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正 義 と 聴 従 - プ ラ ト ン 『 ク リ ト ン 』 研 究 ( 二 )

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(1)

長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第23巻 第1号 二十七‑五十二(一九八二年七月)

正 義 と 聴 従

‑ プ ラ ト ン

﹃ ク リ ト ン

﹄ 研 究 ( 二 )

章 J u

s t i c e   a n d   O b e d i e n c e

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) M a s a a k i   Y O S H I D A

﹃クリトン﹄の第二部(四八D八‑庖四E二)は︑法とソクラテスの問答がその中心をなしているが︑この箇所をめぐ

っては︑近年︑喧しい議論が交わされた)︒取りわけ︑﹃クリトン﹄の議論が﹃ソクラテスの弁明﹄の或る箇所(二九C‑D)

と相入れぬ矛盾があるとの理解から︑﹃クリトン﹄を如何に読むべきかが大きな焦点となっている︒しかしながら︑そうし

(2)

た議論によって︑﹃クリトン﹄への理解がより深められたかといえば︑決してそうは言えないのではなかろうか︒というのは︑こ

の﹃クリトン﹄の議論に否定的な人々も︑またこれを何とか﹃ソクラテスの弁明﹄の当該箇所と和解させようと努力して いる人々も︑共に法というものについての或る共通の︑しかも暗黙の了解の上に立って︑﹃クリトン﹂の議論を取り扱いな がら︑しかしそうした暗黙の了解それ自身については︑決して問いを向けることがないよ‑に思われるからである︒

それはどのような了解か︑ご‑簡単に言えば︑法というものが︑我々の外にあって我々を外から規制し︑或いはまた阻

一ソhl

止するような︑そうした我々の外からの力であり︑基準である︑といった了解であふ︒そしてそうした了解を支える︑そ

の奥にあるもうひとつの了解は︑何か″私″といったものが︑そうした法とは何らの関わりを持たない︑いわば﹁道徳的主

体﹂として独立にある︑ということではないだろうか︒後者についてはともあれ︑法というものが我々にとって何か外的な

強制力として捉えられているところに︑﹁クリトン﹄の議論のより確かな理解を妨げているものがあるように思われるので

ある︒そのことがあればこそ︑﹃クリトン﹄の議論に否定的な人々も︑これを何とか救おうと努力する人々も共に︑﹁人は常

に法に従わなければならない﹂ということに対しては︑極めて否定的な態度を示し︑これを何とか避けようとするのであ

るOそして﹃クリトン﹄の議論を救おうとする人々は︑この﹁人は常に法に従わなければなJ叫ない﹂ということに付す︑ 3

何らかの条件(例えば︑その法が正しければ)を﹃クリ‑ン﹄の中に見つけ出そうと努力すみ︒しかし実のところそうし た努力は︑却って﹃クリトン﹄の議論を損なうものにならないだろうか︒我々はむしろ逆に︑この﹃クリトン﹄の定位 されるところが︑人は法に﹁聴き従う老﹂であることの提示にあると理解して︑以下︑第二部をめぐってそのことを出来

る限り示してゆきたい︒そのような理解に立つ時︑﹃クリトン﹄の議論は︑全‑異なった様相をもって︑我々の前に立ち現

われると思われる︒ 4 ところで我々は前稿に於て︑ヲリ‑ン﹄第一部(四四B五‑四八D七)の議論の検討を試みi:)︒そして︑それによって

我々が確認し得たのは︑簡単に纏めて言えば︑まず仙クリトンの逃亡せよという勧めの″ただしさ″を問いつつ︑そうし た﹁逃亡するか否か﹂の思案が考察という場に付さるべきこと︑さらに㈲そうした考察の場というものは︑個々人の任意

においてではな‑︑﹁ともに考察しうる場﹂として探究されなければならないこと︑㈲この﹁ともに考察すべき場﹂は﹁聴

(3)

き従うべき言葉(ロゴス)﹂を指し示してゆ‑ことによって拓かれなければ掌らないということ︑そして㈱この﹁聴き従う

べき言葉(ロゴス)﹂が人々の思いなし・評判についての吟味から︑ここに於て﹁逃亡すること﹂を唯一﹁正しさ﹂に於て

問わなければならないという問いの定位が示されたこと︑という以上のことである︒

さらに我々は︑土の人々の思いなし・評判の吟味をめぐって︑クリトンの説得が多‑の人々の尽いなしに依拠して

いることを語るに当って︑﹁人々が日常そこに棲まいながら︑しかもそれとは気づかずにいるポリスという場の根源的な有

り様が描かれてゆ‑ことによって︑(法)が人々の行ないに本来的に如何に関与しているかが完全に朋らかにされて始めて︑ 5 我々はクリトンの説得の依拠するところが︑(多‑の人々の思いなし)にあることの意味を知り得よ.*│と述べた︒今本稿

によって試みられなければならないのは︑そのことである︒それによって﹁ポリス共同体とそこに棲まう人々﹂の関係は︑

人がまさに法に﹁聴き従う者﹂であるとの規定によって明示されてゆ‑だろう︒それはまたソクラテスの﹁逃亡﹂を外な らぬ﹁正しさ﹂に於て問うこととして遂行されるのである︒これについては︑さらに次のようなことが語られている︒

﹁そしてもし︑そうしたことを不正なこととして我々が成し遂げるということが明らかになれば︑ここに踏み留って︑静 かにしていれば殺されるのではないかとか︑また他に何であれ何か身に蒙るのではないかとかだっことを不正を為すこと

6

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ことは︑人がまた勘定に入れてはならないものをそれと気づかずに勘定に入れてしまうということを物語るものだといえ る︒少な‑とも︑人が″あれ″か″これ″かの思案に留る限り︑そのような思案はただ自らに目立たしいものをのみ﹁こ

っそり勘定に入れ﹂ざるを得ないであろう︒思案が考察という場に付さるべきであるというのは︑そうした思案が本来何

7

処から出発しなければならないがを示すことにあふ︒とすれば︑勘定に入れるべきものをのみ入れて︑入れるべきでない ものを入れない途はどのように示されてゆ‑のだろうか︒そして︑唯﹁正しさ﹂のみを︑﹁逃亡するか︑それともここに踏 み留るか﹂の思案に於て︑勘定に入れることはどのようにして語られてゆ‑のか︒

正 義 と 聴 従

二十九

(4)

吉 田 雅 章

さてそれでは先の㈲の︑〃クラテスの逃亡について︑それが唯一﹁正しいか︑正し‑ないか﹂に於て問われなければな

8

らないとして︑問われる問川は︑どのように問い進められてゆき︑展開され︑またソクラテスの逃亡という行ないに潜む 問題のどのような局面を拓いてゆ‑ことになるのか︑ということが跡づけられなければならない︒ソクラテスはまず︑次 のような言葉によって︑さらに一歩問いを進めてゆ‑︒

﹁ ポ リ ス を 説 き 聴 か せ る ( 説 得 す る ) こ と な し に

︑ 我 々 が こ こ か ら 立 ち 去 れ ば

︑ 我 々 は 何 者 か に

︑ し か も 最 も そ う

し て は な ら な い 者 に ︑ 害 を 加 え る ( x a x 分 つ t l v c k ; n o t o v f x e v ) こ と に な る の で は な い か ﹂ ( 四 九 E 九 ‑ 五 〇 A 二 ) ︒

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㈱r*vして(そ‑いうことをすれば)︑我々は︑我々が正しいとして同意したことに︑踏み留っていることになるのか﹂

( 五

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ところで︑この二つの問いは︑一体何に差し向けられた問いなのであろうか︒実のところ︑今ここでそれを定めること は出来ないと思われる︒というのも︑クリトン自身が﹁君(ソクラテス)が問うていることに対しては答えることが出来

8

ない︒何故なら私には(何のことなのか)思い当るところがないのだかJL﹂(五〇A四‑五)と応じているからである︒

だとすれば︑この二つの問いは未だ﹁何を問うている潤いなのか﹂︑まさにそれが不明な問いとして︑まずそのことが明ら

かにされてゆかなければならない問いなのだと言えよ,a.

︑︑

この二つの問いの差し向けられたところを直接に拓き︑﹁何が問われているのか﹂を明示してゆ‑のは︑鼎の問いにつ

いては︑パラグラフ︻(五〇C九‑五1C五)とパラグラフ困(五一C六‑五三A七)に於る議論であり︑この二つのパ

ラグラフで開示されて‑ることを基礎にして︑さらに㈲の問いは︑パラグラフ刑(五三A八‑五四B一)に於て問われる

ことになる0従ってまず最初に鼎の問いをめぐる︑パラグラフ凧とパラグラフ田の持つ意味が検討されなければならない

が︑その検討に先立って︑このクリトンの発言を契機として︑法とソクラテスの問答が始められる︑パラグラフ刷(五〇

(5)

A六‑C九)︑そこに於る﹁法とポリス共同体の申し立て﹂‑﹁これに対するソクラテスの反論﹂I﹁法の反語的再 反論﹂‑﹁ソクラテスの驚き﹂‑﹁法による問答(ディアレクティケ‑)の要求﹂という︑一連の議論の構成につい

て︑若干のことを確認してお‑必要があろう︒

まず初めに︑このパラグラフ刷の議論の身分とでもいわるべきものを確認してお‑ことが大切である︒それは一般に理

E m帆

解されているよう加︑﹁ソクラテスは逃亡すべきではない﹂という結論へ導いてゆく︑推論の形態を成してはいないという

ことである︒確かにこの点を見誤ることが︑﹃クリトン﹄全体の議論の理解をより一層混乱させる一要因になっていると思

われる︒この議論は︑右記の如‑㍉裁判の予審もし‑は法廷のそれに似て︑法とソクラテスの間の﹁言い分の申し立て﹂

r,I)

と理解されなければ専らないだろ事.そしてこの両者の﹁申し立て﹂から︑法はそれをソクラテス自身が自らの仕事とし

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の勝手(都合)で︑破壊することをも‑ろんでいることになるのではないか﹂(五〇A九‑B二)という言葉の意味とそ の議論の有効性をめぐっては︑様々に論じられているが︑この﹁法の申し立て﹂が如何なる性格のものであるかは以後の

検討から︑自ずと明らかになって来るであろうから︑ここではむしろ︑﹁これに対するソクラテスの反論﹂が仮に﹁法の申

し立て﹂に対して反論となり得るとすれば︑それはどのような反論になり得るのか︑さらにそれが以後の議論の展開に向 けてどのような問題となり得るか︑を﹁法の反語的再反論﹂に関連して吟味しておこう︒

︑︑

﹁国家へポリス)が我々に不正を行なった︑つまり判決をただしからず下したから﹂(五〇cII二)というソクラテス の反論は︑クリトンによって︑的を得た反論として非常な支持を受けている︒これに対する法の再反論は︑﹁そんなことま で︑我々とお前の間で同意されていたのか︑いやむしろ国家の下す判決には︑それが何であれ︑留るということが同意さ れていたのではないか﹂(五〇C四‑六)というものである︒この法の再反論の﹁そんなことまで﹂という部分が︑ソク ラテスの反論によって目指されたところである︒ところで︑この﹁そんなことまで﹂ということによって指し示されているの

(6)

二 は︑1体どのようなことであろうか︒これは次のように理解されよう0もし国家が不正を行なった時には︑則ちこの場合

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aKupoE50B4;icvpiae50B8)も持ち得ない︒従ってその﹁ただしからぬ判決﹂は︑裁かれた者を拘束する力を持

たないし︑それに従う必要もない︒これはたしかに﹁不正を身に受けたから︑お返しに不正を行な‑(その権利がある)﹂

ということとも︑また﹁国家が不正を為したのであるから︑ソクラテスがその判決に従わな‑とも︑それは国家を破壊し

ia

ようとすることではない﹂ということとも異な聖判決がただしからぬ場合には︑その判決は効力を有しない︑というこ

とは︑何らかの判決の下される﹁裁き﹂そのものの有効性に関わることがらであり︑下されたその判決に対して︑どのよ

うな行ないを取るか︑またその行ないが何を結果するか︑ということはここでは問題の核心ではないと考えてよい︒

ところでしかし︑﹁ソクラテスの反論﹂がこのように理解される時︑この﹁ソクラテスの反論﹂の目指すところには︑基

本的に重大な問題が生起することになる︒というのは︑仮にこの﹁ソクラテスの反論﹂が反論となり得るとしても︑その

ためには︑﹁国家が不正を行なった﹂︑﹁判決をただしからず下した﹂ということが︑何処かで明らかにされねばならないだ

ろう︒とすればその間題とは︑人は一体何処に於てそれを明らかにしてゆ‑ことが出来るのか︑如何なる域でたしかに﹁不

正を行なった︑判定をただしからず下した﹂と認めることが出来るのか︑ということになる︒大はアテナイの法廷が下し

た判決を︑もう一度それがただしいか否か判定する﹁裁き﹂を必要とするというのか︒否むしろ︑﹁裁き﹂は究極的な営みなの

であって︑そこに於る﹁ただしさ﹂を別の仕方で再度問うすべはないと言うべきなのか︒そして﹁裁き﹂はただし‑ないとただ

ソクラテスが思いさえすれば︑ソクラテスは従わな‑ともよいのだろうか︒それは﹁裁き﹂そのものを︑さらにまたソクラテスが

法廷に立ったこと自身を無意味にしないのだろうか︒﹁国家が不正を行なったのだ﹂という声高な叫びは︑それが何処に於て

寧bれ得るものかを明らかにしない限り︑如何に声高に語られようとも︑空虚な叫びに他ならないのではないだろうか︒

ともあれ︑反論は﹁裁き﹂の有効性をめぐっていると考えられる︒であればそれは次のような主張だと一亭えよう︒﹁もし

国家がただしい判決を下したのなら︑それは有効であり︑従わなければならない﹂が︑しかし﹁もし国家がただしからず

dW

判決を下したのであれば︑それは効力を持たず︑従う必要は何処にもな川﹂︒そしてこれに対する﹁法の反語的再反論﹂は

(7)

﹁もし‑‑であれば﹂という条目をつけることが同意されていたのか︑いやむしろ︑国家が下す判決には何であれ留るとい

うことが同意されていたのではないか︑則ち﹁何であれ﹂とは︑﹁もしただしければ﹂とか﹁もしただし‑なければ﹂とい

う条目がつけられないと同意していたということを示す︑ということになる︒そしてまさにこの点こそ︑ソクラテス(そ してクリ‑ン)が驚きとしなければならなかった(五〇C六‑七)ことなのである︒

たしかに今の場合︑ことは法の言う﹁一旦下された判決は有効(権威あるもの)である﹂(五〇B七‑八)と命ずる︑

ひとつの法をめぐっているものである︒しかし既に指摘されたように︑そこにはこのひとつの法にとどまらず︑重大な問

題が窄まれているのではないだろうか︒則ち︑﹁もし‑‑であれば﹂という条目をそこにつけ加えるということは︑﹁裁き﹂

そのものとは異なって︑それ以外に﹁裁きのただしさ﹂を︑再度問いうる場を我々は有している︑ということになるだろ

うからである︒従ってそのことは︑﹁一旦下された判決は︑有効である﹂と命ずる法にとどまらず︑法・国家共同体とソク

ラテス(市民)との関係をめぐって︑その関係を基本的に問い︑人々が共同体のうちに棲まっていることの意味を明らか にしてゆかねばならないと予想され︑次のパラグラフ価︑凪に於てこのことが展開されることを期待させる︒

それは︑しかも法の再反論に見られた﹁同意﹂(bfxoXoyi ︑a)という概念を主軸にして︑展開されることになる︒

パラグラフ師の問題はどのような問題であるのか︒ここでもまず留意さるべきことは︑このパラグラフが決して﹁ソク

HH

ラテスは逃亡すべきではない﹂という結論へ導‑推論として︑議論が構成されているのではな川︑ということである︒さ

らに加えて︑ここでは﹁同意﹂(bfxoXojia)はその言葉も概念も一切導入されない︒この箇所は次のパラグラフ旧に於

て︑この﹁同意﹂の概念を展開するための︑いわば布石となるべき︑根源的な洞察として構成されていることを看て取る

べきである︒今︑それを﹁法・ポリス共同体とそこに棲まう人々との原初的な関係﹂の洞察と呼んでおきたい︒

ところでこの箇所は︑前のパラグラフ屈とは一見︑直接的なつながりを持たないような﹁法﹂の問いをもって始まる︒

正 義 と 聴 従

三 十 三

(8)

﹁一体お前は我々法とポリスの何を答め立てして︑我々を破壊しょうと試みるのか﹂(五〇C九ID二).これに応じて︑

﹁婚姻とパイデイア(教育)に関わる法﹂が取り挙げられ︑こうした法を筈め立てして︑その全体を否定するのか︑それと

もこれに肯首するのかが問われる︒そしてこれに肯定の答/caXve50D4,D7,Elをする限り︑この﹁婚姻とパイデイ

アに関する法﹂から︑国家・法とそこに棲まう市民との基本的な関係が︑伸(親‑子)関係のイメージ(甘erepo<r

eicyovo^E3と︑回(主‑奴稗)関係のイメージ(甘=︑巾po<rdouAo?E4)の二つのイメージによって語

られることになる︒この二つのイメージe/cyovocdouko?)によって語られているのは︑

川へ親‑チ)関係︑市民が法から(法を通じて)生れ出て来︑その法によって(のうちに)養われ︑育てられてい

るものであること︑

伺(主‑奴婦)関係︑そうした川の関係の下にある限り︑市民は法に服しているもの︑法によって支配されている

もの︑法に聴き従っているものであること︑

ということになろう︒従ってここから﹁法・ポリス共同体とソクラテス(市民)との間の関係﹂は︑市民は﹁法によって その存在を与えられ︑また現にここにあらしめられているもの﹂であり︑他方法は﹁市民にその存在を与え︑それによっ

てこそ︑市民が市民となってゆ‑もの﹂であると論定することが可能になる︒

この二つの関係のイメージは︑﹁婚姻とパイデイアに関する法﹂への肯定から︑同時に形づくられたものであるが︑にも

1uい山

拘らず︑それが独立に働きうる関係であることを認めて置かなければならな撃というのは回の(主‑妖婦)関係は︑

次のパラグラフ田に於て︑もう一度改めて問い直されることになるからである︒しかしそれはのの(親‑子)関係の問

い直しではないのである︒それはともあれ︑この二つのイメージが相補的に重ね合せられることによって︑﹁法・ポリス共同体と

そこに生長し︑棲まう市民の関係の︑最も原初的な場面﹂が措かれることになると言えよう︒まず人が︑市民としてあり︑

また人間としてあるには︑ともあれ︑これ以外の関係としてはあり得ないのであり︑決して動かすことの出来ない︑いわ

ば必然的なあり方なのである︒それは人の望むと望まざるとに拘らず︑否︑﹁望むと望まざる﹂ということを超えて︑人と

してポリスのうちに生長して来る以上︑否定することの出来ないことなのである︒

(9)

さて人が自らの成り立ちとポリスに於る︑そのあり方をふりかえって︑以上のことがそうであると認めるならば/cat

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る︒則ち﹁お前が私に対してそのようなことをする(A)のであれば︑私もお前に対してお返しにそうする(B)﹂という ような場合︑法・ポリス共同体と市民との関係に於て︑市民には﹁私もお前に対してお返しにそうする(B)﹂ことは許さ

れてi^ian,51A3いないことが示される︒ソクラテスは法に対して﹁お返しにそうする(B)﹂ことを﹁正しい﹂と

主張することは出来ない︒

何 故 で あ る か ︒

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巾luai,51A4)︑何かをなそうとする(A)﹂時︑そこに於て﹁正しさ﹂は提示されるが︑しかしソクラテス(市民)

自身のうちに﹁正しさ﹂はない︒﹁正しさ﹂は法にあるのであり︑法のうちに﹁正しさ﹂は提示され︑現わされる︒ソクラテ

ス(市民)は法に依り︑則し︑それに聴き従うのでなければ︑それとは異なる︑それ以外の仕方で﹁正しさ﹂に与かる途 はない︒ソクラテス(市民)の行ないは︑法に﹁則す﹂のでなければ︑それ以外に﹁正しい﹂と言える根拠は何処にもな いのである︒ソクラテス(市民)は法に﹁聴き従う老﹂となりゆ‑ことによって︑ソクラテス(市民)に於る﹁正しさ﹂

は︑法に依り︑そこから汲み取られ︑それによって養われてゆ‑のであり︑決してソクラテス自身のうちから生ずるので

はない︑と亭えるだろう︒そうしてこのことは︑凡そ﹁真実︑徳(アレテ‑)に留意している者﹂(6rfjaXrid巾lat晋

apev笥exi/ueXo/uevo?51A6‑7.なら︑誰しもが観てとり得ること︑観てとらなければ要らないことがらなのであ

る︒

か‑して︑以上のようなことが︑先の二つのイメージによって示された﹁法・ポリス共同体と市民との原初的関係﹂を それと認めた時︑﹁正しさ﹂をめぐって︑いわば必然的に生起することである︒

ところで︑以上の二つのことが確認されるとすれば︑それからは如何なることが導き出されることになるのか︒そこか

らは﹁祖国・ポリス(そして法)の命ずることは何であれ︑為さなければならない﹂xoieivaav/eeAew?,51B4;

(10)

cf.51B4‑7,B9‑Cl)︑それは﹁戦さに於てであれ︑法廷に於てであれ︑凡そあらゆるところでそうなのである﹂と

いうことが帰結される︒

どうして﹁‑‑命ずることは何であれ︑為さなければならない﹂と言われるのか︒

そ‑することが︑そしてそ‑することのみが︑市民が﹁正しさ﹂に与かる途だからである︒それ以外に速はない︒祖国 とポリスの命ずるところを為すこと︑まさにそのことが︑市民に於て﹁正しさ﹂の具現してゆく方途だからであるからに

他ならない︒﹁為さなければならぬ﹂とはそういうことなのであり︑そして﹁(正しさ)とはそういう風にある﹂(/catto

d c / c a i o v o u t u x t e % e t , 5 1 B 7 ) ︒ そ れ は 法 ・ ポ リ ス 共 同 体 と の 関 係 に 暦 て ︑ 市 民 が 一 体 何 処 に 配 置 さ れ ︑ 秩 序 づ け ら れ て

H 1‑ JH H

いるかという︑市民の持ち場(Ste51B8)を指示する言葉とな脅

しかしもしそうではないとするのなら︑と法は言う︑﹁一体どういう速に(正しさ)というのは生れついて(生れを有し

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この言葉は先の五一B七の﹁(正しさ)とはそういう風にある﹂という言葉に対応したものと考えられる︒それは市民にと

って﹁正しさ﹂の生れ出るところ・根源(≠uoc7へ差し向けられた問いに他守らないのであって︑従って人はこれを︑

いわゆる﹁法の改正﹂という﹁ゆるい﹂意味での︑法の説諭と理解してはならないだろう︒それは︑もしお前が従わない

というのであれば︑﹁正しさ﹂の根源(≠voteを﹁法の命ずること心何であれ︑これを為さなければ要らない﹂という

以外の︑別の仕方で指し示せtという極めて﹁きつい﹂要求なのであ聖しかし︑では人は︑法・ポリス共同体と市民と

の関係がこれまでに示された洞察と異なって︑全体としての法秩序以外に︑﹁正しさ﹂の根源を語ることが出来るであろう

か︒出来ないのではないだろうか︒‑とすれば︑ここに於て少な‑とも市民の配されている場︑持ち場というものが︑

法に聴き従う者として規定されていることにより︑明示される︒そして全体としての法秩序︑そしてそれを具現している 祖国・ポリスは市民にとってそれ故へ父親や母親に比べて﹁より尊重さるべきもの︑より荘厳なもの︑より神聖なもの︑

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だがこのことは︑法・ポリス共同体と市民との関係としての︑(親T子)関係のイメージが︑実際の(親‑チ)関係を

(11)

基盤にして︑そこから類比的に描き出されているのではな‑︑その関係をも包括して︑それを支え︑その上に立つ関係と

なることを証示している︒というのは︑父親や母親は彼ら自身が法に聴き従い︑それをすっかり受容しているものとして︑

彼らに子供は聴き従わなければならないが︑しかし父親︑母親︑そしてその他の祖先が聴き従って来ている︑﹁法﹂そのも

のは︑そうした実際の(親‑チ)関係の一切をさし貫いて︑これを成立せしめているものだからである︒こうしたことこ そが︑先の﹁婚姻とパイデイア正関する法﹂から︑法・ポリス共同体と市民との関係を洞察してゆ‑際に︑その洞察を基

低に於て支えていたものであった︒

さてそうすると︑以上のパラグラフ凧の検討から︑この箇所について語りうることは何か次のようなこととがるO﹁婚姻

とパイデイアに関する法﹂から承認される﹁法・ポリス共同体と市民との間の原初的な関係﹂は︑(親‑子)関係と(主

‑奴婦)関係の二つのイメージによって︑市民にとって﹁正しさ﹂の根源︑それのある場を法秩序全体として︑精確に指 し示す︒これは市民に於るそれぞれの﹁行ない﹂を規定するものである︒市民は法に則し︑聴き従う者となることによっ て始めて︑自らの﹁行ない﹂を正しいとすることが出来る︒このことの源泉は﹁法秩序﹂そのものにしか与えられていな いのであって︑決してそれ以外ではない︒以上のことによって︑市民の市民としての持ち場︑配置されている場が︑法に

聴き従う者として規定を受けることになる︒

ところでそうするとここからは﹁人は常に法に従わなければならない﹂という結論が導き出されることになるのではな

いか︑と人は言うだろう︒しかしこれこそ︑皮相な︑容認しがたい結論として︑多くの人々が︑これを何とか避けるべ‑︑

その証拠を探しっつも︑探しあぐねている結論なのである︒何故に︑多‑の人々はこれを容認しがたい結論だと考えるの

だろうか︒多‑の人々は言う︑﹁そうすると人は悪法にもまた従わなければならないのか﹂と︒これはしかし極めて短絡し

た語り方なのであり︑そうした語り方がなされる背後には︑暗黙のある思いが潜んでいるように思われる︒というのは︑

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のが︑しかも法秩序を超えるものとして想定されており︑法とこの道徳的観点とが衝突し︑相容れない事態に直面すると︑

人はそれを道徳的観点から︑悪法と呼ぶのではないか︒しかしながら︑法秩序とは別の︑しかもそれを超えるような遺徳

正 義 と 聴 従

三十七

(12)

八 的観点というようなものを︑ここに持ち込むことは︑一体正当なことなのだろうか︒むしろ既に見て来たように︑ここで

は︑その道徳的観点(則ち︑ここでは﹁正しさ﹂)の語りうる場というのは︑多‑の人々の想定を裏切って︑全‑逆に法秩

序に於てしかあり得ないということが︑表明されているのである︒だからもし人が︑それとは別に道徳的観点というので あれば︑人は﹁それ(正しさ)が︑一体どのよ‑な途に生れついているのか﹂を法に説き聴かせねばならないことにな る︒そんなことは出来るのだろうか︒従って敢えていうとすれば︑この箇所の議論は︑正にそのようにしばしば︑安易に 仮構される道徳的観点といったものを一切排除することに向けられている︑というべきであろう︒

ところでそのような道徳的観点といったものを主張する人は︑もう一度前章に戻って︑﹁ソクラテスの反論﹂を承認する

ことになる︒そうした道徳的観点というものを持ち出すのは︑﹁国家が不正を為したのだ/﹂という叫びと何ら変りはない︒

なぜなら︑その人は法もし‑は﹁裁き﹂そのもの以外に﹁正しさ﹂を問いうる場を有していると主張することになろうか らである︒だがそれは法とソクラテスの問答によって︑明らかにしてゆかるべきものとして立てられた問題であることが はっきり看て取られなければならない︒人はその﹁正しさ﹂を法によって養われている︒そこからすれば︑道徳的観点な どというものは︑この法秩序以外には何処にもあり得ないのである︒それがこのパラグラフ凧の語るところである︒とは いえ︑以上の問題について︑早急な結着をつけることは出来ないと思われる︒この間題については︑次のパラグラフ佃の 検討から︑より詳し‑考えてみなければならないが︑それは︑案のところ︑ここに於る﹁法とポリス共同体とそこに棲ま

う人々の原初的関係﹂というだけでは︑﹁法の下に人々が棲まっていること﹂︑﹁共同体﹂の持つ意味が末だ充全に語られては

いないということを認めざるを得ないからである︒そのことの意味がより充全な仕方で明らかにされて始めて︑法秩序を

超える︑道徳的な観点(正義)というものについても︑何らかの見通しといったものをよりはっきりと語り得ることになるので

は な

い か

それでは次に︑パラグラフ旧の持つ問題が明らかにされてゆかねばならない︒そしてこのパラグラフ旧の検討は︑先に

(13)

述べた﹁法の下に市民が棲まっていること︑共同体の持つ意味﹂をより一層明らかにしてゆ‑であろう︒パラグラフ凧の 最後に︑法のこれまで語って来たことが真実であると認められた上で︑法はこう問う︒

﹁ か

‑ し て 今

︑ お 前 が 試 み よ う と し て い る こ と を

︑ 我 々 に 対 し て 為 そ う と 試 み る の は

︑ 正 し か ら ぬ こ と で あ る

(ouSt/caca)と我々が語るのは︑真実であるかどうかを考察したまえ﹂(五7C六‑八)

さてここから始めて︑ソクラテスの試みようとしている行ないが︑﹁正しいか︑否か﹂が問われることになる︒それはしか

も︑﹁正しからぬことだと‑‑語るのは真実であるかどうか﹂という仕方で問われている︒この点は見逃がされてはならな

い︒何故かと言えば︑先のパラグラフ凧に於て︑法は﹁正しさ﹂が問われる場というものをそれとして指し示したからに 他ならない︒まさにその場に於て︑法の語るところは︑その真・偽が問いうるのである︒そうした場の確保なしに﹁正し いか否か﹂を問うことは︑まさし‑虚妄といわなければならないだろう︒従ってパラグラフ刺の議論はまさにこの﹁正し さ﹂をソクラテスが問うてゆ‑べき︑その場を源初的に指し示すことにあったとも言えよう︒

だがしかし︑この㈲の問いは以後どのように問い進められてゆ‑のか︒

まず最初にパラグラフ個に於て確認されたことが前提される︒則ち﹁我々(揺)はお前を生み︑養い︑教育し︑お前に

も 他

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(五一C八‑Dこ︑にも拘らず︑と法は言う︑この祖国の法から離脱することの出来る自由・許可(㌫oucrcav,51D2;

㌫ecuac,51D4)が市民のうち望む者には誰であれ︑法それ自身によって公言されている︒そこからの離脱は法そのもの

のうちに許可され︑如何なる法もこれを妨げたり︑禁止したりしてはいない︒さてこれは︑パラグラフ碑に於て︑取りわ けへ主‑奴蝉)関係のイメージによって︑与えられた﹁法・ポリス共同体とそこに棲まう市民の原初的な関係﹂の問い直 しであると考えられる︒或いはむしろ︑問い直しというよりは︑この(主1枚蝉)関係について︑先には触れられていな

かった︑ひとつの側面を洗い出すことによって︑(主‑奴婦)関係をもう一度︑先とは異なった仕方で確認することである

といった方がより適切かもしれない︒

さてここで主張される﹁離脱の自由﹂ということは︑先のへ主‑奴稗)関係からみる時︑その一点に於て決定的に異な

正 義 と 聴 従

三十九

(14)

十 るであろう︒それはパラグラフ㈲に於て与えられた(主‑奴稗)関係が︑仮にもし破棄されるとすれば︑主の側からの

破棄であって︑奴稗の方から破棄することは出来ないと考えられるけれども︑ここに於てはむしろ市民の側から︑この関

係を破棄しうる自由がある︒しかも︑﹁法そのもののうちに許可されている﹂のであれば︑その自由は︑この(主‑奴蝉)

関係それ自身の‑ちに含まれているのだと言える︒しかし無論このことは﹁国家・法と市民﹂の関係から︑この(主‑奴 蝉)関係埴一切取り除いてしまうことを意味するのではな‑︑この(主‑奴稗)関係を含めて﹁国家・法と市民﹂の関係

1

の選び択机が︑むしろ市民の側に委ねられているということである︒

このことは︑﹁同意﹂bfxoXoyla)の概念が導入されて‑ることになる︑ひとつの要件を形成しているものである︒そう

した選び択りの自由というものが︑市民に委ねられていてこそ︑当然﹁同意﹂の成立ということは有意味に語られるだろ

う︒しかしながらより大切なことは︑この﹁同意﹂の概念が﹁法・ポリス共同体と市民の原初的な関係﹂が市民によりも

う一度︑しかも積極的に選び択られなければならないことを示しているという点にある︒さて︑もしこの祖国の法からの

離脱という選択肢が択られないとすれば︑もう一方の選択肢については︑

㈱﹁だがもし︑我々(法)のところに誰であれ留るものがあれば︑その者はまさにその留るという行ないによって我

戟(法)の命ずることは何であれ︑それを行なうと法に同意しているのである﹂(五lE一‑四)

ということが語られる︒この﹁同意﹂の概念は﹁法・ポリス共同体と市民﹂との関係︑﹁法の下に人々が棲まっていると

いう共同体﹂の意味を問い尋ねてゆ‑際︑極めて重大な役割を果している︒以下︑﹁法へ同意すること﹂と﹁法への同意や

約束を破ること﹂の二つを中心に︑この﹁同意﹂の概念についてい‑らかのことを考えておきたい︒

まず第一にこの﹁同意﹂はソクラテス(市民)と法の間に於て為されるものなのであって︑決して市民と市民の問で為

されるものではないということが確認されなければならない︒このことはテキストから全‑自明のことであるけれども︑

それが真実何を意味しているかは決して自明なことではない︒従ってまず往々にして︑﹁法の擬人化﹂というようなことを

頼りにして︑この同意を何か人と人の間の同意と看徹す傾向は斥けねばならない︒もし人と人との間の同意ということが

言えるなら︑それは法をいわば媒介にしてのことであって︑人と人との間の同意から法が設定されると考えることは出来

(15)

ない︒しかしそうだとすれば︑そこからは︑市民が法に同意するということの持つ意味がより厳密に捉えられることが要

求 さ れ る ︒

法に同意するとは︑法の命ずることは何であれ︑それを為すと同意することだと言われる︒そうすると︑法への同意と は︑自らの行ないが﹁法の命ずるところに則して︑従って﹂行なわれることに同意するということになる︒それは簡単に 言えば'法に聴き従うこと︑そしてその法を自らのものとして受容してゆ‑ということに他ならないであろう︒しかしそ

こまでのことは︑既にパラグラフI BIに於て確認されたことである︒では﹁同意﹂という概念によって新たに拓かれるもの

は一体何であるのか︒それは︑そのような同意というのが︑﹁一体︑何を目指して行なわれるのか﹂というところに本来求

められるであろう︒則ちそこに﹁同意﹂が成立するためには︑法に聴き従い︑それを自らに受け容れるに際し︑法秩序全

体が何を目指して立てられているかへの︑何らかの考慮といったものが含まれていなければならないと言えるであろう︒

祖国の法のうちに留るという選択は︑法・ポリス共同体と市民との原初的な関係を︑則ち﹁法に於て︑法のうちに(正し さ)がある﹂ことを肯首することによって成立して‑る︒それは法秩序全体が﹁正義(正しさ)の実現﹂を目指して立て られているとの理解を要求するものである︒ここで︑パラグラフ㈲に於る﹁法・ポリス共同体と市民との原初的関係﹂と

しての㈹(親‑チ)関係と伺(主‑奴蝉)関係のイメージを想い起こす肇bば︑これはの(親‑チ)関係の発見である︒

この関係は︑自らのあることをさし貫いているものとして︑常に市民によって発見されてゆかるべきものなのである︒

そしてこの理解を可能にするものとして︑法は市民すべてに︑出来るかぎり立派なものを分け与えた(五一C九‑D一)

と言われるのである︒これは国家に於る様々な事柄︑法や裁きがどのように取り行なわれているか︑その他ポリスがど

のように建設されているか(五lD三︑五一Eニー三)を市民に見ること(%,51D3;6pS>v,51E2)が出来るように

するものであると言えよう︒それは︑法が分け与える︑生や教育に於て法を市民が受容してゆ‑まさにそのことによって 法の目指すところが理解可能となるということである︒しかしそれは︑現に市民すべてが︑法秩序全体の目指すところを 充分な仕方で理解している︑ということを意味しているのではない︒法が出来るかぎり立派なものをすべて︑市民の誰し

もに分け与えているというのはへその理解の可能性を与えているにすぎない︒見うるものにしているにすぎないのである︒

(16)

二 それが充全な仕方で理解されてゆ‑には︑より深‑法が受容され︑それにより聴き従うことが必要とされよう︒特にソク

ラテスがアテナイ人のなかでも︑より多く同意を与え︑﹁それ程執掬にお前は我々を選び択り︑我々に従って市民として

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われる時︑これは法を﹁より深‑﹂受容してゆ‑ことに他ならない︒そしてこの法の﹁より深い受容﹂とは︑法が何を冒 指しているのか︑その法によって何が具現されてゆ‑のか︑がよりよ‑理解されている場合である︒このことは先の第三

章に於て語られた﹁正義(正しさ)﹂の何処にあるかは︑凡そ﹁真実︑徳(アレテ‑)に留意している者﹂なら︑誰しもが

観てとり得ること︑観てとらねば孝bぬことといわれる場合の︑より厳密な規定と受け取ることが出来よう︒とすれば︑法秩序

rl仲仏

全体の目指すところは︑﹁真実︑徳に留意する﹂ことによって︑より潔‑理解されてゆ‑のだと言わなければならない︒

さて以上に於て確認されたことを踏まえながら︑次に﹁お前(ソクラテス)自らの︑我々(汰)に対する同意と約凍﹂を

踏みにじる︑ということについての検討に移ることにしたい︒先の㈲の表明にひき続いて法はこう語る︒

㈹﹁そして聴き従わない者は誰でも︑三重に不正を行なっている(TPlff1‑‑adc/cecv)と我々は主張する︒則ち︑

生みの親たる我々に聴き従わない点︑育ての親たる我々に聴き従わない点︑そして我々に聴き従うと同意しておきな

がらへ聴き従わないという占⁝︑‑‑﹂(五一E四‑七)

これら三つの点のうち︑最初の二つのものについては︑これまで述べられて来たことから︑或いは理解出来よう︒今は 取り分けへ最後のものに注目する︒この第三番目の﹁我々は聴き従うと同意しておきながら︑聴き従わない点﹂で︑﹁不

M仏

正を行なっている﹂といわれる意味はどのように解されることが出来るであろうか︒

ところでへソクラテスの逃亡をめぐる﹃クリトン﹄の議論は︑そのソクラテスの行ないが単に﹁法に反する﹂から逃亡 すべきではない︑ということを論ずるものだと理解され︑しばしばそのように議論されている︒だがそのような単純な理 解をこの箇所は許さないと思える︒ここから理解されることは﹁反古にされたり︑破られたり︑留らなかったりされるも

のが︑精確に言えば︑単に法なのではな‑て︑法に聴き従うという︑法に対するソクラテス自身の同意と約束(T㌢aauzou

bfjLo¥oyta<?reKaiovvdrjica<:racttooc甘dcWvpafiac54C3‑4;52D2‑3,52D8‑Cl)﹂であると言い表わ

(17)

すことが出来よ‑︒無論︑そう主張することは︑ソクラテスの行ないが︑別に﹁法を犯し︑法に従わない﹂ことにならな

いという主張ではない︒大切なのは︑﹁法を犯す︑法に反する﹂ということが﹁不正を行なう﹂ことであると捉えられる場

というものが︑﹁法に対する自らの同意と約束﹂を踏みにじる︑という点に拓かれているということである︒

この点は重要である︒先に確認されたように︑同意の成立は単に﹁法に則す︑法に聴き従う﹂というただそのことによ

ってのみ成り立つのではな‑︑法秩序全体が一体何を目ざしているのかの理解を通じて︑始めて本来的に語られるものであっ

た︒とするならば︑この﹁同意﹂を踏みにじるとは︑単に﹁法を犯すこと︑法に反すること﹂とは言えないのではないか︒

この場合それは︑法秩序全体の目ざすところの否認でなければならない︒従ってここに於て語られる︑﹁同意﹂を踏みにじ

1

1

るとは︑より精確に言えば︑そこに﹁正義(正しさ)﹂の存すると自ら認容していた︑その場を全体として否定しまる︑と

いうそのことなのである︒法を犯し︑法を破ることが﹁不正を行なう﹂adtictlv)ことであるとの意味は︑まさにこのこ

とによって満たされると言えよう︒そして取りわけソクラテスの場合︑﹁真実︑徳に留意する﹂ことによって︑法秩序の目

指す﹁正義(正しさ)﹂へのより深い理解(即ち︑﹁同意﹂)が遂行されているのであれば︑この﹁同意﹂を踏みにじること

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さて以上述べてきたことからすれば︑最初の鼎の問いに帰って︑これが﹁そもそも何を問う問いであるのか﹂︑﹁何へ差 し向けられた問いであるのか﹂︑今はっきりと確認することが出来るのではないだろうか︒ソクラテスがこの問いを差し向

けたところは︑﹁ポリスという共同体に棲まう人々が︑まさにその場に於てこそ︑共同体を成している場﹂︑つまり︑﹁正義

(正しさ)﹂というものがそこで問われ︑また人々がそこから﹁正しさ﹂を汲み取り︑それによって養われている場︑そし てゾクラテスの﹁真実︑徳右留意する﹂という︑彼自らの仕事が根源的に可能になっている場︑そういう場なのである︒

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そしてその時語られる﹁同意﹂とは︑そのような場の存在することの認容とそれへの限りない聴従として︑ソクラテスに とって成立していたものである︒だとすれば︑そうした﹁同意﹂に踏み留らないとは︑ソクラテス自らの仕事︑ピロソピ

ア‑(ここで言えば﹁真実︑徳に留意すること﹂)それ自身を放棄することなのではないか︒

正 義 と 聴 従

四十三

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