新 井 白 石 と ヨ ー ロ
ッパ新井白石が江戸時代きっての海外通であり、当時としてはまれなヨ
ーロッパ認識の持主であったことさらには朽洋学の開削者でもあっ
たことは定評のあるところであヱ∵‑その自叙伝覇たく柴の記iにょ
ると、七歳のとき天然痘にかかったが'その時死をまぬがれたのは、
洋薬ウニコルソのお蔭であるという‑ここに白石とヨーロッパとの結
びつきの深い因縁があるわけで、「洋薬にJ・(って命を助かった被が'
洋学の端を開いたのも偶然ながら興味がある」と批評されているので
ある。いま白石の海外認識をヨー。ツハに限定して考えるとして'は
じめにそのヨーロッパへの開眼を取り上げて検討し'次にヨーロッパ
認識の実体内容を問題とLt第三げ、一白石のヨ・・ロソノバ認識の意義を探
ることにしょうと思う
。
‑白石のヨーログパへの開眼
白石のヨーロッパ認識の契機としては三つが考えられると思う
O
第一は白石が日本の実質上の首都江戸で生れ江戸で育ち江戸に在任した
こと、第二は当時の世相の一面として南蛮紅毛趣味が普及していたこ
と、第三は白石が甲府家および幕府に出仕したことである。第一の契
機は、外国の人物事物の見聞をたやすくさせたものと思われる.白石 宮崎連生
あるが、オランダとの通商にょってヨーロッパの文明がたえず流入し
つつあったことであり'とくに江戸はそれが最も盛んだったのである
から、白石が知識の上でも感情の面でもヨーロッパと接触する擬会が
多かったと見られるのである
。
第二.の南蛮紅毛趣味の普及は、代表的都市としての江戸や大坂にお
いてそれがとくにいち:)ろしかrrたようで、ひとり風俗的のみにとどまらず、
日常生活の中へ入りこんでいたことが知られるのである。すなわち'
その趣味が衣食住の全般にわたっていたことは'例えはラシャ・ビロ
・1ドの衣服'カステラ・パン・テンプラ等の菓子や食物'ビロード
障子や披塚の天井等の普及がそれを証明するのである。江戸の場合は〜
年中行事のJとさえなったオランダ商館長(カピタン)一行の参肘
‑‑江戸訪問なども重要な意味をもつものだった。
第三の契俵'甲府家・幕府への出仕'とくに幕府への出仕は最も重
要な意味をもつたと考えられるっ前者の甲府家への出仕では'侍医
の桂川商筑と知り合ったことが'ヨーPッパ医学への認識を深める
のに役立ったのではないかと思われるのである。甫筑はダニエル=
ブッシュの教をうけた嵐山甫安の門人だった。後者の幕府への出
仕は'これによって異邦人たちとの会見・面談が可能となったからで'
ヨーロッパ認識においてほ'ローマ法王庁の使節ジョヴァソニ=パッチ
ィスタ=シドチや'オランダ商館長コルネ‑ス=ラルダイン・外科医
ワ‑へマンスその他の人々と会「て直接にヨーロッパ事情をききえた
ことが'きわめて重要性をもっている。また切支丹奉行所にあった
T岡本三右衛門の書﹄(いわゆる
〟
転び、バテレン″ジュセッペ=キァラ∧イタ‑7人∨の書いたもの)を読みえたのも'幕府に仕えたから
のことである。白石はシドチ取調べを前にして急いでこの書物を読ん
だが'このことが白石に決定的な先入主を与えたので'キリシタンに
は領土的野心がないという判断を抱かせることになるのである。
この岡本の書のほか'書物を通じて白石が色々な知識をえたことも
なお'シドチとオランダ人との話をきいたことについて注意すべき
は'シドチからの聴取が先入主で根底となっていることで'その基礎
的知識の上に立って'オランダ人の話が吸収されたのである。
2
ヨーロッパ認識の実体内容いま白石のヨーロッ。ハ認識の実体をとらえる便法として'それを≡
つに分類して検討を試みよう。すなわち
佃地理的風土的認識
闇政治制度・政治活動についての認識
畑宗教文化についての認識 であるが'州から考察すると'ここで先ず強調しておくべきは白石が
当時としては滅多に見ることのできないヨアン=プラウの東西両半球
国を見えたことがある。このプラウ世界図は、寛文十二年(一六七二)
にオランダが幕府に献上したもので、その作製年代は確認できないが.
一六四四年に近い時期につくられたものと考えられる。この世界図
が利用できたからこそ、シドチからヨーロッパの地理や風土などを詳
し‑ききとることができ'五大洲の認識も明確となり'従って﹃采覧
異言﹄や﹃西洋紀聞﹄の記述説明も明噺なものとなったのである。い
ま要覧異言﹄を取。上げると,巻l酷鮎臥.巻二糾和禦巻lll酌恥アソイデアノリカノオルーアメリカ亜・巻四南亜墨利加・巻五北亜墨利加の順序に記述されているが'今
日からみればその誤りは少‑ないけれども'当時としては群を抜いた
観察もある。それはオルテ‑ウス系の世界図(楕円形プロゼクション)
の1つマテオ=リッチの﹃万国坤輿図﹄が大陸として取り扱っている
メガラニカを'大陸ではないとしたことである(南アメ‑カの部、パ
タゴラスの条)。ただし白石のオランダ語学はほんの初歩的なものに
とどまったため(白石はオランダ語の名詞約三四〇はかりを知ってい
た)'プラウ図附載の説明文が読めず、折角これを見ながら十分に活
用することはできなかった。
闇
の政治制度・政治活動についての認識を見ると'ヨーロノバ諸国それぞれについてかなりの知識をえていると同時に'ヨーロッパの内
戦Iイスパニヤ王位継承戦役二七〇一‑l七l四)・北方戦役
二七〇〇‑l七l二)をも知っており'さらにはイス。ハニヤ・フラ
ンス・オランダ等諸国の植民地経略についても大体は知っていて、警
2
戒の心理を示している‑らいであるOすでに岡本の吾を通じてポルト
ガル王国の復興や共和制(国民にょる君主の選出Jをも知っていたか'
シドチの説明をきいて君長の位H.I‑教皇・皇帝・諸侯などについて
の知識を持っており'鉄砲や大砲のことも詳しく聞き知っていたし軍
事面についていえば'陸戦ではトルコが無敵であり、水軟では昔はフ
ランスが強かったが'その後‑ギリスが無敵となり、今ではオランダ
商国であることはすでに十分知ってほいたが'その軍事力の礁大きや
戦闘における勇敢な態度などは'シドチの話とオランダ人との面談で
知りえたことである
。
ちなみに、大砲の製造ではディヌマルカ(デンマーク)が西欧諸国の師表であると認めていた(」采覧異言﹄
) 。 一
つ意外なのは、モスコビヤすなわちロシャについての認識が浅いこ
とでt.1采覧異言﹄のモスコビヤの箇所は地理・風俗・産物を記すに
とどまっていて'政治や軍事についての記述を欠くのである
。
しかも元禄二年(一六八九)にとなりの清朝シナとPシャとの間に結ばれた
有名なネルチンスク条約については'全‑知るところがないのは不思
議である
。
畑の宗教文化についての認識は'白石が儒学者であり幕府の役人だ
ったこともあって'批判的態度でこれにむかったため誤解もあるが
宗教や倫理に対してはきびしい態度をとっているけれども'科学技術
の方面ではヨーロッパの優越性を認めたLtまた言語の精密さや良風
美俗のあることも素直に認め評価しているのである。宗教・倫理とい
えは'キ‑ス‑教に対しては非合理と反倫理の二点からこれを排撃し たが.これは儒学者で封建武士だった白石の立場を考えれば当然のこ
とであろう。儒教の自然哲学の立場からは創造主としてのデウスの存
在は考えられないことであるし、デウスを絶対とし人間の平等をとく
キリスト教倫理は当時の封建遺徳を破壊すると考えたからであるJこ
れに対して科学技術の廟は卒直にその優秀性をみとめたので、それに
はノドチその人の学識が白石を駕かせたこともある。白石の自然科学
方面の知識は断片的なものにすぎないが、それでも天文学・暦学・物
理学・生物学・医学などの諸分野にわたっていた。また言語については、「音韻の学などは'西方(西欧ノのすぐれているのにはかなわな
い
」
(T.西洋紀聞﹄)といっているし、事実ヨーロッパ語についての知識が白石の言語学をl段進展させたのであろrJさらにオランダ人の
場合についてであるが、賢人勇者にあやかろうとしてその人の名を自
分の子供にっける習慣などを美風としているのである。
なお'ヨ〜ロッパ事情をシJ.トチだけでな‑オランダ人からきいたこと
は注意すべき点で、これにょってオランダに対する誤解をと‑ことも
できたし、その他についても偏見におちいらずにすんだと思われるの
である。
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ヨーロッパ認識の意義白1七、かヨーロッパを知りえたことの意義は大きい。それは公的にも
私的にもいえることで'公的には六代将軍家宣にキリシタンには舘土
的野心はないとの意見を申し上げたことが、これ以後の幕府首脳部の
キリシタン警戒の気持をゆるめる効果をもったことがその一っで'こ