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沖縄的自己アイデンティティの成立

﹁ 寸

第 7 節 沖縄的自己アイデンティティの成立

前章では、 「長浜系図

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の成立を契機として明治以降の沖縄社会に祖先の根源的山内を 天孫氏にもとめるような物語祖型rootnarrati veが形成されたことをあき らかにした

そ れは、その後の沖縄社会で作成される出自に関する物語に一定のパターンを提供し、その 母胎となる物語であり、端的に「ムートゥ・ヤ・テンソンシ(本は天孫氏)

J

とでもいう ことができる物語である。

本章では、この出自に関する物語祖型の成立によって、沖縄社会に特殊沖縄的な白己ア イデンテイテイが生み出されるようになる状況を具体的事例をあげながら明らかにしよ う とした。本稿では、自分の自分としての物語(自己物語)を獲得し、その自己物語の世界 を実践し生きることによって自己アイデンテイティは獲得されると規定している。したがっ て、本章で明らかにしようとしたのは、自己の根源的出自を天孫氏に求めるような物詩机 型rootnarrati veが成立したことによって、どのような自己物語が生み出されるようにな り、その物語が自分の物語としていかに生きられるのかを具体例に即して確認しようとし たのである。

まず、

1 8 9 5

年(明治

2 8 )

に、 玉城間切冨里村に本家を持つ知念原門中が那覇に在住の 系図作成家に依頼して作成した祖先由来記を取りあげた。この門中はいわゆる百姓門中で あり、 王府公認の系図は所有していないが、根本の祖先に関する伝承が存在したようであ る。したがって、その根本の祖先までの系譜をいかに仕上げるかが系図作成家に求められ たのである。その依頼は、 「長浜蔵書

J

の権威を利用しつつ、

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鮫川大主由来記jと

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乎ば れている第 l尚氏王統系譜の末端に依頼門中の系譜を接合することによって達成された。 知念原門中は第 1尚氏王統の末喬という自己物語を獲得したのである。そしてさらに、

1 1 l

先祭杷の実践においてはさらに系譜は遡及され、知念原門中の系譜は最終的には天孫氏に まで結びつけられたのである。こうして知念原門中は第

1

尚氏王統を経由して天孫氏の子 孫という自己物語を獲得し、その物語に即して指定されたしかるべき拝所において祖先崇 拝を実践することを通して天孫氏の子孫であるという極めて沖縄的な自己アイデンテイテイ

を獲得したのである。

2

に取りあげたのは、

1919

年(大正

8

)に、玉城村垣花の新垣家が那覇在住の系I

作成家に依頼して作成した祖先由来記である 。この家系も王府時代の百姓階級に属する家 系で、王府公認の系図は持っていないが、 「長浜系図」を利用し、その末端に自己の家系 の系譜を接合することによって天孫氏の子孫としての自己物語を獲得している。そして、

その自己物語にそったしかるべき拝所で祖先祭犯を実践することによって自己物語を生き、

それを通して自己アイデンテイティを獲得することになる。そうして獲得された自己アイ デンテイティは、自己の出自を琉球関関神話の世界に求めることによって得られたアイデ

ンテイティであり、極めて沖縄的な自己アイデンテイティである。

3

に取りあげたのは、太平洋戦争中の

1 9 4 3

年(昭和

1 8 )

に、伊是名島の旧百姓系の

E

銘門中が作成した祖先由来記である。ここでは、慶留間知徳著[琉球祖先宝鑑j、歴代 琉球国王の系譜を記した「王代記j、あるいは第

2

尚氏王統の系統に属するとされている 伊是名の名門銘苅御殿の系図などを組み合わせて利用し、その末端に自己の門中系譜を接

合することによって、天孫氏へと系譜を遡及している

。第 2尚氏王統の系譜を媒介として

天孫氏の子孫という自己物語を獲得したのである

そしてここでもこの自己物誌に即した 持所での祖先祭杷が示唆されているが、指定されている拝所は、伊是名の内部であれば銘 苅御殿関連拝所であり、島外であれば首里那覇の拝所が中心である

。つねに文化的'1'心へ

と向かうように演出されているのである。それらの拝所で祖先祭杷を実践氏、自己物訪の 世界を生きることによって西銘門巾は天孫氏の子孫としての自己アイデンテイテイを獲得 するのである。

4

に取りあげたのは、沖縄の本土復帰後

1 0

年目にあたる

1 9 8 2

年(昭和

5 7 )

に、読谷 村字喜名の東松田比嘉家が作成した祖先由来記である。この東松田比嘉家も旧百姓の流れ を汲む家系であるが、同家にはすでに

19 2 3

(大正

1 2 )

に作成した祖先由来記が存在して いた。この祖先由来記や同家に伝わる祖先に関する伝承を基礎として祖先の系譜が遡及さ れているが、ここでは「長浜系図」ゃ「鮫川大主系図(第

l

尚氏王統系図)

J

を按令し、

その末端に同家の系譜を繋ぎ止めることによって、天孫氏の子孫としての自己物語を獲得 している。

I

恩の元祖」ゃ「筋(シジ)の元祖」といった用語を用いて系譜を整理してい るが、このような用語はユタ的職能者が使用するものである。この自己物語に即して机先 祭杷を行うべき拝所が列記されているが、沖縄本島内の主要な拝所を網羅するというほど 多くの拝所が取りあげられている。いまやそれほど多くの主要な拝所がたんなる記念僻的 別地ではなく、自分が祖先祭杷を実践すべき場所となったのである。また、ここで注目し なければならないのは、神話上の登場人物であったはずの天孫氏が民族という認識で取り 扱われている点である。明治期の新聞紙上で「天孫人種」という用語が使用されているこ とは前章で確認したが、天孫氏は民族であるという認識が現代の沖縄社会においても再1

産され続けているのである。

以上のように、まずは、いずれも旧百姓階級に属して王府公認の系図を所有しない

4

つ 家系が、明治時代から現代まで、それぞれ年代をことにして作成した祖先由来記を取りあ げた

。いずれの家系も「長浜系図」その他の既成の系譜を利用し、あるいはそれを変形し

て、その末端に自家の系譜を接合することによって、その系譜を天孫氏へと遡及させてい る。そうして天孫氏の末育であるという自己物語を獲得しているのである。これらの物語 は、明治期以降に沖縄社会に形成された出自に関する物語祖型rootnarrati veを閉めとし ていることカぎわかる。

つぎに、この物語祖型が旧百姓階級だけでなく旧士族階層にまで浸透していき、王府公 認で作成された系図が近年になって修正され変更されていく状況を確認した。取りあげた のは、旧首里士族の孫姓門中と易姓門中である。孫姓門中の場合は、 「長浜系図」や「鮫 川大主系図(第

l

尚氏王統系図)

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を組み合わせて、その末端に始祖の系譜を接合するこ

とによって、そして易姓門中の場合は、 「長浜系図

J

と同時に

f

琉球祖先宝鑑jや [高家 姓集j を併用して、その末端に始祖の系譜を繋ぎ止めることによって、系譜を過去へと延 長し、天孫氏の子孫、としての自己物語を獲得している。

こうして「ムートゥ・ヤ・テンソンシ(本は天孫氏)

J

という出自に関する物語担型が 沖縄社会全体を覆っていることが明らかになるとともに、それに基づいた沖縄的自己アイ デンテイテイが明治以来今日に至るまで一貫して生産され続けていることも確認した。

204 

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)常見純一 「国頭村安波における門中制度の変遷

J

東京都立大学南西諸島研究委員会

f

沖縄の社会と 宗教j、平凡社、 1965

( 2 ) 

r

宜野座村史

J

(第

3

巻資料編

3

民俗・自然・考古)、宜野座村役場、 1989年。

( 3 )那覇市市史編集室所収の複写版を使用

)比嘉春潮

f

新稿沖縄の歴史j、三一書房、 1973年。

( 5) 

r

をなり神の島

J r

伊波普猶全集j第5巻、平凡社、 1974年 ( 6 )窪徳忠

I

道教の神々j平河出版社、 1986年。

( 7 )窪徳忠、

I

中国文化と南島

J

(南島文化叢書 1)、第 l: 1981

( 8 ) 読 谷 村 史 編 集 室 所 収 の 複 写 版 を 使 用

r

読谷山の由来記

J

(読谷村関係資料)、読谷村役場、

1990年も参照

( 9 )正統年間は1436‑‑‑1449年、成化年間は1465‑‑‑1487年、そして天啓年間は1621‑‑‑1627年にそれ ぞれあたる

(10)那覇市市史編集室所収の複写版を使用

(11 )尚円王の時代から約300年を経た18世紀中期のこの時期に王府が伊是名島の銘苅家を士族に組み 入れたのは、当時国家事業として行われていた一連の王族ゆかりの地の整備事業の一環であり、極めて政治 的な判断が働いていたしたがって、銘苅家は第2尚氏王朝の祖尚円王と同じ祖先の系列に属することが王 府自身から認められた家系ではあるが、それをもってそれが史実であるかどうかを判断することはできない

(12) 

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伊平屋島霊御殿之由来jの一部を紹介する 伊平屋島霊御殿

尚円王之御父尚稜王様

尚稜王ヲ始メ奉リ其ノ御以前ノ御先祖様方ノ御遺骨ヲ御安置遊バサレ候右外ニモ霊御殿へ相拘1)候得共其 ノ島ニ書留相札シ又ハ老体ノ方々ノ伝ヘ等開キ繕ヒ書キ出シ候様ニト去ル申年書キ出シ仰セ渡セラレ候得共 今一往委敷相札シ少シク事出デタレ共右へ相拘候儀ハ残ス可カラズ書キ出ダサレ候モ勿論此ノ間差シH¥シ候 外ニ之レ無ク其段モ申出デラル可ク此段申越候以上

戊 年三月十五日 安室親雲上

伊平屋島下知役

伊平屋島霊御殿

尚稜王ヲ始メ奉リ其ノ以前ノ御遺骨ヲ御安置遊バサレ候モ猶又委敷ク相札シ首尾申上候様仰セ渡セラレ候 ニ付御礼方仕リ候ヘパ去ル申年首尾申上候通リ霊御殿ヘ安置遊バサレ候由之レ有リ候処悩カナル害情御座無 ク候ニ付キ阿武加那志御親類前夫地頭東江親雲上及伊礼大屋子ヲ召シ寄セ御厨子ノ居様並ニ阿武加万15志、ヨリ 御用成サレ候御厨子ヲ間キ合セ候得共絵図面通リ御安置ノ由申出候ニ付左ニ記シ申上候

霊御殿ノ絵図面左ノ通リ (絵図は省略)

尚円様御屋敷ノ由ニ伝へ有之候処ノ御屋敷ノ内東表ニ御勝所御獄ト唱へ四方諸木植付致シ盛生シ御尾敷ノ 根所ニ相成リ御火之神御崇ニシテ神朝食等居リ毎年三月ト八月ニ例年ノ御願並ニ島中ノ人々ヨリ御願所ニ相 成リ居リ候

上当島旧記ト云フ書キ唱伝書ニモ相見ヘ候ニ付キ書抜ヲ以テ左ニ申上候 薙正四年丙午相潟申候

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