一九世紀カトリック教会の様相
ー攻治勢力としての発展過程を中心としてー
目次
一︑はじめに
二︑教会の再生
(1)カトリシズムの覚醒
(2)教皇至上権主義
(3)自由主義カトリック
三︑教 会の発展
(1)ピウス九世
(2)レオ=二世
(3)ピウス一〇世
四︑対外的拡大
五︑むすびにかえて 高村忠成
一︑はじめに
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ヨーロッパの歴史を理解する上において︑キリスト教の問題を等閑に付すことができないのはいうまでもない︒こ
の点は︑一九世紀のヨーロッパ史把握においても全く同然である︒キリスト教は︑あらゆるといっても過言ではない
ほど︑様々な政治的社会的事件や問題に︑直接︑間接にかかわりをもっている︒そして︑キリスト教の中でも︑とく
に伝統と巨大な組⁝織を有するカトリック教会の勢力は隠然たるものがある︒それを無視しては︑本来ヨーロッパ史を
語ることはできないといってもいいすぎではあるまい︒一九世紀においてもカトリック教会は一大勢力であった︒フ
ランス革命によって潰滅的な打撃をうけたとはいえ︑それは王政復古とともに息を吹きかえし︑かえって︑ひとつの
大きな政治的社会的影響力を有する団体︑組織となり︑一九世紀のヨーロッパを動かしていくのである︒換言すれ
ば︑その世紀の政治的社会的事象の背後には︑カトリック教会の存在︑力がなんらかの形で作動していたのである︒
そこで︑カトリック教会と政治的社会的事象とのかかわりを克明に分析し︑ヨーロッパ史を把握することが︑ヨー
ロッパ史の全体的理解のための必須の条件であるが︑その前提的予備作業として一九世紀のカトリック教会の動向を
理解しておく必要がある︒これまたいうまでもないことではあるが︑じつは︑ヨーロッパ社会では十分なされている
(1)この点の研究も︑カトリックにはなじみのうすい日本では︑必ずしも満足ではないうらみがある︒とくに︑教義的な
問題が絡むと門外漢には全く入り込む余地がなくなってしまう︒しかし︑ヨーロッパ史理解のうえで︑カトリック教
会の問題はさけて通れない課題であるので︑本稿では︑一九世紀のカトリック教会の動向を把握する理論的枠組みを
うちたてる作業を試みることにした︒もとよりひと口にカトリック教会の動向といっても︑それは国により︑地域に
よりかなり異なったものなので単一の理論化は︑ある意味では︑あるいは重要な問題を切り捨ててしまうことになる
かもしれない︒その点を恐れつつも︑一九世紀カトリック教会の様相を︑ローマ教皇及び教皇庁の動きを基軸に︑と
くに︑それが︑政治・社会的勢力に発展していく過程を中心に考察しながら︑その意義を探ってみようというのが本
(2)稿の目的である︒
(1)この点についてのわが国の先駆的業績は︑西川知一﹃近代政治史とカトリシズム﹄(有斐閣一九七七)であろう︒また︑
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K・V・アーレティン︑沼田昭夫訳﹃カトリシズムi教皇と近代世界﹄(平凡社︑一九七三)︑通史としては︑半田元夫・今
野国雄﹃キリスト教史H﹄(山川出版社一九七七)などがある︒なおその他︑欧文︑邦語の文献としては︑西川および半
田︑今野の前掲書巻末にかなり詳細な案内があるのでそれを参照されたい︒
(2)本稿の構成および内容に関しては︑前掲書以外に︑主として次の資料︑文献を参照したことをここに付記しておく︒
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二︑教会の再生
( 1 ) カ ト リ シ ズ ム の 覚 醒
一 九 世 紀 カ ト リ ッ ク 教 会 の 様 相 は ︑ 十 字 軍 か ら 宗 教 改 革 運 動 の 頃 の そ れ を 思 わ せ る も の が あ る ︒ す な わ ち ︑ = 世
紀 か ら = 二 世 紀 に お よ ぶ 十 字 軍 は ︑ 教 皇 の 聖 ・ 俗 両 界 に 対 す る 絶 対 の 権 威 の 誇 示 で も あ っ た が ︑ 周 知 の よ う に ︑ 皮 肉
に も そ れ 以 後 は ︑ 王 権 が 強 化 さ れ 教 皇 権 は 衰 微 し は じ め る ︒ そ し て ︑ 宗 教 改 革 運 動 は ︑ カ ト リ ッ ク 教 会 に 致 命 的 と も
い え る 打 撃 を 与 え た ︒ だ が カ ト リ ッ ク 教 会 は ︑ こ の よ う な 危 機 的 状 況 の 中 で ︑ そ れ ま で の あ り 方 を 真 剣 に 反 省 し ︑ 改
革 と 教 会 勢 力 の 拡 張 に 蓬 進 す る ︒ そ の 頂 点 が ト リ エ ン ト 宗 教 会 議 ↓ H δ 暮 δ δ i ① ω で あ り ︑ そ こ で プ ロ テ ス タ ン ト を
異 端 と す る 宗 教 裁 判 を 励 行 し ︑ ま た ︑ 教 会 内 部 を 粛 正 す る と と も に 教 皇 の 絶 対 権 を 確 立 し た の で あ る ︒ さ ら に ︑ 組 織
を か た め る と 今 度 は ︑ 失 わ れ た カ ト リ ッ ク 教 会 の 地 盤 の 回 復 に 努 め ︑ さ ら に 勢 力 拡 大 を 企 て る ︒ そ の 時 活 躍 し た の
が ︑ 修 道 会 で あ り ︑ 一 五 三 四 年 創 立 さ れ た ジ エ ズ イ ッ ト 教 団 ﹄ ① ω巳 冨 は ︑ め ざ ま し い 布 教 活 動 を 展 開 し た ︒ そ の 結
果︑ヨーロッパでの失地回復はもとより︑新大陸や東洋の布教にまでかなりの成果を収めることができたのである︒
状況はもちろん異なるとはいえ︑一九世紀のカトリック教会も︑大筋としてはこのような方向を辿ったといえよう︒
すなわち︑啓蒙思想およびフランス革命という嵐に見舞われ︑その土台を揺さぶられたカトリック教会は︑一九世紀
に入って革命の嵐がひとたび通り過ぎるとその体制の建て直しをはかる︒旦ハ体的には︑教皇権の強化と︑海外布教に
力を注ぐのである︒その結果︑カトリック教会は一九世紀の間に︑ひとつの強力な政治的社会的勢力︑存在にと発展
した︒この意味で一九世紀カトリック教会の様相をひと言で特徴づけるならば︑それはカトリック教会の再生︑そし
て新たな発展といえよう︒ただひと口に再生︑発展とはいえ︑具体的にはそれは一直線で進んだわけではなかった
し︑また国によってその様子はかなり異なっていた︒すなわち︑紆余曲折を経ながら︑また多様性をおびながらの進
展であったのである︒
さて︑ここでいう教会の再生の時期とは︑一八一五年から四八年頃にかけてであると考えてよいであろう︒という
のは︑この時期に革命の荒廃の中から王政が復活すると︑教会もまた︑復興のきざしをみせるからである︒ここで一
八一五年としたのは王政復古が本格化し︑カトリック教会もそれに伴って台頭をはじめたからであるが︑その前提条
件として︑ナポレオンZ碧o一ひ§しU§巷胃貫嵩①OIH︒︒b︒Hの存在を忘却することはできない︒というのは︑彼の宗教
政策がカトリックの再生と存続のための基盤を作ったといっても過言ではないからである︒一八〇一年七月一五日の
コンコルダ088こ象こそ︑カトリック教会にとっては僧侶の任免権など制約を受けて多少の不満が残るものであっ
たが︑ともかく︑教皇がカトリックの首長であること︑教会が世俗の権力と併立することなどが公けに承認され︑復
(1)興の足掛りをつくる重要な契機になったのである︒ナポレオンがカトリック教会の存在を公的に承認し︑ローマ・カ
トリック教会を大多数のフランス人民の宗教であるとしたのが︑彼の宗教心からでたものでないことは広く知られて
いる︒すなわち︑カトリックを彼の政治支配の安定と強化をはかる手段として利用しようとしたのである︒だが彼の
一 九 世 紀 カ ト リ ッ ク教 会 の 様 相 85
動機が何であれ︑カトリック教会はともかく公的に生きのびれることを約束︑保証されたのである︒この意味では︑
教会復興の出発点を一八〇一年と考えることもできる︒
ともあれ︑革命騒動が一段落し︑帝政も没落するとヨーロッパでは王政が復活した︒かつての君主たちは自国およ
び自家の再建にのりだすが︑その際多くはカトリック教会の強化をはかろうとした︒理由は︑要約していえば︑そう
することが革命勢力との対抗上自分たちの利益を擁護できるからであり︑また︑先祖伝来の慣習を守る義務を果せる
からである︒要するに︑すべてを旧体制に戻すことが安定のための不可欠の要因であったのである︒彼らは教会と国
家の関係についてもかつてのような結びつきに戻そうとした︒革命という共通の敵と戦かうために君主は僧との関係
を緊密にしておこうと考えたのである︒かくして︑国家と教会の間には︑親密なつながりが生まれるが︑但し︑厳密
にはそれは旧体制と同じようにはいかなかったし︑また︑国によってかなり違っていた︒
その形態は︑例えば︑スペイン︑ポルトガル︑両シシリー王国は昔にもどったといえよう︒すなわち︑僧に領地が
返還され︑カトリックが義務とされ︑信仰の統一化がはかられたのである︒しかし︑他の国ではその様子はやや異な
っており︑教会は公的制度の性格をもち︑特権を保持したが︑だが︑それは国家の一機関としてあつかわれ︑僧の役
職は世俗の君主が任命した︒一種の政府の役人の立場になったのである︒ドイッでは教会領と修道院の復活は認めら
れなかったし︑政府は宗教の自由は保障したが︑教会の問題に干渉した︒フランスはナポレオンの宗教政策を保持し
た︒すなわち︑教会は公的には尊重され︑国家から財政的援助を受け︑僧の兵役は免除され︑神学校を開校する権利
をもったのである︒しかし︑僧は世俗の人に対する何らの特権も有しなかった︒すなわち︑法律上の身分(戸籍)︑検
閲︑教育の監視などをもはや保持しえなかった︒いなさらに︑組織令によって︑僧は国家に服すことになったのであ
る︒このように各国においてカトリック教会が再生したとはいえ︑その多くは︑立場的には国家︑君主に服従すると
の考えに制約されており︑その意味では︑この時点ではローマ教皇の立場もまだ脆弱であった︒換言すれば︑ガリカ