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ア ン ビ ユ ラ ン 』

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(1)

森鴎外

﹃ ル

• パ ル ナ ス

• ア ン ビ ユ ラ ン ﹄

1)内全

プし ー

ー ー ド ラ ナ チ ユ ウ ル の 造 形 を 中 心 に

はじめに

森鴎外は明治四二年一月︑本格的に文壇復帰を果たして以後︑次々

に小説や翻訳作品を発表していくことになる︒そのころ︑日本の文

壇では自然主義が隆盛を誇っていた︒鴎外はゾラの名前を最初に日

本に紹介した人物一であり︑本場の自然主義を理解していたことも

あり︑この自然主義の潮流とは距離を置いて活動していた︒

そんな中︑自然主義を調刺した小説が文壇復帰の第二年の明治四

三年六月︑﹁中央公論﹂に発表された﹃ル・パルナス・アンビユラン﹄

である︒この小説が出来上がったのは鴎外の日記によると五月一一一一

日であり︑大逆事件直前の世相を反映して︑自然主義への菰刺と同

時に文芸弾圧を行う政府への批判も顔を覗かせている︒

本論では︑本文中に見られる菰刺表現を考察するとともに︑﹃青年﹄

﹃花子﹄など鴎外作品の表現との関連を考察し︑﹃ル・パルナス・ア

ンビユラン﹄の書かれた意図を論じる︒また︑登場人物ドラナチユ

ウルの造形を考察する︒本論文全体を通して︑鴎外が自然主義全盛

の文壇状況にどういった態度を示し︑それが﹃ル・パルナス・アン

, 烏

ゆ み あ

ピユラン﹄にどのように反映されているかを明らかにしたい︒

鴎外初の調刺小説としての試み

﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄は自然主義への誠刺小説であり︑

大逆事件以前に書かれた作品であるため︑政府に対してよりは文壇

への調刺が目立つ︒ここで︑作品前半でそれぞれの登場人物がどの

ように描写されているかを見てみよう︒ d

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そして

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記岡 田百 円︒ とい ふフ ラン ス人 らし い名 の男 に︑

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片と書いてある︒行列係は︑比一二人には余程倣慢

らし い態 度で

︑﹁ 口広 固め 同窓 口 Uc

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聞のロごと遣つ附けた︒(略)兎に角行列係の先生はい

(2)

ろんな国の言一葉を鏡舌るのである︒尤も間違ってゐるかも知れ

出川

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長川

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白山

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本章では後に触れる四人の﹁第一流の先生﹂と対応するように︑

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という四人の外国人の登場が登場する︒彼らは日本

の借り物の自然主義者たちと対比されているが︑彼らに対し︑行列

をまとめる役のシルクハットはドラナチユウル(自然主義)以外に

は﹁倣慢﹂な態度を取っている︒また︑シルクハットはいろいろな

一言葉を話すことができるが︑本当に使いこなせているわけではない

らしいことがほのめかされている︒

‑﹁

門人

両手で不調法らしく︑白木に戒名を書いた位牌を撃︑げてゐる︒ ﹂

亡くなった先生には長男があるから︑それが位牌を持つ筈であ

るが︑先生が亡くなる前まで自由恋愛を遣ってゐたので︑細君

と三人の子供どは︑別居をしてゐて︑葬にも立たない︒そこで

門人のこの男︑が位牌を持つことになったのである︒

‑﹁四句の備の旗を持った人足﹂

自由恋愛はしてゐても︑第一流の先生は余り経済が僚かではな

かったのであるし︑それに平生やれ生の意義だの︑生の受用だ

のとは云ってゐても︑立派に生きるといふ程生きて見たのでは

なかったのであるから︑生滅滅己︑寂滅為楽には相違ない︒

‑﹁ 第一 流の 先生

死といふことは始終書いてゐたが︑実はそんなに深く死といふ

ものに就いて思索を費したのでもない︒殊に自分の死といふこ

とは少しも考へたことがなかった︒そこで遺言もない︒(略)只

平凡な死骸となって︑棺の中に仰向になってゐるのである︒

門人︑四句の偽︑先生の描写によって︑第一流の自然主義文学者

である﹁第一流の先生﹂の実像が表されている︒なぜ﹁先生﹂の位

牌を持つのが門人なのかといえば︑結婚してからも﹁自由恋愛﹂を

していたために︑別居していた妻子は葬式にも来ないから︑という

生活の様子が明らかになる︒しかし裕福だったわけではなく︑口で

言っていたほど立派に生きたわけでもないことが︑四句の備の言葉

になぞらえて表わされる︒

次に︑﹁先生﹂の仲間である﹁第一流の小説家﹂たちが登場する︒

66 

‑﹁ 第一 流の 小説 家﹂

シルクハットが一人に山高帽子が三人であるが︑黒の洋服とい

ふ所丈は揃ってゐる︒尤も服の所有権に関しては︑多少の疑を

挟むべき余地がないでもない︒棺の中に仰向けになってゐる先

生を除けて︑日本の文壇で第一流と云はれる人は︑此四人ばか

りである︒一歩を進めて言へば︑比棺と棺側とが即ち日本の文

壇なのである︒これが歩いてゐる文壇である︒

即日

ず巳

同巳

であ

る︒

ν

(3)

白人の﹁第一流の小説家﹂は︑田山花袋ら︑自然主義の大家を示

していると先行研究で指摘されている︒二黒の洋服はお揃いだが︑

﹁尤も服の所有権に関しては︑多少の疑を挟むべき余地がないでも

ない﹂と︑この四人の服している主義が自分たちのものではなく︑

借り物であるということを示し︑シルクハットへの調刺と通じるも

のと なっ てい る︒

‑﹁

批評

家﹂

近眼目金を掛けた痩男が先頭に立ってゐる︒これが文壇の主義

の名附親である︒謂は

y p

ロ島

田窓

口円

門戸

45

B

である︒文壇が内閣

なら︑これが書記官長である︒跡に附いて列んだのは︑皆訓練

を受けた少壮者である︒主義の違ったものなぞは交ってゐない︒

先頭の男は島村抱月である︒文中では

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ロ岳

窓口

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(

主義の

創設

家)

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表さ

れ︑

司母

国国

田由

︒即

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己自 仲( 歩く 文壇 )上 ど並 べら れる

この二つが文壇の中心といえるであろう︒後につく若者たちは皆自

然主義に服しており︑作為よりも衝動を重んじる自然主義者に﹁訓

練﹂という言葉を使うなど︑皮肉な表現が見られる︒

‑﹁

若い

諸君

色の蒼い痩せた二十前後の男がそろ/¥出て来て︑列に這入っ

た︒あらゆる種類の帽子が並ぶ︒羽織は著てゐるのもゐないの

もあるが︑袴丈は皆穿いてゐる︒その間々にいろんな学校の制

服が交る︒一年志願兵の軍服なんぞは交ってゐない︒それは其 筈である︒身体検査を受ければ︑丁種になりさうなのが揃ってゐ

るの であ る︒

若い自然主義の文学者たちである︒﹁袴丈は皆穿いてゐる﹂という

表現は︑﹁第一流の先生﹂たちの﹁黒の洋服といふ所丈は揃ってゐる﹂

という表現しι対応したものとなっている︒顔色が悪くひ弱そうな集

団の様子は︑好意的に書かれているとは一言えないだろう︒

‑﹁

並の

会葬

者﹂

数十人の人力車の列が︑自然淘汰の方則の下に出来る︒車上の

人は︑年寄もあれば若いのもある︒第二流以下の小説家︑H

回 目 ︒

の違った批評家︑戯曲家︑長詩家︑短詩家なんぞである︒その

列問

自然

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で封

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人力車に乗ってゐる連中は︑皆お人好しばかりで︑シルクハ

ットに何と云はれようが︑自分が後にならうが︑そんな事には

頓着しない︒不断から︑書かせることは書かせて遣る︑息の根

丈は留めずに置いて遣る︑第二流だと心得て書いてゐろと申し

渡されて︑書いてゐる位なのだから︑感覚が鈍ってゐるので︑

こんな時には扱ひ好いのである︒ tρhu 

シルクハットが﹁跡は並の会葬者だ﹂と行ってしまったあと︑﹁第

二流以下の小説家︑

55

の違った批評家︑戯曲家︑長詩家︑短詩家﹂

の様子が描写される︒自然主義以外は冷遇される状況を風刺してい

(4)

る︒同時に︑自分たちの文学者としての才能ではなく︑﹁車夫と車夫

との問に行われる自然淘汰﹂によって順番が決まるという皮肉は︑

自然主義のみならず︑どの主義に服するかでその文学者の地位が決

まるという︑文壇における党派全体を楓刺している︒

‑﹁ 異彩 を放 った 会葬 者﹂

此男は馬に乗ってゐるのである︒カアキイ色の軍服に大きい勲

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同棟 一出 判で

1.

馬はいれる︒車夫は小言を

言ふ

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L﹁ 川 一

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最後になって登場するこの人物は︑鴎外自身を表わしている︒軍

服に大きな勲章を付けているが︑まごついて空車の後ろ︑行列の最

後尾に付いていく︒そのことを子供達に榔検されているが︑唯一馬

に乗っているという描写は︑集団に染まらず︑行列の他の人物との

差別化がはかられているともいえるであろう︒

後半では︑天候にも恵まれ順調に進んでいた行列が紀尾井町まで

来たととろで異変が発生する︒ドラナチユウルと﹁花子さん﹂がこ

そこそ話している︒﹁シルクハットは行列を指揮していたはずだが︑

二人の会話を二しよう懸命に聞かうとしてゐるので︑行列がどこ

を歩いてゐるか︑一切知らずにゐた︒﹂とドラナチユウルに気を取ら

れ︑行列の向かう先を見失っている︒自然主義の支配する文壇が方 向性を見失っているともとれる表現である︒

シルクハットがドラナチユウルの言葉が聞き取れたと思った瞬間︑

ドラナチユウルは行列の先頭まで駈け出して行く︒先程まで彼と話

していた花子さんはうっとりと陶酔しており︑﹁魅せられたやうな︑

変な様子﹂をしているとシルクハットは気付く︒本文中で初めてド

ラナチユウルの異常性が初めてはっきりと示されるのである︒

(略)シルクハットは花の行列を駈け抜けようとあせってゐる

のであるが︑体は前屈みになって看板のシルクハットが脱げさ

うになって︑気ばかり探めて︑足は一つ所を踏んでゐるやうな

心持

︑か して ゐる ので ある

突然恐ろしい物音がした︒今日は三一会堂で英国の大使が法会

をするので︑弔砲が鳴る筈ではあるが︑それにもまだ少し早い︒

物音も大砲とは違ってゐる︒なんだか正巳窓口と云ったゃう

である︒人間の声であったやうだ︒いや︑人間以上の芦であっ

たや うだ

‑68 

この表現からは方向性を見失った文壇の停滞が読み取れるのに

続いて︑﹁人間以上﹂のものの存在がほのめかされている︒この﹁人

間以上の声﹂によって︑行列全体に異変が起こる︒

不思議にも行列がぴたりと留まった︒(略)歩調の揃った西洋

人は揃ったま﹀︑歩調のめちゃ/¥な日本人はめちゃ/¥なま

ま(略)何もかも凝り固まったやうになって︑ぴたりと留った

(5)

ので

ある

﹁人間以上の声﹂によって行列は動きを止められてしまう︒ここ

でも︑日本への調刺が見られる︒しかし︑特に滑稽な描写をされて

いるのが︑これまでは行列の指導者であったシルクハットである︒

最も可笑しいのはシルクハットである︒体を前屈みにして︑

帽が脱げそうになって︑飛行機なしに飛んで見ようとでもして

ゐるような風をして︑そのまま留まってゐる︒若しこれが彫刻

なら︑余程大胆な吉田

E D

ロである︒地震国には不向きである︒

その癖此シルクハットの先生は︑精神が至極儲かである︒﹁晴

天白 日に けし から ん﹂

︑﹁ 不自 然極 まる

﹂︑

﹁広 岡国

︒に 背い てゐ る﹂

﹁第 二流 だ﹂

︑﹁ 自然 の誤 訳だ

﹂︑

﹁消 極的 だ﹂

︑﹁ 形式 ばか りだ

﹂︑

﹁半無機物主義だ﹂といふやうな判断が︑不規則不順序にシル

クハットの下で湧き立ってゐる︒

けどうにかして動いて見ようと︑気を探んでも︑足は磁石力で

吸ひ附けられてゐるやうで︑体は銅像にでもなったゃうで︑ち

つど も動 かな い︒

前半の﹁第一流の先生﹂の描写で︑すでに思想と行動の不一致が

あげつらわれていたが︑ここでは行動を強制的に停止させられるこ

とによって︑その翻際がよりはっきりと目立つことになってしまう︒

ドラナチユウルによってそれが暴露されてしまうとも言える︑だろう︒

﹃青 年﹄

﹃花 子﹄ との 関わ り

竹盛天雄氏の研究三では︑﹃青年﹄も鴎外の批判的精神が発揮され

ている作品であると指摘されている︒そして︑特に明治四三年六月

に発表された﹃青年﹄(七)(八)の内容は︑﹃ル・パルナス・アンビ

ユラン﹄の調刺内容と関連があるようである︒

以下の文章は︑第一章の最後に引用した︑シルクハットが停止さ

せられた場面の続きである︒

歩けるには歩けるが︑田の中をでも歩くやうに︑足をたがひ

h fd

違ひに引き抜くやうにしなくては歩けない︒縛は半分解けた

のである︒シルクハットは汗をたら/¥流して︑半縛主義半因

主義の歩き方を遣ってゐる︒丁度鷺のやうな歩き附である︒

69 

また︑次の文章は︑同じ月に﹁スバル﹂に発表された﹃青年﹄の

純一と大村の会話である︒

﹁哲学が幾度建設せられても︑その度毎に破壊せられるやうに︑

新人も積極的になって︑何物かを建設したら︑又その何物かに

捕はれるのではないでせうか︒﹂

﹁捕はれるのですとも︒縄が新しくなると︑当分当りけところが

違ふから︑縛を感ぜないのだらうと︑僕は思ってゐるのです︒﹂

﹁(略)僕はマアテルリンクを大抵読んで見ました︒それから同

じ学校にゐた友達だといふので︑︿

2 V 2 5

ロを読み始めたので

す(略)あれには大分纏まった人生観のやうなものがあるので

(6)

すね︒妙にかう敬度なやうな態度を取ってゐるのですね︒丸で

日本なぞで新人だと云ってゐる人達とは違ってゐるもんですか

ら︑へんな心持がしました︒あなたの云ふ積極的新人なのでせ

う︒

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東.

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ハアレンの詩なんぞを見ますと︑(略)あの敬度なやうな調子に

引き寄せられてしまふのです︒出目列

は友達ださうですが︑丁. M

度ロダンの彫刻なんぞも︑同じ事だらうと恩ふのです︒(略)西

肖引

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川目

制句

﹁小さいのですとも︒あれはのロ官︒の名なのです︒﹂大村は悟然としてかう云った︒

閉じ月に発表された二つの作品の内容が﹁自然主義﹂と﹁縛﹂に

関するものであることは示唆的である︒当時自然主義的な新しい価

値観に彼ら自身がとらわれ始め︑自然主義という党派自体がすでに

形式化しつつあったことを示しているのではないだろうか︒

また︑上に引用した﹃青年﹄純一の台詞も︑これに関わる︒﹃ル・

パルナス・アンピユラン﹄の﹁歩いてゐる文壇﹂の停止の意味は︑

ここから読み取れるのではないだろうか︒﹃青年﹄(八)で︑純一は

西洋の新人と日本の新人をはっきりと区別して考え始める︒そして︑

日本の新人は﹁消極的﹂で﹁縛られた縄を解いて行く処に︑なる程 と恩ふ処がありますが︑別に深く引き附けられるやうな感じはありません﹂﹁附石の云ったやうに︑小さい﹂と︑反対に西洋の新人は﹁纏まった人生観﹂﹁気息の通ってゐる処﹂があると認識されているのである︒﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄の﹁亡くなった先生﹂が︑作品は奇抜な内容を気取っていたが︑本人は思想にのっとった生き方を必ずしもしていたわけではない︑と第一章で既に述べたが︑これは﹁亡くなった先生﹂の﹁消極的新人﹂としての在り方を示していたといえるだろう︒また︑日本の﹁棺側の先生(第一流の先生方)﹂と対比させられるように登場する四人の西洋人の︑﹁どれもどれも葬に来ては葬に来たらしくしていて︑にこにこ笑ったり︑余計な事を僕舌ったりはしないのである︒﹂という真撃な様子の描写も︑純一の台詞の﹁積極的新人﹂の﹁敬度なやうな様子﹂を思い起こさせるもの

とな って いる

清田文武氏四は︑鴎外の小説﹃杯﹄五について﹁主義に対する主義

にも︑囚われた心の存すること﹂を指摘し︑その立場から自然主義

へ向かったのが﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄であると述べてい

る︒﹃青年﹄の﹁小さいのですとも︒あれはの

‑ z g

の名

なの

です

︒﹂

という大村の言葉は示唆的である︒この党派への瓢刺という点でも

このこ作品は通じているといえる︒

70一

次に︑﹁積極的新人﹂としてロダンの名前が出てくることに注目し

たい︒鴎外はロダンに深い関心を持っており︑﹃ル・パルナス・アン

ピユラン﹄の一ヵ月後の明治四三年七月︑﹁三回文学﹂にロダンと日

本人女優福原花子のエピソードを題材にした﹃花子﹄を発表してい

る︒﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄に登場する﹁花子さん﹂はこれ

(7)

と同 一人 物と は号 一一 一回 えな いま でも

︑無 関係 では ない ので はな いだ ろう

か︒ちなみに︑﹃滑滴﹄では﹃花子﹄は﹃ル・パルナス・アンピユラ

ン﹄の前に置かれているので︑単行本を通して読んでいくと﹃花子﹄

の花子が﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄の﹁花子さん﹂として再

登場 する 形に なる

﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄で︑花子がどのように描写され

ているかを見てみよう︒

書付を持ったシルクハットが︑今迄にない優しい声で︑﹁さあ︑

花子さん︑あなたの番ですよ﹂と云ふと︑ハンケチで顔を押へ

ながら︑府髪の女が門の内から出て来て︑棺の背後に件んだ︒

(略)但し折々ハンケチを顔から離したところを見れば︑目指引

叫 ん ﹂ 目

以 目 出 目

梨 目 別 別

出 冊 目 判

UJ出 白

羽 田 い

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﹁花子さん﹂は既婚者であった﹁亡くなった先生﹂が﹁自由恋愛﹂

をしていた相手だが︑﹁余り別品ではない﹂と評されている︒小説﹃花

子﹄でも︑以下のように書かれている︒

花子は別品ではないのである︒(略)お三どんのやうだと云つ

ては︑可哀さうであらう︒格別荒い為事をしたことはないと見

えて︑手足なんぞは荒れてゐない︒併し十七の娘盛なのに︑小

間使としても少し受け取りにくい姿である︒一言で評すれば︑

子守あがり位にしか︑値踏が出来兼ねるのである︒

小説

﹃花 子﹄ は︑

﹁別品ではない﹂花子を日本人久保田は恥じる が︑その中に美のあることをロダンが発見する小説であるため︑花子が﹁別品ではない﹂は小説中で重要な言葉となっている︒﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄ではドラナチユウルと花子が関わってから︑ドラナチユウルの反乱が起こっているためである︒

それまでにドラナチユワル君は頻に何か花子さんに噴いてゐた

が︑ハンケチを顔へ当てたり離したりして歩いてゐた花子さん

がいつの間にか妙にはしゃいで来て︑小声で何やら留めどなく

僕舌り出した︒もう手にはハンケチを持ってゐないのである︒

行列係をしてゐたシルクハットの先生は︑大相気になる様子で︑

耳を歌て﹄聞かうとするが︑ぢき側で言ってゐるのがどうも好

く聞えない︒(略)一しよう懸命に聴かうとしてゐるので︑行

列がどこを歩いてゐるか︑一切知らずにゐた︒

d‑ E

花子さんはうっとりとなったやうな工合で︑少し大き過ぎる

口の周囲に︑夢を見てゐるやうな微笑を湛へて︑ロOg

Br 己 申

かなんぞのやうに︑ふら/¥と歩いてゐて︑今まで熱心に会話

をしてゐた相手の突然ゐなくなったのに︑丸で気が附かないの

であ

る︒

シルクハットは怪しい西洋人の駈け出すのを︑ロを大きく開

いて︑あっけに取られて見てゐたが︑それでも花子さんの魅せ

られたやうな︑変な様子に丈は気が附いた︒

先程見たように﹁消極的新人﹂である先生が亡くなって涙に暮れ

ている花子さんが︑﹁積極的新人﹂の要素を持つドラナチユウルに

(8)

話しかけられて﹁妙にはしゃいで来て﹂︑彼がいなくなっても気付

かずに﹁魅せられたやうな︑変な様子﹂をしているのである︒との

場面は︑日本の﹁消極的新人﹂と西洋の﹁積極的新人﹂の違いを象

徴的に示すとともに︑﹁積極的新人﹂ロダンに美を発見された﹃花子﹄

の花子のパロディともとれる︒

この シ

lンのあとに︑シルクハットは駈け出したドラナチユウル

を追うが︑﹁恐ろしい物音﹂がして動きを停止させられる︒

最も可笑しいのはシルクハットである︒体を前屈みにして︑

帽が脱げさうになって︑飛行機なしに飛んで見ょうどでもして

ゐるやうな風をして︑そのまま留まってゐる︒若しこれが彫刻

なら︑余程大組な吉田正oロである︒地震国には不向きである︒

唐突に﹁彫刻﹂﹁銅像﹂という一言葉も︑彫刻家ロダンが出てくる﹃花

子﹄を思い起こさせる︒更には︑﹁地震国には不向きである﹂という

付け足しまでされており︑再び日本と西洋の違いを示すものとなっ

てい るの であ る︒

﹃青年﹄を文脈として見たときに︑ドラナチユウルがどういう意

味を持っかを一度まとめておきたい︒ドラナチユウルとシルクハッ

トには︑﹃青年﹄の大村と純一と同じモチーフが用いられている︒

‑﹃ル・パルナス・アンビユラン﹄

例の西洋人は︑それを変だとも思はない様子で︑影の形に添ふ

やう

に︑

一同

U︐掛¥調で附いて行く︒二人は棺の直後の府髪の傍ま で来て︑シルクハットが花子さんの左に並ぶと︑ル君は心得顔に花子さんの右に並ぶのである︒ ドラナチユウ

シルクハットはふいと自分の体の動くのを感じた︒花を持っ

てゐる人足は動かないのに︑自分の体丈が動くのである︒締め

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シルクハツ略)縛は半分解けたのである︒(

トは︑汗をたら/¥流して︑半縛主義半因主義の歩き方を遣って

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黒い服を着た西洋人が一人先頭に立ってゐる︒︐そ i

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(9)

﹁歩調(歩度)﹂﹁大股﹂﹁平均(均衡ごという言葉に注目してみ

よう︒﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄では︑ドラナチユウルはシル

クハットに︑﹁同じ歩調﹂で付いていっていた︒シルクハットは二度

目の停止から逃れて歩き出そうとするが安定しない︒次に行列が進

み出すと︑ドラナチユウルは﹁大股にゆっくり歩くやうに見えて︑

不思議に早﹂く︑シルクハットは必死で付いていって︑やっと﹁自

分との間に︑同じ距離を保っている﹂のである︒

同じことが﹃青年﹄にもいえる︒術石の講演を聞いたことによっ

て純一に内面の混乱が訪れる︒この日知り合った大村を純一は直感

的に頼りに思い︑この場面でも﹁歩度を加減してゐるらしい﹂が﹁均

衡を保ってゐる﹂ように感じる︒一方︑純一は﹁なる丈大股に歩か

うとしてゐる﹂ものの︑﹁自分の強ひて伸べようとする歩度は乱れ勝

になるやうに感ずる﹂︒大村が﹁新人とは何か﹂という新しい疑問を

解決する助けの役割を果たすことは竹盛氏の研究大で指摘されてお

り︑この章でもすでに﹃青年﹄の﹁新人﹂と﹃ル・パルナス・アン

ピユラン﹄について考察した︒ドラナチユウルと大村︑シルクハッ

トと純一はそれぞれ重なるものとなっている︒大村は純一の引率者

としての性格を与えられているが︑ドラナチユウノルとシルクハット

はその関係をパロディ化したものとなっている︒このように登場人

物を仔細に検討していけば︑﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄自体が

同時期の鴎外作品のパロディとしての要素を持つといえるのではな

いだ ろう か︒

ここまで︑鴎外の小説中で自然主義︑特に﹁消極的新人﹂を批判

している部分について触れてきたが︑鴎外と自然主義に関して述べ ようとすれば明治四三年十月の創作集﹃滑滴﹄に触れる必要がある︒﹃滑滴﹄は金子幸代氏によって自然主義を意識して編集された単行本だという指摘七がされている︒

﹃滑滴﹄の最初に置かれた小説﹃杯﹄で︑鴎外は﹁第八の娘﹂に

よって自分を取り巻く文壇状況への宣号一口を行った︒それはあくまで

党派に偏らず︑自分のやり方を貫いていくというものである︒﹃ル・

パルナス・アンビユラン﹄に﹁騎馬の先生﹂として出てくる鴎外を

思い起こして欲しい︒﹁騎馬の先生﹂は行列の後ろの方に付いていっ

ていたが︑それは︑自分は自分として︑党派からは距離を置いてい

る様子を表しているともいえないだろうか︒

﹃滑滴﹄の最後を締めくくるのが︑序章でも述べたように﹃ル・

パルナス・アンピユラン﹄である︒鴎外はこの小説によって文壇へ

の批判を行っていることは明らかだが︑﹁積極的新人﹂ドラナチユウ

ルが﹁大股﹂でどこかへ消えたあと︑﹁文壇万歳万々歳﹂という言葉

で締めくくられている︒

金子氏は﹃滑滴﹄によって﹁反自然主義宣言﹂は締めくくられる

と述べているが︑文壇への批判の意識をもって編集された﹃滑滴﹄

を通して見たどきに︑この一言葉は示唆的である︒自然主義への対抗

は﹁文壇万歳万々歳︒﹂という言葉をもって終わるのである︒﹃滑滴﹄

が刊行されたすぐあとの明治四四年二月には次の創作集﹃畑塵﹄が

刊行され︑﹃フアスチェス﹄﹃食堂﹄などの小説によって︑鴎外の批

判は政府へと向かっていく︒ qJ 

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ドラナチユウル

(10)

第二章でドラナチユウルと﹃青年﹄の大村の関係について述べた

が︑この章では︑更に見方を変えてドラナチユウルの人物造形の由

来を考察していく︒

現在のところ︑ドラナチユウルの造形について具体的に述べられ

ている研究はないが︑論者は﹃ル・パルナス・アンビユラン﹄本文

中に描かれているドラナチユウルの特徴付けと行動から考えて︑﹃フ

アスチェス﹄の﹁引き廻しの人﹂と関連があると考えている︒

ドラナチユウルは︑最初はシルクハットの﹁影が形に添うやうに﹂

付いて行くが︑行列を操り出してからは不思議に早く歩き︑シルク

ハットも付いて行くのが大変なほどで︑最終的には姿を消してしま

う︒また︑﹁悪魔﹂であることが暗示されている︒外見は︑濃い褐色

の髪に切れ長の吊り目にぴんと尖った八字髭︑途中から(シルクハ

ットが気付いた時には)百には﹁具様な光﹂が輝き出す︒

﹃フアスチェス﹄は﹃ル・パルナス・アンピュラン﹄の三ヶ月後

の明治四一二年九月に書かれた対話編で︑大逆事件後の行き過ぎた文

芸弾圧を風刺した内容となっている︒文芸弾圧に関する文士と官吏

の対話が交わされた後︑﹁引き廻しの人﹂が突然登場し︑二人を罵倒

して去る︒以下に﹁引き廻しの人﹂の台詞の全文を引用し︑特徴が

室聞 かれ てい る部 分に 下線 を引 く︒

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同)由︒目︒口︑が附いてゐた︒其デモンが云ふにはな︑昔ロオマの8ロ由己の従者に四回口昨日といふものがあって︑答の束の真中に餓

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22

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って高慢な事を云ふかと思へば︑自分で自分を打ち消して︑遁

げ腰になってゐる︒出閣割引唱制覇剖制引制パ計両国利寸寸i

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れるのを預言したやうなものだ︒ゃい︒役人︒国家は貴様にオ

オソリチイを与へてゐる︒威力を与へてゐる︒それはなんの為

めに与へてゐるのだと恩ふんだ︒己は執法者だから︑己の頭脳

で己が判決する︒歴史にも構はない︒世界の文化にも構はない︒

己の判決ど違った判決をすれば︑それはそのした奴の間違ひだ

と い ふ や う な こ と を 云 っ て ゐ る

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威力は正義が行はれるために与へであるのだぞ︒ちと学問や芸

術を草敬しろ︒(堀端を対時吋升司司社1二人腰の抜けたるまま

にて 見送 る︒ )

﹃フアスチェス﹄の﹁引き廻しの人﹂は︑自分でハイネに付いて

一74

(11)

いたデモンと同じものだと名乗り︑文士を﹁見損なって﹂﹁影が形に

副うやうに﹂付いて回っていたと言う︒文士の官吏への態度に腹を

立て︑﹁もうこれでお別れだぞ﹂と別れを告げ︑﹁大股に歩み去る﹂︒

外見は︑﹁笠の如き麦藁帽を被り︑長さ燥に達する鼠色の大引廻しを

纏ひたる大男︒短き髭願を繰りて︑眼光畑々たり︒いずくより来り

しか︑忽然二人の前に現れ︑黙って二人を脱む︒﹂と描写されている︒

﹃フアスチェス﹄の﹁引き廻しの人﹂については︑ハイネの﹃ド

イツ・冬物語﹄からの影響がこれまでに指摘され︑鴎外とハイネの

関係については多く研究されている︒八

以下に︑﹃ドイツ・冬物語﹄第六章九からの劃用を示す︒

ぼくは左いえば︑夜︑机にむかうと/ときどき︑うしろに/覆

面をしたやつが/不気味に立っているのに気づいた︒

男の姿はずんぐりしているようで︑/日

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男は︑ぼくが書いているのをじやましなかった︒

/はなれて︑しずかに立っているのだった︒

ぼくは物思いにふけって通りをぶらついていた︑/そのとき背

後に︑やつが/司

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広場のまんなかまでやってきた︒

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たとえ何年かかろうと︑/わたしは︑あなたが考えたととを/

実現するまで休みはしません︒/あなたは考える︑わたし︑わ

たしは行動します︒

υηj あなたが判官︑刑吏がわたし︑/わたしは奴隷のように従順に

/あなたの下した判決を実行するのです︑/よしんば︑まちが

った 判決 でも

むかし︑ロ1マでは︑/執政官のまえに斧がはこばれました︒

/あなたも自分の属吏をもっています︑/しかし斧はあなたの

うしろから︑はこばれます︒

わたしはあなたのリクトルです︑/わたしは︑ギラギラ光る首

斬り斧をもって/叫オ汁凡叫叫叶叫州司叶叶叶訓汁いね f

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(12)

﹃ドイツ・冬物語﹄の﹁男﹂は︑ソクラテスの﹁ダイモニオン﹂

などが配引き合いに出されており︑そういったものと近しい存在であ

るとわかる︒夜︑詩人である﹁ぼく﹂が机に向かっている(創作し

ている)と不気味に後ろに立っている︒また︑﹁ぼく﹂の﹁影のよう

に﹂ついてくる︒﹁ぼく﹂の前には現れるのは﹁胸に時代感情がわき

/精神の稲妻が頭を突きぬける﹂Lどきで︑自分を﹁あなたのリクト

ルです﹂と名乗る︒﹁ぼく﹂の思想を実行する役目である︒マントの

下に斧のようなものをしのばせ︑ずんぐりした姿に﹁二つの光る星

のよう﹂な目をしている︒

﹃フアスチェス﹄﹃ドイツ・冬物語﹄を通して見ることによって︑

シルクハットに取り濃く﹁悪魔﹂としてのドラナチユウルの正体が

明らかになる︒﹃フアスチェス﹄ではデモンは︑もともと文士を﹁見損

なって﹂﹁影が形に副うやうに﹂付いて回っていたが︑文士の官吏へ

の態度に腹を立て︑﹁もうこれでお別れだぞ﹂と別れを舎げ︑﹁大股

に歩み去る﹂︒これは︑﹃ル・パルナス・アンビユラン﹄の最初はシ

ルクハットの﹁影の形に添うように﹂付いていくが︑途中でシルク

ハットから離れ︑﹁大股﹂で歩いてついには姿を消してしまう筋立て

と一致する︒また︑﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄の﹁具様な目の

光﹂と﹃フアスチェス﹄の﹁眼光畑々たり﹂というドラナチユウル

とデモンの表現も重なるものとなっている︒また︑これまでの研究

によって︑鴎外はハイネに阜い時期から関心を持っており︑﹃フアス

チェス﹄の﹁劃き廻しの人﹂の造詣は﹃ドイツ冬物語﹄によったこ

とが明らかにされている︒

また︑とれらの作品はそのテlマにおいても共通している︒﹃ドイ

ツ・冬物語﹄では﹁男﹂は﹁ぼく﹂の思想と行動を一致させるため に働く存在として描かれた︒それに対し﹃フアスチヱス﹄では︑﹁引き廻しの人﹂は自分もハイネのデモンと同じだということを表明し︑

﹁己は貴様を見損ってこれ迄附いてゐたのだが︑もうこれでお別れ

だぞ︒(略)己が附いてゐて遣るのに︑なぜ己が先駆者だと名舎らな

いのだ︒貴様の文芸生活と俗生活とは到底矛盾を免れないと︑三宅

雪嶺が云ったのは︑けふ俺が別れるのを預言したやうなものだ︒﹂と︑

清田氏の述べるように言行の不一致に怒り︑文士のもとを去る︒

おわりに

本論文で見たように︑﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄で︑鴎外は

日本の新人を否定的に捉え︑﹁縛﹂を解かれでも結局は停止に陥って

しまうという筋書きによって︑﹁亡くなった先生﹂やシルクハットの

ように文学者の思想と行動の君離している様子が描かれていると述

べた︒ハイネの﹁ぼく﹂に忠実な行動をするデモンとは逆に︑ドラ

ナチユウルと﹁引き廻しの人﹂は反乱を起こす︒それは︑文壇の停

止によってもたらされるのである︒﹃青年﹄で日本の﹁新人﹂を﹁消

極的新人﹂と区別したように︑﹃ドイツ・冬物語﹄の﹁胸に時代感情

がわき/精神の稲妻が頭を突きぬける﹂主人公どは違って︑﹁消極的

新人﹂は思想と行動が一致せず一o︑積極的に何かを﹁建設﹂してい

く力が欠如している︒それが﹃フアスチェス﹄で﹁引き廻しの人﹂

であるデモンが文士から離れていった理由であるし︑﹃ル・パルナ

ス・アンビユラン﹄でシルクハットにぴったり付いていっていたド

ラナチユウルが方向性を見失った彼を離れるだけではなく︑立場を

逆転させて逆に操ることさえ始め︑最後にはどこかへ消えてしまう

一76

(13)

(﹃フアスチェス﹄の言葉を使えば﹁お別れ﹂する)理由であるとい える だろ う︒

とのことから︑﹃ル・パルナス・アンビユラン﹄のドラナチユウル

の造形は︑﹁引き廻しの人﹂の造形と共通する意図をもってなされた

といえる︒もちろん︑﹃ル・パルナス・アンピユラン﹄が書かれた時

点では大逆事件の摘発は行われていないため︑その時点で﹃フアス

チェス﹄の案が出来ていたとは言えないが︑アイディア自体はあっ

たのではないだろうか︒そして大逆事件をきっかけに︑このアイデ

ィアを用いて﹃フアスチェス﹄という作品を書くことになったので

はないだろうか︒

﹃滑滴﹄を﹁文壇万歳万々歳﹂という一言葉で締めくくった鴎外は︑

次の創作集﹃畑塵﹄では︑﹃フアスチェス﹄﹃食堂﹄﹃沈黙の塔﹄など

に見られるように︑批判意識を大逆事件後の政府の文芸弾圧へ向け

た︒それは︑シルクハットの﹁影﹂でいることをやめて姿を消した

ドラナチユウルが︑﹃フアスチェス﹄の﹁文土﹂へととりつくととに

なったと言えるのではないだろうか︒ドラナチユウルや﹁引き廻し

の人﹂によって表わされる﹁デモン﹂のとる姿とその変化は︑鴎外

の批判意識のあらわれであり︑変化であるということ︑ができるであ

vフ ︒

一明治二二年一月三日︑﹁読売新聞﹂に発表した﹃小説論﹄による︒二金子幸代﹃鴎外と︿女性﹀森鴎外論究│﹄(大東出版社︑一九九二・

十一 )

三竹盛天雄﹃鴎外その紋様﹄(小沢書応︑一九八四・七)四清田文武﹃鴎外文芸の研究中年期篇﹄(有精堂︑一九九一・一)

五明 治四 三年 一月

︑ 六注 三に 同じ

︒ 七注 二に 同じ

八伊東勉﹁森鴎外のハイネ傍註﹂(﹃文学﹄四O︑一九七二・十一)︑清田文武﹁森鴎外とハインリヒ・ハイネ﹃フアスチェス﹄・﹃沈黙の塔﹄を中心に﹂(﹁新潟大学教育学部紀要人文・社会科学編﹂一一一︑一九七九)︑一係正雄﹁森鴎外のハイネ受容について﹂(岐阜大学教養部編﹃岐阜大学教養部研究報告﹄第二九号︑一九九四・一)九ハイネ作︑井上正蔵訳﹃ドイツ・冬物語﹄(井上E蔵編﹃世界文学大系七八ハイネ﹄筑摩書一房︑一九六四・主)による︒一C﹃フアスチェス﹄で文士はオワイデイウスの詩を引き︑自分たちの創作と行動とは違うのだということを官吏に訴えている︒

﹁三 回文 学﹂ に発 表︒

77 ‑

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追い出します︒抵抗する人々にたいしては戦争を行ないます︒

このデータはそのままではあまり意味がないように見えるが,数える言語信号の単位を 語 から 音素 に,そして時間の単位を 分 から

ている。第二期は一八三三年から一八三六年までで、グラスタウンを脱し、アングリアを建国していく物語で占められている。第三期は一八三七年以降の作品で、アングリア戦争後の物語となっている。