にして雑の部いまた撰出給はさりしほとに畏こくも身まかり
ましぬ︒をしともをしと誰かはなけかさらん︒この頃師の嗣
なる景恒の君此後菌拾葉に雑の歌を撰みそへて桂閤拾遣と名 付物して世にあらはし給へるはいともうれしきわさになむ︒
されとひそかに思へは師のみ心にたかへるふしもましりぬへ
くや︒この拾葉のみこそはさる類ひならねは師のをしへをた
とみしたはん人々よ北巻を準縄として志したらんには歌たる
おもむきをもあきらめさらめやも︒あなかしこ︒
嘉 永 四 と せ さ っ き の は し め の 法 眼 享 寿
うつし畢ぬ
日
こうした状況にあっては︑辞世の歌を聞いたことが景恒に後
継者としての重みをつけることになる︑といった事情があったの
かもしれない︒見方をかえれば︑吋桂岡幽来葉﹄や吋桂間余材集﹄
がこれを辞世としていないのは景樹没後の桂闘派の事情の反映で
はないかとも推測されるが︑そのあたりの事構についてはよくわ
からない︒ちなみに︑景樹が辞世と意識して詠んだ歌として︑﹃桂
のしもと﹄雑部に︑﹁鳥辺山ふもとの野へのかり枕結ふそ旅の限
り也ける﹂という歌が見える︒この歌はほかに︑﹃桂園緊葉﹄雑 一︑﹃桂園余材集﹄雑︑﹃桂の落葉第一一一編﹄雑に収められてい
る (
日 )
︒ こ
れ ら
の う
ち ︑
コ 松
田 倒
余 材
集
b
の詞書は﹁おなし頃五候
あたりに住て重き病にか﹀りて﹂︑﹃桂の薄葉第三一概﹄もこれ
とほとんど同じく﹁おなし頃五候わたりにすんで重き病にか﹀り
て﹂と︑重病のおりに詠んだとしか伝えないが︑﹃校閤緊葉﹄は
﹁おなし頃病にふしていま/¥とおほえけれは﹂︑﹃桂のしもと﹄
は﹁辞蛍の心のよししかし無事塩﹂と︑辞世と意識して詠んだ
歌としている︒
景樹没後の景樹関係記事
景樹自身は天保十閤年三丹二八日に︑役したが︑景樹のの名は その後の﹃御日記﹄にも見られる︒しかしそれらはみな葬儀と法
事の記事であり︑景樹への追慕や景樹が本山に遺した文化的な遺 産︑などといった類のものによってのことではないように見える︒
少し言葉を変えて繰りかえすと︑景樹への言及は儀礼や行事の枠 の中に限られており︑景樹その人やその業績を思い起こしてのこ
とではないように見える︒ところが︑七百怠の記事を見ると︑必
ずしもそうは言い切れないのではないかとも思われてくるのであ
る が
︑ と
も あ
れ ま
ず {
一 一
一 七
} と
し て
葬 式
の 記
事 ︑
次 に
{ 一
ニ 八
} {
一 ニ
九 ︼
{ 四
O }
としてそれぞれ一周患︑三回忌︑七回忌の記事を掲
げる︒景樹の没後は﹁歌日記﹂そのものがないので︑これらと比
較対期すべき﹁歌日記﹂の記事はないが︑いちいちその旨を注記
することは省略する︒
8 2
{ 一
一 一
}
叫 御
日 記
﹄ 天
保 十
四 年
( 一
八 四
一 一
一 )
閤 月
一 一
日
一︑香州肥後守今日酉刻本葬式相営候︒然ル所
御先代より御前範︹其上]格別御懇命之御間柄 2
為 御 代 香 染 香 躍
︒
は い ち お う こ う 読 ん だ が 疑 が残るので
L ̲ j
r一一寸
六行目の[之︺
括っておく︒
景 樹 の 葬 儀 が 四 月 二 日 に 営 ま れ た こ と が こ の 記 事 に よ っ て わ か る︒二行目の﹁御先代﹂は槌応上人︑﹁御先代より御師範︹其上︺
格 別 御 懇 命 之 御 間 柄 ニ 付
﹂ と は
︑ 染 香 庵 を 素 絹 五 候 差 貫 着 用 で 代 香 に 遣 わ す こ と は 異 例 で あ り 先 例 と し て は な ら な い こ と を い っ て いるのであろう︒前節の{一ニムハ}に香箕五百疋について︑﹁御先 代 よ り 格 別 之 御 懇 命 ニ 付 如 此 楓
﹂ と あ っ た の と 同 じ で あ る
︒ た だ し
︑ そ の 場 合 と 同 じ く こ れ も 比 較 の 対 象 と す べ き 事 例 が 見 い だ せ ないので︑どれほどの破格ぶりなのかわからない︒﹁師範﹂は﹁和 歌 の 師 範
﹂ と い う 意 味 で あ ろ う が
︑
﹁ 師 範
﹂ と は 何 な の か
︑
﹁ 宗 匠
﹂ と 閉 じ 意 味 な の か ど う か
︑ 詳 し い こ と は わ か ら な い が
︑ こ の 点 に つ い て は { 四
O }
にもう少し記す︒また︑﹁格別之御懇命﹂
の 意 味 も よ く わ か ら な い
︒ た ん に 歌 人 と し て 親 し く 出 入 り し て い た
︑ と い う こ と な ら
︑
﹁ 御 先 代 よ り 御 師 範
﹂ だ け で 間 に 合 う よ う に も 思 わ れ る
︒ こ れ に つ い て も { 囲
O }
に記 す︒
﹁染香庵﹂は﹃御日記﹄によれば京都の西徳寺の隠居である︒
それを示す例を一つあげるなら︑天保十四年正月二十二日に︑
一︑ ム寸
御 召 之 法 中 御 門 廿六日 摂河泉和播伊勢伊賀品︒
右ニ付昨夜迄之着帳之法中
井 席 順 左 之 通 内陣衆 江 州 川 並 村 福 応 寺 左 脇 内 陣 衆 御 寺 内 西 徳 寺 隠 居
ノ ¥
J工
外
i
城州
、
i
同 北 町 屋 村 蓮光寺 洛 陽
で
染 香 庵 忍( 州勝 開村 光福寺 江 州 草 津 駅 養 専 寺
(以
下略
)
常 楽 寺
西村
光用寺 御寺内 西徳寺 とあ
る︒ 前 稿
︹
4
︺ の 第 一 節 で 紹 介 し た 景 樹 点 点 取 詠 草 の 詠 者 の 一 人 と して︑﹁花王満﹂すなわち槌念上人︑﹁光一麗﹂すなわち常楽寺光 一践とともに名の出ていた厳浄は︑︹
4
︺ の 段 階 で は 伝 未 詳 で あ っ たが︑その厳浄が実はこの染香庵であった︒後に第四節の︹二︺
に引く吋御日記﹄弘化元年(一八四回)一一一月九日の正行院応専連 枝十一一一回忌の追悼歌のなかに︑﹁惜まれてょに散花を見るなへに に ほ ふ は 君 か 御 か け 成 け り
﹂ と い う 歌 が あ り
︑ そ の 詠 者 名 に
﹁ 染 香庵釈厳浄﹂とあることによってそれがわかる︒
染 香 庵 は
﹃ 御 日 記
﹄ に 見 る か ぎ り で は
︑ 内 仏 報 恩 請 や 門 主 家 の 法事など本山の内仏の用を勤めており(ロ)︑寺外の葬儀に派遣さ れ た と い う 事 例 は 現 在 ま で の と こ ろ ほ か に 見 い だ せ て い な い
︒ し か し
︑ こ の 景 樹 の 葬 儀 の 場 合
︑ 役 寺 で あ る 西 徳 寺 と い う 格 式 の 比 較 的 高 い 寺 の
︑ 現 住 で は な く 隠 居 と い う 立 場 で あ る こ と が 景 樹 の 仏 光 寺 に お け る 位 置 づ け に 対 応 し て い る こ と
︑ ま た 厳 浄 自 身 が 和 歌 を 通 じ て 景 樹 と 親 交 が あ っ た こ と に よ り
︑ ほ か に は 考 え ら れ な い人選であったと思われる︒
七 行 自 の
﹁ 山 田 木 工
﹂ は 本 山 に 仕 え る 近 習 の
⁝ 人 で あ る
︒ 天 保 十四年元日一の賀礼の記事に名前を列挙されている家中三十九人の う ち
︑ 北 村 将 監 に つ づ く 十 一 番 目 に 位 置 し て い る
︒
﹃ 御 日 記
﹄ で は
﹁ 杢
﹂ と 表 記 さ れ る 場 合 も あ る
︒ 前 記 の 応 専 連 枝 十 三 回 忌 追 出 歌 の う ち
﹁ 桜 は な 咲 く つ け て も お も ふ ら ん き み か か さ し と な り し
83
昔 を
﹂ の 名 に
︑ 田 木 工 源 保 渇
﹂ と あ る の に よ れ ば
︑ 名 を
﹁保造﹂といった︒保造は厳浄ほど頻繁ではないが︑本山仏光寺所蔵の長樹点点取詠草(日)の詠者として登場する︒景樹の門人で︑
﹁桂関入門名簿﹂(せの天保三年正月十三日に︑ご口小山間木工
保造﹂とある︒また︑吋桂関秘稿﹄に収められている﹁景樹大
人点社中点取巻之中(晩年高足競点取)﹂︑開﹁景樹歌会詠草﹂
の﹁三月九日当座﹂︑﹁天保六年正月九日会始和歌於内山友阿弥
興行﹂などに﹁保造﹂という名が見える︒
木工が焼香の回数につき故景樹方に申し入れするための使者に
選ばれたのは︑長樹の門人であった縁によるところであろう︒﹁出
棺前焼香﹂は仏光寺派では二回であること︑仏光寺派の作法によ って焼香することを前もって知らせておいたのである︒香刈家の 菩提寺で景樹の葬式の行われた開名寺は時宗の寺である︒現代の
時宗の法事の焼香は一一一回が普通のようであるが︑天保十四年のこ
ろの開名寺における﹁出棺前焼香﹂の間数はどうだつたのか︒二 回ではなかったことは右の記事から惣像されるが︑では何目だっ
たのか︑今私には分からない︒
閉じく七行誌の﹁鈴鹿筑後守﹂はもとのままである︒景樹門人 の鈴鹿氏でこの時期の塾頭といえば鈴鹿連瓶のほか考えられない
が︑司公騨補任﹄︑﹃国学者伝記集成﹄などによると連胤が﹁筑後
守﹂を称したことはない︒﹁筑後﹂はおそらく﹁筑前﹂の誤りで
あろう︒吋⁝出書人名辞典﹄(行)の記述を摘記すると︑連胤は寛政
七年(一七九五)生︑明治四年(一八七一)没︑実は同三年没︒
享年七十六︒本姓中医・ト部︑名は連胤︑筑前守を称した︒日ヴ誠
斎・尚来舎︒代々︑吉間神社社司︒漢学を松開雄淵に︑自学を山 同以文に︑和歌を香川景屈に学んだ︒文化元年(一八
O
凶)神祇権少祐︑天保四年(一八三一一二権少副︒同七年︑家織を子の長存
に譲り︑明神社紫録﹄一恭に志し︑治三年に完成させた︒安政 二 年 ( 一 八 ) 出 社 六 預 と な っ た
︒
ω品ω1
卜の行事のためたびたび卜部に改姓した︒勤王の志厚く︑公剰・
桂間関派歌人のほか平田篤胤・廃代弘賢・伴信友らと交遊した︒
なお︑連胤は﹁連胤﹂﹁鈴鹿氏﹂として﹁歌自記﹂に登場する
(文政八年三月三日︑天保一五年春︑天保九年九月︑天保十ニ年夏)
が︑山田木工・保造︑染香庵・厳浄とも﹁歌日記﹂に見えない︒
﹁西徳寺﹂は八回出ておりそのうち二回は京都商徳寺︑一一回は江
戸商徳寺である︒五四が人を指しているが︑そのうち二回は﹁西
徳寺義肇師﹂とあり︑たんに﹁西徳寺﹂とあるその他一一一回も享和
一二年︑文化五年︑同六年の例であるところから︑厳浄ではなく
義肇をさすと考えられる︒
一一
一八
}
﹃御
日記
﹄
ム ヒ
乙 三
日J
JL Y4
(一
八四
四)
三月二十六日
一︑香川故肥後守一周忌っ付為御香襲
金弐百疋
84
日切寸御詠出被遊被遣之候事︒
御使
通 懐 題
! 日
非
田木工
中小景樹一周忌の記事である︒山田木工については{一一一七}に記し
た︒景樹の門人であったが︑使者として香箕百疋と﹁壊旧非ご
の追悼歌を届ける使者に立ったのがそのことによるのかどうか︑
この日はほかに使者が派遣されたとの記事もなく未詳である︒
仏光寺や仏光寺派の人々の歌がどの程度載っているかいないの か不明であるが︑﹁懐旧非一﹂の追悼歌を一冊にまとめた歌集が
あったらしく︑町大日本歌書綜覧﹄(凶)﹁慶弔集の部﹂の﹁乙︑
追 悼
︑ 追 遠 集
﹂ の に
︑
﹁ 景 一 一 周 忌 追 和 歌
﹂ と し て 次 の よ う
な記載がある︒