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/ ン @ ケ リ @ 英三非二方便 ‑ 令 二倍二目心受と結んでいる︒ここ で 示されていることは自力も他力も方便であると いうことである︒ こ
方便法身を論ずることは不可能である︒万個いる︒ 肛て 便法身と法性法身との関係については 唯信 妙文 意 が極めて簡明にのべ て
ついて
れ 出たものであり︑方便法身として一応の形を とりながらその本質を法性法身においているとこ ろにあるのである︒
﹁法身の中にして常に三昧にまします﹂というこ とはこのことをいったものにほかならない︒ 従 って法性法身を離れ⑲ 悩 具足の凡夫の無上覧のさとりを えさふらふな ることを ば︑ 仏と仏とのみ御はからひなり︒さら に 行者のはからひに
あらず さふらふ ︒しかれば 義 なきを義とすとさ ふらふ なり︒﹂︵ 4 ︶という如く救いの働き全体につい てのべられている・ ば あいとにわけられる︒従ってこれらを考慮にい れ つっ考えてみることとしよう︒親鸞は他力であ る 如来の本願力を曇
鸞 の 論 註を引いて次のように説明している︒
﹁輪目言写本願力 ‑ 者 示 ︐大菩薩 於 工法身中 ‑ 常在二一 ニ %‑ 市乳︒ 穣 ︐ 梗即種転 神通 種配説注 上智 鐙 Ⅰ本願 力起昼 ‑ 知了阿修羅
答 雄三元ニ識者 ‑ 雨音曲自然 三
かく他力の働きがいかなる働きであるかを明ら かにしている︒他力は方便法身の働きとして︑ 本 願力として︑そこ を 通して種種の身︑種種の神通︑種種の説法を 現ずるのである︒しかしその働きは法性的である ︒阿修羅の答は鼓 す る 者がないのに自然にその時その場に応じてその 音曲を奏でるというが︑丁度そのようにその 救 済の働きは自由自在
でその時その場その機に応じて自然である︒この ような自然の働きはいうまでもなく方便法身が もと法性法身から 生
所行信一者摂取不二捨 ‑ 枚名工阿弥陀仏 ‑ 足日工 他
らふ なるときに︑ 煩
ばこそ︑他力と申 事 にて候へ︒﹂︵ 2 ︶という如く ︑信 ずる行者の側についてのべられたばあいと︑ 更 に ﹁十方群生涯 帰 : 命なり︒如来の御ちか ひ なれば︑他力には 義 なき を ま撲 と士 ﹂︵Ⅰ︶また﹁行者のはからがを ソ ︑ ちりばかり もあるべからず候へ ﹁他力と申ことは︑弥陀如来の御ちか ひ の中に ︑ 選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を 信楽するを他力と 由
﹁淫楽おば滅度といふ︑先馬といふ︑安楽といふ ︑常楽といふ︑実相といふ︑法身といふ︑真如 といふ︑一如とい
ふ ︑仏性すなわち如来なり︒この如来微塵世界 ほろ ちみち たま へり︑すなわち一切群生海の心な り ︑この心に誓願を
信楽するがゆへに︑この信心すなわち仏性なり︑ 仏性すなわち法性︑法性すなわち法身なり︒ 法 身 はいろもなし︑ か
たちもましまさ ず ︒しかればこころもおよ は れ ず ことはもたへたり︒この一如よりかたちをあら わして︑方便法身 と
まふす 御すがたをしめして︑法蔵比丘となのり たまひて ︑不可思議の大誓願をおこしてあらわれ たま ふ 御 かたち お
ば ︑世親菩薩は尽千万元号 光 如来となづけたて まつ りたまへり︒この如来を報身とま ふす ︑誓願 の 業因にむくひた ま
へるのへに報身如来とま ふ すなり︒ 報 とま ふす は たねにむくひたるなり︑この報身より 応 ・此等 0 元 量元 数の身をあ
らはして︑微塵世界に元尋の智慧光をはなたし めたまふ め へに尺土万元号先仏とま ふす ひかりに て ︑かたちもましま
さず︑いろもましまさず︑光明のやみをはら ひ亜 ぬ 業にさえられず︑この の へに元 号光 とま ふ なり ︒牙音はさわりなし
とま ふ す ︑しかれば阿弥陀仏は光明なり︑光明 は 智慧のかたちなりとしるべ︵ し 6 ︒﹂ ︶
この 唯信 妙文意の文からわれわれは救済成立にあ たって二つの形而上的世界すなわち淫薬 界 たる 法性法身の世界と
方便法身の世界があることをみる︒方便法身の 世界は法蔵の発願とその成就という現実的表現が とられているが︑ そ
れは直ちにこの歴史的現実界ではない︒現実界 に 対しては形而上的である︒それでわたくし ほ法 性 法身の世界を第一
次 形而上的世界︑方便法身の世界を第二次影面 上駒世界とよび︑現実界から区別しておきたいと 思う︒いま他力はこ
の 第二次形而上的世界において阿弥陀仏を中心に して働くのである︒親鸞は葦 提 希や提婆を権化 の 仁 とみたが︑︵ 7
︶これ
らの応化身も報身たる阿弥陀仏から出ていると 解したのである︒しかもこの阿弥陀仏は本質的に は 無骨 光 如来として
元号自在の働きをするのである︒それ故にヨ % 他力 ‑ 者 如来本願力也﹂といい︑三昧に在って 種 種の説法等すべて 本
願力より起るというのである︒かく第二次影面 上駒世界は第一次形而上的世界に基礎をおき︑ そ こを離れず︑しかも
く 5 Ⅰ 00) 68
十方 ‑ 坦懐ニ信心永倉 ニ︐ @ ︶ 肛 叩 かならない︒十方に超え先覚して聞こえざる まず名号は三ロ︵ことば︶の性格をもって 衆
仙子 峨 している働きである︒しかし名号は能 生 の 因であって︑光明がなければ所生の縁がない という︒もともと光明は
光明君父母 斯則為 二科 縁 ‑ ︒内外因縁和合得 ︐ ‑, , @ , , 二証 報土貢 身 ‑ ︒ 故 宗師舌口 ‑ @ 二光明君 ロ亨摂 二化親鸞によれば方便法身はまず光明と名号として 働きかけくる︒ ﹁ 良 ︐ 虹お ㍉繊手慈父 罷 曲私︒薄地㍉ 肛町 悲母 ‑ 所生 縁乖 ︒能所因縁雄三司ニ和合 ‑ 升三信心葉 識
‑ 元三到︐光明上
‑ ︒
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ど の よ
に働
き て
る の で あ