死 去 の 記 事 と 対 に し て 掲 げ る
︒ た だ し
︑ こ の 歌 は 後 に 記 す よ う に 天 保 十 四 年 の 三 月 は じ め 頃 に 詠 ま れ た も の と お ぼ し く
︑ 日 に ち の 上 で は 阿 者 は 対 応 し て は い な い
︒ な お
︑ { } で 括 っ て 示 す 番 号 は 前 稿 か ら の 通 し 号 で あ る
︒
{ 一
一 一
六 }
﹃御日記﹄天保
四年(一八
一一二三月二十九日
一︑香川肥後守一昨廿七日死去
不取敢今日
‑ U
為御悔北村将監罷越︒
(中
略)
一︑香川肥後守行為御香集金五百疋被下候︒
右 者 御 先 代
Jり格別之御懇命
Z
如此
説︒
﹃歌日記﹄天
四年
HH
一
一筋にいのちまつまの
る
の日はかへりてながきものにざり 右一首私に加之霞侍り
正純
*・右に掲出した﹃御日記﹄の全文を(写真1
︺として後に 傍 線 部
﹁ 香 川 肥 後 守
﹂ が 景 樹 で あ る
︒
﹁ 歌 日 記
﹂ の 末 に 左 の よ う な 記 録
(5
が)
つ け 加 え ら れ て い る が
︑ 傍 線 部 の よ う に 長 樹 死 去 の 前 々 年
︑ 天 保 十 二 ( 一 八 一 ) 十 月 六 日 に 長 門 分 か ら 後 守
に選っていた︒
徳 大 家 々 録 写 長 樹 入 道 前 陸 奥 介 景 柄 男 明和五年四月十口 享 保 三 年 二 月 廿 三 日
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叙 正 六 位 下
中廿年︑長£一LLf
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れと
遷肥後守 七十六歳
る
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7 9
樹の 死 に つ き
︑ も っ と も し く そ の 様 子 を 伝 え て い る 代 の 資 料 は
︑ 現 在 知 ら れ て い る か ぎ り で は 一 に
﹁ 消 息 二 十 二
﹂ と し て 抄 録 さ れ て い る
wぺ ノ︒
日 月
1I
﹂
(G
)
であろ
東 塙 宗 の 六 日 夜 半 為 状 到 来
︒ 夜と中慌にて廿六日は夜半過より罷越候て通夜︒
て 一 一 一 休 息 一 処 へ 通 夜 衆 に か さ れ 御 嫡 孫 夫 折 の
由︒尤宗在へは密密にて二保刈東開名寺へ送り翌日にも埋葬
の積り一本り其自はれ川昼前退出帰宅の処北野松園坊引取掛立
寄候て今日未刻過宗匠御終震の趣且二十九日間崎へ引越し晦 日発葬たるべしとの手続承り何とも無是非次第残念御同意に 奉存候︒尚不遠参拝万万可申承候︒御病中にごすぢに命ま
つまの春の日はかへりて長きものにぞありける﹂と承候︒昨
今木崖町へ出掛:・一一一月ニ十九日(天保十四年)︒赤尾様︒
穂 井 出 窓 友
これに引きつづき︑次のような編者の考察がある︒
これを見れば木屋町なる別荘にて卒去せらせし事知らる︒松
国坊名は清根︒徳大寺家の記録に
天保十四年一二月三十自卒討
とあれどこは公の届出にてまことは三月二十七日の卒去な
り︒又葬儀は四丹二日に行はれし由仏光寺の記録に見えたり︒
間名寺過去帳に
光 融 季 部 童 女 天 保 十 四 年 三 月 二 十 七 日
紳嬬孫夫折とあるは是なるべし
私に傍線を付した五行居の﹁仏光寺の記録﹂は﹃御羽記﹄のこ とかもしれない︒後に引くように︑﹃御日記﹄天保十四年四月二 自に景樹の葬式の記事が見える︒ただし︑龍谷暁虞門主の誼話に よれば本山仏光寺には吋御日記﹄のほかにも元治の兵火による焼 失を免れた記録が所蔵されているとのことであり︑﹁仏光寺の記
録﹂が﹃御自記﹄そのものをさしているかどうか明らかではない︒
ともあれここで注意したいのは︑景樹の葬儀に捺して仏光寺か
ら金五百疋の香箕があったことである︒現在のところ﹃御臼記加
によってはじめて知られる事実であるが︑重要なのは︑この香箕
が景樹の仏光寺における位置を反映していると思われることであ る︒五百疋の香集がどれほどの待遇なのか︑この前後に比較でき る事例がないので判然とはしない︒しかし︑次のように想像する
と︑その破格ぶりがよくわかる︒
はじめに引用した﹃御日記﹄の﹁(中略)﹂のところで︑省略 したのはニ件の記事である︒その一つは︑大行寺が昨日近江から 帰京したので勧修寺家へ届け出たところ応対できる者が不在なの で明日にするよう言われたという件︑そしてもう一つは︑架部御 殿から四月五日に別殿引移を予定していたが宮中御心喪のため延 期するとの書状が届いた︑という件で︑どちらも景樹の死去とは まったく無関係である︒叫御日記﹄の同じ日の記事がどのような
順序で記されているか未詳であるが︑少なくともこの一一一月二十九日は︑事が生起した順に記されているのではないかと思われる︒
そう考えれば︑景樹の死去にかかわる記事が二つに分けて記され ている理由が容易に説明できる︒この日まだ早いうちに死去の報
が届いたので︑﹁不取敢﹂北村将監を悔やみの使者として送り︑
その間別件が二つ入るほど慎重に対応を検討し香奨として破格の 金五百疋を送ることにした︑といった事情が想像される︒もしそ
うであるなら︑それは前例のない待遇であったはずである︒
この想的協があたっているかどうかは別として︑景樹への待遇が
出入りの歌人としては異例であったことは確実である︒景樹がそ うした待遇をうける理由を説明する文言が﹁御先代より格別之御
懇命﹂であって︑景樹への五百疋という香箕は︑先代の随応上人︑
当代の随念上人の二代にわたって親しく出入りし特別の命を受け てきたことによるところで︑これを出入りの歌人一般への香集の 前例にしてはならない︑というのが︑この文言の意味するところ であろう︒﹁格別之御懇命﹂は次節の{三七}に﹁格別御懇命之 間柄﹂とあるのと同じ意味であろうが︑これについてはつ一七}
で︑そしてさらに︻回
O }
でも
ふれ
る︒
8 0
﹁不取敢﹂悔やみのために派遣された北村将監は︑本山仏光寺
﹁家
中﹂
(7
のうち︑門主の身近に仕えて諸家諸寺院への使者︑)
諸家諾寺院からの使者の取次を主な任務とする近習の一人で︑こ
の年天保十四年元日一の賀礼の記事では︑家中三十九人の十番告に
挙げられている︒後に景樹の葬式にかかわって名の出る山田木工 は景樹の門人であり︑染香庵も入門の事実は確認できないが和歌
を通じて景樹と交遊があったことは吋御日記﹄その他からわかる︒
しかし北村将監についてその点は不明である︒﹁歌日記﹂にも︑
すくなくとも﹁北村将監﹂という形では出てこない︒その将監が
使者に選ばれたのはなぜであろうか︒
本山から諸方へ派遣される種々の使者が︑どのようにして選ば れたかくわしいことはわからないが︑その日その日に当番が定め られており︑交渉などはともなわない単なる使いの場合はどこで あってもその当番が遣わされたのではないか︑と思われるふしも ある︒たとえばこの三月二十九日にも︑景樹への香奨の後に記さ
れる近火見舞に︑
一︑今夜子半刻頃両替竹屋町;所出火一一村
御所々れ為御機嫌伺御能
添 使 谷 口 式
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関 関
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境 白様 様
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畏 のように監が使者として派遣されている︒
に将監が当たっていたのかもしれない︒
ここで︑﹃御日記﹄と﹁歌日記﹂とを比
この日の使者の当 照という小稿の主
旨 か ら は は ず れ る が
︑ の
﹂ に つ い て 付 し て お き た い
︒
﹁一筋にいのちまつまの春の日はかへりてながきものにざりける﹂
の歌は︑現在景樹の辞世として知られているけれど︑先に引用し た﹁桂関遺開﹂の忠友書簡によれば﹁御病中﹂に詠んだ歌が結果 として辞世となったらしい︒この歌は︑景樹の歌集のうち︑管見 に入ったかぎりでは︑藤間維中編吋桂闘来葉﹄雑述懐︑丸山反政
編﹃桂間余材集﹄雑︑仲出顕忠⁝陥﹃娃の落葉い第二編雑︑稲村三
羽編﹃桂のしもと﹄雑に収められている
5
が︑これらのうち﹃桂
悶緊葉﹄の詞書は︑﹁天保十四年卯春御病中に吟﹂となっており︑
ウ桂関余材集﹄には︑﹁題知らず没故前説﹂とある︒どちらも
やはり﹁砕陛﹂とは明言していない︒
この歌が詠まれたときの様子は︑次のように﹃桂のしもと﹄に 引用されている景樹の嗣子景恒の手紙(立からもう少し詳しくう
かがわれる︒二行自の﹁かけちか﹂は﹁かげちか﹂すなわち
後 の で る
︒ 景 周 の の に 三 月 の は し め っ か た に 候 哉 か け ち か か た ら に 侍 り し と き 一 す し に ま つ ま の の 日 は か へ り て 長 き 物 に そ
る
樹 の 没 後
︑ が そ の 後 を つ い で 宗 一 転 と な っ た こ と を な い 人 々 も あ っ た こ と は
︑ 百 校 閤 後 拾 の 政 文 に 次 の よ う に あ
る
( ω )
ことからも容易に想像できる︒
の み つ か ら で 後 鴎 拾 の後集なれは也︒しか
と な ん 名 ら た あ れ と 季 恋 の み
81
にして雑の部いまた撰出給はさりしほとに畏こくも身まかり
ましぬ︒をしともをしと誰かはなけかさらん︒この頃師の嗣
なる景恒の君此後菌拾葉に雑の歌を撰みそへて桂閤拾遣と名 付物して世にあらはし給へるはいともうれしきわさになむ︒
されとひそかに思へは師のみ心にたかへるふしもましりぬへ
くや︒この拾葉のみこそはさる類ひならねは師のをしへをた
とみしたはん人々よ北巻を準縄として志したらんには歌たる
おもむきをもあきらめさらめやも︒あなかしこ︒
嘉 永 四 と せ さ っ き の は し め の 法 眼 享 寿
うつし畢ぬ
日
こうした状況にあっては︑辞世の歌を聞いたことが景恒に後
継者としての重みをつけることになる︑といった事情があったの
かもしれない︒見方をかえれば︑吋桂岡幽来葉﹄や吋桂間余材集﹄
がこれを辞世としていないのは景樹没後の桂闘派の事情の反映で
はないかとも推測されるが︑そのあたりの事構についてはよくわ
からない︒ちなみに︑景樹が辞世と意識して詠んだ歌として︑﹃桂
のしもと﹄雑部に︑﹁鳥辺山ふもとの野へのかり枕結ふそ旅の限
り也ける﹂という歌が見える︒この歌はほかに︑﹃桂園緊葉﹄雑 一︑﹃桂園余材集﹄雑︑﹃桂の落葉第一一一編﹄雑に収められてい
る (
日 )
︒ こ
れ ら
の う
ち ︑
コ 松
田 倒
余 材
集
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