中傑﹂は随念上入室の嶺君︑﹁若君様﹂が松若君である︒
︿参考﹀として掲げたのは︑﹃御日記﹄に差し挟まれている御 用部屋の記録である︒﹃御日記﹄の料紙には黄紙が用いられてい
る年が多く︑天保六年の場合も十ニ月七日より前は黄紙であるが︑
間七月二十五日と八月五日の聞の三十五丁は中でも特に黄色が濃 くなっている︒その第一の表中央に︑
嶺君様御著帯 却菌7一見知七支
1
謡 ・一 寸
E
話t J
1
御 参 堂 御 贈 答 略 録 と あ り
︑ 右 に
﹁ 天 保 六 乙 来 年 従 後 七 月 至 月
﹂
︑ 左 に 部 屋﹂とあって︑﹃御日記﹄そのものではなく︑御用部患の記録が ここに級じ込まれたものらしい︒本山にかかわる重要な事柄につ いては︑このような記録が吋御日記﹄とは別に作成されていたの ではないかと思われるが︑この場合はなぜかそれが﹃御日記﹄に 綴じ込まれているのである︒松若誕生の件は︑この御用部屋の記
録のうち︑﹁御猶子成御七夜﹂の部にふくまれている︒その中の︑
直接に誕生を記した記事を︿参考﹀として掲げた︒﹁併簾中様﹂
が嶺君︑﹁男子﹂が松若君である︒
随念上人室嶺君は︑例光寺辞典﹄?倒光寺年表﹄によれば︑従 一位左大臣二候治孝の長女で名は近子︑文化元年(一八
O
凶)に生 ま れ
︑ 文 政 七 年 に 仏 光 寺 に 入 興
︑ 嘉 永 二 年 ( 一 八 四 九 ) 年 四 十六歳で逝去した︒法名を念心︑院号を無量光院という︒
一︑御七夜御祝儀被為在︒
︿参考﹀御用部屋記録
、
夜一
一付
被進
物左
之通
左府
様訂
内‑
王様
より
田大蔵卿
二 週 刊
つ つ
h怨
附
伽 押 御樽代金
祝 餅 壱 札
ハ 一 一 一
ム 口 取
赤 飯 一 蓋 被 進 之 右二種者御入魂 (中略) 一
︑ 冷 泉 殿 阿 野 殿 大 普 段 室 光 菌 院 室 奉文を以御祝餅一重ねツ﹀被遣之︒壱升三合取品︒
一
︑ 松 波 雅 楽 頭 北 小 路 大 蔵 少 輔 隠 岐 播 磨 守 藤 木 因 幡 介
上鵜八十嶋表裏老女江御祝餅一重右升三ム口取被遣候︒
一︑香川長門介御祝餅士官升取一重被遣候︒御肴相添︒
一︑比留間権藤太御酒三升献上︒抑祝餅一重八ム口取被下候︒
⁝︑奥向﹂悌出候もの共打者赤飯御抗酒被下候︒献上物有之
ものへ者延紙二東ツ﹀被下候︒
一︑
御館
入十
人衆
へ者
御祝
餅一
重一
ッ︑
︑被
下候
八ム
口取
︒
一︑御家司御用人江御祝餅一重一ツ¥被下候防衛︒
一 箱 一
弐百疋
﹁ 歌
E
な 記 ﹂
し
Pド
︿参考﹀としたのはでニニ}と同じく﹁御用部屋﹂
の記録のう
ち︑七寂の内祝いの贈り物を列記した部分の一部である︒各条の 結びの一文字を﹁候﹂としたが︑﹁之﹂のようにも見える︒﹁冷 泉殿﹂以下を左に︹写真
3
︺として掲げる︒日付はないが﹁七夜﹂から十五日と推︑測した︒松若君誕生の祝儀は吋御日記﹄本体にこ の後も断続して記され︑たとえば終わりから二条目の﹁御館入十 人衆﹂への祝餅について辻︑十八日に﹁御舘入之内十人衆へ御誕 生ニ付御祝餅被下候﹂とあるが︑長樹への祝餅についての記事は
見られない︒
︹写真3︺
ハU
ヴi
ここに一記されている人々の前後の顕と贈り物の内容は︑仏光寺
において景樹がどの程度に格付けされていたのかを窺う手がかり になる︒前に記されているほど︑また祝餅が大きいほど上段であ る︒詳細は省略するが︑注目されるのは︑景樹が﹁御館入﹂とは 別に︑それよりも上位に置かれていることであろう︒
﹁御館入﹂とは︑﹃御日記﹄の用例をみると︑特定の職能や技 芸 な ど に よ っ て 門 主 の 御 目 見 を 得 て 本 へ の 出 入 り を 許 さ れ る こ
と
︑ ま た そ の 人 を い う よ う で あ る
︒ 景 樹 の 立 場 は
︑ 和 歌 に よ っ て 出 入 り を 許 さ れ た は ず で あ る か ら
︑ そ の 立 場 は
﹁ 御 館 入
﹂ と 共 通 し て い る と 思 わ れ る の で あ る が
︑ こ こ で は 加 に 掲 げ ら れ て い る
︒ で は 具 体 的 に ど の よ う な 人 物 が
﹁ 御 館 入
﹂ を 許 さ れ た の か
︑ 時 代 は や や さ か の ぼ る が 次 の よ う な 記 述 か ら 推 測 す る こ と が で き る
︒ 文 政 六 年 十 二 月 十 八 百 の 随 応 上 人 の
﹁ 尽 七 日
﹂ ( 四 十 九 日 ) に か か わ る 記 事 で あ る
︒ 実 を い え ば
︑ こ こ に 名 の あ が っ て い る 人 物 全 員 が
﹁ 御 館 入
﹂ で あ っ た の か ど う か
︑ 疑 問 は あ る
︒ た と え ば
三人目の伊藤昌一一一一口は︑﹁御用ニ付御所申上候﹂とある師の荻野河
内 守 の 代 理 と し て 参 殿 し た だ け な の か も し れ な い
︒ し か し
︑
﹁ 御 館 入 国 々 江 御 非 時 被 下 左 之 通
﹂ と し た う え で 列 記 さ れ て い る の で あ る か ら
︑ 全 員 で は な い と し て も 大 部 分 は 御 館 入 の 面 々 と 解 し て
よいと思う︒
一︑御尽七日号於展殿御館入面々
H
御非時被下在之通︒
一
︑ 藤 堂 和 泉 守 様 御 代 香
; 井 関 彦 兵 衛
一折七種
'"Eゴ
疋 被 下 右 同 人
御医姉
荻 野 河 内 守
右同人弟子
伊蕗
昌一
一一
日
FU
hE
丸
一 一 P
ノ ︐ゎ
mげ
山 間 口 列 的 川 訂 後f
街l
付
辻 辻 佐 与 左 和 刀 日 近 善 {旬将卜 守 監 郎
ーi f
イド
闘い
尾 在 兵 衛
下線色
津田清左
お門川昨間
平
7]¥. 太
右間断
松 村 要 人
伏見鉛役人
斎 藤 八 九 郎 右 之 外 御 館 入 町 人 共 御 非 時 被 遣 分
︒ 尤 寝 殿 於 北 ノ
℃ 風 仕 切 一 所 ニ 集 巴
︒
ゴ¥﹂ オ
︑ ︑
0
1 ν
右
岡断伺
本 馬
ぴ〉
l
まの よ う に も 見 え る が 虫 喰 の た め よ く わ か ら な
71 い
の 一 目 の 門 水 は 第 二 節
③ の 応 三 日 の 松 村 要人は①岱の景文︑二番目の岡本可馬は何本豊彦(安︑水二年・一
七 七
一 一
1
一弘 化 二 年
・ 一 八 四 五 ) で あ る
︒ こ れ ら を ふ く め て こ こ に 名 の 上 が っ て い る 人 々 は
︑ 同 じ く 御 館 入 で は あ っ て も
﹁ 御 館 入 何 人 共
﹂ と は 別 枠 で あ る
︒ 医 師 や 楽 人
︑ 商 師 が 与 力 や 船 役 人 と と も に列記されているが︑文人歌人はいない︒
長崩が仏光寺に出入りするようになった事情は︑長樹自身が﹁歌 日 記
﹂ 文 化 三 年 正 月 九 日 に 記 し て い る
︒ 髄 応
Eトし人は︑有楢川中務
卿 の 門 人 で あ っ た が
︑ そ れ は あ く ま で も 表 向 き の こ と
︑ 実 質 上 は 羽 分 が 指 導 し て い た
︒ も と は 伴 詰 践 が 月 ご と に 招 か れ て 歌 会 が 開 か れ て い た の だ が
︑ 老 衰 で 参 殿 で き な く な っ た
c
そ こ で か わ り に 自 分 が る よ う に な っ た の で あ る
︒ は 詰 践 が 入 り し て い
たころからもう何年も︑特に重要な葬れの歌は自分が撰歌し添削 していたのであるが︑たぶんそれが御意にかなったのであろう︑
といった内容である(同
) O
しかし︑それはあくまでも景樹の認識である︒仏光寺側から見
ればどうなのかがここでは重要であるが︑この頃の吋御日記﹄は︑
享和二年の元日から一一一丹二十五日まで︑文化二年の元日と正月二
日︑文化四年の元日から二月十閤日までが一冊になっており︑景 樹を招く事憎が記されていたかもしれない文化二年から文化三年 にかけてのころを欠いている︒はじめて景樹が﹃御日記﹄に登場 するのは︑前稿︹
1︺に{一}として掲げた文化四年正月十日の
次のような記事である︒
一︑御歌初言香川長門介参︒於御堂回読御のし昆布被下︒
鑓之
間一
一夜
御祝
酒︒
夫よ
り奥
へ参
︒御
詩会
初之
通也
︒
ここ
では
景樹
は﹁
御館
入﹂
とは
一一
一一
同わ
れて
いな
いし
︑ 日記﹄が景樹を﹁御館入﹂とすることはない(ゆ
) 0
景樹は︑すくなくともこので二一一}の天保六年九月十五日には
﹁御館入いではなく︑それよりやや上に位置づけられる位置にあ
った︒そのような位置を得たことに︑随応随念一一代にわたる門主
との親しい交流が無関係だったとは思えないが︑根本には歌人と 医師︑楽人︑間師との︑仏光寺における位置づけの違いがあるの ではないかと思われる︒この点については︑また別途に考えてみ
たいと思っている︒
仏光寺の﹁御館入﹂は︑仏光寺と寺外のいわゆる文化人たちと をむすびつけ︑彼らに交流のきっかけを提供することができると いう点で注目すべき制度のように思われるが︑その実態はまだ明 らかではない︒﹁御館入﹂の監師︑楽人︑画部もいれば︑﹁家中 一統﹂に名を連ね︑来客の取次や諸方への使者の役を勤める﹁掛
この後も﹃御
館入﹂も叫御日記﹄には登場する︒また﹁御館入十人衆﹂もいれ
ば﹁御館入町人﹂もいる︒結局︑ここではこの竺一三}の記事が︑
景樹の仏光寺における格付け︑ひいては和歌の位置づけを知る手 がかりになりそうだ︑というにとどめておかざるをえない︒
︻一
ニ問
}
﹃御
日記
h
天保七年(一八三六)
正 月 十 日
一︑
妙門
様パ
御成
︒夫
一々
御廟
参︒
出羽介方へ御成︒
御 供 織 部 右 近 将 監 右 衛 門 御 先 廻 り 隼 人
徳義
方一
一出
御当
鹿御
催︒
ii i
者 楽 寺 景樹参上岡徳寺
玉屋吉兵衛 還御之節
7 2
﹁歌日記﹂天保七年正月
日未詳 仏御殿御会始御題 去年松君御誕生御室花関と号 十かへりの花園出の小松原咲くべき色のみゆる春かな 鴛 馴 間 御 当 座 三 十 題 の 内 呉竹のかはらぬふしと思へども間こそあかね鴬のこゑ 寄 道 祝 同 人の道も仏の道もふたつなき我君が世にひらけつるかな 猿 公 の 讃 向 くれざるやくる﹀も知らぬ木実もて朝に
燕一っとぶ 松樹遇春
をみっと答ん
あくがて妻よぶ燕敷妙の常世をひとり離れ来つらん
山小刀仰日記﹄の﹁妙門様﹂は妙法院内跡︑﹁出現介﹂﹁徳義﹂は
仏光寺家司の小幡徳義である︒﹁御供﹂の﹁織部﹂は中山織部︑
﹁右近﹂は徳見右近︑﹁将監﹂は北村将監︑﹁右衛門﹂は原田右
衛門︑﹁御先廻り﹂の﹁隼人﹂は清水隼人で︑いずれも仏光寺の
家中である︒景樹の次に名のあがっている﹁西徳寺﹂は︑同じ天
保七年﹃御日記﹄の元日に︑門主との対面の礼に出席した寺中と
して六院とそれにつぐ寺格の高林席の次にあげられ︑その次に﹁常
楽寺﹂があげられている︒そのさらに次が﹁御世衆﹂である︒た
だし︑ここではそうした格とはかかわりなく歌人として呼ばれた
のであろう︒﹃御日記﹄の﹁御当鹿御催﹂はそれを示すための注
記のように忠われる︒﹁常楽寺﹂は︑第一節に掲げた点取り詠草
の詠者の一人であり︑{一一二}の吋一止行院殿御追悼二十首和歌﹄の出詠者としても名の見える光一路であることがな仰日記﹄からわ
かる︒﹁西徳寺﹂はこの前後のな例日記﹄に頻繁に登場するとこ
ろ か ら 江 下 谷 で は な く 京 都 の 西 徳 寺 と 推 測 さ れ る
︒
﹁ 玉 兵 衛
﹂ は で あ る が
︑ 文 政 十 一 年 明 御 日 記
﹄ 月 九 百 に
︑
其文
書翰
留一
とある屋寄兵衛と同一人物なら︑問徳寺下の有力檀徒である︒
西徳寺が当座会の席に呼ばれたのとともに招かれて二肢に連なっ
たのであろう︒景樹の和歌が京都をふくむ諸国に流布していく︑
具体的な形の一端がここに表れている︒﹁妙門様﹂以下を(写直
A A︺ と し て 左 に 掲 げ る
︒
﹁ 御 先 廻 り 人
﹂ ま で が の 表
︑
﹁ 徳
義方一一以下は裏である︒
4
73
﹁ 歌 日
﹂ は 前 年 誕 の 仏 御 殿 の を
﹁ 松 と し て い る
︒ 次の{三︺にも﹁仏御殿松君﹂とあるが︑正しくは﹁松
である︒一一二一︺一二三}にその一部分を引用した御用部⁝
録﹁嶺君様御者部御猶予成御七夜御参堂御始答略録﹂の 次 の よ う な 勧 修 キ 家 へ の の 写 し が あ る
︒ 幻 覚 此度当御門主燐男被致候処如先格直一一 二 子 っ 被 成 御 名 も 松 若 君 与 一 被 進 候
︒
出被陸候︒以上︒ レい凡又ザ人d
ρ5
K
ドL r
一
九 月
日
{ ム
稲術l
rrj
m
吋大詰
守 主
市山台ρAft 民
主 ︐
H
f f ゴ マ