新 井 白 石 と 津 軽 史
序
i
新 井 自 お と 東 北 地 方
新井出石のに﹃奥羽五十四
の あ る こ と は よ く 知 ら れ た
ととろであり︑その地自著作や書鰐叫において東北地方にふれた
多々ある乙とも︑改めて言ふまでもないが︑自石が東北地方正浅から
出関心を抱いた
ζ
とにはっか
の
があるやうであるG
その
一試義兄の
i ま
が 堀
が相馬家に仕へたこと︑第
日家民投へた関係から正後授後︑鏑子正仲に従ひ銀地山形民赴いた経 験をもっ乙と︿乙れが機縁となって﹁山形紀行﹄が笠れ
ζ
の著作がと本下順露とを結びつける接介的役割を果した﹀︑第三には致仕 後の晩年比仙台藩庶佐久間膜巌と文通はより深く交はったこと︿吋新 佐手簡吉︑第四児はえ好意を抱いてゐた
ζ
とか
に関係ゐ
る東北の諸地域代目をむけたこと︑第五には自ら奇新印氏の子孫と考
へた乙とはより南部に深い
をも
ら︑
ひいては東北地方における講 朝勢の活動に訪日するに主った
ζ
とに坂上田村麻呂・壷φの関心がそれらは関連のある地誠に着目させた乙とほど
れ よ
ぅ︒しかも︑甲結滞主樹後の六への麓史進講が︑上記
のやうな関心・感詰の域を結えて東北史む研究へとにかまり進んで行
ったものと思はれるのでゐる︒ 宮
道
生
崎
本塙
では
︑ 主として最後由契機と註界醤認識の拡大とによって得ら
治 3
れた史学上の或果のうち︑主として津軽地鏡花ついてのそれを敢り上
げる
ζ
ととし︿一部北濁道にも及ぶ)︑紙一輔の都合上︑時期を古代に隈定してエミシ関誌の﹁諜刈﹂
﹁後
万羊
蹄﹂
﹁都部留︿態夷﹀﹂論︑
及び坂上田村麻呂の託夷とその遺誌伝承観とを諜題とする乙とはより
の津軽古代史考察の輪部を描いての御批判を仰ぐ乙ととする︒
一自 石の
)論
苅
・ 後 方 羊 蹄
・ 都 加 笥 ( 蝦
﹁津
潤﹂
﹁後
方ギ
務﹂
﹁都
加留
﹂
の文字φ見えるのは﹁蝦夷志﹄
の﹁津苅い或は﹁津軽い
は地域をさすものであり︑第二の﹁傑がお十路﹂は賢明一御宇に政庁の鷺
の
であるが︑第
﹁都
加留
い
かれた地点とされ︑第三山﹁奉加儲﹂蝦夷は蝦夷の
区分
撞
の一つ︑最も連時地に在むものと記述されてゐる︒即ち︑序文
』 乙
おいて﹁蝦英︑一に毛人と日ふ︑吉の北綾也﹂
︿掠
漢文
︑
下し)といひ
誤字が多いから︑今は臼お自筆本記拠る
11新井家所議︺﹁北委﹂の文字が吋山海縫いえ見える乙と
む光
和宇中に
の一恒石椀による倭人の国への護窟と護人千余家の構略に
について述べたのはつのついて︑﹁鮮山平は一県胡ゆ種﹂であるがその騨 車が蘭略した
んー
の縫
胆東
北川
ωでそのし向いたのは
議はゆる倭人とは即ちづ北倭山山と述べた議︑蝦売印刷出の範蕗を‑不し
て次のC
とく説明する︿括部内
、 句J G
種蒸多し︑
と出ふは其の
広 在 る
ι
日ふは立(の徒りて内地托詰る者なり︒北安越国と謂ひ東や陸奥田 と謂ふ︒館田︿え飽田に作る︑
自民作る)と日岳︑停代と日 ひ︑擁護︿
広域養え作る)と日ひ︑津刻︿一に
え作る
又
都
加留に作る﹀と日ふはの別
也﹂
右につ*ついて
の一節をそれぞれ
引用した後︑に出りて之を観れば︑
内地を畏し犯す
ζ
と︑蓋
し 出来既に久し︒記して叛服も亦た
しばなり﹂といひ︑な斉明紀 四年・五年比見える両信比羅夫の蝦夷征討の
第二の
万
広言及する︒
ζ
れは潤知の通り五年の
に見えるもの︑
年 鰐措毘を清はし飽田・淳代
遂 ‑
』ζ
腕
治・振 を・鎧 後・等方‑([)
羊・首 蹄・帥iζ綱を 霞・
き ・
て・
還 以 て蝦夷を伐たし
‑ b o
る(後方羊蹄︑
み
て 乃 之シち
利 リ 其
昨くの 之シ地 と を 云 侮ふ へ
部ち今南部之利辺之む地砲と
と述べたむが︑
それである
G
吏
4ζ
えつづく文はおいて︑第三由
蝦夷を説明する︒
れまた著名な
鮪
書﹂のの官問由一小所収の
の寝夷についての質問に答へた説
の答弁﹁類︑一種有り︒遠
きは蔀加館︑次は援態夷︑近おは執⁝蝦夷︑今此れは熟蝦夷なり︒議は
ゆ る
は其の荒服及び内地比在る者を挙げて一士一回ふ也﹂を引き︑
れに割註を加えて択のごとく述べてゐる︒
﹁(前略)都加留は部量れ其の内地見高りて遠き者協︑糊酬
は犠
ほ荒
と一
一=
口ふ
がご
とえ
晶︑
是れ其の荒服に妄り既ち速さに次ぐ者な り︒熟は其む内地に賠りて近き
ふ也
︒﹂
そして﹁駿の後︑
九そ蝦夷と
る者は︑何其の内地に主る者を謂ふ
去るのm
み
と補述してゐる︒の記述によれば︑自おによって棒組
れ
津加留T こ
ツガル﹂の地は︑内地に露するもので今日我々の
なってゐ
る闘有地名としての津軽地域をさす
へられるのであるが︑第
([)
﹁後
方
の方は︑白石が
ζ
れを北海道南部の地点と誌なしてゐる ことが詑躍を引く
c
部ち
の﹁蝦夷﹂の項において 本文語 辺に居住する
﹂の緊落を説明してゐるが︑
4 1 ‑
その中の西にめるもむ四十一
た中に?ンリベチ
があ
り︑
それは註記を加へ 五
て﹁国史︑後方羊蹄に作る
時らお持拾を置くの
なり﹂と記してゐ
るのがそれである︒
※
の乙の考案を批判した人物児︑
学者として知られる諸飼 敬所がある︒即ち中村某売の書簡はおいて﹁鰹夷忠いはふれ︑
後 方羊藤ハ何レノ地ナルヤ
ルヘカラス︒
コレヲ今ノ蝦夷西部ノシ
こ
リベシフハ白石カ
ル ベ シ
﹂ と い っ た の が
︑ そ れ で あ る
︒
︿一弱鯛敬所先主
五﹂!﹁日本舗林議書﹂第三指﹀︒
拙 著 吋新井白石序論増訂較
h
ニ ニ
六
松前記罰んでに
ζ
に附け恕へて
べきはのことで
そ
ある
︒
つづく図説に見えるもの︑
ζ
の文字は﹁蝦夷忠い白
地 泊 よ
り舟を発し北行する
ζ
と八思ほして松前に
十四都市ほし
"'‑"
よ
津.と!l:
ほ の、 路
蓋
し
此~1,
Lー
』ζ
︑公泊ま
!ii
(j)
ば?
ゆ
とあるむその﹁国史所謂﹂と誌︑﹁渡嶋理軽津号従七泣上諸君鞍男等の六人を鞍鵠
﹃ 続
E本紀﹄養老臣年正月十内子(廿
一一日﹀の条足当り
富民議して其の風俗を観せしむ﹂むうち由﹁控嶋津軽津﹂がそれで︑
ζ
*丘〉
の
は踏の意味に使ってゐるやうだから
お いい
︑ザム
ι・ ・
の と 訓 ん で ゐ
﹀ と は 捧 軽 の 潜 と 併 す べ き で あ り
︑ 従 っ て 白 石 の 観 念 で は 揮 軽 諜 即 ち 松 読む港でみる
ζ
と疑い号い︒もっとも白石のこの考へ左足は巽論もあ
のむとお﹀︑
; ま
る︒その異論の中︑渡島を北海道にとること自体に度対するのは田名額 宏 氏 で あ り
︑ 北 海 道 説 に は 賛 或 し 号 が ら 津 軽 津 を 津 軽 む 遂 と 解 す る ことに反対されたのは
である︒田名縄氏 お
のほか
と解した
ζ
とを示すの
前記
の一
壊れ
ソ
けふ
は︑
紅︑
の
{ζ
吋 令指
と
L 、 えよって明かである
i
に反対されるのは(田名網氏は護品開ち一時代・津軽地奇説)︑寸一平安中期ごろ奥羽D
開拓も謹むと︑津軽海挟を踊て
た北高道が北万の川大族の地としてしだいに関心がたかまり︑
交諺も行 われるよう児ぼった一と
φ
えなづくのであり
以 降
そわ
げ凡
なる
と︑
でほぼくなったと同時ほ
え川械もふおわしいものばな
たのは北海辺であった
ほ れ る と
︿つむ代蝦
荒川氏
4 0
この出名
ア イ ヌ
網 説 に 反 対 し
︿
﹁ 津 田 ( 左 右 吉 ) 博 土 む 苧
ぞ
Z
E
した結果とする︑
崎仲田説については議述)︑臼おの北梅道説に賛成される滝川博士が︑
の諮問解釈に反対された
長よ主
は地方名で
あ
‑ っ
に現はれに
ζ
とはな
し、といふにある︒
し
博士によれば︑叫印紙記﹂にいはゆる
とは
︑
﹁津軽痛
映を機蹴倒して北海道津軽半島聞を往設する欝必発着講を監察する宮司﹂
のことである︒
かういふ思考の背景について滝川薄士は︑斉明朝︑以前 と 以 後 と で は 詰 本 人 の 笥 象 が 大 い 疋 巽 午 っ て ゐ る 乙 と を 示 さ れ る
︒ 郎 年 の
の敗戦は日本人を麓病げ凡させ︑従前のやう
の
ってしまったが︑しない
t ま
の向う爪W詩本人である︒でも躍ち込
は麟実地はおろ
んてゆく勇鍵な人々であった﹂と一一一一口はれる︿﹁斉明朝比おける東北
終路補考﹂
i
史学雑誌六七の二)︒滝川博士の右の解釈は確かにすぐれた着想に出てゐると思ふが︑
ζ
れとは射の
へ方も出来るやうに忠はれるので少しく私見を述べたい︒
そればしく解析しておくべ$は︑
"
っ
tJ!
しも棒州市継承とは認められない
ζ
とと
︑ その臼石説批判に の は誤解があることである︒といふのは︑油仲田捧士の説明では︑寝島は 日名縄氏の要約された﹁序代・津軽間近﹂といふ表現はとられてゐず︑
﹁鰐田︑淳氏︑理軽のやうな︑本来の民有名詞ではなく︑
これら諸部
(j)
であり︑議ひはまだ
だ広い地方の称略でもあ 議 の
勺p
I;J
し︑さらはほ
し
れてゐるから である︒津
f
ヘ
t ま
を
と
む津
軒の
津の
べ出
場
と読まれ︑
この解釈は基いて上記のや うに﹁樺軽を合んだ広い地万の称呼いとされるが︑
その﹁渡島諸部第 の
えついての説明は極めて漠怒としてゐる︒
即 ち の
﹁津軽津司が渡島諸都器む全体を統轄したのか︑又ほかうい 津軽のみでほ
にも鰐自にも設かれ
そ れ /
¥
ほゐてそれ
/ L
の部藩を監督してゐたのか不明であるいとされ︑であっ たとすれば︑其の
即 ち 控 軽 の 樺 は 鰐 誌 で み っ た か も 知 れ ぬ
︒
(中
路i
鰐自は内地との
) た
Y
かう見
む名
4 乙 2 ま
のは欝出停弐宇佐も含めた
に罵ゐられたとしなければなら瓜﹂云々と はれる︿
ー﹁日本吉鹿ハの研究下い所奴)︒
でに
加すると︑津
誌︑津軽蝦夷没び渡島と関孫の探い粛慎 は﹁鶴田
しく構ってゐない土地いである︒ま
な
ど
た前述の後万羊蹄﹂誌︑
ア イ ヌ 語 の 芝 二 三
1 2
円即る大河 岩木河から来た名郡ではあるまいか﹂とされてゐる︿関上)︒
地方
︑ 田名網氏の臼石説批料における誤解とは︑
﹃蝦英志﹄の
を﹁渡島を北海道として︑
を松前であろうとする説﹂と理解され︑
また﹁渡島津間と(を?﹀津軽掛伸一一叫の意とする説﹂
︿筆
者註
i
間じく 吋躍英志﹂をさすか﹀とも解釈された
はれる点である︒話者が明
白地
小治
﹂と
いふ
一一
一一
回ひ
万九
守し
て
ゐる乙とからも数推でさることであり︑津軽津を松前の港であらうと かに誤解である
ζ
とは︑臼石が はしてゐるが︑津軽︿広義﹀即ち松前とはしてゐ佳いからである︒決
なの
は︑
とする説!といふ表現も不可解
﹃続紀﹂児は﹁渡鵠津軽津司﹂とあって田名繕氏のやうに に﹁渡嶋津南﹂安
の
﹁一向脅ニつに分けて別物としては取扱ってゐないからである︒津田鰐土
, .
Uゐの津軽の津の奇いとよまれたやうに︑
右の語は渡島空中の津 軽湾︿港)
由記(宮司﹀と解するのが識も自然であり
i
私見では
治
lもかういふ認識足立脚してゐたものと思ふ
i︑ 田名縞氏む説のやうに
一一
つの
の存症を想定するのは無理なのであるまいか︒かう常へる と
i博士の渡島・津軽問︑
郎ち北海道・津戦半島聞の佐復離発着
といふ
も︑現代的解釈に額いてゐるやうに感ぜられな
くも忍い︒
そ乙でむ最も
と患はれる考へ方に立って﹁渡嶋津軽持制﹂
安捉へ
と︑顧みられてよいものは﹁ツガル﹂の
があ
る︒
乙 れについては出著
の麗史h
ですでは述べた通り
内 ︒
A噌 吋新撰陸輿
や
日本場名辞書いの説などがある︒前者試それを での意味と解し(むかし
津 語 軽
ト .o
カ・津 リ・を が松前識から襲来してこの 信りて控んだ﹀︑後者はこれを以てアイヌ一括と解し﹁今 は鍔豹なりいとされてゐる︒どちらも特色がみるが︑
あざちし
の思惟方法 を逆用する時誌は︑津軽の勢力が松前地方は及んだ結菜︑
問地に﹁諜 軽﹂の名をもっ港ないし地点
れ 7 こ
へる
ζ
ともできょう︒例へば現に坂本太郎薄士など
であ
る︑
とされながらも︑ を二めは秋田・能代・
﹁時と共にその地は北道した﹂といふ昆解
の地の総綜 をとってをられるからである
八日本書紀と轄夷い
i
前 掲 日 制 夷
﹂ 所 校
)G
以上
︑
﹁津加留﹂膿夷の問題から渡島の地域に及び臼若が﹁後方羊 諦﹂を北港温荊部の所在と観︑渡島をも北海道氏擁したことを中心は して︑語家の説を顧み検討し来ったのでゐるが︑周知の通
hソ斉明記五
年の記事には
と並んで﹁渡島軒夷﹂の名
きちに
統はふれた﹁嵩慎いの
ζ
とも述べAJれてゐるから︑ここでそれらについて
φ
む諸説とのほおレて分析して見ょうと忠
の所論を
ふ︒す守は引用した
序の文の通り︑自石は地域別は 語族名を挙げてゐるが
と
2 ま
は花る者である沿
に対して︑
の﹁陸奥蝦夷﹂見該当するものはつ東鍍夷﹂と呼 んで区別してゐるものの
乙れを
見なしてゐる
φ
と試
算︑
ほっ
て
の万は︑ふふく制民・別人憶としてゐる
c
節ち︑先づ﹃読史
におレて
一十
一一
一代
年は四百五一ト三年安隔て﹀一二十八
しばしば抗しき︒間認亘・阿部引回目比経夫弓どして 討 し 諮 ら れ し に
︑ 蝦 夷 つ ひ 広 従 ひ
︑ 南 慎 と し た が ふ
︒
︿ 中
御代足︑
路)初神武点灯似
ひしよち此かに;:天
yナ
白け
ら日
正
に従ひ参
らせ向者)を征し或は
しめらる︒其中︑神坊・斉
をして
明の如き
k
︐土えておはしませしかど︑山日付加何ら娃壱征せられき︒し
・ 蝦 夷
・ の 如 き は 海 外 の 事 ば あ り し か ば
︑ 多 く
は将軍して
し也︒神功・清明白御代の事も海外の事にゐづか
ちしかど
したまひし所ほれぼ誌に
るぽり︒)
井白石全集担
出片仮名交り
は章者) と述べてみて
の一凶として設ひ︑一4・
1
t a
﹀釘Hド
汗 タ 一 心 弓
1
といふ表現
をも
刑川
げて
ゐる
︒
まに杭久間柄巌克陣内向はおいて七銭にふれ︑
つむ
簸
J一ツきて/¥めづらしく恭京レルけ候︒
の ん 山 引
は 本朝の関 史にも二所か
か見
へ一
侠︒
︿小附)詑物︑雨時ほ申す神軍の矢心 根げ凡て候き︒きはめてふるさものに候︒すなわち書経に
などに候石裂はで︑粛槙闘のものに候︒すでに闘史にも︑
子 し 子
む
に壷碑に妹掛翻への道程も見へ供︒
蝦夷培よち入犯の事も帳︒次 綜鶏は吉東慎の地にて時天平の
議慎践のもの佐渡に入認し候事も候︒
頃迄も本邦よりの往来の通路︑
たしか民有たると児へ挟︒太主の時 に彼趨のものども入犯し接試いふに及ばず︑東輿
又は越後等
の擦に盤捜し候て︑の撃も慢を俗に
は串待たるに供︒其
レ之候時にかち得核て︑
かの箪伎を端ち纏め又は塚ぽどにし棋
か︒急の持にた¥き出文明れ候を
関史には降り候と心得候てし
o
るし藍れしと克へ候︒仮初にも間出港万にほきもの民候を以ても︑
弥以て窮協の特午八抗磐孔子的錦覧及ばれ候ものと存じ挟へば弥笠の
抗日誌撲︒︿日石全集第王)
(後
略﹀
と鴻べたもの
のことは﹁臼五党主紳害
h
にも︑木下唄維と る ︑
C6
の問答が収録され
そ の ほ か 嬢 の お の 別 称 と し て 演 の 羽
日比っき近衛家細川に
明した時のにとが吋本朝軍器考いほ
次のごとく記おれてゐる︒
﹁進
一ニ
シ比
議政大相関痢慎ノ羽ノ事
セラル︑東
新
レ︑我菌ノ俗︑凡物ノ章一ス北/夷地一一出ヅル︑時ノ忠トコソ心
ル地
名ヲ
以一
ア
ヲ弥スルコト︑
ヘパ
端本
ヲ上
林ト
一五
μ・ 旬 ︑
ヲ 下
z
自ト
一ぷ
フ
即 チ 此 ナ ワ 往 時 東 摂 罷
セラレシ事︑お良人ノ米
リシ日本書紀ニ見エシ所モ多ク︑
ノ捧
ノ一
時等
シテ
︑ 器 開 問
一見エ侍けソシガ︑綜場ハ古ノ
議サ
レシ
心事
モ︑
之地ナリトハ︑異朝ノ
34H
エタリ︑睦実毘多賀城鑑ノ紳ニハ︑最
品判醤ル型註ヲシルシ持レバ一ハ彼ノ地方ニ出デシ箭ノ 酒
ツ ネ ニ 我 協
トハ幹セシ
ぺP
来タリヌレバノ現ヲ
ムマ
モ蝦
夷諮
万
ヮ出ヅル物ハ︑共口問スグレテ持リト筈へ申シキ︑後
保安元鰐ノ記ニ︑執柄供奉行幸ノ
府笠︑番長︑平鋒左鷲羽︑
右
コレヲ新調ス︑烏鷺ノ羽ヲ以一ア︑一府ニ埼リ続キタリト
一以フ所ヲ抄出シテ賜ヒタリ︑烏鷺ノ羽ヲ以テ︑
府
タ一
フン
ハ︑鷹ノ羽ノ倣ヒシモノナヮ︑(白石全集第六﹀
上
‑書簡の一一小す通わ︑白石は﹁書経い
﹃孔
子家
一括
﹄
によっの存在及び爵慎人む製作広かかる石密(苔鍛﹀
羽のことを知り︑立つ恐らくは
﹁通興いによって(上文広は
﹁異朝ノ書﹂﹀︑株鵠が古の
の地であること令知ったもののやう
であ
る︒
※
にほっ成王境伐二東夷
とあ
り︑
ア
﹂ 十 品
︑
つ北夷﹂よしっ在ニ玄菟北
(昭
五九
千 絵 呈
し一
年
してをり︑石器のことは吋国語﹄ほ
讃慎氏員 結 矢 石 砦 一
︑ 長 尺 有 用
︿ 一 尺 八 寸 )
文に‑梧侃︿いとあるつ梧﹂は︑白石の謂はゆる
に 当 た る も む と 思 ほ れ
︑ 自 石 は 扇 さ を 引 い て は ゐ な い が 弱 震
︿魯語下﹀と克えてゐる︒上
の矢の
は
‑ 括 空 白 羽 に 当 た る も の と 解 し て よ い や う に 患 ふ
︒
﹁鞍縛曹はついては︑
また
は﹁
敏雄
靭在
:之
f
t
︑邑落供有
一
. 、
︑凡有
半 島 統
七種
一・
::
即古
之踊
慎丘
一泊
い
東 不 とありにはにれを
の文字で表はし﹁後灘
連意
︑
してゐる︹諸橋吋大漢
高句麗北一︑亦宙環慎問地﹂ 和辞典﹄は拠る︺︒しかして綜婚の存在は︑いはゆる
の碑﹂によっても知り得たこと
が上引﹁新出半簡﹄
の文によって明かでめる︒臼石が
や吋通輿﹄そ読んでゐたとすれば︑震慎が百一一麗もしくは
山市麓
の北に控匿してゐることを知ってゐた筈で︿前註※参者)︑おうとす
れば讃慎をシナ大陸の沿禽州の一一回として認識してゐたにとは疑ひな
し、。
﹁鍛英志﹄として樺太についての説明があり(臼石は﹁北蝦夷﹂
に註して﹁開ら興蝦夷︑英中之を呼んでカラトと日ふ﹂
ぺてゐる可
北蝦夷が東は大海に離し︑酉北はすなはち軽郡⁝東痛む糠で﹁両地の相
マテ
オ村
川ノ
ッチ
の坤
調節
ハ
夕 ︑ ︑ 戸 ︑
の説明文を引熊して︑金図に謂はゆる東山刀室章の地が託作に
phd a唖
去る︑近遠詳かほする
Jミ
カ 〉
とい
ひ︑
当るものと推定してゐる
ζ
とによってもの後文および﹁采覧見
﹁ 左
一一
一一
この
記述
によ
って
知ら
れる
やう
に︑
オランダ人からの聴取︑ブラウ 閣の関撃もまた北期道を中心としたアジア
の認識を詳しくした
ことはふまでもない
l
︑白石のアジア北方地域についての
4 ま
当時としては抜群であり︑そのイメ
i はかなり判然としてゐたu
へょう︒出し︑
は勿論まだ罷宮鵜棋の存夜の知られてゐない叫期 だから︑上記の文につづく説明文では樺太は島としては認識されてみ
戸ι
︑︒
r'12uw
かういふ白石のアジア醸認識を前提として考察する時はほ︑自伝が 渡島そ北海道とし︑政庁の置かれた後方羊蹄の地点を北海道海部地域 応援した
ζ
との斉合性が首肯されるかと思う︒ζ
の白石の患考には︑ヱゾ地についての認議の進んだ近控人であるといふ好条件が加はって
はみ
るが
︑
号
本が指摘されたやうに︑権流(
に謂はゆる大潮
)による交通摺
拡
m w
がり
と︑
人の護捧性
i l
梅外進出の
どむ時代にもほほ共通して認
められる
ii
︑
さらに大化改新後の設治情勢などを勘案すれば︑津田 や田名親氏のやうにエミシ活動の
および察夷征地域を本
土に譲定して考へる乙とは︑
まし
宙博士のやう見麓慎国をも諸経 奥地応援する乙と往どは︑妥当を欠くもの
一 ﹀ ︿ 津
田博士が斉明紀六年む記事に見える
へざるを得な
岡部毘以謹輿蝦英︑令乗己船﹂
の麗輿鯨撲を鼓島蝦夷の
ではなかちうか
とされたのも無理担解釈
であらう)︒
ただ田名網民で傾聴すべきは︑
がエミシ・エピスとエゾと を蝦夷といふ文字の上から同
)とされた点であ 視 し た ( る︒田名構氏によれば
えシとエどスとは間一で︑
して
ェ︑
ミシ
ェ︑
ミス
︑
エゾはこれとは封寄在で︑
そしてエピスと伝ったのであるが
この呼び名はもと東北の北辺あたりからアイヌの呼び名として︑
主 ︑ シ
とは別加に起ったもの
る︑
と一
一一
一印
はれ
︑平
安末
から
鎌詰
ほか
けて
の 和歌に昆える
エゾ﹂と訓ず﹀
のえ
ぞ﹂
︑
吋今
昔物
語﹄
r刷、、
などは北海道以北のアイヌをきしている
ζ
と向 島 ︑ ︑
F?L
とされる︒そ してエミシ・ヱゼスは異人種ではぼく華民勇猛なる者の
で一
長く
東
国む武人応対して用いられる乙とになったのに対して︑エゾは奥羽北
端・
の盟
(族
アイ
ヌ脅
おす
一一
一一
口葉
とし
て︑
これとは明記記り明治に
まで及んでいる︑の相違をポすのが︑斉明紀に
はれ
る︒
ζ
〈 ら
見え
における蝦夷とお慎とであるとし
の征夷の
この
区別は後者が態燕とは明らかにちがったものであったためであ号︑そ
れが婦持続の北辺か北海道かのアイヌを指している場合と同じであると
として﹁今昔物語恥控興国安倍額時行
空返語の一節奇引黙された︒田名網氏のいはれる通り︑自石はアイヌ 思
う︑
とき
はれ
︑
都 霞 の文字で記述したのだから(﹁躍英忠い﹀罰名網氏のいはゆる
エミ
シ﹂
﹁ェ
ピス
エゾ﹂とを間視したことになるが︑しかし
白石が田名網氏と見解を異にするのは︑上述の
に徴
して
照明
かで
あらう︒白石の震構決議はシナの史書によって影成されたと思はれるの
﹁本朝憲器湾同において﹁東北ノ夷地﹂といふ表現を用ひてゐる
・西夷﹁春秋在民総﹄の北夷などの系 で ︑
のも
︑ 恐らくは﹁書経恥の 列
よζ
るのであらう︒潟知の通り東実・西戎・高蛮・北叫似合語の見
える
のは
︑
ゃ﹁管子﹂などであ号︑
吋北
秋恥
合一
語は
﹁害
経﹂
はも見えるが︑株絡を以て北秋としたのは﹁集頚
hである
︿﹁
鞍︑
鞍銀
河︑
北狭
山加
盟﹂
1
諸橋づ穴漢和辞典﹄)︒ζ
の致花関連して一一一一一回附け加へると︑津軽藩ではアイヌを秋広近い﹁吠﹂む文字
記してゐるへ回
) C
が粛締罰を北秋として扱は弓かったねは︑上記の
閣 時
』 こ
よ るも
に の は と っ 思 笹 ふ所
~.※
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︿和鋸二年七月一日︑出羽穣のことか﹀︑
、."
F吠
﹁錬
秋詩
草﹂
年九月二十九日・神亀一元年五月一十四自・宝
亀十一年
え︑また﹁類紫盟史恥
吋日
本後
紀い
十九日)
4ζ
4
ニt五月二十二詰・間二十五年
H
(廷
鱈十
月七日)
え て ゐ る
ζ
とであれソ︑援者であるに歴史学 の語が 者でもみがこれらの﹁北
狭い
でゐない
ない
し︑
﹁夷扶﹂の語などにはしてゐた
ζ
とは
初一
純で
ある
が︑
それ誌も
拘らず
はれてゐ弓いのは前述の
その
地に
︑
ゃう号によるもむであらう︒
板 上 自 村 麻 巴 の 爽 と そ の 遺 跡
・ 伝 承 に つ い て の 白 石 の 観 論 評 東北地方全般にわたって田村山淋呂遺蕗伝承の多い
ζ
との通りであ
るが
︑
ζ
れを滞軽地域花隈って克ても多数のそれが数へ上げちれるむである︒m
村蘇呂創建を縁記とする
によ
れば
︑
神社の数は体で三十を謡え︑そしてその大半が津軽地域は
するのである︒出村掛呂の征夷については︑﹃B本稜紀﹄が貯要な
部分を顕失してゐる冗め推測はまっと
ζ
ろが少なくないが︑現在のとζ
ろ呂
村山
跡呂
の
は津軽地域疋までは及ば内清かったといふのが︑
iま
のやうである︒
しか
し︑
も盛行をつづけてゐる七夕行事と しての接武多iネブタその程擦が田村蘇呂の
(も
しく
は︑
ネブ
タ﹀
ほ︑
征討時にあるとされ︑蝦夷誘引のために
れたものとの伝一本があ
る︒上述の田村麻告の創建と伝えられたもむで比較的古い例としては
山石
嶺郷
の
の澄油料缶の閣没を教ふため︑罷奥国司
北自閉鎖家に鐸銀地のうち三釘歩の寄進を申請して︑許可された文番が
遺害してゐることがある二革正見二十七時付︑吋斎藤・璃野寵
)︒まに白石なども注目した﹁費
φ
碑﹂︑議ひは﹁都母公平
坤﹀の石文いi
いはゆる﹁日本中央﹂碑についての伝説も津軽には幾
っか
ある
︿五
﹀
0
出し乙の碑は実は﹁多賀城詩﹂の
ζ
とであるともされてを
り︑
む場合は正に
む好関でゐる︒却ち︑前掲の通ヲ番街 において或ひは﹁豪碑比鞍韓国への ひ︑或ひは﹁睦興国多猿城豪碑ニハ︑株
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盟ヲ相去ルや
見え候﹂とい
レパ﹂一部々と述べてゐる︒
しか
して
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ふまでも号い︒それはともかく︑白石そり入は における田村麻呂の活動を信じてゐにやうに思はれる︒田村蘇呂遺跡
えついて白石がその話を開いた一人は︑
明府議儒者として間接だった
服部漬助で︑﹃白石先生
には﹁服部清助諮りさ﹂と前置して
﹁津軽は話回村丸の御蕗所々に有といふ︒城下より主六里の携なるが︑
大明神といふ害︒田村丸の田勝也号ど去也﹂
五 ﹀
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てゐる︒もう一入︑名は記さないが津軽人から習いた乙とそ記してゐ るのは﹃蝦東忠
h
であ
る︒
‑ 47
ほ﹁麟の後︑凡そ蝦夷と祢するむ蝦夷む説明文ほつづいて︑
︿ 詰 る の み
﹀
・
皆其の内地に在る者を謂ふ也且﹂といひ︑ 前掲
む多賀域碑︑碍ら
の碑の鶏立の
ζ
とを述べた後足︑﹁則ち知る︑宮城郡北方数百盟︑違く興地に投す︿註路﹀G其の之
を葉倣比離って︑悉く東山の地を収め︑海民間っ
を為すに護れ
るは︑制約ち征策将軍坂上大宿藤田村麻呂の功︑蓋し以て大なりと為
す︒史一閥けて其む一壌を伝へず︑歎くに考会けんや︒調斑
4・Z諸問
掌て之を捧軽人に関く︑接持軍符営之端︑住々はして有ち︑土入 亦に其事を説く乙と猶ほ前日の揺し︑曜だ其の文献の以て徴する
に足る者無しと去ふ︒﹂
と述べてゐるのがそれである︒
ζ
む文章において控態を払ふべきこと
が幾つかあるが︑その一は﹁史闘けて其の事を伝へず﹂であり︑
そ
の 二は当時の(近世)の津軽では田村麻呂の征討事業が﹁猶ほ前日のと と﹂く活々と語られてゐたといふ事実である︒前者と同趣旨の文は﹃新佐手簡﹂にも見え﹁耽抄門天王化身﹂伝説と併せて次のごとく
述べてゐる︒
﹁坂上田村麻日枇沙門天王化身のよしの事︑少しも少しも名将のた
めに妨にもほらぬ事に候︒其故は漢家にては名将を誉め候とては︑
たとへば日望又は孫呉振子一民韓信など︑とり
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に比し候て申し候︒
乙れは尭舜以来︑文武の迫を論じ来り候徐俗故の事にて候︒こなた
にて文字停来乙のかた︑仏学専に行はれ候て︑
王仁など己後︑儒生 にて大臣にもほられ候吉備だに仏道信向の事にて︑世の鴻儒と申す
ほどの人々仏氏の従ほらぬはほく︑二一善相公清行のみ不同心に見へ
候迄に候︒しかるにヒ宮太子︑守屋との戦に護世四天王の像を頭に 戴かれ候ぽど巾す事よりして
こなたにて名将を単一固め候とては︑吐
沙門天王と申すより外の事は世の人ふっとしらぬ事に候︒そのたつ
とぷ所を以てにっとび候上は︑
すぐに昔時のたつとぷ所はおしはか られ候︒然ば名将たる事
Fったがふべからず候︒あなたにては呂望・
孫自
ハと
申し
︑ 乙なたにては四天王と申すにて候︒如レ此の世のなら はし︑是非もなきとは巾すべく候
0・史々田村麻呂の誉争妨げ候べく
候事にはほく候︒日本後紀にはへ候ゃうの事にて印村の功はつくさ
れまじき事に候︑誠に干
の一二をしるされ候事か︒ー一. h
因みに上文に見える此沙門天多聞天は︑古代
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乙の平安時代においては︑玉城鎮護の叫天王の随一で北万の守道神として尊信されたから︑ 回村麻呂がその化身とされたとすれば︑
それはいかにも田村麻呂にふ
さはしい適用といふことになる︒現在の岩手県・青森県︑とくに前者
には平安時代の作品と思はれる観音像・毘抄門像が多数残ってゐるが
(鎌畠期のものもある)(七)︑観音は慈悲の徳をもつものとして崇めら
れたのであるから︑
乙の北奥地域に慈悲と鎮護を象徴する二種の仏像
が多く見出されることは︑当時の朝廷の蝦夷対策の閉山念を示すものと
解してもよいであらう︒
すでに明かにされてゐるやうに︑陪奥出羽按察使・征夷大将軍を歴 任かつ兼任した田村麻自の献策に基いてとられた対夷政策即ち懐柔策 としては︑農耕養蚕の技術指導・食料専用田の設置・蝦夷の諸国への
分常時一住などと共に︑神々の祭記・仏教の弘布による蝦夷教化が挙げ
られてゐるが︑
最後の教化事業は田村麻呂の征夷を考へる上に見逃せ
ない一面で︑
1
田村麻自伝説は征討と寺社建立に大別されるといふ!︑その武威とならんで田村麻呂の征討事業を成功に導いた要因と思はれ
る
o﹁胆沢の賊﹂の最後の統領であり勇猛を以て聞えた阿旦流為が︑
田村麻巴に死闘血戦をいどまずに降伏した乙と︑その阿で一流為のため
に最後まで庇護につとめた田村麻呂の態度などなどを見れば(註八︑
参照
)︑
田村麻呂に対する蝦夷社会の人々の平和的な対応が想察され
るのであり︑
それが上述の神仏をかりた教化策│田村麻呂その人が仏 教 篤 信 者 だ っ た と 並 ん で
︑ 輝 か し い 成 果 を 挙 げ 得 た も の と 考 へ ら れ る︒津軽地域に田村麻呂の創建を伝へる神社の多い乙とも不思議では
包
く
その事跡が前記のやうに江戸時代中期においても
﹁猶は前日
のごとく.一に語られてゐたのも怪しむに足りない乙とである︒しかし