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桂園派の形成@展開と真宗仏光寺派交流圏

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(1)

桂園派の形成@展開と真宗仏光寺派交流圏

課題番号

1 6 5 2 0 1 0 6

平成

1 6

年度 平成1

9

年産科学研究聾祷助金

(基盤研究

(C)

)研究成果報告書

平成20年5月

研 究 代 表 者 田 中 仁

鳥取大学地域学部教授

(2)

次 は

し が き 研

究 組 織

・ 研 究 経 費 研

究 成 果 第 一 章 仏 光 寺

明御日記﹄

の 香 川 景 樹

仏 光 寺

﹃ 御 日 記

﹄ の 香 川 景 ー 文 化 六 年 ま で

仏 光 寺 叫 御 日 記

﹄ の 香 川 景

i

文 化 七 年 か ら 九 年 ま で

か ら 十 由 年 ま で 仏 光 寺

﹃ 御 日 記

﹄ の 香 川 景 樹 文 政 元 年 か ら 五 年 ま で

七 仏

光 寺 吋 御 日 記

﹄ の 香 川 景 樹 文 政 六 年 か ら 八 年 ま で

︑ 文 政

五五 年 か ら 天 保 十 三 年 ま で 仏 光 寺 吋 御 日 記

﹄ の 香 川 景 樹 ー 天 保 十 四 年 か ら 嘉

︑ 氷 四 年 ま で

信用

二宜

桂 闘 派 の 形 成

・ 農 開 と 真 宗 仏 光 寺 派 交 流 圏

柳 下 清 者 と 真 宗 仏 光 寺 派

柏 原 正 寿 尼 と 常 楽 寺 恵 岳 ー 桟 闘 派 形 成 の 一 事

(3)

必必至5笠三~~安定縫 体王制認な叫誕!

『記S主主~8笠4Z1 │同lli

i

同ffj

J

やニ;ノ

(4)

は し が き

この冊子は︑研究課題﹁桂闘派の形成・展開と真宗仏光寺派交流国﹂にたいして︑平成六年から十九年までの四年間に与えられた 科学研究費補助金による調査研究の概要(研究組織︑研究経費︑研究発表)と︑研究成果として髄時公表した報告をまとめたものであ る︒ただし︑第一章の最初においた﹁仏光寺﹃御自記﹄の香川景樹

i

文化六年まで﹂と︑付録として末尾に付した﹁鳥取県立博物館 所蔵香川景樹の手紙一通l﹃花の跡﹄の成立時期について│﹂は︑補助金交付以前の調査にもとづくものである︒

前者の﹁仏光寺﹃御自記﹄の香川景樹文化六年まで│﹂は︑その冒頭に記したように︑景樹の﹁歌日記﹂の﹁年月日付け﹂の検証 と景樹転の新事実発掘を目的として︑仏光寺﹃御日記﹄に見える景樹にかかわる記事を抄出し︑﹁歌自記﹂と比較対照してみたもので ある︒この調査の過程で︑﹁桂圏派の形成と展開﹂の少なからぬ部分は︑﹁真宗仏光寺派寺院の僧信や門徒︑そしてその関係者が景樹 の和歌や歌論を受け入れていったこと﹂と言い換えられるのではないかと思うにいたった︒その点で本研究の出発点にも基礎にもなっ

た報告である︒

後者の

﹁鳥取県立博物館所蔵香川景樹の手紙一﹃花の跡﹄の成立時期について

i﹂は︑十年以前に公表したものである︒﹃御日

記﹄とはじめとする仏光寺所蔵資料に接するより前のことで︑そのため本編の諸報告との聞には種々の不統一︑があるが︑本山仏光寺の

第二十三代門主随応上人が景樹ほかの人々をともなって催した嵐山遊覧の年次にかかわる考察をふくむのでここに収録した︒

なお︑収録した報告は全編にわたって誤字脱字をふくむ表現上の誤りやわかりにくい倒所を改め︑調査の組︑漏を補い︑考察の誤りを

正した︒また︑写真を数点付け足した︒

田中

(5)

研究組織

研究代表者:問中 仁 (鳥取大学地域学部教授)

交付決定額(配分額) (金額単位:円)

i在接経費 間接経費 flk

平成

1 6

年度

1

6 0 0

0 0 0 。 1

6 0 0

0 0 0  

平成

1 7

年 度

7 0 0

0 0 0 。 7 0 0

0 0 0  

平 成

1 8

年度

7 0 0

0 0 0 。 7 0 0

0 0 0  

平 成

1 9

年度

7 0 0

0 0 0   2 1 0

0 0 0   9 1 00 0 0  

3

7 0 0

0 0 0   2 1 0

0 0 0   3

9 1 0

0 0 0  

研究発表

( 1 )雑誌論文

問中 仁 「 仏 光 寺

f

御13記』の香川長樹

文化七年から九年まで、文化十二年から十四年まで‑J

地域学論集(鳥取大学地域学部紀要) 査読なし 第 i巻第 i号

平成

1 6

1 2

1 3 5

E

! E中 仁 f仏 光 寺 W1ililJ日記』の香川長樹一文政元年から

地域学論集(鳥取大学地域学部紀要) 査読なし 第2巻第 l号

平成

1 7

年 け ら

1 3 3

問中 {二「耕作子青老と真宗仏光寺派J

地域学論集(鳥取大学地域学部紀要) 査読なし 第3巻第3号

平成

1 9

3 6 3 ‑ 3 8 4  

田 中 仁 「 仏 光 寺 『 推JI

I J

記』の香川

一文政六年から八年まで、文政十年から天保十三年まで

地域学論集(鳥取大学地域学部紀要) 査読なし 第4巻第 l号

平 成 円 年

1 3 9 ‑ 1 6 0  

間 中 仁 「 柏 原 正 寿 尼 と 常 楽 寺 恵 岳 桂j量

i

派形成の

地域学論集(鳥取大学地域学部紀要) 査読なし 第4巻第2号

平成

1 9

2 2 8 ‑ 2 5 3  

田中 仁 f仏 光 寺

f

御日記』の香J11景 樹 一 天 保 十 四 年 か ら 嘉 永 田 年 ま で 一

地域学論集(鳥取大学地域学部紀要) 査読なし 第4巻第3号

平 成

2 0

1 5 5 ‑ 1 7 4  

( 2)学会発表

な し

( 3) 国 書

な し

‑ 2 ‑

(6)

~長良ゼ鰍

(7)

主張1~時

こ手県 w

~遺ill.j同j

Q  Il( m ミ司馬事

(8)

仏光寺

﹃御日記﹄の香川景樹

i l

l

文化六年まで

lii

はじめに

小稿の自的は次の二つである︒︹1︺仏光寺所蔵の仏光寺町御日記﹄の香川景樹関係記事と香

州景樹﹁歌日記﹂

(1

のそれと対応する記事を比較し︑その )

結果を報告する︒

2

︺仏光寺﹃御日記﹄によって判明した︑仏光寺にかかわる

景樹の伝記的事実を紹介する︒

︹1︺で主として注意したいのは︑﹁歌日記﹂の日付の検証である︒

香川景樹研究にとって﹁歌日記﹂はいうまでもなく必須の基本資料である︒しかし︑その日付は特に疑わしく︑慎重に確認したうえで

なければ︑特に伝記研究には使いにくい場合がある︒この開題につ

いては︑以前︑﹁歌自記﹂の﹁年づけ﹂を﹃桂闘緊葉﹄によって検

証した擦にふれた (2)O﹁年づけ﹂に疑問があることは分かっていて

も︑寛政十二年(一八

O O

)

から

天保

十閏

年(

一八

四一

一一

)に

わた

膨大な日記であって︑その正誤の確認は容易ではなく︑景樹やその

門人︑知友等の調査・研究にかかわるものが︑それぞれ可能な範囲

内で検証し︑その結果を総合するほかはない︒その﹁可能な範関内﹂

での試みの一っとして﹃桂閤緊葉﹄との対照を行ったのであるが︑

今回は仏光寺﹃御自記﹄のうち文化六年までとの対照を試みる︒

2

︺は︑﹃御日記﹄の文化六年までに見える︑景樹関係記事の

田 中

紹介である︒これによって︑少なくとも小稿でとりあげた文化六年

までについては︑景樹の伝記を書き換えなければならないほどの事

実は見いだせなかったが︑﹁歌日記﹂もふくめて従来知られている

資料には出ていない多少の事実がふくまれている︒

文化六年までとするのは︑現在までに見るを得たのがそこまでと

いう事情もあるが︑一つには︑﹃詑の跡﹄の嵐山遊覧が文化六年四

月十日のことと推測される

(3

からである︒結局﹃御誌記﹄のこの )

日に︑嵐山遊覧の記事はなかったが︑このことについては別の機会

に述

べる

仏 光 寺 明 御 日 記 ﹄ に つ い て

本題入る前に︑まず仏光寺﹃掛日記﹄について︑次

景樹との関係について略述しておく︒

仏光寺は︑京都市下京誌にある真宗仏光寺派の本山で︑﹃御日記﹄

はその仏光寺の日誌である︒天明八年(一七八八)正月晦日の天明

大火当日の記述から始まり︑臨谷有教﹁﹁悌光寺御日記﹂出版にあたってに

4)

によれば昭和初期まで百数十年分が残っているという︒

この日記を誰が書き︑誰が編集して現在見られる形態になったの

か︑現時点では未詳と言わざるを得ない︒一一一月二十五日の記事で終

わっている亭和二年分に︑本文のほとんど全部をしめる筆跡とは異

なる筆跡で︑︹写真1︺のように︑ 仏光寺と

(9)

所迄御付罷被成候雨︑

オ ミ

1 :'

と い あ り

︑ 月 一 日

︑ 二 日 だ け の 文 二 正 月 日 ま で で 終 わ っ て い る 一 年 に も

︑ そ れ ぞ れ の 年 の 末 尾 に 右 と で ほ

とんど同文の識語が見られる︒これらの識語によって︑﹁相模介﹂

なる人物︑おそらく二条家侍で仏光寺に付属されていた小幡椋清が︑

この頃の﹃御日記﹄に深く関与していることはわかる︒

しかし︑その徳山市の記した﹁御日記﹂が現在見られる﹃御日記﹄とどのような関係にあるのか明らかではない︒平和二年の吋御日記﹄

の巻頭には重要事項を抄出した︑その冒頭を︹写真

2

︺として掲出

するような目録が付けられているが︑その筆者は筆跡の特徴が共通

していることから識語の筆者と同一人物と思われる︒これに対して

日記本文は前記のとおりほとんど全部︑︹写真一

3

︺のようにそれと

は明らかに加の筆跡である︒したがって︑一見したところでは日記

本文の筆者が相模介であり︑それとは別の人物がそれを読んで目録

を作って識語も記した︑と考えられる︒しかし︑日記本文の中に一

部分ではあるが識語・目録と閉じ筆跡が見られるし︑羽記本文には

含まれていない情報がそれと対応する目録の条文の方には見える場

合もあって︑ことは単純ではない︒

定例臼記﹄と類似の記録である﹃妙法院日次記﹄について︑﹁多

数の筆者が参加しているが︑ある程度︑時期を区切って坊官により

整理し註されており︑直接に記録した本人の自筆は少ないものと思

われる

1 5

と一

一一

日わ

れて

いる

︒誼

接に

記録

され

たも

ので

はな

く︑

一五

になる記録があってそれを整理し清書したものである︑という点で

は︑吋御日記﹄もこれと同じであったかもしれない︒日記本文は小

幡徳義が記録を整理編集して記したものであり︑その後に︑仏光寺

に仕える設かが目録を作って識語を付けた︑その捺︑元になった記

録も参照し︑能清は採録しなかった情報を付加することもあった︒

想 像 を め ぐ ら る な ら 吋 御 自 記

﹄ 享 和 二 年

・ 文 化 二 年

・ 開 こ

のようにして成立したものであろうが︑確かなことはわからない︒

ただ︑成立の過程はどうであれ︑その資料としての価値の大きさは疑うべくもない︒それについては︑たとえば次のように言われて

いる

︒ 渋 谷 文 庫 と 称 さ れ る に

︑ 多 く の 古 文 書

・ 古 記 録 が 蔵されている︒それらはおもに天明八年(一七八八)正月の 京都大火以降に筆記されたものであるが︑中には擢災を免れ た近世前期の文書も含まれている︒いずれにしても近世の綿

光寺を具体的に知る貴重な史料群である︒その中でもっとも注告

されるのは﹁御自記﹂であろう︒一般に江戸時代の諸本山では︑克

明な日々の記録が綴り続けられたが︑備光寺においても大火直後

の分から百数十年におよぶ膨大な冊子が達されている︒そこには

御堂や寺内のことはもとより︑門主の日常生活や交際に至るまで

のことが記され︑まさしく質量ともに悌光寺史の基本史料といえ

る の で あ る

︒ ( 吋 悌 光 寺 の 歴 史 と 信 仰

) ( 6 )

現在︑右の解説にある天明大火の年の天明八年から寛政十二年(一

O

O )

までの十一冊が︑吋⁝斜光寺御日記﹄として次のように翻刻

されている︒第七巻までが溢谷存教第二十九世間︑玉︑第八巻以降が

龍谷暁農現門主の編で︑いずれも本山錦光寺刊である︒

第一巻

第二巻第 一

一 一 巻

第四巻

第五巻第六巻 天明八年天明九年寛政ニ年寛政五年寛政六年

寛政七年 昭和六一年一月昭和六二年二一月昭和六三年一二月平成元年一二月平成ニ年八月平

成三

年一

二月

(寛

政元

年)

(10)

第 七 巻 寛 政 十 年 第 八 巻 寛 政 十 一 年 第 九 巻 寛 政 十 二 年

第十巻(補遺

I)

寛政八年

第十一巻(補遺荘)寛政九年 平成田年三月平成一一年三月平成二一年八月平成一三年一

O

月平成一四年八月

現世引き続き刊行の準備が進められており︑その作業にかかわって

﹃御日記﹄にふれる機会も与えられ少しずつ繕読しているところで

あるが︑読みすすむにつれて仏光寺と景樹との密接な関係がうかび

あが

って

くる

仏光寺と香川景樹

そ の

長樹が真宗仏光寺派ニニ世門主賠誌上人の愛顧を受けて仏光寺

に出入りしていたことは従来から知られていた

(7

︒景樹自身︑﹁歌 )

詞記﹂文化三年(一八

O

六)正月九日に︑次のように記している吉)O

﹁仏

光寺

のお

ほん

君﹂

(二

行自

)︑

﹁み

この

かみ

(御

兄)

﹂(

七行

目)

﹁みはらから﹂(二一一行目)は随応上人︑﹁正行院殿﹂(二行詰)は

随応上人の弟の専応連枝である︒真宗において﹁連枝﹂は門主の兄

弟をいう︒﹁有栖川中務卿の宮﹂(一二行自)は存栖川宮織仁親王︑

﹁なね﹂(向)は﹁あね﹂の誤りで︑知足院官であろう︒﹃織仁親王

行実﹄(日)によれば︑名は経子(ふみこ)︒兼営︑改知宮︒織仁親王

の兄の音仁親王の一女であるが︑祖父の職仁親王の実子として仏光

寺二十二世門主顕如上人の室となった︒

帰り来たれば四つのかねゆ︒けふしもなきほどにさ

しあはせて︑仏光寺のおほん君のみはらから正行院殿入

らせ給ひて︑おのれが帰りくるをたそがれの頃まで待ち

ゐわたらせ給ひつるとて︑御歌残しおかせたり︒ せこが為め妹がたちぬふ唐衣きませとのみも思ふ出けり

こは︑あすなん殿のおほんつどひの詞なれば︑おのれに

もまうのぼりまゐらせよと︑みこのかみのあふせごとを

ったへむとて物し給ひつるなれば︑そのみこ﹀ろのみう

たなりけり︒御かへしのこ﹀ろ

から衣かへすハ¥もかしこくてかへしまつらんことのはもな

此のみはらからは︑有栖川中務剰の宮のなねのみこ知足

院の宮の御腹にておましノ¥ければ︑此の道も中務卿の

宮のみをしへを受けさせ給へれど︑そはおほやけざまに

て︑道の八十隈とひ明らめたまはん事などはさらにあら

せたまはねば︑いかでとおぼす御こ﹀ろにはいとあかぬ

ことに嘆かせ給ひて︑うち/¥おのれを在させ給へる由︒かねては伴苦践といふ世に名高き道知り人を︑月ごとに

石して御つどひのむしろも聞かせ給へりし︒さるに此の

翁この頃いたく老いぼれて︑まうのぼるべくもあらずな

りにたる︑そのかはりにとや思しけん︑又かの翁物し奉

りしほどにも︑ことさらにはれハ¥しう肢におし出し給

はんずるみ歌をば︑ひそかなる御使にて己にたジさせ︑

よしあし極め明らめきこし給へる事年頃なりければ︑己

をよしと思ほしてせちにはめさせ給へるにや︑知らずか

し ︒

随応上人は︑公には有栖川宮の人であったが︑実質一的な指導は伴

詩眠から受けていた︒しかし︑老義のため景樹に替わった︒実は茜

採健在のころから︑特に重要な歌は景樹が添削していたのだが︑そ

れが御意にかなって︑﹁せちにはめさせ給へる﹂(熱心にお呼び寄せ

になる)ことになったのであろうか︑というのである︒﹃御日記﹄

は文化三年分を欠いており︑応専連枝の景樹訪問の事実を確認する

(11)

こ と は で き な い が

︑ 槌 応 上 人 の 入 門 に つ い て は

︑ 寛 政 七 (一七九五)分に︑四月二十日︑二十一日の二日にわたってしく 書き留めらている︒まず︑二十日は次の如くであった(坦︒

叩 山本大炊 入 之 此 問 中 御 内 儀 よ り 御 頼 之 趣

︑ 今 日 御 題 被 選 候 旨 也

︒ 敬 次 悟 御 吸 物 御 酒 出

御承知被成︑

御 註

伽間内談之次第︑左之通︒

戸 見

一︑御題兼市御婚入之事︒

一︑御門入為御礼御出︑一

上之

事︒

一︑御出之時者︑御対面御盃事在之︑尤兼崩御贈入御 題之 和歌

︑堅 一一 体草 一一 御認 御持 参之 事︒ 但 御 出 無 之 市 も 不 昔

︑ 然 ル ハ

︑ 以 御 使 右 竪 詠

草御何之事︒

一︑詠草認様別紙之通唱︒

候事

︒ 御門入

巳前別紙之品︑

以御使御進

尤常々者︑

ツ折ニ被認

‑ H h μ  

hb

ι

ry

下ふ小γFi

汁日比hノ州川内It g ︑1kzs

百 把 箱 疋 御樽代金

一試羽tfq三百疋

御 菓 子 類 登 何 ニ も 右 御 内 談 之 義

︑ 御 門 入 御 樽 代 等 者

︑ 一 度 之 ニ 候 右

之趣可被進︑年朔義ハ百疋ッ︑被進度之皆︑御承知被成候︒

尤御内々奥向より御取計一語︑和歌方役人江御付届被遣候

一一

一小

及御

相対

由︒

翌二十一日︑使者稲田隠岐守が︑喫斗目半上下で︑槌応上人の﹁寄 道祝﹂の詠革︑および取り決めどおりの干鯛一箱・綿三把・御樽代

金五百疋を持参した︒

その後︑上人が存楢川宮家の門人として和歌にかかわっているこ と を 示 す 記 事 が 羽 記

﹄ の 所 々 に 見 え る

︒ 一 例 を あ げ る

一︑有楢川様江和歌御門弟一一村︑当年より八朔部御祝儀御肴料金

足被

進之

︒位

'央

より

文使

一一

郎八

朔一

一参

候︒

(寛政七年七月二十九日)

8  次のように有栖州宮家の歌会始に和歌を求められでもいる︒

一︑有栖川宮様より左之通

来ル十五日御家和歌御会始被催候︒御詠出之義頼思召 候︒尤当日午刻迄ニ御詠進被進候様頼患者候事︒

中務卿宮御使

島津弾正 月 右卿題

i

松竹増春色

来ル十五日

(寛

2十一年二月

(12)

﹁歌日記﹂にいう伴茜撲の招鳴も︑﹃御日記﹄に出ている︒その

最初は寛政二年(一七九

O )

二月十六日の次のような記事である︒

て伴嵩路︑歌道委敷もの﹀由︑御閤及一一付︑被召度思石︑帯

刀ム

応対

ニ参

︒ 景樹の﹁歌日記﹂の記述からは︑まず随誌上人の有栖州宮への入門

のことがあり︑それに飽き足りず茜撲が招かれた︑そしてその詰援

が年老いたので景樹と交替した︑といった印象を受ける︒しかし︑

﹃御日記﹄によるなら︑首藤招聴は有栖川宮への入門の五年前のこ

とである︒そして﹁歌日記﹂によればその詰採招聴の流をうけて景

樹が呼ばれた︒﹁歌日記﹂は有栖州宮入門を﹁おほやけ︑ざま﹂であ

り︑

自分

が召

され

たの

は﹁

うち

ノ¥

﹂の

こと

だと

一一

諮問

って

いる

けれ

ど︑

こうした経棒をみると︑たしかに有楠川宮家への入門は︑随応上人

にとって首藤・景樹招轄とは別種の事柄であったように思われる︒

ではなぜ随応上人は有栖川官に入門しなければならなかったの

か︑別途に考察が必要であろうが︑それはさておいて︑上人の踊子

二十四世門主の随念上人もまた景樹に就いた︒その入門に関して︑

﹃またぬ青葉﹄に次のようにある(日)︒冒頭の﹁十日﹂は文政三

年(

一八

一一

O )

四月

十一

一一

日で

ある

四日︑今日俄に仏光寺の君︑いらせ給ふべしとて︑

せいくわんなど︑これかれ来つどひて︑の﹀しるめり︒

(中

路)

ひつじの時ばかり︑新門主の君ともなはせて︑いらせ給ふ︒

(中

略)

御はらから正行院の君も︑みこ鶴丸君つれて︑したがはせ給

へり︒新門主も鶴丸君︑も︑おひすがひたる御齢に︑今はおと

なだち給うれば︑あらためて我道に入らせ給ふべき名簿うち

法 橋

¥ 今 日 の つ い で に

︑ と り お こ な は せ ん と や

︒ 御 坐 の い と せばきに︑ひろぶたゃうのもの︑人々はこびまかなひわづら ふめり︒やをらかづけ給ふ御袖に︑いたジくかしら打もまろ ぶべし︒今より世中の曲みたる道をふみかへて︑そこの間べ によせおき侍らば︑むげにおのれらごとき愚昧の入道には︑

よもなし給はじなど︑打ゑまひ宣はす︒すべてかしこしとも

かしこう︑おほけなきわざなりや︒

﹁仏光寺の君﹂は随応人︑﹁新内主の君﹂が随念上人である︒

して︑随念上人自身の次のような歌も伝えられている︒﹁十具導﹂

上人

の誇

であ

る︒

は そ

O

真宗法主真導君より給はりける

こたび善敬に大かたならぬ事のみをおほせて

本よりもたのむ誓ひはちかひにてうき註のことは君にまかせん

(司

東塙

亭話

﹄)

(口

)

仏光寺と香川景樹

そ の

随応・随念の二代にわたる門主︑そして応専連枝と景樹との関係

は︑上述のようにきわめて密接であった︒しかし︑コ例日記﹄を見

ると︑景樹と仏光寺とのかかわりはそれのみにとどまらないことが

わかる︒﹃御日記﹄に景樹が頻出するというわけではない︒円御日記﹄

が景樹にふれる回数は︑﹁歌日記﹂が仏光寺にふれるのにくらべて

はるかに少ない(日︒﹃御日記﹄は︑円︑王の日常に逐一ふれるわけで

はないし︑あくまでも寺院の日誌であって︑法務・寺務については

詳しくとも︑いわば俗事に属する和歌にかかわる事柄など記さない

のが原則であったのではないかと思われる︒重要なのは景樹自身が

議場する由数ではなく︑﹁歌日記﹂に見える人物や寺院が次々に吋御

(13)

にてくる︑ということである︒

たとえ︑景樹の友人で︑神道に基づく独自の歌論が

をあたえたと言われている富士谷御杖(文政六年︿一八二三﹀

五十六歳)である︒御杖は︑次のように﹁北辺﹂﹁御杖ぬし﹂

︑ ま た ほ か に

﹁ 寓 土 谷 御 杖

﹁ 裕 氏

﹂ と し て 日 記

﹂ 五 て い る

1::] 

h v︿0

とし

に合 十九日︒庇阿弥にて北沼会︒松株あり

日せし松のいつもといつも/¥かはらぬ千世の陰にくらさ

ν 

ff

' 

( 略

菊の花に御杖ぬし )

( γ

)

と か る か た は ら に 移りけんころとは菊の花なれどわがきぬうつにいとまなきは や ( 文 化 十 四 三 月 )

﹃御日記﹄において御杖は︑柳川藩立花家の京都留守居役という役

柄上であろう︑次に掲げるようにしばしば使者として仏光寺を訪れ

ている︒また︑仏光寺からの使者を︑取次役として応接してもいる︒

なお︑富士屋の﹁原﹂は原本のままである︒﹁富士谷﹂は現在﹁ふ

じたに﹂と読まれているが︑仏光寺においては﹁ふじゃ﹂と認識さ

れていたらしい︒

一︑立花左近将監殿富士屋千右衛門より左近将監殿御子息亀

寿殿事︑如願嫡子成被抑出候︑御吹聴︒

御 使 主 計

一︑松平越後守殿へ御歓

御太万一一般

御 馬 代 一 枚

H

平ノ兵四郎 一︑立花左近殿同人御歓御江

取次藤谷仙右衛門

(寛政十一年十二月二十九日)

江戸における桂鴎派の要歌人の一人である児山紀成もまた︑仏

光寺とのかかわりを有する一人であった︒﹃御日記﹄寛政二年(⁝

七九

O )

六月臼に︑

一︑庄野宿早川嘉十郎次男国蔵事︑兼而依頼

へ出

勤今

日よ

り被

者出

︑勇

と改

名︒

ー一

とある早川勇が紀成である︒

紀成について︑現在普通に知られているのは次のようなことであ

る ︒

10 

︹生没︺安永六年(一七七七)生︑天保十一年(一八

O )

い月二十七日没︒六十四歳︒墓︑江戸駒込栄松説︒︹名号︺い

め早川氏︒名︑紀成︒通称︑勇・註次郎・新八郎・勝之進︒号︑梅園︑愛松軒・四生︒法号︑桂心院還誉真解居士︒︹家系︺

平川直記の男︒幕臣児山可至の養子︒︹経歴︺伊勢鈴鹿郡在野

に生まれる︒文化三年(一八

O

六)江戸に出︑蝦夷地御用掛 夏目長左鮪門に抱えられ択捉島へ渡った︒間十一年︑児山氏 の養子になり︑江戸目白合に住した︒天保十一年隠居︒初め 伴詰践・存費長収に冨・和歌を学び︑のち香川最樹の内に 入った︒景樹の江戸下は紀成を頼つてのものという︒

(叫

霞栄

一同

人名

辞典

﹄)

(は

) 児山紀成は初め早川氏であったことが知らているうえに︑﹃御日 記

﹄ の け 間 蔵 と

︑ 地

︑ 生 年

︑ 勇 と い う 通 称 が 一 致 す る

(14)

田職︑改名して早川勇が児山紀成その人であることは確実であろう︒

井上通泰﹁桂国叢話第一篇﹂(巴に︑紀成について︑立則後二妻あ

り︑前妻は父方の叔父松村釆女の養女なり︑名をときと一五ふ︑文政

十ニ年十一月没す︑釆女は京師悌光寺の臣なり︑紀成も若きほど梯 光寺に仕へたりしことありと云ふ﹂とあるのは事実であったことが 確かめられたわけである︒松村釆女の名も吋御日記﹄に見える︒次 に引く﹁歌日記﹂のように︑﹁正行院の君﹂すなわち応専連枝の内 意を紀成が景樹に伝えたというのも︑右のような経歴からしてごく

自然なことであろう︒

正行院の君︑いとのどやかなる日を見つくろひ給ひて郷 輿入らせらるべうなど︑うちノ¥おほせごとありつるこ とを︑制劇料叫ほのめかしおきつれば︑待ち奉らずしも あらぬに︑きのふけふことさらにのどやぎて見わたしも いとおもしろかりけるによめる 君くやとけふも開辺の松ばらに立ちくらしける春霞かな

(﹁歌日記﹂文化二年二月四日)

御杖にせよ紀成にせよ︑仏光寺とのこうしたかかわりが︑誼接景樹 と相知る︑あるいは親交を深める機縁になったかどうか確認はでき

ないが︑その可能性はある︒

仏光寺と香川景樹

その三

真宗の門跡寺院である仏光寺は︑庶民とかかわるその一方で︑公 家・大名との交渉も有していた︒たとえば︑先に引いた﹁歌日記﹂

文化西年正月九日にもあったように︑随誌上人の母の知足院宮は有 栖川宮織仁親王の姉であったし︑室の聞名信院は︑伊勢国安濃津の

藤堂和泉守高山疑(たかさと)の一女であった︒いちいち引かないけれ

ど︑有栖刈宮家︑藤堂家ともに叫御日記﹄

享和三年(一八

O

一 一 一 )

の ︑

に頻出する︒

﹁歌

日記

二月ニ詞︒勢州藤堂家会始︒

春風来海上

大島の鳴一戸を春やわたるらん朝おろし社あらたまりけれ

兼 題 のような︑藤堂家と景樹との関係は︑その縁によるもの︑さらに次

のような伊賀由名張の藤堂家との関係もまた︑仏光寺を仲立ちとして

生じたのではないかと考えられる︒

伊賀名張藤堂宮内内室合子へ歌の道とき示し給ふうち 含 子 来 て 見 れ ば 庭 の 呉 竹 打 な び き 野 べ の 蛙 の こ ゑ も き こ ゆ る い つ よ り か 思 ひ し こ と の 今 日 こ そ は 叶 ひ し こ と の嬉しかりけれとよみて出されたる︑かたはらに書付給

へる

歌 おもふこといへば答へし山びこの高きこゑこそうれしかりけ

わが道にやがて瞬きし呉竹のょにあやしきは契なり

(

﹁ 歌 日 記

﹂ 文 二 年 月

11 

i i

詳 吋御日記﹄には﹁歌日記﹂にてくる僧や寺院も多く載っている︒

﹁歌日記﹂享和元年(一八

O

一)正月六日に次のように見えて以後 もしばしば登場する恵岳は︑つづいて引く﹃御日記﹄にあるように

仏光

寺の

御堂

衆(

凶)

であ

った

︒ 六日︒去し冬︑易得亭の翁より︑やつがれが歌のふりふるく みやびにたり︑か﹀るさまよみいづる人もいできにけれ︑同 じ道に思ひ入りし身のうれしさにたへぬ事をしもふりはへい

(15)

ひったへてよと︑

るに(後略)

恵岳法師をしてその

(﹁

歌日

し、

A

J : l   ‑ = ‑

/'¥  丸

) た日 れ

於御

堂同

院御

盃松

台御

肴被

下︒

一 兆 恵 岳 栄 雲 円 教 諮 問 明 寺

1iRUJ

]J

VA

1 4

f

=

付制仁トユコロら吋ト

fe ji A

EJ

﹁歌日記﹂の﹁易得亭﹂すなわち伴茜践は︑先に記したように寛政

二年から仏光寺に出入りしていた︒荷擦のニ一日を恵岳が伝えたのは︑

二人に仏光寺を仲立ちとする結びつきがあったからではないかと

制さ

れる

寺院の例としては︑たとえば﹁称徳寺﹂がある︒この

に︑一例をあげるなら次のように︑合計五ている︒

i

i

のあなたはかひもなき哉

雪にはみちもあらじとぞおも

(享

和二

年 月

この越後の﹁祢徳寺﹂は︑次のような理由で︑現新潟県三

町荒町の真宗仏光寺派寺院﹁聖徳寺﹂であると推測される︒

まず︑これら二首と開じ歌が﹃枝問緊葉﹄雑の部に載っており︑

その認書は次のようになっている︒

の末っかた︑越後寺泊なる内雅法師︑都を立て近江田ま

で下り︑故郷へ帰らんは年をこえんもはかり難しといふに これによれば﹁歌日記﹂と同じ人をさしている︒雅﹂が出ている︒ の﹁称徳寺﹂は﹁越後寺泊なるそして吋御日記﹄に︑﹁越後寺泊聖徳寺問

一︑越後寺泊聖徳寺

去ル

九月

下旬

より

上京

(寛政二年十二月三日)

し た が っ て

﹁ 称 徳 寺

﹂ は 聖 徳 寺 で あ る

︒ そ し て

﹃ 悌 光 寺 学

匠寮の伝灯と史料竺立に︑法名﹁瀬海院釈円雅﹂︑庵号﹁心水間﹂︑

寺院名﹁新潟・寺泊・聖徳寺﹂︑往生年月日﹁文政元年七月二十七日﹂︑享年﹁七十一歳﹂とある︑円雅その人に違いない︒また﹁歌

日記﹂文化十三年二月十六日に次のようにある﹁心水間﹂も聖徳寺

円雅をさしていることがわかる︒

り 中

仏光寺君より御肴給はりける御返しに

仰ふみのやういとかたじけなく拝し侍りぬ︒さるにの 寺泊よりはる介¥奉りしぶりの大うを︑風味ことさらな りとてその一簡下し給り︑誠に折からの花よりも幾重か

珍らしく

かしこくもいたジく袖にかをるかな君が裾わけ吹おくる風

もしこは心水閣のあたりよりものし奉りけんかと︑いと

ゾ外ならずもなつかしみ侍りて

こふるかの法師の寺どまり久しぶりにもきくたより哉

さはとまれ大海のはらよりもいと深き御こ﹀ろざしの有 がたさを︑まうのぼり申奉るまでよく/¥とりつくろひ

給ひねと申︒穴賢

きさらぎ十六日

恵岳のきみへ

景 樹 拝

(16)

かへし参る 寺院の併をもう一つ付けくわえておく︒摂津田勝間(こつま︒現

大阪市西成区玉出)の光福寺は︑景樹が難波に赴いた際には︑次の

ように︑必ずといっていいほど立ち寄り荷泊する寺であった︒

かはほりの飛ぶを見

三十日︒けふ勝間の光福寺に行く︒

てみ

なよ

む︒

墨染の夕べになればかはほりの空にみだれで物ぞ悲しき

こよひ当座あり︒嬢虫

わが宿の織の下にきりハ¥す鳴きあかしたる声︑ぞ関ゆる

(﹁歌日記﹂文化一ニ年八月三十日)

出稿﹁香川景樹﹁歌

E

記﹂の因幡と因幡人﹂(きにも引いた︑景樹 が同郷の稲村三伯を訪問した擦の記事(文化五年五月九日)にも光 福寺は出ている︒この光福寺も真宗仏光寺派の寺であって︑定例自 記﹄にも︑たとえば﹁川並福志寺︑堺光林寺︑勝間光福寺江御酒被

下候﹂(文化六年一月十九日)︑﹁摂州勝間光福寺︑去月廿日ニ狼籍

物入込候ニ付︑御届書宿坊江差出候ニ付︑西坊より書付持参御崩有

之︒追崩御沙汰可有旨申︑一先門下両人帰村︑宿坊を以申付候﹂(文

化五年十月十四日)のようにその名︑がみえる︒

以上︑﹃御日記﹄と﹁歌日記﹂の両方に載っている人物や寺院の

を取り上げてみた︒ほかにも多くの例がある︒門主瀧谷家の親縁︑

また仏光寺やその末寺・檀徒をふくむ真宗仏光寺派の教団組織が︑

景樹の交遊園や桂闘派の拡大に大きい役割を果たしたのではないか

と推測されるが︑それについては稿を改めたい︒

桐」白.

/, 

仏光寺内御自記﹄の香川景樹

吋御日記﹄における景樹の記事を抄出して年月日順に並べ︑﹁歌

日記﹂に対応する記事がある場合はそれを掲げる︒必要に応じて説

明を加える︒{一}から{七}までのうち︑{一}{二}{六}{七}

は︑対応する記事が﹁歌日記﹂にある(ゆ

) O

したがって﹁歌日記﹂

の日付の信濃性をこれらによって検証することができる︒はじめに

掲げた︹

1

︺にあたる︒{一ニ}{四}円五}は対応する記事が﹁歌日

記﹂にない︒﹃御日記加によって新たに判明した︑景樹の︑仏光寺

にかかわる伝記的事実である︒︹

2

︺に

あた

る︒

{ }

﹃御自記﹄文化四年(一八

O

七)

正 月 一 卜 日

一︑御歌初ニ付香川長問介参︒於書院御のし昆布被下︒鑓之間一一間御祝酒︒夫より奥へ参︒何時公械之通品︒

13 

﹁歌自記﹂文化四年(一八

O

正 月 日

自︒仏光寺御殿御会始にてまうのぼる︒御兼題

春風解氷といふことを

打解てけさ吹風の心をば地のこほりぞまづは知るらん

同じく御当座︒野若菜

(一

行空

白)

名所松

住のえの岸は岡ともなりぬれど松の色こそ変らざりけれ

*吋御日記﹄の掲出部分を︹写真

4

︺として末に掲げる︒

﹁歌日記﹂に仏光寺がはじめて議場するのは享和元年(一八

O

一 )

一一月二十六日の︑﹁常楽寺会︑一一一条の仏光寺御仲間所にであり﹂であ

るが︑﹃御日記﹄に景樹が場するのはこの{一}の文化四

(17)

日 の で あ る

o q御H 記

﹁ 歌 日 の 日 付 は 一 致 し

︑ ま

た歌会始のための参殿である点も一致している︒

書院での下され物がほかの物ではなく﹁のし昆布﹂であること︑

酒を賜ること︑また﹁書院﹂であり﹁鎚之間﹂であって他の場所で はないことが何を意味するのか︑明瞭ではない︒ただ︑﹁奥﹂とは

門主の日常生活の場であることは想像できる︒文化四年の吋御日記﹄

において︑この景樹の場合と﹁取︿﹂に通されたという点で類似の事

例として︑次の二つがある︒波線を付した﹁御詩会初﹂とは①の﹁抑

詩会﹂であろう︒

①一

1:.

1

ノ1':1二三:::::I~

主 お

i

L‑

KY

ー 一 一

4

11J

一一

郎御

酒等

出ル

月 五 日

② 

参 上 安 倍 越 中 守 安 賠 加 賀 守 筑 後 守 ニ

各於書院御のし昆布被下︒夫より奥ニ而御祝ひ等被下︒

馬 も 参

︒ ( 月 十 一 日 ) ちなみに言えば︑①②両方に登場する桂主馬は﹃平安人物忠﹄文政

五年版︑間十三年版の﹁書﹂の部と﹁楽﹂の部に出ている人で︑﹃御

日記﹄によれば︑表向きは輪王寺宮御家人であるが﹁諾合﹂として

﹁家来同様﹂に仏光寺に仕えていた︿却

) O

{二

}

﹃御日記﹄文化四年

(一

O

辺へ御遊行︒香川長円介へ御立寄︒

仙北(外如例︒但し

行院殿も御誘引︒

御徒士弐入

り御

催品

﹁歌自記﹂文化四年(一八

O

七)

月二十三日

一一一一一日︒けふにはかに仏光寺の君いらせ給ふ︒いとせ

めてとみのことなれば庭をだにはらひあへぬを︑雪の清 めがほにふりしけるぞニ﹀ろ有ける︒みはらから正行院 殿もとばかりおくれていらせ給ふ︒仰にしたがひてけふ の御題たてまつる︒その題

梅 春の雪

花 あ る 家 に ま ら う ど 来 た る 此 わ た り の 歌 よ み 人 に も皆よませてたいまつる︒君のも人のも外にしるしたれ

ば︑おのれがのみかいつく︒

かきくらし日影は空に見えねども消こそわたれ春の沫雪 珍らしき君が来ませる嬉しさに梅の花をもけふは見ぬ哉 暮れ渡りぬればさうじさしこめてみものがたりし給ふほ ど︑みさかづきあまた﹀びめぐらひ︑夜もなかばたけぬ めり︒さて帰り給はんとてまらうどざねの君よみいだし

給へ

る︒

此宿を君いなみなばいかにせん道の長手を雪にあへる自

みあかりさ﹀︑げつ﹀みかへし奉る︒

此宿はわがやどならず鴬の君まちえたる花の宿なり

(写

5

︺として末に掲

*﹃御日記﹄の掲出部分に日付もあわせて

げる

槌応上人の景樹宅訪問の記事は︑吋御日記﹄﹁歌日記﹂ともにこの ︒

文化四年正月二十三日が最初である︒﹃御日記﹄﹁歌日記﹂の日付は

一致している︒また︑叫御自記﹄は日付の下に原知として当日の天 候を記すが︑この誌は︑﹁情︒昼後曇︑折々小雪﹂となっており︑

雪が降ったことも両者一致している︒長樹は亭和三年(一八

O

一 一 一 )

(18)

十一月に﹁関崎道伴屋敷郷田宅の辺﹂(享和三年十二月一一日桃沢

夢宅宛書簡)に転居し︑この頃もそこに住んでいた(引

) O

﹁御

賄向

内儀より御催也﹂は︑酒食は景樹ではなく上人側が準備した︑とい

う意味であろうか︒よくわからない︒﹁正行院殿﹂は︑第三節の初

めに山引いた﹁歌詞記﹂文化三年正月九日に出ている︑随応上人の弟

の応専連枝である︒応専連枝の景樹宅訪問の記事は︑吋御日記﹄で

はこれが最初︑﹁歌日記﹂は文化二年(一八

O

五)四月二十三日が

最初

であ

る︒

{ 一 一 一 }

﹃御日記﹄文化五年(一八

O

八)十一月十七日

殿︒

奥へ

通ル

﹁歌

日記

な ﹂

*吋御日記﹄の﹁参﹂﹁殿﹂

敬意

を示

す闘

字で

ある

﹁歌日記﹂の文化五年の分には︑この仏光寺参殿の記事のみではな

く十一月の記事がない︒この年︑元日から間六月十八日までは︑ほ

ぼ月日の順にしたがっている︒しかし︑その後ろに︑﹁ことしは日

次みだれてみなしられねば︑患ひいづるまにノ¥左にみなかいつく﹂

とあり︑まず﹁賛の分﹂として︑八月十七日(一首)︑八月五日(二

首)︑八月二十日(二首)︑六月二十日頃(ニ首)︑日付なし(二世間)

が記されている︒そしてその次に︑﹁ふづきの十五日にやあらん﹂﹁同

じく十六日﹂﹁同じはつかまり三日の日なりけん﹂と︑それぞれ最

雲軒︑赤尾可官︑常楽寺を訪問し︑次に﹁近き松や﹂において当鹿 の開の一字分の空白はもとのままで︑ 開催の記事があって︑この年は終わっている︒

なお︑右の﹁同じはつかまり三日の自﹂すなわち七月二十三日に︑

﹁阿元部をともなひて常楽寺へ行く道にて三首の題を分つ﹂とある

﹁常楽寺﹂は︑仏光寺御堂衆の悲岳(第五節参照)︑または恵岳が

その寺名を名乗りに用いた京都の仏光寺派寺院常楽寺をさす︒また

つづいて︑﹁いきて見れば西徳寺福応寺のふたりも来ましたり﹂

とある﹁西徳寺﹂﹁福応寺﹂は︑ともに﹃御詞記﹄に頻出する仏光寺派寺院の名で︑おそらくその住職をさしている︒

{四

]

叫御自記﹄文化六年

(一

O

九)

一月

二十

一︑

御歌

初ニ

付香

川長

内介

参上

︒御

側一

一間

御酒

被下

﹁歌

自記

な い

15 

山市・﹃御日記﹄に対応する歌会始の記事が︑﹁歌日記﹂に見えないこ

とには技意を要する︒﹁歌日記﹂文化六年分は︑月日の順を基準に

して見ると記事の配列が全体としては大きく乱れているが︑冒頭の

一一

月二

十五

日ま

では

︑一

苅良

から

はじ

まり

︑二

日︑

一一

一日

︑四

日︑

七日

十日︑十三日︑十五日︑十七日︑十八日︑二十五日と続き︑二月も︑

五日にはじまって二十五日まで待問順に整然と配列されている︒し

たがって︑これだけを見ると︑元日一から二月二十五日までの問︑記

事がない日には特記すべき出来事や歌がなかったという印象を受け

るが︑実は二月十八日と二十五日との間にこの仏光寺の歌会始があ

ったのである︒このことは︑﹁歌日記﹂において︑六日よがあ いていれば︑前後の記事のに時間の乱れはなくとも︑

(19)

が 欠 落 し て い る が あ る こ と を 示 し て い る

︒ も ち ろ ん す べ て の 場合に当てはまるわではないであろうが︑そうしたこともあると

いうことを︑﹁歌日記﹂を利用する際には心にとどめておくべきで

あろ

う︒

﹃御日記﹄の﹁御側ニ市﹂の意味するところは未詳である︒{一}

の文化四年の歌会始の場合は︑﹁鑓之開ニ市御祝泊︒夫より奥へ参︒﹂となっていた︒﹁御側﹂が﹁奥﹂を意味するなら︑歌会始の会式︑

あるいは景樹の待遇が文化四年とは変わったか︑または鑓之開での

﹁御祝い描﹂と﹁奥﹂﹁御側﹂での﹁御︑倒﹂とは別の意味をもってい

ることになる︒今後もう少し﹁御側﹂の例を集めて検討したいと思

っている︒なお︑楽初も︑文化四年はで}に引いたように︑﹁各

於栄一回院御のし昆布被下︒夫より奥ニ市御祝ひ等被下﹂であったのに

対して︑文化六年は︑﹁御側ニ市御酒被下﹂となっているから︑か

り に 会 式 ま た は 待 遇 が 変 わ っ た の だ と し て も

︑ 歌 会 始

・ け の

こと

では

ない

(さ

{ 五

}

司御日記﹄文化六年(一八

O

九)三月八日

一︑歌人長門介参

殿︒

奥へ

/V 

﹁歌

日記

な ﹂

*﹁参﹂と﹁殿﹂の間の空白はマ一}と同じくである︒景樹が

この日参殿した理由は明瞭ではない︒次の{六︺の随応上人の景樹

邸訪問を︑景樹は﹁おもひもかけず﹂としているが︑参殿はこの訪らかの関係があるかもしれない︒﹁歌日記﹂にはこの件にか んする記事がない︒

﹁歌人﹂とあるのは︑二条家侍の喜頭長門介(お)とのを意識し

てのことであろう︒この時期の叫御日記﹄に︑﹁二佐川様江御使者内

記︒長円介面会﹂(文化六年正月二十七日)のように名字の記され

ない﹁長門介﹂がしばしば登場するが︑記述の内容から明らかに喜顕長門介をさすと解されるので︑いちいち取り上げて検討を加える

こと

はし

ない

{ }

吋御自記﹄文化六

(一

O

九)三月九日

東山御廟参︒先より高田御坊開帳等

へ被

為成

候事

一 ︒

一戸

締散

銭青

さし

五貫

文︒

16 

7 R i

宮 様 様

﹁歌日記﹂文化六

(一

O

九)三月九日

九日の日︑おもひかけず仏光寺の君の入ましたるに︑庭

の山吹を題にて歌よみ給ふ︒やどりしたる学び子どもに

もす﹀めてよましめたまへば︑おのれが奉れる

かひもなきかき根にありし山吹もことしよりこそ匂ひ初めけ

44 こは下されたる御歌のかへしなり︒その御歌は忘れたり︒

おもひいで﹀かきてん︒

(一

行空

白)

御当座催し給へるに︑おのがよみしニ首︒松が枝に咲ける花かと見ゆれども猶散りやすき山桜哉

にすむとはすれど事し︑げみ花も心にまかせてはみず

(20)

*﹃

御日

記﹄

の﹁

御所

様﹂

は随

応上

人︑

﹁世

間様

﹂は

知足

競宮

︑﹁

君様

は千重君︑後の随念上入︑﹁御簾中様﹂は随応上人室開名真読であ

る︒﹁歌日記﹂に知足院宮以下にふれるところがないのは︑随応上

人のみの訪問だったからであろう︒

ウ悌光寺辞典﹄によれば︑﹁東山御踊﹂は︑京都市下京区一一一条通粟

田口東の仏光寺本廟である︒元禄八年(一六九五)に仮堂︑安永四

年(一七七五)に本堂が建立された︒昭和二十七年の宗教法人﹁偽

光寺﹂寺法制定により仏光寺本廟とされるまでは﹁東山別院﹂﹁東

山本廟﹂と呼ばれていた(せ︒﹃御日記﹄に景樹宅訪問のことがまっ

たく出ていないが︑ヱ両国御坊開帳等﹂の﹁等﹂に含まれているの

であ

ろう

﹁高田御坊開帳﹂は未詳である︒近世京都に﹁高田幼﹂と称され

る寺があったらしい︒叫京都坊自誌﹄に︑﹁高田坊ノ壮高田町是也︒(広)時柳原坊と称せる︒僧親驚が遺跡あり︒断絶する事年久し︒

慶長十年伊勢掴一身田専修寺︿高田寺と号す﹀の舘尭恵其子恵隆に

命し︒出地に一堂を創建し︒高田坊と号す︒元和三年火災に擢り︒河原

町一一条の北に移し︒其社町地となれり﹂(をとある︒その移転先には

真宗高間派の寺があった︒﹃都名所図会﹄に︑﹁本誓寺は河原町二候の北にあり︒宗旨は親驚聖人の弘法にして高間派出﹂とある本誓寺

である︒この本誓寺が高田坊移転後﹁高田御坊﹂と称された可能性

があ

る︒

現在︑﹁高間御坊﹂は奈良県北葛城郡高田町高田の専立寺(真宗

本願寺派)をいうのが普通であるが︑かりにこちらが﹁高田御坊﹂

であったとして︑もちろん随応上人一行が奈良に出向いたわけでは

なく出開帳であろう︒

︻七

}

﹃御日記﹄文化六年(一八

O

九)十二月十二日 一︑今日︑千葉君様御癌靖之御酒湯被辞候︒

幾久敷目出度︑内記ふくさ麻上下ニ市上ル︒

さ﹄之葉少々ツ¥根赤紙ニ而巻ニツ︒

さん俵一︒榔湯白水一一副鼠之ふん三ツ︒

小一

区三

つほ

︒御

摺少

々入

御酒湯と称︑かけますまね計致候市跡ハ流ス︒

﹁歌自記﹂文化六年(一八

O

九)

十二

月︒

日未詳

仏光寺のみとの﹀千草君のかたいものみやまひ︑ことなくをはり給ひて︑みゆひかせ給ふをいはひ奉てよめる

身そぎ河水の心にか﹀りける藻は跡もなく誠へながせれいかに清からし

今までも千世いませとは祝ひしかどもけふしこそまことに代の始なりけれ

17 

*﹁酒湯﹂は﹁ささゆ﹂または﹁さかゆ﹂といい︑市矯が治った際

に湯を浴びせること︑またはその湯のことで︑﹁笹湯﹂とも書く︒

その具体的な次第がうかがわれる貴重な記述であるが︑ここで重要

なのは日付である︒十二日がその﹁酒湯﹂であるなら︑長樹がその

祝いの歌を詠んだのは翌十三日であったとしても不自然ではない︒

﹁歌日記﹂におけるこの記事は︑﹁おなじく十三日のあした﹂すな

わち十二月十三日の次に日付なしで畏かれている︒﹁歌日記﹂にお

いて︑日付のない記事は直前の記事と向じ日のことである場合が多い︒これも十三日のことと解してよいのではないかとう︒

(l

)

コ枝

問遺

稿﹄

‑下巻(五車楼明治四

二月

・同

(21)

八月 )

(2

﹁年

づけ

を手がかりとし

(人文・社会科学

)b

第羽十七巻

一 口

:

JL 

7L 

(3

刊行

会︑

紙一通

i

円花

研究報告﹄第四七巻第五万

谷有教編ウ倒光寺御日記﹄

: 九

九 l

一一ノ" ‑ ' )  

巻 年 ぃ )¥て

~I

昭和六一年

(4

﹁妙 法院 日次 記﹂

一九

O年 一

﹁吉

己恭

r i ‑ ‑ n

d

J1

(6

)

千葉采隆・

円一 例光 寺の 歴史 と信 仰

h(思 平松令 一九八九二月)

(7

)

山本嘉将司香川貴樹論﹄(育英書院

郎﹃香川長樹の研究﹄(文教書院紹和一一一二年一ほか︒

(8

)

﹁歌臼記﹂の出用は︑担任園遺稿﹄上巻・下巻により︑私

・潜 点を 加え る︒

(9

) 芝葛 盛ほ か編

︒高 松宮 家︑ 昭和 一一 一一 年六 月︒

( ω )

吋御日記﹄の引用は︑寛政十二年までは前節に掲げた﹃倣

記﹄により︑一部表記を改めた︒それより後の未刊行年分は仏光寺所

蔵の﹃御日記﹄原本により︑私に句読点を付した︒文字の大小︑配援

は印刷に使宜により︑原本のままではない︒

( 日 ) 桝 一 樹 実 日 川 貴 樹 翁 全 集

﹄ 上 巻 ( 続 日 本 歌 学 全 書 第 臨 編 ニ一 年六 月) によ る︒

国文学研究資料館マイクロフィルムによる︒

年から文化六年までに︑﹁仏光寺﹂﹁仏御殿﹂﹁仏

に仏光寺または髄応上人をさす諾をふくむ記事

など応専連枝をさす一誌をふくむ記事は十

一七

など

l

。 コ

一 方

︑ は五 条で ある

︒ (は)市古貞次ほ 記﹄の文化六年までに︑景樹の名が見える

条あ

る︒

司自書人名辞典﹄第二巻(岩波書届一九九五年

(

)

( )

第 一 集

﹄ 明 治 二 五 年 六 月 )

みどうし??︒溢谷有教編﹃偽光寺静典﹄(本山側光寺︑昭和五九

年一 一一 月) によ れば

︑仏 光点 寸前 堂( 本堂

・太 子堂 )に 勤仕 する 倍で ある

司御日記﹄によれば︑代参︑別院・末寺などの寺院へのいも勤めた︒

(げ)例光寺学匠寮編司偽光寺学匠寮の伝灯と史料﹄

通泰編

平成

(は)円鳥取大学教育地域科学部研究紀要﹄第四巻第三号(二

OO

一 一 一 年

月)

(円)ただし︑{六}{七︼は司御日記﹄の名は出ていない︒

から﹁歌臼記﹂の記事と対応すると判断した︒

(却)その出入りの初めにつき︑﹃御日記﹄寛政十年(一七九八)七月五

日に次のようにある︒

桂︑五馬手跡能相学候者之由︑兼々中山安石申上候エ付︑今日御

館入被仰付︑御同問見御口祝被下︑於御前数々認物相勤︑御肴一

差上︑御祝儀一一一百疋披下︑旦御内々より金弐疋ツミ御

18  吸

尤表向ハ輪王寺宮御家人之出ニ付︑御当家ニ 物

取扱

之約

束︑

御供

ニモ

可罷

出出

也︑

制御

紙一

昨均

一時

この後︑桂主馬は尋問合﹂による仏光寺家中として取り扱われ︑たと

えば寛政十一年元日の﹁御家中御礼﹂のところに列記されている家中

の中に﹁桂主馬﹂がある︒ただし︑﹁語合ニ付御のし昆布被下﹂と注

記されている点が︑地の家中とは異なっている︒

(引)景樹の住居については︑山本嘉将﹃香川景樹論﹄(注

7)

︑中野稽

雪﹁香川様屋敷﹂(﹃洛味﹄第一二八集昭和明五年一一月︒中野義雄

編 中 野 稽 雪 遺 稿 集

﹃ 盟 の と ぽ そ 第 五 集 小 津 藤 庵 の 目

﹄ 私 家 版

(22)

昭和六O年九月)参照︒また拙稿﹁香川景樹

(前

出︒

2)

にお いて も一 言及 した

(辺)詩会初・読初は文化六年の﹃御日記﹄に明確にそれとわかる形で

は記載されていないため︑文化四年と比較できない︒正月十日に︑﹁御

対面中嶋織部石井多仲桂主馬﹂とあるのがそれと推測されるが︑

その式次第はわからない︒

(お )正 宗教 夫編 纂・ 校訂 当地 下家 伝﹄ (自 由日 報社 昭和 臣一 一一 年一 一一 月)

によれば︑名は時富︑文化臨年(一八O七)石見介より長門介に転じ︑

文政七年(一八二匹)左兵衛少尉に任ぜられた︒文政十二年四月没︒

六十 八歳

( μ )

以上︑龍谷有教編司悌光寺辞典﹄(本山偽光寺

によ

る︒

( )

﹁歌

臼記

年づ

け﹂

昭和五九

野間光炭編﹃新修京都叢帝一一ζ第一九巻

七月

)﹁

第二

十四

学亙

之部

﹂一

一一

一一

泊頁

によ

る︒

専修寺別院の項二九二頁にも﹁高出坊﹂

(臨 川書 庖昭 和四 一一 一年

間﹁第二十六学区之部﹂

につ いて の記 述︑ があ る︒

︹付

記︺

記﹄をはじめとする仏光寺所蔵諾資料の閲覧につき︑龍谷暁混

と御家族にの御配癒を戴いた︒ここに‑記して深耕申し上げる︒

︹写

1︺

﹃御

日記

年 識 語

︹写

2︺司御日記﹄卒和二年

自録冒頭

19 

︹写

3

日記

月九日

(23)

ザ〕判記E叶

14E

た‑l‑!J三

ωJ  u

悪判記g}.lJ士同町11‑1一川区

N

(u

哩必

4

くが将司E翌質主併話足!樹

J

.‑<令〈誌が)掠同蜘掠1

与ト笠!同社同o:r::ll10ill)

(24)

仏光寺司御日記﹄の香川景樹

││文化七年から九年まで︑文化十二年から十四年まで

l i

z

はじめに

真宗仏光寺派本山仏光寺所蔵﹃御日記﹄の︑文化七年(一八一

O )

から間十四年までのうち︑現在所在不明の十年︑十一年をの

ぞく六年分

(1

から香川景樹の登場する記事を抄出し︑景樹の﹁歌)

日記

﹂︿

2)

と対照する︒﹁仏光寺吋御日記﹄の香川貴樹││文化六年

まで

ii

﹂i

(3

の続きで︑目的も同じく香川長樹﹁歌日記﹂の年月)

日付けの検証と景樹伝にかかわる新事実の発掘である︒したがっ

て︑﹃御日記﹄にあって﹁歌日記﹂には対応する記事がない場合は︑

吋御日記﹄の記事を抄出してその官を注記するが︑逆に﹁歌日記﹂

にあって﹃御日記﹄にない場合は取り上げない︒﹁歌日記﹂の年月

日付けの検証という点から見れば︑﹁歌日記﹂と対応する記事が吋御

日記﹄にないことに特に取り上げて云々するほどの意味はないし︑

二つの日記を対照して新事実を発掘するという点からみても︑す

でに潤知の資料である﹁歌日記﹂と対応する記事が﹃御日記﹄に

ないということに︑やはり特に取り上るほどの意味はないから

であ

る︒

問題点二つ

その

ただし︑前者の﹁歌日記﹂年月日付けの検証︑後者の新事実の

発掘について︑処理に迷う場合が一種ずつある︒先ず前者につい

て言えば︑﹁歌日記﹂と間じ事柄を日加えていると考えても不自然で

田 中

はない記事が︑﹃御日記﹄にも見えるものの︑両者は対応している︑同じ事柄の記述だとまでは言い切れない︑一例をあげるなら次の

ような場合である︒叫御日記﹄引用は本山仏光寺所蔵原本により︑

句読点を加える︒また﹁歌日記﹂の引用は嬬富演雄編﹃桂園遺稿﹄

により︑句読点・濁点を加える︒

﹃御日記﹄文化九年(一八二一)

五 月

一︑御所様計

本光寺へ御成被為在候︒

朝五

ツ半

より

御機嫌能還御被為在候︒

夜九

ツ半

刻︒

御先番

μB

EE

S

F!?4/

ff 

﹁歌臼記﹂文化九年月日未詳︒夏か

21  矢 正

二 柄 親 仏

御 殿 御 当 座 泊 水 鶏 ねられねば舟ばた叩きふ夜に水鶏も声を合せがほなる

参照

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