十方 ‑ 坦懐ニ信心永倉 ニ︐ @ ︶ 肛 叩 かならない︒十方に超え先覚して聞こえざる まず名号は三ロ︵ことば︶の性格をもって 衆
仙子 峨 している働きである︒しかし名号は能 生 の 因であって︑光明がなければ所生の縁がない という︒もともと光明は
光明君父母 斯則為 二科 縁 ‑ ︒内外因縁和合得 ︐ ‑, , @ , , 二証 報土貢 身 ‑ ︒ 故 宗師舌口 ‑ @ 二光明君 ロ亨摂 二化親鸞によれば方便法身はまず光明と名号として 働きかけくる︒ ﹁ 良 ︐ 虹お ㍉繊手慈父 罷 曲私︒薄地㍉ 肛町 悲母 ‑ 所生 縁乖 ︒能所因縁雄三司ニ和合 ‑ 升三信心葉 識
‑ 元三到︐光明上
‑ ︒
で
ど の よ
に働
き て
る の で あ
めているものは無音 光 如来の光明である︒この ようにして第二次形而上的存在の無与党如来は上 から︑すなむち第二 次 形而上的世界から現実界へと直線的に名号と して喚びかけ働くと同時に下の現実界にあっては ︑むしろその底辺か
ら 光明の母の働きとして︑具体的には応化身と して現実的に働くのである︒ここに我々を取りま く 因縁は熟してい
る ︒ところが親鸞はそれだけではいまだ不完全
であるという︒﹁能所因縁 難 ﹂ 可ニ 和合 ‑ 非三 信心葉
識 ‑ 元三到三光明上 ‑ ︒
真実情 業 調所 期為二 内因 ‑ 光明君父母斬刑 為二 外縁 ‑ 内外因縁和合得三証報土貢 身 二といっている︒ 光明と名号だけでは
外縁であって︑信心葉 識 がなければ光明上に到 ることができない︑むしろ信心葉 識 こそ内因とな るべきものであっ
て ︑﹁内外因縁和合得 ニ証 報土貢 身ニ というので ある︒他力往生の精髄をのべたものというべき ところである︒古来︑
行信交際を弁じたものとして︑宗学においては 一 一つの因縁が重ねて説かれているところから両重 因縁とか党与因縁と
か よばれて︑先哲に論義の多いところである︒
しかしそれら先哲の論議した問題は紙幅の都合 上 割愛して︑わたくしが問題としたいのは信心の 業識 とは何かとい ︵ り 3 ‑ うことである︒ 親簗 がまず善導の観経 疏の ﹁ 既 欲 受身 以 白業 識為 内因 以 父母 粘血為 外縁因縁和敏 有 化身﹂よりその 語
︵ 2 ︶ じている権化の仁である︒しかし提婆や葦 提希 を 権化の仁たらしめているもの︑人間釈迦をして 教主釈迦如来たらし たれた 尽 十方無口 可光 である︒しかもそれは応化 等 無量無数の身をもあられすのである︒従って そ れは応化身として 現
実果にあって現実的存在者である︒そしてそれ と 共にその背後にあって微塵世界に無音 光 として 輝いているのであ
る ︒むしろこの光明が現実的存在者をして応化 身 たらしめているということができよう︒この 働 きをするものこそ 報
身の背後にある第一次形而上的な法性法身の働 きである︒理解を明らかにするために例をとれば ︑釈迦は応身として
成仏の教を現実界において人間的理解を媒介 と して説く︑提婆も章 提 希も後の我々をして仏道へ 向 わしめる役割を演
(512)
闇を照破するものとして智慧を象徴している︒ 仏 の 光明は智慧光として無明の闇を破するもので あり︑報身 仏 より 放 0
印明の昏 闇 うすくなりて宿善のたね き ざすとき ︑まさしく報土にむ ま るべき第十八の念仏往生の 願 因の名号をきくなり︒③
加 これによりて光明の縁にきざされて名号の因 なう といふなり︒﹂︵ 5‑ 多少誤解をまねく語句や表現 はあっても︑この文はよ 他く 信心葉 識 のはたらき︑ 富善 のたね き ざす 趣 きをあらわしていよう︒これをもし親鸞自身に 求めるなら ぱ ︑前掲の唯 7
を 承けついだことは想像に難くない︒単に父母 の精血 によって私という独立した 個 酌人格が生み 出されるのでほなくして︑何としての私が造り出されることのため には父母の精 血 はむしろ外線であって ︑ 自の業 識 が 内因であるという のである︒まことに主体的な理解である︒白の業 識 といわれたものは単なる客観的生物学的概念 ではなくして︑むし ろ 主体的理解による形而上的な概念ということ ができる︒他力往生の構造をのべるのに親鸞はこ れを借りてきている のである︒他力往生を客観的にみれば︑父母によ って子が生れるという如く︑光明・名号で十分 なはずである︒しか しそれでは私という独立した 個 酌人格の創生は理 解 できない︒それは主体的理解にまたねばなら ない︒善導の自の業 識 ︑親鸞の信心葉 識 はこのような理解のところ に担 えられた内因なのである︒われわれはまず 信 心 葉識 をこのように
性格づけることができる︒
次にその内因たる信心葉 識 とはそもそもいかな るものであろうか︒執持 妙は ﹁光明のはは名号の ち ちといふこと も ︑報土にまさしく むま るべき信心のたねなく ばあるべからず﹂︵ 4 ︶といい︑信心葉 識を ﹁信心のた ね﹂と解しており︑
更に次に引用する如く宿善のたねともいって い る ︒たしかに信心葉識は信心のたね︑宿善のたね という表現がぴった りするであろう︒しかしこの﹁たね﹂は決して 画然とした固定的なものではない︒このところを 繁 をいとれず引いて みよう︒﹁光明名号の因縁といふことあり︒ 弥 陀 如来四十八願のなかに第十二の願はわがひかり きは低からんとち か ひた ま へり︒これ すな はち念仏の衆生を摂取のた ぬ なり︒かの 願 すでに成熟してあまねく 無擬の ひかりをもて十方 微 塵世界をてらしたま ひて ︑衆生の煩悩悪業を長 時にてらしまします︒さればこのひかりの縁にあ ふ 衆生︑ や うやく 無
が め へに︑この信心すなわち仏性なり︑仏性 す なわち法性なり︑法性すなわち法身なり︒﹂とある ︒執持妙に信心のた
ね︑宿善のたねといわれたもの︑教行信証の信 心 葉識は 確信妙文意では一切群生海の心にあたる であろう︒ここにお
いて他力信心は深い二層の形而上的重層を土台と して構成されていることをみることができる︒ 理解を明瞭ならしめ
るためと紙幅の都合上︑ 煩填 な引用や論証︑先哲 の 論議に対する批判は他日にゆずり︑率直に 郡 見るの べ てゆきたい︒
上にのべたように信心 葉識 といわれるものを 唯 信 妙文意にもと が れば︑一切群生海の心にあたる ということは一応
認められよう︒この一切群生海の心は現実界の ものである︒信心 葉識 もそれが信心といわれるか ぎり現実界のもので
ある︒たとえ 業識 とかたねとかいっても︑現実 界からみるが故に業 識 と表現し︑たねとしかいえ ないのである︒とこ ‑6 ︶ ろで 唯信 妙文意は︑一切群生海の心は真如たる 如 来︑法性そのものであるというのである︒法性 が 一切群生海の心で あるということは法性が積悪汚染の心ということ であって︑絶対の矛盾である︒これは 浄即機 ︑ 悟郎 迷 ︑無 即育 とい
うことである︒一切群生海の心に誓願を信楽 す るがゆへにこの信心すなわち仏性なり︑というこ とを党与因縁にあて
はめれば︑如来である一切群生海の心に名号と 光明が働くのである︒信心葉識は法性である一切 群生海の心である が ︑法性である一切群生海の心という矛盾的 表 現は第一次形而上的世界の事態である︒すなわち ﹁この如来微塵世界 ほろ ちみちたまへり︑すなわち一切群生海の心 な り ﹂という矛盾の事態は第一次形而上的世界の 事態であって︑第二 次 形而上的世界の事態ではない︑従来この点が 明確にされていないが︑このことは十分注意しな ければならない︒ そ して次に方便法身の働き︑すなわち初めに光明 名号の働きはこの第一次形而上的世界を根 梱 とし て ︑第二次形而上的 世界において活動するのである︒その間の消息 を 詳細に解説しているのが教行信証の元号因縁で ある︒
まず第一次形而上的世界にあって法性法身は二 つの働きをしている︒一つは天上的に上から下へ 伺 って方便法身 と
(514)
信 妙文意である︒﹁この如来微塵世界にみ ちみ ちたま へり︑すなわち一切群生海の心なり︑この 応に誓願を信楽する 2
が 光明名号の働きが具体化するとき舞台は現 実果に移る︒十方に響流した名号を受けとめる
他 である︒ここに名号は称名念仏として具体化 し ︑現実界において救済の働きは実を結ぶので ある︑いわゆる楽事成井 7
(515) ついて
四
る 上 き 誠 敬 し
谷 @ ・ 、 T ? ,‑ 、 T 註
が 的 名 こ 塵 て) ) ) ) ) ) 、 社 号 そ 世 衆
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(同上
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ヨ のとこ 一頁) 蓮如喜 分 義 上二六者
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二九一
ロ色 | 示仏性 ろは現 写本) 三頁)