仏教の生命観 慈しみとつながり
鍋島直樹
21世紀の日本社会の苦悩 私たちが生きている社会は、盛者必衰(しょうじゃひっすい) 会者定離という移ろいやすい世界であり、厳しい競争社会で もある。また世界に眼を広げると、地球規模での戦争やテロ、 虐待や殺人が絶えない。人類が物質的な豊かさや快適さを追 求しすぎたために、地球環境の破壊も進んでいる。世界中が攻撃的になっている。 競争には二面性がある。競争心は、よい目標に向かって、それを達成しようという強 い決意をもつことであり、他の人の持っている優れた面を尊重し、互いにライバル心を 持って自己を高めていくという良い面がある。しかし、現在の世界がめざす競争は、勝 ち組と負け組を区別し、相手を言葉で中傷し、相手を力で排除し、互いの信頼や敬意を 失くすような悪い面が現れている。物質的な価値やお金ばかりが重視されると、自分自 身まで、巨大な社会システムの中で交換可能な部品のように使い捨てられていくという 不安がよぎる。お金に頼って人の心を動かそうと考えるとき、自分の思い通りにならな いと攻撃的になる。はたして本当にお金が一番大切なのだろうか。 ダライ・ラマ14世は、上田紀行氏との対話の中で、私たちにとって一番大切なもの は何かについて、次のように語っている。 「私たちの人間の人生における一番基本となっているのはお金である、というよう な思い違いをしてしまうのです。さらに、そのお金を生み出す源は何か、というと、 その人の持っている技術や可能性なのであり、利他心がお金をもたらしてくれるの ではありません。・・・ ある一人の人が何らかの個人的な心の問題に直面した場合には、お金ではそうい った個人的な心の問題を解決することはできません。そのような場合に必要とされ ているのは何かといいますと、ほかの人が微笑みかけてくれ、やさしさを示してく れることであり、それによって自分の心の苦しみがいくぶんかでもやすらぎ、精神 的なレベルの苦しみを乗り越えていくことができるのです。」(上田紀行『目覚めよ 仏教! ダライ・ラマとの対話』、NHK ブックス、39‐40頁) 「一番基本的な問題は、私たち人間は社会的動物だということであり、実際に社会 を成り立たせ、統合している要因は、法律なのではなくて、愛と思いやりなのだと いうことです。我々は法律やルールで強制されて一緒に暮らしているのではなくて、 私たち自身から自然に発せられる思いやりによって一緒に生活を営んでいるので す。そのような愛と思いやりこそ、私たちの住む社会を一つにまとめていくための 正しい道であり、最も効果的な原動力になるものなのです。」(44‐45頁)法律や宗教によって生きている以前に、私たち人間を含めた生物は、親の加護のなか で生まれ育つ。あたかも乳児が何の心配もなく母親に抱かれているとき、深い安堵感を 感じるように、人間も動物もすべてのいのちは、親の愛によって計り知れないほどの恩 恵を受けている。愛と思いやり、それらは、母親の無条件の愛情を受けて生まれてくる。 そしてその母なる愛情こそが、子どもに愛と思いやりを育み、生き抜く力を与える。 人のいのちも愛情も、物質的な価値に交換できないし、お金で手に入れることもでき ない。子ども一人ひとりは、親や先生からすれば、誰と比べる必要もない尊い宝である。 一人ひとりが、私たちを照らすかけがえのない明かりである。 これからの時代は、経済的な安定のみならず、人間のより深い価値、すなわち、思い やりや慈しみを心に育むことによって、生きとし生けるものが幸福になる世界を構築し ていくことが願われる。つらく悲しい時は、家族や友達など誰かとの絆を信じ、自らを いたわり、人と支え合って生き抜いてほしい。深く大切な愛情は、あなたのなかにいつ も生きている。 智慧と慈悲―願うべき理想の探究 智慧―縁起のつながり 縁起は単なる自然の道理ではなくて、「共感しあうつながり」である。苦しみにあえ いでいる現実を、縁起の知見を通して受けとめるときに、慈悲の心が生まれてくる。縁 起にめざめる智慧から、慈悲の姿勢がたちあらわれてくる。 智慧(prajnā)とは、中村元によると1、「事物の実相を照らし、惑いをたって、さと りを完成する働き。物事を正しくとらえ、真理を見きわめる認識力。叡智。真実の智慧」 を意味している。すなわち、智慧とは真理にめざめることである。真理とは、あらゆる ものが無常で苦しみに満ちていること(諸行無常)、あらゆるものに固定的な我はなく 支えあっている(諸法無我)、自他を攻撃する煩悩の炎が吹き消されたところに安らぎ がある(涅槃寂静)であるという三法印に示されている。また釈尊自身が自らの経験を 通して、快楽と苦行との両極端を離れた中道の真理にめざめた。そして釈尊がめざめた 真理をわかりやすく表現しているのが、縁起の真理である。 縁起・・・「因縁生起」「他との関係が縁となって生起すること」を原意とする。 縁起の原語である “pratītya‐samutpāda” プラティーティャ・・・「~に依存する」 サムウトパーダ・・・・「共に生じる。繋がりの中で生起する」 1 中村元『仏教語大辞典』下巻。950 頁参照。
縁起の特質 (1)あらゆるものの無常を自覚し、自己中心的な無明・愛執を省みる (2)あらゆるいのちの共生を願い、あらゆるものとのつながりや一体感を養う (3)かけがえのないいのちを護り育む (4)あらゆるいのちへの非暴力と慈悲と感謝の心を育てる 縁起―慈しみとつながりの力を示す譬え 事例1 一つの講義は学生と先生が支えあい、こだましあって成立する 事例2 仏壇やお墓の意味 事例3 水谷修『夜回り先生のねがい』110 頁、 中学三年の少女からの手紙、サンクチュアリ出版 仏教の縁起の生命観は、時間と空間を超えて、あらゆるものが相互に関係し、つなが り支えあっていることに気づき、互いに慈しみと思いやりをもって感謝して生きること を教える。しかし、そのとき、生命が他の生命を奪い、傷つけあっている苦しみの現実 をも知ることになる。人間は、それらありのままを自覚することによって、自己中心的 な傲慢さを反省し、他の存在に支えられていることに深く感謝し、自他の幸福を求め、 あらゆるものへのわけへだてない慈愛を育んでいくように願われている。 ここで、あなたに贈りたい一つの詩がある。それは「Golden Chain 黄金の鎖」とい う詩である。この詩は、一九〇〇年代初頭にハワイで作成された暗唱文で、アメリカや ブラジルなど英語を母国語とする日系人に重用され、学校やお寺でよく読まれている。 Golden Chain
I am a link in the Buddha’s golden chain of love that stretches around the world. I must keep my link bright and strong.
I will be kind and gentle to every living being and protect all who are weaker than myself.
I will try to think pure and beautiful thoughts, to say pure and beautiful words, and beautiful deeds, knowing on what I do now depends not only my happiness, but also that of others.
May every link in the Buddha’s golden chain of love become bright and
strong, and may we all attain perfect peace.2 黄金の鎖 私は世界に広がる愛と思いやりの金の鎖の一つの環である。私はこの 一つの環を明るく強く保たなくてはならない。
私は生きとし生けるものに優しく寛容でありたい。そして私よりも弱 いすべての人々を守りたい。 私は今、自分の幸福ばかりでなく他者の幸福のためにできることは何 かを知り、清らかで美しい思いをなすように、清らかで美しい言葉を話すように、 清らかで美しい行いをするように努力したい。 どうか愛の金の鎖の環すべてが強く輝き、私たちすべてがともに満たされた安 らぎに到達しますように。 この「黄金の鎖(Golden Chain)」は、あらゆるものが相互に支えあって生かされて いくという理想の世界をよく示している。しかも、すべてが支えあってつながっている からこそ、世界とつながる私自身が、一つの環を強く明るいものにしていく責任がある というのである。世界の中心は一人ひとりであり、その一人ひとりが自分の生きる世界 を清らかで美しいものにできれば、その小さな世界の片隅から明かりが灯り、ついには すべての世界が輝きあう社会を構築することができる。私自身は小さな存在でも、決し て無力ではない。微力がある。一人ひとりの微力を合わせ、相互に響きあって、あらゆ るものとともに世界の安穏を構築していこう、そういう菩薩の志願を、この「黄金の鎖」 の詩は私たちに与えてくれる。 慈悲―慈しみと思いやり 慈悲とは、中村元によると3、「衆生に楽を与える慈と、衆生の苦を抜く悲」を意味す る。慈をあらわす metta(パーリー語), maitrī, maitra(サンスクリット語)は、「友」 「親しきもの」を原意とし、人や物に対して怒りや敵意をもたずに愛することを意味す る。すなわち、慈とは、さまざまな障害をこえて、相手に親愛の情をもつことを示した ものである。悲をあらわす karuņā は、「哀憐」「同情」「優しさ」を意味し、他者の 悲しみを自己の悲しみのごとく憐れみ、一心同体になって相手を思いやることを教えた ものである4。 この理解は、大乗仏教にも継承されていった。たとえば、龍樹は、 大慈とは一切の衆生に楽を与え、大悲とは一切の衆生のために苦を抜く。大慈は 喜楽の因果を衆生に与え、大悲は離苦の因縁を衆生に与う。(『大智度論』二七5) と説明している。さらに世親も、それを受けて、 慈とは同じく喜楽の因果を与うるが故なり。悲とは同じく憂苦の因果を抜くが故 3 前掲書上巻。573 頁。 4 中村元著『原始仏教の思想Ⅰ』676~679 頁。 5 大正蔵 25 巻 256 頁下。
なり。(『十地経論』第二巻6) と明かしている。このように慈悲は「与楽抜苦」7の姿勢、相手に安らぎを与え、相手 の苦しみを自己のことのように心配して、相手の苦しみを抜く態度を意味している。 さらに、慈悲は、四無量心として説かれてくる。四無量心とは、四梵住、四梵行とも いわれ、大いなる慈愛・大いなる共感・大いなる喜悦・大いなる平静である。 (1)慈・・・・maitrī 慈しみ。「友」(mitra)という語から作られた抽象名詞。 特定の人に対してではなく、すべてのものに慈しみをもつこと。 いかなる障害をもこえてつながる慈しみ。 安らぎを与える。「大慈は一切の衆生に楽を与え」『大智度論』 (2)悲・・・・karunā 憐愍・共感。 相手の悲しみを共に悲しむ一心同体の心。 苦しみを抜きとる。「大悲は一切衆生の苦を抜く」『大智度論』 (3)喜・・・・muditā 他者が楽を得て喜ぶのを見て、自分もともに喜ぶ。 (4)捨・・・・upeksā 愛憎・好悪などの執着を捨てた平等な心。「忘己」<捨執即平等> 心の平等な状態。「利他」「忘己利他」「忘己即利他」 さまざまな執着が消えたところに、清らかな平等心がわきおこる。 平等心とは、自分と他人との対立がなくなり、心がつながること。 このように四無量心とは、生きとし生けるものを友のようにわけへだてなく慈しみ、相 手の悲しみや喜びをともにし、さまざまなとらわれを離れて、わけへだてない心で思い やる心である。 龍樹は、この慈悲の重要性とその仏道実践について、次のように明かしている。 慈悲は仏道の根本なり。その故はいかん。菩薩は衆生が老・病・死の苦しみ、身の 苦しみ、心の苦しみ、今世と後世との苦しみなど、もろもろの苦しみに悩まさるる を見て、大慈悲を生じて、かくのごとき苦しみを救い、しかるのち発心して、阿耨 6 大正蔵 26 巻 134 頁上。 7 『涅槃経』の見方を受けて、曇鸞は、「苦を抜くを慈と曰い、楽を与うるを悲という。ここに依るが故に、一切衆生 の苦を抜き、悲に依るが故に無安衆生心を遠離せり。」(『往生論註』巻下。大正蔵 40 巻 842 頁中)と解釈している。 したがって、龍樹・世親は、南方上座部仏教の解釈をうけて、慈悲を「与楽抜苦」と理解し、曇鸞は、『涅槃経』の解 釈をうけて、「抜苦与楽」と理解している。
多羅三藐三菩提を求む。また大慈悲の力を以ってのゆえに、(菩薩は)無量の阿僧 祇、世の生死のうちの心より厭い没することなし。大慈悲の力を以ての故に、久し く涅槃を得べきも証をとらず。ここを以ての故に、一切の諸の仏法のうちに慈悲を 大となす。もし大慈大悲無くんば、しからば早く涅槃に入らん。8 すなわち、慈悲こそが、大乗菩薩道の根本である。菩薩は、衆生がさまざまな苦しみ に悩んでいるのを見て、大慈悲を起こして苦しみにあるものを救うことにより、利他が そのまま自らのさとりとなる。菩薩は大慈悲の力によるから、迷いの世界に埋没するこ となく、さとりに敢えて入らず、苦しみにあるものを救うために進んで迷いの世界にと どまる。したがって、慈悲の真意とは、無住処涅槃、涅槃に安住せずに、一切衆生の苦 しみとともにあり、その苦しみを救いつづけることを示していることがわかる。 浄土教における仏の慈悲 この大乗仏教にみられる自利利他の慈悲の精神は、浄土教における阿弥陀仏思想のな かに鮮明に展開している。中村元は、浄土教の成立について、 苦しみ悩める者どものために進んで悪趣に入るという思想は、このようにインド 教にも見られるが、しかし大乗仏教においては特に顕著に説かれたといい得るであ ろう。生きとし生けるものどもを救うために、みずからは究極のニルヴァーナの境 地に入らぬというのが、大乗仏教の求道者の理想とされていたが、他方では、求道 者みずからは究極の境地に到達して、仏となって他の世界にあり、そこでは理想の 国土を建設し、この世における信仰心ある一切の生きとし生けるものどもをそこに 救い取るという思想があらわれた。かくして、成立したのが、浄土教である。9 と論じている。すなわち、求道者として、涅槃の境地に入らずに、衆生を救済するとい うのが、大乗仏教の求道者の理想であったのに対し、浄土教においては、求道者が発願 修行して、仏となり、その理想の国土にすべての衆生を迎え取るという思想になったと いうのである。そして、そのような願いを建て、理想の国土を建設したのが、『無量寿 経』に説かれる阿弥陀仏である。『無量寿経』には、久遠の昔、世自在王仏のもとで、 法蔵菩薩が発願修行して、四十八願を建て、一切衆生の苦悩を抜き、救われる道を完成 して阿弥陀仏となり、西方の極楽浄土にましますと説かれている10。第十八願の「若不 生者不取正覚」の誓願には、一切衆生がさとりに入らない限り、仏自らもさとりに入ら ないという自他不二なる救いの姿勢があらわれている。たとえいかなる悪人でも、信心 をおこし、阿弥陀仏の名号を称えるならば、さとりを得て救われるようにしたい。これ 8 『大智度論』第 27 巻。大正蔵 2 の 256 頁下。 9 中村元著『慈悲』79 頁。 10 『無量寿経』巻上。大正蔵 12 の 267 中~270 上。
が法蔵菩薩の願いであり、慈悲の実践である。 仏の慈愛は、あたかも親が自らのひとり子を慈しむような愛情として喩えられている。 いわゆる大慈大悲心とは、衆生において父母・児子・己が身なるが如きの想をな すなり。何を以ての故に。父母・児子・己が身には自然に愛を生ず。推して愛す るには非ず。菩薩は善く大悲心を修するが故に、一切衆生乃至怨讎(おんしゅう)あ るものをも同じ意にて愛念す。これは大悲の果報なり。利益するための具をすべ て惜しむところなし。内外の所有を尽く衆生に与う。(『大智度論』第 53 巻11) 慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。 ゆゑにわれ、極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。(『往生要集』大文第四正修 念仏12) 超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ 十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す(『浄土和讃』(114)13大勢至菩薩和讃) たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平 等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがご とし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあら ざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて 仏すなはち慈念したまふ。(『教行証文類』「信巻」末 『涅槃経』引用14) 仏の慈愛は平等であるが、病の子を心配する親のように、罪に苦しむものに特に仏の慈 悲が注がれる。その慈悲は、あたかも自らの一人子を思いやるような親の愛情である。 親鸞における慈悲の省察 それでは、仏の慈悲に包まれている自己は、人としてどのような慈悲をもつことがで きるのだろうか。親鸞は、この人間の慈悲について、相反する二面から語っている。 一つは、人間の慈悲があらゆるものに広がっていくと明かしているところである。ま 11 『大智度論』第 53 巻。大正蔵 25 巻 438 頁中。 12 『往生要集』大文第四正修念仏。註釈版聖典七祖篇 899 頁。 13 『浄土和讃』(114)大勢至菩薩和讃。註釈版聖典 577 頁。 14 『教行証文類』「信巻」。『涅槃経』引用。註釈版聖典 279 頁。
ず、現生十種の利益には、「常行大悲」15が掲げられている。仏の慈悲が自己に満ち満 ちてくるとき、その仏の慈悲が、あらゆる衆生の苦しみを和らげる慈悲としておのずと 現れてくるということである。また、『正像末和讃』(親鸞 86 歳)には、 如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは 自力の回向をすてはてて 利益有情はきはもなし16 この和讃には、人間の慈悲の無限性ともいうべき内容を読み取ることができる。 もう一つは、それとは逆に、人間の慈悲には限界があると明かしているところである。 小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき17 この和讃には、人間の慈悲の限界性を読み取ることができる。何もしてあげられること などないと親鸞がふりかえって記したものである。この「有情利益はおもうまじ」とい う表現には、親鸞が、真実の教えに背いた息子善鸞を義絶せざるを得なかった深い悲し みが込められている。身近な自分の息子でさえ、真に慈しむことができなかったという 現実は、人間の慈悲の破綻を親鸞に強く自覚させるものであったことだろう。このよう に親鸞は、人間の慈悲に、無限の可能性と挫折感との両方を感じとっている。 また、これと同じような親鸞の慈悲観は、『歎異抄』第四章にも示されている。 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かな しみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐることきはめてあり がたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、 おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生にいかにいとほし不便とおも ふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申す のみぞ、すえとほりたる大慈悲心にて候べきと云々。18 聖道の慈悲とは、親鳥がひなを自分の羽で柔らかく包み育むように、相手を心配し、思 いやり、成長させることである。しかしどれだけ相手を想っても、人間の慈愛には限界 15 『教行証文類』「信巻」。註釈版聖典 251 頁。 16 『正像末和讃』(22)三時讃、註釈版聖典 604 頁。 17 『正像末和讃』(98)悲嘆述懐讃、註釈版聖典 617 頁。 18 『歎異抄』第四章。註釈版聖典 834 頁
がある。なぜなら愛するものとの別離があり、また我愛がもとで互いに傷つけあってし まうからである。浄土の慈悲とは、念仏を称えて、死して浄土に生まれた後、仏となっ て、再びこの世に還来し、生きとし生けるものを助け遂げることである。親鸞は、念仏 だけが末通った大いなる慈悲心であるという。すなわち、親鸞は、この世において、で きるかぎり相手を心配し、思いやりつつも、つねにその慈愛に限界があることを自覚し た。だからこそ、私が仏となって再び縁ある人々を救うことを願ったのである。 慈悲はあらゆるいのちを恐れから護り、相手のそばに寄り添って育む心である。その 心が大切であることを、仏の慈悲にいだかれた親鸞は強く感じている。自分を投げ出し て相手を思いやる慈悲には、闇の中に浮かぶ月のような優しさがある。しかし人間の慈 悲には、必ず別れや行き違いを伴う。人間の慈悲は、本来の温かさと逆に、主観的で、 自分の思い通りにならないと憎しみにさえ変わってしまう。 このように人間の慈悲は、羽にくるまるような温かさとともに、はかなく、また、自 分しか見えない醜さとを有しているのである。もしこの世に本当の慈悲があるとすれば、 自らの慈悲の限界に気づき、自らの執着に涙しつつ、ただ念仏をとなえて、自他ともに、 あるがままで仏にいだかれていくことである。もし人間に慈悲があるとすれば、限界が あることを知りつつ、それでもなお相手を思いやる心であろう。 まとめ 以上見てきたように、慈悲とは、親が子を愛しむように、仏が衆生と一つになり、そ の衆生の憂いを抱え、苦しみを転じて、真実に至らしめる心である。しかも、その仏の 無条件の慈悲が自己の身心に貫徹するとき、その仏の慈愛が、自らの自信となり、他者 への慈愛となって転じられていくとされていた。ただしその人間の慈悲は無限ではなく、 限界があることも深く自覚されている。したがって、他者への慈愛は、自己の深い慚愧、 罪業の自覚とともに、仏の慈悲に摂取されている感謝からたちあらわれくるといえるだ ろう19。自らの至らなさに気づくとき、その自己を見捨てない仏の大悲に支えられて、 生きとし生けるものへの慈愛が生まれてくる。仏の慈悲を信じるとは、あたかも気づい てみたら大地に支えられている安心感のようなものである。大地があますことなくすべ てを載せるように、仏は重荷を抱えた自己のすべてをまるごと受け止めてくれている。 そして大地に支えられ、仏の大悲に抱きとられているからこそ、自らが立ち上がって、 少しでも世の安穏のために利他的に実践していくところに、人の生きる意味が生まれて くるのではないだろうか。 上田紀行氏は、ダライ・ラマ 14 世との対話を通じて、仏教に学びつつ、人間の生き る意味を深く考えている。すなわち、人は社会的な不正に対し、慈悲をもって怒り、人 間のより深い価値、すなわち、自尊心を育み、苦しみの現実に赴いて、他者に愛と思い やりを実践していくことこそが、人の生きる道であると上田氏は示している。 19 玉木興慈「親鸞における常行大悲の意味」参照。『死と愛 いのちへの深き理解を求めて』。法蔵館。2007 年。
「ブッダに帰依するとは、ブッダにすべてをお任せするということではなく、まさ にブッダにポジティブな競争心を抱いて、私もあのようにすばらしいブッダを目指 して生きていくぞという、決意表明なのですね。そしてそ のことによって、私に潜在する力を開花させ、自分自身へ の誇り、プライドをもちながら、慈悲と思いやりによって 自らを高め、世界にも働きかけていく。あるときは慈悲に 基づく怒りを持ちながら、そして捨てるべき執着は捨て去 り、人々の苦しみを救おうという菩薩としての執着はもち ながら歩んでいく・・・・。仏教とはいかなる教えなのか ということが、はっきり見えてきたように思います」(『目 覚めよ仏教! ダライ・ラマとの対話』198‐199 頁、NHK ブックス) ふりかえってみると、現代の浄土真宗は、他力を強調するあまり、阿弥陀仏に極度に 依存し、自己の至らなさばかりを反省して、自分に自信がもてなくなっている。しかし、 親鸞は、漁師や猟師、商人や農民、武士たちすべての人々に、罪悪深重の凡夫と自覚す る人間こそが、「仏となるべき身となる」「菩薩におなじ」「如来とひとし」き人である とほめたたえ、不正な弾圧や搾取に怒り、世界の安穏のために懸命に努力することを教 えている。 縁起の思想は、あらゆるものが支えあって生かされているという相互関係性、相互依 存性(interdependence)を示すと同時に、すべてがつながっているからこそ、あらゆ る場所、あらゆるいのちが宇宙の中心であり、かけがえのないものであることを示して いる。縁起の思想は、慈しみやつながりのなかで、人と人とが支えあい、それを生きる 力として、あらゆるいのちの安穏を願って実践することを教えている。すなわち、相互 に支えあって生かされていく縁起の世界を願うからこそ、世界とつながる私自身が、宇 宙の中心となって、愛と思いやりで自らの生きる世界を強く明るくしていこうとするも のだろう。