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一日︒仏光寺のみとのにいつも十日のころまうのぼ

り︑さてはじめての紳つどひもよほさるに︑又ことし はおのれむねふたぐやまひありて︑さる御殿わたりの 遠きにはえものし侍らねば︑さることも行はせ給はで やみにしを︑あかずおぼして︑けふしもかしこくもお

の が き 木 村 某 が や ど に 入 給 ひ て よ び ょ せ 給 ひ

︑ い さ﹀かその式めきて皆にも歌よませ給ひしなり︒御兼

(二

行空

自)

百ちどりさへづる春の初ごゑをなが来て鳴も珍らしき哉 す み れ つ く 介

¥ し な づ な 都人早くなづさへからなづなみになるまでに春は成にき

すいムめのおや︑ひなにえくはせんとするかた

汝が声を今も開しる人あらばいかにかなしき心なるらん

ところ

長関なるいづくはあれどこの殿に所えたりとみゆる春哉 これと対応しているはずの﹃御日記﹄文化七

次のようになっている︒全文を明く︒

立三

日 は

一︑

御出

仕︒

て 川 守 酉 光 寺 三 之 新発意円澄 一

︑ 大 宮 三 位 殿 御 成

︒ 取 次 貞 之 進

年始御祝詞被仰候事︒

一︑千種殿御使山田右衛門入魂軍蔵

先達市者御目六之通被進恭御挨拶︒ 目四段紋白五条︒

こ こ に 髄 応 上 人 外 の こ と は 見 え な い

︒ い っ ぽ う

﹃ 御 日 記

﹄ 文 化 八 年 月 二 一 日 に は

︑ つ ぎ の よ う な 外 出 の 記 事 が あ る

︒ 一︑御所様青蓮読宮様より東山御廟所へ

御成被為在候︒御供大蔵卿︒

先よ

り木

村貞

之進

江御

成︒

月臼が一致し︑人の行く先も︑﹁歌日記﹂は﹁木村某﹂︑京例日記﹄

は﹁木村貞之進﹂と詰字が一致している︒﹁歌日記﹂の文化七年一ル

月二十一日は︑おそらく文化八年正月二十一日の誤りである︒そ うであるなら︑十九日が文化八年正月十九日であった可能性は一

層大きい(却)︒﹁歌日記﹂によって従来文化七年正月十九日とされ

てきた景樹の吋古今集﹄講義の再開(さは︑実はそれより一年遅い

文 化 八 目 だ っ た と い っ て よ い で あ ろ う

︒ 月

{ 九 ︺

叫御

日記

h文化八年(一八一一)八月十八日 一︑ 部

q

事議

卸或

f1

Rr

H

is

t

木屋町香川出養生之

処へ

2 8  

﹃歌

日記

な ﹄

﹁ 歌 日 記

﹂ 文 化 八 年 は

︑ の よ う に 八 月 一 日 か ら 八 月 二 十 一

日までの景樹自筆部分と︑﹁一一月楼にて雪の降りたる日﹂以下の非

自筆部分からなる︒八月十八日は自筆部分の範囲であるが︑この 部分は正しくは文化六年の日記である︒つまり文化八年八月十八

日は︑﹁歌日記﹂自体が未発見のままである︒かりに文化六年の日

記という推定は誤りであって文化八年が正しいとしても︑十八日 は十九日とともに記事を欠いている︒また︑この前後にも︑こ

と対応する記事はない︒

{

O }

明御日記﹄文化九年八月十一日

今日岡崎本光寺へ御成︒

先より木村貞之進へ御成之由︒

朝四ツ時半時

還御

一︑御所様

﹁歌日記﹂文化九年八月十一日

仏御

門主

︑ 木村がもとに入らせたまひで御当鹿

八月十一日︒

社頭祝札⁝川一則じとぞおもふ君が代にふた﹀びかへす山あひの袖

耕 夫 爵 女 郎 花 と 薄 と 交 り た て る か た 女郎花す﹀きを花の快にてかへすハ¥もたれをこふらん 野ベに出たまひけるに御供して くもりたる月の光も晴にけりいざや野寺のかど叩きてん

‑ネ﹁本光寺﹂は﹃御日記﹄﹁歌日記﹂にしばしば見える寺である︒

第二節に各⁝例を引用した︒そのうちの﹁歌日記﹂の方の記事に

﹁近き本光寺﹂とあるのによれば︑開崎の景樹宅の近くにあった

らし

い︒

古地図を見ると︑天保二年七月刻成︑慶応四年二月再刻吋改正

京御絵閣細見大成﹄(きに﹁本光寺﹂が載っている︒加茂川の束︑

二条通りの東の突き当たりで︑秋問屋敷・加州屋敷の束︑満願寺

の南方向にあたる︒同じ地国の天保二年版の向じ位置に﹁本光院﹂

として載っているのも︑おそらくこの寺である︒現在は二条通が その跡地を横断して白川に吏り︑二分された旧境内の南半分ほど が京都市動物園の敷地の一部になっている︒この寺がこの位震に

あ っ た 時 期 は 明 ら か で は な い が

︑ 明 治 九 年 版 権 免 許

︑ 水 校

正﹃京都区分一覧之図﹄(お)ではこの位置に建造物はなく︑畑か

草地を思わせる符号が記されている︒文化年間の地圏については

未調査であるが︑仏光寺東山本廟とも近く︑﹃御日記﹄﹁歌日記﹂

の本光寺はこの寺であったと考えられる︒

﹁木村貞之進﹂は近習の一人として﹃御羽記﹄に頻出する︒{八}

に引用した文化七年正月二十一日︑文化八年正月二十一日にも出

ている︒近習は﹁宗主の側近にて世話する役﹂(﹃悌光寺辞典﹄)で︑

親類の公家・大名との年賀慶弔の挨拶の使者・取次︑門主やその

家族の外出の供なども務めた︒﹁歌日記﹂に﹁木村貞之進﹂﹁貞之

進﹂は見えないが︑随応上人が﹁木村高敦の家﹂(文化四年七月一一

O

日)︑﹁木村某がやど﹂(文北七年正月二十一日)に入り︑景樹も

加わって歌会が開かれたという記事が出てくる︒ニの高敦は貞之

進その人か︑またはその一族であった可能性が大きい︒

﹁歌日記﹂の﹁耕夫﹂は上田耕夫である︒生年未詳︑天保十三

年没︒応挙円︒吋御日記﹄によれば仏光寺と最も密接な関係を有す

る絵師の一人である︒この時も︑木村貞之進宅に呼ばれた可能性 も あ る が

︑ り 合 わ せ た 耕 夫 の 絵 に 賛 を え た だ け な の か も し れ

λ

1 0

JJ

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ν 

{ }

叫御日記﹄文化十二年(一八一五)三月十九日

一︑香川長門介参

﹃歌

自記

な ﹄

l

ノレ。

2 9  

*

﹁ 歌 詞 記

﹂ 文 化 月 二 十 日 に

︑ 日 仏 光 の み と の に ま う の ぼ る べ き を

︑ い さ さ か

‑ け の な や み に さ は り て え ま ゐ り 侍 ら ざ り し を あ か ぬ こ と に 思 し め し て

﹂ と あ る

︒ 参 殿 す べ き 自 は 十 九 目 だ っ た わ け で

︑ そ れ と 同 じ 十 九 日 で あ る 点 が 注 罰 さ れ る

︒ 毎 月 十 九 日 に 仏 光 寺 奥 に お い て 歌 会 が 催 さ れ て い た 可 能 性 を 感 じ さ せ る か

らである︒

し か し

︑ 現 時 点 で は

︑ 十 九 日 の 一 致 は 偶 然 だ っ た と 言 わ ぎ る を 得 な い

︒ い っ た い 景 樹 が 仏 光 寺 に お け る 歌 会 に ど の 程 度 出 席 し た か

︑ と い う よ り 出 痛 で き た の か

︑ 明 か で は な い

︒ 新 年 最 初 の 初 会 に招かれたことは﹃紳日記﹄﹁歌日記﹂の阿方に見えるが︑それ以 後の月次会について仏光寺に参上したという記事はない︒また︑﹁歌 日 記

﹂ に お い て

︑ 初 会 以 外 に 仏 光 寺 に 参 殿 し て 当 庄 の 歌 を 詠 ん だ と い う 記 事 は

︑ 文 北 三 年 十 月 三 日 の 一 例 し か な い

︒ そ れ

も︑まず︑

仏光寺へまうのぼる︒御兼題未進よみて

として︑﹁漸待郭公﹂

を列記し︑続いて︑ 以

1

今日御当座題

深夜落葉

る。

夏と秋の題六題︑

歌は一首欠けて五 伎

女 対 鏡 と し て 歌 各 一 首 が 記 さ れ る の み で あ る

︒ 月 次 会 へ の 出 席 で あ っ た のか苔か︑判然としない︒{八}に引用した文北七年(実は八年か) 正月二十一日に︑﹁仏光寺のみとのにいつも十日のころまうのぼり﹂

とあるのも︑﹁さてはじめての御つどひもよほさるに﹂と続くこと か ら 明 白 な よ う に

︑ 初 会 に つ い て の み の こ と で あ る

︒ お そ ら く 景 樹 は

︑ 初 会 以 外 の 仏 光 寺 会 に つ い て は

︑ 割 り 当 て ら れ た 題 を 通 知 さ て 詠 み

︑ そ れ を 献 上 し た だ け で は な い か と 思 わ れ る

︒ ち な み

︑ 仏 光 寺 に お い て 月 次 会 が 催 さ て い た こ と は

︑ 右 の

﹁ 御 兼 題 未進よみて奉る﹂につづいて春・秋のふハ題が列記されていること か ら も 推 測 さ れ る し

︑ よ り 確 実 に は

︑ 同 じ く

﹁ 歌 日 記

﹂ の 文 化 十 年に︑﹁仏御殿月次御題二月より﹂として︑﹁江上春曙﹂から﹁昨 夜 仏 名

﹂ ま で こ の と 歌 と が 列 記 さ れ て い る こ と か ら 分 か る

︒ {二

一} 明御日記﹄文化十三年(一八二ハ)

月十九日 御 所 青 綴 蓮

i

宮 様 江

絹i

成 御 先 番 兼 治部︹のしめ

n uu a

' e

話︒

直 様

坊官不勤仕之由

掃部御出迎 此 母 左内︹初

間計

出ス

︺ 人

御 網 代

田笹J[

人 輿

先より安住台へ御成

人ツ半より君様安住台へ御成

p t

μ

{ {  

先方様へ

︑香 川 f常楽寺

︹写

2

半上下)

3 0  

笹[J

1 何

l

草 沓 り

合 取 指l

‑ 羽 長 天 龍 柄

押 正 一 兵

馬 部 参り候由

︹写

真2

)

﹁御

楽 寺

此母﹂から﹁香川

参り 扶由

﹂ま で︒

吋歌

日記

な ﹄

*﹁治部﹂は仏光寺家可の辻治部い﹁並河掃部﹂は未詳であるが︑

fJ¥

﹃地

下家

bに載る青蓮院侍法師並河靖栄かもしれない︒﹁此母﹂

以下の御供は近習である︒﹁君様﹂は千恵君︑後の仏光寺二十四代

随念上人ある︒文化二年生︑弘化二年︑四十一歳で遷化した︒父

は仏光寺二十三代髄応上入︑母はその室で伊勢安濃津藤蛍高山疑の

長女間名信院である︒﹁安住台﹂は第三節でふれた︒﹁常楽寺﹂は

仏光寺御堂衆の恵岳である︒和歌を好み︑首践・景樹などの歌人

たちと親しかった︒

{ 一 一 一

一 }

記僻

日記

﹄文

化十

三年

(一

八一

六)

一一

一月

二十

一︑岡崎香川長門介宅へ︹兵部雅楽︺参ル︒

乍遠

方彼

寺江

可致

推参

掠々

之儀

一一

付市

也︒

叫歌

日記

な ﹄

布者

明日

御成

一一

*﹁兵部﹂は{氷河の小幡兵部︑﹁雅楽﹂は近習の宇野雅楽である︒

﹁明日御成﹂は随応上人の法蔵寺への御成で︑﹃御日記﹄のじ三

月二

十日

に次

のよ

うに

ある

のを

受け

て一

世間

う︒

一︑大坂講中内錫屋住兵衛・錫屋治郎兵衛上京ニ

御所様久々御省略中一一付御欝情も可被為在︑右

一一

付山

我山

辺一

一滴

も御

成御

招待

申上

度旨

一一

付上

京︒

輪番

問道

右之

趣一

一一

一向

上︒

然ル

処︑

御時

節柄

此節

峨山杯と申事者世間如何敷被思召旨︑輪番江

相達

︒右

一一

付御

室辺

和泉

谷法

蔵寺

と申

寺︑

甚眺

望杯

宜敷

旨一

一付

︑是

江川

御成

之犠

瀬︑

即 刻 御 治 定

︑ 羽 被 抑 出

31  は

大 坂 御 堂 ( 大 坂 別 院 ) の 輪 番 で あ ろ う

︒ 別 院 の は の兼務であるため︑かわって輪番が置かれる(﹃偽光寺辞典﹄)︒

山﹂は未詳︒嵯峨山か︒﹁法蔵寺﹂は︑現右京区鳴滝泉谷町︑

西寿寺の南︑泉谷にある黄葉宗のである︒

{ }

﹃御日記加文化十

(一

八一

六)

一一

一月

二十

一日

︹写

3

ドキュメント内 桂園派の形成@展開と真宗仏光寺派交流圏 (ページ 30-43)

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