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ドキュメント内 『宗教研究』211号(45巻4輯) (ページ 69-73)

十方  ‑ 坦懐ニ信心永倉  ニ︐  @  ︶  肛 叩  かならない︒十方に超え先覚して聞こえざる  まず名号は三ロ︵ことば︶の性格をもって  衆 

    

  

        仙子  峨  している働きである︒しかし名号は能  生  の  因であって︑光明がなければ所生の縁がない  という︒もともと光明は 

  光明君父母 斯則為 二科 縁 ‑ ︒内外因縁和合得 ︐ ‑, , @ , , 二証 報土貢 身 ‑ ︒ 故 宗師舌口 ‑ @ 二光明君 ロ亨摂 二化 

親鸞によれば方便法身はまず光明と名号として  働きかけくる︒  ﹁ 良  ︐ 虹お  ㍉繊手慈父  罷  曲私︒薄地㍉  肛町  悲母  ‑ 所生  縁乖  ︒能所因縁雄三司ニ和合  ‑ 升三信心葉  識 

‑  元三到︐光明上 

‑ ︒ 

で 

  

ど  の  よ    

に働 

  

き     て 

  

る  の  で  あ 

めているものは無音 光 如来の光明である︒この ようにして第二次形而上的存在の無与党如来は上 から︑すなむち第二  次 形而上的世界から現実界へと直線的に名号と して喚びかけ働くと同時に下の現実界にあっては ︑むしろその底辺か 

ら 光明の母の働きとして︑具体的には応化身と して現実的に働くのである︒ここに我々を取りま く 因縁は熟してい 

     

  る ︒ところが親鸞はそれだけではいまだ不完全 

  

であるという︒﹁能所因縁 難 ﹂ 可ニ 和合 ‑ 非三 信心葉 

   識 ‑ 元三到三光明上 ‑ ︒ 

真実情 業 調所 期為二 内因 ‑ 光明君父母斬刑 為二 外縁 ‑ 内外因縁和合得三証報土貢 身 二といっている︒ 光明と名号だけでは 

外縁であって︑信心葉 識 がなければ光明上に到 ることができない︑むしろ信心葉 識 こそ内因とな るべきものであっ 

  て ︑﹁内外因縁和合得 ニ証 報土貢 身ニ というので ある︒他力往生の精髄をのべたものというべき ところである︒古来︑ 

行信交際を弁じたものとして︑宗学においては 一 一つの因縁が重ねて説かれているところから両重 因縁とか党与因縁と 

か よばれて︑先哲に論義の多いところである︒ 

しかしそれら先哲の論議した問題は紙幅の都合 上 割愛して︑わたくしが問題としたいのは信心の 業識 とは何かとい ︵ り 3 ‑ うことである︒ 親簗 がまず善導の観経 疏の ﹁ 既 欲 受身 以 白業 識為 内因 以 父母 粘血為 外縁因縁和敏 有 化身﹂よりその 語    

︵ 2 ︶ じている権化の仁である︒しかし提婆や葦 提希 を 権化の仁たらしめているもの︑人間釈迦をして 教主釈迦如来たらし  たれた 尽 十方無口 可光 である︒しかもそれは応化 等 無量無数の身をもあられすのである︒従って そ れは応化身として 現 

実果にあって現実的存在者である︒そしてそれ と 共にその背後にあって微塵世界に無音 光 として 輝いているのであ 

る ︒むしろこの光明が現実的存在者をして応化 身 たらしめているということができよう︒この 働 きをするものこそ 報 

身の背後にある第一次形而上的な法性法身の働 きである︒理解を明らかにするために例をとれば ︑釈迦は応身として 

成仏の教を現実界において人間的理解を媒介 と して説く︑提婆も章 提 希も後の我々をして仏道へ 向 わしめる役割を演 

(512) 

闇を照破するものとして智慧を象徴している︒ 仏 の 光明は智慧光として無明の闇を破するもので あり︑報身 仏 より 放   

印明の昏  闇  うすくなりて宿善のたね  き  ざすとき  ︑まさしく報土にむ  ま  るべき第十八の念仏往生の  願  因の名号をきくなり︒③ 

加  これによりて光明の縁にきざされて名号の因  なう  といふなり︒﹂︵  5‑  多少誤解をまねく語句や表現  はあっても︑この文はよ     他く  信心葉  識  のはたらき︑  富善  のたね  き  ざす  趣  きをあらわしていよう︒これをもし親鸞自身に  求めるなら  ぱ  ︑前掲の唯  7 

を 承けついだことは想像に難くない︒単に父母 の精血 によって私という独立した 個 酌人格が生み 出されるのでほなく 

して︑何としての私が造り出されることのため には父母の精 血 はむしろ外線であって ︑ 自の業 識 が 内因であるという  のである︒まことに主体的な理解である︒白の業 識 といわれたものは単なる客観的生物学的概念 ではなくして︑むし  ろ 主体的理解による形而上的な概念ということ ができる︒他力往生の構造をのべるのに親鸞はこ れを借りてきている  のである︒他力往生を客観的にみれば︑父母によ って子が生れるという如く︑光明・名号で十分 なはずである︒しか  しそれでは私という独立した 個 酌人格の創生は理 解 できない︒それは主体的理解にまたねばなら ない︒善導の自の業  識 ︑親鸞の信心葉 識 はこのような理解のところ に担 えられた内因なのである︒われわれはまず 信 心 葉識 をこのように 

性格づけることができる︒ 

次にその内因たる信心葉 識 とはそもそもいかな るものであろうか︒執持 妙は ﹁光明のはは名号の ち ちといふこと  も ︑報土にまさしく むま るべき信心のたねなく  ばあるべからず﹂︵ 4 ︶といい︑信心葉 識を ﹁信心のた ね﹂と解しており︑ 

更に次に引用する如く宿善のたねともいって い る ︒たしかに信心葉識は信心のたね︑宿善のたね という表現がぴった  りするであろう︒しかしこの﹁たね﹂は決して 画然とした固定的なものではない︒このところを 繁 をいとれず引いて  みよう︒﹁光明名号の因縁といふことあり︒ 弥 陀 如来四十八願のなかに第十二の願はわがひかり きは低からんとち か  ひた ま へり︒これ すな はち念仏の衆生を摂取のた ぬ なり︒かの 願 すでに成熟してあまねく 無擬の ひかりをもて十方 微  塵世界をてらしたま ひて ︑衆生の煩悩悪業を長 時にてらしまします︒さればこのひかりの縁にあ ふ 衆生︑ や うやく 無 

が め へに︑この信心すなわち仏性なり︑仏性 す なわち法性なり︑法性すなわち法身なり︒﹂とある ︒執持妙に信心のた 

ね︑宿善のたねといわれたもの︑教行信証の信 心 葉識は 確信妙文意では一切群生海の心にあたる であろう︒ここにお 

いて他力信心は深い二層の形而上的重層を土台と して構成されていることをみることができる︒ 理解を明瞭ならしめ 

るためと紙幅の都合上︑ 煩填 な引用や論証︑先哲 の 論議に対する批判は他日にゆずり︑率直に 郡 見るの べ てゆきたい︒ 

上にのべたように信心 葉識 といわれるものを 唯 信 妙文意にもと が れば︑一切群生海の心にあたる ということは一応 

認められよう︒この一切群生海の心は現実界の ものである︒信心 葉識 もそれが信心といわれるか ぎり現実界のもので 

ある︒たとえ 業識 とかたねとかいっても︑現実 界からみるが故に業 識 と表現し︑たねとしかいえ ないのである︒とこ ‑6 ︶ ろで 唯信 妙文意は︑一切群生海の心は真如たる 如 来︑法性そのものであるというのである︒法性 が 一切群生海の心で  あるということは法性が積悪汚染の心ということ であって︑絶対の矛盾である︒これは 浄即機 ︑ 悟郎 迷 ︑無 即育 とい 

うことである︒一切群生海の心に誓願を信楽 す るがゆへにこの信心すなわち仏性なり︑というこ とを党与因縁にあて 

はめれば︑如来である一切群生海の心に名号と 光明が働くのである︒信心葉識は法性である一切 群生海の心である  が ︑法性である一切群生海の心という矛盾的 表 現は第一次形而上的世界の事態である︒すなわち ﹁この如来微塵世界  ほろ ちみちたまへり︑すなわち一切群生海の心 な り ﹂という矛盾の事態は第一次形而上的世界の 事態であって︑第二  次 形而上的世界の事態ではない︑従来この点が 明確にされていないが︑このことは十分注意しな ければならない︒ そ  して次に方便法身の働き︑すなわち初めに光明 名号の働きはこの第一次形而上的世界を根 梱 とし て ︑第二次形而上的  世界において活動するのである︒その間の消息 を 詳細に解説しているのが教行信証の元号因縁で ある︒ 

まず第一次形而上的世界にあって法性法身は二 つの働きをしている︒一つは天上的に上から下へ 伺 って方便法身 と 

(514) 

信 妙文意である︒﹁この如来微塵世界にみ ちみ ちたま へり︑すなわち一切群生海の心なり︑この 応に誓願を信楽する   

が  光明名号の働きが具体化するとき舞台は現  実果に移る︒十方に響流した名号を受けとめる 

  

他  である︒ここに名号は称名念仏として具体化  し  ︑現実界において救済の働きは実を結ぶので  ある︑いわゆる楽事成井  7 

(515)  ついて 

四 

る  上  き  誠  敬  し 

谷 @  ・  、  T  ?  ,‑  、  T  註 

が  的  名  こ  塵  て 

) ) ) ) ) )  、  社  号  そ  世  衆 

働  界  を  一  界  生 

と  蔵  問唯 

同党善 

国教  き  @c  領  切  に  @c 

思 、 

館題借  上知尊上荷 

信  の 

お  受  辞  み  働 

ぅ刊点抄  。  で丈司 

( 

執観  総記 

俺 

上  け  す  生  ち 

き 

所あ  意 

上持経 

序  か  る  る  海  み  か 

取  る  の 

八秒 

疏 ( 行  ら 

方 

こ  の 

ち  け 

「と 

こ  一 ( 序 

回春 

別  便  と  心  た  る  け  法  が  だ  ま    

て  身  で  か  へ  一 

(同上 

ども共に真 

ヨ  のとこ  一頁)  蓮如喜  分 義  上二六 

者 

の  き  ら  り 

方 

え  光  る  で  、  は 

二九一 

ロ色 |  示仏性  ろは現  写本)  三頁) 

ドキュメント内 『宗教研究』211号(45巻4輯) (ページ 69-73)

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