九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
違憲審査制の性格
長島, 伸弥
九州大学法学部
https://doi.org/10.15017/16943
出版情報:学生法政論集. 4, pp.65-83, 2010-03-23. 九州大学法政学会 バージョン:
権利関係:
長 島 伸 弥
はじめに
1.警察予備隊違憲訴訟 II.「客観訴訟」の位置づけ 皿.81条の解釈
IV.違憲審査制の性格 おわりに
はじめに
(D 本稿の目的
本稿は、いわゆる警察予備隊違憲訴訟判決を通して日本国憲法の定める違憲審査制の性 格を考えることを目的とする。
従来、目本の違憲審査制は具体的事件のみを契機に発動する付随的違憲審査制だといわ れてきた。その発端となったのが本稿で取り上げる警察予備隊違憲訴訟判決であるが、果 たして日本国憲法は付随的違憲審査制を定めたものとして読むのが立憲主義に適合的か、
また、同判決自体必ずしもそのような理解に立っているとはいえないのではないか、とい った疑念がぬぐい切れない。
さらにより深刻な問題として、付随的違憲審査制の実務における運用のために、現代に おいて肥大化した行政・立法権への憲法(裁判)による統制が必ずしも及んでいないとい
う現実社会の状況が筆者の念頭にはある。
(2)本稿の構成
以上のような問題関心を前提にして、本稿ではその目的を達するため、①「客観訴訟」
の位置づけ、②憲法81条の定める違憲審査権の解釈、という二つの大きな論点を取り上げ て考察を試みることとしたい。
まず、1で警察予備隊違憲訴訟の事実の概要と判決文をみる。次に且で「客観訴訟」の 位置づけについて、皿で憲法81条の解釈について、それぞれ主な学説を取り上げて検討す
る。最後にIVでこれら二つの論点について筆者の私見を簡単に提示する。
私見では、日本の違憲審査制は①76条の定める司法権により、「具体的国家行為を前提と
した法的争い」をも含む「具体的な争訟」を契機としてすべての裁判所が行使しうる付随 的違憲審査権、②81条において手続法令があれば最高裁判所のみ行使可能となる抽象的違 憲審査権の両方が併存する、ドイツともアメリカとも異なる独自の性格をもつものである
ことを明らかにする。
1.警察予備隊違憲訴訟
本格的な議論に入る前に、まずは警察予備隊違憲訴訟の事実の概要と判旨を確認してお
きたい。
〈事実の概要〉
本件は、日本社会党を代表して鈴木茂三郎(原告)が、自衛隊の前身たる警察予備隊の 設置ならびに維持に関して国(被告)が行った一切の行為の無効確認を求めて、直接、最 高裁判所に出訴した事件である。
〈判旨〉
本件について最高裁判所は、以下のように判示して、訴えを却下した1。
「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法 権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。我が裁判所は具 体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に 対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。け だし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内に おいて行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異ると ころはないのである(憲法76条1項参照)」。憲法81条は、「最高裁判所が憲法に関する事件 について終審的性格を有すること並びにそれがこの種の事件について排他的すなわち第1 審にして終審としての裁判権を有するものと推論することを得ない」。
「なお最高裁判所が原告の主張するがごとき法律命令等の抽象的な無効宣言をなす権限 を有するものとするならば、何人も違憲訴訟を最高裁判所に提起することにより法律命令 等の効力を争うことが頻発し、かくして最高裁判所はすべての国権の上に位する機関たる 観を呈し三権独立し、その間に均衡を保ち、相互に侵さざる民主政治の根本原理に背馳す
るにいたる恐れなしとしないのである。」
「要するにわが現行の制度の下においては、特定の者の具体的な法律関係につき紛争の 存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができるのであり、裁判所がかよ うな具体的事件を離れて抽象的に法律命令等の合憲性を判断する権限を有するとの見解に は、憲法上及び法令上何等の根拠も存しない。」
1 最大判昭和27年10月8日民集6巻9号783頁。
この、警察予備隊違憲訴訟判決(以下、同判決)は、一般に日本の違憲審査制が付随的 違憲審査制であることを明らかにしたものであるとされている。しかし、同判決が目本の 違憲審査制を付随的違憲審査制に限るものとしたのかどうかについては、疑問が残るとこ ろである。
よって以下では、同判決の二大論点である①「客観訴訟」の位置づけ、②憲法81条の解 釈についての考察を通して、同判決において観念された違憲審査制とは何か、また何と解 すべきであるのかについて考えてみたい。
豆.「客観訴訟」の位置づけ
同判決は、「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そ して司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする」ので、
裁判所が具体的事件を離れて抽象的に法律:命令等の合憲性を判断することはできないとい う判断を下した。日本の違憲審査制は具体的な事件に付随してのみ合憲か違憲かの審査を 行う付随的違憲審査制である、ということを同判決が明らかにしたと言われるゆえんであ
驕B
@しかしその後の判例が、直接には個人の具体的な争いではない「客観訴訟」の訴訟類型 においても違憲審査を行ってきたことは言うまでもない。たとえば「客観訴訟」の代表例 である民衆訴訟とは、行政事件訴訟法5条によると「国又は公共団体の機関の法規に適合
しない行為の是正を求める訴訟で、選挙人たる資格その他自己の法律上の利益にかかわら ない資格で提起するもの」であり、その定義からして原告の具体的な権利義務の存否を求 める訴訟形式ではないが、いわゆる津地鎮祭訴訟2など各種の「客観訴訟」の事件において 裁判所は憲法判断を行っている。
はたして、このような性質をもつ「客観訴訟」において裁判所が違憲審査を行うことは、
具体的な事件を離れて違憲審査をすることは許されないとした同判決の立場と矛盾しない であろうか。この問いにつき学説は一致して、結論的には矛盾しないと答えている。すな わち、「客観訴訟」における違憲審査を肯定しているのである。しかし、その論拠は論者に より異なる。以下では、本判決において一つ目の大きな論点となるこの問題についての主 な学説について検討を試みる。
(a) 通説(司法権=具体的争訟=法律上の争訟=判例の定義)
通説は、司法権の概念を「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、
2 最大判昭和52年7,月13日民集31巻4号533頁。
これを裁定する国家の作用」3とし、司法権が発動するためには「具体的な争訟」が提起さ れることが必要だとする。さらに通説は、この「具体的な争訟」とは裁判所法3条におけ
る「法律上の争訟」と同義であるとする。こうして司法権の対象は裁判所法3条の「法律 上の争訟」となる。さらに通説は、この「法律上の争訟」につき、それを①当事者間の具 体的な権利義務または法律関係の存否に関する紛争であって、②法令の適用により終局的 に解決できるものであるとする判例の定義4を受け入れている。これらの定義は「事件・争 訟性の要件」とも呼ばれる。ここにおいて、司法権=具体的争訟=法律上の争訟=判例の 定義という「通説的見解の長い等式」5が完成する。
以上のような通説の理論状況をみると、司法権の対象は判例の定義するところの法律上 の争訟となり、当事者間に具体的な権利義務の争いがなくても提起可能だとされる「客観 訴訟」は司法権の概念に含まれないこととなり、「客観訴訟」における違憲審査は否定され るように思われる。しかしこの点につき通説は、「客観訴訟」とは裁判所法三条において「裁 判所は、…一切の法律上の争訟を裁判し、そめ他法律において特に定める権限を有する」
と規定されているうちの「その他法律において特に定める権限」にあたり、法律で例外的 に認められた訴訟であるから許されるとしている6。が、かかる論法によるならば、いわゆ る抽象的違憲審査制を法律で設けることも、立法政策の問題と化さないか。佐藤教授の指 摘される通りである。この点につき通説は沈黙しており、説明不足の感が否めない。司法 権に含まれない作用を(通説のように行政権の概念について控除説をとるならばなおさら)
法律により裁判所に与えることを無条件に許すのは、やはり憲法が定めた権力の分配を法 律により変更したこととなり、権力分立に反するのではとの疑いが強く残る。
(b) 佐藤説(司法権=具体的争訟=法律上の争訟=判例の定義)
次に、佐藤i幸治の唱える説をみてみよう。佐藤は「事件・争訟性の要件」を司法権の本 質的要素だとして、立法権や行政権と区別される司法権の独自性を、「公平な第三者(裁判 官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するという、純理性のと
くに強く求められる特殊な参加と決定過程たるところ」7に見出す。そしてこれに最もなじ みやすいのが「具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして 真剣に争うということを前提に、公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事 者が拘束されるという構造である」8として、これを近代立憲主義における司法権の「本質
3 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法〔第四版〕』(岩波書店、2007年)320頁。
4 最判昭和28年1L月17日行集4巻11号2760頁。
5 南野森「司法権の概念」安西文雄ほか『憲法学の現代的論点〔第二版〕』(有斐閣、2009年)178頁。
6 参照、芦部・前掲註(3)323頁。
7 佐藤i幸治『憲法訴訟と司法権』(日本評論社、1984年)6〜7頁。
8 佐藤・前掲註(7)7頁。
的構造」として捉える。
「事件・争訟性の要件」が必要とされるのも、かかる構造の中で、国民各自が具体的権 利・義務関係のあり方を自ら決定していくということ(自己決定)と、国民各自の具体的 権利・義務関係について自己が適正に代表されていない過程によって決定されて法的に拘 束されることはないということ(デュー・プロセス)を担保する役割をもつからであると
している。
では、佐藤説において「客観訴訟」はどのように説明されているのであろうか。佐藤説 は先述のように「事件・争訟性の要件」を本質として司法権を理論的に観念するが、通説 と同様「事件・争訟性の要件」が「法律上の争訟」の判例の定義と同義であるということ を受け入れているため、この点において通説と異なるところはない。依然、「客観訴訟」に おける違憲審査は司法権の範囲外ではないのかという疑問が残るのである。
しかし通説と異なり佐藤はこの問題に自覚的であり、「客観訴訟」における違憲審査が許 される根拠を論じている。佐藤によれば、76条において裁判所が司法権を独占的に行使す るということは、裁判所が本来的司法権ならざる権限を行使してはならないということを 直ちに意味するわけではなく、「本来的司法権を核として、その周りには法政策的に決定さ るべき領域が存在して」9周期のである。
そして「客観訴訟」のようなものも、「裁判による法原理的決定の形態になじみやすいも の」10として「憲法上の限界」11を越えない範囲内であれば許されると述べる。そしてこの「な
じみやすいもの」とは何かについて、「『事件・争訟性』を擬制するだけの内実を備えてい ること、つまり、具体的な国家の行為があり、裁判による決定になじみやすい紛争の形態 を備えているものでなければならない」12との説明を加えている。
果たして、この説明は妥当であろうか。「『事件・争訟性』を擬制するだけの内実を備え ている」から認められるということは、事件性はないけれども事件性があると見倣して同
じ取扱いをすることとなる。が、これでは「一方で事件でないとしたものを他方で事件と 同様に取り扱うということにな」13り、「いかにも迂遠な議論の感を免れない」14。
さらに、佐藤をはじめとする憲法学者が立論の基礎にしているアメリカの議論において は、「事件・争訟性の要件」はそれほど厳格には解されておらず、たとえば日本で客観訴訟 として捉えられている訴訟類型に該当する納税者訴訟は、端的に、事件性の要件を充たす ものとして(主観的権利についての紛争として)司法権の対象であるとされている。佐藤
9 佐藤i幸治『憲法〔第三版〕』(青林書院、1995年)298頁。
10
@佐藤・前掲註(9)299頁。11@佐藤・前掲註(9)299頁。
12@佐藤幸治『現代国家と司法権』(有斐閣、1988年)251頁。
13@野坂泰司「憲法と司法権 憲法上の司法権の捉え方をめぐって」法学教室246号(2001年)45頁。
14
@野坂・前掲註(13)45頁。のようにこのような訴訟類型を「『事件・争訟性』を擬制するだけの内実を備えている」が あくまで本来的な司法権の対象ではないとすると、限定的にせよ行政権の概念について控 除説をとる佐藤の立場からは「客観訴訟」は行政作用となると思われるため、やはり客観 訴訟における違憲審査を正当化することは困難ではなかろうか。
(c) 野中説(司法権=具体的争訟=法律上の争訟=・判例の定義)
野中俊彦は、伝統的な通説の司法権概念に立脚した上で、まず、従来の違憲審査制の理 解について次のように指摘する15。
すなわち、初期の頃の違憲審査制をめぐる議論においてはその念頭に置かれていたのは もっぱら憲法裁判所型の抽象的違憲審査の権限(独立審査とも呼ばれる)であり、「客観訴 訟」のように具体的な国家行為を前提としたものは念頭に置かれていなかった。
しかし、一口に「抽象的」といっても実は二つの段階ないし場合があり、それは①国家 行為がまだ法令の制定に止まっており、それに基づく処分等が行われていない段階、②国 家行為は具体的に処分等の形で行われたが、限定された原告の具体的な法的利益の侵害と はいえない場合の二つである。そして第一の段階での違憲審査は、たしかに抽象的違憲審 査と呼ぶにふさわしいけれども、第二の場合のそれは、むしろ具体的審査と呼んでよいも のとする。野中によると、この場合国家行為は具体的に行われており、その国家行為と原 告の権利との間に一定の関係があるので、事件性の要件は実質的に充たされていると考え ることができる。
よって野中においては、「客観訴訟」は実質的には事件性の要件を充たしたものとして正 当化されうる。この説は、事件性の概念を拡大して「客観訴訟」における違憲審査を肯定 するものであるといえよう。
ただこの説については、「客観訴訟」の類型をまとめて論じすぎているのではないかとい う疑問が残る。この点につき安念は、「少なくとも住民訴訟について言えば、…実は主観訴 訟なのだと説明できそうである。しかしそれでも、機関訴訟を主観訴訟だと観念するのは、
いかにも強弁の感を免れない」16と指摘している。
以上、司法権=具体的争訟=法律上の争訟=判例の定義という通説の長い等式を維持し た論法について、通説に加えて佐藤、野中の説について検討してきた。続いて、通説の等 式を維持したこれらの論法とは異なり、通説の等式を否定して「客観訴訟」における違憲
15
@参照、野中俊彦「違憲審査制の性格」佐藤幸治ほか『ファンダメンタル憲法』(有斐閣、1994年)274@頁。
P6
@安念潤司「司法.権の概念」高橋和之=大石眞(編)『憲法の争点〔第三版〕』(有斐閣、1999年)224@頁。
審査を根拠付けようとする野坂、高橋の説について順に検討を加えていく。
(d) 野坂説(司法権=具体的争訟≠法律上の争訟二判例の定義)
野坂泰司は、伝統的通説の「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによっ て、これを裁定する国家の作用」であるという司法の観念を維持した上で、上の等式を否 定する。「事件性」の再定義を行うことによって、具体的争訟と法律上の争訟との間の等号 を断ち切るのである17。
野坂によると、司法はやはり「事件性」を概念要素として捉えられるべきであるが、こ こにいう「事件性」とはただちに「法律上の訴訟」を意味するわけではなく、「法律上の争 訟」を中核としつつ、それ以外の争い(たとえば、個人の権利義務に直接関わらない権限 争議の如きものまで)をも含む。したがって、「事件性」は「法律上の争訟」よりも広い概 念として再定義されることになる。よって、少なくとも現行の「客観訴訟」のような訴訟 類型は、そこに具体的な公権力の行為があり、それをめぐって争いが生じていることから、
ここにおける「事件性」に該当し、司法権に含まれるとされるのである。こうして野坂説 では、「客観訴訟」における違憲審査は司法権の行使に付随する権限として、憲法上全く問 題なく承認できることになる。
この説は、次の高橋のように従来の司法の観念を根本的に変えることなく「客観訴訟」
を司法権の範囲に当然含めて考えることができるという点で、また、あくまで法律上の争 訟を司法権の中核に据えることで司法の独自性(佐藤が強調した自己決定やデュー・プロ セスの担保であり、筆者は究極的には私権保障であると考える)を保つことができるとい う点で、絶妙な解釈だといえる。しかし、絶妙なバランスをとったがために、新たな問題 が生じてしまっていることも否めない。すなわち、野坂の定義した「広い事件性」(=「法 律上の争訟」+それ以外の争い)は、通説・判例のいう「狭い事件性」(=「法律上の争訟」)
との問に用語法上の混乱を生んでしまう。「事件性」と言ってみたときにどちらの意味を示 すのか判然としなくなるのである。本人も自覚する通り、「多少の違和感が伴う」18。野坂 説の困難な点はこれぐらいであろうか。
(e) 高橋説(司法権≠具体的争訟=法律上の争訟=判例の定義)
通説の等式を否定する論者として最後に高橋説について検討する19。高橋和之は、司法 の観念は歴史的に形成されてきたものであって理論的に構成することは不可能であるとす
17@参照、野坂・前掲註(13)42頁。
18@野坂・前掲註(13)47頁。
19@参照、高橋和之『現代立憲主義の制度構想』(有斐閣、2006年)141頁。
る従来の見解20に対して、実質的には不可能でも形式的にならば理論構成可能であると主
張する。 高橋によると、司法作用はその発動の条件の観点から形式的に定義可能である。
その条件として高橋は、司法作用の受動性、司法手続きの適正性、司法作用の終局性を挙 げている。これらの条件を加味して司法は、「適法な提訴を待って、法律の解釈・適用に関 する争いを、適切な手続の下に、終局的に裁定する作用」21であると定義される。
さて、このような司法の定義をとる高橋において「客観訴訟」の位置づけはどうなるの であろうか。この点につき高橋説では、前述の司法の定義において従来の事件性の要件を 要求していないので、「客観訴訟」も司法権の範囲に当然含まれることとなる。付随的違憲 審査制においては「事件」の存在が前提となるが、高橋によるとここにいう「事件」とは 具体的事件に限定されない。すなわち、「司法裁判所に適法に係属した『事件』なら『抽象 的』事件でもかまわない」22のである。よって高橋においても他の論者と同じく「客観訴訟」
は肯定されることになる。
以上のように司法の観念を根本的に変えることで事件性の要件の呪縛から放たれ、「客観
訴訟」 を(主観訴訟的に擬制したりすることなく)当然司法権の範囲に含めて考えること ができるようになった。しかし、そのように司法概念を根底から変更してしまったがため
に、 逆に佐藤が改めて注意を喚起した司法の独自性が消えてしまっているともいえそうで
ある。
そもそも明治憲法における「司法」はもっぱら民・刑事の裁判に限定されていたし、ま たドイツ基本法においても「司法」の範囲は民・刑事に限定されており、「司法」を取り扱
う通常裁判所の権限に憲法裁判所や行政裁判所など各種の裁判所の権限を合わせて「裁判」
(Rechtsprechung)という上級概念を使用している(9章92条以下)。さらにいえば、日本 では 「客観訴訟」の訴訟類型だと考えられるケースで違憲審査を行っていると評価できる アメ リカ23においてさえも、合衆国憲法において「司法」は「すべての事件および争訟」
に及ぶとされ、個別・具体的な事件の法的解決というのがその本質とされる24。やはり司 法の本質的使命は個人の具体的な法的争いを取り扱うことによって私権保障を実現するこ となのである。思うに、高橋は日本国憲法の「司法」にドイツ基本法的な「裁判」概念を 読み込もうとしているのではないか。これは近時より一層高まる裁判所への社会からの期
20
参照、宮沢俊義『憲法と裁判』(有斐閣、1967年)29頁。21
高橋・前掲註(19)153頁。22
高橋・前掲註(19)153頁。23
たとえば、日本における「住民訴訟」は「客観訴訟」の代表格であり行政事件訴訟法の 手続きによ らなければ提起することができないが、アメリカにおいては同じような事実関係においても主観的権 利の侵害として特別な手続法がなくとも提起可能である。これは、アメリカにおける事件性の要件が日本のそれに比べて弾力的に解されているからであるといえよう。
24
参照、野中俊彦「憲法上の『司法』観念とその展開 ドイツと目本の比較」藤田宙靖=高橋和之(編)『樋口陽一先生古稀記念/憲法論集』(創文社、2004年)205頁。
待に応えるためには良いのかもしれないが、「司法」という語の本質的意味を失っており、
また同時に「司法」という語の画する意味の範囲の限界を脱しているともいえ、解釈の限 界を超えてしまっている。もちろん高橋は司法の私権保障の側面を軽視しているわけでは なく、「事件・争訟性の要件」は司法が及ぶ対象の問題として別に論ずるべきだとしている のではあるが、私権保障という司法の本来的使命ともいえる機能を司法の概念から切り離
してそれは司法の及ぶ対象に過ぎないといったのでは、それでは司法とは一体何であった のかということになってしまう。
高橋が定義するところの「司法」、すなわち「適法な提訴を待って、法律の解釈・適用に 関する争いを、適切な手続の下に、終局的に裁定する作用」とは、「事件・争訟性の要件」
の要素を除いたために、ドイツ基本法の「裁判」概念に限りなく近づく。では、「司法」と は「裁判」であったのか。「事件・争訟性の要件」の有無によるとは俄かには断定しがたい が、佐藤がいうように「『裁判』それ自体はより包括的ないし普遍的な概念であ」25り、少 なくとも「『司法』と『裁判』とは区別して考えらるべきもののように思われる」26。
また、高橋によると法律で認められて「適法な提訴」がなされれば裁判所は司法権を行 使できることになり、そうであれば通説が否定するところの抽象的違憲審査(独立審査)
のごときものも法律で定めれば可能になると考えられるのだが、高橋はこれを否定する。
憲法81条の解釈について通説(後述のA説)の立場をとり、裁判所には抽象的違憲審査(独 立審査)の権限は与えられていないと解した上で、その反対解釈から、日本国憲法は法律 が合憲かどうかを直接に判断する権限を裁判所ではなく国会に与えたものと考えるのであ る27。しかし、そもそも筆者は81条の解釈について通説的な立場に立つことに賛同できな いし(後述IV)、たとえ通説的な81条の理解に立ったとしても、法律が制定された時点です でに法律の合憲性についての国会の優先的な判断権は行使し尽くされており、一度制定さ れた法律を裁判所が審査することは特に国会の優先的な判断権を害するものではないと考
えることができるのではないか28。
最後に、高橋は「客観訴訟」が自身の司法観念に当然含まれることを説明する際に、「司 法裁判所に適法に係属した『事件』なら『抽象的』事件でもかまわない」29と言及している が、それでは同判決の「司法権が発動するためには『具体的』な争訟『事件』が提起され ることを必要とする」(二重括弧筆者)という記述と相容れない。
司法の概念にはやはり「具体的な事件」が必要であると考える判例・通説・佐藤・野中・
25
@佐藤i・前掲註(12)31頁。26
@佐藤・前掲註(12)31頁。27
@参照、高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣、2005年)360〜361頁。28
@野坂はこの点を、81条が否定するのは憲法裁判所による独立審査であって、抽象的規範統制ではなか ったはずだと指摘している。参照、前掲註(13)47頁。29
@高橋・前掲註(19)153頁。野坂の見解と高橋の見解にはかなりの乖離があるといえよう。
以上、一つ目の論点である司法の概念との関係における「客観訴訟」の位置づけについ て学説を概観し、検討を加えた。次章では、二つ目の論点である憲法81条の解釈について 学説を取り上げて検討する。
皿.81条の解釈
憲法81条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしな いかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定している。同条の解釈については かねてよりさまざまな立場からの争いがあったが、同判決では原告が憲法81条を根拠に、
直接最高裁判所に警察予備隊の合憲性についての判断を求めて出訴したため、81条の解釈 が争点化することとなった。この点につき学説では、最高裁判所が付随的違憲審査権をも っことについては争いがなかったが、それに加えて抽象的違憲審査権までをも有するか否 かで対立していた。
以下では、81条の解釈についての学説を四類型に分類して考察することとする。
(a) A説(通説・否定説)
まずA説は、憲法81条は付随的違憲審査権のみを規定するため、最高裁に抽象的違憲審 査権を付与することは憲法に違反すると主張する30。その主な論拠は、①日本国憲法の由 来するアメリカ憲法では付随的審査制がとられていること、②憲法81条は「司法」の章に あり、違憲審査権も司法権の範囲内でのみ認められる、③最高裁に抽象的違憲審査権を認 めると三権分立の原理や国民主権原理に反する、④抽象的違憲審査を求める手続き、出訴 権者、判決の効力等に関する憲法の明文規定がない等である。
同説は、これらの根拠から81条を付随的違憲審査制の確認規定にすぎないと解するが、
はたしてそのように読む必然性があるのか定かではない。しかし、判例実務に適合的な解 釈であり、一定の説得力はあるといえよう。
(b) B説(法律委任説)
次にB説は、憲法81条は付随的違憲審査権を定めているだけなので、抽象的違憲審査権 については憲法上白紙の状態にあるとして、最高裁の司法裁判所としての本質に反しない 限度で、一定の抽象的違憲審査権を含む憲法裁判所的権限を法律により最高裁に認めるこ
30
@この見解は通説を形成している。芦部・前掲註(3)362頁。とは憲法に反しないと説く31。
しかし、「国家機関の権限は憲法に根拠をおいているかいないか=憲法によって与えられ ているかいないかであってその中間はありえない」32のである。手続法令整備によって抽象 的違憲審査が可能となるのであればそれは憲法上抽象的違憲審査権が与えられていること になり、B説は「論理的にいってBC説(憲法上の抽象的違憲審査権を肯定する説と否定 する説、本稿におけるA説とC説)のいずれかに分解せざるをえない」33(括弧内筆者)。
(c) C説(手続法令必要説)
C説は、憲法81条は付随的違憲審査権と抽象的違憲審査権の両方を含む合憲性の決定権 を最高裁に付与しているが、抽象的違憲審査を:最高裁に求める手続法が存在しないため、
抽象的違憲審査は行えないと解する34。
この説については、アメリカをもとにして作られた日本国憲法において抽象的違憲審査 権を認めるのは可能なのかという批判がなされている。もちろん制定過程や沿革における 議論は最大限に尊重すべきであるが、制定過程や沿革を絶対視する必要は必ずしもなく、
C説のような見解も論理的に不可能かと云われればそうともいいきれない。また、判決理 由文中の「現行の制度上」「憲法上及び法令上」なる語の読みようによっては、必ずしも同 判決において否定されたともいえない。
(d) D説(直接肯定説)
D説は、憲法81条は最高裁に司法裁判所と憲法裁判所の両方の性格を認めているため、
憲法裁判の手続法がなくとも、最高裁は直接憲法81条を根拠に抽象的違憲審査権を含む憲 法裁判権を行使しうると理解する35。①司法権は抽象的違憲審査権を含みうるほどに流動 的である、②三権分立の原理には様々な態様があり、その原理を厳格に解することにより 憲法裁判権を否定することはできない、③抽象的違憲審査に関する詳細な規定をおくかど
うかは憲法上の立法政策の問題であり、規定の不存在は権限の否定を意味しない等が主な 根拠である。
この説については、同判決で明確に否定されているし、最高裁判所が抽象的違憲審査権 なる強大な権限を行使するには、提訴権者・判決の効力等についての規定が(憲法上かは
31
@たとえば、中村睦男=常本照樹『憲法裁判50年』(悠々社、1997年)21〜22頁。32
@樋口陽一「違憲立法審査権の性格 最高裁判所は具体的事件を離れて抽象的に法律命令等の合憲性 を判断できるか」我妻栄(編)『憲法の判例』(有斐閣、1966年)158頁。33
@樋口・前掲註(32)158頁。34
@代表的なものとして、佐々木惣一「国家行為の純粋合憲性に対する最高裁判所の決定権」法学論叢61 巻4号1頁。35
@参照、榎原猛「違憲立法審査制度の再検討」小森義峰ほか『大石義雄先生喜寿記念/日本国憲法の再 検討』(嵯峨野書院、1980年)542頁。ともかく) 少なくとも法律上は存在しているべきことから、極めて困難な解釈であるとい
えよう。
】V. 違憲審査制の性格
以上、 本判決において問題となる①付随的違憲審査制と「客観訴訟」との関係、②憲法 81条の定める違憲審査権の解釈の二点について、稚拙ながら検討を行った。以下では、こ れら二点の問題に留意しつつ、簡単にではあるが、我が国の違憲審査制の性格についての 私見を述べたいと思う。
(1) 付随的違憲審査制と「客観訴訟」との関係
まず、 付随的違憲審査制において「客観訴訟」における審査は正当化されうるのかとい
る。
う問題について筆者は、これまで見てきた諸学説と同様、正当化されうるという立場をと
アれまで用いてきた等式を使って説明するならば、司法権=具体的争訟≠法律上の争訟
=判例の定義となる。野坂のように「具体的争訟」と「法律上の争訟」との問の等号を断 ち切るのである。ただし、用語法上の混乱をさけるため、「事件性」の再定義ということは
しない。 「具体的な争訟」の方を再定義するのである36。
① 具体的と主観的、抽象的と客観的の区別
従来の議論では暗黙のうちに、「具体的=主観的」、「抽象的=客観的」として議論が進 められてきたように思える。が、しかし、これは自明のことではない。「具体的」とは直 ちに 「主観的」を意味するのではなく、具体的国家行為を前提とすれば、たとえそれが 個人の主観的な権利・利益に直接の関係がなくともそれは未だに「具体的」であり、「具 体的一客観的」となることも十分に考えられるのである。
② 主観的事件性の要件と客観的事件性の要件
このことから、私はこれまで「事件・争訟性の要件」と呼ばれてきたものを『主観的 事件性の要件』、現行の「客観訴訟」のように「具体的国家行為を前提とした法的争い」
であることを『客観的事仲性の要件』と呼ぶこととする(ちなみに、ここにおける「具 体的国家行為を前提とした法的争い」とはまさに、佐藤において「『事件・争訟性』を擬 制するだけの内実を備えている」とされ、野中において「抽象的」の第二段階にあたり むしろ具体的であるとされたもののことである)。
36
@参照、 南野・前掲註(5)183頁。そしてその二つのどちらも「具体的」であることには変わりがないから、「具体的な争 訟」となりうる。
③ 「具体的な争訟」の再定義
よってここに、「具体的な争訟」=『主観的事件性の要件を充たす争訟』+『客観的事 件性の要件を充たす争訟』という等式が成立する。『主観的事件性の要件を充たす争訟』
とは「法律上の争訟」であり、『客観的事件性の要件を充たす争訟』とは現行の「客観訴 訟」のようなものである。
ただ、ここで一つ注意しておきたい。このような等式においてこれら二つを並べると まるで同等の扱いをしているようであるが、前に述べた佐藤の主張から明らかであるよ うに、あくまで「法律上の争訟」の条件となる『主観的事件性の要件』が司法権概念の 本質であり中核であるということである。それは自己決定やデュー・プロセスを担保し、
究極的には私権保障をその目的とする。一方で「客観訴訟」のようなものは、潜在的に は司法権の対象となる可能性を秘めているが、それは国会が特に必要と認め法律により 定められた場合にのみ顕在化し、裁判所の審査の対象となりうる。これに対し『主観的 事件性の要件』を充たすものは、特に規定を設けずとも当然に裁判所の審査の対象とな
るのである。
こうして「具体的な争訟」は、「法律上の争訟」を中核としつつも、それに加えて現行 の「客観訴訟」のようなものをも含むより広い概念として再定義されるのである。
④ 「具体的な争訟」を再定義することの意義
以上のように、あくまで従来の「事件・争訟性の要件」である『主観的事件性の要件』
を中核に据えた「具体的な争訟」の再定義によって、佐藤の強調した「国民各自が具体 的権利・義務関係のあり方を自ら決定していくということ(自己決定)と、国民各自の 具体的権利・義務関係について自己が適正に代表されていない過程によって決定されて 法的に拘束されることはないということ(デュー・プロセス)」を担保し、究極的には個 人の権利を救済する(権利救済・私権保障)という司法の独自性を失わせることなく、
なおかっ「具体的な国家行為を前提とした法的争い」(=『客観的事件性の要件』)とい う明確な基準を画して、「客観訴訟」における違憲審査を当然に司法権に含めて考えるこ とができるのである。
⑤結論
よって結論として、「具体的国家行為を前提とした法的争い」である現行の「客観訴訟」
は、『客観的事件性の要件』を充たすので、そこにおける違憲審査は司法権の行使に付随 するものとして、付随的違憲審査制の下でも正当化されうる。
(2) 81条の定める違憲審査権の解釈
続いて、81条の解釈についての私見を述べる。81条の解釈について筆者は、前述のC説、
すなわち、手続法令必要説をとる。
それぞれの解釈の適否についてはすでにIVの検討の部分で述べたので、ここではA・C どちらの説も解釈論上まったくとれないわけではないという前提に立った上で、Cの手続 法令必要説の方を選ぶべきだとする積極的な論拠を示したい。
81条の定める違憲審査制の性格を考える前に、まず、我が国の現実社会の状況をみてみ よう。社会福祉の充実等、行政サービスの需要が高まっている現代国家日本において、行 政の肥大化が進み、その活動の範囲・規模は日に日に増してゆくばかりである。
さらにいえば、その肥大化した行政と立法の両方を国会の多数党が同時支配するという、
議院内閣制をとる我が国特有の問題点も指摘できる。我が国の学説に、立法と行政を合わ せたものを「政治部門」と呼び、裁判所と対置させるものがあるのもこういった状況を懸 念してのことと思われる。
樋口陽一はこのように立法と行政が多数党のもとに実質的に一体化していることを、「自 由主義的三権分立構造の実体的基盤の喪失」37という表現をもって指摘する。彼によると、
、
このような「事情のもとで、かつて三権分立が標罰してきたところの国民の権利保護とい う観点から、裁判的過程にもっぱら一しばしば過大なまでの一期待が寄せられている」38
(傍点原文)。こういつた現実社会の状況を念頭に置いた上で、以下では抽象的違憲審査権 が憲法上要請されていることの論拠を示す。
①法の支配の要請
憲法の基本的な原理の一つとして、「法の支配」が挙げられる。これは、権力は予め存 在する法に従って行使されなければならないということを意味する。しかし、前述のよ
うに現代日本が議院内閣制をとっていることに鑑みると、「法の支配」が妥当していると は到底思われない。すなわち、「自由主義的三権分立構造の実体的基盤の喪失」と樋口が 表現したように、国会の多数党が立法と行政を同時支配している現代日本においては、
国会の立法による行政への監視・統制の機能は著しく低下しているのであり、裁判所に よる違憲審査も具体的な事件を通してでしか行われないため、憲法に違反するような国 家行為をコントロールすることができない状況となっている。つまり、違憲の法律や国 家行為について「法の支配」が妥当しない範囲があるのである。
このような状況に鑑:みると、「法の支配」を日本国憲法下で実質的に妥当させるために
37
@樋口・前掲註(32)161頁。38
@樋口・前掲註(32)161頁。は、81条を付随的違憲審査権の確認規定だと解すのではなく、司法作用とは別の抽象的 な違憲審査権を定めたものと解して、裁判所が立法や行政の行きすぎをコントロールで きる可能性を憲法上残すことが解釈論としては要請されるのである。
②立憲主義の要請(司法権と抽象的違憲審査権の区別)
次に立憲主義の要請について述べたいと思う。立憲主義とは、一般に憲法を制定して 国家権力を制限することによって個人の権利を保障しようとするものである。そしてこ れにより国家権力制限の目的から、権力分立の原理が導かれる。
しかし、先述のような「自由主義的三権分立構造の実体的基盤の喪失」が起こってい る現代日本においては、立法と行政が密接に結びつき、これら二権は実質的には一体と なり、一つの巨大な国家権力と化している。それは樋口教授がいうところの「政治部門」
であり、これはむしろ二権分立とでもいいうる状況ではなかろうか。実際、我が国と同 じく議院内閣制をとるドイツの学説においては、「形成」(立法+執行)と「維持」(司法)
の二野分立を考える学説もある39。
このような我が国の現実を直視するに、やはり三権分立による人権保障はもはや妥当 しておらず、上のドイツの学説のような二権分立をとるかどうかはともかく、「政治部門」
と「裁判部門」の二部門が並立していると捉え、強大な国家権力と化した「政治部門」
の権力を制限するために、司法権(76条)とは別に抽象的違憲審査権なるもの(81条)
が最高裁判所に与えられていると解するのが権力分立の今日的形態に適合的であると筆 者は考える。この点につき、日本国憲法はアメリカの憲法をもとにして作られたのであ るから、81条はアメリカで判例によって形成された違憲審査権を確認した規定に過ぎな いという論者が見受けられるが、厳格な三権分立の制度をとっているとされるアメリカ の憲法と議院内閣制をとる日本国憲法とではまったく事情が異なるのである。もとより、
日本国憲法がアメリカの憲法をもとにして作られたからといってそれと同じに解すべき 必然性はなく、さらにいえば、同じに解すべきとするのならばなおさら、司法権の行使 に伴う違憲審査は司法権を定めた76条や憲法の:最高法規性を定めた98条等の規定により、
およそ司法権の本質上当然導き出されるものであり(合衆国憲法には81条のように違憲 審査制を定めた規定がない)、81条はむしろ司法権とは別個の抽象的違憲審査権を与えた
ものと解すべきではないか。
従来の抽象的違憲審査を肯定する見解がもっぱら司法観念の歴史的流動性に着目し、
抽象的違憲審査の権能を司法権に含めて考えてしまったから、個人の具体的な権利保護 を目的とする司法との齪齪を生み出したのである。逆にこれを司法権とは別個の権限と 考えたればわかりやすいであろう。憲法が個別の条文で「一切の」という強い文言を使
39
樋口・前掲註(32)161頁。擁して授権しているからにはそれなりの重みがあり、単に章のタイトルが「司法」であ るというだけでそれを否定する根拠にはなりえないと考える。そしてこの場合には司法 の独自性(私見保障)を損なわせることなしに最高裁判所にだけは抽象的違憲審査の権 限を与えることが可能となるため、今日においてはこの「司法権と抽象的違憲審査権の 区別」が決定的に重要である40。
81条が最高裁判所は「一切の」法律命令等の合憲性を決定する権限を有すると規定し たのは、やはり「政治部門」が巨大となった現代国家においては、仮に「憲法訴訟法」
等の法令の定めが設けられた場合には具体的な事件に関係がなくとも「一切の」法律命 令等についての合憲性の判断をすることができるとした趣旨であると解すべきである。
同条が付随的違憲審査権を規定しただけと解することは同条の積極的な意味を失わせる ことになるであろう。
③平和主義の保障の要請
次に日本国憲法特有の要請として、「基本的人権尊重主義や平和主義が抽象的違憲審査 を認めることによってよりょく保障される、という事情がある。」4正
特に平和主義については、状況はより切実である。たとえば日本が空母をもったらど うなるであろう。政府解釈によれば、「自衛のための必要最小限度の実力」42ならば憲法 第9条の定める「戦力」にあたらず許されることになるが、「他国に侵略的な脅威を与え るような攻撃的武器」43をもつことは許されず、憲法違反となる。この点空母は攻撃的な 兵器であるとの理解に立つと、現在の自衛隊は空母を所持していないので、仮に日本が 空母をもっことになれば違憲となることと思われる。しかし、そうなったときに9条の 平和主義はどのようにして保障されるのであろうか。まず、司法における救済について はこれまで何度も述べたように、やはり司法の本質は個人の権利・利益の救済であるか ら、たとえ自衛隊が空母をもつことになったとしても、それにより個人の権利が侵害さ れたわけではない(平和的生存権については判例上具体的権利性がないとされる)ので、
司法権の範囲外となり裁判所に訴えることは現行の制度上不可能である。では、空母の 購入は税金の違法な使用であり、それにより財産権を侵害されたと主張する方法をとる
40
これにより、「政治部門」(行政権+立法権)の二権vs「裁判部門」(司法権)の一権の様相を呈してい た今日の「自由主義的三権分立構造の実体的基盤の喪失」が、「政治部門」(行政権+立法権)の二権 vs「裁判部門」(司法権+抽象的違憲審査権)の二権として改善され均衡することになる。もちろんそ れそれの部門内において二権を行う主体は異なることから(たとえば行政権を行うのは内閣で立法権 を行うのは国会である)、三権分立というわけでもない。部門外部との関係では互いに緊張関係にあり、部門内部ではゆるやかに州権が分立している、二部門対立型の四権分立とでもいうべきものか。
41
樋口・前掲註(32)160頁。42
芦部・前掲註(3)62頁。43
芦部・前掲註(3)62頁。のか。この場合、筆者が定義するところの『客観的事件性の要件』を充たすが、現行の 制度上「住民訴訟」の国民ヴァージョンのようなものは法定されていないので、それを 特別に認めるような立法がない限り自衛隊の空母所持違憲の訴えは認められない。
このようにみていくと、平和主義を保障する手段は極めて限られることとなる。たと えば恵庭事件において被告人が自衛隊の基地の電信線を切ったような、極めて偶然性の 、 、 b「具体的な事件が起きなければならないのである。この点を手島は、「法令審査のカズ
、 、 、 、 、
イスチック性(偶然性)」44の問題と表現して指摘している。
以上のようなケースを考えると、81条の定める違憲審査権を付随的審査に限ったので は、当該平和主義に反する国家行為は、具体的な事件が生起しない限り野放しのままで ある。このようになかなか特定の個人の権利・利益と結び付きにくい平和主義の保障と いう観点からは、81条は抽象的違憲審査権を定めた規定であると解すべきである。
④実効的権利救済の要請
さらに最高裁判所の抽象的違憲審査権を肯定しうる論拠について、実効的権利救済の 要請があげられることかと思う。すなわち、憲法において保障された権利は基本的人権 の永久不可侵性について規定した11条・97条や憲法全体の趣旨から実効的に救済される ことが要請され、その実効的な救済を図るならば、個人の具体的な権利・利益が侵害さ
、 、 、
れたあとの司法裁判所による事後的救済だけでは十分でなく、違憲の法律の制定時や行
、 、 、
政処分がなされた時点で、:最高裁判所の抽象的違憲審査による事前の救済も要請される のである。言い換えるならば、直接的な権利救済は76条・司法権の司法裁判所に、間接 的な権利救済は81条・抽象的違憲審査権の最高裁判所に、といったように役割分担する のである。そのほうが、実効的な権利救済に資するといえよう。
⑤憲法12条「国民の不断の努力」の要請
最後に、明文の規定の要請として憲法第12条の要請を挙げたいと思う。この条文は、
なかなかとりあげられることのない極めてマイナーな条文ではあるが、私はこの条文に 81条における抽象的違憲審査権の希望を託したい。12条はその前段において、「この憲法 が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければ ならない。」と定める。ここで注目さるべきは、「国民の不断の努力」という文言である。
すなわち、憲法が保障する権利は、「国民の不断の努力」によって保持されなければなら ないのであって、「不断の努力」であるから国民は常に憲法の保障する自由及び権利を保 持するよう要請されるのであって、それは司法裁判所に対して出訴するというような極
44
手島孝「法令に対する司法審査」塩野宏=小早川光郎(編)『行政判例百選H〔第三版〕』(有斐閣、1993 年)361頁。、 、 、 、 、 、
めて事後的偶発的努力のみでは足りないのである。つまるところ、12条はその明文の規 定によって④において述べた実効的権利救済の要請を国民の努力義務に昇華させる機能 を果たすのである。これによって全国民にさきの事前救済の努力も要請され、「実効的権 利救済の制度整備義務」が生じ、結果として81条の定める違憲審査権は当然抽象的違憲 審査権と解さなければならなくなるのである。無論、抽象的違憲審査権行使のための手 続法令の整備義務も生じ、これがなされていない間は立法不作為による違憲状態となる。
もっとも、この違憲状態の是IEを裁判所に訴えようにもそれは不可能である。なぜなら、
手続法令の不在によって個人の権利が侵害されたといったような「具体的な事件」が起 きているわけではないからである。
こうして抽象的違憲審査を最高裁に付与するための手続法令を実際に整備するとなっ た場合には、12条において「国民」が不断の努力を行うとされていることが問題とされ なければならない。この点につき大いに参考となるのが、以下の樋口の論考であるので、
最後にこれを抜粋しておきたい45。
抽象的違憲審査の提訴権はふつう一定の国家機関ないしその構成員の一定数に与えら れる。しかし、人権保護の観点からは、審査の開始いかんが国家機関を占める多数派 側(フランスでは大統領、首相、各院議長の四者)に委ねられているのでは足りない こというまでもないが、一定数の少数派側(西独では連邦議会議員の三分の一)にま で拡げられるだけでも十分ではなく、何よりも、市民としての国民個人に依存するよ
うな制度が必要である。
以上のように、81条の解釈において付随的違憲審査制をとったのでは、12条における
「不断の」という文言の意義が失われてしまうので、81条は「国民の不断の努力」を実 行可能にするものとしての抽象的違憲審査権について規定したものと解すべきである。
⑥結論
憲法81条は、今日の権力分立の態様、法の支配、立憲主義、平和主義、実効的な権利 救済、12条「国民の不断の努力」の文言等から、抽象的違憲審査制を定めたものと解す のが立憲主義に適合的である。
ただし、ドイツの憲法裁判所のように一般的効力をもつ強力な違憲審査権をただちに 法律によって認めるべきだと主張しているわけではない。学説の役割としては、81条を 付随的違憲審査に限った規定だと頑なに解釈することによって「国民の不断の努力」の 道を閉ざすのではなく、あくまで憲法の解釈として、法律によって認めることのできる
45樋口・前掲註(32)161頁。
可能性を残しておくことが肝要である。その上で、提訴権者や違憲判決の効力等の抽象 的違憲審査権の制約原理を立法論的に理論構築していくべきではないか。
(3)私見総括
以上、整理してまとめる。
日本の違憲審査制は、①76条の定める司法権により、「具体的国家行為を前提とした法的 争い」をも含む「具体的な争訟」を契機としてすべての裁判所が行使しうる付随的違憲審 査権、②81条において手続法令があれば最高裁判所のみ行使可能となる抽象的違憲審査権 の両方が併存する、ドイツともアメリカとも異なる独自の性格をもつものである。
おわりに
「客観訴訟」と司法権を巡る一連の議論は、「司法」から「裁判」への流れの中で、現代 の裁判所のあるべき姿を追い求めたものであったと思う。私見では現行の制度の中で考え うる最善の解釈を示したつもりであるが、筆者自身まだまだ検討の余地があると思うし、
およそ試論の域を出ない。
また本稿では81条の抽象的違憲審査としての活用可能性について示唆したのみで、その 具体的内容(判決の効力や提訴権者など)については考察できなかった。本来ならばこの 点を深く考察し、抽象的違憲審査の制約原理を理論構築することで81条の活用(もしくは 憲法裁判所の導入)の下地を整えるべきであるが、本稿ではこの問題提起を行うにとどめ、
この点は今後の課題としたい。兎にも角にも、依然として違憲審査制の性格は熟慮を要す る問題であるといえよう。