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レ ン ブ ラ ン ト の 風 景 画

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(1)

レンブラントの風景画

 レンブラントがそれのみを主題として風景を描き始あたのは︑

一六三〇年代の半ば頃とされている︒そして風景画を描くのをや

めたのが︑ 一六五〇年代の半ば頃である︒つまりレンブラント

は︑一六二〇年代半ばからその死の 六六九年までの四十数年間

の作画活動の中の︑二十年間に限って風景を描いたことになる︒

彼は︑肖像画︑聖書・神話などの主題画はその生涯を通じて描き

続けている︒ところが風景画に限ってはある一定期間しか描かな

かったのは何故なのだろうか︒

 レンブラントの時代のオランダは︑風景画が特に好まれ︑多く

の風景画のスペシャリストたちが活躍し︑優れた風景画を作り出している︒このような時代の風潮の中にあって︑レンブラントの

風景画へのアプローチの態度は︑他とは全く異なり︑彼はそれを

彼の芸術形成の一過程として位置づけていたように思える︒つま

り彼の風景画は︑時代の風潮とは離れて︑全く個人的な芸術上の

営為であったと言わなければならない︒

 レンブラントは︑二五〇点以上の風景素描︑二十四点の風景エ

ッチングそして十六点の風景油彩を遺した︒素描︑エッチング︑

油彩それぞれの全作品数に対する風景の割合は決して高いとは言

えない︒特に油彩は際立って低い︒しかし︑それだからといっ

て︑風景画を除外してレンブラントの全芸術を展望することがで きないことも事実である︒ レンブラントは︑素描︑エッチング︑油彩という三つの表現手段によって風景を描写したが︑この三つの異なった表現手段を使い分けることは︑風景に限らず︑彼の聖書主題や人物描写などにも等しくみられるものである︒ただ風景主題の場合に︑他の主題におけるより︑この三つの表現手段の使い分けがかなり意識的に行われているように思えるのである︒つまり同じ風景を主題としながら︑それぞれに異なった表現意図をもって取組んでいる︒この問題に関して多くの研究者の一致した見方は次の通りである︒すなわち︑素描においては自然と直かに相対し︑自然の諸現象を紙片に定着しようとし︑エッチングにおいては自然から得たものを更に自己のイメージに従って改変し︑一層自然らしい自然を表現しようとし︑そして油彩では︑想像的或いは幻想的風景を創造しようとした︒ レンブラントの絵画の究極の目的は人間を描くことであった︒親しい周囲の人たち︑彼に肖像を依頼する人たち︑歴史や聖書の世界で生きている人物たち︑これら全ての人間︑そして自分自身が等しく彼の興味をひく対象であった︒年代によってそのスタイルが異なってはいても︑レンブラントの絵画活動の全てがこの一点に集中していたことは否定することができない︒レンブラント

レンブラントの風景画︵兼重︶

(2)

長崎大三教育学部人文科学研究報告第三十号

の油彩やエッチングによる自画像︑肖像画︑歴史・聖書の主題画

などは端的にそのことを物語っている︒しかし︑素描によるそれ

らは︑少し趣を異にしているように思える︒すなわち︑レンブラ

ントにとって素描は︑直接的な人間観察という側面がある一方︑

絵画的表現の可能性の追究という側面も多分にもっているという

ことである︒風景においても︑素描の数が油彩︑エッチングに比

べて圧倒的に多いのは右の理由から明らかである︒本稿では︑油

彩を中心に︑レンブラントのいわゆる風景画が︑彼の絵画活動の

中でどのような位置を占め︑また彼の究極的な芸術形成にとって

どのような意味をもち得たのか︑ということについて考えてみた

い︒㌦存するレンブフントの風景油彩は︑前述の如く+六点であ

る︒このうち年記ある作品は切円●蔭︒︒㊤︵一六三六年︶︑︼W心耳N

(一

Z三八年︶︑じd円.嵩b︒︵一六四六年︶︑切︻島ω︵一六五四

年︶の四点があり︑レンブラントが三十年代︑四十年代︑五十年

代に風景油彩を描いていたことが確認される︒レンブラントの全

風景油彩砂中︑右に挙げた一六三六年の年記ある﹃主催の洗礼の   ︹図一︺ある風景︵切︻らω⑩︶が︑最も初期のものとして認められている︒

これはその題名の示すように︑聖書主題であるが︑人物が小さく

扱われ︑風景が全体を占めていることから︑いずれのレンブラン

ト絵画目録も︑これを風景画の部類に入れている︒三十年代半ば

以前のレンブラントの主題画の多くは︑風景を背景にその物語が

展開されているが︑風景はあくまで主題を引き立たせるための或

いは説明のための小道具として取扱われており︑ ﹃宙官の洗礼﹄

の風景とは性格を異にしている︒レンブラントの全油彩里中︑風

景を含む主題画はおよそ三十点を数えることができる︒そして興 四二

味あることには︑その半数以上が︑ ﹃宙官の洗礼﹄の描かれた一

六三六年以前に制作されている︒つまり︑レンブラントが風景そ

のものを興味の対象とし︑本格的に風景と取組もうとする以前から︑風景を絵画制作上欠かすことのできない一要素として認識し

ていたことを示している︒事実︑彼の最も初期の年記ある油彩

画︑一六二五年作の﹃聖ステファンの殉教﹄ ︵︼WH.αG︒H>︶は︑古

代風の建築物のある小高い丘を背景に聖者の殉教の場面が表わさ

れている︒一六二五年といえば︑レンブラントがアムステルダム

におけるラストマンの許での絵画の修業を終え︑故郷のライデン

で︑ようやく一人前の画家としての活動を始めた時期である︒こ

の作品にしても︑ラストマン及びエルスハイマーの影響大なるこ       ωとが多くの研究者によって指摘されているが︑この主題の背景と

なっている風景をレンブラントはどのような意図で取扱ったのだ

ろうか︒それについて少し考えてみたい︒

 本図の構図は︑画面左側に馬に乗った人物とその横で石をふり

上げている人物が影の部分としてシルエット的に描かれ︑これが

画面のほぼ五分の二を占めている︒右側五分の三は明るい光が当

てられ︑聖ステファンを中心に石をふり上げる人物群が描かれて

いる︒これら前面の人物群は︑それぞれの姿勢や表情そして強い

明暗の対比によって︑十分に劇的な効果をもって表現されてい

る︒ところで︑これの背景であるが︑画面右上方に空を背景に石

造の建築群が描かれ︑その建築群の立つ丘の頂から斜面をなして

前面の人物群に至る︑というように設定され︑その斜面に数人の

人物が殉教の傍観者として描かれ︑これが画面の中景をなしてい

る︒画面全体からみて︑この中景の部分が曖昧で︑前景から後景

への空間関係を不自然なものにしている︒つまりこの初期の段階

(3)

では︑レンブラントは主題の人物たちの描写に意を注ぎ︑背景は

単にその主題の補足的説明のために描いたに過ぎないという印象

を与える︒言い換えれば︑ここではドラマの舞台設定のためにの

み風景を取り入れた︑という段階に留まっている︒このことは︑

ど︶にも指摘できるものである︒そしてこの時期におけるレンブ ・二¥年代の風景を背景にした他の主題画︵UU唇蒔︒︒8蔭①ρ心①b︒な

ラントの主題画は︑その構図や小道具を多かれ少なかれ︑ラスト

マンや他のロマニストたちの先例に拠っていたのである︒ところ

が︑二十年代末頃から少し様相を異にしてくる︒すなわち登場す

る人物たちとその舞台たる風景の関係が密になってくる︒つまり

二つの関係をレンブラント独自の明暗法によって一体化する傾向

が出てき︑それがこの時期の彼の絵画を特色づけている︵例えば

しd戸偶①ω︶のであるが︑ 一方では自然の風景の重要性の認識が強

まった︑ということも言えよう︒

 一六三二年の年記のある ﹃エウロペの誘拐﹄ ︵しd円.卜①心︶は︑

自然の風景が画面全体を占め︑その中でギリシア神話の物語が展

開されている︒これまでの︑舞台の画割的風景から︑現実に物語

の人物たちがそこで活動する場としての風景へとその性格は変っ

た︒しかも︑ヴァイスバッハによれば︑ここで表わされた風景

は︑一部にオランダの現実の風景も混っていると言う︒この図の

画面右半分は︑岸辺で牡牛に連れ去られるエウロペを見て︑驚き

騒ぐ侍女たちと︑その背後に諺填たる森が描かれている︒左半分

は︑エウロペを背に乗せて海の中に走り込んだ牡牛︑そしてその

遠景に帆船の停面する港らしい町並がシルエット的に描かれてい

る︒この遠景の描写が︑現実の自然の観察に基づいてなされたの

かどうかは別にして︑レンブラントが現実の自然に関心をもち始

レンブラントの風景画︵兼重︶ めたことを物語るものではなかろうか︒ライデン時代︵一六一三       ㈲年まで︶のレンブラントが︑戸外で風景を描いた確証はない︒風景そのものを興味の対象として︑集中的に描き始めるのはアムステルダムに移ってから後のことである︒ 一六三三年の年記のあるエッチング﹃善きサマリア人﹄︵しU.ΦO︶は︑明らかに現実の自然を舞台として︑そこに聖書上の人物を登場させている︒本図の特徴は︑建築物やその前にある古井戸のリアルな表現にある︒モルタルがはげ落ち︑練瓦積みが顕になった箇所︑亀裂の入った壁など細心の注意をはらって描写している︒本エッチングのためのグリザイユスケッチがウォレス︒コレクシ      ㈹ヨンにある︵じd︻α島︶が︑それは別にして︑もう一枚︑本図と同じ井戸のある農家の素描︵udΦ戸まN︶があり︑この素描に基づいて本図が作られたことは確実である︒つまり聖書物語﹃善きサマリア人﹄のエッチングは︑現実の自然を出発点として完成されたのである︒ 次の数年に︑レンブラントの風景への興味は急速に増大した︒そして油彩画においては︑前述の﹃宙官の洗礼﹄のような︑風景の中に主題の人物が点景的に描き込まれるような作品を作り出した︒しかしこの風景は現実の風景ではなく︑想像から作り出された風景である︒多くの研究者の指摘するように︑このような想像的風景に対してレンブラントに刺戟を与えたのはぜーヘルスであ

った︒ゼーヘルスは︑風景画においてリアリズムとロマンティシ

ズム︵空想性︶の二つの傾向を結合させた画家であった︒レンブ

ラントの財産目録には八点のゼーヘルスの作品が記載されてお

り︑その中の一点︵現在ウフィーツィ美術館蔵︶にはレンブラント自身が人物を描き加え︑他のいくつかの箇所に修正︑補筆を行

四三

(4)

長崎大回教育学部人文科学研究報告第三十号

なったりしている︒レンブラントの﹃宙官の洗礼﹄の風景とウフィーツィのゼーヘルスの風景の右半分は構図的に非常に似てい

る︒更にレンブラントが所有していたという確証はないが︑ゼー

ヘルスめ他の風景﹃白い岩山のある風景﹄は︑より﹃宙官の洗

礼﹄と似ており︑これがレンブラント作品の直接の刺戟になった

ことを想像させる︒ともあれ︑レンブラントは︑ゼーヘルス的岩

山のある風景の中で︑彼の主題画の構想を展開させることを実行したのである︒そしてレンブラント自身︑自然の風景を体験する

必要性を感じ︑積極的に戸外での風景習作を始めたものと思われ

る︒       ︹図二︺ アムステルダムの ﹃石橋のある風景﹄ ︵じU︻瞳O︶は︑ ﹃宙官

の洗礼﹄より一年差ど後の制作とみなされているが︑これはレン

ブラントの全風景油彩画の中でも最も現実的な︵想像的でない︶

風景の一つである︒確かに︑これは典型的なオランダの村の景観

である︒画面左に居酒屋があり︑その前の道は︑すぐに右に折れ

て橋を経︑画面を水平に横切り︑木々に囲まれた農家や更に遠方

の教会の塔に導く︒川にはボートが浮かび︑川岸の畑では農夫が

働いている︒居酒屋の前には人を乗せた馬車が停まり︑橋のたも

とには数人の人物が配されている︒画家は彼らと同じ地面に立っ

た観点から見えるままをそのままに描いたようにみえる︒単純な

構図と限定された色彩のトーンは︑この時期︑ヤン・ファン・ホ

イエンに代表されるオランダ風景画のスペシャリストたちのスタ

イルを思わせる︒しかし︑レンブラントはスペシャリストたちと

同じ風景を描く意図はなかった︒三十年代のレンブラントは︑観

血に強い衝撃を与えるバロック的表現に専念していた︒このよう

な表現は︑主題画においては︑主題の選択︑人物の姿勢や表情︑ 四四

構図の工夫などによって比較的容易に達成できる︵例えば一六三

六年の﹃眼を潰されるサムソン﹄ ︵しU円・qOド︶︶︒彼はここでは

自然の風景の中でそのようなドラマ性を表現しようとした︒ま

ず︑彼は画面約三分の二を占める空︑そして地上に落ちかかる光

によってこれを達成しようとした︒西の空低くさしかかった太陽

は︑一際高く突き出た樹木を黄金色に染め︑或いは弛い弧を描く

橋の上端部をくっきりと際立たせている︒これらの明断と対照的

に︑空の右上方には黒雲がおおいふ下方の村は闇に包まれ始めて

いる︒平和なたたずまいの村における日常的な人々の生活が描か

れてはいるけれども︑この異様な光による強い明暗の対比の故

に︑日常性を脱した︑神秘的な気分が画面を支配している︒レン

ブラントは風景を描いたけれども︑視覚的現実の再現ではなく︑

自然のもつ不可思議な神秘性の表現がその目的であった︒リアリ

スティックな風景を描きながら︑そこにロマンティックな解釈を

加えるレンブラントの態度は︑彼の肖像画において︑斎主にロマ

ンティックな解釈を加えるそれと同じである︑というロ:ゼンバ

ーグの指摘は正しい︒

 このような自然解釈に基づく風景の中に︑点景的に聖書主題を

持ち込んだのが一六三八年の年記のある﹃善きサマリア人のある   ︹図三︺       9嵐の風景﹄ ︵uu寒心お︶である︒奇妙な形体の木の間の田舎道を︑

傷ついた人を乗せた馬をサマリア人が引いている︒左方︑平野の

広がりの向うに山が立ち上っている︒山の上方の空が金色に輝や

き︑その光の反映で平野が明るい部分を形成している︒空の他の

部分は暗雲におおわれ︑全体に怖れと神秘の気分を強めている︒

同じ想像的風景の中における聖書主題の表現でありながら︑自然

体験を深めた後のこの作品と︑それ以前の﹃宙官の洗礼﹄を比べ

(5)

てみると︑明暗の処理︑空間表現そして神秘的な空の表現におい

て︑ ﹃サマリア人﹄の風景が︑いかにこの主題の表現に効果的に

寄与しているかをみることができる︒

 一六三〇年代末の作とされる他のレンブラントの風景油彩画

︵しd円・ 癖刮目  恥辱◎Q  卜恥α      ︾       U︶も︑荒れ模様の空︑奇妙な形の木︑廃塊の

ような町︑円柱︑アーチなど雑多なモティーフを構成した想像的

風景である︒これら雑多なモティーフは︑画家の想像力と強い明

暗の対比によって︑全体として融合し統一され︑風景におけるレ

ンブラントのバロック的表現の理念をよく表わしている︒

 四十年代に入り︑風景素描が飛躍的に増大していることに気付

く︒また風景エッチングは四十年代に入って初めてその姿を現わ

す︒四十年代の風景素描全般について言えることは︑レンブラントが三十年代とは異なって︑非常に素直に自然と向き合っている

ということであろう︒四十年代前半に属する風景素描の大部分

は︑アムステルダムの運河や橋︑運河沿いの屋並︑そして近郊の

農家など︑或いは丹念に︑或いは速筆的に︑チョーク︑ペン︑筆

によるぽかしなどを使い分けて描写している︒四十年代後半の素

描は︑アルンヘムにまで至る東部オランダへの画家の旅行を物語

る風景が中心をなし︑これまた自然の景観を素直に写すことを中

心課題としている︒いわば四十年代は︑レンブラントが最も純粋

に自然の研究に取り組んだ時期と言えるであろう︒彼がこの取り

組みの中で追究したものは︑自然における光の諸現象と空間の広

がりの表現であった︒このことは︑この時期に初めて着手した風

景エッチングにも等しくみられるものであり︑手間暇かけるエッ

チングにおいて一層よくその追究の跡をみることができる︒例え       ︹図四︺ば一六四五年頃の作とされる﹃運河そばの農家﹄ ︵しU.b︒卜︒︒︒︶は︑

レンブラントの風景画︵兼重︶ レンブラントが風景エッチングにおいて︑前景から遠景への徐々なる引き込みの表現を︑いかに細心の注意と創意をもって為し遂げたかをよく示している︒クリストファー・ホワイトはそれを次のように説明している︒本図の中心主題は前面左側の農家である︒初期のエッチングでは︑このような前面の建物は画面水平に置かれていた︵例えば一六四一年のUd・Nb︒①︶が︑今回は遠景に向けて斜めに置かれたので︑眼は直ちに背景をなす風景に導かれる︒農家の前の道は水平線に向けてのび︑右側︑ほとんど水平に広がる運河とその向うの村の教会との緊密な関係により︑広さが      ㈹表わされている︑と︒これら構図上の工夫は︑更に腐食の強さの       ㈲差異によるトーンの微妙な変化に助長されて︑一層その空間表現の効果は増大した︒ 四十年号の油彩による風景画は楽ないし五点を数え︑そのうち      ︹図五︺年記あるものは一六四六年め﹃冬景色﹄ ︵切H・ω認︶だけである︒この時期までにスペシャリストたちの手によって多くの魅力的な冬景色が作り出されていた︒レンブラントにとって︑この作晶は彼の油彩画中でもその主題︑画法において例外的であると同時に︑それらスペシャリストたちによる冬景色と伍して︑その中でも最も優れた作品の一つに数えられることに間違いない︒またこれは︑彼の他の風景油彩に比べて︑スケッチ風に描かれており︑直接自然の中で作られたという印象を受ける︒画面はほぼ等しい四つの水平の帯状領域から成っている︒前面の明るい氷の面の層︑次にやや暗い北且尽の木々や建物の層︑そして画面上半部を占める空は明るい水平線際の部分と暗い上方の部分とに分けられている︒このような簡潔な空間構成の中に︑そりを手にした人︑スケートをつけている人︑歩いている人︑そして一匹の犬︑これら

四五

(6)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号

がリズミカルに配されて︑生々とした現実感を表出している︒

 他の油彩による風景は三十年代と同じような想像的風景であ

る︒例えば一六四一年頃の作とされる﹃馬車のある風景﹄ ︵bdH.嵩H︶は︑少し高い位置に視点をとった眺望である︒そして依然

として明部と暗部に分けられたドラマティックな空や暗い前景と

明るぐ輝やく中景との強いコントラストをもっている︒しかしこ

こには︑ステホフが指摘するように︑以前の︑風にそよぐ奇妙な

形の木︑ロマンティックな廃怠やオベリスクもなく︑農場︑麦

畑︑河︑堀を囲らす城といった牧歌的な田園を示している︒とは

いえ︑四十年代の風景油彩は︑素描︑エッチングにおける発展に

比して︑ ﹃冬景色﹄を除いて三十年代のそれとあまり変化はない

ように思える︒むしろ四十年代は︑主題画の舞台としての風景

に︑レンブラントが自然の中で得た風景の理念が表出されている

ようにみえる︒

 一六四七年の年記のある﹃エジプトへの逃避途上の休息﹄︵bd円・q刈①︶は︑主題の人物たちは自然の中に小さく配され︑しかも夜

の場面として描かれている︒聖家族が静かな森の水辺で火を焚き

休んでいる︒そこへ聖家族の逃亡を手助けするために家畜を連れ

た牧人が近づいている︒更に遠く森の中にランタンを持ち︑牛を

ひく他の牧人がみえる︒背景の丘の頂上に城の廃嘘があり︑薄雲

を通した月の光がその窓を明るくしている︒このような夜の森の

風景である︒森の輪郭は薄明の空を背景におぼろにみえ︑森の奥

深くは闇に包まれ静まりかえっている︒焚火に浮かび上った周辺

が人間的暖かみを一層強く感じさせ︑闇の中にかすかに光るラン

タンの灯が静寂の中の動きの気配を伝えている︒ ﹁これほどゲル

マン的メルヘン精神によって作り出されたロマンティックな場面        四六を他に見ることができない︑この場面は独自の感覚によって︑自然と人間を最も密に結びつけている﹂とヴァイスバッハが言うよ ㈲うに︑これは︑聖書主題を超えて︑神秘的な自然の中の人間の営みそのものを表現したものと言える︒レンブラントはここで真の意味で自然を理解し︑自己の芸術にそれを反映することができたと言えるのではないだろうか︒ 五十年代における風景油彩は二点を数えるのみである︒そのうちの一点は︑モントリオールにある=ハ五四年の年記のある﹃小        ︹図六︺㈲屋のある夕暮の風景﹄ ︵Uσ︻卜αω︶である︒これと同じ場所は視点を変えて三点の素描︵ゆ①戸H卜︒刈NHミ︒︒日卜︒謹︶に残されており︑更に一六五二年の年記のあるドライポイント︵切●N認︶でも描写されている︒本油彩は︑左側にはるか地平線に連なる平野が広がり︑中央から右側に響蒼とした樹木と小屋が描かれている︒左手から仕事を終えたらしい二人の男女が中央の小さな木の橋の方に歩み寄っている︒橋のたもとには一人の女が二人置迎えるかのように立っている︒一日の仕事を終え︑ほっとした静かな夕暮の一時を広大な自然の中に描き出している︒ここでも︑自然と人間の生活が一体となって表現されている例をみることができる︒ 本稿の冒頭で︑レンブラントの風景油彩は想像的風景画が中心となるということを述べた︒そのような観点から︑五十年代初期      ︹図七︺の作とされるカッセルの﹃廃置のある川の風景﹄ ︵︼W︻心事︶は︑レンブラントの風景油彩の集大成ともいうべき作品であると思われる︒丘の上に教会の意思らしいものがあり︑丘の下方は遠景へと広がるという構図は︑ブラウンシュヴァイクの三十年代末の      ︹図八︺﹃嵐の前の風景﹄ ︵UU噌・瞳H︶と類似している︒しかし画面からも

たらされる気分は大いに異なっている︒ブラウンシュヴァイクの

(7)

過剰な激動とあらしの気分と比較して︑これは形体の構想や光の

取扱いにおいて︑控え目で落ち着いた気分を表わしている︒重々

しく引き裂かれた雲の代りに明るくブルーに輝やく空が導入さ

れ︑わずかに上部に黒い雲があるだけである︒前面は馬上の旅

人︑アーチ型の石橋︑川岸の釣人︑水に浮かぶ白鳥や舟︑そして

向う岸に立つ風車というように自然から得たモティーフが簡潔な

形体で描かれ︑画面に堅固な印象を与えている︒色彩的にも︑空

の青︑そして前面の旅人の上着と釣人のヤッケの赤のアクセント

などによって︑以前の褐色系のトーンによる彩色とは違った色彩

性がみられる︒三十年代の激情とは異なって︑ここには﹁憂欝な

哀しい気分が自然を超えて支配している﹂ ︵ヴァイスバッハ︶︒ レンブラントはここで彼の十数年にわたる自然の体験に基づい

て︑彼の理想的風景を表現したにちがいない︒それは︑自然も︑

複雑さと計り知れない深さをもった人間と同じであるという解釈

に根ざしたものであった︒レンブラントの絵画は︑三十年代のバ

ロック的傾向から︑四十年代を経て五十年代に至り︑古典的傾向

が強まってくるが︑カッセルの風景画は︑彼の風景画の最も古典

的傾向を示すものと言えよう︒同じ時期の風景画のスペシャリストたちも︑ヴィヴィッドな色彩と構築的な構図をとる風景画を作

っていたが︑レンブラントのこの作品に匹敵し得るものは︑わず

かにヤコブ・ファン・ロイスダ:ルのみであろう︒レンブラント

は風景画のスペシャリストではなかったけれども︑ここに彼らを

凌駕する風景画を完成したと言えよう︒ レンブラントはこれから以後︑油彩による風景は描いていな

い︒主題画においても︑風景を背景とする作品はわずか数点を数

えるのみである︒その風景も︑前面或いは後面の堅固な建築物が

レンブラントの風景画︵兼重︶ 主体となり︑遠景に広がる風景は姿を消す︵例えば︼W丁掛Q︒◎︒αQ︒㊤︶︒そして風景的モティーフと登場する人物とががっちりと組み合わされて︑ゆるぎのない厳格な画面を構成している︒この時期唯一の︑純粋な風景の中の人物図として︑一六五五年頃の作とされる

﹃ポーランドの騎手﹄ ︵bd憎ミ㊤︶があげられる︒この主題につい

ては︑諸説あるが︑中世のオランダの英雄ヘイスブレヒト・ファ

ン・アムステルとするヴァレンティナーの説が有力のようであ

る︒スラヴ風の服装に軽武装した騎手が馬を静かに走らせてい

る︒それがほぼ画面いっぱいを占め︑背後には黄金の空に相対し

て黒々と岩山が横たわり︑頂上には砦のような建物が空の明るさ

を反映してはっきりと見分けられる︒強い光の当てられた騎手と

白馬の明部︑複雑なニュアンスの色彩で形成された背景の山の暗

部︑そしてこれまた複雑な色彩による薄明の空︑これらが一体と

なってこの騎手の英雄的気分を強めている︒ここでの風景は︑登

場人物のための舞台という役を超えて︑この英雄的人物と等し

い︑神秘的力をもった自然そのものが描かれたと言えるであろ

・つ︒ 油彩による想像的風景の完成と︑その風景と主題人物の結合と

いう課題はここで完全に解決されたものと思われる︒これから以

後︑レンブラントの油彩に︑風景的要素は殆んど現われなくな

る︒それに反して︑風景素描はこの五十年代に最も多く作られて

いる︒そしてこれらの素描から得られる印象は︑レンブラントが

風景素描に際しては︑真に自分自身がオランダの自然の中に融け

込み︑自然の種々相を的確に紙片に写していったにちがいない︑

ということである︒この時期のレンブラントは︑すでにこの仕事

を楽しみつつ行なうという域に達しているかのようにみえる︒自

四七

(8)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号

在に操られるペン先から︑木々や農家︑はるかに見える教会の

塔︑水に浮かぶ舟の帆︑あらゆるものの形体が永遠の姿を紙片に

留める︒それらを包む光と大気︑水面から立ち昇る水蒸気は︑水を含ませた筆の一はき二はきで見事に暗示される︒彼は完全に自

然を手中にしてしまったようにみえる︒このような風景素描をみ

ると︑レンブラントが何故これから以後風景を描かなくなったか

が分かるような気がする︒彼にとって︑未だに不可解で奥深いも

の︑それは人間をおいて他になくなったのである︒

 レンブラントの五十年代から最晩年に至る時期の︑油彩による

主題画や肖像画︵自画像を含め︶には︑以前より深い精神性がみられる︒つまり︑強い明暗の対比︑動きのある身振りや表情とい

ったバロック的劇場性が克服され︑より簡潔な形体と構図によ

る︑しかも奥深い内容を含んだ表現をとるようになった︒ここに

至るまでには勿論レンブラント自身の精神的体験や絵画上の研

究︑特にイタリア絵画の研究が大いに預って力があった︒それと

同じように︑レンブラントの風景体験が彼の絵画完成に果した役

割は重要であったと言わなければならない︒レンブラントが自然

体験で得たもの︑それをローゼンバーグは総括的に次のように指    ㈲摘している︒絵画表現の上からは︑個々の形体を大きな全体にい

かに従属させるかの問題︑戸外の光の諸現象の観察とその表現︑

そして大気の暗示が絵画を活気づけるということ︑これらの諸点

を学んだ︒それと同時に︑他方において︑自然を観察することに

よって︑自然の中に潜むバランスに気付き︑ひいては彼自身の個

人的問題をも︑広い視野からより正常な均衡のとれた感覚で捉え

る精神を養った︑と︒

 レンブラントの絵画芸術完成のためには︑彼の風景画は必然的 に通らなければならない道であったのである︒ 四八

略記号説明

66同∴︾・bdδ岳gの︵脱〇三の︒αげ団匡●Ooδoう︶菊固≦切閃>2U弓↓冨

 Oo§覚goa三80h昏①℃ぎ二昌σQ︒︒甲島蹄μa.リピ︒口鮎8H㊤Oc︒・

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ω 風景素描bd︒昌●α討が例外的に一六二七年か二八年頃とされ︑ピぱ︒戸

 まN画①熱︒9︒が一六三三年頃とされているが︑他は一六三六年頃より以

 後の作である︒油彩は一六三六年記のじd生心ωOが最初期の作品とさ

 れる︒エッチングはbd●鱒O刈が最初期とされ︑一六四〇年頃の作とい

 うことで諸カタログは一致している︒最初期の年記は一六四一年︵切.

 bΩb⊃伊Bρb︒ωω︶である︒

② 素描はべネッシュが五十年代末とする三点︵ごd⑦一p・μω①①り同ω①℃ドω①G◎︶

 を除けば︑他は五十年代半ばまでに集中している︒油彩は一六五四年

 記の︵b6﹃︒ホω︶が最後期︒ エッチングは一六五三年頃とされる︵ゆ・

 b︒嵩︶が最後期︒最も遅い年記は一六五二年︵︼W● 鱒笛b∂︾いbO軽︶︒

③ ブレデイウスのカタログによると︑ヒdび艀ωO〜鮮総の十六点である︒

 このうち卑.駐刈はバウホ︑ヘルゾンによって斥けられている︒ヘ

 ルゾンは更にピd円●瞳︒︒噛瞳Oも斥けている︒

⑳ ω超80霞ω=︿ρ弓ぎ鴫8つσQ男①ヨ訂9︒昌曾脚≧δ昌﹈≦oヨ︒ユ9>=

 ︼≦=︒︒窪§げ巳δ諏Pboρド⑩①ω●ぎσq﹃δ﹃oωゴ♪Zo≦ぢU冨8︿o肖a

(9)

 勺9︒ぎけぎσQげ団﹀紆ヨ巨のゲ9ヨ︒眞⇔dξ目昌Φq85竃9σQ・uhO◎︒弘8S内羽撃

 ﹀昌紆︒≦︒︒植諺α凶ヨ日跨鉱ヨ︒触目おミ℃℃℃・置α〜蔭①・

⑤ ベネッシュの素描目録ではただ一点聞9●α討がライデン時代の作

 として挙げられている︒しかしこれとても︑町はずれの塀と古い建物

 を︑ぼかしを多く用いて強い明暗の対比で描いたもので︑組織的な風

 景素描の中の一点とは言えないだろう︒

㈲ このスケッチはレンブラントによるオリジナルをコピーしたものと

 いう論議もある︵bdpα麟解説参照︶︒

ω ..臼ず︒ピ禽︒嵩魁の8℃o≦剛普爵︒詔び評︒菊oo町べ○黛︒5︿騒D︒︒噛8・窃×胡●qoヨ植

 まHヨ窪ξ鷺ぞ薗88=oo鉱oP<δ昌昌国●ピ8ρOo∈霧℃属︒円〇三〇︒︒

 ω︒σq冨黄おαω︵閑︒一︒︒霊巴Hり刈◎︒y訣㎝q.刈①●コリンズはこの作品が決し

 て想像的風景でなく︑画家の自然の視覚的体験から制作されたとして

 いる︵︵UO一謡昌ω℃ で・ OQQ︶︒

㈹ 冒8σ国︒ωo⇔び︒お図①ヨげ搬鋤昌臼ぴ罵①9︒昌瓢ぐく︒時引同逡Qo ︵ωaog

 HΦOQ◎︶℃●嵩O.

働 Oずユω8℃冨﹃ぐく三脅P菊︒きげ蜀昌曾9︒ωき国8冨コじ︒昌αoPお①P

 ℃・bこO昼       噛      .

⑳ エッチングにおいては︑このようにいくつかの現実のモティーフを

 構成的に配し︑より一層自然らしい自然を作り出そうとするのが特色

 である︒

αり@トーンの変化による空間表現は︑素描においてはすでにチョークの

 筆圧の強弱によってその効果を十分に経験していた︒

働 零︒罵σQ四づσqω80ゲ︒≦りU三〇7い9︒昌儀︒︒09︒冒⑦℃既三3σq亀島︒μ刈夢

 8昌ε藁甲Uo口缶oPH㊤①ρ︵bo昌ユ9●H8Q︒y℃.Hω①・

⑬ ♂く︒ヨ︒﹁零9︒︒冨07国Φ§穿β︒旨警甲ごdo二言⊆口αい︒昼Nおμ露ρ℃・

 癖μc◎●

⑬ ヘルゾンは︑かってブレデイウスがこの作品について︑多分真作だろ

 うとは思うが︑何か不安を感じさせる︑と言ったのと同じ感じを抱かせ

レンブラントの風景画︵兼重︶  ると述べている︒ベネッシュは︑ドライポイントでこのモティーフを 完成しておきながら︑二年を経た後に何故油彩で再びこれをとりあ げたのか不可解であるとし︑新しい研究が必要であると述べている ︵bdg●這置解説参照︶︒㈲ 前川・兼重﹁世界美術全集13・レンブラント﹂集英社︑一九七七年︑ 図48解説参照︒囲 即︒︒︒︒昌げ︒お前掲書μ一四九i五〇︒

︵昭和五十五年十月三十一日受理︶

四九

(10)

︑﹁響−﹂饗離調

賊難.灘尊蝋 纈暴騰.︑灘撫ぎ

認国国 r囁ぎ群動 叢灘

欝繍謙

︑鰻

I〃、

︑購書、嘱蝠潤D

     ・︑撫・

・喝 ?矯

 臨

蝕︑

(11)

(12)

     勢も・..勧謙縫

鱗毒

撫︑㌦函轟

  鳶     岬ノ3︒り舐ふ轟譜    聾﹂

  義解襲

黙髄鱗 騨鉾義㌧

鞠馨鰍

箏宰ウ亀砺無侮糞

唾働勲

誕勘国

纏〆

(13)

あヒ ア

饗解.

魂ゼ・.帆

恥津㌧

図 三

参照

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