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結婚儀礼の変遷

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結婚儀礼の変遷

著者 四日 ひかり

雑誌名 金沢大学文化人類学研究室調査実習報告書

巻 33

ページ 95‑104

発行年 2018‑03‑31

URL http://doi.org/10.24517/00050440

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.結婚儀礼の変遷

四日 ひかり

1. はじめに 2.婚礼儀礼の概要 3.結婚式の年代別事例

4.考察

5.おわりに

1.はじめに

今回は門前町の七浦地区を調査対象地区とし、2017年8月17日から8月23日の1 週間に渡って、住民の方々にお話を聞きながら調査を進めた。お話してくださったどの 方も優しく、丁寧に対応してくださり七浦地区の方々の温かさに触れることができた1 週間であった。聞きとりを進めていくにあたって、七浦地区の結婚式に興味を持ち、後 半では、テーマを「結婚式」に絞って聞きとりを進めた。

「結婚式」をテーマとした理由は現代の結婚式とは一風変わった儀式を行っていた珍 しさに惹かれたのと、お話をうかがった方1人1人の結婚式の内容にも違いがあって、

もっと追求して調べてみたいと思ったからである。住民の方にお話を聞くにあたり、ど の方も懐かしそうに、時には照れながら自身の結婚当時を振り返っている姿が印象的で あった。加えて、当時の写真も見せてくださる方もおられて、現代とまったく違う結婚 の様相に驚き、歴史を感じた。

本章では、はじめに『七浦民俗誌』(1996)と『新修門前町史 資料編6民俗』(2005) に基づいて婚礼儀礼の一連の流れを説明した後、個々の儀礼の内容について述べていく。

第3節では聞きとりで明らかになった6つの婚姻事例を取り上げ紹介する。最後に、第 4節では概要と婚姻事例を照らし合わせながら、七浦地区での結婚の変化を時代背景と 社会状況を踏まえながら、その要因について考察し、まとめとする。

2.婚礼儀礼の概要1

はじめに、婚姻の一連の流れを説明する。『七浦民俗誌』(1996: 182-186)によると、

昔は結婚を決めるのはほとんどが親で、相手はお互いに既知の関係にある家、とりわけ 親戚の家から選ばれることが多かった。少数ながらも恋愛結婚の事例もあったそうだが、

恋愛は「行儀が悪い」と言われ、恋愛結婚はなかなか成立しにくかったのだ。そのため、

親が結婚を決めてきて、本人の意思とは関係なく結婚、という話も聞かれた。まず、夫 側が仲人を立て、嫁側の両親に話を持ちかける。仲人には主に夫側のオジにあたる人が

1 この節では『新修門前町史 資料編6民俗』(2005: 248-265)と『七浦民俗誌』(1996: 182- 194)をもとにして、伝統的な七浦地区における婚礼儀礼について記述していく。

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合でも五十洲のように、神社に集まって神事だけ行うという形がとられることも考えら れる。今後という点では、もしユネスコの無形文化遺産に登録された場合、多くの人に 認知されるようになるが、それによってアマメハギのあり方や意義も変化していくかも しれない。いずれにせよ、どのようなかたちになったとしても、七浦地区でアマメハギ が今後どうなっていくのか、非常に興味深い。

7.おわりに

私が七浦地区の住人を何人か訪問して、アマメハギについて聞いてまわっている時、

多くの人、特に皆月の人は自分が体験したアマメハギについてかなり詳しく話してくれ た。それだけアマメハギは七浦地区の人にとってゆかりのある伝統であり、多くの人の 記憶に残っているのだろう。私自身も話を聞いているうちに、七浦地区の人たちがなん とか続けてきたアマメハギは非常に価値のあるものだと感じるようになったし、今後も アマメハギの文化が受け継がれていってほしいと思った。最後になるが、今回の調査の 中で急な訪問にもかかわらず多くの話を聞かせてくださった七浦地区の住民の皆さん に感謝の念を伝え、アマメハギについての報告を終えたいと思う。

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頼まれる場合が多かった。結納は「酒おさめ」と言い、酒2升、スルメ、昆布などを納 めた。また、現金の場合もあった。もっとも、酒は2升以外にも、1升、5升といった 家もあり、必ずしも一定していない。

午前中に夫側から嫁迎えの一行が出発し、嫁の家で軽い昼食をとったあと、嫁入り行 列を組んで婚家に向かう。これを「チカムカエ」といった。この途中で「ナワハリ」(後 述)が行われる。ナワハリを通過し、花嫁の一行が婚家に到着すると、家の中に入るに あたっての儀式が行われる。この儀式の内容は家ごとに様々であり、「アシアライ」や

「合わせ水」といった儀式などがある。

その後、家に入る。自宅に入ってからはご先祖様に挨拶ということで、新婦は神棚と 仏壇にお参りをする。親子盃の後に宴会が始まる。式の席順は上座の新婦を中心に婿側 と嫁側に分かれ、新婦に近いところから「濃い親戚」「薄い親戚」と並んで座った。両 親は嫁側、夫側ともに出席せず、また、新郎は出稼ぎや漁に出て家にいない場合も多く、

式に出席しなかった。昭和40年代にもなると、夫婦そろって結婚式を行った(『新修門 前町史 資料編6民俗』2005: 260)。

宴会の途中には「ツト投げ」(後述)が行われ、式に出席しなかった近隣の人や、子 供たちに料理を分けてあげることで、間接的に宴会に加わってもらった。

結婚式のあとは、近所の人たちへの挨拶まわりなどが行われた。

以上が婚姻の一連の流れである。ここから、結婚儀礼を通して行われる儀式・用語に ついて詳しく説明していく。

2.1 仲人

結婚の縁談の仲介は「ナコウド」「ナカド」「ナカモチ」などとよばれた親戚のオジや 叔母が務めることが多かった(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 250)。

2.2 ナワハリ

仲人を先頭に婚家に向かう嫁入りの際に、村の入口や婚家の近くで嫁入り一行の通過 を待って、縄を張って通過を遮断すること。特に、子供、女性、若い衆が多く縄を張っ た。仲人が縄きり銭といわれる祝儀袋やお酒を渡すと縄を解いて通してもらえた。祝儀 袋に入れる金額は実際決まっていないが、ナワを張る人に5円を渡すのはご縁がありま すように、との意味もあったそうだ。縄を張る人が多いほど縁起が良いと言われた。こ のナワハリは単に行列の進行を妨害するものではなく、歓迎の意味もこめられていたそ うだ。ナワハリは昭和30年代まで盛んに行われてきたが、生活改善運動により次第に 行われなくなったという(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 253)。聞きとりの結 果、昭和40年代にはナワハリを行っている場合と行っていない場合があり、40年代頃 からのナワハリの有無は家庭ごとの様式の違いであると考える。しかし、現在でも地元 で結婚式が行われる場合、時々行われる場合もあるそうだ。

2.3 合せ水

嫁入りの一行が婚家に近づくと、婿側から「チカムカエ」が途中まで出迎える。嫁が

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婚家に到着し敷居をまたぎ、玄関の土間で「水盃」「合わせ水」と称して、盃や茶碗に 水を入れ、それを飲んだ後割った。「合わせ水」とは、嫁の実家の水と婚家の水を合わ せて盃に注ぎ、水を飲んだ後、盃を玄関で割るというものである。割れないと割れるま でした。盃が割れることで元の型に戻らないことを示した(『新修門前町史 資料編 6 民俗』2005: 254)。

2.4 アシアライ

婚家の親が嫁の足をたらいで洗ってくれたり、嫁が婚家に着いたときに、玄関でたら いに水を張り、足を洗う仕草をする(『七浦民俗誌』1996: 184)。

2.5 仏壇参り

婚家に入った後、嫁は仏壇と神棚に参った後、納戸で休み、出席者は「おちつきの 膳2」や昆布茶を食し、式の準備が整うのを待った(『新修門前町史 資料編6民俗』

2005: 254)。 2.6 親子盃

婚家の姑夫婦と嫁とで親子盃が交わされた。舅、姑、嫁の順番で盃を交わし、その後 祖父母、兄弟、一家の者と盃を回して飲んだ(『新修門前町史 資料編 6 民俗』2005:

255)。現在の結婚式では夫婦盃3を交わすのが一般的であるが、昔の式には婿は出席し なかったため、義父母と新婦の間で盃が交わされたのである。

2.7 ツト投げ

「ツトホリ」「ツトイレ」とも言う。式に出ない近所の子供や主婦が訪れ、藁包を座 敷に放り投げ、嫁にその藁包の中に食べていない自分の御膳の料理をいれてもらい持ち 帰るというもの。ナワハリ同様、なつかしさを感じる人が多い儀式である。ツトはふつ う5~6本あったが、ツトの本数が多いほど賑やかであった。嫁の料理がなくなると、

次は仲人、それもなくなるとおじおばの料理を入れた。ツト投げをすることで、地域の 人も積極的に結婚式に参加したのである(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 257)。 2.8 挨拶まいり

結婚式が終わったあと、嫁と嫁の母親、姑の三人で近所や親戚に挨拶まいりをした。

主に、婚礼3日後に嫁の実家で用意した饅頭や赤飯、餅などを婚家の近所や親戚へ手土 産として持参することも多かった。挨拶まいりによって嫁は家族のみならず、地域の一 員ともなったのである(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 260)。

2.9 嫁入り道具

嫁入りの際に嫁が準備して実家から婚家へもっていくもの。嫁入り前に納めることが 多いが、中には婚礼後に納める場合もあった。タンスや家電などを嫁入り道具として持

2 おちつきぞうに【落ち着き雑煮・落着き雑煮】と類似の食事だと考えられる。『大辞林』によ れば、「婚礼の日に、嫁が婿方に着いてまず食べる雑煮。普通は円餅を入れたすまし汁。落ち着 きの吸い物。落ち着きの餅」(コトバンク『大辞林)第三版)

3 三三九度とも言われる。三三九度は夫婦の仲を固める意味があると、後述のRさん(皆月、男 性、70歳代後半)から聞いた。

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頼まれる場合が多かった。結納は「酒おさめ」と言い、酒2升、スルメ、昆布などを納 めた。また、現金の場合もあった。もっとも、酒は2升以外にも、1升、5升といった 家もあり、必ずしも一定していない。

午前中に夫側から嫁迎えの一行が出発し、嫁の家で軽い昼食をとったあと、嫁入り行 列を組んで婚家に向かう。これを「チカムカエ」といった。この途中で「ナワハリ」(後 述)が行われる。ナワハリを通過し、花嫁の一行が婚家に到着すると、家の中に入るに あたっての儀式が行われる。この儀式の内容は家ごとに様々であり、「アシアライ」や

「合わせ水」といった儀式などがある。

その後、家に入る。自宅に入ってからはご先祖様に挨拶ということで、新婦は神棚と 仏壇にお参りをする。親子盃の後に宴会が始まる。式の席順は上座の新婦を中心に婿側 と嫁側に分かれ、新婦に近いところから「濃い親戚」「薄い親戚」と並んで座った。両 親は嫁側、夫側ともに出席せず、また、新郎は出稼ぎや漁に出て家にいない場合も多く、

式に出席しなかった。昭和40年代にもなると、夫婦そろって結婚式を行った(『新修門 前町史 資料編6民俗』2005: 260)。

宴会の途中には「ツト投げ」(後述)が行われ、式に出席しなかった近隣の人や、子 供たちに料理を分けてあげることで、間接的に宴会に加わってもらった。

結婚式のあとは、近所の人たちへの挨拶まわりなどが行われた。

以上が婚姻の一連の流れである。ここから、結婚儀礼を通して行われる儀式・用語に ついて詳しく説明していく。

2.1 仲人

結婚の縁談の仲介は「ナコウド」「ナカド」「ナカモチ」などとよばれた親戚のオジや 叔母が務めることが多かった(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 250)。

2.2 ナワハリ

仲人を先頭に婚家に向かう嫁入りの際に、村の入口や婚家の近くで嫁入り一行の通過 を待って、縄を張って通過を遮断すること。特に、子供、女性、若い衆が多く縄を張っ た。仲人が縄きり銭といわれる祝儀袋やお酒を渡すと縄を解いて通してもらえた。祝儀 袋に入れる金額は実際決まっていないが、ナワを張る人に5円を渡すのはご縁がありま すように、との意味もあったそうだ。縄を張る人が多いほど縁起が良いと言われた。こ のナワハリは単に行列の進行を妨害するものではなく、歓迎の意味もこめられていたそ うだ。ナワハリは昭和30年代まで盛んに行われてきたが、生活改善運動により次第に 行われなくなったという(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 253)。聞きとりの結 果、昭和40年代にはナワハリを行っている場合と行っていない場合があり、40年代頃 からのナワハリの有無は家庭ごとの様式の違いであると考える。しかし、現在でも地元 で結婚式が行われる場合、時々行われる場合もあるそうだ。

2.3 合せ水

嫁入りの一行が婚家に近づくと、婿側から「チカムカエ」が途中まで出迎える。嫁が

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っていくことが多かった(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 253)。

3.結婚式の年代別事例

本節では、5人の方々への聞きとりにもとづき、時代ごとの結婚式の様子を記述する。

3.1 Aさん(皆月、女性、90歳代)

昭和20(1945)年戦争が終戦を迎え、昭和21(1946)年Aさんが20歳のときに皆 月にお嫁に来た。当時は結婚することに対しAさん本人は不本意に思っていたが、Aさ んの親と相手方の家の親の話し合いで日程や段取りも進められ、仕方なく結婚したそう だ。お相手は5つ上の船乗りの方で、式当日も航海に行っており、新郎不在のまま式を 挙げた。婚家に来る際は仲人と A さんのオジと共にわらじを履いて歩いてきた。ナワ ハリはあって、当日は雪が降っていて寒かったこともあり、Aさんがナワハリに遭遇す る前にみんな家の中に入ってしまっていた。婚家の玄関についたとき、先ほど縄を張っ てくれた人たちにお金の入った袋を渡したそうだ。玄関で盃を割ったが、アシアライは なかったそうだ。その後仏壇にお参りをした(神棚には参らなかった)。仏壇に参った 後、旦那さんのお父さんと「サンサンクド」をした。その後AさんとAさん方の親戚 と旦那さん方の親戚で御膳を食べた。御膳の料理は親戚が作った。ツト投げはあり、お 嫁さんの御膳の料理を入れて渡した。披露宴やハネムーンはなかった。新婦は式の後は 実家に戻り、Aさんの母親は赤飯を炊いてお重に入れて親戚に配り歩いた後、婚家に持 ってきた。結納はお酒を持ってきた。嫁入り道具はタンス2つのみ。着物は母が作って くれたもので、昔は普段着も着物であったため、普段着からおしゃれ着用、葬式用、結 婚式用、など様々な種類の着物をタンスに入れて持ってきた。旦那さんは式の後しばら くして航海から帰ってきたが、またすぐに海に出て2年帰ってこなかった。その後も2 年ごとに海に出る生活を送っており、40 年の結婚生活のうち、子供もお父さんとあま り会えなかった。

3.2 A2さん(皆月、男性、80歳代)

昭和29(1954)年2月、A2さんは中谷内に住んでいた奥さんと結婚した。親の関係 で話が進み、お見合い結婚をすることになったそうだ。結婚式は新婦のみの参加で A2

さんは参加しなかった。仲人、A2さんの母の男兄弟、A2さんの父の女兄弟が新婦を迎 えに行った。新婦は実家から、A2さん家まで歩いていき、途中にナワハリに遭遇した。

大人が縄を張っていたら酒一升を、子供が縄を張っていたらお金を渡したら通してくれ た。新婦がA2さん家に着いたら玄関でA2さんの家の水と新婦の実家の水を合わせて盃 で飲み、その盃を割るアワセミズとアシアライが行われ、その後家の中に入って仏壇に お参りをした(神棚には参らなかった)。それが終わると親族らが集まり御膳をみんな で食べた。嫁入りの儀式が終わると、その晩にお嫁さんは実家に戻り、1週間ほどその まま実家に残った。その後、お嫁さんの親が嫁を連れて婚家に向かった。

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99 3.3 Rさん(皆月、男性、70歳代後半)

Rさんの生まれは七浦ではなく、東京である。Rさんの父親が七浦出身の方で母親は 北海道出身の方であった。もともと、七浦で教師をする前は船員として神戸で半年働い ていた経歴を持つ。その会社を辞めた後、色々あって仕事をちょうど探していた時に母 親から電話がかかってきて、皆月で教師をしないかいう話を持ち掛けられ、それがきっ かけで昭和38(1963)年4月から能登町や穴水町、輪島、七浦地区などで平成13(2000) 年まで教師を続けられた。

そんなRさんと奥さんの出会いはRさんが穴水で教師をしていたときの上司の紹介 だったそうだ。この頃は先輩教師が若い女性の先生を紹介してくれる時代だった。この 年代の頃はすでに恋愛結婚が盛んになってきている頃だと推測できる。その後2年交際 し、昭和43(1968)年3月Rさん28歳、奥さん25歳のとき結婚した。そして、奥さ んがRさんの家に嫁入りした。ナワハリはなかったそうだ。まず、玄関でお酒を盃に入 れてお嫁さんが飲み、飲んだ後割った。その後家に入り、神棚に参った後、仏壇に参っ た。お参りの後に、座敷に入り、男性の仲人、新郎、新婦、仲人の妻という順に前に座 り、コの字になる形でそれぞれの親戚が並んで座った。固めの盃「サンサンクド」を行 ったが、これはRさん家の裏の家の子供が盃に3回お酒をついで新郎が飲み、次にま た子供がお酒を三回ついで新婦が飲むというものであった。これは夫婦盃といって夫婦 の仲を固めるという意味があるそうだ。その後、親子盃が行われ、仲人が挨拶をした。

それらが一通り終わると参列者みんなで御膳を食べ、お酒を飲んだ。この御膳は皆月の 近所の人々が来て作るのを手伝ってくれたそうだ。皆月1~10組の各組から1~2人お 手伝いしに来てくれた。御膳の内容はにしめや昆布巻き、焼き魚、酢の物などの田舎料 理だった。お酒は日本酒だった。宴会の途中には「ツト投げ」が行われた。式の後は春 田旅館にて披露宴を開き、友人らを招いて楽しんだ。

嫁入り道具はタンスや着物で、それを近所の人にお披露目した。Rさんの奥さんの場 合、タンスの中身がより華やかに見えるよう、親戚の着物を借りたりしたそうだ。嫁入 り道具は嫁のステータスを表すものだったようだ。

3.4 Kさん(皆月、女性、70歳代半ば)

Kさんは昭和43(1968)年に25歳のとき皆月で式を挙げた。当時は家同士で結婚を 決め、Kさんはそれに従って現在の旦那さんと結婚した。仲人は皆月に住むSさんに頼 んだ。SさんはKさんと親戚関係にあり、加えて、旦那さんの母親と仲人の祖母が友人 関係だったこともあり、仲人をお願いしたそうだ。結婚が決まり、結納は酒一升を用意 した。

式当日、新郎は家で待機しており、新郎側の親戚3~4人が新婦の家に迎えに来た。

その後新婦は実家を出発し、ナワハリに遭遇した。縄は三本ほど張ってあり、大人にも 子供にも5円玉が入った小さい袋を親戚が渡すと、そこを通してもらえた。ちなみに、

聞きとりの際、同席してくださったNさん(皆月3組、女性、70歳代)が昭和46(1971) 98

っていくことが多かった(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 253)。

3.結婚式の年代別事例

本節では、5人の方々への聞きとりにもとづき、時代ごとの結婚式の様子を記述する。

3.1 Aさん(皆月、女性、90歳代)

昭和20(1945)年戦争が終戦を迎え、昭和21(1946)年Aさんが20歳のときに皆 月にお嫁に来た。当時は結婚することに対しAさん本人は不本意に思っていたが、Aさ んの親と相手方の家の親の話し合いで日程や段取りも進められ、仕方なく結婚したそう だ。お相手は5つ上の船乗りの方で、式当日も航海に行っており、新郎不在のまま式を 挙げた。婚家に来る際は仲人と A さんのオジと共にわらじを履いて歩いてきた。ナワ ハリはあって、当日は雪が降っていて寒かったこともあり、Aさんがナワハリに遭遇す る前にみんな家の中に入ってしまっていた。婚家の玄関についたとき、先ほど縄を張っ てくれた人たちにお金の入った袋を渡したそうだ。玄関で盃を割ったが、アシアライは なかったそうだ。その後仏壇にお参りをした(神棚には参らなかった)。仏壇に参った 後、旦那さんのお父さんと「サンサンクド」をした。その後AさんとAさん方の親戚 と旦那さん方の親戚で御膳を食べた。御膳の料理は親戚が作った。ツト投げはあり、お 嫁さんの御膳の料理を入れて渡した。披露宴やハネムーンはなかった。新婦は式の後は 実家に戻り、Aさんの母親は赤飯を炊いてお重に入れて親戚に配り歩いた後、婚家に持 ってきた。結納はお酒を持ってきた。嫁入り道具はタンス2つのみ。着物は母が作って くれたもので、昔は普段着も着物であったため、普段着からおしゃれ着用、葬式用、結 婚式用、など様々な種類の着物をタンスに入れて持ってきた。旦那さんは式の後しばら くして航海から帰ってきたが、またすぐに海に出て2年帰ってこなかった。その後も2 年ごとに海に出る生活を送っており、40 年の結婚生活のうち、子供もお父さんとあま り会えなかった。

3.2 A2さん(皆月、男性、80歳代)

昭和29(1954)年2月、A2さんは中谷内に住んでいた奥さんと結婚した。親の関係 で話が進み、お見合い結婚をすることになったそうだ。結婚式は新婦のみの参加で A2

さんは参加しなかった。仲人、A2さんの母の男兄弟、A2さんの父の女兄弟が新婦を迎 えに行った。新婦は実家から、A2さん家まで歩いていき、途中にナワハリに遭遇した。

大人が縄を張っていたら酒一升を、子供が縄を張っていたらお金を渡したら通してくれ た。新婦がA2さん家に着いたら玄関でA2さんの家の水と新婦の実家の水を合わせて盃 で飲み、その盃を割るアワセミズとアシアライが行われ、その後家の中に入って仏壇に お参りをした(神棚には参らなかった)。それが終わると親族らが集まり御膳をみんな で食べた。嫁入りの儀式が終わると、その晩にお嫁さんは実家に戻り、1週間ほどその まま実家に残った。その後、お嫁さんの親が嫁を連れて婚家に向かった。

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年に結婚式を挙げた際、ナワハリはなかったそうだ。嫁入りする家に着くと、タカサゴ ヤという婚礼の歌が流れた。アワセミズやアシアライはなかった。そのまま玄関に入り、

「オチツキノモチ」を行った。いったんお茶をのんで一休みした後、仏壇に参り(神棚 には参らなかった)、上座にて新郎新婦は着席した。御膳は皆月の川島旅館から出前を とった。料理は本然にタイのおざし(焼き魚)ところてんのスイゼン、お刺身、煮物、

酢の物、漬物、赤飯であった。赤飯はごしょびつに入れて親戚が持ってきた。その赤飯 はおにぎりにして参列者に配った。二の膳にはかごもりといたナイロンのかごに果物を 何種類か乗せて本膳の横に並べた。ツト投げも行われた。

式の後は新郎新婦がタクシーに乗って、新婚旅行に出かけた。タクシーはかんかんガ ラガラを引っ張って皆月中を走った。皆月を出ると、カンカンははずして、そのまま粟 津温泉へ新婚旅行に行った。嫁入り道具は着物を入れたタンス、洋服タンス、洋服をか ける竿、鏡台、ミシン、ホウキ、チリトリだった。新婚旅行に行っている間、近所の人々 が嫁入り道具を見に来たそうだ。

3.5 Mさん(皆月6組、男性、60歳代)

Mさんは昭和50(1975)年、24歳の時結婚した。奥さんは大阪で同じ会社で働いて いた方で、2 年ほど付き合って結婚した。奥さんが皆月のMさんの実家に嫁入りした が、現在は奥さんと息子さん夫婦は大阪で暮らしているそうだ。Mさんは月に1~2回 大阪へ行っている。

式当日は、家族、親戚、大阪から会社の上司、同僚が3人来られ、総勢60人ほどの 人が参列した。まず、盃を玄関で割り、仏壇へ参った(神棚には参らなかった)。その 後川島旅館へ移動し、親族30人ほどを集めて披露宴を行った。ここでは余興としてカ ラオケなどが行われた。その後、再び婚家へ移動し、会社の上司や同僚を集めた2回目 の披露宴が行われた。このときは皆月の川島旅館から出前をとった。御膳にはアワビや タイの焼き物、ところてん、茶わん蒸しなどがあった。2の膳はなく、本膳に収まりき らない料理は本膳の前(畳の上)に置いた。仲人は大阪のMさんの1番上の姉夫婦が してくれたそうだ。結納は目録とお酒2升で、目録のモノは給与の2~3か月分に相当 するモノを贈った。

新婚旅行は式の後数週間たってから、沖縄へ行った。行きはフェリー、帰りは飛行機 で帰ってきた。カンカンは特になかった。

嫁入り道具はタンス5脚、洗濯機、掃除機などの家電一式、着物だった。

Mさんの弟さんはMさんの10年後に式を大阪で挙げたが、このときカンカンはあ ったそうだ。

4.考察

ここまで、第3節では時代ごとの結婚の事例、その意味を紹介してきた。この節では 昭和 20年代から50 年代までの婚姻の個別事例を比較し、婚姻の在り方の変遷を七浦

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地区の社会背景や人々の考え方の変化を踏まえて考察していく。

まず、それぞれの結婚式のおおまかな流れは共通している点に注目する。5つの事例 はすべて夫の家に嫁入りしており、嫁は実家から婚家までくる途中にナワハリと遭遇し、

婚家に着いてからほとんどの場合盃を割る儀式を行い、嫁ぎ先のご先祖様に挨拶をする ため神棚や仏壇にお参りしている。お話をうかがった中では、ほとんどは仏壇のみにお 参りしたという場合が多かった。神棚と仏壇両方に参拝する場合もあれば、仏壇のみに 参拝する場合もあり、これは家庭ごとの違いであると考える。また、盃の中身がお酒か 水かといった違いも時代ごとの違いというより、家庭ごとの違いだと考える。したがっ て、この時代まで七浦地区のおおまかな婚姻の流れは風習としてしっかり残っていたと 言える。

ここで、個別の儀式の意味について深く考えていく。まず、嫁入り行列の途中に行わ れる「ナワハリ」に注目したい。「ナワハリ」は嫁がそれまで属していた社会集団から 離脱し、夫の属する社会集団に移動してきたことを表したものと考えることができる。

嫁の側にとっては、その縄を越えることで夫の属する集団へ新たに加入することを意味 し、縄を張る側にとっては、縄の中へ嫁を迎え入れることによって集団への嫁の加入を 歓迎するということを表しているといえるだろう。

同様に、このことは嫁の入家儀式においても見ることができる。足を洗うこと(ある いは洗う真似)や婚家の家の水4を飲むことは、共に婚家への加入を表していると言え る。それに対して、Cさんの話でもあったが、盃を玄関で叩き割るという行為は生まれ た家との離別を表したものと考えられる。

『七浦民俗誌』(1996: 191)には「結婚は家の問題に留まらず、嫁を迎え入れる近隣

=地縁集団にとっても重要な出来事であった」とある。以上より、七浦地区での婚姻の 儀式は家同士のつなぐ役割を持っているだけではなく、嫁と地域とをつなぐ役割も儀式 の中に包括していたと考えられる。

次に、結婚相手の選択方式の変化について考えてみる。現在では恋愛結婚が当たり前 の時代であるが、かつての結婚は当事者同士の関係よりも家と家との関係重視で決めら れていたことがAさんとA2さんの事例からも明らかとなっている。しかし、Rさん、

Kさんは両者とも同じ昭和43(1968)年に結婚されているが、片方は恋愛結婚で、も う片方はお見合い結婚であった。ここから、昭和40年代頃からはお見合い結婚と恋愛 結婚の双方が存在していたと推測できる。Mさんが結婚された昭和50(1975)年は恋 愛結婚であったことから、昭和40~50年代以降において結婚相手を決めるにあたって、

当事者の意思も反映されるようになったと考えられる。今では結婚式は新郎新婦が主役 であることは当たり前であるが、昔は結婚式は夫婦の結合を象徴するものというより、

2つの家の結合を象徴する儀式であったと言える。これは写真1と写真2の新郎新婦の

4 新婦の実家と婚家の水を合せて飲むことも多い。

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年に結婚式を挙げた際、ナワハリはなかったそうだ。嫁入りする家に着くと、タカサゴ ヤという婚礼の歌が流れた。アワセミズやアシアライはなかった。そのまま玄関に入り、

「オチツキノモチ」を行った。いったんお茶をのんで一休みした後、仏壇に参り(神棚 には参らなかった)、上座にて新郎新婦は着席した。御膳は皆月の川島旅館から出前を とった。料理は本然にタイのおざし(焼き魚)ところてんのスイゼン、お刺身、煮物、

酢の物、漬物、赤飯であった。赤飯はごしょびつに入れて親戚が持ってきた。その赤飯 はおにぎりにして参列者に配った。二の膳にはかごもりといたナイロンのかごに果物を 何種類か乗せて本膳の横に並べた。ツト投げも行われた。

式の後は新郎新婦がタクシーに乗って、新婚旅行に出かけた。タクシーはかんかんガ ラガラを引っ張って皆月中を走った。皆月を出ると、カンカンははずして、そのまま粟 津温泉へ新婚旅行に行った。嫁入り道具は着物を入れたタンス、洋服タンス、洋服をか ける竿、鏡台、ミシン、ホウキ、チリトリだった。新婚旅行に行っている間、近所の人々 が嫁入り道具を見に来たそうだ。

3.5 Mさん(皆月6組、男性、60歳代)

Mさんは昭和50(1975)年、24歳の時結婚した。奥さんは大阪で同じ会社で働いて いた方で、2 年ほど付き合って結婚した。奥さんが皆月のMさんの実家に嫁入りした が、現在は奥さんと息子さん夫婦は大阪で暮らしているそうだ。Mさんは月に1~2回 大阪へ行っている。

式当日は、家族、親戚、大阪から会社の上司、同僚が3人来られ、総勢60人ほどの 人が参列した。まず、盃を玄関で割り、仏壇へ参った(神棚には参らなかった)。その 後川島旅館へ移動し、親族30人ほどを集めて披露宴を行った。ここでは余興としてカ ラオケなどが行われた。その後、再び婚家へ移動し、会社の上司や同僚を集めた2回目 の披露宴が行われた。このときは皆月の川島旅館から出前をとった。御膳にはアワビや タイの焼き物、ところてん、茶わん蒸しなどがあった。2の膳はなく、本膳に収まりき らない料理は本膳の前(畳の上)に置いた。仲人は大阪のMさんの1番上の姉夫婦が してくれたそうだ。結納は目録とお酒2升で、目録のモノは給与の2~3か月分に相当 するモノを贈った。

新婚旅行は式の後数週間たってから、沖縄へ行った。行きはフェリー、帰りは飛行機 で帰ってきた。カンカンは特になかった。

嫁入り道具はタンス5脚、洗濯機、掃除機などの家電一式、着物だった。

Mさんの弟さんはMさんの10年後に式を大阪で挙げたが、このときカンカンはあ ったそうだ。

4.考察

ここまで、第3節では時代ごとの結婚の事例、その意味を紹介してきた。この節では 昭和 20年代から50 年代までの婚姻の個別事例を比較し、婚姻の在り方の変遷を七浦

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立ち位置からも明らかとなっている。写真1はNさん(皆月、女性、70歳代)のご先 祖様の大正時代の結婚式の集合写真である。驚くことに、新郎新婦が一番端に追いやら れている。双方の親族がメインの写真だといっても過言ではない。現代では考えられな い風景である。ここからも結婚式が新郎新婦のための儀式ではなく、家同士が結びつく 儀式であるという側面が強かったのだとうかがえる。なぜ大正時代の結婚式に新郎も参 加しているのかは分からないが、さすがに大正時代のお話はうかがうことはできなかっ たため、疑問が残る。写真2は、第3節では紹介していないが、昭和40年代に式を挙 げたTさん(中谷内、男性、70代)が結婚した時の写真である。この時代は新郎新婦 が真ん中に着席している。昭和40(1965)年以前は「ヨメドリに邪魔なものは猫かア

写真1 大正時代の結婚式の集合写真

写真2 昭和43(1968)年 Tさんの結婚式の集合写真

(いずれも2017年8月22日に筆者がアルバム写真を撮影)

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ンニャ(婿)」(『新修門前町史 資料編6民俗』2005: 260)とも言われていたが、昭和 40(1965)年以後は夫婦そろって結婚式に参加するようになった。Fさんもお見合い結 婚だったそうであるが、大正時代の頃よりは、新郎新婦の立場が尊重されていると言え よう。

次に、婚姻圏の拡がりについて嫁の出身地に着目して考えていく。A~Kさんすべて に通じることとして、七浦地区出身の女性をお嫁に迎えているが、唯一、Eさんは大阪 の方と結婚されている。事例が少ないので確かなことは言えないが、昭和50年代より 婚姻圏の変化が見受けられる。

その理由としては、仕事を求めて若者が都市部へ行くことが考えられる。A2さんは9 人兄弟であるそうだが、A2さん以外全員東京や神戸、横浜、名古屋などの都市部へ就職 し、8女も名古屋にお嫁へ行ったと聞いた。その他にも、お話をうかがう中で「息子や 娘が都市部で就職して、あまり帰ってこない」という話もあった。実際、七浦地区は高 齢者のみの世帯が多く、若い層は仕事を求めて都市部へ行ってしまっているという事実 がある。青年団の方で祭りの存続の危機を感じて金沢で仕事をしていたが、退職し、七 浦に戻ってきたという方もいるが、そのような U ターンする若者はごく一部だといっ ていいだろう。多くは都会で就職してその土地で結婚相手を見つけ、結婚することが予 想される。Eさんもそのうちの一人であり、大阪で就職し、そこで現在の奥さんと出会 い結婚された。Eさんの弟さんはEさんの結婚式のちょうど10年後、昭和60(1985) 年に大阪で式を挙げたそうだが、ホテルで式を挙げたそうだ。ここから昭和50~60年 代にかけて、結婚式の多様化が進んだことがうかがえる。

こうしてみると、七浦地区の結婚は、家と家の結びつきや地縁組織を重視したものか ら、個人間の関係や価値観を重視したものとなり、現代につながる結婚様式を確立して いったと言えよう。結婚式場での挙式や新婚旅行は、特にそれを反映したものだと言え る。昔は家で挙式していたことが「普通」であったが、Rさんによると、今では家で挙 式することはほとんどなくなってきている。「自然消滅だよ」とおっしゃっていたのが 印象的であった。現代における七浦地区での伝統的な結婚の衰退は、社会と人々のライ フスタイルの変化に伴った必然的な結果とも言えよう。

5.おわりに

今回、実習するにあたって初めて七浦地区へ行ったが、最初の印象は今まで行った土 地で一番田舎だというのが正直なところだった。しかし、6泊7日を通して七浦地区の 魅力にたくさん気づくことができ、普段体験できないこともたくさん経験することがで きて本当に行ってよかったと感じている。緑に囲まれた自然豊かな場所での生活は新鮮 であったし、なにより七浦地区の方々の優しさ、温かさに触れることができたのが一番 嬉しかった。地域の方々の笑顔が眩しく、充実した1週間であった。

一週間に渡って聞きとりを行ったが、お忙しいにもかかわらず、どの方も快く対応し 102

立ち位置からも明らかとなっている。写真1はNさん(皆月、女性、70歳代)のご先 祖様の大正時代の結婚式の集合写真である。驚くことに、新郎新婦が一番端に追いやら れている。双方の親族がメインの写真だといっても過言ではない。現代では考えられな い風景である。ここからも結婚式が新郎新婦のための儀式ではなく、家同士が結びつく 儀式であるという側面が強かったのだとうかがえる。なぜ大正時代の結婚式に新郎も参 加しているのかは分からないが、さすがに大正時代のお話はうかがうことはできなかっ たため、疑問が残る。写真2は、第3節では紹介していないが、昭和40年代に式を挙 げたTさん(中谷内、男性、70代)が結婚した時の写真である。この時代は新郎新婦 が真ん中に着席している。昭和40(1965)年以前は「ヨメドリに邪魔なものは猫かア

写真1 大正時代の結婚式の集合写真

写真2 昭和43(1968)年 Tさんの結婚式の集合写真

(いずれも2017年8月22日に筆者がアルバム写真を撮影)

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てくださり、今回この報告書を書き上げることができたのも七浦地区の皆さんのご協力 のおかげです。また、一週間お世話になった農家民宿フォレストの森さやかさんにも本 当に感謝しています。毎日おいしい料理を振舞ってくださり、実習中の楽しみの1つは ごはんでした。実習から帰ってきたら毎日笑顔で出迎えてくださり、手厚いおもてなし には感心させられるばかりでした。

最後になりますが、調査に協力してくださったすべての方々に心より深く感謝申し上 げます。本当にありがとうございました。

参照

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