,一
仁
為
と
て
伴
よ
尤
て
る
と 89 (531)
史的展開
﹁ ヨ ︒ オゅい のハ内的 り 原因は︑知識に伴われた︑ 全 てのもののハ神への u 委託︵の㏄︵ せが の ゅ旧コセ 卸のの︶で あス ㌧Ⅰ︵ お ・ AN ︶ と 述べた後︑さらに外的手段として﹁欲心なきめ ホ教 的行為の実践等﹂が必要であると規定して いるからである︵ 往
Ⅰの・下か︶︒また盲目コリは︑物質原理︵ 口 ︵ 弗ガハま ︶ か ら 離れた白らの 巴ョリコ を直証するもので︑蓮如
Ⅱ コゼ
援のは︑このより得られた純粋な
翌日目を供物として神に捧げる行為である︵︒ ︵・ ぎ ・下ふ︶ L こころか ら ︑ 毘群 麓は他ならぬ﹁知識を伴っている﹂と 述べられる︵ 住 ・ り ・ 韓 前引︶︒この点に我々は ︑ 後代の㌧母で注 由思 想 と明らかに異なる レヴ のの コせ けがの 侍 御を認 めることが出来る︒古ぎ ㏄の原因としてさきに ガ の︵日当の必要性が 述べられていることに注目したが︑ レヴ のは 同 時に円
嘩な
もに 到る手段として認める︒
﹁それ︵物質原理と離れた 瞠ョ目 ︶を得る手段 として︑ せ崔とガ ar 日 目とが聖典に命ぜられて いる﹂︵㏄ P. ︶ ト ︶ と 述べた後にアヒルブドゥ シャ は︑天国などと いう結果をもたらす促進的行為︵ 口 〜が va ︵︵い下田 ガミヨ の︶に対して︑
日 0 打馬 約宙ぎ 目となるのは停止的行為︵ 口田 var ︵ と 3% ガ ar 日 ㏄︶であると説明し︑さらに進んで
﹁個我︵ ぃ Ⅱ づ ㏄︶と最高我との結合が日︒ 幅 ㏄ とい
われる︒それによってぎヨ目は直観され
る 状態になる﹂︵㏄ ト ・ ト切 ︶
と 舌口 う ︒そして八文から成る R ︒的のを︑ 臼 ㏄㌧の のゅ︐ ㏄㏄において 詳叶謝 している︒
という語 は未 だ術語的価値をもたず︑宗教的人 為の放棄︐自己の神への委託という思想はむしろ 他の語によって表現
されているところから︑㏄
き
における 口 ra@ へづまな
直ちに 口 ﹁の で ㏄︵︵片思想に関連づけるのは 適 何 ではない︒また︑M opqp 日 ㏄ か ‑0 オ 舶が後代に口〜がち ud ︵ 円 思想の典拠 とされるとき︑この 詩節は ㏄甘のにおける原意 を 離れて解釈されて
いる︒日の コ ㎎ 田注は︑ で % 申文せどを身体的放棄 の 意味に解して︑ ガ ㏄︵日当の放棄の思想をこの 詩節 に読みとり︑Ⅰ 円
は宙ゴ弗目ョ ㏄を臣 で囲お ︒ u で曲名㏄と理解するが︑ し ゴ のにおけるこれらの語の用例を見ると︑両者は 共に適正な解釈とは ︵ 初 ︶ いえない︒従って︑ 田 或いは㈲を引合いに出して ︑い 二の中に後代の窯㏄で㏄︵︵片思想との連関を求 めることは諦めなけ ︵ れ ︶ ればならない︒そこで残された可能性として︑ い オ の中の総旧コ せ援麓 Ⅰ︵ ゼ囲ぬゅ という語の内容を 検討してみたい︒
元来ま 旧コせ Wmp という詰は︑求道者が 娑 羅門的 生活様式を放棄し︑乞食︵ ぎ守署 ︶として山野 を 放浪する行為︑ ︵ 2 2 ︶ 並びにそれを行う住期を意味していた︒ 総旧コ ㎏ 曲 の 曲 とは聖典の義務︵ オの ︵ヨ目︶を放棄したい 吋 環ヨ 日のことであっ
た ︒ロ ブ のになると 総旧コ Ⅱ 援 ㏄は︑この元来の立 思味 で用いられる場合もあるが︵ ミ ・の・ ハ 0.8 ︑ より一般的には︑ 語
の 意味を拡張して︑あらゆることを精神的に放棄 する態度を意味している︒
﹁欲望に基づく諸行為の放棄を︑聖者らは 総旧コ ゼ 倒の㏄と知る︒一切の行為の結果の放棄を︑賢者 らは安岡幅がと
称する﹂︵ お ・ 0 ︶︒
この 他 随所で︑ n 行為の ロ 結果︵ 菩呂 ③・欲望 貧 曲ヨ め ︶・執着︵の曲か幅の︶・意図︵の ゆ づ村田やの︶・ 企 図 ︵ 岡 ︵の旧 すオゆ ︶・主ロ垂心 ︵ g I Ⅰ ‑ 節︑ ㈲ ca ︵ ゅ日 a 絵 ︒村がが注目されるかも知れない ︒しかしながら︑ 田 前章に見たよ う に ︑ Ⅰ づ以
口せ めダ笘 ㎎ 笘セ a 由めロ ︵曲における綱車 コせ W 窪
目お
㏄ づ ㏄ 宙 四 % ︵略号㏄二の︶の中にで③で い寸 宝田 鎗ぬ を見出そうとするとき︑常識的には 田叉ギ く で % 宙 をふくむ 吐討(532) 90
標 である﹁超行為の完成﹂の成就手段なのであ る ︒ 蛸 前半は﹁ ぜ ︒的のを完成した者は﹂と言い換え て 差支えない︒ セ ︒ 的ゅ 完成の結果である 総 七コ 日 囲 ののは︑高次の宗教的目 想 巴 ︑ ︐ ︵ い由ヴ甘 囲 い目ヴゴ ㏄︶・ 圭 ロ付悪行︵の 廷 ガユの 由 け りガ撰麓 ︶・ ハ 執着の u 対象︵去冬 せ じなどが放棄されるべきも のとして挙げられて ︵ 3 2 ︶ おり︑総七口㎏卸のの へ ︵円目拳を精神的行為とする 傾 何 がロァのには顕著に認められる︒
ところで︑あらゆる行為の結果の放棄︑一切の立 思 図の放棄は ︑し 下のにおいて せ ︒油ド と 名づける れる宗教的行為の 内容をなすものであり︵㌔・の・ さ ︑ 紹 七目 Wau は ぜ 0 的のと置換することができる︒㏄ す 0 には面語 を 結合した 紐 七里 ヂ の簿ぜ omp という表現も見られ︵ o.P の︶︑さらにの めでは︑組名 こふ のがは せ 0 ㎎のであると明瞭に 述 ぺ られている︒この 場合 紐旧コせ 囲ののは︑ せ 0 ㏄笛の完成であるお ヨゅ 才簿と 呼ばれる境地心︐ 串 9 を成就する手段︵の 曲隼 ゴリ 目 ︶を意味して
いる︒
しかし他方︑月行為の ロ 放棄は出演なしには 達成し難い﹂︵の・ 9 とも述べられ︑落田 コゼ 阿の曲 はせ ︒偲によって 成就される結果とも理解されている︒それは 次 の詩節 における ぎ日ゅ ︵平静︶と同じ内容をもつ と 考えられる︒
﹁ ぜ嘆ハの 高みしにのぼろうする聖者には︑ ヰ曲 ︵ 5 曲コが手段であると舌口われる︒彼が ゼ褒ハの 高みしにのぼっ ︵ 弓穏 ︶ た 時には︑ 絆ヨゅ が手段であると言われる﹂ G ㏄︶︒
討 当日当が 摂 ︒ 幅ドの 高みに到る手段としての 宗 教的 努力であるとすれば︑それに対置される 絆 ヨひ は︑宗教的努力 開 局 @ 停止あるいは放棄すなわち 総旧どふ の a を意味 するであろう︒そして︑この﹁宗教的打力 め放 棄 ﹂が︑より高い 宗 利目標を達成する手段︵ガ目︵ 麓旧 Ⅱの 脚宙ぎコじと されているのである︒このことを次の詩 節 が明瞭 に 述べている︒
﹁その理性が何ものにも執着せず︑自己を克服し ︑欲望を離れた者は︑最高の八超行為の完成 ︵ コぎ の カリ Ⅱ ヨ せの | のぎ年三︶ V に ︑も 七尾 曲 のひによって到達する﹂ 父 ㏄・ 肚ゆ ︶︒
(533)
ピ 0 的がに 教 説の重点を置いており︑この思想は北 弓 後にかくされたままになっている︒
き 七ロⅡ ゆ ののを精神的行為として解釈することは ︑形式主義的な祭祀・儀礼を批判する 巾 すのの 進 歩 的態度の現われ
であるが︑それは同時に︑諸種の義務を規定する ヴェーダ聖典の権威を是認するという︑ 援ォの の 保守的態度にも 連
なっている︒
﹁祭祀・布施・苦行の行為は棄ててはならない︒ 祭祀・布施・苦行は︑賢者らにとって浄化 貝 である︒これ
らの行為は︑執着を捨て︑結果を顧慮せずに 行 なふ ル七帖るべきで斗のる﹂︵︶㏄ 印 ︒の︶︒ @5‑2
迷妄の故に義務を放棄するのは弱質的放棄であ り ︑ただ苦しいからといっ 放棄であって︵ お ・ ご
何れも正しい行為ではない︒
紐 七目 囲 ののは今や老 今 に達した娑羅門が行うべ き 出世間的行為ではなく︑聖典に規定された行為 を意図を放棄して
実行することとして︑すべての人間に課せられ た内 世間的行為とされている︒その結果︑ 紐旧コ せ 囲ののと斤目日当の
共存関係が生じ︑この関係は器 コ的 生生の出現 をみるまで存続する︒両者の共存関係はまた︑ の ㏄ 日 @ に 曲の曲とせ 0 的ゅと
に 意味内容の変化をもたらすものであった︒すな ね ち︑ 抽 ar ョギ は願望の成就・ 財 福の獲得を目 指して遂行される 行
為から︑新しく罪の発生を回避する機能を担い ョ 0 窩 ㏄を目指す宗教的行為となり︑一方組名 コぜ 釧の簿は︑ @ 曲 〜 日 ㏄ コ
をヨ︒ 村ゆ りの り巨甘目 がとして認めた結果︑それ 自 休は自らの行為に救済促進の機能をもたせようと する意図の放棄とし
て ︑その意味が限定されるのである︒
(534)
このように㏄ ォ のにおける 終七どふ ののにも︑ 後 代 0 モ・︒ ‑ っコ 二 % 恕 すなわち﹁宗教 杓 努力の放 棄 ﹂が ︑ E で 囲セがと 2 して意識されているのが認められる︒しかし い すのは全般的には︑ き旧コせ wap を可能にする 為 の 準備行為としての
ゆ途
︵ま山 ゴ Ⅱ コ 団円ヨ Edd ハ @ ヨ ハ レ 4 ぃロ ゴ山下 ‑@ り ハレ・ お ︶ とし て 取りあげられる︒しかし︑ コセ 岡の㏄はなお㏄ 甘 のに見られる総七口 せ 囲のが の 構造のなごりを止めており︑準備行為として ゼ 0 圏 ︑副要素として 村 arma コを 伴っている︒ltti 思想の歴史 廿
説くのに急な余り︑宗教的努力そのものの放棄 を 意味する 組旧コゼ詳ゅ を一つの 亡で囲速 として 充分宣揚するまでに
至っていない︒
レヴ のにおいて︑ 終 セミ援がは主として コゼ 囲のが という名の下に︑人為に対する無力意識を前提 し ながら︑最高の方⑱
鮒ガ
ar ヨリコと 共存することになった︒ただ︑ い オ のは 終旧 哀叫の㏄の前段階を成す 日 ︒穏の完成 に 向けての宗教的努力を 既に最古層の ウパニシ ヤッドに 放 いて︑翌日 リコ のみを欲する人が︑息子財産等を棄てて遊行す ることが述べられている︒︵ お ︶彼らは娑羅門的生活様式の一切を棄てる ところから﹁完全に放棄する人︵ お 七ロ セ 抑の ぃコ ︶﹂ と 呼ばれたが︑同時
に 内面的にも自我に対する執着と欲望を放棄して おり︑生きたまま 日っオゅ ㏄に到る者であった︒ それ故︑日 0 ガゅ a に 到 る 為の宗教的努力も今や彼らにとっては必要では なくなった︒後世紹巴
摂援
㏄の名のもとに︑ ﹁ 日 0% ゅ 簿を達成する 機能への意図を伴った宗教的努力の放棄﹂の 思 想 が現われるが︑その 発 瑞を既にここに認めるこ とができよう︒その後︑総 旧コせり の ゅ は︑ 耳 注ヨ の 8% ダ抽叫 Ⅰ プ曲降 プ悶 ・ 4 目コ apra の︵ ゴい に続く第四の住 期 ︵叫か︵㏄ 目し として︑人生段階 ︵ 帥 ︶ の中に組みこまれる︒ヴェーダの学習︑祭祀・ 布 施 ︑苦行・断食といった外面的行為を実践する 先行の三佐 期 に対し て ︑ 紺旧コせ囲はは ぎョ目の認識に向けての 内 面的努力すなわち セ ︒奉に専念する佳期となり︑ こうして 終旧コ せ り のの ほせ ︒ゆがを準備行為としてその内に吸収するこ とになった︒しかし一つの佳期として固定され
が 経つにつれて牙銭ョ鎧の放棄という行為のみ を意味し︑その内実を失っていったものと 息 わ れる︒
㏄二のは形骸化した総七尾掛 い に再び精神的内 実を与えようと努力するが︑ 村斡 ︵ ョ 捲の放棄と いう外形を問題に
し 低いその精神主義は︑結果的に村 曲 ︵ 5