九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
祖先崇拝からみた沖縄的自己アイデンティティ
安達, 義弘
https://doi.org/10.11501/3135185
出版情報:Kyushu University, 1997, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
第 4 章
沖縄的自己アイデンテイテイの成立
IÏlJi'戸において、 ~ql 純社会に、担先の根元的山自を天孫氏にもとめる物語但型 root narrati veが 形 成 さ れ た こ と を 明 ら か に し た。そ れ を 受 け て 、 本 章 で は 、 こ の 物 語 祖 型 の þ~
' 1 .
によって、t l l
先山米記や系じ1 (
が一定のパターンを持ったものとして作成され、それに (下って沖縄に特徴的な向己アイデンティティが獲得されるようになるという点を具体的事 例にl!JIして明らかにする。
本稿では、向し:アイデンテイテイを、 「自分の自分としての生き方」と規定している 。 それは、
n
分の1'1分としての物花(向己物語)を獲得し、それを自分の生として生きるこ とによって獲得されるものである。したがって、本章では、物語祖型の成立にともなって、どのような自分の1'‑1分としての物誌が作られるようになり、その物語りが自己の物語とし ていかに/ドきられるのかを初先山来記や系図の分析を通して明らかにする。
1'1'純地域では現イ
E
でも担先の山来を明らかにすることに大きな関心が寄せられている 。 ユタ的職能有がシジタダシ(筋正し)によって祖先の山自を明らかにすることに深く関わっ ていることは).可知的事実である。ハンジ(判事)を依頼されたユタ的職能者はほとんど必 ずt l l
先の系譜を確認する。系凶や1 1 l
先I I I
来記の作成を専門に行う人々も存在する。沖縄の 各地で、系以内十I I
先1 1 1
米記の作成が行われている。系図や祖先由来記を書かれたものとして は所持していなくても、祖先の山自に関する知識ほとんどすべての門中が持っている。たとえば、常見純揚の調査によると、国頭村安波では戦前にはどの門l=t'にも由来記が存在し たが戦争‑で失ったために現在ではr11米記を所持する門中は少ない。しかし、 「由来記ない しそれに相!こ
1 1
する(ぶ水l!IJち山米記的知識は、現在の安波の全門中にあり、これを欠く例は ない (1)J
という 。安波では位i
先 山 来 記 は 明 治30
年 代 以 降 に 作 成 さ れ る よ う に な り 、 これ ら 1 1 1
米記の作成によって祖先の山自に関する知識が獲得された。しかも、由来記の作成 にはげ1 M
.那覇の三1 1
州!などのムヌシリ(物知り)が深く関わっているともいう 。衣 4 . 1
の よ う に 、 宜 野 雌 で も 系 図 や 門 中 山 来 記 の 作 成 、 あ る い は 系 譜 の 修 正 が 多 く の 門1
¥1で、行われてきたことがわかる(2) 0 ユ タ 的 職 能 者 や 首 里 ・ 那 覇 の お そ ら く 系 図 作 成 家 と思われる人々が山来記の作成に関わっている状況も確認することができる。
*先の出自をめぐるこのような状況は沖縄各地で観察されるが、本章では、明治時代か ら最近までに作成されたいくつかの組先由来記を分析する。明治期以来一貫 し て 沖 縄 社 会 に由来記作成の動きがみられること、および、そのような動向のなかで沖縄的自己アイデ ノテイテイが沖縄の人々に獲得され続けてきたことを明らかにするためである。
表
4 ‑ 1
宜野崎村の門中事例例J(松│日)
< ~jZ I日パタ〉には、宇田門
1 "
の系図がある。昭和卜年頃にムヌシリ(ユタ)に依頼して作らせたものである。
例2(松山)
戦前の話である。首l立からイrll井問という人に来てもらい、 〈ナーニヤ〉に二、三カ月滞在させて 松山門
" 1
の系凶を作らせた。門'11
の古老たちの話も聞かせて参考にさせた。松田門中の系関は部落 とも関係がある(部落の発作に関わる)ということで、部落から共有林をもらい薪を伐り出してお 金をつくり、それをや1I井問さんへの謝礼とした。事例3(松山)
現在、松山門Ljlのムートウヤー(本家)はく幸地屋〉である。しかし、私(明治四十五年生ま れ)が二十歳ぐらいまではく門尿〉が本家ということになっていた。さらにその前の私が子供の頃 は、 〈幸地皮〉がみ;家になっていた。
r
松田門中の本家は、 〈幸地屋〉→〈門屋〉→〈幸地屋〉と 変わったことになる│‑ 1
f.例4(松田)〈ウガミシチヤ〉が〈ナーニヤ〉のタチングァ(分家)ということになったのは六十年ぐらい前 からである。私(明治山卜一年生まれ)が卜六歳の時、兄の死を契機にしてあちこちのユタの家に 行った。その結果、 〈ウガミシチャ〉は〈ナーニヤ〉のクァンマガ(子孫)ということになった。
TJi.例5(惣慶)
かつては、久保門I
1 t
と東liljrj 1は同じ門中で、門中の行事はくアガリ〉に集まってした。また、基 も同じ慕を使刑していた。後になって、久保門中とアガリ門中は同じ門中ではなく、ウナイ(姉 妹)とウイキー(兄弟)の関係であるということになり、別々の門中にあった。東門中は、かつて は久保門巾と同じく伊芸姓であったが、現在は東に改姓している。私(明治三十二年生まれ)が十 六成の頃、那覇在住の仲間という人のところへ門中のことを習いに行ったことがある。事例6(惣慶)
イ1"旧門111には、かつては神ムトウというのはなかった。十年ほど前に、ムヌシリが明かして瀬底 向にネIjJムトウがあることがわかった。
事例7(惣慶)
〈前平松〉と〈平必小〉はかつては同じ門中に属していたが、現在は別々の門中に属している。
事例8(惣慶)
f i l l
門中には、昭和卜年頃に作られた門中の系図がある。カミグトウ(神事)の好きなばあさんが いてその人が作らせた。その系関によると、仲門中は護佐丸の子孫であり、姓も現在の仲間姓から 金城姓に変えるべきである。英組王が一番ヒ(始祖)である。卦l例9(惣慶)
戦前、
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鞘の凶芹館みたいな所へあった由来記から写して作った「第一尚氏系図J
というのがあ る。その系図を作る以前は比嘉姓であったが、系図に従って改姓すべきということになり平田姓に なった。事例10(漢那)
津波古門中のウフムートウは佐敷町の平日という所にある〈平田屋〉という家で、尚巴志の子孫 ということになっている。那覇で作らせた津波占門中の系図があったが、戦争で消失した。
第 l 節 『玉城間切冨里村世礼知念原ノ 一門中元祖由来記 J
( 3
) の分析
この [玉城間切箔j巳村
l
世礼矢11念原ノ 一門中元祖山来記j
(以下 『知念原門中由来記J
と もr t L
す)は、 1895イI~( 1 9 J i f i
2 8 )にk
城間切富里 村 に 本 家 を 持つ知念原門中が、 「久米府 知災地村J J I ' f
住の「侮林翁」という系凶作成専門家に依頼して作成した祖先由来記である。、のI'~rjJはいわゆる口姓j1
J I
rj'であるが、その系譜が第l
尚氏王統につなぎ止められて、そ の1 1 1 %
祭犯の実践において天孫氏にまで系譜を遡らせている状況を確認することができる。第
l項全外才待)ぷ
日
11念原門q '
山米;記j
の分析に先立って、この由来記の全体の構成を確認したい。表 紙 には、r ‑ k
城1 m
切 日' l l
村I I t
礼女11念版ノ一門",元祖由来記J
の表題の他に、 玉城間切冨型村 111.札の久保山
r l j
太郎を竿頭に、I I I J
1"] '1'の5
名の名前が列記されているが、それによると、l
u J I " J ' I '
のメ ンバ一家族は沼里村のほかに志堅原村や前川村にもまたがっていることがわか る。内容の令体構成は次のように整理することができる。[ 1 J
依頼者‑から作成者への礼辞[ 2 J
J~城間切U~lU村旺礼矢It念元祖1 由来記序[ 3 J
矢J I
念原門' 1 '
の 系 譜[ 4 J I
八幡尚徳E
御舎弟J
の系譜[ 5 J
知念原門r l '
,U i
先の移動経緯[ 6 J
知念原門1 '
J恒l
先のゆかりの地[ 7 J l l i
先崇拝の作法とその意義[ 8 J
知念以門1 "
が拝むべき拝所[ 9 J
正しい祖先崇作の必要性 以 に こ の} I I I T
に内容を見ていく 。[ 1 ]依頼者から作成者への礼辞
表紙を開くと最初に、この由来記作成を依頼した知念原門中から作成者への礼辞が次の ように記されている。
私共儀一門中元祖々々根本ノ所ハ能知居申事御座候得共上古ヨリ中古及ヒ当世次第之 順序精敷不相矢
u
依テr ' J r l J
U今味ヲ以質検御頼申上候処悉皆順序ノ御書付万々難有次第奉拝受候此儀幾久敷尊奉シテ子々孫々相伝仕可申候百持
これによると、門
l r J
の線本の祖先はわかっているけれども、途中の系譜が不明確だから、II~
中で、吟味の上、 「貴様」に依頼したという。 ここで興味深いのは、依頼者の側に根本の 祖先がわかっているという点である。依頼者は自分たちが知っている根本の先祖と現在と を系譜的に繋いでくれるよう依頼しているのである。依頼を受けた側は、いかに祖先を発 見するかではなくて、あらかじめ依頼者から指定された祖先に向かっていかに説得的な系 講関係を示すことができるかが要求されていることになる。つまり、被依頼者は説得的な 系譜パターンに乗せて全体に整合性を持たせることが求められているのである。I
貴様J
と、は 「久米府久戊地村居上 梅林翁」である。この「梅林翁
j
は当時の代表的な系図作 成専門家であったらしく、 この頃に作成された祖先由来記にはたびたびその名前が見えて いる。[ 2 ]玉城間切 JEql 村山礼知念元祖由来記序
続いて、 「二五城
1 m 切宮!:g村世
‑礼女J I
念元祖由来記序」として次のように記されている。夫レ人!日
jノ‑tll京イJ
ルハ水ノ源ト有ルカ如シソノ源ヲ尋子見レハ其流レハ則チ知ル可シJ t 1 1
じj
:ヲ尋了‑見レハ則チ其ノ子孫ハ知可シ故ニ仁人孝子タル者ノハ其由来記ヲ設立テ組 公ノr l l
米ヲ矢1 1
ラズンバ有ル可カラザjレ所ノ者ナリ今我カ始ノ祖ヲ稽ヘバ歴代古久ニシテJ t
ノ 州l
乙印テl¥ l
ル所ヲi
附 ナ ラ ズ 鳴H怯 々 タ ル 愚 昧 ノ 由 来 記 無 キ ノ 人 ヤ 存 命 ノ 時 ハ 父 ヲ父トシr I ‑
トシテ人倫之tI'ニ成長スレトモ死後ニ於テハ某ハ吾父ヲ某ハ我カ祖ナルヲ~II ラズ狛ヲ牛馬ノタ1 1:ク無矢IJ~っ々ニ〆一事モ祖宗ノ由来ヲ知ラズ況ヤ永遠ノ子孫ニ至テハ
縫 々 J t
ノ山米相知ラズ且ツ11寺キ有テ疾病患難ノ事ニ過レハ妄レニ銭金ヲ費シテ慌忙シテ A~呪ヲ招請テ克ニスlえ硯ノ為メ ニ迷サレテ他人ノ神元祖或ハ敵方ノ神元祖拝シ可カラザル 所ヲ参作ス祈ルIIfキ所ヲ押見シザルカ為メニ終ニ禍失ニ遇テ不祥ノ道ヲ開テ一家一身顛 倒短命ニ及n f
キ苫数々有之ルハ偏ニ各系記ヲ設建テ始祖ノ由来ヲ知ラザルニ由カ故ナリ 始飢ノ山米共義大ナリ凶之政常々始祖ノ由来ヲ深クi
暁得テ其系記ヲ設置チテ永遠子孫ニモ~II ラサント欲シ テ
内庁ニ雲
遊シテ'r片今ノ由来ヲ知ル者ヲ探問スレトモ並ニ人在スコト
無シI }
喜楽不安I Y J 治
..
1‑八年乙未11I十一月幸ニ久米府久茂地村ニ処士アリト聞テ吾レータ ヒ間ノ下大ニ忠慌テ共 ノ 処1 :
プv n t r
ニ来レテ其ノ由来ヲ訪問フ談処士笑而答日其由来ヲ知 テ出来記編作ルノ事ハ広ク万骨ヲ矢口レ深ク道理ヲ明ニスル者ニ非ンバ其ノ事ヲ遂テ僚ヲ 分スコト不能ハト遂ニ推辞ス吾レ首ヲ頓テ頻ニ乞フ処上日我不学ニ〆道理ヲ知ラズ然モ 飼カ頻ニ乞テ属頼ニ凶テ書ヲ査験シテ取u
カ筆ヲ援テ一二ノ愚見ヲ陳述ルト乃日ク按ル二 枚カ源但ハ伊平屋烏八蔵大主ナリ」こには但先の系譜を明らかにすることに意義とその必要性、そしてその困難性が示され ている。まず、祖宗を知ればその子孫がわかるので、仁人孝子の者であるならば祖宗の由 来を知らないわけには行かない。それを知らないというのであれば、人間でありながら 11‑
恥同じようなものだと、組先の系譜を明らかにすることの人倫として必要性を述べる 。 ついで、但先の由来を知らなければ、 「疾病患難
J
に遭遇したときに翠硯に惑わされ金銭 同資し、あげくには他人や敵の但先を誤って拝み、かえって災いを広げることにもなり166
かねないとその必要性を指摘する。しかし、祖先の山来を明らかにすることができる人は 少ない。さいわい、久米府久茂地村に「処士」がいたので由来記の作成を依頼したという 。 そして、依頼を受けた「処士」はここで依頼者の「源祖」を「伊平屋島八蔵大主
J
と指摘 している。なお、 「序
J
は依頼者の立場で記されているが、このような書き方はこれ以外の多くの 担先rll来記でパターン化されているので、被依頼者が作成したものであることがわかる。[ 3 ]知念原門 r l J の系譜
、の序に続いて、 JL休 fド~~系議関係が次のように示されていく。最初に「長浜蔵書」を 参与にしていることがAミされている。この時期に「長浜蔵書」がこの分野ではすでに権威 を持っていたことカすわかる。
長浜成許ヨリ伊平屋島八月議大主街j子ヲ尋見レハ鮫川大主ナリ又鮫川大主御子ヲ御尋.7u
レハ御前
i
人アリ長男ハ尚思紹ナリ長女ハ場天祝女ナリ云々J X F G
思統{ヒノ御子ヲ御尋見レハ御匹!人アリ御太子ハ尚巴志ナリ御次男ハ美里ノ大比屋 ナリ御i y j
ハ平111ノ大比出ナリ御山男ハ与那原ノ大比屋ナリ云々jくFG巴ぷ
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ノ御f
ヲ御尋見レハ御八人アリ御太子ハ佐敷王子ナリ御次男ハ尚忠ナリ御ツ
jハ共ぷ11]1玉f ‑
今帰仁.城主ナリ御山男ハ八重瀬城主ナリ御五男ハ尚金福ナリ御六男ハIX1~lj
J I 1
ナリ御七児ハ越来王子尚泰久ナリ御長女ハ佐司笠按司加那志ナリ云々(註 御 長k杭ぶ笠按 ríJ 加万I~~む美骨ハ亦 rn 首里殿内ノ御床)協ニアリ)
jく尚忠
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ノ街j太子ヲ御尋見レパ尚忠達ナリ云々 且ツ尚思達王ノ御子ヲ御尋見レハ御 イ'Jtニイ寸d
実父尚令柄ヨリ御継玉フ云々 又尚金福王ノ御太子ヲ御尋見レバ尚志魯ナリ此 ノ尚ぶ符ハd
災父尚..1lf県トロ11イ伝ヲ争テ共ニ破レテ尚金棋王ノ御跡ハ御弟越来王子尚泰久御 継k
フ云々J L
ツ尚泰久七ノ御子ヲ御尋見レバ御八人アリ御長男ハ安次富カナハン也御 次!JJ
ハ ミツパタンキナリ御 :男ハ尚徳ナリ御四男ハ八幡加那志ナリ御五男ハ江別王子ナ リ御ノリ)ハ尚武ナリ長友ハ IJq シ J宏司加万I~志是レ勝連按司ニ嫁シ後夏居数ニ適シナリι; 久
ハ当按
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)JII} ] I S I
志是レ林鳳ニ嫁シナリ云々(姉之墓ハ主前殿内ノ近辺ニアリ妹ノ墓ハ中栄 J~境内ニアリ)1 1
ツ尚徳王ノ御子ヲ御尋兄レハ御太子ハ佐敷王子ナリ御次男ハ浦添王子ナリ御三男 ハ 庵比久太尾子(ママ)ナリ示々r L
ツ右尚忠紹王ノ御三男平田ノ大比犀ハ南山征罰(ママ) ノ I~ドj ノ欠ニテ i恨 r1
ヲ射ラレテ死ルナリ(註 其ノ骨玉ハ佐敷保那久不原ト云ル所ニ墓 置也)此ノ人ノ子ヲ尋見レハ平田ノ子ナリ又平田ノ子カ長男ヲ尋見レハ屋比久子ナリ云々
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ッ右尚巴志王ノ御ご男具志頭王子今帰仁城主ノ御子ヲ御尋見レハ御不足ニ付甥孫八幡 }JnÐ~志ノ長男ヨリ跡ヲ継クナリ云々且ツ右尚泰久王ノ御四男八幡加那志ノ御子ヲ尋見レハ御四人アリ長男ハ八幡仁屋思亀 ナリ此ノ人八幡仁屋忠亀ハ伯父祖
I
具志頭王子今帰仁城主ノ御跡ヲ継テ今帰仁世ノ主ト成rm切富里村大イ,
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,栄真ノ上原*八l幡仁屋忠武大ナリ云々 長女ハ真)J11戸ナリ 二女ハ真鍋ナ リI L
ツ 八 幡 十 尽 忠 武 太 (ママ)カ 子 尋 見 レ ハ 五 人 ア リ 長 男 ハ 八 幡 仁 尾 梯 金是 レ寓県村 (ママ)今ノ大イr f '
栄真ノ上原、{ I l
八橋イ :尿締金ナリ次男ハ八幡仁屋思加加ナリ是レ富1 t l
村 今 ノ似しノ知念立始メ但ナリニミクjハ 八 幡 仁 屋 忠 仁二E
ナリ是レ久茂地村八幡具志ナリ長女ノ真 } J I I
戸ナリ二次ハ思戸ナリぷ々日.ツイJノゆえ
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切コ'1111村江別ノ立始メ祖ヲ尋見レハ前中山尚巴志王ノ御六男尚布虫ナリ
jJ"tノ尚イli収山米ヲ尋見レバ御凡尚金福二E
ノ御跡ヲ尚金福王ノ御太子尚志魯ト争フ此ノ 111f[主│人̲‑' 1 :
ハ以父│、IIGイli!J~ニホIf)~1lメシ ー半ハ尚志魯ニ帰組メシテ叔甥互ニ戦ヲ好ムヤシカ(r~
刻(リ
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栄ノミ両ノjノイrj'ニ̲ ¥ L
テ裁断シトモ両万不問入終ニ唐栄籍ニ天朝ニ訟ヲ請フ天朝震 動キ賜ヒテ将サニ勅使降サントシルニヤ尚志魯怒、テ城内ニ火ヲ放シテ城ヲ焼尽シ又尚布'
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悠テ尚志併殺シえW}J使怒、テ尚 ;{ITD l
ヲ捕虜ラントシ尚布里大ニ驚面白ヲ隠シテ玉城間切、Jj111村ニ逃メEシテ跡ヲ隠シ此レニイ‑J庶栄勅使ト議シテ尚巴志王ノ御七男越来王子尚泰久
ヲ I((~~~テ E1伝ニ就シバ々
n .
ツ安志宮)]1]ナハシ及美津波タンキ及八幡加那志及西シ按司) J I I
fl[~ぶ及 21J安 l サ加万[Sぷ匂ノ術j 人数ハ同父母ノ衡j兄弟ナリ此ノ兄弟皆越来宮里ト云ル妾母 カ芹ニ途タレハl卜.ヲ不得シテ沼早当山村二逃走レテ伯父尚布里ヲ尋テ跡ヲ隠シ隠レル所 ノ洞穴及瀬森今狛ヲ存シルコトナリ洞穴ハ富里村ノ主前殿内ト云ツル洞穴ナリ又此ノ洞│付ニ反今猶存ルコトアリ
以上が「長浜蔵官
: J
を参照して IJJjらかにした系譜関係である。これを図示すると凶4・1の ようになる。矢印で、ノjえした「八幡仁屋忠加那」が依頼者である玉城間切富里村世礼の知念1~I"Jrjl の始祖l である 。 このように系 [~J にすると、ここに示されている系譜関係は第 1 尚氏
│統の系譜が基礎になっていることがわかる 。しかし、 [中山世譜
J
などの王府が編纂し た暦!点(tから Ipjらかになる第1 ! ' t d
~_E統系譜は、虚実がはっきりしないというものまで合 めてせいぜ、い [;;(14‑2のれ度で、ある。こ こ で 参 考 に 用 い ら れ て い る 「 長 浜 蔵 書 」 で は 、 こ の 断片的系譜の欠務部分をよ堅め令わせて、より複雑に仕上げていたものと恩われる。その ほ浜蔵書」に合まれていた系譜を基礎としてそれに依頼者の系譜を繋ぎ止めたものと忠われる
。なお、この系医│に関して、東江長太郎の収集資料のなかに「鮫川大主系図」として図 4.3のような系│ヌ│が合まれている。これは系譜関係に若干の相違はあるものの、前述の図
4 . 1
と後述の 1;;([4‑4を組み合わせた系│ぎl
である。r
知念原門中出来記J
が1895 年(明治 2 8 )
に成 '1. し、 一方、*~-[はその当時はまだ資料収集を開始しておらず、彼が本格的に収集に 乗りH¥すのは1807 イド(明治 4 0 )
頃 か ら で あ る の で 、 東 江 が 『 知 念 原 門 中 由 来 記J
を参考 にしたものと忠われる。第1
I、品氏正統のr
孫が富里村に移り住んだ理由についてこの由来記は次のように述べて いる。すなわち、尚金制七の死後、尚布里と尚志魯の叔父・甥の政権争いが起こり、唐栄 やjLJ同点b
伎が調停に来り,11¥すが、│何者とも聞き入れずに尚布里が城に火を付けて焼失させ た│高志魯を殺してしまう 。これに悠った勅使が尚布里を捕縛するのを恐れて、尚布里は玉 城間切当山村へ逃れて身を隠した。尚泰久の子供のうち安志富加ナハシ、美津波タンキ、八橋}J!11J~志、西シ按可加1]~i志、および当按司加那志は同父母の兄弟姉妹であるが、越来(
E
いう母親が筈を受けたのでやむを得ず伯父尚布里を頼って富里当山村に逃れたという 。 彼らは干統の血を引く者たちであるにも関わらず、出舎に身を隠さなければならない事態168
図41 知念原門中の系図
八蔵大主一一一鮫川大1;
伊平屋氏。
長9
長J
6仁屋樽金 '継グ。コレ今 J~ 里村大仲栄
υL幡仁 屋樽金 /
i仁屋恩加那
;里村、今ノ :立始祖ナリ。
}仁屋思仁王 .幡具志ナリ。 ]戸
尚忠王 太 子 尚 思 達 王 図41 知念原門中の系図
尚忠王ノ長子ナリ。叔父 尚金福王ガ跡ヲ継グ。
八政大主一一一鮫川大主 伊平屋島。
太 子 中 山 尚 巴 志 王 3男 具 志 頭 王 子 今帰仁城主 八重瀬城主
尚金福王 太 子 尚 志 魯
長 男 思紹
次男 美 里 大 比 屋 長 女 馬 天 祝 女
6男 尚 布 里 玉城間切当山村江洲の 立始め祖
女 佐 司 笠 按 司 加 那 志 美骨玉ハ赤田首盟殿内ノ 御床脇ニアリ
3男 平 田 大 比 屋 一一一一一 平 田 子 他 魯 毎 征 伐ノ時、 F崎山付
近ーオイテ、流矢ー当り 戦死ス。其 ノ 骨 玉 ハ 佐 敷 保那久イミ原ト云jレ
m
仁孝子也。
4男 与 那 原 大 比 屋
尚志魯ハ叔父布里ト位ヲ 争イトモニ破レ、尚金福 王ノ跡ハ弟匙来王子尚泰 久ガ継グ。
男 安次富カナハシ
次男 三ツパタンキ
3男 尚 徳 王
4男 八 幡 加 那 志 5男 江 洲 王 子 6男 尚 武
一長 女 西 シ 按 司 加 那 志 勝連該司ニ嫁シ、ノチ夏 居 数ニ嫁ス。墓 ハ 主 前 近 辺ニアリ。
次 女 当按司加那志 林 鳳ニ嫁ス。墓ハ仲栄真 境内ニアリ。
長 男 屋 比 久 子
太 子 佐 敷 王 子
次 男 浦 添 王 子
3男 屋 比 久 大 屋 子 生 母 ハ 喜界 島ノ女ナリ
男 八幡仁屋思亀 伯父祖具志頭王子スナ チ 今 帰 仁 城 主ノ跡ヲ紛 デ今帰仁減主トナJレ。 次男 八 幡 仁 屋 思 武
父母ノ跡ヲ継グ。コレ ノ玉城間切富里村大イヰ 真ノ上原祖八幡仁屋号
女 真 加 戸 思鍋
子
尚忠王 太 子 尚 思 達 王 尚忠王ノ長子ナリ。叔父 尚金福王ガ跡ヲ継グ。
具志頭王子 今帰仁城主 八重瀬城主
尚金福王 太 子 尚 志 魯 尚志魯ハ叔父布里ト位ヲ 争イトモニ破レ、尚金福 王ノ跡ハ弟皇室釆王子尚泰 久ガ継グ。
6男 尚 布 里 玉城間切当山村江扮│の
立始め極 男 安次富カナハシ
一子 王 王 久 来 泰 越 尚
戸次男 三ツパタンキ そ女 佐司笠按司加那志
美骨玉ハ赤田首里殿内ノ 御床脇ニアリ
3男 尚 徳 王
太 子 佐 敷 王 子
次 男 浦 添 王 子
3男 屋 比 久 大 屋 子 生母ハ喜界島ノ女ナリ。
八 幡 加 那 志 江洲王 子 尚武
男 八 幡 仁 屋 思 亀 伯父祖具志頭王子スナワ チ今帰仁威主ノ跡ヲ継イ デ今帰仁妓主トナJレ。
男 八幡仁屋樽金 父母ノ跡ヲ継グ。コレ今 ノ玉城間切富里村大仲栄
真ノ上原祖八幡仁屋樽金 /
ナリ。 ̲ /
次男 八幡仁屋恩加那 F
玉城間切富里村、今ノ 世礼ノ知念立始祖ナリ。 女 西 シ 按 司 加 那 志
勝連銭司ニ嫁シ、ノチ夏 居数ニ嫁ス。墓ハ主前近 辺ニアリ。
次男 八 幡 仁 屋 恩 武 夫 父母ノ絡ヲ継グ。コレ今
ノ玉減間切富里村大仲栄 真ノ上原祖八幡仁屋恩武 太ナリ。
思鍋
3男 八幡仁屋思仁王 久茂地村八幡具志ナリ。 女 真 加 戸
次女 当按司加那志 林.o.ニ嫁ス。墓ハ仲栄真 境内ニアリ。
女 真 加 戸 思戸 一一平田子 長 男 屋 比 久 子
図42 第 ‑尚氏王統系図
一長子 尚巴志...‑
長男 尚忠紹モ 一美里大親
鮫川大主
伊是名の人。
費は大賊按司の娘。 、υ回大親 長 女 馬 天 祝 女
尚忠王一一一一世子 尚思達王 今 帰 仁王子
第6子 尚 金 福王 一一一世子 尚志魯
尚布里
「第3子 尚徳、王
尚泰久王
l
L尚武
関43 鮫川大主系閃
天孫氏後商
八h京大:i.‑ 鮫川大i
1J1 γh~fii" ''I:ハ人減持,,]
J!J:.ナ1)n
長男尚.' 永昔話4年 E
み
19年 │ t月IS城耕雲上(幸之)│ 奉公/段ノ、家;昔ー相記ス。 佐 敷 間 切r
I
惣 領 系 小 蝋 畳 之 鱗J。ミ里子ノ;
小按司ヲI(幸枝)一寸
物。成J 1
筒代村ンj 1 i宰堅親雲1.‑(幸懐)
親ト称スg
丙]卜称スa
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(義保税雲上 儀1~~筑く上J万暦作IlJIーの見城IIIJI切り俄 Eナリ。'
村ノil:人
j是f;:̲ 馬
俗 称lら天
長〕
? 二 l卜FJ、L、
J 、 À~,城, IU1)) 聡ニ任 セ ラ ル。
仁 尾 樽 金
仁屋思加那 里 村 、 今ノ 立始祖ナリ。
仁屋思仁壬 幡具志ノ元
!戸
{~村地敗戦ヲ受ク。
長 男 長 均 時跡《
次9; 長係
{(H~、人九州 r11' 伸行、
(1)1&.~・!11: lll ) ‑1
395 長蛇
安 次?X、久場、 llJ1[1、 幸i也等ノt!lj‑ )
凶43鮫川大j:̲系住(1
天孫氏後筒
八成人i-一一鮫川人 l~
fJl子Wf;1, 本ハ人減f安心 J!J:.寸リ。
長男 尚思紹
7k楽4年即位。在位16年。
永楽19:if‑手丑莞ズ。墓ハ 佐敷間切同村ノ上ニア1)0
E里子ノ女ト通ジテ佐敷 小按司ヲ生ム。神号君志 物。成 長シテ佐 敷n1J切 前代村ン移居シ、苗代大 親ト粉、ス。ノチ、佐敷按
,,]ト粉、ス。マタ佐敷大技 戸]トモ称ス。ノチ、王位 ーツク。コレ中山尚思紹 Eすリ。 宅ハ 佐 敷IIU1JJ同 村ノ{L人美里子ノ女ナリ。
長y:̲ J品天祝友 1谷称ん天大ノロコモイ。
太子 中山尚巴心、
次男 美里大観(大比屋)
、、寸ニ 佐 敷EJ‑
次 男 尚 忠 王 尚思達王
尚巴志王ノ第二子ナ1)。 尚忠王ノ長チナリ。 叔父 弟具志頭王子、転封セ 尚金福王ガ跡ヲ継グ。
ラレテ今帰仁妓ヲ継 ギ タリ。
3男 具 志 頭 王 子
4男 八重瀬城主
5男 尚金福王一一一一一太子 尚志魯
『中山世鑑jニ巴志ノ 尚志魯ハ叔父布里ト位ヲ 6男ト見エタリ。 争イトモニ破レ、尚金福
6男 尚 布 里
‑7男 尚泰久王一一一一一 f球陽jニ5男トアリ、
王ノ跡ハ弟皇室来王子尚泰 久ガ継グ。
男 安次富加那橋 玉城間切当山村屋良ニl記 ラJレ。
野史ー布 I~ノ弟 7 男ト
見エタ') 次男 三業多武喜一一一一八幡仁屋て 玉減IIU切宮型村仲栄真ノ
元初ナI)C
3男 尚 徳 王
八幡加那志 江洲王子
女 西 按 司 加 那 志 百十踏揚按司(護佐丸ノ 娘)トノ子ナリ、云々。
勝連接司ニ嫁ス。
次女 当按司加那志 林 鳳ニ嫁ス。
太 子 佐 敷 王 チ 父 ハ 尚 徳 王。国人一殺ゼ
次 男 浦 添 王 子 日本へ逃走、
‑3男 屋比久大出j二一 生母ハ喜界島ノ女す 1)。
3歳 ノ 時 、 乳 母ー抱カL 使 臣 ト ト モニ佐 敷 間 切E 里 村ニ隠ル。
男 八 幡 仁 屋 思 亀. 伯 父 祖 具 志 頭 王 子 スナr
チ今帰仁減主ノ跡ヲ継〆 デ今帰仁城主トナル。
次男 八幡仁屋思武コ 父母ノ跡ヲ継グ。コレ4 ノ玉城間切富里村大仲ぎ 真 ノ 上 原 祖 八 幡 仁 屋 思t 太ナリ。
女 真 加 戸 次 女 思 鍋
3見千凹大比陸一一一一一長男、平田子 屋比久f
孫氏、字国オ ヨド当問、 民投JJじllii )。 佐敷間 切泊代村京名久保 ー若干ラ ル。他魯毎祖t!U時、南 山十JjJr オイ戸、流矢ー 当り戦死ス
4男 lj_Ð~ 原人親(大比犀)
5 ~3 F登般人比hl
と屋)
太寸二 佐敷王ナ
次 男 尚 忠王 尚思達王
尚巴志王ノ第二子ナリ。 尚忠玉ノ長チナリ。 叔父 弟具志頭王子、転封セ 尚金福王ガ跡ヲ継グ。
ラレテ今帰f妓ヲ継 ギ タリ。
3男 具 志 頭王子
4男 八重瀬城主
5男 尚金福王一一一一一一太子 尚志魯
『中山世鑑jニ巴志ノ 尚志魯ハ叔父布里ト位ヲ 6男ト見エタリ。 争 イ ト モニ破レ、尚金福 王ノ跡ハ弟主主来王子尚泰 久ガ継グ。
‑6男 尚布皇 1‑与那城親雲上(幸之)
日男 安次富加那橋 │ 奉公 /段ハお昔ニ相己ス
│ 惣領;f,小嶺筑笠之親雲上。
城間切当山村屋良ニ記 l
7男 尚泰久王一一一 ーl
ラJレ。 1具志親雲上(幸並)
I球陽jニ5男トア 野史ーイ~-'Ilノ弟7男ト l
レ タj 卜次男 五葉 多 武 喜 一 一 一 八 幡 仁 屋 . 玉 減II!JtJJ F.盟村1'T栄兵ノ
元祖ナIJ0 L 次y~ 具志子 儀保税雲上 {州民筑 ~f ,i
3男 尚 徳 王
八幡加那志 江洲王子
女 西 按 司 加 那 志 百十踏揚按司(護佐丸ノ 娘)トノ子ナリ、云々。 勝連接司ニ嫁ス。
太 子 佐 敷 王 子
父ハ 尚 徳 王。国人ー殺サル。
次 男 浦 添 王 子 日本へ逃走。
3男 屋比久大出{‑ーイ 生 母 ハ 喜 界 島ノ女‑j,) 0 I
3歳ノ時、乳母ー抱カレ │ 使臣トトモニ佐 敷 間 切 新 里 村ニ隠ル。
人;久J‑(長楽)
IU J1I;; !~lR~史実l ト科、ン、 尚治王ニ{上I、 À~,城 I I1Jl}J 時屋村地政戦ニ任 セラJレ。
天久大尾
男 八 幡 仁 屋 思 亀 伯 父 祖 兵 志 頭 王 子 スナワ チ今帰仁城主ノ跡ヲ継イ デ 今 帰 仁 被 主 ト ナ ル。
,~男八幡仁屋梢金
一次男 八幡仁屋思加那 玉峻間切富里村、今ノ
次男 八幡仁屋思武太 父 母 ノ 跡 ヲ 継 グ。コレ今 ノ玉減間切富里村大仲栄 真 ノ 上 原 祖 八 幡 仁 屋 思 武 太ナリ。
女 真 加 戸
志礼ノ知念立始祖ナリ。
3男 八幡仁屋思仁王 久茂地村八幡具志ノ元
女 真 加 戸
思戸 次 女 当 按 司 加 那 志 L次 女 思 鍋
林 鳳ニ嫁ス。
万暦年間ニf'J.見城IIU切 俄 i呆村地頭戦ヲ受ク。
長 男 長 均 無跡。
次.9J長係
1fì-粉、人 ~.t,阿 F lI' 伸行、 イけまきすーノJ:rW.}),
3男 長 盈 安次官、久場、111'[1、 幸地等ノHlr 1) c
一 一 一 一 長 男 手 間子 屋比久子
:削 Eラ 陶
図41 t 八 幡 加 那 志 系 統 系 図
八幡主尚徳御舎弟也 安次富カナハン
在所ハ同間切富山村内ー有ル安次 富減ト中ス墓所ハ同富里村之有ル 大ケシト申ス地所ハ同名寄帳内安 次官地ト中ス今ハ富里里主所ニ成
jレ
ー三ツハタンキ
在所ハ同間切富山村東表ニ有lレ大 川減ト巾ス墓所ハ右同所同名寄帳 内ニ有jレ徳長尾ト申ス今ハ富里里 主所二成jレ
八幡加那,古、
在所ハ主減間切宮里村内ニ有リ中 栄│問妓ト中ス墓所ハ同間切当山村 之前ー有1)ウハ減ト申ス地所ハ同 110切中栄問村名寄帳ニ有中栄問地
トqJスノトハ行併持一成Jレ
チ那城親雲上幸生
御奉公之段/、家譜二椅記惣領系小 嶺 筑 畳 之 殺 雲 上
/lt堅親雲上幸懐
竜名大郎金唐名習日新父具志親雲 上空宇並南風原間切玉那覇村玉那覇 親雲上女号玉林云云玉那覇高村ハi掌 嘉 山 村ニ合 シ ナ リ 尚 寧 王 世 代 万 暦 年 間 叙 筑 豊 之 座 敷E叙黄冠其後為 浮豊見勢頭自那覇遷居於首里旦複 任 何 原 間 切i掌堅地頭職難然暦代日 久而不能知其細祥故略駕万暦十七 年己五二月十日不様寿四十六号桂
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'子那減親雲上系那覇話小嶺筑畳之親 主上有lレ津堅親雲上系首里喜屋武 筑 登 之 幸 載ニ有jレ喜屋武幸学系同 拝Ft武幸孝ニ有jレ末吉筑豊之親雲
│系同川上筑豊之孝幸二布jレ真平 嶋 ~Q芸 j 系同松本筑豊之幸代ー有
‑(削以来北13卜噂
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J、サイノ神 具 志ヨリ譲}ー1)
{義保筑な之
主主所ノ、父joj}l}r
凶4 t1 八 幡 加 那 志 系 統 系 図
八幡主尚徳御舎弟也 安次富カナハン
在所ハ同間切宮山村内ー有ル安次 宮減ト申ス墓所ハ同富里村之有Jレ 大ケシト申ス地所ハ同名寄帳内安 次官地ト可Jス今ハ富里里主所ニ成
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在所ハ同間切富山村東表ニ有ル大 川減ト巾ス墓所ハ右同所同名寄桜 内ニ有Jレ徳長尾ト申ス今ハ富里里 I所一成jレ
具志親雲上幸並一一一一一 那覇ニテ誕生童名小樽墓所ノ コフ屋敷ハサイノ神 尚1青王世代嘉靖年中父之地f 議数度唐役者仕同勢頭役相l 唐テノテスイイシ三ツ沈金.
調持渡リ中栄間八幡 嘉 那志:
司提父八幡具志三人之骨供1 候委細久米村執・ニ相見 得l
牌ハ惣系小嶺筑登之親雲上.
八時加那ゐ、
在所ハ玉妓間切富里村内ニ有1)中 栄削減ト申ス墓所ハ同間切当山村 之前一有1)ウハ減ト申ス地所ハ同 110切中栄問村名寄帳ニ有中栄1m地
ト1'1スノトハ)守的H‑ー成lレ
八幡仁屋
在所ハ父八幡加那志向所墓所ハ玉 減間切宮里村之後二有リ石比川ト
八幡具ID'
玉妓間切当山村ニテ延生父八幡仁 屋同所ニ罷居候処那覇ニ女房相求 被越候ナリ墓所ハ本所祖父八幡加 那志向所ニソ御座候ナリ 尚真王世代成化年中二具志村致頂 離御物奉行役相勤)~後御鎖之側役 一テ被相終ナリ
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尚円王世代成化年中ニ酒ffl!理役相 勧其拘.ノ酒席理大力ニテ弁之御 獄御参詣之時於中途俊二大風有之 手栖仕候ニ付先祖由来之段委細被 間召上此時右忠節段御取立玉城按 司頂戴被相給ナリ
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尚1青王世代嘉1青年中父之地頭職相 談数度唐役者仕同勢頭役相動此時 唐テノテスイイシ三ツ沈 金ニテ相 調持渡リ中栄間八幡嘉那志玉城按 司錠父八幡具志三人之骨供養被致 候委細久米村執・ニ相見得申候位 牌ハ惣系小嶺筑登之親雲上ニ有1)
次 男 具 志 子
墓所ノ、兄サイノ神具志向所
ー与 那 城 親 雲 上 幸 生
御奉公之段ハ家譜ニ相記惣領系小 嶺筑畳之親雲上
津 堅 親 雲 上 幸 懐
童名大郎金唐名習日新父具志親雲 上幸並南風原間切玉那覇村玉那軍司 親雲上女号玉林云云玉那覇村ハ津 嘉山村ニ合シナリ尚寧王世代万暦 年間叙筑登之座敷且叙黄冠其後為 浮豊見勢頭自那覇選居於首里且複 任西原間切津堅地頭職難然暦代日 久而不能知其細祥故略駕万暦十七 年己丑二月十日不禄寿四十六号桂 月
与那城親雲上系那覇小嶺筑登之親 雲上有ル津堅親雲上系首里喜屋武 筑豊之さ害載ニ有Jレ喜屋武幸学系問 客犀武幸孝ニ有Jレ末吉筑豊之親雲 上系同川上筑登之孝幸二有ル英王 楠親主J‑系同松本筑摩之幸代ー有
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万暦年中ニ豊見城│削切儀保村地頭 職頂般イtル墓所ハ牧志原ニ.filレ此 ノ、サイノ神具志ヨリ議ナリ
イ義保筑登之
某所ノ、父 rllJ}~r
が王城内に生じたというわけである。こうして依頼者である知念原門中は第一王統の末端 に列せられることになる。
[ 4 ] r 八幡尚徳王御舎弟」の系譜
[知念原門中由来記j に続いて図
4 ‑ 4
のような系図が図示されている。尚泰久主の子供 たちのうちで富里当山村に逃れたという男子を起点とした系譜である。詳細な関連記事が 付されており、この由来記を作成した梅林翁が直接に調査して得たものかもしれないが、図
4 ‑ 1
の内容と整合しないように思われる。[ 5 ]知念原門中祖先の移動経緯
この系図に続いて、図4司
1
で示した知念原門中系が始祖八歳大主以前の祖先が大里に興っ て以来、玉城間切富里村に最終的に落ちつくまでの移動経緯が次のように示されている。 一三城間切富里村世礼知念ノ本地ヲ尋見レバ富里村大仲栄間ノ上原ナリ此ノ大イ中間ノ上 原立始メ祖ヲ尋見レバ八幡加那志ナリ此ノ八幡加那志ヨリ上代ノ御根本ヲ御尋見レバr l ]
山尚泰久王及尚金福王及尚思達王及尚忠王及尚巴志王及尚思紹王及鮫川大祖及八蔵大祖 ナリ此ノ御人数ノ御由来ヲ御尋見レバ大里間切ヨリ起レテ高峯間切大里村ニ立ツ又高峯 間切大里村ヨリ同間切与座村ニ転居ル其ノ時難ニ逢テ又与座村ヨリ国頭間切辺戸村ニ逃 走リ又国頭間切辺戸村ヨリ所ヲ選テ伊平屋島ニ転移テ大冨ト成ル其ノ時餓縫ニ逢テ所ノ 人民畿苦時庫ヲ開キ助ケ救ト難モ所ノ人民心ニ不安殺シ奪フノ害アラントスルヲ聴見シ テ驚テ又伊平屋島ヨリ国頭間切宜名真村ニ逃走レ又国頭間切宜名真村ヨリ便利ヲ尋テ
X
今帰仁間切親泊村ニ引越シ其ノ時不礼ヲ受テ又今帰仁間切親泊村ヨリ北谷間切同村ニ徒 移リ其ノ時神ノ夢告ケ有テ又北谷間切同村ヨリ佐敷間切場天地ニ差越シ又場天地ヨリ佐 敷間切苗代村ニ転移リ又苗代村ヨリ起レテ佐敷城ニ転上リ又佐敷城ヨリ起レ山玉テ首→
府ニ登レ玉テ中山王位ニ御即玉フヤシカ御七代メノ御子孫ニ及レヤ又難ニ逢テ首里府ヨ リ玉城間切富里村ニ御降下云々
これによると、系譜の起点は大里間切だという。大里間切を起点として次のように移動す ると記されている。
(
1 )大里間切(
2 )高峯間切大里村( 3
)高峯間切与座村(難に逢う)( 4
)国頭間切辺戸村( 5
)伊平屋島(大冨となり、飢鐘に際して穀物庫を聞いて人民を助けるが、人民に殺 意があるのを聴見)( 6
)国頭間切宜名真村( 7
)今帰仁間切親泊村(不礼を受ける)( 8
)北谷間切同村(神の夢告がある)( 9
)佐敷間切場天地( 1 0
)佐敷間切苗代村( 1 1 )
佐敷城( 1 2 )
首里府(中山王位に即位するが、7
代目で難に逢う)( 1 3
)玉城間切富里村大里を起点とし、国頭へ移住し、伊平屋島に渡って富を得るが、 土地の人々に追われて内:
ぴ本島に渡り、神の夢告によって佐敷場天へ移住し、その後第
l
尚氏王統を興して首里に 上り、7
代目で滅んで玉城間切富里村へ逃れるまでの移動経路が記されている。これは [鮫川大主由来記jが基礎になっている(図4 ‑ 3
参照)0r
鮫川大主由来記jとは、鮫川 大主の由来記であるが、尚思紹(苗代大比屋)および、尚巴志までの略伝も記されている 。I
鮫川大主由来記J
は細部で多少内容の異なる数種類の伝承が伝え られているが、ここで は比嘉春潮が紹介している版によって、 『鮫 川 大主由来記jが伝えている鮫川大主の生い 立ちと伊平屋島から佐敷場天までの移住の経過を紹介する(4 )。すなわち、鮫川大主は伊平屋島伊是名の住人であった。幼少で孤児となり親類縁者に長 われた。大きくなって農業を行うようになるが、彼の田畑はいつも豊作であった。彼はこ れを蓄えて裕福になったが、親類や困っている人々に米粟を施したので土地の人々は彼を 大主と呼ぶようになった。ある年、暴風と干ばつに見舞われ、いたる所で食料が逼迫した。 彼は自分の蓄えのなかから少しづっ米粟を人々に分け与えたが、人々は彼に一度にたくさ
ん与えてくれるように求めた。しかし、彼は、飢鐘がいつまで続くかわからないし、自分 身毎日海草類を混ぜ、て食べているのだからといって断った。自分たちの要求が通らなかっ た土地の人々は相談して、大主の米粟を奪い取る計画を立てた。人々が大主の家に押し寄 せたとき、大主は漁に出ていなかったが、人々は蓄えの米粟を奪い去ってしまった。Il頃 から親しくしていた隣の老人がこれを知り、漁から戻った大主に知らせ、島から逃げるよ うに忠告した。大主はすぐに船を漕ぎだしたが、復讐を恐れた鳥の人々が後を追った。大 主の船は追手に追いつかれそうになったが、その時、大主の船は突然風を受けて飛ぶよ う に走り出し、追手を振り切ることができた。大主は今帰仁の浜にたどり着き、そこで暮ら していたが、ある日、昼寝の夢枕に伊平屋島の老人が現れ、ここは大主の住むべき所で、は ないので、早く辺土の岬を回って南方へ漕いでいくように告げた。大主はこれをや11のお告 げと思い、辺土の岬を回って南に向かつて船を漕いだ。
5
日目の朝、夢のお告げ通りの潟 にたどり着いた。そこが場天の浜であった。以上が
f
鮫川大主由来記J
が伝える鮫川大主が場天浜に移住した経緯の概略である。こ の [鮫川大主由来記jについて、伊波普猷は、世替わりの時乳母に抱かれて苗代に落ち延 びた尚徳王の第2
子の末喬とされる与那嶺筑親雲上の家で1721
年(康照6 0 )
頃編集され たものらしいと述べている(5 )。 それが事実であれば18
世紀の始めの段階でこのような 祖先由来記が作成されていたことになり興味深いが、現在のところそれを確認する材料を 持ち合わせていない。しかし、 [鮫川大主由来記jのこの箇所が尚円王の由来語に準えて 作成されていることは明らかである。そして、 [知念原門中由来記j
に記されている移動170
の経路はさらにこれを基に変形が加えられているのである。移動の経路に国頭間切宜
t
,真 村が出ているが、ここは尚円王が伊平屋島から脱出して一時身を隠したとされている場所 である。このような類の祖先由来記には信惣性を持たせるためにほとんど手当たり次第と いってよいほどさまざまな歴史、伝承あるいは事物が動員されているのである。大型間切 を起点としているところが理解しがたいが、大里はもと南山の根拠地であるので、この作 成者は、南山を追われて北山へ逃れ、伊平屋島で、尚円玉がそうであったように、国王としての資質を獲得し、その後、神霊に導かれて中山王として首里に上るという巡礼のモチー フを持っていたのかもしれない
。
[ 6 ]知念原門中祖先のゆかりの地
[知念原門中由来記
J
の内容にもどると、この祖先の移動に関する記述に続いて、この 系統のゆかりの場所が次のように記されている。
且ツ富里村大仲栄間ノ上原並世礼ノ知念等カ御所ノ御鍍ヘ所ヲ尋見レパ赤田首里殿内 及安里八幡及浦添間切城間村シリン川原ノ御墓所及読谷山間切喜納村大ホ)11ノ上地及伊 良皆村‑ノ上地比嘉及伊波及平田及喜納伊良皆村境内ニアル御墓所及美里間切伊波村演南 ノ御墓及佐敷間切新里村ノ上御墓所及佐敷ヨヲルレ及新里村西銘及佐敷間切同村苗代及 御宮及崇元寺及浦添龍福御寺元祖等ナリ云々
これを整理すると次のようになる
。
( 1 )赤田首里殿内( 2
)安里八幡( 3
)浦添間切城間村シリン川原の御墓所( 4
)読谷山間切喜納村大ホ川の土地( 5
)伊良皆村の上地比嘉、伊波、平田( 6
)喜納伊良皆村境内にある御墓所( 7
)美里間切伊波村演南の御墓( 8
)佐敷間切新里村の上御墓所( 9
)佐敷ヨヲルレ( 1 0 )
新里村西銘(11 )佐敷間切同村苗代、
( 1 2 )
御宮( 1 3
)崇元寺( 1 4 )
浦添龍福御寺元祖これらの場所がどのような意味を持っているのかを理解するためにはこれに続く記述と 比較しなければならない
。すなわち、これに続いて第 i
尚氏王統の墓所に関して次のょっ に記されている。且ツ尚巴志王及尚忠王及尚思達王及尚金福王及尚泰久王等ノ美骨玉ハ原来天山ト云ル