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本居宣長の古事記研究小論

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

本居宣長の古事記研究小論

笹月, 淸美

九州帝國大學法文學部副手

https://doi.org/10.15017/10580

出版情報:九大國文學. 1, pp.73-98, 1931-09-01. 九大國文學研究會 バージョン:

権利関係:

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本居宣長の古事記研究小論

笹 月 清

 此の小論に於τは︑本文批評及び訓法の方法論的考察に依って︑本居宣長の古事記研究の一特質を窺ひ見ようS思ふ︒

丈中︑︵寵傳︶Sあるのは糖ぺて増補本居全集に於ける古事記傳を指す︒

 古事記傳一之巻の第八節に於てセ宣長は︑﹁主ミ古語を委細に考へて訓を重くすべき﹂所由︑邸ち︑自らを脳ってひたす

らに古言を求めしめた内的理由を説明してみる︒先づ古事記の序文にある﹁飛鳥蚕繭原宮御宇天皇の大詔命﹂を暴げて言

ふには︑︷︐稗田古血Sいひし人に大御口つから仰せ賜ひて︑書函日縫ぐ﹂先代奮僻εを言うかべ留はしむSあるをよく昧ふべ

し﹂S︒︵認傳三一一頁︶即ち︑何故に阿禮をして口諦せしめられたか︑その意味が︑宜長に於ける︑前述の内的理由のよって

來る根本のものSして︑先づ把握されねばならないぐ﹂言ふのであった︒

 宣長は記録の獲生を記紀の傳みる標に慮紳天皇の御世に置ぎ︑﹁懐風藻の序なさにも此の趣の見ゆるが故に奈良の頃も門

戸傳へたるなるべし﹂§言ひ一而して又︑﹁そのかみ古書昏も各異なるこSあるぺければ此ε彼Sは正しくは合ふまじきこ

Sわりなり﹂︵記傳一三垂二頁︶S言って︑古く認鎌が存在し且つそれは勿論一書には止まらなかったのであるS考へてるる︒

        水居宜長の古事甑研究小論      七三

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九大國丈學 第一號七四

即ち︑書籍の未だ存しなかった遙かなる上代に惟ては﹁た口語もて工臨へしを書に記すこε初まりて後は︑其の傳語を

も皆書にしるして﹂傳へられるこS・なわ︑︵機翼一三五三頁︶而して其の褒展は宣長がかの﹁古記典等総論﹂の條に於て概

観した如き︑古事記撰録以前よりの歴代の豊強事業Sなって表はれたのである︒かくして寛長は︑書紀に連なるこの修史

事業の全系列εは別個に古事記が成立した所以は何腱に存するかS言ふ問題に當面しなければならなかった︒何故に古事

記の成立するこぐ﹂が必要であったか︒此れに出する答は﹁彼撲は潤色を加へて漢の町史に似するを旨Sし︑此は古の正實の

さまを傳へむがためなるべし﹂︵記傳二頁︶Sいふ古事記の特殊性に求められたのであったが︑然しこ・には更に︑か・る記

録存在の時代に於て何故に口翻の過程を経ねばならなかったかく﹂云ふ今一つの問題が明かにされなければならない︒而し

て此の問題の解決こそ古事記成立の必然性及び宣長が古言を求めざるを得なかった内的理由を明かにするものであった︒

 宣長の言ふ所によれば︑

  其を阿仁に仰せて其の口に諦うかべさせ賜ひしはいかなる故ぞεいふに︑萬の事は言にいふばかりは書にはかき取か

  たく及ばぬ二S多き物なるを︐殊に.漢文にしも書くならひなOしかば︐古語を逡へじεてば︑いよ・.書取がたき故に

  まつ入の口に熟々諦ならはしめて後に︑其の言の随に盛暑さしめむの大御心にぞありけむかし︒︵瓢傳三二頁︶

 抑々︐言語は憲識の維えざる流動を極めて不完全に表現したもので・ある︒然し更に文字は︑言語に於ける意味深き聲書

の働蟻の中︑その著しい部分を鈷綴的に表記したものに過ぎない︒こ・に宜長が述べτみるのは︑まこεにか・る根本的

原則であった︒然かも古事記の表記は登然性質を異にする漢字によらなければならないS云ふ二重の困難を員はされてみ

た︒言語は思想を明確にする︒然し同時に思想を限定する︒そしてか・る限定は文字に到って一暦甚だしいのである︒﹁直

ちに書より書にかきうつしては本の漢丈のふり離れがたければなり﹂母﹂云ったのはこの故であって︑阿禮をして口塞せし

あられたのは實にか・る限定より先づ脱却せむεするにあった︒﹁もし語にか・はらずて︑たに義理をのみ旨εせむには

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記録を作らしめむεしτ︑先入の口に諦習はし賜はむは無用ごε﹂でなければならない︒︵立町三三頁︶精紳生活の綜合的表

現を求めず︑輩なる義理︑即ち論理的事實をのみ旨sするならば︑﹁語にか・はらず﹂︑從って阿禮をして三諦せしむるの必

要はなかったのである︒けれきも阿禮をもて口諦せしめられたこεそのこSは︑古言を求められたこSを意味してみる︒

優しτ言葉は生命の表現であり︑﹁意S言﹂εは内的必然性によって蓮なってみるが故に︑古言を求められたのは古の意を

そのま・に表現せむSせられたのである︒等長によれば︑天武天皇が﹁漢文章に牽れて︑本の語は漸に逡ひもてゆく故に

如此ては後塗に︑古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞε︑かしこく所思看し哀みたまへる﹂のもこの故であった︒天皇は御

自ち帝紀番太を討減し給ひそれを大御二つから阿品に傳へ註せしめ給ふたのであって︑阿禮の口諦は︑この古言に選の古

の正資を純梓の古言を以て語らむぐ﹂された御意志︑換言すれば︑宣長に於て明かに惑じられた所の︑﹃古事記噛朧のあら

はれむSする意志﹄に從ふものであった︒而して天皇の崩御ε共に︑古事記亡なるべきものは阿禮に於けるこの口舗の状

態を以て残存してみたのである︒實長によれば︑この﹃意志﹄は元明天皇これを継承し給ひ︑更に撰学者五黄呂の志向も

亦︑﹁彼天皇たちの大御志のまにく旨ε古語を嚴重くせられたるほき灼然く︑﹂その意志を實現せむSする以外の何物でも

なかった︒安廓呂は阿禮が諦する所をそのま・聲より文字へ録せるものであって︑いさふかも﹁撰者の新儒﹂を加へなか

ったのである︒それは天武天皇以來の一つの意志を承継ぎ︑それを忠實に實現せむεする態度であって︑かの序文に見ゆ

る表記の苦心の如きも寧ろこの態度に由來するものであった︒

 宣長によれば︑古言に還り︑古の正實を︑郎ち︑暴民的蟄居に墓き又國民定書の簾一を目指して古傳説を統一しつ・そ

れを︑純粋の古言を以て語らむεする意志︑内的に見れば︑﹃古事記目論のあらはれむSする意志﹄を實現するこSが︑實

に古事記成立の根本的な意味であった︒この意味なくしては古事記は寧ろ生れ出るこミすら出來なかった︒天武天皇ミ阿

禮︑元明天皇ε安男声に於ける志向は︑全くこの意味の要求する所に從ふこく﹂にあった︒それ故にこの意味の把握は古事

水居宜長の古事記研究小論七五

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九大國丈學 第一號七六

記の研究に鋏くべからざる契機であって︑宣長は﹁此の大御志をよく思ひはかり奉りて︑古語のなほざりにすまじきこ・︑b

を知べし︑これぞ大御國の要項の本なりける﹂︵艶傳三一責︶S述べてみる︒その古言を求あざるを得なかった内的理由は︑

この古事記成立の意味め把握に基くものであった︒

 ﹃口諦せられたるもの﹄を衷記するには漢字を借用するの外はなかった︒古事記はかくして成立したが︑全然性質を異鳶

する漢字の借用であったが故に安麻呂の本意にも拘はらず幾多の歪曲を生じた︒それ故に宣長は﹃古事記自讃﹄をこの

﹃表記せられたるもの﹄によわも寧ろ﹃ロ介せられたるもの﹄に置いた︒而して外的に見ればその研究は︑先づ﹃表記せ

ちれたるもの﹄の原形態を探求し︑その形態の中から﹃回諦せられたるもの﹄を訓みあらはレ︑而して﹃古事認自盟﹄の

内的生命を明かにしようεしたのであった︒

 宣長が古事記の本文及び訓を研究するに當って素材Sなった諸本を概観すれば次の襟である︒

 第一︑寛永本︒これは古事記傳の中に奮印本εして屡々引用されたものである︒諸本及び重量の事の條︵虫歯輔五頁︶並

に新刻古事記之端白︵古訓離心認序︶に絶て評せられた襟にその便値は極めτ低いものであった︒寛永廿一甲申歳孟夏︑洛陽

書林前川茂右術門の開板である︒

 第二︑蓬頭古事記︒度會延佳の著したもので︑古事記傳の中に延佳良εして引用せられたのは此れである︒宣長は﹁此

人すべて古語を知らずただ事の趣をのみ一わたり思ひτ訓れば︑其訓は言も意もいたく古にたがひて後世なるミ主なるS

のみなり︑さらに用ふべきに非ず﹂ε評したが︑奮印本よりは蓬かに正確性を加へ且つ一家の見地を有するものであった

こSを認あてみる︒この書は貞享四年二月二+九日に成ったものであるが︑その驚頭及び蹟文を見るに奮印本に封して批

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影堂の立場をSつてみるこεが窺はれる︒中巻及び下巻の奥書はその先躍を示すものεして注目せられ︑かの眞颪寺本の

奥書S︑中巻に於ける配列順序の相異を除けば全く同じであるこSは既に宣長が鈴屋本古事記の附箋に指摘した所であ

る︒ 第三︑古事詑頭書及び假名書古事記︒賀茂眞淵の著す所である︒﹁薫かつま﹂︵二之巷︶によれば︑宣長は翼淵から古事記上巻

の假字書及び中春下巻の書入ある本を借りて居り︑古事記傳の申に﹁師の説﹂Sして引用したのはそれであっだ︒この轡入

は延佳本に罪してなされたものであり︑それを基にして後人が一つの著述の形にしたのが古事記頭書三巻であって︑今内

閣文庫及び甕北実に撃るものは何れ轟委庫よ畠たものである︒︵讃鋤雛翻蓋重量薬司氏論親譲︶

 その上巻の識語及び・﹁訓高下天云阿廓﹂の説明の條を見れば︑その成立の事情︑・勧機及び延佳に欝する批制的態度な曹

を知るこSが出來る︒禦暦七年八月病間の作である︒

 第四︑古本三種︒■宣長は古本の少きこぐ﹂を要尺︑一本S隆運書入本の玉本ミ村井敬義所藏古本εの三者があるが何れも

便値低く︑殊に村井本は奮印本に殆んき同じであるε指摘してみる︒此等は古事記傳の中に一本噂して引用された︒その

校合年代は鈴屋本古事記の奥書に明かである︒

 第五︑眞縞寺本︒鈴享楽古事記下巻の附箋によれば︑宣長は天明七年黒質四月+四日に眞旙寺本の心事を以て三巻の校

合を了へたのであって︑藁雇寺ε眞旛寺本言その窮本Sの由來︑及び眞魑寺本に封ずる考察を逮べてるる︒そして中春の

特色を認識し且つ延地本Sの傳統上の關係に一考を費しτみるのは注意しなければならない︒上中爾巻は慮安四年賢鍮廿

八歳の時の書窟であり︑下巻は翌年の書卓であるこ・こなさは更めて云ふまでもない︒ただ宣長が見たのは窟本であったが

故に誤字を生じてみた標である︒例ぺば中春三+七丁裏の浦が津ミありしが如きそれである︒

 古事記傳に於τ資料εなったものには以上の諸本の外に壷屋紀及び車輿本紀に引かれてみる断片的の資料があった︒宣

本居宣長の古事認研究小論七右

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九大二丈學 第一號七八

長によれば︑古本の一部分が劇籍されてみて︑﹁今もたまくあやまらである所なεも稀にはある﹂のであった︒盆傳一四亘︶

 凡そ宜藤本古事記には︑馬屋本ε古事記傳本文さ古訓響く﹂の三種が考へられる︒先づ鈴屋本の奥書によれば諸本校合の

順序及び年代は次の標である︒上巻は︑明暦元年六月一日の延喜校合本に寛文七年孟夏廿七日弟子信慶⑪校合及び一塁十

一年十月廿日圓珠屈強落丁本によゐ校合を経た唐本によって安永九年六月十四日に校合せられ︑中巻は︑明暦元年六月三

日の延帰校合本に︑同三年正月二+九日紀州本による延佳の再校及び寛文七年孟夏廿四日の信慶の校合を経た或本によっ

て安永九年五月廿五日に校合せられ而して下巻は︑費暦十四年甲申正月十二日に下血校本を以τ校合されてみる︒以上の

系路を看た三春は︑更に天明三年二月十三日夜︑京師村井敬義所藏古窮本によって校合せられ︑同七年四月+四日に眞顧

尋本Sの校合を終了してみる︒かくレて鈴屋本は成立したのであった︒

 古訓古事記の成立は寛政十一年の三下の序及び享和三年の長瀬眞幸の蹟によってその動機痢経緯を云ふこ言が出動る︒

藁幸の言秦にも拘はらず吾人は若干の誤刻に遭遇する︒幕下本上巻五一丁ナ︑中巻四八丁ナ︑下巻二丁遭等︶而して又詳細に毒

するに︑古訓本の成立過程に於ける宣長の訂正の跡を明かに見る︒︵古訓本上巻十一丁ウ︑中巻七六丁ウ等︶即ち︑・古事記傳に

着ては輩なる訂正の意向の提示に止まる或るものが古訓本に於ては断行されたのである︒ただかくの如きものの申にも更

に批制されねばならない絵地を残したこεは勿論である︒叉︑古訓本に於て傍訓の文字の誤脱せる立食を見る℃然し︑

  次琵器者︒螺爆大

Sある細註の訓は古訓本に於で正しく改められてみる︒︵三矢重松著︑古事託に於ける特急覚ろ訓法の研究︑三七頁塗照︶

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 忌屋本を中心Sする諸本の系統及び其等に封ずる宣長の概括的批評に就いては︑極めて簡略ながら右に考察した如くで

ある︒今や古事記の原形態の探求の跡を具燈的に辿らうミ思ふ︒

 奮印本は宣長によつτ誤字脱字多しぐし云はれたのであったが︑﹁それもわうからず﹂︵記傳五一四頁︶な曹ε滑極的に肯定せ

られ︑或は豊本に無い文字が此の本によって補はれた場合もあった︒又︐奮印本によって劇りたる揚合や改めたる吻合が

ある︒例へば︑是刀の二字を割り︑﹁有も悪くはめらね♂︑暴言に降此砂状Sあるに重なりて︑煩はしくも聞ゆかし﹂︵記傳

九五一頁︶ε云ひ︑末を米ε改めて︑﹁記中末を假字に用ひたる例もなく︑語も末にてはぐこのはず﹂︵記傳一九七二頁︶ε云っ

てみる︒即ち︑記中の假字用例の實詮的検討及び言葉の内的安照性に立脚した論断であった︒但し︑前例に就いては伺異

論がある︒

次ぎに醤印本の脱字︑衡字︑誤字の指摘がある︒その或ものは自己矛盾の指摘により︑又或ものは他の諸本の倉皇的研

究によσて是正された︒而して奮印本に大鵬鶴・ミあるのは︑﹁書紀に目なれたる後人のひがこε﹂︵記傳八四頁︶S云って古事

記の特殊性の認識の足りないこεが批難せられ︑叉︑﹁忽く﹂云も聞えたれ汐も亦S云ぞ勝れる﹂︵罰侮一三〇五頁︶Sある如き︑

内的批制が實醗的判定の限界以上に到達せる例を見る︒然し結局︑奮印本嫁積極的の材料を堤供するよりも寧ろ批判せら

るべき誤謬に充ちてみた︒

 ﹁それもあしからず﹂・こ言って延佳本が聾心的に肯定せられた場合がある︒﹁亦授臭公蜂之首骨﹂︵記傳四九二頁︶の亦字の

如きそれである︒これは諸本には且く﹂あるからであるが︑御巫本古事記によればやはり亦εある︒

 延佳本によ勾て補ひ︑削り︑又改めた揚合がある︒その根擦は︑﹁次に出たる黒々にもみな有ば︑﹂︵艶傅五五〇頁︶の如き門

中の例に依りしものや︑﹁書紀にも︑紳骨εあれば﹂︵記傳=三藍子亘︶の如く書紀の傍讃によるもの︑又︑﹁誉者が補へたるぞ

本居寛長の古事託研究小論七九

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九大國・丈學 第一號八O

正しき﹂︵記傳一一五二頁︶﹁延藤本にのみ胸章あるは︑私に補へたるなるべし︑されさ此字は怪く有しが脱たるなり﹂︵記傳

一四五九亘︶の如く延佳の狽創が承認せられた揚合なきである︒

 延佳本に依って改めた理由はそ江に實謹的基礎の存在せるものS︑﹁さては凡ての意解べき由なし﹂竈傳五二頁︶﹁下に

も不得怨εあるε同意の丈なり﹂︵託傳一二七四頁︾﹂あるが如き文意の捕捉によりしものミであった︒

 延言本の脱字︑桁字︑誤字の指摘︒﹁さかしらに削るなるべし﹂︵記傳煽七二七亘︶叉︑﹁私に除けるなるべし﹂︵艶豊幡三九二

夏︶又︑﹁さかしらに削りたる私ごεなり﹂︵記傳一入六九頁︶なさS延佳本の脱を指摘して補ってみる︒術字及び誤字の或も

のに擁しても全く同模な評が加へられてるる︒二更の主観的剃定が妥當でなかったのである︒誤字の或ものは︑延佳が古

言を知らず︑古事記に内在する規範的心確を認識し得ずしてみだりに改め誤のに階つたものである事が指摘された︒郎ち︑

藝はギの雁字にしか用ひず﹂支︾可は藩中虚字に用ひたる例なく︑又︑用理の理を省きたる揚合には古事記では用εのみ

用ひ如上集では欲ごも由Sも用ふる例なのに︑延命本に由Sのみあるのは書紀に由εのみあるのに泥みたるものであらう

S云ふが如き揚合である︒分析的研究によって飾納せられ九規範は︑謝象の内的特質Sして随順さるべき基準であみ︒延

佳にはこの基準の認識が無かった︒宣長は或る揚合には更に字書︑奮昌盛の奮印本︑繹日本紀なさに精密なる客観的傍醗

を求めて延佳本の誤字なるを説き︑精密なる島風を見せτみる︒集められたる事實の中から蚕豆が選揮せられるのほ︑全

く封象の内面的必然性に從ふこSに外ならない︒画しτ客観的規範もかくの如きもの・標識にすぎないっ故に言葉の選繹

は文の内面的必然性の洞察によらなければならなかった︒

  市邊之押歯王之奴末︵齪甜傅二一 幅山ハ百門︶

ミある護身は延佳本には末奴εなってみる︒それを宣長は如何にして奴末ε決定もたか︒抑々この奴末S云ふ言葉の含ま

るるのは︑穿通天皇の巻に於けみ意出鼻脚王s蓑那王εの物語の一節である︒此の物語は︑安康天皇の巻に初まりかの大長

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谷王の武勇華々しい場面に趣くものであった︒而して深い人生内容がこの輩純な表現の中に盛られ︑複雑な情意の世界が

そこに展開されτみる︒殊に末尾に去て︑﹁小楯蓮聞き驚きて︑床より堕ち韓ぴて﹂ε女次に﹁て﹂を以て畳まれた言葉の

蓮ぴに一篇は高潮に還せしめられてるる︒さてかの奴末なる言葉は弟の火焼童︑實は衰孫王の歌の結句にある︒震長が宋

奴を排して奴末を選んだ所以は﹁諸本に皆かくあり﹂く﹂云ふ統計的實謹を以てではなかった︒事實は唯事實の存在を示す

だけであって未だ薄しも眞實ではない︒文の内的生命が捕捉せられそれによって初めて部分的言語の凝血εその配列ミが

決定せられる︒即ち宜長が︑﹁ふぐ﹂思へば︑必ず末奴εある方宜きが如くなれきも︑﹂ε云ったのは︑翠純なる知的判断の否

定であった︒然るにこれに綾いて︑

  熟ぐ思ふに︑奴末Sあるぞ︑却って昧ありける︑其は︑奴は押歯王の御末なりε画意なるを︑重富詔へるは︑御調の

  勢なり︒︵臨億一=一六頁︶

S云ってみる︒﹁味あり﹂§言ふのは内的生命の味識を意味する︒味識せられた内的生命がその﹁勢﹂のまにく言葉を選

駕せしめたのである︒かくして宣長はいみじくも︑ ﹁こよなく勢まさりて聞ゆるなり﹂ぐ﹂奴末S倒置せられた言葉の内的

便値を表白しτみる︒戴に吾人は宣長の本文批評の根本態度が那邊に存したかを見るこSが出跨る︒

 叉︑延笑本によって訓夙ながら文字はそのままにした場合があった︒﹁延佳がさかしらに誤りたるも知がたし﹂︵認傳繭六

七九頁︶なき云ってみる︒宣長は一方に於てかくの如く飽迄も古事記の原形態に忠楽ならむεする態度を示してみる︒

 延細首が宣長の本文批評に於て重要なる地位を占めたこεは︑右の考察によって明か・しなったコ墨画ば自家の見地に立

って新読を生み出した︒然し一方彼は宣長によってさかしらS難ぜられねばならぬ誤謬に陥った︒それは何故であった

か︒實謹的研究の不足ミ内的批制力の微弱ミ﹂は︑倉淵及び宣長が批評した標に︑彼をしてまだ漢意及び後世心より離脱す

るこεを得しめてみなかった︒.古代的心意の世界の髄験的捕捉が不充分であっtのである︒

本居宣長の古事記研究小論八一

(11)

九大國丈學 第一號入党

 眞淵の説は﹁師の読﹂εして古事認傳の中に屡屡引用された︒以下その具史的關⁝係を見ポう︒

﹁師の異れたる︑信に然なり﹂︵記傅一三〇八頁︶S言って肯定し笠然し訓をそれに從みのみに止めてみる揚足がある︒それ

は他に確實な傍謹が存しないからであって宣長の事實を無覗しない科學的態度を見るべきである︒

 師の説によりτ改めたる揚合◎﹁今は師の改められたるに依れり記中の例云々﹂︵寵傳一五八二頁︶なさ云ひ︑前述の一類に

比し比較的傍鐙を有するのである︒

 師の説の誤脱若しくば術なる引合︒﹁されさ其はわうし﹂︵能傳剛三〇二頁︶ε云ひ︑又﹁まつ記牢に︑黒字を笹野に用ひ

腐る例なし﹂︵富士一二ニ辮髪︶なきくb云ってみる︒殊に﹁本のままにてもなてふこく﹂があらむ﹂︵舘傳一六二六頁︶ぐ㌧云って眞

淵の観に反恕してみるのは注目すべきである︒﹁今は然てあるなり﹂︵瓠傳一入五四頁︶なきの言葉・こ共に︑古事記そのものの

内的要求に墓かざる理知的訂正を排して︑その原形態に忠實ならむεしたのである︒

 此の外契沖の﹁厚顔抄﹂に基く本文批詳︑既述の三種の古篇本の何れかを意味するミ思はれる一本に基くものなさがあ

る︒此等も宣長の批難せるにも拘はらず相當の寄奥をなしてみる︒又︑﹁云々無き本﹂︑﹁云々S作る本﹂なきの引用があ

るが此等の本が何本であるかはさして重要でない爲めに述べられなかったのであらう︒

 眞輻寺本には誤字が多い︒然しその誤字に折折附せられてみる訂正的傍題は四類あって興味深いものがある︒此等は軍

に眞輻寺本の誤謬を訂正し得てみるに止まらず或ものは本文批評に積極的な資料εなる︒

 古事記傳に於いて眞腐寺本が批制搦取された跡を見るに極めで重要な地位を占めτみる︒規範的事買を傍澄εしτ俘は

しめ︑甘心寺本によって或は補ひ或は削つτみる︒叉﹁諸本に無しあるそよき﹂︵記傳=一八二頁︶﹁無くても轟けれさも︑

有方調勝れり﹂︵記傳桶入六八頁︶ε云へる如く内的上値に從って補ってみる︒論理的意瞭には差支へないが故に︑若し事

實にのみ郎するならばかくの如き深き選揮は不可能である︒然し歌の藝術的言値を決定する所の調が宣長をしてその一旬

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を眞幅寺本より拾はしめた︒宣長は他の雲合に﹁此字なくては昏足はぬここちす﹂︵記簿噌八七五頁︶・こ︑かかる内的維験を

表白してみる︒

 眞霜寺本により改めたる場合は頗る多い︒前後の例によるか︑又は︑之︑於︑天︑なきは記中之を假字に用ひない例

であるこεなきに依の極めて實謹的な態度を示してみる︒何れを取るも意味に塗りなき揚合は勿論例の多い方に從ってみ

る︒次ぎにはその内的批制によって眞輻寺本に從つた場合の在るこε他本の例S同じである︒かくして翼編寺本の半値は

極めて重大であるが︑ただ注目すべきはその延佳白く﹂屡屡相件って同一形態に在るこミである︒然しこれは偶然ではなか

った︒︵鈴岩本古蹟記下巻附箋素引︶この他事編寺本の誤脱や術字が指摘せられ︑そこにも﹁記中に藩王を假字に用ひたる例

なし﹂︵記傳二〇九八貰︶なきの早早的傍謹を見る︒此等は古事記の形象の標識・こして内なるものを指示したのである︒・而し

て選揮は換言すれば艦験内容の早旦化であった︒宣長がなした眞膿寺本の批制は︑實に古事記の内的理解に立脚したるも

一のであったのである︒ただ今日猫︑眞藤寺本の本文に就いては考察すべき問題が残ってみる︒

︑以上諸本に野する批評を槍討した︒最後に宣長自身の凋立の本国批評を顧みなければならない︒

 實謹的基礎に立つたものは別く﹂して︑宣長には重大なる補字がある︒例へば

  自其堕入故建御雷瀞数日穿黒黒倉頂以此刀喜入故阿佐米余玖汝取持云々︵記傳九五五頁︶

  如此之白而乃隠也故随白而云々︵記傳六九五頁︶

  那爾波能佐岐用伊和多理域阿和逞能志癒用真言多知氏︵記傳二一四六頁︶

の三例の如き此れである︒何れも文を解剖し内的聯絡を探り︑︐意昧の断絶を認識し︑更にその断絶を補坐すべき言葉を他

の文献︑書紀や風土記な︐こより求めそれを古事記の言葉に直して用ひてみる︒第一の例は︑菅政友が眞幅寺本の精査によ

って補ふの必要漕滅すεなし︑第二の例は三矢傅士が次の饗磨を天測の御使に算してなすものε取るこεによつて補ふの

本居宣長の古事記研究小論八三

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九大國丈學第一號八四

必要なしεしてみる︒然し何れも未だ宣長の補ひ得た所より以上の意味の把握をなし得たεは云ひ難い︒第三の例は︑不

明確の表現を地理的に的確ならしめんεした馬のであるがその必然性は弱い︒

 誤字を指摘した多くの例に於て︑一類は實心的基礎に基くものであった︒然し宣長はかかる揚合にも自負によって文字

そのものを訂正する事はしない︒殊に︑字形や草書髄の類似に誤字の原因を求めてみる一類の揚合には推定に止め︑訓を

之に從つたのみである︒叉︑﹁され︐ご声ては斜ならぬ文加め﹂︵認傳四二八頁︶﹁古言はかかる腱必しらべ宜き物なるをや﹂︵記

傳八O八頁︶﹁此ままにては語つづかず﹂︵記傳一六二頁︶﹁語のかけあひ調はず﹂︵託傳一九七直管︶な母の一類に於ける内的

批制は︑すべての批制の根砥であり︑外的實謹を内より要求するものであった︒故に訓をその要求の充足に從はしめ︑然

し文字は﹁決なく誤なり﹂ミ断定し得るもの以外はそのままεした︒

 文字を改めず唯内的必然性に從って訓むに止めたのは︑宣長が屡屡批難した﹁さかしら﹂帥ち後世的理性による原形態

の愛改を避けたのである︒宣長は︑﹃古事記自虐﹄を﹃ロ諦せられたるもの﹄に勢いたっ﹃表記せられたるもの﹄はその形骸

であった︒故に﹃古事記自膣﹄を得んが爲めに︑先づ﹃表記せられたるもの﹄をその純粋の形態に於て把持せんεしたの

である︒然し形骸は本質の形骸である︒故に壌たれたる形骸を補正し得るものはその内なる本質のみである︒﹃衷記せられ

たるもの﹄の誤脱を正し得る根本原理は︑終局に於て﹃古事記早早﹄にある︒故に寮長は上代の意︑事及び言ε後世の夫

︑等言を峻別し︑古言の學の原理を古言の世界そのものに置き︑.古代的心意の世界よりその本質を捕捉せむSした︒かくし

て﹃古事記自膣﹄に必然の言葉を選び﹃表記せられたるもの﹄に存する表記法の原則に從って文字を選び︑原形態の復奮

につεめた︒︑然し︑後世心が認識し得た所は︑決して古言の世界の総べてではあり得ない︒延佳に於て︑眞淵に於て︑批

・制すべき幾多の誤謬を見た宣長は︑この復奮を永蓮の彊求たらしめむSする學術的態度をSつてみる︒

(14)

 原形態の探求に關聯して考察すべきは割註の存在である︒何れを割註εし︑何れを本文Sし︑又︑何れを葡文εなす

か︒それに依って︑同一の本に於ける矛盾を解決し︑諸本間の異同を統一しなければならなかった︒

 割註は︑訓註・こ解註・こより成る︒訓註はすべて安麻呂によって記されたε震長ば考へてるる︒阿禮の旦諏を漢字を以て

書きしるす爲めに︑書借︑訓借︑義借に依って國語を表記したが︑それを工み得るものたらしむるにはその借用法に統一

を與へる努力ε同時に訓註を必要ざした︒此れには大凡五種の別がある︒

 解註の中︑撒を表はす註は諸本を統一して割註・こなした︒︵記事三五三頁等︶籔詞にして本文εなるべきものも勿論辮別さ

れてるる︒︵記傳二一三三頁等︶系圖的の註は細書せられたものもすべて本文であるS云つτみる︒︵甑簿三七ご頁︶古事記の本

質よの考ふれば組先の名を為しその事績を記したものはた﹁こへ簡輩なものでも重要なる本丈であらう︒次に説明的の註が

ある︒此れらは細に分てば約十種にもなる︒その或ものは︑後人の加へたものであらう・こ云はれ︑︵記傳七九三頁︑九四九頁︶

換言すれば割除さるべきものであった︒地名︑物名︑紳名なさの起源説明一説の附註はすべて本文であるεした︒此等は

傳説そのものの與へる藝術的感興に績いて附會そのものが知的興味を感ぜしめたのである︒宣長は本文S決定してみるが

然し記載は改めなかった︒歌に饗する説明は皆本文−こしてみる︒然し此れは安麻呂の附した解註・こすべきではなかったか︒

又︑宣長が︑﹁本文ながら註なわ﹂・こ云ひ︑﹁此註は阿禮が諦定めし時よりの詞ならむ﹂︵記傳六三一頁︶s云った一例がある︒

藪では聖なる言葉は不正確である︒然し本文であって︑安麻呂の註ではないε考へられてるる︒諺の起源説明購読の註は

後入のしわざではないSのみ云つτみるが寧ろ本文Sなすべきではなかったか︒此の外眞淵が後人の注なりS云った一類

がある︒︵記傳蝿四六三頁︑エハ六二頁︶然し此れは﹁本よりの注なるべし﹂ミ云ってみる︒本よりの注εは阿戸を指すか安富

本居宣長の古事艶研究小論八五

(15)

九大國丈學第一號八六

呂を指すか不明であるが︑考ふるに︑むしろ本吉こなすべきものであるρ

最後に崩御年月日の註がある︒全長は此れを創った︒その理由は︑﹁本文に書叩けずして細註にせるは︑阿禮が舗める詞

に非ず︑別に私に加へられたるものなる故なの﹂而して﹁登れきも今これセ取らざる故は︑稗田老翁が舗傳べたる勅語の

星群に非ε見ゆればなり﹂︵記傳一二四四頁︶S云ふのであった︒換言すれば︑細註なる概念には阿禮が諦まざりしものε云

みごεを意塾せしめ︑然かも次ぎには事宜の請まざりしものなる故削るε云ってみる︒此れは睨かに不充分の論断であ

る︒その安廓呂以後なる事を題せざる限り創るこSは出面ない︒何さなれば古事記を原形態に復讐せしむるS云ふこεは

.安廓呂によって書きしるされたるものへ還るこ言であるがら︒然るに今重賞長は﹃衷記せられたるもの﹄を超えて﹃口諦

せられたるもの﹄をその目標言なすに到ってみる︒此れは本署聴許εしては矛盾せる態度であるが︑.吾入はそこに﹃古事

記自盟﹄を﹃口諦せられたるもの﹄に置いて此れを追求しつつあった課長の精紳を窺ひ知るこεが三盆る︒

 鼠壁天皇の巻の憩功皇后の崩御の註は︑宣長は此れを削除して︑後人の書紀によって書入れたものであるこSを論じて

みる︒︵託傳轍六四五頁︶宣長は古事野原形態の探求をその特異性に於てしょうεした︒而して一般的な書紀の風に從つτ此

れを探署した延佳を痛烈に難じ℃みる︒帥ち︑﹁何事も書紀に合へるを幌ぴ︑異なるを嫌ふ﹂心理は︑漢意郎ち漢的便値

批制である︒それに依っては古事記の特質は認識し得られない︒寧ろ書紀S﹁いささかにても異凝る所﹂に於てそれは探

求されねばなちないのである︒かくして宣長に於ける漢意の排斥は︑實に古事記研究の方法論的基礎であったのである︒

 古事記研究史の一面は漢文風表記の晦迷の中より﹃古事詑自瞳﹄を訓みあらはすこεにあった︒代々の學者は相継いで

訓を研究し︑隠れたる﹃古事記自艦﹄へ近接せむεした︒古事記成立の過程に於τ︑安廓呂の筆録は口諦よわ表記へ︑言

(16)

葉より符牒へ砂推移であった︒安廠呂の古語星園にも掛はらず︑日本に固有の文字が無かった爲めに︑それは換言すれば

口諦の漢鐸であった︒﹁石上私淑言﹂に於て里長は︑書紀が古代傳設の一貫であるこεを指摘してみるが︑嚴密に云へば古

事記に鞭ても此れは或程度の事實であった︒例へば宣長が云ふ榛に︑﹁宇美夜廓﹂を山海ε記し︵記傳一六六四頁︶﹁詞波穐﹂

を爲大健之溝流ε記し︑︵記傅一〇三一一頁︶﹁阿二言﹂を曙詑ざ記し︑︵騰落二〇一=買︶又︑﹁多知麻知爾加工志久那理氏﹂を哀情

忽起︵記傳一二七一亘︶ざ記せるを見れば此れは明かに認められる︒而してこの過程に於て︐﹃口諦せられたるもの﹄にSつ

て重要な要素であった聲調が遊離し︑韻律的であったものが散文化したの℃ある︒それは﹃表配せられたるもの﹄に残存

せゐ韻文的要素が此れを蓮に推定せしめる︒かくの如き筆録切遇程ではあったけれきも︑然し︑文字には必ずしも泥む電

のではなズ︑飽迄も借用であった︒樹へば権字も﹁作大殿﹂の場合にはツクルであり︑﹁作製機﹂の︐張合にはハルであっ

起つ﹁震登費﹂を表はすに︑︑美人︑媛女︑嬢女︑嬢子な母の文字を用ひた︒故に震長は︑・同字を書いてもその揚合によって

.古言は異なり︑︵大払三〇六頁︶又迩同阿のものも揚合によって文字の異なるこS︵艶傳三〇右頁︶を指摘してみる︒措算法に

於ても必ずしも漢丈の絡にはよらなかったのであって︑語の意味すお所をよく思って訓むべきであった︒舘六一七九〇頁等︶

而し憂長は︑﹁凡天のありさま︑心ばえは︑管口語のさま凄芒はからるるあにしあれば﹂芸つτ文化議の表

現Sして言繕を重要覗し︑且つ古事記は理論の書ではなく︑﹁古を記す語﹂であり︑﹁上代のまこSしの藝術的表現であるが

故にまつそ砂言葉に還らねばなむない言考へた︒管長をしてひたすらに古語を求めしめたものは古事配そのものに内在す

る所の天武天皇以來の一つの意志であった︒それは序丈に表現せられ︑叉古事記の表記そのものが自ら衷示してみるので

あった︒殊に假字書の部分はその著しいあらはれであって内部生命の流動の指標である︒宣長が假掌書の部分には字を添

へて訓むこεを極度に警めたのもその爲めであった︒而して宣長は還るべき﹃古事記自県﹄を﹃口諦せられたるもの﹄に

明確に置き︑﹁なべての地を︑要言が語ミ定めてその代のこころばへを以て訓べきなり﹂S云ひ︑叉﹁然訓ては︑古語にう

本居宣長の古事寵研究小論.八七

(17)

九大國丈學 第一號八入

ざければよしや撰者の意には非ずεも﹂︵記傳一二七〇頁︶ぐ﹂云って訓を定あてみる︒﹁本の古言に復す﹂︵記傳三六頁︶ε云った

 ﹁本﹂εは阿禮の日諦を意味するのであった︒

 かくの如き志向の下に古事記を訓みあらはさむ・こした宣長が第一に取った方法は︑かの漢繹的表記過程の逆洞察であっ

た︒﹁語だに同じければ︑字には拘はらざるは︑古のつねなり﹂︵記傳一四〇三頁︶ミ云ってみる︒﹁心心に常てτ﹂書いたもの

であるからその借用法を内面的に看破しなければならない︒例へば︑﹁此に共軽羅住Sしも書るは漢文にてはただ膨めるε

のみ書きては︑古言の意備はちざる故に︑其の意をあら億さむために書る字なり︑次の文には同事をただ供佳εのみ書て

共峨々を省けるにて知るべし︑然るを字の随脂調ては古言を失ふべし﹂︵記傳==O頁︶ざある如きはその一例であるが︑

字のま獣に讃むのは正確の様で却って最も不正確であった.表面的正確は嚴密なる古言探求の方法ではない︒故に︑先づ

漢字に書してその漢字を用びしめた表記の内面・こしての意味を把握し︑その意昧に從って斜切の言葉を求めてみる︒﹁國號

考﹂に於τ︑凡て皇國の言葉に漢字をあてたのは全くあたってみるのもあり叉︑かたへは當ってかたへは當らないものも

多いが故に︑字にのみ依っては言葉の本の意を誤るこぐやになるさ述べてみるのもこの意味であ乃︒

 宣長は助字をその存在の意義の洞察によって三種に分つた︒一︑漢文の方の助に置るのみにτ︑古語には閥らぬもの︒

二︑漢文の方には關らずしで古語の方に用ひたるもの︒三︑漢文の方に置けるがやがて古語にかなへるもの︒助字は此の

原則に從って取扱はれτみる︒又︑漢文風表記の過程を洞察しτ︑古事記中同じ事を二三記すのに︑一をば古言のままに

一をば漢文ざまに多いτ互に相照して訓むべく書きたる例︵記傳=ハ六四頁︶や︑又︑一をば義を以て書き︑一をば言のまま

に書いて︑相照して義をも訓をも知るべく書きたる例︵認傳一看七一頁︶が多いこεを蓮ぺておる︒郎ち文字はすべて假の物

であって︑﹁此字を忘れて思ふべきなり﹂︵記田一九五八亘︶文字を忘れて文の内的生命に從ふこ.︑︑が最も文字に忠實なる所以

であった︒

(18)

 思想は言語によって明確εなり︑艶漢たる意諏の流は言語表現によつτ形を與へられる︒然しながら言語の儒めの思想

ではなく︑寧ろ思想はその細かなゐ特異性一こ猫特の内容ミを表現する秘めに自らに必然なる言語を量定すゐ︒言語ε思想

Sの間には實にかかる内的必然性が存在するのである︒宣長は此れを次のような極めて意味深き言葉を以て言ひ表したゆ.

﹁抑抑意鵡﹂事喝こ言εはみな相稻へるものにルて︑.上代は意竜事も言も上代︑後代は︑意も事も言も後代︑三婆は意も事も

言も漢國﹂︵艶傳四頁︶である笠︒託る要語を以て言ひ表はされた思想は嚴密なる意味に於ては他の國語を以て此れを云ひ表

はすこεは出歪ない︒然かも古代的心意を蓑現するには盲代的言語を以てしなければならない︒それ故に古事記を訓みあ

らはすには先づ漢籍訓を去り︑且つ古言によらなければならない︒否︑本質的に云へば︑﹃古事記洗鯉﹄の言葉そのものに

還らなければならない︒此れ宣長が絶えず力設する所であった︒       二

 宣長は.文のまま編みては︑﹁漢籍訓にて古語のさまに非ず﹂︵籠傳轍四四〇頁︶﹁漢籍訓にこそあれ︑皇國言の絡にあらず﹂︵翻

仁川七七二亘㎏・こ鋤照批制し︑﹁此方ε彼國旨し養ある事をよく緋へて︐﹂︵認傳四六頁︶溝鼠訓を識別せねばならないεした︒殊に

﹁漢文にて皇國のモノィヒに非ず﹂甲奴隻二五〇頁︶ミ批評してみるのは︑目に見る文掌は漢丈の影響を受け易く純粋の古

言はものいひの中に在るこεを言ったもので︑まこSに含蓄深き言葉でみる︒漢籍訓を避けた例Sしては次の様なのがあ

る︒  汝命既得μ殺ソ仇︒ーー汝命既延志勢賜比奴︵記傳輔〇五三頁︶

  有・麗美肚夫而不レ知二其姓多一宇流通志伎肚夫之︑艦名母斯良奴賀︵茎蜂一一=一頁︶

  魚不ン固天小一1一宇蓑仔母意富伎那流知比佐伎︵託傳噌五七九頁︶

 かくして漢籍訓を排除するに三っては宜長は次の様な注意を忘れなかった︒郎ち古言ぐ﹂漢字嘉言おのつからに似たもの

や同じものも稀には存在する︒然るにそれをも悉く彼を取れるものS思ふのは却って誤謬である︑︵癖馬=九二頁︶而して

本居宣長の古事認︐研究小論八九

(19)

九大國丈學 第一號九〇

更に古言を求むるに當って︑凡て尋常に異なり耳なれない言葉であれば古言だ︵記傳一四三二頁︶ご思ふのは誤りであるS言

ってみる︒深き洞察ぐ﹂實詮的研究εを必要εするのであった︒.

 ﹁いにしへのこころをえむごεは︑古言を得たるうへならではあたはず﹂ざは︑縣居大人が宣長にさSされた言葉である︒

國學者の古代研究は︑古代文化の生命をそれ自髄の様相・こ債値εに於て醗轡屋に招握するこεに在った︒・その警めに先づ.

重要な事はその表現εしでの純粋なる古言を得るこSであった︒宣長が云ふ標に漢籍訓ε共に識別排除されねばならない

0は後世言であった︒かくして古里記傳の中に述べられた語語學的研究は■﹁おのつからのこざわりありて定まりうる物に

なん受ければ︑かりそめにもそれをはなれて︑﹂わたくしのさかしらをぱ︑露ばか㊨もくはふべきにあらず︑ただいつくま

でもいつくまでもふるき蓮をたつねて︑そのあSになんしたがひよるべきわざなりける﹂︵詞の玉緒縄墨︶ε云った標な古

代國語に呈する事理ε法則Sの再見であって︑本質的研究の基礎Sなってみる︒今簡軍にその研究を要約し︑項目的に示

せば訳の様である︒

昌ハ 

ロイ 、 、

、、

@ 、音文

普清 延古 字

  響代韻蓉

便濁 約の 表

  警誉論巽

論論 論韻

  略   賃

(20)

      ホ︑音 通論

         子昔︑母言︑母普藷⁝調︑

     三︑語  彙  論

      イ︑底爾衰波ε助字

      廿︑活用論

         動詞︑助動詞︑形容詞︑

      ハ︑語源論

         延約音通論によるもの

         複合要素への分析によるもの

         類推によるもの

       二︑意義︐論

         ・古代語彙︑外來語彙︑

      四︑語  法  論

         古代語法︑敬語法︑

 訓に聴する範團に煮て考ふれば︑古代音韻︑清濁︑至便︑域爾衰波ε助字︑活用︑語法なきに与する諸原則は古言を求

むるに重要なる客︷凱的規範εなった︒

 各項に亘っての細かな説明は略する︒ただ域受払波は國語の特質・こして重要競されτみるので︑それに封ずる宜長の考

察を顧みよう︒

       高歯宣長の古事記研究小論      九一

(21)

九大國丈學 第一號九二

  漢文には助字こそあれ︑伝爾管掌にあたる物はなし︑助字はただ語を黒くるのみにして︑域爾衰波の如く︑こまかに

  意を分つまでには及ばぬものなり︑故助掌はなくても︑文意は聞ゆるなり︑さて古記はみな漢文なれば︑其を訓むに

  二黒難波は︑訓者の心もて定むるわざなるを︑近世には︑・をさをさ其早りを明らかに識れる入なくして︑誤るこざ常

  多し︑抑抑漢文の意をだにも得てよめば︑其卑語も︑意はいさしも違はざれ3庵︑域爾蓑波のεSのひの違へらむは

  雅語にはあらずかし︵記傳三八亘︶

 即ち論理的内容は表明し得ても域爾裳波のぐさ﹂のひがなければ古言の妙趣は失はれる︒心意の微妙な差異やその特異性

の表現は︑底爾蓑波によって始めて充足される︒宣長がその騨細な研究を﹁紐鏡﹂及び﹁詞の玉緒﹂に撃てなしたのも此

の故であった︒域本震波は﹁神代よりおのつから萬のこSばにそなはり︑﹂殊に係結の定な瀧あって漢文の助字亡は著しい

相違があった︒それ故に︑﹁いささかも江がひぬれば︑言の葉一こεのはず︑歌も何もすべていたづらごミにな.んなるめる﹂

︵罰の玉緒一︶域爾蓑波がなければ歌も文も翠なる言語の羅列Sなるのである︒かくしτ翻って漢文風表記の中から︑助詞及

び助動詞の嘔使を以て巧に古言を訓みあらはしてみるのを見る時︑古言く﹂文字・この内的聯關を見透し︑落掌の底に古言を

訓んだ宣長の深い理解を知るこSが出來る︒

 例へば︑﹁可降﹂の二字の表記は先づ久陀聖域余ε訓まれ︑すぐ争いて久喜志域牟ε訓みわけられてるる︒︵︵記傳九五川洲︶

叉︑﹁可射殺﹂は射殺厚志泥ε訓まれ︑︵甑倦六二入頁︶﹁献耳﹂は多域麻都流書芸曾ε訓みあらはされて︑︵記傳九五六頁︶各各そ

の内的理由が説明されτみる︒かくの如き例を概観するに

    可字1一伝 

余︵記傳九五一頁︶

    可 字i一・域   牟︵記傳九五一亘︶

    可 字1一泥    ︵記傳六二八頁︶

(22)

錐錐然既亦乃乎是疑耳 字字字字字字字字字字 母禮衰:奴母曾夜叙加爾

字一爾許曾範傳九五六頁︶

字i加登濃母布︵託傳一九九九頁︶

・字ーー叙    ︵記傳一三〇八頁︶

字−夜⁝⁝良牟︵認墜四〇五頁い

故郎字i﹂禮  ︵認傳一九五二具︶ ︵託傳一二八0頁︶ ︵記傳一二七六頁︶ ︵認傳一四六七頁︶ ︵記僅二ご七七頁︶ ︵出記偉二一〇六八頁︶

婆.︵記簿一二七八亘︶

なさS夫夫暗まれてるる︒實長の説明によれば︑此等は皆意を以て書ける丈字であって陶若レそのまま訓めば漢籍訓Sな

みが故に訓むべからざるものである貸而して下に夫夫示せる言葉の中に上の文字の意は含まれてみる︒此等の文字は︑國

語の助詞︑助動詞によって由みあらはさるべき意味の指標である︒換言すれば︑意昧が自らあらばれむ唖︑﹂して選ぶ助詞︑

助動詞の外的指標である︒この指標ミしての文字よりその握へる意味を重みあらはさなけれ生ならない︒かくして漢籍訓

の批制は漢文風表記過程の逆洞察によって内的意昧そのものを燈験的に把握せむ鴫こするこ・こに外ならなかった︒

      六

太・居宣長の古事記研究小論九三

(23)

九大國丈學 第一號九四

 吾入は薙に宣長が古事記を訓みあらはした内部経験の考察に進まうく﹂思ふ︒それによって︑かの極めて精緻な分析的研

究の成果が何によつτ一つの形象へS逡揮され綜合されたか︑又︑﹃古事記の訓みあちはし﹄S云ふこざは宣長に於ては

抑抑如何なる意味を有つものであったかが明かミなるであらう︒

 宜長は︑﹁云々εのみ訓みては何εかやこぐ﹂たらはぬここちすれば﹂︵記傳一五九八頁︶ε言ってみる︒こεたらはぬ心地︐こ

は︑文の底に流動する内部意識の表現がまだ不充分なこεの常置的表白であって︑何εかや・b云ふ言葉の中にもその氣持

は深く示されてみる︒同備な他の例に就いて見るも︑外的標識εしての文字の特異性はそれに相画する言葉を以で表現さ・

れなければ︑﹁事足らはぬここち﹂を感ぜしむるだけの内部意識の存在を指示せるものであっ兇︒︵記傳一五九七頁︶﹁言足ら

はぬここち﹂︵記傳一八老二頁︶εは︑宣長の盟験過程εして見れば︑ 一つの形象の創燧に覧て︑表現されねばならない意

味がまだ表現し鑑されない不満である◎それは換言すれば﹃古事記自重﹄のあらはれようSする要求であった︒

・宣長は︑﹁此は必曾S云畔あるべき慮なり己︵寵傳一六六四頁︶三云ひ︑又︑﹁此ミ嘉言を塩売ふべし︑語のさま必ずしかり︑﹂

︵駈傳一ご〇一頁︶ぐ﹂云って各各その理由を説明しτみる︒樒証する三皇の細かな表現の爲めに助詞が要求せられ︑表戸に存

しない語さへ添加されねばならなかった︒﹁讃添ふべき勢なり︑﹂︵記録一二七三頁︶S云った勢.εは文の内部生命の流動を指し

たものであらう︒若し漢文の表記のみに從ふならばただ論理的事忌をあらはすに過ぎなくなり︑生生εした生命の勢はあ

らはれない︒故に宣長は語を訓添へるのは︑﹁調のためなり﹂︵託傳一治六ご頁︶εも云ってみる︒

 假字書の部分は﹃表記せられだるもの﹄に於ける﹃古事記自盟﹄の露出εしてそのまま細み得る部分であり︑生命流動

を指示して全燈を暗示するものである︒故に假字書は原則εしてそのまま潜むべぎであるミ宣長は考へτみた︒然しそれ

すらも︑そのままでは﹁言落居ず︑﹂助動詞を補導しなければならない揚合があった︒︵記傳=一三三亘︶

 漢文ε古語εの著しい差違は漢文に敬語法の護達のないこSであった︒抑抑敬語法は國語の世界的特質の一つであり︑

(24)

古事記に於ても既に漢丈表記の或るものは敬語法を取入れて和化するに到つτみる︒それば古語をそのまま表はさうミし

た意志の表明であって︑敬語をその必然の所に訓添へなこぐ﹂は古事記の訓みあらはしに皇籍的に必要なこεであった︒宣

長は即言用言に亘って普く敬語を曇霞へてるる︒かの動詞にも敬稻の接頭語ミを附したこざの誤謬は早く三矢博士の指摘

せられた所であったが︑何れにしても此れは漢丈表記の生命化であった︒︵古事記に於ける特殊偽る訓法の研究︑一九頁参照︶

 憾字を伊夫世伎許等ミ﹂訓んで次の様に云ってみる︒

  大かた伊上世志︑伊柑加志︑意富都遷長与︑又意富富志︑此四は本一言ε聞えて︑意も同じ︑故萬葉に︑通はして共

  に欝憾ε書り︑其訓は︑上下の語に随ひて︑右の四の異あるべし云々︵翻傳一六さ二頁︶

 かくの如く訓を選照するものは上下の語が示す内部意識の流動そのものでありしそれによって中間の語は推定された︒

  紹之︑告之︑白鞘︑・告言︑白言︑問罪︑忌日︑答詔︑答告︑答言︑箸白︑誰告︑曇日︑議云︑議白

の如豊も字のままに訓φば古語のさまではなくなる︒その訓は﹁左右に其虜の勢によるべきなり﹂︵艶傳五〇頁︶S噺じてる

る︒叉︑萬葉集の例ミ比較しτ﹁語の勢いミよく似たり﹂ε云った揚合もあった︒︵艶傳九四四頁︶翠語は文の中に於て︑内

面的全髄性によって選ばれ︑量器の部分的地位を奥へられねばならなかった︒それ故に貴長は鋏如せる書葉を補燈ハするに

當ってはその内的必然性の把握に基いたのであった︒例へば﹁歌臼﹂の如く︵記傳九九二頁︑九九七頁︑=三二頁︑甲冑〇哺頁等︶

同じ言葉もその存在の場合によつτ訓の異なる例が多く︵国記一八九六亘︶又︑地話ざ細工ミは明かに匿別せられた︒︵籠傳幅

五五三頁︑一九三六頁等︶

 専行天皇の春にある倭建命の物語は︑雄批の中に何か悲痛な又哀切な響が寵って居り途に悲劇的な結末を以て閉ぢられ

てるる︒西征より麟京せられた倭建命は再び東方十二蓮の荒ぶる紳及びまつろはぬ人等を言向け和せぐ﹂の詔を受け給ひ︑

吉備臣等が租︑名は御益友耳掻日子ε比比羅木の八尋矛ミを賜はつて伊勢大憲宮に蓼り給ぶ︒﹂而して倭比喪命に仰せられ

水居宣長の古事記研究小論九五

(25)

九大國丈學 第一號九六

た言葉の中に︑﹁既所以思訓言乎﹂Sあるのを宣長は︑﹁波夜四阿禮蓑斯泥登夜濃母富須良牟﹂ε畳み︑通いて︑﹁中里思惟猶

所憩看吾里雪焉﹂Sある﹁所思看﹂を﹁聖母富志罰則那理鞘組﹂S運んで︑それを説明して次の⁝檬に云つでるる︒

  さて下に那理蝶理ぐ﹂云こεを添るは︑思決めていささか歎き賜へる僻なり︑上黒く吾を死ねεや所思すらむミ﹂あるは

  先大方にうち思ひ賜へるさまを詔べる所なる故に︑夜ぐ﹂云︑良牟ぐ﹂云て︑決めぬ辞なり︑.さて事のさまによりて︑よ

  く思ひめぐらし見るに︑左右に早く死ねS所思すに疑なしS終に︑思ひ決め給へる趣の御言なり︑よくよく文のさま

  を味ひてさεるべし︵記傳㈲四〇六頁︶

 よくよく文の形象を昧識して訓を髄得しなければならないS云ったのである︒﹁さばかり武勇く坐皇子の︑如此申し給へ

る御心のほきを思度り奉るに︑いミいε悲哀しぐ﹂も悲哀き御話にざり労る﹂︑﹁いささかも勇氣の擁み給はず︑成功をへて︑

大御父天皇の大命を蓮へ給はぬばかりの勇き正しき御心ながらも︑如此恨み奉る母き事をば︑恨み︑凄むべき事をば悲み

泣賜ふ︑是ぞ入の聖心にはありける﹂ミ︑蜜長は先づ文の中に籠る生命を深く把握しその心理内容を如實に表現する言葉

を選んだ︒換言すれば︑聖者的に把握された生命そのものがかくの如き言葉を選ばしめたのであった︒かかる訓法の内的

過程を云ひあらはした説明は屡撰見る所である︒例へば

  不怨其后懐妊及愛重至予三年

Sあるのを︑

  曾能書佐伎能事宇都久斯美濃島美斯多野磁器登楼美登世爾那理奴流爾︑波羅廠志域佐問阿流許登嚢︑伊登加置型登濃

  母本瓠伎

S訓んでみる︒宣長はその研究に於て必らず歴史的態度を探り先人の説を批判的に継承レτみるが︑この場合にも延佳の

訓は︑﹁文意にも叶はず︑古語にも非ず﹂︑﹁何の意ミも聞えぬ﹂く﹂云ひ︑眞淵の訓は︑﹁言のつづけざま︑古語のふりにあ

(26)

らず﹂訓を違へた爲めに﹁驚く意違へり﹂S断じてみる︒そして︑﹁文には泥まずて︑凡ての意をよく得て訓べきなり﹂

︵記傳一二者四頁︶S云って更にその理由を説明してみるのであった︒

 雄略天皇の春の赤猪子老女の純情の物語に

  心裏欲婚︒揮其極老︒不得成婚而︒

Sある﹁心裏欲婚﹂は︑

  費佐廠久富志久濃母富世仔母

S工み︑﹁此欲は常に︑願欲ふ意を云εは意異にして︑此は守悲に大命を待て嫁ぎもせで徒に老ぬるこεを愛趣く所念τ︑

老女の嘗めに一度は婚て彼が心を慰めま欲く所念看なり︑﹂︵記傳二〇四八亘︶$あるのも意によって工める適例である︒四字

の漢語からその表示せる内面εしての豊かな心理内容が訓みあらはされたのであった︒

 都夫良意美の家の戦の一篇は文學的な香氣の高い物語でみり︑劇的な状景が躍如Sして描かれてみる︒その漢文表記S

宣長の訓みあらはした所εを比較すれば︑その訓みあらはしの内部経験は實に藝術的表現の過程でありたこSが認められ

る︒例へば其の中の一句︑

  僕者手悉傷︒矢亦盤︒今不得戦如何︒

は︑﹁吾は傷手員ひぬ︒矢も羅きぬ︒今はえ戦はじ︒如何にかせむ︒﹂︵記臆二〇一七頁︶S訓まれて︑この緊張せる場面にふ

さはしく簡潔にして昧ひ深い言葉噂こなってみる︒かくして選揮される言葉は軍なる古語ではなく︑その文字が外部に表示

せる内面の藝術的単味の實盛者でなければなちなかった︒それ故に︑﹁語宜しからず﹂︑︵認傅=エハ八頁︶﹁文いε拙し﹂︑

︵記傳同上︶﹁言うるはしからず︑﹂︵認傳一〇一八頁︶﹁語の調よく讃むべきなり﹂︵記傳一五八三頁︶なさの藝術面心値批判によっ

て言葉が⁝選ばれたのであった︒

本居宣長の古事記研究小論九七

(27)

九大國丈學 第一號.九八

 ﹃古事記自艦﹄は︑表記の不充分或は広聴の爲めに覆はれたる﹃表記せられたるもの﹄の中から訓みあらはされなけれ

ばならなかった︒而して宣長をこの訓に於て導いたものは︐虚業的に把握せられた古事記の内的生命︑文字の底に流動せ

る生命そのものであった︒その生命に必然の言葉のみが不充.通な或は選書せる部分の意味を充たし得たのであった︒換言

すれば︑﹃古事記自髄﹄の生命はその鋏損された部分に於て︑自らに必然の︑何物を以ても代へ得ない言葉を求め︑自らを

實現せむ・こしてみた︒.発たれた形象の再建は︑その要求に從ふこミによってのみ可能であった︒それ故に﹃古事記の訓み

あらはし﹄は部分の探求による全髄の再現であったが︑内的過程ぐ﹂して見れば寧ろそれは全膣による部分の債値充足であ

った︒而して全髄生命の把握は直接的な内部脛瞼によるの外はないのであったが︑古事記の内的生命のかくの如き把握は

﹃古事記自盟﹄の自署の意志を宣長自身の吋的意欲たらレめた︒起ち︑それは把握した生命を言葉に表現しやうεする意

欲であった︒それ敬に︐表記より言葉への過程である﹃古事記の望みあらはし﹄は︑内的に此れを見れば︑宣長にεつて

は︑生命より言葉への過程︑帥ち︑藝術的表現の過程であった︒坐しτ︑その中に詳細該博な實謹的研究ε︑漢籍訓︑後

世訓及び先哲の説に封ずる便値批判εが線撫されてみたのである︒宣長の三法の本質ほ實にかくの如きものであった︒︐

 以上本文批評S訓法ぐ﹂に於ける方法は古事記成立の内的意昧の把握ε關聯しτ︑宣長の古事記班究の一特質を成してみ

る︒      ︵昭和六の山ハ︒ご硝0︶

参照

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