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孫姓平田門中系譜(げ)の分析

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第 5 節 孫姓平田門中系譜(げ)の分析

これは旧士族系統の門中における系譜修正の事例である。王府時代に系図の所持を認め られなかった旧百姓階級だけでなく、公認系図を所持していた上族門中においても、ここ でいう物語祖型に基づいて系譜の修正が行われていることを確認したい。

孫姓門中は、第 l尚氏王統の子孫として公認系図の所有を認められた首里士族である 。 始祖は孫大成・平田親雲上嗣嵩である。この嗣嵩に関して王府公認の系図には次のように 記されている。

世 嗣 嵩 平 田 親 雲 上

童名思五良唐名孫大成行一生死年月不伝号雲際 父平田親雲上

母不知為何人女 室不知為何人女 長男嗣之

尚清王世代

嘉靖十四年乙未八月六日任佐敷間切平出地頭職先此位官階級之漸次子今不能矢

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細詳故略駕

この記述のうち、唐名については当時はまだ系図制度が導入されていなかったため

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、 そして、号については生死記録がなかったために、いずれも後から遡ってつけたものと忠 われる。この 1世嗣嵩について確かな記録と思われるのは、尚清王世代の

1535

年(嘉靖

1 4 )

に佐敷間切平団地頭職に就いたことだけである。平田地頭職就任については、その日 時が記録されているので、辞令書が残っていた可能性がある。その他の経歴に関しては分 からないとしている。

ところが、この孫姓系図の序にはさらに

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世嗣嵩の上の世代の出自が次のように記され ている。

我之始祖直修大平田之大比屋者原生子佐敷郡府而苗代大比屋次男也為其人也当初尚 巴志王為佐敷小按司時奉仕而尽心致力勲職不慨雌然不幸而早

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立失故君王甚惜共死而択霊 地築墓子苗代邑之上辺冨名久保令葬治之也今H苗代墓子孫保之也直修有一男

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扱平川之 子也此人継父任佐敷間切平田地頭職奉仕子尚巴志王既多年失囚該賞其功為御形見蒙賜赤 地龍四爪縫付鍛子衣一領是我之家門栄色無窮漸次進官職

O

燭有二子長高荘平!日是我担

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次中屋比久大屋子是孫氏苗代親雲上祖也高荘有一男休林平田親雲上也休林亦有一男雲際

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親雲上嗣嵩也是為系祖者也宗祖

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掻拝領御衣分其半而与中屋比久大屋子其一則今珍宝 轟之使後世子孫知祖先之忠節也

ここには、孫姓の家系に伝わる墓所や「赤地龍四爪縫付鍛子衣 (18)

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などの

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米と共 に、 「苗代大比屋」につながる系譜が記されているのであるその系譜を整理すると、 I~I

4

17

のようになる。しかし、このように 系譜がわかっているのであれば、なぜ、前代大比 屋を始祖・第

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世としなかったのであろうか。おそらく嗣嵩から上の世代については確か な証拠がなく伝承だけが伝わっているという状況にあったものと考えられる。王府は系許 作成時に孫姓に伝わるこの系譜を公式に認めたわけである。

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孫姓平田家の門中では、この自家の公認系図に基づいて、近年、

「 第 l

尚氏孫姓系図」

を作成した。それには、まず公認系図の序の現代語訳が最初に掲載され、その下に同門rjJ の系譜が図示されている。その系譜のうち、始祖嗣嵩より上の世代の系譜を示したのが図

A1Q‑r;、丸又 「常枠十 1-レ日|土主u,閉会刀し閉~...J-フ干し t 平1- ‑r‑ μ

平田親雲上一一一一雲際平田親雲上嗣嵩 (系祖)

会り尚恩 師してい

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王 子 、

た旦問 1 J J

次男は リ末古村

主の比!毛

兄f(職な

1 1

王 に 御

ちなり

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0 の大中

に親

1 1 1

先 下祝女殿

民栄茂按 。 付合い、

:れ琉球

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島添大

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3

を変え

2

男 は 鮫

¥ 長 男 :なる。

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敷 小 按

a尚姓と

(大親は

図4

‑ 17

家譜序の系譜

長男 高荘平

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苗代大比屋一一次男 直修大平田之大比屋一一一

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掻 平 田 之 子 斗

」次男 中屋比ク (孫氏苗千

「 長 男 高 荘 平 田 休林平田親雲上一 一一雲際平田親雲上嗣嵩

多大平田之大比屋一一 O掻平田之子~ (系祖)

L 次男 中屋比久大屋子 (孫氏苗代親雲上の祖)

孫姓平田家の門中では、この自家の公認系図に基づいて、近年、 「第 l尚氏孫姓系│詞」

を作成した。それには、まず公認系図の序の現代語訳が最初に掲載され、その下に同

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の系譜が図示されている。その系譜のうち、始祖嗣嵩より上の世代の系譜を示したのが関

4 ‑ 18

である。

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苗代大比屋」を尚思紹と同定することによって、孫姓の系譜が第

l

尚氏ビ 統之系譜に接合されていることがわかる。直修大平田之大比屋が公認系図とは異なり尚思 紹(苗代大比屋)の

3

男(公認系図では次男)と設定されているのは、 一般に流布してい

る第 l尚氏王統の系譜(

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鮫川大主系図

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)にあわせて修正されているからである。 さらに、同門中には次のような「尚巴志王統由来記」が伝えられている。

(前中山王尚巴志王統の由来)太古天孫氏二十五世の大里天孫の御四男西原王子、浦 添間切伊祖村に居城し給いて御子男三人あり。

長男 恵、祖世主は浦添伊但城主、次男 東大里城主、三男 西原城主にして大!日1]切 西原城主なり 。

長男恵祖世主の御子は男人女三人あり 長男はイLjl 昔 r~ll l!王に御即位し給い、次男は 伊祖城主となり、英祖子と称し、御父恵、祖世主の御跡を継ぎ御元但は西原間切末占村 (首里)の大東りの比嘉の御持ちなり。三男久米子は久米鳥イ中里村‑に住居し、!立の比屈 の御元祖にして久米烏紬製織の始祖なり 。長女はネ

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職を司り、次女三女は共に祝友晴氏な

り。

長男英祖王御子は男五人女人あり 長男大成王は御父の跡を継ぎ給いて q1lllこE~こ御 即位し、御次男中城王子は仲昔中城城主となり、御元祖は中城間切泊大屋のお持ちなり 。 御三男湧川王子は仲昔北山城主となり、御元祖は祝女殿内の御持ちなり 。御Vll男の大 I~~_

王子は付1昔南山城主となり、御元祖は山川祝女殿内の御持ちなり、これ手登板大親ネ

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先 の八歳大祖の大但先なり。御五男北谷王子は北谷城主となり北谷間切同村の北谷祝女殿 内の御持ちなり。長女真鍋樽金は神職を司り、次女真世仁金は祝女職なり 。

南山城主の大里王子は御子男三人あり。長男大里按司は父の跡を継ぎ、次男保栄l支按 司となり豊見城間切保栄茂域主となる。三男大城按司は大里間切大城城主となる。

長男大里按司御子は男二人女一人あり。長男は大里按司と称し、父の跡を継ぎ給い、

御次男は玉村按司と称し、高嶺間切与座城主となり、長女真鶴はネ

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職を司り、これ琉球 の針衡の始めなり 。

長男大里按司の御子は男三人あり。長男は南山王にして大里按司なり。御次男烏添大 按司は大里城主にして御男大里按司は南山高嶺城主なり 而して此の時イqltiJIII~E 察 度王弟四男の承察度のために亡ぼされ、そのため高嶺城主の長男は八蔵大相と名を変え て伊平屋島に隠れ給いたるものなり。

この八蔵大祖は伊平屋島の神職阿武加那志を安り男一人女一人を生み給い、長男は鮫 川大祖と称し、長女は神職を司り場天大祝女と称したり 。

長男鮫川大祖は大里間切大城按司の女子を委り給い、男一人女一人を生み給い、長

3 3

は俗に苗代大祖と称し、後に佐敷大按司となり、又後に中山王に即位し、尚忠紹となる。 長女は神職を司り場天祝女なり。

尚思紹王は美里子の女子を安り給い、男四人女一人の御子あり。長男は俗に佐敷小按 可と称し、琉球国の三山分立を統一し給い、そのため支那より尚姓を賜う。第一尚姓と 称す。後に父の跡を継ぎ給いて中山王に即位し、尚巴志王と称す。御次男の美里大親は

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母方の御養子入となり、孫姓三大宗の御一人なり 。御三男平田大親は孫、姓三大宗の第 の祖先にして南山征伐の折りに敵に目を射られて御二十四才にして世を終わり、その御 子男一人よりの栄へにして門中殊に多し。第四男与那原大親は天孫氏系の与那原大親の

駄ネ継ぎ絵いす盟問問古尽き村の知今?の御青:相;なり n 長女は神職を司り佐敷祝女と称す。

4 ‑ 18

尚泰久王一一尚徳、王

鮫川大主‑‑

3

上一一一雲際平田親雲上嗣嵩一一(以下省略) (系祖・第l世)

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子一一一孫自昌親雲上嗣政

:子なる 平イtI,門

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J間切座 t男 佐 敷 iせるに ヌ頭城主 ー間切職

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主にし 与を継ぎ 二子と王 三御元住

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〈男江洲 ハ 尚 泰

己は浦添 司按司が

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7収父尚 Uは浦添

司切宮旦

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中栄真の

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4 ‑ 18

第 l尚氏・孫姓系図

「尚思紹 鮫川大主‑→

L馬天祝女

尚巴志王 尚忠王 尚思達王

次男 美里之比屋

(屋我崎山ノ元祖)

で長男 高荘平田一一一一

3

男 直修大平田之大比屋一一

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掻平田之子一→

L 次男 中屋比久大屋子‑

敷祝女

尚忠王 尚思達王 尚金福王一一尚泰久王一一尚徳、王

: 祖 ) ー

「て長男高荘平田 休林平田親雲上一一一雲際平田親雲上嗣嵩一一一(以下省略)

:大比屋

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掻 平 田 之 子 斗 (系祖第1世)

L 次男 中屋比久大屋子一一中屋比久大屋子一一一孫自昌親雲上嗣政

母方の御養子入となり、孫姓三大宗の御一人なり。御三男平田大親は孫姓三大京の第一ー の祖先にして南山征伐の折りに敵に目を射られて御二十四才にして世を終わり、その御 子男一人よりの栄へにして門中殊に多し。第四男与那原大親は天孫氏系の与那原大親の 跡を継ぎ給い大里間切古堅村の知念の御元祖なり 。長女は神職を司り佐敷祝女と称す。 この御兄弟のほかに外子として殊に嫡子として手登根大親あり 。この大親は庶子ーなる を以て兄弟とは別個となり、御元祖は佐敷間切手登根村の大屋の御持ちにして、平イIJI

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中の御元祖及淑姓手登根門中の御元祖なり

尚巴志王の御子は男七人女一人あり。妃は中城按司の女子ほか二夫人妻一人あり 第一夫人は美里伊覇按司の女子、第二夫人は南山高嶺按司の女子、妻は読谷山間切座

l床の祝女なり 。而して尚泰久王(越来王子)の御母は伊覇按司の女子なり。長男佐敷 王子は早死せり 。御次男今帰仁王子は北山城主となり給い、後御兄佐敷王子早死せるに より父跡を継ぎ中山王に即位する、尚忠王と称す。御三男具志頭王子は始め具ぷ頭減主 ヰなりしが、御次男今帰仁城主の跡を受けて今帰仁城主となる。御元祖は今帰仁間切職 座(諸志、と云う)の島袋殿内の御持ちなり 。御四男八重瀬按司は、南山八重瀬城主にし て元祖は東風平間切富盛村にあり。御五男城間按司は尚忠王の御子尚思達王の跡を継ぎ 尚金福王と称す。御六男尚布里王子は江洲王子と称し、尚金福王の御子尚志魯ーと子と王 位争いを起し共に破れて死亡。王位継争の時中山首里城に大火災あり、江洲王子御元組 は玉城間切当山村の江洲田元の御持ちなり 。七男越来王子は越来王子たりしが六労江洲 子と五男城間接司金福王の長男尚志魯王子と争いの後を受けて巾山王に即位し、尚泰 久と称す。長女は佐司笠按司加那志と称し神職を司りたり。

尚忠王は勝連按司の姫を妃として御子男一人あり、尚思達王なり。この王の妃は浦添 按司の姫にして妾は孫姓平田子の女子を安りしが御子なし。尚巴志王御五男城間按司が

尚思達王の跡を継ぎ尚金福王と称する。

尚金福王の妃は具志頭按司の姫にして妾は城間阿護母志良礼なり。御子は男二人あり。 長男は尚志魯王子、次男は城間按司なり 。尚志魯王子は尚巴志王の六男、つまり叔父尚 布里王子と王位争いして隠れ給い、御次男城間按司は浦添間切に住居し、御元信

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は浦添 間切城間村名嘉の御持ちなり 。

尚泰久王の妃は中城按司護佐丸の姫なり 。夫人は知念按司の女子、妻は美里間切宮

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村'の宮里子の女にして宮里阿護母志良礼と称す。この宮里阿護母志良礼は御三男尚徳、王 の御母に当る方なり。御子は男七人女二人である。長男は安次富加良波止と称し、御元

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は玉城間切当山村の屋良の御持ちなり、今苗姓固姓の御元祖なり。次男美津波多武存 は玉城間切富里村イ中栄真の御持ちにして今薙姓伊波日取真門中の御元祖なり。長男次男 は中城按司護佐丸公の姫との御子なり。而して護佐丸公事件の時御母と共に隠れ給いよ己 り。御三男は尚徳、王なり。御四男は八幡加那志は御元祖は玉城間切富里村の大イ1

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栄真の 御持ちにしてその子孫に習姓、阿姓及び具志頭間切新城村‑の名嘉及び新垣(玉井

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1 1 '

)、 そのほか子孫多数あり 。御五男江洲王子は具志川間切江洲減主にして御元祖は之[洲祝

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殿内の御持ちなり。御六男尚武江洲王子はfEtj)生の御元祖なり 。御七男は真栄出按司なり 。 長女は踏揚按司と称し、始めは勝連按司阿摩和利に嫁し、後に夏姓鬼大城に嫁すo

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1}し て御元祖は父尚泰久王及び長男安次富加那波志と共に当山村の屋良の御持ちなり。次女

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按司は始め林鳳に嫁し、後に呉姓泊里主に嫁す。 197 

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