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事 態 が 想 像 さ れ る

︒ 三 月 二 十 二 日

︑ 二条家から仏光寺へ︑三百冊とその利患とが返却された︒使者は 河岸主税︑応対したのが木村環である︒その際︑今度は五十両の

借金の依頼があった︒四月二十日までに︑ということであったが︑

さっそく三月二十七日に︑環が二条家に持参し︑仮受取書を受け 取った︒続いて盟丹二日︑﹁此面﹂すなわち仏光寺近習の北村此商

が河原御殿に出向き︑﹁長門介﹂すなわち喜一関長門介が応対してい

る︒河原綿殿は二条家の別邸である︒そしてその自のうちに沢盛 一学が仏光寺を来訪し︑五十両の貸し借りを︑銀壱貫目と二十五

両に減らしている︒一学はその際︑差額を持参し返却したらしく︑

環から仮請取が差し出された︒

四月二日の﹁当時御都合無之﹂は︑仏光寺と二条家のどちらの 都合をいうのか今ひとつ分からないが︑しかし︑いずれにせよこ のような一連の動きから︑四月一日︑環︑が内々に喜頭長門介宅に 出向き︑五十河を仏光寺側の都合により銀一貫目と二十五両に変 更するよう交渉したことは十分に考えられる︒ニ日にも此聞が︑河

原 御 殿 に き 長 門 介 と 面 会 し て い る が

︑ 近 習 の 面 に は そ う し た交渉は荷が重かろう︒此揺が表向きの使いとして︑一一条家側か ら額の変更を申し出た形にするため︑一一条家から人を差し向ける

よう依頼したと推測される︒

もちろん︑二条家との聞のこうした問題とはまったく 樹宅への環の訪問はあったのかもしれないが︑﹁香川﹂が

の誤りである可能性のほうが大きいと思う︒ に︑景﹁ 喜

一 政 ﹂

{二

八︺

﹃御日記﹄文政問

月 日

一︑香川長門介方口践中為御見付︒

野 菜 一 折

﹁歌

日記

5 2  

﹁見

付﹂

は﹁見中小口は虫損のため不明瞭であるがご江﹂であろう︒

舞﹂の誤りであろうか︒ここではそう解しておく︒

﹁膝中﹂は喪中の意であるが︑誰の喪なのか︑次のように一一⁝通

り考えられるが︑どれも推測︑想像にとどまる︒

一つは木下幸文の喪で︑ちょうどこの間に没している︒幸文も 仏光寺との関係を有しており︿刀︑随応上人から見舞いがあって 不自然ではないが︑幸文の逝去によって景樹が喪中︑ということ にはならないのではないか︒また︑死没当日の見舞いは喪中見舞

いとは言わないのではないかと思う︒

ニつめは︑一ヶ月前の文政四年十月一二日に没した養父景柄の喪 である︒すでに離縁になっているが︑景樹は引き続き﹁香川﹂を

称し︑景柄を﹁父﹂と呼び続けている︒そうした景樹の論理(同) に従うなら︑景柄の喪中見舞いが長樹に届けられるのは当然であ る︒しかし︑なぜそれが一ヶ月後なのか︒養父の喪中見舞いは没

後一ヶ月という原則があったのかもしれないが︑確認できない︒

もう一つは︑景樹の娘の孝子の子︑つまり景樹にとっては孫の

喪である︒孝子は文政二年に九条家諸大夫の芝寛寧に嫁したが︑

かつて臨名信院に鍾愛されていたも)︒その孝子の子がこの頃没 する︑といったことがあったのかもしれない︒しかし︑はたして

孝子にそのような子があったのかどうかからして不明である︒

(6

によ

る︒

日 本 暦 ( 註

5)

(7

)

龍谷有教編ウ仰光寺辞典﹄(ム

寺教学資料編纂委員会編司偽光寺年表﹄

平成九年四月)

音 昭 和

説 手

光 7L

(8

(一七一八)元版︑天明四年(一七八四)

第十二巻による︒文は六三八頁︑絵は六八八一災にあ

︹付

記︺

﹃ 御 日 記

﹄ を は じ め と す る 本 山 仏 光 寺 所 蔵 資 料 の つ き

︑ 漉谷暁良門主と御家族に格別の御配慮を頂戴した︒ここに記して

深謝申し上︑げる︒なお︑本稿は平成十七年度科学研究費補助金基

盤研究

C (

2 )

による研究成果の一部である︒

(9

)

東山川聖龍寺所蔵門雅書写本(外題司嵐山御詠歌﹄)による︒

(叩

)日

は記

され

てい

ない

(日)(ゆ)は鎚念上人の年齢︑︹歴世略伝︺は﹃渋谷庶世略伝﹄に依拠

した

こと

を示

す︒

(1

)

﹃桂国遺稿﹄上・下巻(五明治問︒年三月・

( 口 )

﹃ ま た ぬ の 引 用 は

︑ 佐 佐 木 信 網 編

︑ 続 日 本 歌 学 全 書 第 剖 編

﹃香川景樹翁全集上巻﹄(樽文館明治一一二年六月)による︒

(日)千葉采隆・梨本皆雄監修︑平松令一一一責任編集吋偽光寺の歴史と信

仰﹄(忠文調出版一九八九年三月)本文策︒

(は)波谷暁畏編︑再々版・現代仮名づかい版(本山仰光寺平成二一一

年一

O

月)

によ

る︒

(日)正宗教夫﹁桂悶史料﹂(司高年州﹄巻第六明治一一一六年六月)︑殺

補正徳一不下幸文俸の研究﹄(風間書房昭和四九年一一一月)一七

了う一七三寅ほか︒拙稿﹁香川長樹﹁歌口μ記﹂の﹁年づけ﹂

i i

1

3校闘策葉﹄を手がかりとして

i i

﹂(吋鳥取大学教育学部研究報

i

告(人文・社会科学)﹄第四七巻第二号一九九六年二一月)

(同

)前

稿︹

1︺の{五}参照︒

(げ)兼浩正徳司木下幸文停の研究﹄(注目)

(は

)﹁

二つ

の梅

月堂

i i

i

まえがきにかえて﹂(拙著実口川長樹研究新

出資料とその考察﹄和泉書院一九九七年一一一月)参照︒

(円)この件について詳しいことは分からないが︑ヲまたぬ青葉nb

に次

のようにある︒一一三日に引いた四月七日の︑ご︺はうらのみとの

Lあ れ る を

︑ も う の る ゆ き か ひ に 見 入 れ 泰 り て

︑ い た め る こ

53 

内向

八月

)

(2

)

以下︑それぞれ前稿︹1

︺︑

前稿

Z︺と略記する︒

伝記﹄の伝存状況は次のごとくである︒

元日

1

十一

一月

晦日

元日

1

十二月二十九日

元日

1

十二

(3

)

各年の文政元年

文政

一二

文政三年

一冊

一冊

一 冗 口

μ(

﹀十

二 文 政 五 年 元 日

1

十 二 月 晦 日 ニ 冊

(4

)

文政二年正月執筆と推定される︑山支出対尼宛の景樹の手紙(洛

東遺

芳館

所蔵

)に

︑﹁

私事

しは

す十

五日

帰京

﹂と

ある

(5

)

内田正男編著﹃日本膳日涼典﹄(雄山閤出版

湯浅古美編﹃増補日本暦臼便覧﹄(︑必辛口書院 昭和五O年七月)

平 成 二 ニ 月 )

hろ 山 泊 ︒

であ

る︒

MM

kものL

ふのみ家にひと

Lならせ給ひて︑み心だ むげにめ与しうなど︑いふかひなくは物し給はぬ物 いつくしみの露︑はたか

Lらぬ畑出なく︑仰ぎまゐら

せぬ人なき中にも︑おしなべならずおぼしくだされしはさ ら也︑むすめ孝子をさへ︑めでかなしませ給ひ︑わきてみ 志深う︑御抽の下にかいく﹄ませて︑か

Lらん嫁がねをこ

そえまほしうなどさへ︑のたまひくだされしみたはぶ て

も︑

から

︑ 身にあまりて恭けなみ奉るは

のやみなるまどひになん︒

(﹃

地域

学論

集﹄

一巻

第五

平成了七年六月)

54 

仏 光 寺

ドキュメント内 桂園派の形成@展開と真宗仏光寺派交流圏 (ページ 55-58)

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