪されていたよ

である。人間の生を、その

根底にまで掘り下げ

裸の姿に目を凝らす時、われわれは

しない

奥行に快然とする。しかしその奈落から立ち上

苦悩と茨の道を歩

り 悪まぬ限り、真に生を諏

地上に立たしめる所以を尋ねる。悪の探求な

することはできない

一般的に

@

って

悪の系譜は、存在に対する非存

という古代の考え方から、それをキリスト教

教義に濾過した

れた主意主義的な立場に求められる。しかも後

者の推進が悪の間

を主

するにつれて、前者は殆んど顧みられず切捨て

られていった。けれどもそれが、プラトニズム

アウクスティ

ヌス

ライ

0

ニッツの

(3)

調

え て

か に な 柄 と

性 た し -

、ま

明ら 特徴 が して 格や 被 適 た か の

道 悪 構 物

プニ

在ら にし

し を 尋

か 存 の ね た と う ね ら 在 ッ ば 徴 す る る 間 の ッ ぬ な

ならで、

考え

れば、

とする

のも、

題にさ し方か か

お 在 方

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唆さ

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ある。

そ た る し を 者 一 悪 ま の 般 悪

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欠 めに で ユ せ り の定 ず 問 偶有 に神

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起すべ

手懸りとしてうと

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1 ここま の方向

現 計 コ あ さ め 学

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(4)

学的・宗教的な見地に包摂された形而上学が 、被造物の可能的な存在性を求めさせたのでは ないか。このことが 蝿 / づ ︵ 円つい ︵ ぃ 0 の悪を考えてゆく時の大切な 導標 になると思う。 可能的な被造物の存在性について、ライプ ニッ ッは 随処に、興味深い論述を行なっている。その 場合われわれが注 3 ツの悪 予想は当みない。むしろ逆に、いわぬる弁神論 に 見られる宗教的心情、すなわち現実の世界に現 われる悪に対して、 創造者である神の意図の弁証が、創造以前の理 全的な存在を着想させている。そこでは創造に際 して示される神の叡 智と 善意に対する限りない信頼と、悪の現実的 な 承認という亀裂を含む問題の解決の手続が用意 されている。 妖言ロヰ 儲 9 ればこの悪が、どこまでも被造物の責任であり、 たとえそれが神の創造のし方に係わるとしても 、創造されるものの 本性に根ざす根源的な由来のために、遡求的に は、 神をも越えた可能的な在り方が問題にされる のである。従って 神 とができよう。だが何故に彼はこのよう低し 方 で、被造物の存在性を問題にしたのか。永く保持 された伝承的な創造 に関する神学的・宗教的命題を越えて、なぜ 存 在 の問題を遡らせたのか。人々が一見、創造 観の 否定と 訂る 彼方に被 造物の理念を考えることは、形而上学を宗教に 優越させるからであるのか。彼の考えを辿って ゆ くと、必ずしもこの の 次元 ると、 い 。そ を告げ キリ ら、あ して 既 に 見られる悪の顕示に対して、舌口わば土台や背 旦 となる隠れた始源的な要素になっている。この 要素を無視す 現実の悪についての解釈は、成立の可能性や必 熱性の不可解さと 相侯 って、一種の限界に逢着す るかもしれな れだけに悪を苧 む 被造物を、存在の根源的な意 味 において問題にしてゆくことが必要である。 悪 の 成立の由来 るためにも、また神に対する被造物の位置を明 確にするためにも、形而上学的な考察は忽かにで きない。 スト教の考えによれば、神は無から創造したと吾一 ロ われる。だがライプニッツは被造物を、平凡な 意味での 無か るいは神の必然的な変様から、産出されたとは 考えない。むしろ創造以前のところで、被造物は 可能的存在と に、 神の悟性の対象になっているとする。それは やがて創造されるものの観念的存在、ないしは 原型と言うこ

(5)

意 せねばならぬのは、現実の被造物という、 い わゆる最善の世界系列に属する諸物 は つい七の特 有の考え方が基礎 に あることである。創造以前の次元で、末だ現実 的でない被造物を可能的に考えるのは、先に述べ た 現実の悪と神との 調 穏から必要だが、なおそれと共に、現在の世 界を構成する事物の自立性に照らし合わせねばな みない。被造物は実 在 性を神から与えられるが、ただ神に所動的に 従属し依拠しているのではない。与えられた実在 性 と力は、自発的な 発動 と 充実によって、自己の木質を展開しつつ 最善の世界を表出してゆく。被造物は生成を神に 依存する。しかもな お存在の元初において独立し、それ自身の持つ 本質内容と、その展開のし方を個有しているので ある。この意味での 自立性、神に包まれながらも、神と違った本性 を 持っ被造物の所以を、理念的に示すために、 創 造 に先立つ原型的な 在り方が求められたと思われる。現実の世界に 産出された事物が、自発的に自己であろうとする 時の自立性の根源 へ の 重視が具体的には創造する神の深慮が 、自 由 な被造物とする時に封入したのだが、そのよ う

な可能性を理

念の領域に 喫 入させたのであろう。 ﹁可能的なものの国﹂︵ 2 ︶が問題になること によって、一方では被造物の存在可能性が開かれ て 来たが、他方で は 可能性が神の働きによらねば実在化され えな い 点が 、却て顕 わになった。被造物の本性から、 言わば不可避的に 、 可能性の領域が求められながら、その要求が逆 にそれを閉じ籠めることになる。われわれはこの 模様を、官守茸山 0 を 窓口にして覗いてみたい。 可能的存在とはいかなるものか。ここでは詳細 を 避けて当面必要な限り瞥見してゆく。まずそれ は、 主として神の 意ギ ゅや 力 による創造活動より前の、観念的な領 域 のものとして、末だ実在的存在ではなかった。 ところがそれを﹁ 事 物の本質的な性格﹂であり、﹁神の悟性の対象﹂︵ 3 ︶ だと彼は舌口 う 。対象が悟性に見られることは、 ある意味で対象が 、 見る悟性より先に存在する感じを与える。しか も 彼は、まるで斬り返すよ う に、﹁神がなければ どんな可能的な (446)

(6)

ライプニッツの。 悪 に Ⅱ臥が︵なものがある﹂︵ 7 ︶と言われる場合、可能性 は 、ものがものであることの所以、つまり本質 と 、そのものをもの として在らしめる存在に向けての意味とを、 独 自 に重ね合わせて考えられている。ものが可能的 だということは、 本 質を示す論理的な意味だけではなく、更にもの が 、そのように在ろうとする存在的な意味をも 含 む 。従って神の悟性 0 対象であった可能的なものは、そのものの本質 において、在るものになっている。だからこの 存在性が、実在的で ないからといって、 板空 的な想像の所産とかの のりのコ % の コ ヨコ的と同一視することはできない。 可 能

性の中にある

︵ かひ目ゑは 、どこまでも創造に先立つ理念的存在 だが、現実的な実在と較べると、それに 向 おう とする在り方、それの を 求めている状態に在る存在と言えよう。もの が 実在化されるのは、舌ロうまでもなく神の創造酒 動を経てからであ る 。それ以前の可能的な存在は 、 神のこの営み に 組み込まれるのを待望し、期待しながら 跨 って いる存在であろう。 ︵ 60 ︶ ところで現実以前の可能的な存在も 、 何らかの 存在性を持っ。﹁本質すなわち可能性﹂でありな がら、 一 ・可能性の中 ︵ 4 ︶ ものもないだろう﹂とか、﹁あるものを である神の悟性の中にだけある場合に、 あっても、悟性の中にのみ在って、それ 悟性が見ることによって、可能的なもの して事物を考量 し 、比較弁別するだけで 遠の真理に含まれているだけである。そ は、元来一 つに 結びついたものと考える てそれの存在性が表われる、あるいはそ たと思われる。 可能的だと呼ぶためには、それについての概念 が、 言わば可能的な存在の国 -555 ︶ 造ることができるだけで十分だ﹂とも語る。 可 能 的なものは、悟性の対象で に 先行する存在でほないようである。もちろん 悟 性の中に在ると言っても、 が 始めて存在し出すわけではない。ライブニ ッ ッ によれば神の悟性は 、 主と 、生成する働きを持たない。可能的なものの 本 性は 、この悟性の中にある 永 ぅ であれば、対象化される可能的な存在と、 そ れを対象的に見る神の悟性と のような可能的なものだからこそ対象化される べきであろう。両者の間に先後関係はない。悟性 という、同時的な融合があっ 0 対象にされることによっ

(7)

がそのまま存在化して実在的なものになって い る 。逆に言えば、存在要求を自ら充足し実現して い ることを本性とす るものが、神としての可能性を証明されればよ い 。そこでは実在性が可能性を要求する条件であ り 、前者が終局的に は 後考を収 赦 してしまう。 ︵ l l Ⅰ Ⅰ︶ であるために、ただ可能的であれば十分であるし だから可能的だと言われる時には、既に可能 性の中で、存在根拠 ライプニッツはこの在り方を、ものの本質すなわ ち 完全性に応じて存在しょうとする傾向とし、 可能的なものは本質 ︵ c0 ︶ の中に﹁存在を要求する権利を持っ﹂と表現する 。存在を要求し、存在しょうと努めていること を 通して認められる 存在性、権利や要求を持つことにおいて示す自 己の在り方が、可能的な存在の特徴に他ならない 。そこには自立的な 被造物が、現実の世界で自己の存在を充実しよ , つ とする原初的な、しかも多分に懇意的な姿が見 られる。 可能的なものは、存在を要求する存在である。 現 実化への過程としては前段階に留まるが、しか しそれは創造に関 する神の意図に決して無関係ではない。神はそ こから世界の構図を描く。このことがいかなる 経 過 をとるか、特に無 数の可能的なものを、それぞれとり纏めた可能 的な諸世界が、神的数学に基 く共 可能性の条件を 媒介にして、最善の ︵ 9 ︶ 世界へ限定されてゆく様子 は 、今は省きたい。 た だ 注意せねばならぬのは、多くの可能的なもの が 、この世界の系列 に 組み入れられるとしても、それだけで自動的に 先の存在要求が実現するわけではない、可能的 なものはどこまで も、 自らそれを現実化し ぅる 資格を持たないこ とである。可能的なものの存在は、文字通り可能 的な次元に局限さ ね 、現実化を神の計いに 侯つ 。従ってそれの 水 質 Ⅱ完全性が 、 神のと異質であるのは言うまでも よ Ⅰ @ んし Ⅰ。 普通に舌口われるように、ライプニッツも神を必 然 的な最高の存在と考える。神の存在の本質的な 意味は、自己自身 によって存在するものとして、自己の存在理由を 自己内に持つところにある。神が﹁現実に存在 するためには、その ︵ 0 I ︶ 可能性あるいは本質だけを必要とする﹂ことが ﹁神の本性の卓越した特権﹂に他ならない。 神 については﹁現実的 (448) 6

(8)

注 ︵Ⅰ︶ し T づ呂 -0 の。で三の りす 。 コ のり ゴユ ︵︵の コづ 0 コの ・ ミ ・Ⅰの子 コ ざく 0 二ののまド印︵ 一 し曲 せ @ の・㏄下つ ︵ 2 ︶ オ 0 ミリ﹁ 由ヒ ののの 仁 ︵ 鼠 すまお目の プミ ・ ト ﹁ コ ㏄三千の浅 す ・ 目 ・の・ 肚 ㏄ ︵ 3 ︶のの﹁ す ・ せ @ の・ Pl0 ︵ 4 ︶ ヂご ピし・の・いけの11 べ ・ り h. の・ むト肚 ︵ 5 ︶下す 笘 バダ汀子 三 za コ卜 ﹁ コ 八三丹︶の㏄の・ ゴふ ・ の り Ⅰ ゴ ・Ⅰ・の・り切

垂心︵

月リ ︶︵Ⅰ 1 ︶ののⅡ ゴ ・メト - ・の・の︶ お ︵ 8 ︶ @ ヴ @ 隼 ・の・ウトウ。 り ︵・の・むつの ︵ 9 ︶この問題と共に、可能的存在のやや詳しい考察 ほ ついては、拙稿﹁ライプニッツの実体論の間 題 ﹂、 哲学研究四九三、四の イ ︵㏄︶のの︵ オ ・︵ せ ・中ト トっ ︵ 皿 ︶のの﹁ オ ・ く w. の・ め ︶ 轄 ら、笘ぎ曲 ︵ 田 0 を悪とするライプニッツの趣意を 探ることができると思う。 造物に対する 係 わりを受容する時の不完全性を 制約する基体になる。われわれはこの二 つが 結び ついた不完全性か 足踏みの状態に繋ぎ止められている。不完全性 はこの 徴標 である。そしてそのことが、またやが て 創造する神の 、被 に、 造られれ限りは、自らの実在性に決着を つ け えない空虚さを持っものである。被造物は木質 的に、存在に目って 本質的に纏わる存在論的な不完全性である。 被 造物とは神によって造られるものを意味するだけ では低い。それ以上 え % 烈 であっても、実現の保証を自己自身で持 ち えない場合には、要求すればするほど自己の在 り 方が、要求のはか なさを示し、反対に要求することが、自己の在 り 方に含まれた空しさを知らせるであろう。それ は 可能的な被造物に もそれを自ら 潤 しえず、要求に応えるだけの 根 拠を自己内に持たぬ狭間に止め置かれている。 存 在への要求が、たと それに対して可能的なものの本性は、両者の秩 序を転倒したところにある。言わば存在への要求 を 抱きつう、しか

(9)

一 "' 一 可能的な被造物の不完全性は 、 上に述べたよ う に 、さしあたり存在論的な意味と、その結果が 、 神の働きを受容 す る 制限に見られる欠陥へ結びつくと予想した。 し かし何故に存在論的な不完全性の係累が悪にま で 及ぶのか。ライプ 二ッツ はこの不完全性が問題になる可能的な領域 、つまり被造物の﹁観念的な本性に悪の源泉︵ ︶㏄の。 由 Ⅱの 0 口亡臣 レひ ︶︶ が 求められ日この領域にこそ﹁悪の起源︵㌔。 ふ 沖田 コ e 宙 年日の︶︶が見出される﹂︵ l ︶と指摘する。 そ こに悪の観念的な原 因 があるのは、やはり前述のように可能的なも のが、完全性の程度に応じて存在を要求しながら 、存在根拠の自己 欠 如 という不完全さに曝されねばならなかったか, らであろう。この不完全性が悪の源泉に結びっく 意味を持っとすれ ば、 少くともそれは、単に神に対する完全性の 水準の低さや、不十分さという、静止的規定では ない。この点をライ フ ニッツの考え方を付度しながら、もう少し延長 してみよう。 がんち い 現実的であるためには可能的であれば よい神と、可能的であっても現実的ではありえな ぃ 被造物とを、 共 通の尺度で測ることはできれはずである。必然 的な神に対して、被造物が偶然的である理由は 、 自己の存在と非存在 ほ ついて、また働き方の如何について、限定す る 絶対的な根拠を自ら持ちえないからである。 し かもこのことが、 あ らゆる意味での被造物の本質的規定である。 そ の 限り存在根拠の自己内における有無は 、 神と 被 造物との質的な区別 であり、それを一つのものの優劣という量的な 格 差 に還元することは許されぬ。あるいは最高の モナドとしての神 と、 創造されたモナドとの間に、︵ 2

︶連続

律 による 独特な脈絡が考えられようとも、そこに含まれる 無限少の差の限りな い 連結は 、 実は無限大の差と対応している。それ 故に神と被造物との間には、連続律を介在させ ても、あくまで埋め られぬ無限の距りが残る。一方を完全な存在と すれば、他方は端的に不完全な存在でなければな らぬ。それは可能的 (450)

(10)

として、存在要求を実現するものである。けれ どもその場合、今舌口った㊤

含んで存在していたものを、そのまま現実化す る 。ライプニッツは神の -35 ︶ 創造が、被造物を可能的状態にあるがままで、 現 実性に移すだけだと考える。もちろん先に略言 ロ したよ う に 、ア しれに 悪の中に差し込んでいた。それが神の働きの受容 を 制限し 、 隠れた谷間となって悪を溢出する 源 泉 になるのである。 不完全性は、表面的に考えると、前者の墓にあ る 完全性を欠如した部分、または前者が内包する 一面と見られるかも しれない。だが不完全性は、そのように存在性 に 呑み込まれ、便宜的に 併 列されるだけでは片づ かないものを含んで いるのではないか。たとえ存在性の 一 契機と仮定 しても、そのことは、既に可能的なものが、 自 らの存在に、責任を もって決着をつけえないという、存在の性 枯全 体 が不十分である証拠になろ う 。そのように可能 的なものの存在の全 面 に共鳴するとすれば、もはや不完全性は 、存 在住の一面とか、その構成契機の一つではなく、 ある程度の完全性を 持っものの存在のし方が、むしろほ ん らい不完 全 であったことを 証 示する。そこに神と区別さる べき被造物の本性、 その存在性の隼 か ︵ 簿 巨を認めうると思う。 不完全性を前には、可能的なものの存在要求の はかなさ、存在そのものの空しさを浮彫りにする と 言った。それを 今めことと関連させると、次のように考えられ る だろう。存在への要求が単に要求に終わらざる をえな い のは、努力 するものの存在にっきまと う 不完全性が、要求 を 無化するごとき 目無ヒを 含んでいたからではな いか。逆に言 うと、 この無が、可能的な被造物の完全性に空洞を作り 、 割れ目を生じさせて不完全性へ転落させるの ではないか。被造物 は 所詮、そこから脱け出せない。被造物は被 造 物である限り、既に可能的次元にあった時から、 本性をかかる制約の な 被造物の不完全性を 、 単にそれの存在性の一美 機 とみなすことが許されぬ意味を表わして来る 。存在性は、可能的 なものが存在を要求する時の基盤になった木質 巨 里 、すなわちある程度の完全性から類推された。 この存在性に対して

(11)

ついては、 共 可能性に墓いて最善の世界を決定す る 神の考慮、選択および 意 ギ心決定という一連の 活動が必要である。 従って可能的なものが直接、無媒介に現実化さ れるわけではない。最も共可能的な全体に統一さ れる限り、最善の世 男系列を成立させるに適わしいものとして、 神 の 吟味を媒介してから実在に 斎 らされるのである 。しかしながら 神 は 、ライプニッツによれば、可能的なものの 水 質 内容を自ら注入し充填して、無から創造するの ではない。むしろ 完 金性の程度に応じて内容を異にする多くの可能 的なものが、要求する存在を世界系列の中で満 す ために、それらが 相 互に結合する関連形式を設定し、実現すべき 最主 ロ 0 世界に包摂させて充足するのである。だから そこでは、可能性の 状態における被造物の不完全性は、そのまま 変 ・ ぇ られずに、現実の世界へ入れられる。創造は 、 不完全性に見られる ︵ 4 ︶ ﹁悪を、許容するように神を規定し﹂、﹁最善の世 界も悪を含む﹂ し 方で行なわれる神の決断であ る 。 創造作用は確かに、存在に回って努力している 可能的なものの要求を助けて 満す、 神の計いに 違 いない 0 そうであ れば被造物の本来的な不完全性も 、 神の働きに よって消滅する感じを与えるかもしれぬ。しかし ながら先の主張は 、 不完全な存在が決して、全面的に完全性へ引き 上げられ、 翻乾 されないというのであった。たと え 神の計いが被造物 の 全面に及ぶとしても、不完全性は言わばそこか ら 脱落したものを被造物の内に残す。このこと は 、創造する神と呼 応 関係に立っ可能的な被造物の在り方、とりわ け 存在と受容との両面に見られた二つの不完全性 の 結びっきを、われ われに想 い 出させるだろう。 神と被造物が呼応する事情についてライプ ニッ ッは、 二つの点を言及する。㈲、創造と共に神は 一方では、﹁ 披造 ︵ 5 ︶ 物の中に積極的なものがあるのを産出し保存し、 それに完全性と実在性 とカ とを与える﹂。そこ では、創造された 車 物が 、実在性を持ち、それに 塞 いて自己の本質 を 積極的に展開し実現してゆく 力 を具えた、生け る 実体であることが 示される。可能的なものは摂理に濾過されて 捉 ・ ぇ 直されたのである。だがそれは、前に触れたよ うに、可能的な本質 ひ 52) 10

(12)

﹁受容性の制限︵ 寸 二目︵ 曲 ︵∼ 0 コ 隼の絃︵かりのでこ

目 ︶﹂︵ 0 2 団 ︶ にある。しかもこの制限を﹁存在の始めか ら 受取らざるをえな Ⅰ 1 プヱッツ の 悪 ぬ 容の変易ではなかった。被造物の理念の中に もともとあった積極的なものが、神の働きを通し て顕 わになっただけ である。換言すれば完全性と実在性とを与える 神 の 働きを、対応的に受取るところは、被造物の 可能性に

存在 要 求の基にあった何らかの程度の完全性であ り 、それが今、神の働きを契機として現実の完全 性 、要求の充足され ︵ 60 ︶ た 実在性へと対自化される。従って現実の被 造 物の ﹁完全性が神から来る﹂というのは、可能的 なものが、がん ちい 持っていた完全性が、創造の摂理に収納されて 臼 却揚し、 神の認証を経て受取り直されたことであ ろう。㈲、ところが 他方では、完全性の神からの到来にもかかわら ず 、不完全性が被造物の個有の本性から来ると、 ︵ 8 ︶ そして﹁神は被造物に一切を与えることができ ない、さきないと神にしてしまうしと 断 わる。 わ れわれは文字通りこ の 主張を、最初から神が故意に、被造物への働き を 手控え、それを不完全なものに固定したとい う 趣旨に採ることほ ︵ 9 ︶ できない。神はもちろん被造物を神にはしない。 だが﹁自己の姿に似せて﹂円ョ 曲 的のを造るほど の係 わりが開けてい る 以上、これを抑止する原因は、被造物の受取り 方 にあるはずである。このことを神の最善の世 界 計画が許さぬ とい -0 l 人 ︶ う 側から問題にする ピ ヒラーに対して、ここでわ れわれは、可能的な被造物の保有した完全性が 、どこまでもそれか ら 離脱しえなかったという、根源的な不完全性 の 頑な現われを見たいと思 う 。存在論的な不完全 性が、 神からの受容 性を制約すると前に言ったのは、このことであ る 。神は不完全な存在をも、底から包んでゆくか もしれない。しかし 被造物を現実のものにする働きに、受動的に対 応 する存在者は、常に不完全さに纏綿され、神の 与えるものを十分に ︵・ l , ︶ 受取りえなかった。﹁光りの 父 ︵ こ 口の︵の年のの︶ けョ ざぉ ③﹂による照射がどれほどであろうとも 、この光りを速さな い 幕が被造物に影を作っている。それは神によっ て 実在化されながらも、なおその中で、神の光 りを受付けない影の靱 ままで、現実の世界に入ったのである。神と区 別される被造物の個有の本性の特徴は、そのよう な 神の働きに対する

(13)

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︵ 4 1 ︶ 与えたことにはさせないし、被造物も造られな がらなお、﹁神の働きを制限する﹂遮蔽を隠し 持 っ ことになる 0 そこ い ﹂ものに、被造物を固定させたのは、それ 臼 身の ﹁ 穏 公的な理由﹂、つまり不完全のままで 存 在を求めた欠如的な 本質であった。従って先に被造物が含むと舌口 っ た 無は 、 神の働きを受容する不完全さ、すなわち 制限された受容性を 惹き 起すと共に 、 逆にそれによって一層 庇 へ 深 く 沈澱してゆくに相違ない。 以上のような二重の呼応関係をまとめると、 ほ ぼ 次のように 約 舌口してよかろう。㈲ 、神は 被造物 の 側での受容性の 程度によって、完全性と実在性を与えるだけで ある。つまり被造物は﹁その受容性の許す度合に 応じて⋮・・・完全にさ れるこすぎな | し︵ 、 3- エ ﹂。 その限りライプニッツにとっ て、 神の造る田経㏄のはどこまでも仮像であって 原 像ではない。両者 の間には無限の距りが残る。㈲そしてこの差が被 造物に陰影を宿すのである。それは結果的には 、 神をしてすべてを (454) 12

(14)

ライプニッツは﹁悪が闇のようなもの 客 0 ヨ 日の

根本的制限をなす 存在論的な不完全性と、それに基因する受容性 の 制限とが、光りの父の働きを摂取しえないとこ ろ にたかりる。舌口 わ卜 H い古 Ⅶ 川 者の本質的な結合に見られる欠如的な本性が 、闇 を手引きする 笘ぎひ ︵ ヰ 。に他ならない。それが 悪 であるのは、 神か ら 実在性と完全性を許与されたものが、なお 完 金性から脱落して不完全性を残存するように、 底 でしむけるからであ る 。造られたものがそれ自身の内に 、 造られぬ ものともいうべき独自性を留めることは、神に対 して自己を開いてゆ かねばならぬ時に、なおすべてを開けない市立ち と、 神からの一種の退転を起すであろう。この ような隔離または 閉 塞の中に、偶有の本性を存続し、不完全のまま に 自己を陰蔽の中に置くことが悪なのである。 牡 宮口︵ 円 0 が直に悪では ない。その中に悪の成立や構造を帰結させる 根 源 的な理由が封入されているために、 根沖 的な不 完全性や欠如性とい う笘才菜 @0 が悪と見られる。被造物が現実の世界 で、自己を展開してゆく途中に表わす物理的な 亜ゆ ︵︶の ヨ の︶で ゴ Ⅱ組戸ロ 0 ︶ 悪 のや道徳的な悪︵こ日三日 0q 呂 ︶は、いずれも 由来するその起源をここに持っている。それを ライプニッツが﹁形而上 ︵ 2 ︶

のは、この悪が、現実的な悪を形成し表現する 超越的な根拠であり、 一

ような 口 Ⅱ 円 va ︵∼ 0 における悪が 、 逆に神と 被造 物 に対して、どのような 波紋を及すか。その究明は 、 悪をめぐる彼の考・ えを特徴づけるのに役立つだろう。 13 (455) 四 ︵Ⅱ︶のの︵ ゴ ・ ミ,の ・ Po ︶ ︵は︶ @ ヴ乙 ・の・︶ めつ ︵㍑︶ @F 乙 ・の・︶ NP ︵ u ︶ @ ぎ・の・の ヰ川

(15)

場合、理由は同じ川が 、 舟に与える流速の違い によるのではない。舟の連動の相違を、ライブ - 一ッツ は同じ流れを 受 だ 問題は、それと関連して、﹁主は地の上に人を 造ったのを悔いて、心を痛め、﹁わたしが創造し た人を地のおもて ︵ 6 ︶ ら ぬぐい去ろう。⋮・・・わたしはこれらを削った ことを悔いる ヒと 言われた﹂意味である。この 主 旨を ライプニッツ 所論に組み込めば、悪の現実的な成立に対して ではなくとも、およそ悪の可能的な成立の余地を 残し、被造物をそ 狭間に放置したことに、悔いる神が関係しはし まいか。簡単に舌口えば、悪を知る不完全なままで 造ったことに、 神 -7 ︶ 係 わるかもしれない。間接的ながら神は 、 悪の 原因としてライプニッツの言う﹁質料因︵ 田 np 仁 のの口口 目曲叶 ︶の ぺ 0 ︶﹂ なるだろう。だからと舌口ってそれを、悪への神 の 責任とみなすのは過剰であるし、彼も峻拒する のが当然である。 この間の事情を 、 彼は川の流れと舟の遅延との 関 係 に警える。流れは、積荷の軽重にかかわらず 、 舟を動かす 原 である。しかし重荷を積んだ舟の運動が遅い原因 を、 流れに集約するのは適当でない。一力の舟 が 遅く、他方が速

ある。そのままで創造することを﹁良し L とす る 神の意図を、被造物自身が﹁良し ヒと 摂受する ことが必要であろう。 ︵ 555 ︶ 根源的な不完全性を自らの責任とし、曝して 神

ほ とどまみない﹂。 た 能 性の状態にあるがままで創造するにせよ、 そ のようなし方で創造したことをもって 、 直に神へ 帰責するのは疑問で ろ う 。﹁あなたがた きに 唆 かされ、﹁ 人 0 目が開け、神のように善悪を知 ︵ 4- がわれわれのひとりのように﹂ な る 者となることを、神は知 ることは、神の意図ではな -3 ︶ っておられる﹂という蛇の狡 狙 な 哩 かった。たとえすべてのものを、 可 悪の随伴が、被造物の本質的な条件であるとす れば、神は果して責任を免れえよ うか 。古来から れた悪と創造者をめぐる葛藤は、そこから神を 跳 出させるキリスト教の論調をも、しばしば揺り 動かした。根源的な 不完全性が、もともと被造物の存在と同時的であ り 、そこに悪の芽がある以上、これを刺さず 凌 深 して完全性に転換④ せぬ限り、創造も悪に係わるかもしれない。 だ がそれを、予め被造物自身が神に求め期待するこ とは、 却て 不遜であ

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,, ノ ーッノ

制限された受容性を伴な う 物質の性格を 、デヵ ルト、ケプラーと共に、ライプニッツも惰性︵ 田 の ︵︵∼の︶と呼ぶ。それ が 運動の受容を自己限定的に制約することは、 被 造物の欠如的な本性が不完全性を限定する形相 であることに対応す る 。換言すれば物質の惰性が遅延の形相因である よ う に、根源的な不完全性という 笘ぎ at 円 。 こ そが、神を措いて 悪 に 責任を持っべき形相因でなければならない。 悪の所在がこれまでのところ、不完全なままに 自己を残し続ける被造物の、偶有な欠如的本性Ⅱ 惰性であり、そこ が 神の光りを受取れぬ影になると舌口った。その 眼 リ ライプニッツが悪を、能動的に生成の側から ではなく、受動的に 存在の面で考え、主知主義的な存在論的立場か , ら 照明していたのは否定し難い。われわれが不完 金性から論究し始め たのも、神によって存在の明るみに 斎 らされるも のの中で、闇に籠る在り方が問題であったから である。それ故に生 成因の働かない以前のところが、さしあたり 彼 の 関心の焦点である。﹁悪の形相は少しも生成因 を 持っていない。何㊤ ︵・・ l Ⅰ l ︶ となればそれは瞑ぎ堅 い 0 コに、 ・・・:すなわち 生 成因が何ら働かないものに成立つからである﹂。 もし影が光りを積極 的に 捺ね 反し、自己を閉ざして神に対立し 、背 を 向けた別の働きに自己を表わそうとすれば、 逆 倒 的な我意が悪の生 1 ない可能態としての遅延の質料因になっても、 そ れを本質的に性格づける形相因︵寸のきのの 卸け め on 日のむとはなりえ - ⑯︶ ないのである。積荷の本質が﹁ 受 取るに違いな い 働きかけの結果を、自分の受容性によって 縮 少している﹂。かかる 取る舟の在り方、つまり積荷の軽重による舟の 流速に 力が、 ちなみに神の働きに最もよくあたると、 舟 の運 ように、被造物の本質的な不完全性は 、 神の働 きを 制 の 原因である流れが、速く流れぬことが舟を遅く して しかし一定の流れから見ると、流れが﹁舟の速 力 の 原 対する受容性の程度に求める。舟の連動に対し て 流れの与える 動の遅延が、積荷の重さによる流速の制限され た 受容性にある -8 ︶ 限し 停滞させる。舟の遅延を抽象的に考えると、 運動そのもの い るかもしれぬ。それは限定されない遅延の質料 因 であろう。 ︵ 9 ︶ 因 で、速力の制限の原因ではない﹂ように、 流 れは、限定され

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︵Ⅰ @ りえないものの、神の光りの弱りとして考え ろ れるであろう。その限りち︵ 片せ at ︵ o は悪を含みつ っ 、なお神に方向 づ 成因となるであろう。だが彼はこのことを、 受 容 性の制限という自己 内 制約に還流させ、我意の 発出以前に引き戻し 6 て、 予め抑止しょうとする。そのために被造物 は 根源的な制限を、自己の外に伺って、すなわち 神に対して自己を頑 回 に主張する手段とは考えず、自己の内に目っ て 課する限定とする。被造物の不完全性は、どこ までも 神 なしには 在 ㈱

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そのことはライプニッツの悪を、消極的ないし は 観想的な把握とする見解に赴かせるかもしれな い 。確かに根源的 制限という 笘 ぎが︵ 田 0 と、その中に囚われた悪は 、自縄自縛的な光景である。それは本来、神に 向ぅ べき被造物が 、 その道行の歩みを止め、自らを忘れて 庁 んだ 状 態と思われる。それは神に逆らう高慢として、 深 淵に 突き落す撃発で はない。 官才緊 ざの悪に、奈落の底で神に 勘ね る自 執は見出せない。しかし彼がこの深淵に気づ かず、底知れぬ暗闇 をまったく知らなかったとするのも 訪 かしい。 少 くともその際に立って、無気味さを予感してい たかもしれない。 身 のすくむ想いを 窯才注 ざに託して、被造物の状 態と働きの到らなさ、本来の方向に向うべき 態 度の誘惑、 邪路 に導 く 可能根拠を考えたのではないか。しかしだか, らこそ反対に 、 彼が深みに身を置かず、悪を眺め るだけで、その繋縛 の中で 蹉映 して破滅する自己と、その蘇りに徹底 しなかった 磯 りはなお残るであろう。悪に 坤吟 する被造物が、どれ ほど苦汁を低めるかを、彼は体現しているか。 さ もなくば人は彼への批判をやめない。 周知のようにシェリングは、制限や欠如に依拠 した ライプニッツの悪が 、 神に包まれてある 彼造 物 自身の存在性合 休の申で、善と比較的にしか、善の一つの力 工隙 に、 現われるにすぎぬと批評した。不完全性は被 造 的な有限者に個 有 の 特徴であり、それをライプニッツが悪と見るの は 、シェリングの主旨を比 輸 すれば、神から 張 り 渡された摂理の中 嘘で考えられた未熟や脆さを、秤目の破綻とか 潰滅と見誤ったからにすぎない。それは神の意 図する枠内での不祥事で あっても、神に敵対する自歌的な頑迷な力で はない。シェリングの 拒斥 する矢は、ライプ ニ ッツ が言う欠如的な被 造 ︵ Ⅰ︶ l

れた。﹁われわれは、ライプニッツの舌ロ い キハ刀で 形而上学的有限性が理解 ︵ 2 ︶ されることを否定しない。しかし有限性が、それ 自身で無だということを否定する﹂。そして﹁ 悪は有限性そのもの Ⅰ 7 く 459)

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n9@ が 、しかしその人については、奪取する、強奪 する、盗み取るのが、はるかに重大な悪である﹂ 0 このような他を廃 このような後者の方が、前者よりも、一層大きな 悪 である。与えられないことは、求めている人 にとって悪である ︵ 00- もない否定である﹂。だが剥奪の悪は﹁積極的な 根拠を前提にしており、実際に他の根拠を持っ 善を廃棄する。 る 逆の実在という意味で、負号︵一︶で表わされ るべきである。欠如の悪は﹁それに対立した定立 にとって 、 何の根拠 ︵ り 1 ︶ の 二 つが 存する﹂と主張した。厳密な意味での 亜 ゅは 、ただ 善 ︵十︶を欠如しているのではなく、 む しろ相殺して消去す ︵ り 3 ︶ からではなく、自己存在にまで高められた有限 性から来る﹂。つまり有限な被造物を 、 神に対極 する他の独自な存在 ︵ 4 ︶ へ、自己の栓桔を勢威に翻す﹁原理の積極的な逆 転 、または転倒に 墓く ﹂乖離が 、 真の悪だとす る 。それ故に不完全 性や欠如や惰性が、この悪に結びつくためには、 いずれも逼塞せしめられた 境 位を去って 、 白ら 惇逆 する力を持っ積 極 的な自立性の様態とならねばならぬ。ライブ - 一ッツ は悪の存在を観念的に説明する認識根拠を 指摘したが、悪を悪 たらしめる力の実在根拠を示しえなかった。 シ ェ リングの批判の焦点は、ほぼそのように言い換 えてよかろう。そこ には ライプニッツの所論の弱点が 、 確かに析出 されている。彼の立場からは、 菩才 at ぃ o が悪の 消極的な概念として ︵ 5- ﹁単に受動的なあるもの﹂であり、﹁制限、欠乏、 剥奪﹂は、﹁悪の個 有 な概念と完全に衝突する 概念﹂にすぎないで あろう。しかしながら鋭敏な分析も、相手の表 現の不備を突破して、どこまで基調を崩し解消し たかについては、 い わゆる神の内なる自然が被造物の本性を貫通す る 時に裁断さるべき不明さを残すことから舌口って 、なお問題を余して いるのではないか。 率直に舌口ってわれわれは、ライプニッツの中に 、 カントが初期に言ったほどの積極性の表現を 、 ︵ 60- カントは積極性が、実在的対立を通じて、一方 による他方の廃棄を斎らすと舌口 う 。そして 負量概 念を単なる論理的 否 定 とする考えを是正し、それを悪の間 題 に導入 しながら、﹁欠如の悪︵ ヨ ㏄︶ 9 年の︵の 0 ︵仁の︶と剥奪の亜 心 ︵ - ゴ ㏄ ざでユづ ㏄ ヱ 。 コ ㌃︶ (460) 18

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対立者となる時だと言う。 悪の意味を以上のような積極性へ決めつけると、 ライプニッツの 拠 所は悪に不向であると思われ よう。しかし 逆 に 、もしあるものが、神の裁量の枠外にまった く 絶縁して存在し、そしてそれが自己の自立性の 証しである場合、 い かにしてそのものが悪として限定しうるか。 断 絶を介して独立性が始めて主張されるならば、 神 0 世界の外に自己を 自由に置くことを、直に悪とする必要はない。 そ れは悪とも無縁である。神と離れながらも、 そ れが真に自立的なら ざる逆立ちした無用の自立性として、神の通観 しぅ 6 周辺に位置づけられねば、悪にもなりえな い 0 カント やシヱり ング の立場を極度に拡 延 すると、かえって悪が 亜 ゅ でなくなる別の世界、つまり 神 なき人間の世界 とか入神の世界に埋 没するであろう。そうであればわれわれは一概 に 、ライプニッツの言う悪が、空虚だと切捨てる ことはできれし、 な ︵ 2 @ Ⅰ ︶ お限定された意味での積極性を認めうる余地が 見出されよう。

悪注

︵ 1 ︶シェリングの見る限り、不完全性や悪 が 欠如であるのは、完全性や善 と係 わらせ ぅる 範囲内 で、比量的立場から類推した 結果である。それらは他者の反対概念である。それら は 他者の反対概念であっても、もともと比較の可能な 場が 、他者か プニ, ら 設定されている、あるいはそのように神が配慮して いるとすると、それらは他者に支えられて存在するに すぎなくな る 。そこには他者の単なる反射、縮減された写しがあ るだけで、それを封殺する破壊的な対陣がない。 シ ヱ リングの 目 には、ライプニッツとの相違 が、 悪を神に対する力学 的 対立に入れる必要を知るか、知らぬかにある。︵ 目 のの ア 0 目 @ 口内 一 19@ C461) - Ⅱ - グの 見方であった。悪が悪として成立するのは、 神の裁量しうる範囲内の対象ではなく、﹁ 我性 がその断絶において﹂ 棄 する力の中に 、 悪を見るのは、 ヵントとシヱ リングに共通する洞察だが、 セ ︵ トづ at 円 o コ という言葉で悪を語るライプニッツの 所論に求められない。彼の ︵ ハ l u- 人 に 近い感じを与える。それに対して、この悪に は ﹁力 め 卓越性と結びつく﹂ これと同義の積極性はカントと共に 笘才藍ざは カント的に言えば年の︵の c ︵目の 積極性が存しない、というのが シヱリ ン

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︵ 2 ︶ たとえば彼が、惰性を﹁動くものに対する一種の 嫌悪 父 ので 由ゆコ の 乙 ⑧を与える﹂と言うのは、 動 くべき時に動こうと Ⅰ "" ⅠⅩ 不完全性をこれまで、ライプニッツの心情に合 わせて、被造物の存在性全体に係わり、受容性の 面 と共に神へ目を 閉じた在り方と考えた。 笘ぎ巴片 0 が意味するの は 、さしあたりこの欠如的本性、惰性であり、 そ れが神への歩みの 休 歌や停滞を起す限り、悪とされたのである。 と ころで惰性は単に物質に内在した自然性として、 それ自身が直に悪で はなかろう。しかし力の作用を受けない限り自 己を持続しようとする惰性が 、 悪に係わるのは、 それを本性として 示 ︵・Ⅰ @ す 被造物の在り方が神に対して問われるからで ある。神に伺ってこれを表わそうとする態度が悪 への結節点になる。 已 むの q&p の旧ののの コヰ の へヨ の コ の りゴ汗ゴ 0 コ 円 ﹁ 臼ゴの @ ︵ , @ ヴ @ 宙 ・ の い ㏄ つ| けのつ︶ ︵ 2 ︶ まご ・の・い のり ︵ 3 ︶ ぎぎ ・の・ い の り 。トコ日のⅡ ォ ︵ ノ叶 ︶ ぎぎ ・の・ ぃ白 ㏄ ︵ 5 ︶ 子ぎ ・の・ い っ っ ︵ 6 ︶ cf. パギ ︵ @ 口 笘へ ナ次ⅠのⅡ コ の的 笘 ぎの コ の つ ひしの コ,トオ ㏄ 口 ・やロのめ・ 巾年 ・ 目 ・の・ P べづ 1トⅡ㏄ ︵Ⅰ 7 ︶︵ 00 レ ︵ ハコ ︶ @ ヴ @ 宙 ・の・Ⅰ㏄ い ︵ 穏 ︶の c ゴ 0 コ ぎ的 一ぎ 日 ・の・ 2 の︶ ︵ 皿 ︶ @b@ ・の・ 29 の ︵は︶ ブ イッシャーは、﹁停滞した不完全、硬直した 欠如の中に悪の 力 が成立する﹂ことを認めつつ、やが てそれが﹁釜ロ の 永遠 な一様性に消えてゆく﹂と言 う 。そして﹁ 悪 と闘い 克 服する善が活動的な原理でおる﹂限り、ライプニッツ の 悪は﹁倒さ れるために存在する 力 ﹂にすぎ ぬ とする。︵二の 0 ゴの 二こ の子 ユ ダ の ・ ま ③けれどもそこに、悪が闘いの相手に の、 善の実現を左右するものして、隠れた力を持つこ とを、もっと注意せねばなるま (-162) 20

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ライフ ヱソツ の 悪 呈示するか。特に固執するとか、先へ進まない という悪意が、どこに積極性を表わして来るか。 その考察には彼の実 体 論を再構成する広汎な手続きが必要だが、今 はただわれわれは、このことの簡単な素描に留め ねばならない。しか しそれに先行する与件として悪意に推量される 力 の一瞥は必要であろう。 形相因は 、 悪を悪として生成させる原因︵生成 因 ︶が 未 だ働き出ない 口 ︵ ぃヰ めヰⅡ な 存在の次元で 、事物に個 有 の 惰 性から悪を考える支点であった。それ以外に悪 を 構成する特別な原理Ⅱや︵ ぃ口 c ぜぎ 日日田のかのロヨ は 不要とされたので ある。この事情を彼は暗さ 、 特に寒を引き合に して、寒が水の微粒子を分離する運動の減少、 っ まり水の個 有 な運動③ 力 0% 宮の ︵ @o にすぎれとき 目う 。しかしその場 合 、運動の減少や欠如が 、 単に運動状態の変化に 終わらず、なぜ 更め て寒と 規定されるのか。そこには何らかの意味 で、 寒と 舌口わねばならぬ理由が、やはりあるので はないか 0 シヱリ ン それではこのめ性 ペ う ﹁悪の遠因︵ ゎ の岸の㏄ の場面で、形而上学的 悪 ︵ ヨリざヨ 日の︵ 曲 屯す ぜ の∼ づ 年ョ︶を源泉と化した、根源的な不完全性とい ︵ 41 ︶ 宙のヲ のでⅡの 日トの Ⅱのの︵∼曲 っト 年の臼 0 ︶的 コ臥 。 り ﹂が 、ど のような﹁悪の近因︵ 8 拐の笘 on ぎぎ ⑧﹂を しないこと て除去でき 時的な眩惑 は、無反省 先 へ進まな 以上に 、そ た 積極性が と思う。 が 自己性の表現とされるからであろう。それは ﹁無知、誤り﹂という思い違いとして、反省的 吟 味 によっ るかもしれぬが、同時に﹁ 亜 生息︵ 昌ィリ甘 いの︶﹂︵ 3 ︶がそ こに潜むのも見逃せ低い。判断の誤けは、些細な 偶然や一 によっても起る。だが 亜里思 は﹁神の働きを制限 被 造物の作為を含むと言ってよい。それ, りの中に の 結果だけではなく、むしろ﹁この考えに固執 し ︵おい 目簿織 ︶ 、 ・・・一定の場所に踏み 習 って谷の ヨ 0% Ⅱの パ ︶ コ である﹂そうであれば単に本性の受動的な 罎 隙 である こへ自己を繋縛する状態が問題であろう。欠如 に 自己を置く在り方に、 笘 才き 円 。という悪の 、息 を ころ し 覗いていないだろうか。このことは現実の世界 における被造物の表象作用と自由意志の活動面に も 窺える

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家 が、恒久的に判明であり続ける 用の中には、両者の錯綜した絡み 断ち切れない。判明であると息っ あったという不安定さは避け難い とは限らない、むしろ錯雑に陥るかもしれぬ 危 険 性を常に 苧む 証左である。表象 作 合いが伏在し、その時々に判明 相 表象を志向し ても、他へ転轍、変易する可逆性を た表攻が、 実は見誤った表出であるとか、反対に 危惧された錯雑への懸念が無用で 。このような浮動性を内具し、そこから表象 し てゆ かねばならぬところに、 披 造物 ︵ Ⅱ︶ @ の 理性的精神宝のの つユこ でさえ、いぜんとして 錯 雑 な表象をたえず混在させている。それは実体 の 為しうる判明な表 非難した。ライプニッツも格別、今の問題に係 わる特殊的なものを明示していない。そして シェ リングの言う積極的 -g Ⅰ︶ なものが﹁随伴的に︵ 口 ar co 口 co 日臣ひコい の︶﹂﹁ 偶 然 的に︵ロ銭 め cc 日の巨︶﹂現われるにすぎれと 断 わるだけである。 け れどもわれわれにとっては、凍った水が砲身を 破砕する力を示すのは、 寒 という pr ぃ va ︵ 田 0 コが 、 少くともそれ自身の 内に、このような力を随伴 し、 時に応じて発現 しぅる 可能性を秘匿しているからだと考えたい。 もしそれがいかなる 意味でも、 カ とまったく無関係であれば、随伴 的にも偶然的にもおよそ 力 は、事情の如何にかか わらず現われないと 思われる。水の運動の減少が、抵抗力を潜勢的 に 貯え、場合によってはその偶発を予想しうる デ ュナ ーミス、力を閉 ︵ 穏 @ じ 籠めた存在の状態が 、 逆に悪を構成する特別 の 原理を必要とせぬのではないか。もしそういう 考えが許されるとす れば、 シヱ リングの指摘する問題の底辺に 、被 幕 に隠れて鳴動する積極性を、形相因の内面に 遥 写することができよ @ つ 。 このような仮定は、表象の判明と錯雑との混合、 および表象をより判明化する努力や欲求の法則 を 考え易くすると 思う。表象には、最も低次の微少表象から段階 的に高められた諸種のものがあるが、最も判明に 哀史する枝道的実体 (464) グ はそれに関連して、﹁剥奪はそれ自身としては 何ものでもない﹂、われわれに 寒 として気づかれ るためには﹁それが -8 ︶ 現われる何か積極的なものが要る﹂はずであり、 これを欠如 悪に 導入して﹁説明すべき困難﹂が 処理されていないと

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ライプニッツの 悪 の 根源的な不完全性が投げかける、 欝積 された 力の現われが見られよ う 。表象の混在は、混在を 成立させる基盤とし ての、 笘才 里田。が秘める屈折した積極的な力か , ら 考えなければなるまい。同じ事情は自由音写 ゆめ 働きにも見られるで あろう。たとえば神への志向によって 、 善を為 すべき自由意ギかが、悪に陥るのは、善の見誤りや 粗漏 のためではな ︵ 乾 ︶ く 、むしろ悪を善に偽装しようとする作為のた めではないか。悪が﹁善の下に隠れ、善のマスク をつけて表われる﹂ のは、善の稀薄化ではない。それを利用して 木 性を擬遣 する巧妙に仕掛けられた悪の罠である。 このことは、﹁ 見か け 上の善︵ 汀 眩 めコひ浅鴎荘 ③﹂を、﹁本当の善︵

の 脆さに忍び込んで、 裏側から操る悪の策謀だと思われる。 被造物が神への方向において迷うのも、結局は そのためである。混在の中にあった錯雑な表象は 、本来の意味で 表象に価しないが、それで自発性 や 、判明に表 象 する力が、破滅するわけではなかった。けれど も 問題は 、 少くとも このことによって、実現すべき自己の本質への 忠 実さ 、つまり神や世界に対する被造物のあるべ き 在り万に 、 狂いと 震動が導入された占である。ライプニッツは 直 線的にそれを、裏切りとか反抗という、自己否定 的な意味で、明示し たり強調したりはしない。しかしわれわれにほ木 誠実や方向の逸脱が 、 在るべきものをそのもの にさせない抵抗力の 裏返された作用として看取されないか。感覚的 な 喜び︵ 匡注 の 片 Ⅱ︶や情念︵でがのの 山 0 コ ︶が、表象の 完全性の感情を制限 し 、﹁神との一致に見出される幸福を邪魔する︵

念に 耽り、貫徹によ って﹁ 悪こ ,@, @5 決を見出す﹂ ︶ーことは、神の音生心を推定 する人間の理性的精神の最大の恥辱であり不倫 快さである。しかし ︵ W@ ︶ 何故に十分な反省が妨げられ、コ情念が理性を 凌駕﹂︵ 6 1 ,したり、見かけ上の善が﹁本当の善を圧倒 ︶ する﹂惑いが 蒼

らさ㊥

れるのか。われわれはそれを、たまたまある 場 含め 、理性活動の到らなさとか不在を示す欠如 状 態の結果とするだけ では足るまい。更に越えて、 理 桂を圧倒するほ どの、情念の凝縮された力の 墳 りと考えたい。 神 に 伺っての誤った 自

(25)

(466) し ま が わ れ 知

い 反 徒 て っ 自 れ わ を 火 曜 、 逆 っ 、 た 己 が れ 盗 間 を 前 す て 悪 時 の 誤 を に の 見 へ る 神

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ハ 発 性の発動は、それ自身の所為だけではない。 自 発 性の奥にたがるする無規定な力の押し上げに よるのではないか。

(26)

悪 神に造られたものは、常に指目して神を凝 祝 し続けることが必要である。逆に言えば目を 閉じて、自己の不完全さ

か 、やがてそれに縛りつけられる 惧 れがある。 われわれはたえず、それ 峨

ろん根源的な不完全性を超脱することはできな ぃ 。だが不完全さに 補 わ れて流されゆく性状を、そのつど新しく上回っ て 否定し克服する努力は 、 再び神を、被造物のあ るべき在り方を、 瞭 2

︵ 3 ︶ ぎ乙 ・の・ トぃ Ⅰ ︵ 4 ︶ ぎ @ ・の・の ミト ・の 朋壌 ︵ 5 ︶︵ 6 ︶ @ 田 ・㏄・ トいり ハ 7 リごぎ ・の・ ぃ ㏄の ︵ 8 ︶のり オ 色 ぎ洩 一子 田 ・の・ ぃゥト ︵ 9 ︶の っ ︵ プ ・ そ H. の・ め 0l.N ト ㏄ ︵ 托 ︶ C ︵・㌧ ざオ汀 ﹁ 一ぎぎ ・の・ 2 ∼ ド ︵Ⅱ︶ Cf. のの オ ・ せロ ・の・の つ p 。 2 のめ。 ひ 00 ︵ ば ︶ ぎミ ・の・ 20 ︶ ︵㎎︶ ざぎ ・の・ 20P,Cf. の・ びっ の ︵Ⅱ︶ @ 三 &. の・︶ めめ ︵ 騰 ︶ ぎぎ ・の・ 2 のめ ︵ 托 ︶ @ 圧由 ・の・ め 09 ハ l ︶ @b@ ・の・ め 0P ︵㎎︶ ぃめ ・ ぎ @d. の・ 2 の つ ︵ 騰 ︶ ヨご ・の・ P22

(27)

然 と発見させるであろう。さも低くば 口 ﹁︶ va ヰる の 悪は 、 次々と悪を呼び、やがて神への反逆を 唆 かす因になるかも しれない。ライプニッツの直観が、かかる 轟動 を 感じているのは、アウグスティヌスにおける 亜 ぬの 思想の展開が 、自

の 限りシェリングの舌口 う 積極的な悪への道は遠 いようで、実は案外 近い。われわれの油断は 、 魂の中に存続する 許 された限りの完全性を曇らせ、不完全性へ引渡し てしまうだけではな く 、それを唯一の自己主張に化する危険がある。 ライプニッツが、より判明な表象への欲求を重 祝 し、不屈の精進に よる抵抗の克服を通じて、絶え間なき発展を最 も 強調したのは何故か。精神の怠惰を乗り越えて ﹁新しい喜びと、 @2 ︶ 新しい完全性とに向日永遠の進歩﹂を目指す のは、 笘 才望 ぃ Q の深刻な連鎖に対抗する苦悩 と専 小に 、 生の意義を見 たからであろう。われわれには自己の帰趨を 、も っ ぱら神に委託する安逸と楽観は許されない。 根底から深く反省し 熟慮し続ける決断が、不完全な被造物を生かす 唯一の道である。悪を許容する神の意図について 語る彼の洞察は 、檜 災 された表面的な叙述のままに済ましてはなら ない。悪を世界の調和と美のための附加的な妙味 であるとか、多様性 ︵ 3 ︶ と 豊富を彩る装飾とする平易な表現の彼方に 、実 は 彼の目が注がれている。最善の世界の実現は 、楽天的に神の裁量 を 傍観する人間の無作為を認めない。それは神 と 共に成就すべき共同の目標である。根源的な不 完全性を挟持しなが ら神に向 ぅ ものが、常に伝 苫 する悲痛な境忙に 懐かず、苦悩に満ちた ぺ シミスムスを越えてこそ 、 神は悪を許容 す る 。このような悪や根源的な欠陥を美的調和の世 界の契機に転化するためには、人間は浬 身 の 努 力 を傾けねばならな ぃ 。その時われわれは、神の地上的な代行者と呼 ばれるに適わし い 。人間は摂理を内実化して 表 わす責任を持っ。 そ れを期待し 鋭望 する神の配慮を徒祝し、生の自 発的 推進を鈍化するのは精神の麻 庫 であろう。 械ぎ a ︵∼ 0 はそのような人間の、自己自身と神と に 対する背反 へ駆 りたてる可能性を含む。けれ ども逆説的に言え ば 、口才 緊ざ がそれを映し出すことによって 、わ れわれは神への怠惰が持つ空しさと、その自転 が 辿る行末に覚醒 せ (468) 26

(28)

ライプニッツ の悪

3 2 1 注

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存 " に か 容 ハ 4 セ ︶ 不完全な 惰 落するものとして造った神の根拠が 、 ﹁神に人間を再び造らせる﹂。この 再 創造あるい は 創造の連続によっ しめられる。その限り 官宇笘 ∼ 0 はわれわれを る 神は、これを予測して勘考しているに違いな 遂げ、神への目を一層開き直さねばならぬので 対 して輝度をわれわれが辿るべき道に加えるで な 信頼と愛に燃えたっ精神である。換言すれば 突き当らせて、あるべき在り方を想い知らせる 壁 になる。悪を許容 す い 。そのためには人間自身が 、 前もって許容に値 する自己反省を成し ある。 笘才 茸山 0 はこの自己照明のための跳躍 板 となり、神の光りを 反 あろう。悪の許容に応えるものは、徹底した 決 仝 思 を伴なう神への完全 官写緊 ぎをくぐり抜けて固められた決意との 照 応 において、人間を 27 (@S)

(29)

輔 しかし問題はまだ展開の途中にある。問題 点 の 闇明 と解決のためには、まだ多くの作業が 必要である。本論文が 、 ㈹ 如 このような背景と目的において試みられたも のであることを、最初にお断りしておきたい。 七千

環諸

旗の二大神

問の関係と類似していること

注意するに至った。

様 栢

達した。そして筆者は他方では、神話におい

てもヘ天津

・国津

とその機能︵

4 神 ︶

Ⅴの二大神

均分類原理が著しく印欧

0% 北方系Ⅴ 北部イラン系 ︵ り 0 ︶ ︵ り Ⅰ︶ の 習俗︵哀悼 傷身 ・断髪、花嫁が火を跨ぐ習俗や 王家の近親婚︶の研究を通して、これらの習俗が 恐らく の 遊牧民からアルタイ系 諸族 に拡がり、さらに 古 伏日本にまで伝えられたのではないかという 想 定 に到 ︵ ll ︶ ほ ついては、一九六一年以来、吉田敦彦氏が一連 の 重要な研究を発表しているが、筆者も古代日 本におけるいくつか 一

はじめに

記紀生記された日本神話の系統論は新らしい 段 階 に入っている。その重要な要因の一つは、西方 の 印欧語族の神話 と日本の古典神話との間に予想外に大きな 、し かも細部や構造における一致が認められて来たこ とである。この問題

辛気化神話の諸

目 木

大林太良

参照

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