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正 義 と 聴 従 - プ ラ ト ン 『 ク リ ト ン 』 研 究 ( 一 )

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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第22巻第2号 一‑十三(一九八二年二月)

正 義 と 聴 従

‑ プ ラ ト ン

﹃ ク リ ト ン

﹄ 研 究 ( 一 )

J u s t i c e   a n d   O b e d i e n c e A n   E x a m i n a t i o n   o f   P l a t o ' s   C r i t o   ( 1 ) M a s a a k i   Y O S H I D A

﹁人の行ないの持つ重み﹂とはどのようなものなのであろうか︒しかも人はそれを何によって感じとり︑おのれのものとし

て確かにしているのだろうか︒プラ‑ンの﹃クリ‑ン﹄を読んでゆ‑時︑想われてならないのは何かそうした問いである︒

﹁裁き﹂を終えた今︑ソクラテスが牢獄にその身を横たえていることは︑ソクラテスにとって何か外面的な状況と呼ばれる

(2)

1 べきものではな‑︑それは﹁ソクラテスの仕事(行なけ)﹂‑則ちjtiXoao≠\a‑のいわば必然的な帰結に外をbない︒

﹁裁きの場﹂に立つことは︑ソクラテスにとって﹁自らの仕事﹂と全‑無関係に降って湧いたよ‑な︑何か附帯的な出来

事なのではな‑︑彼の﹁ピロソピアIの遂行﹂そのものがそれ自身明るみにもたらさるべきものとして︑﹁裁き﹂という︑

人間にとって何か最も究極的な営みをむしろ要求したのである︒裁かるべ‑ソクラテスはアテナイの法廷に立った︒アテ

ナイの法廷がソクラテスに有罪逐切帥め︑﹁死刑﹂の判決を下した時︑ソクラテスにはどのよ,TIな﹁行ない﹂が残されている 23

のか︒″静譜のうちに死を迎える″ことか︑いなそれとも″判決の不当さに非を唱えなが,ケ脱獄することか

﹃クリトン﹄に於てソクラテスは︑﹁脱獄せよ﹂というクリトンの熱心な勧pを受けつつも︑これを斥けるが︑そうした

4

行ないが﹁正しいか否か﹂に於て問われなければならないという﹁問いの定位﹂と︑さらにその問いを︑ソクラテスが大

5

人とともに棲まうポリスという場の︑その法との問答を通じて問い貫きながら︑﹁ここに踏み止まって︑uuを守り技も﹂

ということへと自らの決意をはっきりと示してゆ‑時︑ソクラテスはいったい何を聴き︑また何に従っていたのであろう

か︒

以下の論述に於ては︑﹃クリトン﹄全体の議論を︑まずは一︑クリトンとソクラテスの問答(四四B五‑四八D五)︑脱獄

という行ないをそれに於て問う﹁正しさ﹂の定位︑さらに二︑ソクラテスと法との問答(四八D六‑五四E二)︑脱獄とい

う行ないが﹁正しさ﹂に於て問われる︑本来的な場の展開︑という二部に分って把え︑差し当りここでは第一部の問題に

焦点を定めたい︒ここ十数年の間に轟出した﹃クリトン﹄をめぐる議論は︑その殆どが二の箇所の問題をめぐっているの

であるが︑しかしそれらのものが充分に﹃クリトン﹄の議論の核心を把えているとは到底言い難いように思われる︒その

原因は第一部の問題を無視または誤解することによって︑第二部に於る法という問題を見据えるパースペクティブを失な

ってしまっているところにあるのではないだろうか︒そうして法の登場の意味を正確に把えようとするよりもむしろ︑こ

れを手前勝手に解釈し︑その上に立ってこれまた的はずれな批判を加えているように思われる︒

今極めて簡単に﹃クリトン﹄の構成を述べるならば︑第二部に於る法の問題は︑クリ‑ンの説得が﹁多くの人々の思い

なし・評判﹂への気づかいを語ることによって︑一端失なわれてしまった︑脱獄という行ないのいわば本来的に問われる

(3)

場を︑如何に回復してゆ‑かにある︒そしてその場合︑第一部に於る問いの定立は︑ソクラテスにとってはまさにその場 の回復のための転回軸となっているのである︒従ってまず第一部は﹃クリトン﹄の議論の基本的な位相が定められてゆ‑

ものとしてあると理解してそこに集中し︑それによって何よりもまず︑この﹃クリ‑ン﹄を読んでゆ‑ための指標を得る

よう努めたい︒

まず我々はクリ‑ンの説得によって︑何らかの応答を迫られているソクラテスが︑どのような仕方でその応答の途を切

り拓い汀ゆ‑のか︑取り分けクリトンの説得がソクラテスによって受けとめられた時︑そこに生じた︑﹁行ないは如何にあ 6

るべきか﹂という問題考察の本質的な変容とでもいったものを如何に把え得るのか︑ということをテキス‑に則して検討

することからこの論述を開始しよ‑︒言い換えれば︑それはソクラテスの脱獄という行ないが唯1︑﹁正しいか否か﹂に於

て問われなければならぬという場合︑その問いの定立への歩み行きを何として跡付けてゆ‑ことが出来るのか︑という問

題 で

あ る

ところでクリ‑ンの説得とそれに対するソクラテスの応答とを︑アテナイの常識的な人々の立場とソクラテスの﹁つね

つね語っている﹂所謂原則論との対比に於て把えるl般的な把握はそれ自身として︑あながち間違いではないにせよ︑9そ

の対比でのみ把えてそれを強調することは︑そこに潜む重大な問題を看過し︑クリ‑ンとソクラテスの﹁やりとり﹂を歪 めてしま‑ことになるのではないだろうか︒ソクラテスはクリ‑ンの説得を自らの原則論を持ち出すことによって︑単純 に聴き従うに価しないものとして否定し去っているのではない︒そのように理解することは︑まずもって例えば︑ソクラ

7

テスが再度﹁君(クリトン)と一緒に老察すきことを望み︑また﹁私が大切にして小るのは︑君を説得した上で︑そう

8 したことを行なうということであって︑君が不本意なままに︑というわけではないかJ加﹂と語る言葉を儀礼的な虚辞と化

してしまうことにならないだろうか︒ここで重要だと思われることは︑ソクラテスの原則論と常識的な人々の立場をただ

(4)

吉田雅章ル四

︑︑︑︑単に何か対比的に把えることではな‑︑むしろ﹁つねづね語っている﹂原則論を再度吟味の対象としてソクラテスに由り

ヽヽヽ︑上げさせることになるその必然性︑則ち原則論吟味の必然的な要求そのものの‑ちに︑脱獄という当面の問題をともに考

︑︑︑︑察しうるに足る場をソクラテスが如何に確保してゆ‑か︑ということである︒

だが︑この﹁ともに考察しうる場﹂の確保ということはどのように見定められるのだろうか︒

差し当り︑四六Bから四八Dにかけてのソクラテスの議論の出発点と帰結点に注目しよう︒

クリトンの熱心な説得をソクラテスはまず第一に︑

㈲﹁君の熱意がもし何らかの″ただしさ″をともなっている(JUETOtTWOS6pd6rvTO<r)の孝b︑それは大いに尊重

すべきことであるがへそ‑でなければ︑その熱意が大きければ大きいだけ厄介である﹂(四六B一‑三)

と受けとめてひき続き︑

仙﹁それではそ‑したことを行なうべきか否か︑考察しなければきらない(aKontiadai.XPV)﹂(四六B三‑四)

と語る︒そしてこれら回︑伽の表明はそれぞれに︑ひとつの帰結として次のところへ収束してゆ‑︑

㈲﹁君が″正しいこと″︑″立派であること″︑″善きこと″とそれと反対のことについて︑我々は多‑の人々の思いなし

に気づかわねば乍らぬと話を持ち出した際に︑君のその持ち出し方は″ただし‑なかった″(0㌢dp6cb<z)﹂(四八A‑

一〇)

㈲﹁アテナイ人たちが解き放たないのに︑私がここから出てゆこうとするのは正しいことなのか︑それとも正し‑ない

ことなのか︑そのことを考察しなければ乍らない(OK牀7TT牀O ︑く)﹂(四八B十一‑C一)

さて以上の︑議論の出発点と帰結とは簡単に言って︑㈱‑㈲と結ばれる線では︑クリ‑ンの説得のうちに︑説得とい‑

︑︑ヽ行ないとして(語らるべきこと)が語られていない︑ということを提示すると同時に︑それがまた仙‑㈲という線に於て

は︑ここで唯一問わなければならない問いを定立してゆ‑︑という途を辿っているといえよう︒この︑いわば二つの交錯

する線は︑(人々の)思いなしへ86Sa)をめぐる吟味の遂行によって一挙に描かれているのであるが︑問題はこの二つの

(5)

線が交叉する点にある︒いなむしろ︑‑ソクラテスにとってはそれがひとつの事柄と看倣されているところにこそあるとい えよう︒則ち︑クリトンの説得の﹁ただしさ﹂を吟味することが︑問わるべき﹁ただしき問い﹂の定立と表裏一体をなし

つつ遂行されていることに留意しなければならない︒

ソクラテスは︑﹁脱獄せよ﹂というクリ‑ンの説得に何ら直接の回答を与えることをせずに︑まず説得という行ないのも

つべき﹁ただしさ﹂を問うた(価‑㈲という線)︒そうした﹁ただしさ﹂が問われなければ掌らないのは︑﹁脱獄すべきか

否か﹂という当面の思案に応答を与えてゆ‑ためには︑そこに拓き示されていなけ蘭ばならない場が︑ソクラテスにとっ

w

ては未だ現われていない︑というその点にあるのではないか︒﹁私に聴き従って欲しい﹂という説得の行ないは︑それが何

らかの(ちから)あるものとなり︑有効であるためには︑それによって聴き従わせようとする者(説得を受ける者)に応

答を可能にする場を指し示しているのでなければならぬ︒そうでなければ︑如何なる説得の言葉も無意味で︑虚ろなもの

となるだろう︒そして説得する者と説得される者の両者がそこに何らかの共通の場を有する時︑説得という行ないは成立

可能なものとなると言うことが出来る︒だがそのことは翻って考えるならば︑実のところ説得術の持ち主たるかのソフィ

ストの存在理由ともなっているものである︒ソフィストは説得される者と或る場を何らか共有することによって‑それ

がどのような場であるかその両者は知らずとも‑その術を行使し︑(ちから)を振‑ことが出来たのであり︑そのサ写を示

したのは︑他肇bぬソクラテスではなかったか︒さてそうだとすれば︑﹁説得を可能にする場﹂と言ってみても︑それは悪

意性を逸れ得まい︒説得という行ないのもつべき﹁ただしさ﹂を問うことも︑なおそれだけでは無意味なものとなる︒

さてこの点についてはさらに︑先に述べたクリトンの説得の﹁ただしさ﹂を吟味することが︑問わるべき﹁ただしき問 い﹂の定立とひとつのこととして︑表裏l体をなしている︑という指摘を想い起す必要があろう︒則ちそこでは問われる

べき問いの定立は︑クリトンの説得のいわば閉ざされた場から︑ともに考察することが可能な場を拓‑こととして遂行さ れている︒従って﹁ともに考察することを可能にする場﹂には︑そこからl切の悪意性といったものが排除されて︑説得 する者も聴き従う者も﹁そこへと眼を向けて︑それに見入る﹂ことの出来るような何か根源的な場であることが要請され

ているといわなければならない︒こうした要請を満たすものであって始めて︑ソクラテスはクリトンの説得の﹁ただしさ﹂

(6)

六 を問がっっ︑ともに考察することから︑説得する者も説得される者もそれに聴き従って︑ひとつの共通な思案を決してゆ

くこ短が可能になるだろう︒

ではこの要請はどのように満たされているといえるのか︒

﹁考察﹂ということについては︑先の㈲の表明に於て︑それがクリトンの﹁思案﹂とい‑言葉を引き取ったもの骨ある

C !̲

ことが注意されねばならないであろ‑︒この㈲の表明は︑クリ‑ンの性急な﹁だけど思案はたったのひとつしかない﹂と

M

いう提案を︑まずは﹁(どうすべきか)思案して欲しい(ftouXeuo引)﹂とい‑︑その線まで押し返して︑そこから始めると

いうことだと一応は理解出来るかもしれない︒しかしただ単にそれだけのこととは思われない︒﹁思案﹂というクリトンの

言葉が﹁考察﹂という言葉によって応じられたことは大切である︒この点については︑まず後の四九Dに興味深い示唆を

みることが出来る︒則ちそこでは︑﹁思案とその結果(思案されたもの)﹂が﹁考察とその原理・出発点(&pxfl)の共有﹂

という︑ひとつの奥行きとでもいうべきものに依拠していることが語られているのである︒むろん﹁考察﹂といっても'

ハ判

﹁金銭の支出や評判︑子供の養育﹂についてもそれは語られう奪単に﹁思案﹂と﹁考察﹂という言葉を区別することだ

けが目的なのではない︒問題は当面の思案を決してゆ‑際に︑それを見定めてゆ‑︑いわばそれに固有の考察の途をひと

つの奥行き・構造として如何に語り得るか︑ということである︒この間層にソクラテスがどのように応じているかが明らかにな

る時︑﹁一切の悪意性がそこからは排除され︑説得という行ないが真に成立する根源的な場﹂の要請ということも︑それに

従ってどのように満たされているか︑明らかにされよう︒

﹁考察﹂ということについてさらに︑先の伽の表明にひき続いて︑ソクラテスはその表明の意味を説明するために︑次

のようなことを語る︒

㈱ ﹁

と い

う の

は ︑

こ の

私 は

今 度

が 始

め て

と い

う わ

け で

は な

‑ ︑

い つ

も そ

う な

の で

す が

︑ 一

一 一

一 某

の う

ち で

考 察

し て

( k

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u e

v u

) )

(7)

最もすぐれたものと現われる言葉(ロゴス)にでなければ︑私のもののうちの(T{ぎepLoov)他の如何なるものにも聴き

従 わ

な い

( p

n d

e て

I a

x x

唱 n

e c

d e

a d

a c

) よ

う な

︑ そ

ん な

人 間

な の

で す

か ら

﹂ (

四 六

B 四

‑ 六

) ︒

さて︑この﹁ロゴスへの絶対的な聴従(信頼)﹂を表明するソクラテスの﹁私はいつでも‑‑そうい‑人間なのだから﹂

という語り方には︑一見すると何かソクラテス個人に関わる私事的な様相が窺われるかにみえる︒しかしながら︑それは

私事的な様相を帯びていることによって︑何か閉鎖的で︑何人をも拒絶するという︑頑なな態度なのではあるまい︒むし

ろ逆に︑﹁ロゴスにのみ聴き従う﹂とはロゴスに於てのみ︑自らは他者に拓かれてあり︑最もすぐれたるロゴスにでなけれ

ば︑それ以外の﹁私のもの﹂のうちの︑それがたとえ﹁私の友の言葉﹂であろうと聴き従わないことであり︑その際﹁ロ

ゴスへの聴従(信頼)﹂とは︑″最もすぐれたるそれ″へでなければならない︒ここでロゴスへの聴従が精確に何を意味して

いるか︑について問うことは今は差し控えておきたいが︑ただ次のことは確認されてよいであろう︒

﹁ロゴスへの聴従﹂を語り︑﹁ともに考察する﹂ことを望むソクラテスにとって︑ロゴスがすぐれたものであるか否かに

ついては︑対話者とともに考察することに於て︑その間答の歩みのうちで定められてゆ‑ものであれば︑この﹁ロゴスへ の聴従﹂とはまた対話者(クリトン)にも同時に要求されていることなのである︒そのことがなければ問答が成立し︑ま た遂行されてゆ‑ことは出来ないだろう︒だがそうだとするとソクラテスには遡上︑対話者(クリトン)に﹁ロゴスへの

5

聴従﹂を可能にする仕方で︑﹁考察の場﹂を提供することが求められているのであ聖言い換えればそれはこういうことであ

る︒ソクラテスは単にクリ‑ンの説得に相対立するものとして︑ただ対略されるよ‑なロゴスを考察の場に付すのではな く︑クリトンの説得そのものの中から︑しかもその説得の﹁ただしさ﹂を問いつつ︑唯一間わるべき問いを定立しうるよ

うな論点をつかんで︑﹁聴き従うべきロゴス﹂を示すのでなければ寺bない︒そのような要求を満たすものとして︑問わる

F

べき問いを定立するための吟味・考察が﹁最も適切に(fxerptwxara)﹂行なわれるものとして︑人々の思いなし・評判

へdotaVが取り挙げられることになる︒

さらにもうひとつ次のことが確認されて置かなければならないだろう︒この﹁人々の思いなし・評判﹂については︑﹁つ

ねづね語られてきた﹂原則論もまたあるといわれるのだが︑そもそも﹁つねづね語られて来た﹂言葉を原則論と呼ぶこと

(8)

が出来るのは何故であろうか︒それはこの言葉がつねづね考察の対象として吟味されることによって︑﹁すぐれたる﹂言葉

としてあり︑ソクラテスの(生)(これまでの行ない)はまさにそれに基づいていたからである︒だが死というめぐり合せ

に直面した時︑(生)を貫いて来た言葉は︑その場の状況の変化とでもいったものによって︑基づ‑に足りな恒ものとして

放棄されなければならないことになるのか︒いったいその時︑その言葉は(死)とい‑行ないをも包括し得ないのか

これはきわめて根源的な地平から発出された問いではないか︒人がどちらの立場をおのれのものとして受容するかは︑

その(生と死)にとって決定的なことだといわなければならない︒このことは︑かの﹁つねづね語られてきた﹂ロゴスが

人の(生と死)を貫‑ものとして︑それに聴き従いながら︑それに﹁心のまなざしを向ける(npoa昔eivtotvobv)﹂

に足るものなのか︑それとも﹁まじめな取扱いを必要とするとして(cnovodri)︑お互いに問答していたのが︑今となっ

血α

てみればそれは子供のお遊びと少しも違いはしなかったことがすっかり明らかになってしま,FLJようなロゴスであったの

か︑という選択を迫るものとなるのであり︑そしてもし︑人が後者の立場を自らのものとして受け容れることになるなら

︑ そ の 人 に は こ う 問 わ れ る こ と と も な ろ う

︑ そ の 時 い っ た い 人 は 何 に 聴 き 従 い な が ら 生 き て き

︑ ま た 生 き て ゆ く の か

と︒

さて今﹁ともに考察しうる場﹂の確保のためには︑ロゴスはそのようなものであることが要求されている︒現在の思案 が︑そしてクリトンの説得がソクラテスの生死に関わるものである以上は︑そうした思案を見定めてゆくために吟味・考 察によって定められてゆ‑ロゴスは︑そうした﹁人の(生と死)の根源﹂に触れ︑その﹁根源﹂から発出しているもので

なければならない︒

すると﹁人々の思いなし﹂の吟味・考察とは︑何かそのようなロゴスを指し示してゆくものでなければならないだろう︒

ソクラテスはクリトンの説得を究極的には︑(多‑の人々の思いなし・評判)に依拠していると把えている︒そうであれ

(9)

ばこそ︑﹁人々の思いなし﹂についての原則論を吟味することへソクラテスは赴いたのである︒そのことはまたクリトン自

l功

らが﹁多くの人々の思いなしにも気づかわなければならないことは︑君(ソクラテス)にだって解るはず愚﹂と述べるこ とによって証左したことである︒ところで多‑の人々の思いなしの尊重というのは︑一見奇妙な事態を引き起すことにな る︒とい‑のは︑1方でソクラテスに死刑の判決をもたらすことになったのは︑多‑の人々の思いなし・評判に基づいた ものであると同時に︑他方今︑そうした判決を無効にして︑脱獄を勧めるクリトンの説得も多‑の人々の思いなしに基づ

いている︑といわれるからである︒これは奇妙なことであろう︒ソクラテスに死を言い渡すのも︑生を説き勧めるのも︑

︑︑

同じ多‑の人々の思いなしなのだから︒こうした奇妙さは何処から出て来るのか︒

だが翻って考えてみればまさにそのことが多‑の人々の思いなしである所以でもあろう︒多‑の人々の思いなしは相容

れることのない矛盾をそれ自身のうちに含むものとして何ら纏った姿形を持たぬが故に︑それ自身は何としても把えがた

いものである︒だとすれば︑クリ‑ンは何故に取り分け﹁ソクラテスのことも自分のこともよ‑知らない﹂と語られる人

大のそれに気づか‑必要があったのか︒それは(多‑の人々の思いなし)がクリトンにとっては或る種のリアリティーを 持っているが故であろ‑︒﹁もし誰かが彼らの間で中傷されることにでもなれば︑彼らの作り出す悪は殆ど最大のものとな aJからである︒このクリトンにとってのリアリティーはいったい何処に根差したものだろうか︒

実のところ︑クリ‑ンが多くの人々の思いなしを気づかうという時に︑﹁友人よりも金銭を大切にしている︑と多くの人

々に思われるなんて恥ずかし摘﹂と語る時︑クリトンのこの﹁恥ずかしい﹂(それは自らの有り様を醜いと認めることであ

ろう)という把捉は極めて奇妙な仕方で成立しているのだといわなければならない︒というのはそこでは︑多‑の人々に

そう思われるというそのことがそのまま︑そ‑(醜‑)あることとして認容され︑肯定されているのであり︑それは何か︑

﹁醜い﹂ということの︑多‑の人々(しかも自分のことをよ‑知りもしない人々)の把捉を自らの把握とせざるを得ない

という︑そういう奇妙な事態なのである︒言ってみれば︑クリ‑ンの﹁恥ずかしい﹂という把握の成立はその契機に於て︑

もともと始めから﹁多‑の人々の思いなし﹂をそのまま﹁そうであること﹂として︑いわば呑み込んでしまっているので あり︑それは﹁醜くあること﹂を﹁多くの人々にそう思われること﹂に癒着させたままに承認することなのである︒

正 義 と 聴 従

(10)

だがここで︑(多‑の人々の思いなし)の意味を'またクリ‑ンの説得がそれに依拠していることの意味をそれ自身とし

て見究めてゆくことは︑何か極めて困難なことだと思われる︒というのは︑先に述べたように︑(多‑の人々の思いなし)

というのはそれ自身としては自家撞着を含むものとして︑何とも把えようのないものであるにもかかわらず︑しかし日常

に於ては却って︑クリ‑ンの場合にみたように︑何らかのリアリティーをともなって現われてきているからである︒して

みれば︑クリトンの説得の行ないの持つ意味が充全的に明らかにされてゆ‑のは︑第一章に於て予感的に述べられたよ

うに︑むしろ二の箇所に於て︑法とソクラテスの問答が遂行されていくことによるのでなければならない︒則ち︑人々が

日常そこに棲まいながら︑しかもそれとは気づかずにいるポリスという場の根源的な有り様が描かれてゆ‑ことによって︑

﹁法﹂が人々の行ないに本来的に如何に関与しているかが完全に明らかにされて始めて︑我々はクリトンの説得の依拠す

るところが︑(多‑の人々の思いなし)にあることの意味を知り得よう︒そしてその場合注意されなければならないのは︑

法とソクラテスの問答が遂行されてゆくなかで︑脱獄という行ないの本来的な場が描かれてゆく時︑それがクリトンの説 得(多‑の人々の思いなし)とは何か離れた︑別の地点から為されるのではない︑ということである︒もしそのような仕

方で遂行されているのなら︑それ自身がまた根拠を欠いた(思いなし)のひとつにしかすぎなくなるであろう︒それはク

リトンの説得のうちから︑しかもこれを批判しうる仕方で遂行されてゆ‑ものでなければならない︒

さらにこの点も第一章に於て簡単に述べたことであるが︑この遂行を可能にする転回軸として︑﹁ともに老察する場﹂の

確保を可能にするものとして︑第二章で述べた㈲の﹁アテナイ人たちが解き放たないのに︑私がここから出てゆこうとす ることは正しいことなのか︑それとも正し‑ないことなのか﹂という問いの定立はあったのである︒そしてさらにこの問

いの定立を可能にしたのは︑考察に於て﹁最もすぐれたるロゴスに聴き従う﹂ということであったといえよう︒以上のこ

とを我々は第二章︑第三章に於て形式的にではあるが半ば確認し得た︒

この﹁最もすぐれたるロゴスへの聴従﹂というのはたしかにこの﹃クリトン﹄の基調を決め︑対話篇全体を照射するも

のとなっている︒最後にその﹁最もすぐれたるロゴスへの聴従﹂が︑第二章の㈲の﹁正しさ﹂の問いの定立に向けて'如

何なる(ちから)を発揮し得たのかということに触れて置きたい︒それはまず第一に︑㈲﹁人々の思いなし﹂が二様に分

(11)

たれるという言明である︒(有益な=思慮ある人の)それと(益にならぬ‑思慮なき人の)それ︒(人々の思いなし)につ

いて人が聴き従うに︑これ程端的で基礎的なものはないであろう︒

.︑れl1

このことは﹁身体﹂の場合の吟味かJ如直ちに次の言明㈲に移る︒

﹁″正しきこと″(複数︑以下同じ)″不正なこと″ ︑″恥ずべきこと″"立派なこと″ ︑そして″善きこと″″悪しきこと″

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) と

い う

︑ 仰

今 思

案 (

O P

o u

よ )

我々にとってそれらのことをめぐってあるへTtepc㌢)︑伺そうしたことについても︑我々は多‑の人々の思いなしに聴

き従い︑それを恐れなければならないのか︑それとも誰かそれに通じたひとがもしいれば︑そのひとりのひとの思いなし に聴き従って︑他の人々全部を合せたよりもずっと︑唯ひとりのそのひとに恥入りもし︑恐れもしなければならないので

ぶ¶

はない﹂J(四七C九1D二)

今ここで大切だと思われるのは︑言明の仰のところは'クリトンの説得を引き受けたものであり︑それ故(正)(美)

(善)の複数形は︑先に逓べられたようにクリトンの説得のうちに語られた︑何か纏った姿形では把えられないという意

味での複数形であろう︒だがその(正)(美)(善)の複数形は︑言明の佃の部分に於ては︑先の㈲の言明に付され︑そこ

では同じ(正)(美)(善)の複数形は︑﹁唯ひとりのひとの思いなし﹂に根拠づけられ︑そしていわばそのことによって︑

それぞれに秩序づけられうる複数形なのである︒

むろんこの言明については今多くを語り得ない︒しかしこうした言明を語りうることーそれ故また聴き従いうるこ と‑そのことこそが︑まさにかの転回軸を立てしめ︑﹁ともに考察する場﹂を拓き得たのではないか︒語り尽されず︑

残された問題はまた数多い︒しかし少な‑ともこの﹃クリトン﹄を読んでゆ‑ための︑ひとつの指標は得られたのではな

い だ

ろ う

か ︒

以下︑第二部に於る﹁法﹂の問題を中心にしながら︑これまでの考察によって得られたものを基礎にして論を立て直す

ことが次稿の課題である︒

(12)

1

2

3

4

5

6

7

8

9

個 11

吉 田 雅 章

︹ 証 ︺

﹃ソクラテスの弁明﹄二〇C

﹃ハイドン﹄二七D参照︒

﹃クリトン﹄五〇C一‑二参照︒なお以下のステパヌス頁付けはすべて﹃クリトン﹄の頁付けである︒

四 八 B 十

‑ o

四八D四︑五三A五参照︒

﹃クリトン﹄の副題とされるもの︒

四六D五︑並びに四八D八

四八E三‑五

四四B六︑四五A三︑四六A八

無論このことについては﹃ブルギアス﹄全篇が参照されなければならない︒それは﹃ゴルギアス﹄の主要を問題の一つであったと思わ

れ る

四九D二‑九参照︒ ︒

四六A五'田中美知太郎訳﹃クリ‑ン﹄(岩波版﹁プラトン全集‑﹂)では︑﹁それも'一つの考えにきめなければならない﹂となってい

る H

. N

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そ れ

ぞ れ

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' と

訳されている︒

四六A四

四八C二‑四

G.Young;SocratesandObedience,Phronesis,Vo1.19(1974)pp.1‑29は︑﹃クリトン﹄の議論がクリトンを説得するためだけ

のものであることを力説するが'それには到底納得出来ない︒その理由はこの論述で示したつもりである︒この点については︑この対話

唐の内部からではないが︑R.J.McLaughlin;SocratesonPoliticalDisobedience.Phronesis,Vo1.21(1976)pp.185‑197が

(13)

穏当を反論を試みている︒しかしこの問題はむしろ︑この対話篇の内部から決められてゆかれなければならないだろう︒

㈹ここでひとつ注意して置かなければ掌らないことがある0﹁考察﹂という言葉をこれまで何ら区別せずに用いてきたが︑それは実のと

(24)但<8 (99)堤(17)

の間に考察㈲がはいっているのである︒しかし︑﹁最もすぐれたるロゴスへの聴従﹂という点では少しも変りはないと思う︒ は︑そうした思案を決めてゆ‑考察に資する考察㈲(人々の思いなしについての吟味・考察)である︒第二章に述べた心と価(考察回) ころ二通りに語られているのである︒つまり一つは当面の思案をそこに於ていずれかに決めてゆ‑か︑の考察回という意味であり︑他方

四六B‑D参照︒

四六B‑D︑四九A‑B参照︒

四四D二

四四B九

四四D三‑四

四四C一‑二︑その他に四五E一 四 六 A 三 参 照 ︒

︑︑

﹁身体﹂の場合の吟味から︑というのは決して所謂﹁技術類比論﹂のことを示しているのではない︒今ここで充分な理由を提示するこ

とは出来ないけれども︑私には︑この議論が技術から類比的に(正)(美)(善)の問題に移行しているとは思えない︒一

田中訳﹁したがってまた︑正邪︑美醜︑など︑いまぼ‑たちが考えてみなければ乍らない︑これらのことについても︑‑・・・﹂(前掲書)

は以下に暗示したような理解を拓かないように思われるので︑取られていない︒

(昭和五十六年十月三十一日受理)

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