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二 の 賛 二 一 隅 就 業 平 東 下 ふじの根のうへにも忠立ならし一むら雲の浮島のはら うへもなき雪のしらべも不二のねにたらずや有なん君が

ことのは一本見合すべし

門主の追悼会の後に闘賛を求められることは︑さすがになかった

のではないかと想像して掲出は省いたが︑事実は未詳である︒

﹁歌日記﹂に﹁安住台にて﹂とある安住台は︑仏光寺寺中にあ

って︑連枝が住まいとしていた︒しかし︑文政六年当時の連枝︑

正行院は︑文政四年一一一月に家族とともにすでに江戸下谷の西鶴寺

に 赴 い て い た ( 色

︒ 一 月 十 閤 日 に は 連 枝 の 長 男 の 正 受 院 ( 口 ) が上洛しており︑おそらく安住台に滞表していたであろうが︑仁 一一月一日には京都を発っている︒十二月二十四日当日︑安住台は 主不在であった︒その安住台で追悼の歌会が催されたのである︒

安住台でしばしば歌会が催されたことについては前稿︹

2

︺ の 第

二節に記した︒

なお︑吋⁝梯光寺辞典﹄吋伸光寺年表﹄は随応上人の選化を文政 六年ト月十八日とする︒﹃御日記﹄の文政六年十月十八日には︑

随念上人と嶺君(二条治孝長女近子)の縁談の件︑有栖州営若君

(織仁親王)の一克服の件︑随応上人不例につき随心院内主より見

舞いの件が記されているだけであるが︑後年の吋御羽記

h

によれ ば清浄勲践すなわち槌応上人の祥月命日の法要は十月十八日に保 されている︒吋伸光寺辞典﹄ウ仰光寺年表﹄が十月十八日遷化と することと何らかの関係があるかもしれない︒

ちなみに︑随応上人の一周忌に際しての歌が︑

国来葉﹄に載っている

(M

)

田維中編吋桂 仏光寺御門主一周忌御題

げ い

J

今はとて摘はなる﹀紅葉の声もかなしき神無月かな な つ に 咲 残 り け る さ く ら 花 是 も 常 な き 色 や 見 す ら ん

この二首をふくめて︑

に見えない︒

槌応上人の年忌にかかわる歌は

﹁歌

{三

一}

﹃御日記﹄天保四(一八三三)年九月

八 日 一︑御連校正行院殿御所労之所終御養生

無御叶去ル廿一日焼卵刻御遠行出告来り︒

御年五

才 同二十九日

一︑正行院殿御卒去之旨御披露ニ相成候事︒

﹁歌日記﹂天保四年

月日未詳

行慌殿御追悼御題廿首市内

長月のありあけのつきぬ名ごりゆゑいとジねざめの増る年かな ゆめにやとかへす衣のうらにこそ君がみたまもあらはれに

*

﹁ 正 は 髄 応 人 の 弟

︑ 応 の 院 号 で あ る

︒ { 三

O }

に記したように︑連枝は文政四年三月に戸下谷の西徳寺に入り︑

その寺務を執っていた︒吋御臼

A記﹄九月二十八日の﹁告来り﹂と は︑江戸の西徳寺から告げ来たった︑の意で︑正行院遠行の知ら せが二卜八日に本山に届いたわけである︒そして翌二十九日に諸

円相休刊μ

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中 人

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したがって︑追悼歌の詠作は二十九日以降のことになる︒一一一

O }

の随応上人の追悼歌は遷化の二ヶ月後であったが︑この場合 はどうであったのか︑よくわからない︒

現在︑本山仏光寺に︑前表紙に﹃正行院殿御追悼二十首和歌﹄

と武書きされている応専連枝追悼歌集が所蔵されている︒詠者は ア入︑歌数は次のように一人二題各一首ずつ合計二十首である︒

﹁歌日記﹂のいう﹁行院殿御追悼御題廿首﹂はこれに違いない︒

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氷 霜 残 落 時 菊 葉 雨

政 信 御 光 保 保

f

忠 信 厳 街l

観 春 詠 麗 造 教 義 春 浄 詠

夜 タ i境

景 得 徳 政 保 保 厳 得 光 景 樹 雄 義 観 教 造 浄 雄 麗 樹 夢 煙 燈 海 野 河

水鳥;

'   千鳥 冬月

﹁御詠﹂は随念上人の詠である︒そして景樹以外の詠者は︑保教 を例外としてすべて叫期日記﹄や第一節に言及した点取り詠草に 名の見える︑仏光寺に仕える僧俗で︑明らかに本山または格中在 住か︑そう推測される人々である(立︒おそらく京都で︑想録を めぐらすなら連枝の住まいであった安住台で︑追悼の当康が催さ

れたのではないかと推測される︒第七首﹁雪﹂から第十二首﹁タ﹂

までを︹写真

2)

として在に掲げる︒

︹写

2

なお︑江戸の菅沼斐雄が越後寺泊の景樹門人柳下清老にあてた 十月二日(天保四年)付けの手紙によると︑江戸桂盟社中の正行

続追悼会が十月一日または一一一日に開かれているが︑その出席者と

して記されている﹁津田﹂﹁朝岡﹂﹁児山﹂はそれぞれ津田干城︑

浅間泰任︑児山紀成と推定される(凶

) 0

いずれも景樹門下の歌人 として名の残っている人々である︒京都の桂園社中の歌人たちに よる同様の追悼会が催されたかどうか︑不明である︒すくなくと

も︑﹃御日記﹄﹁歌日記﹂にその記載はない︒

{ 一 一 一

一 一 }

叫御日記﹄天保六年(一八三五)九丹九日

一︑御簾中様今朝卯中刻御安産︒

若君蟻御誕生︑御両方様益御機嫌克被為

成候一一付御霞師産婆等辰刻退出︒

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︿参考﹀御舟部産記録

天保六年(一八三六)

九月九日

一︑九月九日

御簾中様御安産御男子御誕生之事

﹁歌日記﹂天保六年九月九日

九 月 九 日 の あ し た 仏 光 寺 の 御 殿 に を の こ 御 子 生 れ さ せ 給ひぬと承りて歓喜に堪ずよみて奉りける︒

長丹のけふひらけたるきくの花今より千世のつゆやかぞへん

*随念上人の長男︑松若君の誕生にかかわる記事である︒﹁御簾

中傑﹂は随念上入室の嶺君︑﹁若君様﹂が松若君である︒

︿参考﹀として掲げたのは︑﹃御日記﹄に差し挟まれている御 用部屋の記録である︒﹃御日記﹄の料紙には黄紙が用いられてい

る年が多く︑天保六年の場合も十ニ月七日より前は黄紙であるが︑

間七月二十五日と八月五日の聞の三十五丁は中でも特に黄色が濃 くなっている︒その第一の表中央に︑

嶺君様御著帯 却菌7一見知七支

1

謡 ・

一 寸

E

t J

1

御 参 堂 御 贈 答 略 録 と あ り

︑ 右 に

﹁ 天 保 六 乙 来 年 従 後 七 月 至 月

︑ 左 に 部 屋﹂とあって︑﹃御日記﹄そのものではなく︑御用部患の記録が ここに級じ込まれたものらしい︒本山にかかわる重要な事柄につ いては︑このような記録が吋御日記﹄とは別に作成されていたの ではないかと思われるが︑この場合はなぜかそれが﹃御日記﹄に 綴じ込まれているのである︒松若誕生の件は︑この御用部屋の記

録のうち︑﹁御猶子成御七夜﹂の部にふくまれている︒その中の︑

直接に誕生を記した記事を︿参考﹀として掲げた︒﹁併簾中様﹂

が嶺君︑﹁男子﹂が松若君である︒

随念上人室嶺君は︑例光寺辞典﹄?倒光寺年表﹄によれば︑従 一位左大臣二候治孝の長女で名は近子︑文化元年(一八

O

凶)に

生 ま れ

︑ 文 政 七 年 に 仏 光 寺 に 入 興

︑ 嘉 永 二 年 ( 一 八 四 九 ) 年 四 十六歳で逝去した︒法名を念心︑院号を無量光院という︒

ドキュメント内 桂園派の形成@展開と真宗仏光寺派交流圏 (ページ 69-72)

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