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西田幾多郎と『教行信証』

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Academic year: 2022

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はじめに   哲学者の西田幾多郎(一八七〇~一九四五)は、太平洋戦争の末期、国内に敗戦濃厚のムードが漂うなか、一九四五年六月七日に鎌倉市姥 うばの別荘で七十五年の生涯を閉じた。今年(二〇一五年)は没後七十年の年に当たるが、今日に至るまでの軌跡は、そのまま日本の敗戦後七十年の歩みでもある。   その西田が死の直前、文字どおり決死の覚悟をもって書き遺 のこした最後の完成論文は「宗教の問題」が中心テーマであった。その名を「場所的論理と宗教的世界観」と言う

(以下「宗教論」とも称す)。

  この「宗教論」に対する西田の思い入れは相当強かったようで、それにまつわる多くの記録や逸話が伝わっている。一例を挙げると、起稿して間もない頃、晩年の西田を身近で支えていた長女(弥生)が突然の死を迎える。西田は思いがけず遭遇したこの出来事について、親族(次男の妻・ 1

《研究論文》

西田幾多郎と 『教行信証』

親鸞仏教センター研究員

          

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麻子)に宛てた手紙のなかで次のように述べている。

弥生の死は誠に突然にて驚きました。近年は特に親切に孝行を尽くしくれ懐しく思っていたのに、何とも云い様のない淋しさと悲哀に沈んでいます。併 しかし私はしっかりしています。自分でなければならない仕事を少しでも多くして後にのこして置きたいとおもい居ります。(『西田全』二十三  三三七頁)

  このなかで西田は、まず愛娘の死をとおして訪れた悲哀に沈んでいることを正直に吐露する。ところが、すぐさま「併し私はしっかりしています」と言って態勢を整え、「自分でなければならない仕事」を後の世に遺しておきたいと自らを奮い立たせている。ここで「自分でなければならない仕事」と言われるものは、決死の覚悟をもって書き始めていた最後の「宗教論」を指すであろう。

  また、それから一ヶ月後の、執筆も佳境を迎えた頃の手紙に目を向けてみると、国家の行く末を憂いつつ、この論文を「私の最終の世界観」「小生最後の考え(宗教観)」と も称し、身近な弟子たちの目に触れることをしきりに望んでいた様子がうかがわれる。そして、そのなかの一人・高 こう

さかまさあき(一九〇〇~一九六九)に対しては、完成直前の原稿を前に「宗教は深い魂の問題であると共に、世界そのものの根柢の問題であり、また新たなる時代の発端の問題である」と語ったことが伝えられている。

  筆者が最終的に目指すのは、太平洋戦争という危機的状況のなか、死を目前にした西田が、なぜ自らの最後の仕事として「場所的論理と宗教的世界観」を著さなければならなかったのかを解明することである。無論、そのためにはさまざまな角度からの探求が必要であろう。それゆえ本稿では特に、西田がこの「宗教論」の執筆に際し、親鸞の主著『教行信証』(正式名『顕浄土真実教行証文類』)を積極的に読み込んでいたという事実 00に着目し、その背景を掘り起こしつつ、同時に初期と照らして親鸞思想の受けとめにいかなる展開が見いだされるかを考究したい。なぜなら、そもそもこの論文は、西田が「浄土真宗の世界観というものを書いて見たい」と思案するところから構想が立て始められたものだからである。すなわち、国家の危機的状況のな 2

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かにあった西田が、親鸞思想のどこに共鳴し、いかなる思索を潜 くぐったうえで最後の「宗教論」を生み出したのか――その背景にあるものを、表層的には現れていない淵源より掘り起こすことが、本稿制作の眼目である。

  なお、西田が晩年の執筆活動に当たった鎌倉の別荘は、遺族より学校法人学習院に寄贈され、現在は、西田幾多郎博士記念館(通称、寸心荘)として、在世時の空気を今日に伝えている。筆者は昨年(二〇一四年)、学習院の協力のもと、西田晩年の思索の底に流れる親鸞思想を発掘すべく、寸心荘に現存する蔵書(七十四部八十四冊)のうち、真宗関連史料(七部九冊)の研究調査を行った。その調査結果は、すでに研究ノート「西田晩年の思索と『教行信証』――学習院西田幾多郎博士記念館(寸心荘)蔵書調査報告」(『現

代と親鸞』第二十九号、二〇一四年)として報告し、特に西田が用いた『聖典  浄土真宗』所収の『教行信証』中に見られた多くの書き入れを一覧にまとめた。先に西田が「宗教論」の執筆に際し、『教行信証』を積極的に読み込んでいたことについて、何の断りもなく「事実」と称したが、それはひとえにこの調査結果に基づく見解である。本稿で は、これ以降もその事実をもとに考究を進めていきたい。

一、『歎異抄』と『教行信証』

  ①  西田幾多郎と「親鸞問題」

  最初に確かめておきたいのは、西田において「親鸞問題」とはいかなる問題であったか、という点である。

  「親 鸞問題」とは思想史家・子 やすのぶくにの謂いであるが、特にその著書『歎異抄の近代』(白澤社、二〇一四年)のなかで提唱された視座である。つまり、日本の近代思想史には「親鸞問題」があると言うのだが、それは思想史の研究上の課題として「親鸞」があるという意味ではなく、「近代日本の知識人たちが宗教問題に直面するとき、しばしば親鸞に向かって問いが発せられ、親鸞を介して問題が深められるという形を取るということ」(『歎異抄の近代』三三

頁)を指すという。より具体的には、「親鸞あるいは『歎異抄』によって己れの〈信〉を問うこと」(同)を表すとし、さらに子安はこの意味での「親鸞問題」を最初に原型的に提示したのは、西田と同時代を生きた真宗教学者・清 きよ 5

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ざわまん(一八六三~一九〇三)であると位置づける。

  確かに、近代のいわゆる「知識人」――哲学者、文学者、禅者、さらにはキリスト者までも――の多くが、自らの「宗教問題」を追求したときに、立場や信仰を問わずな

「親鸞問題」と衝突しているように見受けられる。しかも、それは大抵の場合、戦時下であったり、死に直面したときであったりと、何かしらの危機的状況に身を置いたときに迫ってくる問題のようである。そして西田もまた、「親鸞問題」と衝突した近代知識人の一人にほかならなかった。

  西田と宗教の関係をめぐっては、一般には禅とのつながりが有名であり、特に青年時代に全身をあげて打坐参禅に励んだことはよく知られている。しかし、西田はもともと北陸(石川)の熱心な真宗門徒の家に生まれており、少年時代から親鸞は未知ではなかったという。そして、特に『歎異抄』には強く心を打たれていたようで、「親鸞の思想に入るには『歎異抄』が一番いいと思っている」と語ったことなどが伝えられている。

  論考として著されたものでは、親鸞六五〇回忌の年に当 たる一九一一年に随想「愚 禿 とく親鸞」を発表し、親鸞における「愚禿」の名のりに着目して、そこから「宗教の真髄」を見いだしている。そして『歎異抄』跋文の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉を引き、それを「絶対的他力の宗教」の極意であると称している。また、同年に出版された『善の研究』第四編「宗教」でも、複数回にわたって『歎異抄』を引用しており、「宗教の問題」を論じる際には少なからず親鸞を意識していたことがわかる。  その後、晩年に至るまで西田が親鸞(真宗)を直接主題に掲げて論じることはなく、ある種の沈黙を守っていた。しかし、たとえ表面上に現れていなくとも、西田の思索の底には一貫して親鸞と共鳴するものが流れているように見受けられ、それがあらためて具体的な言葉として現れ出たものこそ、戦時下に死を明確に意識しつつ書き上げられた「場所的論理と宗教的世界観」ではないかと考える。そして、そこにおいてはじめて西田のなかで「親鸞問題」というものが、抜き差しならない問題として身に迫ってきたのではないかと筆者は見定めるのである。 6

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  ただし、子安が言うところの「親鸞問題」とは、『歎異抄の近代』という書名からも明らかなように、「『歎異抄』とともにある親鸞」という視点に限定されている。『歎異抄』は、親鸞思想のエッセンスとも称すべき言葉のつづられた重要な語録であるが、あくまでも門弟(唯円)によって編まれたもので、親鸞自身の著作ではない。一方、親鸞が自らの実存的問題と歴史的課題をもって著した書は『教行信証』である。それゆえ「『歎異抄』とともにある親鸞」という枠組みでは、親鸞思想を語るうえで外すことのできない主著の『教行信証』が、近代思想史における「親鸞問題」といかに関わってくるのかという視点が射程外となってしまうであろう。そして、すでに本稿のテーマとして掲げているように、西田における「親鸞問題」とは、決して『歎異抄』に限定されるものではない。むしろ、最晩年に『教行信証』の思索世界に沈潜することによって、はじめて西田における「宗教の問題」が、その淵源において親鸞と共鳴するに至ったのではないかと考える。

  なお、従来西田と親鸞思想(真宗)の関係については、宗教哲学の立場を中心に多くの研究が発表されてきた。そ の一方で、真宗教学の立場からの研究はきわめて少なく、いくつか発表されたものに目を向けても、研究者自身の親鸞理解に基づき西田のテキストを解釈する(あるいは「捌 さば

く/裁く」)域を出ておらず、西田が親鸞思想のどこに共鳴したのか、そしてなぜ親鸞を求めたのかを精確に捉えているとは言いがたい。

  また、従来の研究では、立場を問わず、初期の宗教に関する論考(『善の研究』第四編「宗教」、随想「愚禿親鸞」)と、晩年の「宗教論」との間における親鸞理解の差異、すなわち初期から晩年への展開について、必ずしも詳細には解明されてこなかった。そして筆者は、この二つの問題は共通の要因に根差しており、それこそが「西田幾多郎と『教行信証』」という視点――すなわち、西田は『教行信証』を読んでいたか否か、読んでいたならばどこに共鳴したのかという視点――の欠落ではないかと考えるのである。

 

  『教行信証講義』との出会い

  それではなぜ、これまでは「西田幾多郎と『教行信 8

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証』」という視点、特に西田が『教行信証』のどこに共鳴したのかを吟味する視座が抜け落ちていたのであろうか。それは、ひとえに西田の書いたもののなかに目立った痕跡が見いだせなかったためではないかと考えられる。つまり、西田が論文のなかに『教行信証』という書名を明示することはなく、日記や手紙のなかにも直接的な言及がほとんど見当たらない。それゆえこれまでの研究では、その関連性が具体的 000に検証されることはなかったのである。

  とは言え、まったく痕跡が見いだせないわけではない。例えば、晩年に書かれた手紙(一九四三年五月・下程勇吉

宛)のなかに、次のような感想を確認することができる。

親鸞のものおよみの由、私もよんで見たいとおもいながら、教行信証などよみにくくてまだよくよみませぬ。併し末灯抄などあん〔な〕もの、却ってじかに親鸞上人その人にふれる様にて面白く存じます。

(一九四三年五月四日、『西田全』二十三  九二頁)

  西田が『教行信証』について直接言及した希少な例では あるが、「よみにくくてまだよみませぬ」という消極的な感想が述べられており、人生の終盤においてもいまだ深くは読み込まれていなかった様子がうかがわれる。その一方で『歎異抄』については、先に紹介したもののほかに、東京・横浜が空襲の際に燃え盛る街を眺めて「一切焼け失せても『臨済録』と『歎異抄』とが残ればよい」と語ったことなど、多くの印象深い逸話が残る。それとともに、初期から晩年に至るまで、その論稿中の随所に引用や参照が見られるため、親鸞思想との関わりはもっぱらこの書を中心に考究が重ねられてきた。とりわけ「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉に対しては、生涯を通じて深い共感を示していたことが知られる。  ところが、西田は先ほどの「よみにくくてまだよくよみませぬ」という感想を述べた直後、親友の鈴木大拙(一八

七〇~一九六六)宛に次のような手紙を書き送っている。

君の本に「山辺、赤沼著  教行信証講義」というものを引いて居らるるが、これは如何なる書か、分かり易 11

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きものにや。一寸拝借できないか。

(一九四三年五月六日、『西田全』二十三  九四頁)

  ここに「君の本」とあるのは、五ヶ月前(一九四二年十

二月)に刊行された『浄土系思想論』(法藏館)を指す。この書は真宗関連の聖教(テクスト)を読んだ所感や解釈が積極的につづられたものであるが、特に『教行信証』に対しては、「哲学的精確性を期待できぬ」と指摘しつつも「信仰即ち宗教体験を表詮した書物」として好意的な姿勢を示している。そのような考究姿勢は、翌年(一九四四

年)に発表された『日本的霊性』が、以下のように『教行信証』を厳しく批評しつつ『歎異抄』の言語空間のなかに「親鸞の真骨頂」や「日本的霊性的自覚」を積極的に見いだしている点に比すれば対照的と言えよう。

親鸞宗の本領は『教行信証』にあるのでなくて、その『消息集』、その和讃、殊にその『歎異抄』にあるのである。真宗の学者は『教行信証』を以て無上の聖典のように見て居るが――それも尤もであろうが――親 鸞の真骨頂にはそこで見参すべきでなくて、彼が何となく吐露した言語の中に直覚すべきものがあるのである。『教行信証』には、彼の公卿文化、教相哲学、学者気質の残滓がある。(『大拙全』八  八四頁)

  そして西田は、『浄土系思想論』の読書を進めていくうちに、『教行信証』についての所見が述べられた箇所(第 五篇「他力の信心について――『教行信証』を読みて」)に入り、そこで繰り返し参照されている山辺習学・赤沼智善の著『教行信証講義』(以下『講義』とも)の存在を知るに至ったのである。この書は、一九一四年に初版が刊行されてから今日に至るまでの百年間、真宗教学の間で最もよく読まれてきた『教行信証』解説書の一つである。近世宗学の講録をもとに編まれたもので、真宗教学においてはどちらかと言えばオーソドックスな部類に入る。その一方で、大拙だけではなく田辺元 はじめ(一八八五~一九六二)や武内義 よしのり

(一九一三~二〇〇二)などの哲学者も、自らの真宗論(田

辺『懺悔道としての哲学』、武内『教行信証の哲学』)のなかで参照している。それゆえ、近代思想史における「親鸞問 14

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題」を考えるうえで外すことのできない重要な書物と言えるであろう。

  さて、先の手紙の後、西田は早速、大拙から『講義』を借りたようで、読後には次のような感想を書き送っている。

山辺、赤沼の教行信証講義大変によろしい、あれなら私にもよく分かる、あの本は今手に入らないか、第一書房にあるや否や。

(一九四三年七月三〇日、『西田全』二十三  一二四頁)

  さらに同年秋(九月中旬)には、京都の仏教書店へ本書を注文しており、実際に使われていたものが鎌倉・寸心荘の蔵書として伝わっている。このように『教行信証講義』という良き解説書との出会いにより、最晩年に至ってようやく西田の身に『教行信証』を読む機縁が訪れたのである。

二、寸心荘蔵書『聖典』に残された痕跡

  山辺・赤沼の『教行信証講義』は全三巻、すなわち第一 巻「教の巻・行の巻」、第二巻「信の巻・証の巻」、第三巻「真仏土の巻・化身土の巻」から成る。西田の蔵書のうち、明らかに読み込まれたとわかる形跡が残るのは第二巻のみで、特に「信巻」中の「二河白道の喩」「三心一心問答」「横超釈」部分が顕著である。そこには、西田がこの書を入手するきっかけとなった大拙の『浄土系思想論』が少なからず影響を及ぼしていると考えられる。  と言うのも、『浄土系思想論』のなかで『教行信証』を読んだ所見が述べられるのは、第五篇「他力の信心について――『教行信証』を読みて」であり、その冒頭は「真宗で云う信 0又は信心 00なるものを、主として『教行信証』の「信巻」につきて、非力ながらの研究をして見る」(『大拙

全』六  二一二頁)という一文で始まる。そのため、この篇を手引きとして『講義』を読み始めた西田が、「信巻」部分を集中的に読み込んでいたことは想像するにかたくない。ところが、寸心荘蔵書には『講義』以上に西田が『教行信証』を読み込んでいたことを裏づける重要な証拠が存在する。それが『聖典  浄土真宗』(島地大等編、明治書院  以下

『聖典』)である。蔵書印の付いたこの『聖典』には、西田 16

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自身が日常的に読み開いていた痕跡が見られ、外装の使用感が甚だしいばかりか、内部の至るところに書き入れ(メ

モ・傍線)や読み込まれた跡(手垢)を確認することができる。そして、それらの痕跡が集中的に見られるのは『教行信証』部分、とりわけ「信巻」の前半である。それに加え、書きとめられたメモの内容を確認すると、山辺・赤沼『教行信証講義』の解説内容とほぼ重なっていることに気づかされる。以下、代表的な例を図入りで示す。

(番号は【付録】の書き入れ一覧に対応、傍線は筆者による補足)

【例

1】「信巻」冒頭「大信釈(信楽難獲)」

  A  西田のメモ(『聖典』二三四頁、番号

  凡夫の手造にあらず如来の力によって得させて下さ 3) るのであるから

  B

御力とに依って得させて下されるのである。 が衆生の上に加え給う威神力と、大悲の広大な智慧の この信心は凡夫手造りの信心ではない。全く弥陀如来   『教行信証講義』解説(法藏館、一九五一年、五六二頁)

【例

2】「信巻」所引「散善義」の文

  A  西田のメモ(『聖典』二三七頁、番号

生の願生となる   如来より与えて下さるその回向があら〔わ〕れて衆 11) 18

19

図 1 「信巻」冒頭のメモ 同時期の直筆原稿(図 3)

に照らすと、論文の原稿と メモという相違はあるもの の、仮名文字やくずし字な どの特徴が一致する。

図 2 「散善義」引文のメモ 本文中の「趣求」という語に傍線と×

印が付されたうえで、欄外にメモが施 されている。

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  B   『教行信証講義』解説

(法藏館、六〇四頁)弥陀如来の方よりその出来上がらせられた真実を悉く衆生に回施(あたえ)て下される。その回向があらわれて、衆生の方にも浄土に生まれたいという願生の思いがおこる。

三、名号論の血肉化

  それでは、西田がこのような書き入れを施すほどに『教行信証』を読み込んだのはいつ頃であろうか。

  先述のとおり、大拙の『浄土系思想論』を介して『教行信証講義』の存在を知り、それを手元へ取り寄せたのは一九四三年の秋(九月中旬頃)である。しかし筆者は、西田が本腰を入れて『教行信証』の読解に当たったのは、それよりも一年以上後の、まさに最後の「宗教論」の構想を立て始めた時期ではないかと推定する。

  あらためて確認すると、西田の人生において最後の完成論文となった「場所的論理と宗教的世界観」は、「浄土真宗の世界観というものを書いて見たい」と思案するなかで 構想の始まったものである。起稿されたのは一九四五年二月四日であり、その大きな促しとなったのは、大拙をはじめ、務 たいさく(一八九〇~一九七四)や田辺元など、同時代の身近な仏教者・哲学者たちが世に出した「親鸞問題」に関わる論考(真宗論)である。

・鈴木大拙

  『浄土系思想論』

(一九四二年十二月)

       『日本的霊性』(一九四四年十二月)・務台理作

  『場所の論理学』

(一九四四年十一月)・田辺  元   「懺悔道」

(一九四四年十月~十二月)

※京都大学での最終講義。戦後に『私観教行信証の哲学』および『懺悔道としての哲学』として出版。

  ここに示したように、大拙・務台・田辺の三者ともに、太平洋戦争中のほぼ同じ時期(一九四四年の十月~十二月)にそれぞれの真宗論を発表している。そして西田もまた、これらの論考に触発され、自らの「浄土真宗の世界観」を構築していくことになるのだが、戦時下という国家の危機的状況のなか、もともとは真宗を立場としていなかったは

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ずの仏教者・哲学者たちが、時を同じくして「親鸞問題」と衝突していたことは見過ごすことのできない事実である。それは決して個人的な関心に留まるものではなく、言うなれば「時代の要求」として起こった出来事であった。

  なお、西田と同時代の真宗論との呼応関係(大拙・務台

には共感、田辺には反感)については、すでに先行研究によって詳しくまとめられており、なかでも西田に「宗教論」を起稿させる直接の引き金となった大拙の『日本的霊性』との関係が重要視されてきた。本稿では、むしろこの書が届く以前に思索された内容を〝西田の衝突した「親鸞問題」とは何か〟という視座より探求したい。

  ①  罪悪観の転換

  最後の「宗教論」に先立ち、西田は一九四四年六月に「予定調和を手引として宗教哲学へ」と題した論文を発表している。最晩年の西田の関心が「宗教の問題」へと移行しつつあることを物語る重要な論考であるが、そのなかに西田における「親鸞問題」を考えるうえで見過ごすことの できない論述がある。【A】  絶対現在の自己限定の世界は、之〔完全無欠なる相対

的神の創造する最善の世界〕に反し絶対の否定を含む世界でなければならない、極悪を含む世界でなければならない。〔中略〕親鸞の所謂煩悩熾盛、罪悪深重の世界でなければならない。自己自身が映されることから世界が始まる。忽然念起、名為無明と云う。世界は罪悪から始まるのである。我々の自己の存在は罪悪にあるのである。(『西田全』十  一〇三―一〇四頁)

【B】  キリスト教に於ては、此の世界は神の創造の世界であるが、仏教では、此の世界は何処までも作られたものから作るものへと、歴史的に因果必然の世界、業の世界である。絶対に脱離の途はない。浄土真宗に於ては、唯、仏の慈悲によってのみ救われると考える。永遠の苦悩の世界は、一面に仏の誓願の世界である。仏を信じ、之に帰依することによって、浄土に生れると考えられるのである。(『西田全』十  一一三頁) 20

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  いずれも、キリスト教に対比するかたちで仏教の宗教的世界観が、特に親鸞思想(浄土真宗)に根差して論じられている。【A】の文では「煩悩熾盛、罪悪深重」という『歎異抄』第一条(原文は「罪悪深重、煩悩熾盛」)の言葉が引かれ、さらには「世界は罪悪から始まるのである。我々の自己の存在は罪悪にあるのである」と述べられている。すなわち、ここで西田は親鸞の思想に共鳴しつつ、人間の根本的事実を罪悪に見ているのだが、実はこのような罪悪観(あるいは人間観)は、初期の頃と大きく異なる。

  初期の宗教的世界観が明確に論じられたのは、西田哲学の金字塔となった『善の研究』である。そこでは第四編「宗教」(第四章「神と世界」)のなかで「元来絶対的に悪というべき者はない、物は総べてその本来に於ては善であ る」(『西田全』一  一五四頁)というように、万物が神の表現たる世界において、もともと絶対的に悪というべきものはなく、すべてが本来的には善であると論じられる。このような捉え方は「宇宙万象の根柢には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ」(同

六三頁)と示されるような、同書の全体を貫く「統一」の視座に基づいている。本来的にはすべてが善であるはずの世界においてもし悪が生じるのであれば、それは「実在体系の矛盾衝突」、つまり本質的には善である自己の本体――同時に「宇宙の本体」でもあり、それが「神」と呼ばれる――からの乖離によるというのである(同一五五頁)。

  ここで注目すべきは、その「実在体系の矛盾衝突」より生じる悪が「実在発展の一要件」、つまり実在が発展するための「要件」と言われている点である。それゆえ人間側より見ても「我々人間が精神的向上の要件」、あるいは「罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない」、「悔い改められたる罪程世に美しきものもない」と言われ、罪悪はきわめて積極的な意味合いで受けとめられている

(同一五五頁)。このような罪悪観は「アダムの堕落があっ 23

図 3 「予定調和を手引 と し て 宗 教 哲 学 へ」の直筆原稿

(13)

てこそ基督の救があり、従って無限なる神の愛が明となったのである」(同上一五三頁)と言われるように、明らかにキリスト教の原罪に基づいている。同じ章のなかで「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という『歎異抄』(第三条)の言葉も参照されるが、この時点では本来的な自己を「罪悪深重の凡夫」と自覚し、人間の根本的事実を罪悪に見た親鸞とは立場を異にすると言わざるをえない。

  このように、初期の立場に照らしてみると、西田晩年の人間存在の捉え方には、根本的な転換が生じていることがわかる。それは親鸞理解の変移のようにも映るが、むしろ親鸞思想の論じ方を指標とすることで、西田における宗教的世界観の展開(転回)を追うことができるのである。

  ②  名号による救済――「信」の問題

  続いて【B】の文では、そのような人間存在の根本的事実としての罪悪に起因する「永遠の苦悩の世界」あるいは「業の世界」は、「唯、仏の慈悲によってのみ救われる」がゆえに、「一面に仏の誓願の世界である」と言われる。 このような、仏の「慈悲」や「誓願」によって救われるとされる救済観は、「場所的論理と宗教的世界観」に至ると親鸞思想をさらに吸収して次のように論じられる。【C】浄土真宗に於ても、人間の根本を罪悪に置く。罪悪深重煩悩熾盛の衆生と云う。而して唯仏の御名を信ずることによってのみ救われると云うのである。

(『西田全』十  三二六頁)

【D】真宗に於ては、此の世界は何処までも業の世界である、無明生死の世界である。唯、仏の悲願によって、名号不思議を信ずることによって救われると云う。

(『西田全』十  三四二頁)

  【C】

では「人間の根本を罪悪に置く。罪悪深重煩悩熾盛の衆生と云う」と言われ、【D】では「此の世界は何処までも業の世界である、無明生死の世界である」と論じられる。それぞれ先ほどの「予定調和を手引として宗教哲学へ」における【A】【B】と同じ事柄を押さえているが、 24

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そこからの展開――すなわち「救済」に関する論述は大きく異なってくる。【C】では、まず人間の根本が罪悪にあること(罪悪深重煩悩熾盛)が押さえられたうえで「唯仏の御名を信ずることによってのみ救われる」と言われ、【D】では「此の世界」、つまり我々の生きる歴史的現実の世界がどこまでも「業の世界」「無明生死の世界」であることが押さえられたうえで、「仏の悲願によって、名号不思議を信ずることによって救われる」ことが確認される。このように最後の「宗教論」では、根本的に罪悪なる人間存在、もしくはその人間の罪悪によって成り立つ歴史的世界が救われるには、「名号不思議(仏の御名)」を信ずるよりほかに手立てがないことが明確に示されるのである。

  それゆえ「予定調和を手引として宗教哲学へ」を発表してから最後の「宗教論」を執筆するまでの期間に、西田のなかで真宗の名号論に対する理解が深まっていったことがわかる。ただし「名号論」と言っても、それは決して「何をなすべきか」「何を信ずるべきか」といった当為の問題ではない。「罪悪深重の凡夫」においては名号を信ずるよりほかに救いの手立てはないという窮極的な事態であり、 親鸞思想に即して言えば「行」の問題ではなく「信」の問題である。言葉を換えれば、信ずるべき対象を問うのではなくして、自己の存在そのものが問われるような事態であり、「法」の問題ではなく「機」の問題である。

  そのことが、最後の「宗教論」では「宗教の問題は、我々の自己が、働くものとして、如何にあるべきか、如何に働くべきかにあるのではなくして、我々の自己とは如何なる存在であるか、何であるかにあるのである」(『西田 全』十  三二二頁)というように、対象論理的な立場からの転換(=場所的論理)として論じられている。そして筆者は、この転換こそ西田が最晩年に衝突した「親鸞問題」の実態ではないかと考える。現に西田は、このような「宗教の問題」を掘り下げていった論述の結びのところで、親鸞思想に深い共鳴を示しつつ、次のように結論づけている。

【E】  神とか仏とか云うものを対象的に何処までも達することのできない理想地に置いて、之によって自己が否定即肯定的に努力すると云うのでは、典型的な自力である。それは宗教と云うものではない。そこには全然 25

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親鸞聖人の横超と云うものはない。最も非真宗的である。(『西田全』十  三二六-三二七頁)

  ほかにも「宗教の問題」については、いかなる宗教にも「自己の転換(回心)」ということがなければならず、それゆえ宗教は「哲学的」にはただ「場所的論理」によってのみ把握することができるとも述べられる。このような視座は、まさに親鸞思想における「横超」、すなわち他力の立場への深い共鳴に根差していたのである。

 

  『教行信証』を「読む」という体験

  ところで、当時の日記や手紙に目を向けると、西田が「宗教論」の構想を立て始めたのは、一九四四年の十二月初頭に弟子の務台理作から『場所の論理学』が届けられたことが直接のきっかけになったと見受けられる。そして、同書の「場所的対応」という概念から着想を得て、最後の「宗教論」の中心概念となる「逆対応」が導き出されていくのだが、それと連動するかたちで『教行信証』(特に「信 巻」)を読み込み、自らの論理として名号論を構築していったのではないかと考えられる。そのことは、同じ月以降に務台との間で頻繁に交わされた、同時代の真宗論をめぐる手紙の内容からもうかがい知ることができる。すなわち、田辺への反感【F】【G】や、大拙への共感【H】に言及するなかで、西田が常に想起し、最終的に帰着していくのは仏の名号(呼声・御名)であった。

【F】  ミダの呼声というものの出で来ない浄土宗的世界観は、浄土宗的世界観にはならないと思います。そんな世界では何処から仏の救済というものが出てくるのでしょう。あの人〔田辺〕は宗教というものを事実とせないで唯頭で考えて居るので少しも体験的に沈潜して見ないのです。ザンゲばかりの世界は道徳の世界で宗教の世界でありませぬ。宗教心というものそのものが自分からのものでなく、向からのものでなければなりませぬ。〔中略〕場所の自己限定は我々の個に対し、偉大なる仏の表現、切なる救の呼声です。君〔務台〕が「自己表現」について云われた様に、場所論理にて 26

27

28

(16)

は内在的即超越的なものからその自己表現として仏の御名というものが出てくるのです。故に我々は仏を信じ、その御名を唱うることによって救われるのです。

(一九四四年十二月二十一日、『西田全』二十三  三〇八頁)

【G】  田辺の様な立場からは信によって救われると云うことが出て来ない、つまり回心ということの世界だ。これが宗教的世界か。罪悪重々の凡夫が仏の呼声を聞き信に入る。そこに転換の立場がなければならない。

〔中略〕場所論理に於て対応と云うことはいつも逆対応ということでなければならない。

(一九四四年十二月二十二日、『西田全』二十三  三一〇頁)

【H】  大拙の名号の論理、あれはとてもよいです。浄土真宗はあれで立てられねばならぬ。あれは即ち私のいう表現するものと表現せられるものとの矛盾的自己同一の立場から考えられねばならない。そこが天地の根源、宗教の根源です。絶対現在の自己限定の底から仏の名号を聞くのです。 (一九四五年一月六日、『西田全』二十三  三一九頁)

  【F】

【G】では、田辺への反感に導かれ「場所論理にては内在的即超越的なものからその自己表現として仏の御名というものが出てくるのです。故に我々は仏を信じ、その御名を唱うることによって救われるのです」、「罪悪重々の凡夫が仏の呼声を聞き信に入る。そこに転換の立場がなければならない」といった見解が述べられている。名号による救済、あるいは「転換の立場」は、前節でも確認したように最後の「宗教論」のなかで実際に論述される内容である。そして、このようなかたちで言論化されていく背景には、同時期に『教行信証』を「読む」という体験があったに違いないと筆者は考える。

  なぜなら、真宗の信仰と文化の根づいた地に生まれ育った西田が、それまでに「名号」という言葉自体を知らなかったはずはない。また、【H】で「大拙の名号の論理、あれはとてもよいです」と言われるように、同時代の真宗論のなかで展開される「名号の論理」にも多分に共鳴していたことがうかがわれる。しかし、西田は決して他人の論理

(17)

や言い回しをそのまま借りて論じるような哲学者ではない。それは大拙の「名号の論理」を称賛しつつも、すぐさま「あれは即ち私のいう表現するものと表現せられるものとの矛盾的自己同一の立場から考えられねばならない」と断りを入れていることからも明らかであろう。すなわち西田は「宗教論」を執筆するに当たり、「名号の論理」を自らの「絶対矛盾的自己同一」の立場より捉え直すことを課題とした。それゆえ、論文の表面上に「名号」という言葉が現れ出たということは、その背後に真宗の名号の道理を咀

しゃくし、自らの論理として血肉化するという過程があったはずであり、さらにその根底には『教行信証』を「読む」という体験、より踏み込んで言うならば、『教行信証』の言葉をとおして親鸞と出会い、対話するという体験があったに違いないのである。

  なお、大拙の「名号の論理」について、それが論じられているのは『日本的霊性』であると指摘する声もあるが、【H】の手紙が書かれた時点ではまだ西田のもとにこの書は届いていない。一方、『浄土系思想論』には、第三篇「浄土観・名号・禅」・第六篇「我観浄土と名号(名号 論)」といった名号を主題とした篇が収録されている。そのため、西田が称賛した「名号の論理」とは、具体的には『浄土系思想論』中の名号論を指すと特定して間違いないと考える。そして、その要点は、例えば次のような文章から読み取ることができるであろう。【I】  名号が人間性の矛盾を突破しなくてはならぬ。突破の事実を、念仏称名すると云うのである。〔中略〕念仏称名によりて、名号自身の中に包摂せられているところのはたらきが現われる。表現がなくては存在でない。それで、予は名号を媒介にして此土と彼土との矛盾が「横超」的に連絡すると云うのである。

(第三篇「浄土観・名号・禅」、『大拙全』六  一二三頁)

【J】  聞名と称名とは不可分離のもので、称名即聞名・聞名即称名と云いたい。聞名は弥陀の招喚、――時には「静かな微かな声」ではあるが――それを聞くことで、これは還相回向である。称名は「無意識」に聞いた名号を称え返すことで、往相回向である。〔中略〕両者 29

30

(18)

は自己同一性のもので、名号の両面性を成立させているのである。

(第六篇「我観浄土と名号」、『大拙全』六  三〇五頁)

四、西田と親鸞が出会った場所

  ここまでたずねてきたように、最晩年の西田は危機的状況のなかで「宗教の問題」を追究し、「罪悪深重の凡夫」たる人間存在、「無明生死の世界」たる歴史的現実世界の救済を、真宗の名号に見いだしている。そして、同時期に『教行信証』を読み込み、自らの論理として血肉化していったのではないかと考えられる。

  ところが、最後の「宗教論」においても、表面上に見られる親鸞の言葉は依然として『歎異抄』が中心であり、特に「親鸞一人が為なりけり」という語は、中心概念の「逆対応」「平常底」との関連で三度にわたって引用されている。それでも『教行信証』の痕跡がまったく見られないわけではなく、書名は明示されていなくとも、「易往無人の浄信」という「信巻」独特の表現が見られるほか、「横 超」や「二河白道の喩」といった真宗教学の基本タームも登場する。それらの語は、たとえ大拙の真宗論などを通じて既知であったとしても、西田自身が『教行信証』を精読し、自らの論理として血肉化したからこそ現れ出たものに違いないであろう。  最後に本章では、西田が親鸞思想のどこに共鳴したのか、言うなれば、西田と親鸞が出会った場所を、表層には現れていない地底部分より掘り当てるために、寸心荘蔵書『聖典』所収の『教行信証』に残された書き入れのうち、特に「宗教論」への反映が想定できるものについて考究したい。なお、『教行信証』の言葉は、西田が使用した明治書院版の『聖典』から引用する。

  ①  名号的表現――「三一問答」への着目

  繰り返し言及してきたように、西田所蔵の『聖典』に収められた『教行信証』のなかで、読み込まれた形跡が色濃く残っているのは「信巻」の前半である。そのなかでも特に多くの書き入れが見られるのは、「信巻」の中核をなす 31

(19)

「三心一心問答」(以下「三一問答」)の箇所である。

  「三

一問答」とは、親鸞が如来と衆生の関係をめぐり、『無量寿経』に説かれる本願文(第十八願)で、阿弥陀如来が十方衆生に対して「至心信楽欲生我国(心を至し信楽

して我が国に生まれんと欲 おもえ)」と呼びかけるところの本願三心(至心・信楽・欲生)が、「なぜ衆生に信心として成就する時には『一心』となるのか」という問いを起点に展開されたものである。具体的には、名号を聞くところに成就する信心の内実が、「至心」「信楽」「欲生」という経言の推究をとおして掘り下げられ、「一切苦悩の衆生海」を悲しみ傷まずにはおれない如来の大悲心として感得されるに至る。少々立ち入りがたい印象も受けるが、決して訓詁学的に論じられたものではなく、あくまでも親鸞自身の実存的な課題、あるいは具体的な宗教体験に根差して起こされた問答である。山辺・赤沼の『教行信証講義』の解説でも、この問答は「信巻」の「至要」であることが繰り返し強調されており、西田が同書を手引きとして読み進めつつ、多くの場所に共感を示していた様子がうかがわれる。そして、数多く残された書き入れのうち、特に「宗教論」の論述と の関連性を読み取ることができるのは、「信心と名号の関係」をめぐる言葉に施されたものである。  まず、「三一問答」結釈の「真実の信心は必ず名号を具す、名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」(【付録】

番号

中の「至心則是至徳尊号為其体也(至心は則ち是れ至徳の尊 さえていたことがわかる。また、それに先立つ「至心釈」 心」と「名号」が不離の関係にあるという親鸞の了解を押 41)という箇所には傍線が引かれてあり、「真実の信

号を其の体と為せるなり)」(【付録】番号

いう書き入れが施されている(図 傍線が引かれており、さらにはすぐそばに「六字名号」と 26)という一文にも ず、六字の名号である。体を押えて云えば、南無阿弥陀仏 る『講義』の解説には、「この至心というは、とりも直さ 4参照)。この箇所に関す

図 4 「至心釈」のメモ

(20)

の御名である」(法藏館、七〇三頁)とあり、西田のメモがこの解説内容に基づいていることがわかる。すなわち西田は、阿弥陀如来が一切衆生を悲憐して与えたいと願った真実の心(至心)が、具体的には名号として顕現すると示されている点に着目したのである。

  ここにおいて、西田の「宗教論」に目を向けてみると、次のような論述が見られる。

仏教に於ても、真宗に於ての如く、仏は名号によって表現せられる。名号不思議を信ずることによって救われると云う。絶対者即ち仏と人間との非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介は、表現による外ない、言葉による外ない。仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にないのである。〔中略〕絶対者と人間との何処までも逆対応的なる関係は、唯、名号的表現によるの外にない。(『西田全』十  三五〇頁)

  これは、絶対者というものが、文字どおり「対を絶する者」ではなく、「絶対的自己否定に於て自己を有 つもの、 絶対的自己否定に於て自己を見るもの」(同三四七頁)であることの具体例として、神の啓示や猶 太教における預言に照らして論じられたものである。ここで西田は「仏は名号によって表現せられる」と言い、あるいは絶対者(仏)と人間との「非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介」は「表現(言葉)」によるほかないと断じ、さらには「仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にないのである」とまで言い切る。そして、最後の「宗教論」の中心概念である「逆対応」という語を用いつつ、「絶対者と人間との何処までも逆対応的なる関係は、唯、名号的表現によるの外にない」と結論づける。  また、同じ「三一問答」中の「欲生釈」における「『欲生』と言うは、則ち是れ如来、諸有の群生を招喚したまう之勅命なり」(【付録】番号

生に対して「生まれんと欲え」と呼びかける如来の声(本 れている。おそらく西田は、親鸞が名号の根底に、一切衆 36)という一文にも傍線が引か

願招喚の勅命)を聞き取ったことにも共鳴したのであろう。そしてこの了解は、「宗教論」のなかでは次の論述に少なからず反映されているように見受けられる。 32

(21)

真宗に於ては、此の世界は何処までも業の世界である、無明生死の世界である。唯、仏の悲願によって、名号不思議を信ずることによって救われると云う。それは絶対者の呼声に応ずると云うことに他ならない。

(『西田全』十  三四二頁)

  ここで西田は「業の世界」「無明生死の世界」たる「此の世界」は、ただ仏の悲願の「表現」たる名号によって救われると言い、さらには「名号不思議を信ずる」とは「絶対者の呼声」に応ずることにほかならないと論じる。先に挙げたように、西田は田辺への反感から「ミダの呼声というものの出で来ない浄土宗的世界観は、浄土宗的世界観にはならないと思います。そんな世界では何処から仏の救済というものが出てくるのでしょう」という疑問を投げかけていた。また「絶対者の呼声」というのは、かねてより西田哲学のなかでやや抽象的ながらも言及されてきた宗教的課題である。そのような疑問や課題が、最晩年に親鸞の思索世界に沈潜することによって、より具体的に名号論として展開されるに至ったのである。   以上のように、西田において名号とは、決して信仰の対象という意味にはとどまらない。仏の「絶対悲願」がこの歴史的現実世界に、自己否定的に言葉となって顕現したものにほかならず、それゆえ「名号的表現」と呼ばれる。そして西田は『教行信証』における親鸞の思索に深い共鳴を示しつつ、名号の奥底に「絶対者の呼声」を聞き取ったのである。

 

  「逆対応」と名号論   先ほどの引文中に「絶対者と人間との何処までも逆対応的なる関係は、唯、名号的表現によるの外にない」とあった。ここで、西田晩年の思想を読み解くうえでの鍵となる、「逆対応」という語のもつ意味を確かめておきたい。

  西田は「迷える自己」とも呼ばれる相対有限の自己が絶対無限と対するとき、その関係を「逆対応」と言い表す。すなわち我々の自己が絶対無限に対したとき、「自己の永遠の死」という断絶を自覚する。それゆえ絶対無限は「絶対否定」とも言われる。しかし、それだけに留まるならば、 33

34

(22)

「未だそれが絶対矛盾の事実とは云わない」と西田は言う。そこで続けて「自己の永遠の死」を知ることが「自己存在の根本的理由」であると展開され、さらにはそこにおいて初めて「自己が真に自覚する」と言われる(同三一四頁)。その事態が「我々の自己は絶対の自己否定に於て自己を有つ、自己自身の死を知る所に自己自身であり、永遠に死すべく生れる」と言い表され、さらには「自己が自己の根源に徹すること」が宗教的入信、回心と呼ばれる(同三三三 -三三四頁)。それゆえ、自己の転換を対象論理的な自己の立場から目指すのは不可能であり、どこまでも絶対者の力に依らなければならないと言われる。このような視座は、まさに親鸞における他力の立場に通底するが、ここで見落としてはならないのは、西田の「逆対応」には「迷える自己」側の否定だけではなく、「対を絶する」はずの絶対が、迷いの底にまで下りてくるという、絶対者による自己否定が必然する点である。

単に超越的に最高善的な神は、抽象的な神たるに過ぎない。絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神 でなければならない、極悪にまで下り得る神でなければならない。〔中略〕絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。(同三二一頁)

  このように「逆対応」とは、絶対者と自己との間における相互の自己否定を介した関係を表す言葉であるが、それがやがて「絶対者と人間との何処までも逆対応的なる関係は、唯、名号的表現によるの外にない」と、名号の論理へと帰着していく。このように展開していく背景には、先ほど書き入れ部分を確かめた「至心釈」の了解が根深く関わっているのではないかと考える。すなわち、西田は自らの哲学(絶対矛盾的自己同一)の立場より真宗の名号論を構築するに当たり、「三一問答」における「至心則是至徳尊号為其体也」という一文に着目した。そして、阿弥陀如来が一切衆生を悲憐して与えた真実の心(至心)とは、具体的には「南無阿弥陀仏」の名号であると捉え、そこに仏の「絶対的自己否定」としての「表現」を見いだしたのである。

(23)

  そして、このような西田の視座は、近代の代表的な真宗教学者たちの言葉のなかにも見いだすことができる。例えば、曽我量 りょうじん(一八七五~一九七一)は、講話録『本願の仏地』(一九三三年)のなかで「回向」の意義をめぐり「私は回向ということは表現ということである、浄土真宗の回向は表現回向であると思うのであります」と言い、あるいは安田理 じん(一九〇〇~一九八二)は、還暦記念講演「名は単に名にあらず」(一九六〇年)のなかで「如来が、如来自身を限定したものが名である。如来が、名として自己を限定した」と述べており、いずれも西田の「逆対応」と相通じる、あるいは共鳴を示した了解がうかがわれる。また近年では、長谷正當が『本願とは何か――親鸞の捉えた仏教』(法藏館、二〇一五年)を上梓し、「本願の思想の真理性」は「西田の場所論や逆対応の概念を通して改めて掴み直されなければならない」(一八一頁)と述べ、あるいは「西田ははからずも「場所的論理」と「弥陀の回向の思想」との間にある深い繋がりを捉えている」(二三〇頁)と指摘している。

  筆者もまた、『教行信証』という共通の土壌のうえで西 田哲学と真宗教学とを照らし合わせ、時には衝突させることにより、双方に新たな読解の可能性が開かれるのではないかと考えている。

 

  「悲願」と「悲歎」

  西田の「逆対応」を親鸞教学の視座より読み解くうえで、決して見過ごすことのできない言葉は「悲願」である。それは名号の論理に即して「唯、仏の悲願によって、名号不思議を信ずることによって救われる」と言われ、さらには「仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にない」とも言われるが、実は最晩年の西田が「悲願」という言葉に着目した背景には、大拙との間で交わされた対話があった。

  「宗

教論」が脱稿された翌月(一九四五年五月十一日)、西田は大拙宛に次のような手紙を書き送っている。

君の東洋文化の根柢に悲願があるということ、よく考えて見るとそれ非常に面白い。私もそういう立場から考えて行って見たいと思う。その故に西洋の物の考え 35

(24)

方がすべて対象論理的であったのだ。

  (『西田全』二十三  三八五頁)

  ここで西田は「東洋文化の根柢に悲願がある」という大拙の言葉を指して「それ非常に面白い。私もそういう立場から考えて行って見たい」と述べている。そして「東洋文化」と対照的に挙げられる「西洋の物の考え方」には「悲願」がないためにすべて対象論理的であったと指摘している。つまり、西田において「悲願」と「場所的論理」とは表裏一体の関係にあったのである。このような視座は「宗教論」の本文中にも示されており、次のように言われる。

歴史的形成的道徳は、悲願的でなければならない。西洋文化の根柢には悲願と云うものがなかった(鈴木大

拙)。そこに東洋文化と西洋文化との根柢的相異があると思う。(『西田全』十  三五二頁)

  それ以外にも「宗教論」の終盤では、「他力宗」の視座をめぐって「悲願」という語が用いられ、特に歴史的現実 世界の抱える問題を踏まえて次のように論じられている。

真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。而してそれによって悲願の他力宗は、今日の科学的文化とも結合するのである。加之、今日の時代精神は、万軍の主の宗教よりも、絶対悲願の宗教を求めるものがあるのではなかろうか。仏教者の反省を求めたいと思うのである。世界戦争は、世界戦争を否定する為の、永遠の平和の為の、世界戦争でなければならない。(『西田全』十  三四七頁)

  ここでは「真の他力宗」は「場所的論理」によってのみ把握することができると押さえられたうえで、その性格が「悲願」の一語をもって示されている。そして、そのような宗教こそが「今日の科学的文明」とも結合すると言われ、さらには「今日の時代精神」は「万軍の主の宗教」よりも「絶対悲願の宗教」を求めるのではないかと問われる。

  「万

軍の主の宗教」とは、旧約聖書(「エレミヤ書」など)に説かれる「外に」超越的な神の宗教――「之に従うもの 36

(25)

は生き、之に背くものは永遠の火に投ぜられる」(同三四四

頁)と言われる――を表す。西田によれば、それに対する「内に」超越的な方向こそが仏教の特色であり、その場合の絶対者は「何処までも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、何処までも追い、之を包むもの」、すなわち「無限の慈悲」と言い表される(同三四四頁)。

  また、最後に「世界戦争」という語が見られ、少々唐突な印象も受ける。同時代に勃発していた世界大戦を意識しての使用に違いないであろうが、だからと言って決して文字どおりに解釈してはならないであろう。例えば「戦い」という語をめぐっては、それ以前に人間の根本悪の問題と関連して、ドストエフスキー(一八二一~一八八一)の『カラマーゾフの兄弟』が引かれつつ、「我々の心は、本来、神と悪魔との戦場である」と言われ、そこから自己自身のなかに絶対の否定を含み、極悪にまで下りるような神こそが「真の絶対」であると押さえられていた(同三二一-三

二二頁)。それゆえ、ここに登場する「戦争」という言葉も、同様に絶対者と自己との関係を追究する文脈において読み取らなければならないであろう。そして、西田がその ような絶対者と自己との「逆対応」的なる関係を、歴史的現実世界の抱える問題に即して捉えようとしたときに、おのずから現れ出た言葉こそが「悲願」なのである。  また、そもそも「逆対応」とは、後期西田哲学の鍵概念である「絶対矛盾的自己同一」が、より宗教的な見地より捉え直された境涯と考えられるが、そこにおいてことさらに強調されるのは、先にも指摘したとおり、絶対者の自己否定という視点である。それは「絶対者は何処までも自己自身を否定することによって、真に人をして人たらしめるのである、真に人を救うと云うことができるのである」

(同三四五頁)というように、人間の救済と関連して論じられる事柄であり、このような絶対者の「絶対的自己否定」による救済(宗教的方便)は、仏教的な文脈においては「仏は自ら悪魔にも堕して人を救う」と了解される。さらには、「罪悪深重の凡夫」たる人間の生きる「此の世界」は、「業の世界」「無明生死の世界」であるだけではなく、同時に「悲願の世界、方便の世界」であると押さえられ、その「悲願」による救済は「仏は種々なる形に現じて、人を救う」と言い表される。それゆえ「悲願」という言葉 37

(26)

それ自体に、絶対者の自己否定という意味合いがふくまれていると言えるであろう。そして先にたずねたように、仏の「絶対悲願」はこの歴史的現実世界に、具体的には名号として顕現するとたずね当てられるのである。

  それでは、このような「悲願」あるいは「名号的表現」による救済は、人間の生にいかなる境涯を開くであろうか。先に筆者は、西田が「宗教論」において真宗の名号論を吸収しつつ掘り下げた問題は、「何をなすべきか」という当為の問題ではなくして、自己の存在そのものが問われるような事態であり、それこそが親鸞の追究した「信」の問題であると述べた。その「信」とは「宗教論」の文脈においては「絶対者の呼声」としての名号を聞き受けることによって成立するのであるが、西田はそれを単に受け身的なものとしては捉えていない。すなわち、その境涯が真に「現実的」であるためには「真の絶対的受働からは、真の絶対的能働が出て来なければならない」(同三四七頁)と指摘するのである。そのことが「我々の自己が絶対愛に包まれると云うことから、真に我々の自己の心の底から当為と云うものが出て来るのである」とも言われており、さらには 「仏の悲願の世界から、我々の自己の真の当為が出て来ると考えるものである」と押さえられる(同三四六頁)。

  ならば、ここで「真の当為」と呼ばれるものこそ、危機的状況にあった西田が「場所的論理と宗教的世界観」という視座のもと明かそうとした救済の内実ではないだろうか。それは「我々の自己が創造的世界の創造的要素として、絶対現在の自己限定として働く」(同三四六頁)とも言い表され、後には「平常底」という言葉をもって展開されるが、より端的に言えば、絶対者の「悲願」をとおして「真の自己」を自覚し、ほかならぬ自己自身として「此の世界」を創造的に生きるということである。同時にそれは、絶対者の側においても、その本分を尽くして真に絶対たりえる――すなわち「悲願」が成就することを意味するであろう。

  そして、このような宗教的世界観は、まさしく親鸞が『教行信証』「信巻」のなかで展開した「三一問答」の思索と通底している。すなわち、親鸞がこの問答をとおして覚知(信知)したものは、歴史を貫き迷い続ける「一切苦悩の衆生海」と、それを悲しみ傷まずにはおれない如来の大悲心であった。そして親鸞は、この問答を経由して、如

(27)

来の大悲心に値遇しながらもそれに背き続ける自己矛盾的なる自己の存在に対し、「愚禿」という名のりをもって次のように悲歎する。

誠に知んぬ。悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚之数に入ることを喜ばず、真証之証に近づくことを快しまず。恥ず可 し、傷む可し矣。(『聖典』二七一頁)

  ここで「悲しき哉」と歎かれるものは、自らの存在に対する悲しみであるとともに、如来の大悲心がどこまでも背き続ける自己自身にまで至り届いた事実の表明にほかならない。すなわち親鸞は、愚かなる自己の存在を悲しむのに 先立ちはたらき続けていた――換言すれば、我が身を包んでいた――如来の「悲願」を、背くという事実においていよいよ感得したのである。そして西田はこの悲歎の言葉に深い共鳴を示し、自らの『聖典』中に◯印を付している(【付録】番号

56、図 5参照)。   若き日の西田が随想「愚禿親鸞」を著し、「愚禿」という名のりに「宗教の真髄」を見いだしたことはよく知られている。「愚禿」とは、親鸞が我が身の悲歎を吐露するときの名のりであり、それゆえ西田が親鸞と出会った場所とも言える。そして何よりも、「愚禿釈親鸞」という名のもとに著された書――それこそが『教行信証』であった。

「むすび」と「ひらき」

  西田哲学を貫くものは「悲」の一字である。「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」(『西田全』五  九二頁)という言葉はあまりにも有名であるが、ここで「哲学の動機」と言い表される「人生の悲哀」は、最後の「宗教論」においては「宗教の問題」の 38

図 5 「悲歎述懐」に 付された○印

(28)

発起する源泉として見いだされる。

宗教の問題は、価値の問題ではない。我々が、我々の自己の根柢に、深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己の存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾と云うことは、古来言旧された常套語である。併し多くの人は深く此の事実を見詰めて居ない。何処までも此の事実を見詰めて行く時、我々に宗教の問題と云うものが起こって来なければならないのである(哲学の問題と云うものも実は此処から起るのである)。(『西田全』十  三一二-三一三頁)

  このような「自己の存在そのもの」が問われるような事態として惹起する「宗教の問題」は、「宗教論」ではさらに対象論理的な立場からの転換、すなわち「場所的論理」として展開されるのであるが、その思索を言論化するに当たり、西田は親鸞の『教行信証』を確かに読み込んでおり、とりわけ「信」の問題に深い共鳴を示した。それこそが、 哲学者・西田幾多郎が衝突した「親鸞問題」にほかならないであろう。そして、死を目前にした西田は「悲願」という言葉の奥底より「真の当為」を見いだし、「自分でなければならない仕事」として最後の「宗教論」を書き遺した。  ならば、没後七十年――それは同時に戦後七十年――の歳月を経た現代を生きる我々に託された仕事は、この書を自己の身上において「読む」ことであり、さらに言うならば、西田という一人物の生涯を貫いた「悲願」に出会うことではないだろうか。  本稿を結ぶに当たり、「西田幾多郎と『教行信証』」という入射角より開かれた新たな視座を提起しておきたい。  一つ目は、戦時下に西田と大拙との間で繰り広げられた、宗教をめぐる対話の意義である。そもそも西田は、最後の「宗教論」の執筆に先立ち、大拙の『浄土系思想論』を導きの糸として『教行信証』の読書に入り、とりわけ真宗の名号論を自らの哲学として血肉化していった。そのため今後はこの事実を踏まえたうえで、起稿の契機となった『日本的霊性』、とりわけ「即非の論理」との関係もたずね直さなければならないであろう。そして何よりも、西田は大

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