九世紀中期の政治についての考察
著者 森田 悌
雑誌名 金沢大学教育学部紀要.人文科学・社会科学・教育
科学編
巻 22
ページ 218‑204
発行年 1973‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/2297/47665
金沢大学教育学部紀要
九 世 紀中期の政治についての考察
森
田悌
︵−︶ ︵ 一
小稿は九世紀初の政治を分析した前稿﹁平安初期政治の一考察﹂
を承けて文徳朝から清和朝にかけて︑年号でいえば仁寿から貞観に
かけての時期の政治について若干の考察を試みる︒藤原良房・基経
父子による謂ゆる初期摂関政治期に当り︑弘仁後半に律令の原則
を
らしめる事態が進みつつあったのであり︑律令政治の変質過程を考 面的な安定の下で寛平・延喜段階における急激な政治改革を必然な 大きく修正した政治の後を受け比較的安定している時期だが︑表
察するに当り無視できないと考える︒ところで云うまでもなく良房
・基経による初期摂関政治は藤原北家による専権体制で石母田正氏 ︵2︶
が貴族的王制と規定された支配体制だが︑門脇頑二氏によれば氏が
として藤原冬嗣と同緒嗣をあげ︑④家格・門閥よりも人格・学才・ させた所に成立したと説かれている︒門脇氏は薪官人の代表的人物 ︵3︶弘仁・天長期の政治を指導したと評価された新官人群を北家が敗北
政績の勝れた能官良史を重視しようとし︑⑰律令の形式的墨守を排
し現状を直視して現実的政治を行い︑◎富豪層と競合しつつ律令制
らざる相異が存したことになる︒門脇氏が前提とされていると思わ 嗣は良房の父であり氏の論理に従えば父子の間で政治姿勢に少なか の再編制を意図していたとされたのであるが︑④についていえば冬
れる良房が門閥を重視し自己の羽翼の拡大を図ったということは通
説 的 理 解
でもあり異とするに足らないが︑かかる良房と異り冬嗣に
は門閥を重視する傾向が少なかったとする理解には問題があると思
わ
れる︒北山茂夫氏が指摘されているごとく冬嗣の拾頭がその政治
を作っていることも明らかで︑冬嗣の動向に支配層内における北家 ︵4︶ 的手腕に依拠していることに疑いないが貴族的王制確立の為の前提
の 優 位 性
を固定しようという動きが認められるのであり︑かかる冬
嗣の敷いた軌跡の上に良房による摂関政治は開始されたと考える︒
さらに云えば藤原氏は大化改新を指導した鎌足や律令編纂に功績の
ある不比等を祖に擁し最初の人臣皇后たる光明子を出して入世紀段
階で他氏に優越する地歩を占め︑恒常的に参議以上の議政官を輩出
し経済的にも律令高級官僚として膨大な俸禄収入に預かっていたこ ︵5︶とは竹内理三民が明解に論じられた所である︒特に不比等以来の二〇〇〇戸の永世功封は他氏に見られない特別優遇で︑古代支配貴族層内における藤原氏の特殊な地位を如実に示すといってよいだろ
う︒かかる伝統的な門閥体制に依拠して冬嗣の政治も行われたと考 (6︶
えるべきで︑弘仁十一年に不比等以来の二〇〇〇戸の功封を返還す
る代償として藤原氏に限り﹁自貫白丁迄干五世︑課役燭除︑突葉為例 ︵7︶
」という勅処分を得ており︑竹内氏はこれより﹁藤原氏族が特権階
とに疑いないと説かれたのであるが︑私はここに門閥としての藤原 級としての公法的地位を得た﹂とされ更にそれが冬嗣の策に出たこ
氏
の強化を意図する冬嗣の意志を見てよいと思うのである︒更に周
知 ︵9︶ 学の便宜を図っており︑冬嗣にとり門閥が意識されていたことに疑 ︵8︶ のことだが冬嗣は弘仁十二年に子弟の為に勧学院を創立しその勉
いないのである︒冬嗣個人としても姉妹が嵯峨天皇の夫人で天皇家
三 三
森田;九世紀中期の政治についての考察 217
との姻籍関係を深めており︑冬嗣が文人で能官であったことを認めることに吝かではないが︑門閥に囚われていなかったとするのは正
しくないと考える︒逆に門閥としての態勢を強化しつつあったのであり︑かかる冬嗣の方針に沿った上でその嫡子良房が父を継承し貴
族 的 王制の確立を可能にしたのである︒
冬嗣が莞去した段階で良房は参議に昇任していなかったが︑父が
密接な関係を築いていた嵯峨天皇は退位した後も宮廷内で隠然たる
勢力を猶保持しており︑良房はその披護に与かれたであろう︒因み
に 嵯 峨 天 皇 が そ の
愛娘潔姫の婿選びに当り﹁天皇選聾未得其人︑太
政
之︑清和皇太后即其長女也﹂とあり︑良房は嵯峨天皇の期待を担う ︵10︶大臣正一位藤原朝臣良房弱冠之時︑天皇悦其風操超倫︑殊勅嫁
青年貴族であった︒特に嵯峨脱履以降の淳和ないし仁明朝では後者
の時期に良房の栄進が目覚ましい︒仁明天皇は嵯峨天皇の子供で嵯
峨ー仁明ラインと淳和天皇との間で廷臣の動向において微妙な相異
が 認 る︒すなわち義姉が嵯峨皇后嘉智子で女貞子が仁明女御であり︑か ︵11︶ ︵12︶められるが︑良房は前者との関係を殊の外深くしていたのであ
︵3︑︶ ︵14︶つ当時の宮廷で重鎮として存在していた藤原三守の妹美都子を良房
は ︵16︶ 后でもあり仁明朝における良房の躍進は十分に期待される所であっ お 母としており︑良房自身仁明在儲時代の春宮亮で妹順子は仁明皇 ロ たが︑事実仁明即位後間もなく承和元年七月に参議となり︑翌年に
は るが︑良房の昇進ぶりもほぼそれに匹敵するといってよいだろう︒ 言となっている︒仁明朝で昇進の著しい官人に外戚家の橘氏公がい ゆ 七人の先任参議を抜いて権中納言となり︑承和七年には正任中納
か
かる良房の仁明朝における躍進も︑繰返すことになるが︑父冬嗣
が 嵯 峨 天
皇との間で築いた緊密な関係により可能になったことは明
らかで︑冬嗣ー良房の宮廷政治家としての姿勢は一貫しており︑冬
嗣 の目指した藤原北家の門閥強化を良房は更に推進したのである︒
承 和 ︵19︶ ︵20︶九年の謂ゆる承和の変はかかる良房の関係した擬獄事件で︑皇 太 子
女明子を皇太子妃とし外戚となる為の布陣を進めた︒元来恒貞親王 れ 恒貞親王を廃し妹順子の生んで道康親王を皇太子に立て︑更に
三 四
り
妃 は 北 家 愛 発 の 女
で良房にとり近縁ではあるが︑恒貞親王が即位す
ると良房の外戚化は不可能となり︑かつ恒貞が淳和の子で良房の葱
む 嵯
峨−仁明ラインと微妙に異ることから良房としては恒貞親王を
排 斥 お する必要があった︒承和の変の原因を古来の名族たる大伴・橘 両
ごとく古代支配貴族層内における藤原氏の勢力は他氏に比較して断 氏を藤原氏が排除しようとした点に求める説があるが︑先述した
然 優 越しており氏族間の抗争事件として把えるのは説得力に欠け︑
ふ ・竹内理三両氏の指摘によれば︑良房は橘太皇太后嘉智子と連携し 恒貞親王と良房との関係から分析されるべきだろう︒猶︑坂本太郎
て
廃 パ 太子を行ったという︒廃太子の報に恒貞親王の生母淳和太后正
子内親王が震怒悲号して母橘太皇太后を恨んだとあり︑嘉智子が変
に関与していたことに疑いないが︑先述したごとく三守を介して良
房と嘉智子は何らかの関係を有していたと考えられ︑これより両者
の
連携が可能になったのであろう︒かく推測すると︑良房は仁明朝
に お い て 絶
大な権勢を振った嘉智子の披護に与かっていたことにな
る︒
かくして良房の貴族的王制への布陣は着々と進むが︑先学により
屡々指摘されているごとく嵯峨・淳和・仁明三代にあっては比較的
天皇の地位が高く経済的にも勅旨田のごとき基盤をもち皇室の藩塀
たる親王・源氏についても賜田が頻りに行われ物質的な保証もあっ
が
た︒漢文学が隆盛し中国風の皇帝観が浸透したのも天皇の地位を高
める一助となったことであろう︒かくして良房の拾頭も抑えられて
い た の
であるが︑仁明天皇が崩御し甥に当る文徳天皇が即位すると
直ちに前稿で指摘した野地占定への禁制を布告し︑勅旨田ないし皇
族
賜田の盛行に終止符を打ち︑皇室の経済的基盤への抑制を図る政
策を採り︑更に女明子の生んだ外孫惟仁親王の立太子を強行し︑天
安元年二月にはついに太政大臣に就任しており︑三二才で文徳天皇
が崩御して九才の清和幼帝が即位したあとは実質的に摂政の職務を
遂
行したと思われ︑良房指導下の貴族的王制は︑ここに至り確立し
た の である︒
金沢大学教育学部紀要
次 に 冬 嗣 の
政
治姿勢として良吏の登用が顕著で逆に良房は良吏層
︵9︶の動向を自己の権力の存続にとり危険なものと見倣していたとする 理 解
が門脇頑二・佐藤宗諄両氏によりなされているが︑如何であろ
うか︒特に佐藤氏の所説に明らかなのだが︑かかる理解の背景には
冬嗣の治政期たる弘仁・天長期においては一町規模の安定的小経営
が広範に存在し︑それを基盤に良吏層による律令再編成を可能にし
て い た の
に対し︑貞観期に入るとかかる条件が消滅するという認識
嗣の奏状が挙げられ︑﹁登賢委任為化之大方︑審官授才経国之要務︑ がある︒冬嗣の良吏登用推進策を示す史料として天長元年八月の冬
今諸国牧宰或欲崇修治化樹之風声︑則拘於法律不得馳驚︑郡国珍痒職
此之由︑伏望︑妙簡清公美才︑以任諸国守介︑其新除守介則特賜引
へ ヘ へ へ へ へ 見︑勧喩治方因加賞物︑既而政績有著加増寵爵︑公卿有閾随即擢用 ︵30︶
」と述べており官符となって採用されているのだが︑寵爵といって
も天長年間において知られる安倍安仁や藤原衛の例で見るに四︑五 ︵31︶位という国司級の位階内における昇叙であり︑天長年間における新
任
公卿十一人の官歴を調べても治績により地方官から抜擢されてい
るとは見倣し難く︑従って冬嗣の具申した良吏登用策がどれくらい
顕著な実効をもったかは疑しく︑逆に一定程度良吏を優遇する方策
は
律令政府の一貫した方針で︑例えば延暦五年四月十九日太政官謹
奏で﹁国宰郡司鎮将辺要等官︑到任三年之内︑政治灼然︑当前件二条巳上者︑伏望︑五位巳上者量事進階︑六位巳下者擢之不次授以五位 ︵32︶
際立った相異があるとは考え難いのである︒次に良房の地方官対策 」と述べている所であり︑地方官対策において冬嗣治政期に従前と
を見ると︑彼の覇権が確立するのは文徳即位以降で︑特に貞観期にお
い て
は清和天皇も幼く政令は総て良房を経て出されていたと思われ
るが︑この時期においても﹁所歴之州風声必暢︑論之良吏自為先鳴﹂と
(33︶
謳 わ れ
た良吏の典型たる紀今守の地方官としての活躍は目覚ましく
、
国務に対拝する在地土豪層の鎮圧策を摂津国司として解申し︑貞観 ︵35︶ 用され︑貞観二年九月にはこの前後から激化する王臣家と結託して ︵34︶仁寿三年五月に美濃国司として校班田事務の簡略化を上申して採
四 年 が 三月には左京大夫として京内の治安強化の為に坊門ごとに兵士 十 二
人を置くことと結保の励行を上申し︑貞観六年正月には左京大
夫・山城・大和守として三年前に試行された後論する謂ゆる貞観の ︵37︶
新 制
禁断する官符の発給を求めているがごとくである︒天安二年に太政 ︵38︶ の徹回を献策し︑同年九月には左京大夫として市籍人の横暴を
して主宰する公卿会議で今守の言上を審議し官符を発給しているの 大臣に就任して以降良房は太政官の上卿とならず弟の良相が上卿と
していたことに疑いないだろう︒すなわち良房が良吏今守の言上を だが︑表面には出て来ないもののこの間にあって良房の意図が介在
ものであっても決して対立するものではなく︑従って先に紹介した 屡々採用して政策化していたとしてよく両者の関係は相互に馴染む
門脇氏の新官人・良吏を敗退させた所に良房の摂関政治が開始され
たとする理解は甚だ疑しいとしなければならないのである︒貞観期
に 入
っ て ︵41︶ となり︑同三年正月十五日には山城守となり︑同四年二月十一日に ︵39︶ ︵40︶ からの今守の官歴を見ても貞観二年五月十六日には摂津守
は
関政治の重要な支柱となっていたとしてよいだろう︒貞観中期の大 お 和守を帯びており︑いずれも京畿諸国長官という枢要の任で初期摂 ︵42︶左京大夫兼山城守となり︑同五年二月十日には左京大夫兼山城大 事
象徴とも云うべき応天門が焼落したことに始まる政界擬獄事件で今 件として貞観入年の応天門の変がある︒四月十日の夜に平安京の
となっては放火犯を糺明する術はないが︑結果として大納言伴善男
が 犯
人とされて政界から追放された事件である︒善男とその一族が
流罪に処せられただけに終らず︑異母弟豊城が善男の従者である縁 44︶
で 紀
夏井が流罪となっていることから古来の名族である伴・紀両氏
を藤原氏が最終的に没落させた事件だと説かれて来ているが︑かか
る理解を正しいと評価した上で更に佐藤宗諄氏は伴善男を良吏とし
て
把え︑しかも善男が地方との結合を強化し天皇と結んで急速に登
あ きわまる存在で︑その結果深刻化した貴族層内部における矛盾の表 場して来ていることから藤原氏のごとき﹁柔弱な貴紳﹂にとり危険 現
であったとされている︒紀夏井の遠流にしても夏井が良吏の典型
三 五
森田‡九世紀中期の政治についての考察 215
い︒伴善男についての詳細な人物評が﹃三代実録﹄貞観入年九月二 前に見られず斬新で甚だ興味深いが︑仔細に検討すると疑問が多 でその危険性を良房が悟ったからだという︒かかる解釈は佐藤氏以
二日条に見えているが︑ ﹁当官幹理察断機敏︑政務変通︑朝庭制
度︑多所詳究︑問無不対︑但心不寛雅︑出言舛剥︑弾斥人短︑無所 へ へ へ
畏避︑徹倖明承︑為人主所愛也︑自初為内記︑累遷顕要︑八年之
間︑早登公卿︑位望漸貴﹂とあり︑弁舌爽やかにして政務に熟通し
た 天 皇 の
︵46︶寵臣で︑官人として異常なほど早い昇進を遂げたとある︒
なったあと五年後の嘉祥元年二月には参議となっているのであり︑ ︵47︶事実承和十年正月に三三才で従五位下となり︑貴族官人層の一員と
り可能であったことは明らかで︑しかもその天皇は仁明天皇であっ 異例の昇進であった︒かかる昇進が評に見るごとく天皇の愛寵に依
た︒屡々云われるごとく︑仁明天皇は崇文の皇帝で出自の顕卑を顧
慮
することなく学才のある者を贔負していたが︑容貌奇異とはい
え︑弱冠にして校書殿に直する程の善男は早くから仁明天皇の目に ︵48︶
止まり内記となり︑八年後には公卿の地位にまで至ったのである︒
背景には単に仁明天皇の推挙のみならず良房の後援もあったのでは 仁明治政期たる承和期に相応しい一官人の昇進例といえるが︑その
ないかと考えられる︒善男の異例の昇進が行われていた時期は既に
承 和 の 変 を 経
過して宮廷内における良房の比重が頓に大きくなりつ
つあった時代に当る︒従来安易に良房と善男の関係を対立的なもの
として把える傾向が強かったが︑事実に即してみれば両者は寧ろ親
密な間柄だったと思われるのである︒佐伯有清氏の考察によれば︑良房の家司の改賜姓について善男が尽力していることないし伴氏
の
︵49︶一族である佐伯氏の氏寺復興について良房が同情的であること等
から良房と善男の対立はあり得ないとされているが︑傾聴すべき卓
見である︒恐らくかかる親密な関係は承和後期︑善男が官界で頭角
を
現し始めた頃に始まるのではなかろうか︒承和十二年に謂ゆる善
燈事件が起き太政官の弁官が正躬王以下と伴善男に分かれて紛糾し
た際法律解釈について諮問された讃岐永直らについて﹁明法博士等
三 六
断許容之罪︑博士等有所畏避︑不曽正言﹂ないし﹁永直畏揮権勢︑不 ︵50︶
肯
とし︑佐伯有清氏は正躬王としているが︑後年の公卿にまで至った ︵51︶正言﹂とある︒永直らが畏揮した権勢にっいて玉井力氏は伴善男
していることから解し難く思われる︒この前後の宮廷内で権勢を振 ︵52︶ し︑正躬王の権勢とするならば永直が正躬王を有罪とする答申を出 下右少弁に過ぎない善男の権勢が然程大きかったとは思われない 段階ならいざ知らず︑承和十二年段階で寵臣とはいえ一介の従五位
っ
た
結んでいる良房と考えられるが︑永直らが畏揮したのも嘉智子ない 者として第一に挙げるべきは仁明母后橘嘉智子であり嘉智子と
し良房の権勢ではなかったろうか︒善榿事件の結末は左大弁正躬王
弁官を敵に廻して勝利しているのも何らか有力な後援があって始め 以下が私罪に問われることになるが︑末席弁官が左大弁以下の上席
て 可 能 だ
っ
たと思われるのであり︑それは嘉智子ないし良房を措い
て
考えられないだろう︒私は善男の背後に良房がおり︑それが善男
の
勝利を導きかつ明法博士永直らをして正言を為さしめなかったと
考える︒かく推考すると善男と良房の親密な関係は早くから発生し
て
︵54︶ 貞観二年に権中納言平高棟とともに正任中納言となり貞観六年には ︵53︶ 事例も出来したのだと思う︒仁明朝で参議となった善男は清和朝の おり︑その延長上で佐伯氏が挙げられた両者の親密な関係を示す
先任である藤原氏宗や平高棟を越えて大納言となっているが︑これ
らの入事が良房より出ていることに疑いなく︑善男は一貫して良房
の有能な与党であったと思われる︒かく考えると善男の昇進を天皇
の愛竈にのみ求めるのは不十分でありかつ良房にとり何ら危険な存
在 ︵55︶ であったとも思われない︒紀夏井が良房にとり危険性を帯びてい
たということも格別の根拠があるとは思われず︑従って応天門の変
に関する佐藤氏の見解は斬新ではあるものの従うことができないの
である︒良房が新官人・良吏層と対決したというより寧ろ紀今守や
伴
善男の事例から見るに良吏層に拠りつつ摂関政治体制を構築して
い たというのが実情ではなかろうか︒
次に貞観期に入ると従来の良吏層の活躍が不可能になるという所
金沢大学教育学部紀要 214
説 を 検 討
する︒佐藤氏は貞観期において地方豪族の新展開が始まり
そ れ が
権大領である物部巳波美が﹁造私池概公田八十余町﹂し下野国那須 律令支配に末期的症状を齎らしたという︒氏は陸奥国宮城郡
郡
ロ 大領丈部益野が﹁勧課農田一千五百七十一町﹂している例を挙げ
て
いる︒確かにかかる地方豪族の動きは九世紀中期になると比較的
多く見られるようになるが︑かかる動きは窮乏に喘ぐ律令公民ないし国家財政を救うことはあっても敵対するものではなく律令支配の
律令国家に協力した故をもって物部已波美は外従五位下を仮授され 末期的症状を示すとは如何にしても理解できないと考える︒因みに
丈 部 益 野 む は外従五位下を借授されている程である︒石母田正氏が近 著
で述べていることだが︑律令国家は国家対公民の関係および在地
に お
ける首長層と人民の間に存在する人格的な支配11隷属として存
在
する関係とからなる二つの生産関係の上に成立しているのであり
しかも後者なくしては如何なる国家的収取も不可能で前者は第二次
的・派生的生産関係で︑已波美ないし益野の動向はかかる在地の秩序を示すに過ぎず︑それをもって直ちに律令国家の末期的症状と見
倣すことはできないと思う︒況して両人は国家に協力しているのである︒貞観七年の広野河事件に見る在地豪族層の動きにしても律令 ︵58︶国家の危機とは直接的には結びっかないと考える︒特に佐藤氏は美濃国恵奈郡坂本駅の衰亡と律令国家による復興事業を取上げ詳論さ
れ て
との駅間距離七四里で﹁一駅之程猶倍数駅﹂とも云われ恵奈郡が全 ︵58︶ いるが︑元来坂本駅は日本アルプス越えの駅家で信濃国阿智駅
体として駅家郡とも称すべき行政単位で駅子らの負担が過重であっ
たことは明らかであり︑律令時代の駅家の中でも極めて例外的な存
在
ることに注目し︑郡司の中から﹁富豪格勤﹂なる者を﹁以五位﹂て である︒氏はここで良吏紀今守が美濃国司として復興に努めてい
吏による地方政治の行詰りを示すとし︑その原因を在地郡司層が官 募り坂本駅の再建に当らせようとしたものの失敗している事実を良
位を必要とするがごとき段階を脱却して律令国家に依拠することな
く在地で独自の権力を組織してきたからであるとされたのである︒
一見説得的な論証であるが︑坂本駅の特殊性を考慮すると今守の再
建策の失敗をもって良吏の行詰りにまで一般化できるか否か問題が
ある︒今守の再建策以前にあっても坂本駅の衰頽は屡問題になり朝
廷 は 特 別 の
とはなっておらず︑良吏の治政如何を問わず坂本駅の復興は困難だ ︵60︶恩貸措置を採ったり給復しているがいずれも抜本的解決
っ
た の
である︒以上から私は地方豪族層の展開により良吏層の政治
が 不 可 能
になったとする佐藤氏の所説に疑問を感じるのであり︑石
中心として地方豪族が貧民に代って行う調庸代輸が盛行しており︑ ︵61 都合な面さえある︒別稿で指摘したことだが承和期以降畿外辺境を 母田氏の所論を適用すれば地方豪族の展開は逆に律令国家にとり好
彼らが国家の秩序に組込まれその基盤を形成したという指摘さえ強
ち不可能ではないだろう︒また前稿で指摘したごとく良吏層の政治
が
一町
規模の安定的小経営を基盤に存立していたという理解にして
も史料的根拠が薄弱で︑良吏層の活躍が最も著しいとされる弘仁.
天長期にしても史料から帰納する限り律令国家は小経営維持策の推
進を放棄し積極的な開墾奨励策を採ることにより結果的に権門王臣
家による大経営に基盤を移しつつあったのであり︑貞観期において地方豪族層が顕著な展開を示すのは弘仁期以来の政治の帰結であっ
て良吏層の政治と齪賠するとは直ちには考え難いのである︒
以
上門脇・佐藤両氏による初期摂関政治ないし貞観期の政治につ
い て の 理 解 を 批
判してきたが︑この時期が古代政治史において重大
な危機を胎む時期であることは誤りないことで︑節を改めそれにつ
い て
私見を述べ国家が如何に対応していったかを考察していきたい
と思うo
二
︵
貞観期において支配者が深刻な危機に直面していたことを示すの
は貞観四年四月十五日詔で﹁朕以童卯︑嗣守鴻基︑器謝絢斉︑業意
迫哲︑実頼賢輔之保佐︑将以撲己而仰成︑然運接百代之叔末︑時遇
︵62︶ 万邦之凋残︑即位以還五年干弦︑徒聞︑府帯空蜴︑経用不支︑貢賦
適懸︑吏人嵯毒︑未得所以救之要術﹂と述べている︒国家財政の破
三 七
213 森田3九世紀中期の政治についての考察
綻 が
吐露されているのだが︑云うまでもなくかかる現状認識は清和
天 皇 の 詔という体裁を取るとはいえ良房のそれであった︒
貞観期において律令的収取を困難ならしめた要因としてはいくつ
か
考えられるが︑前稿で指摘した弘仁末からの変動を経て多発して
くる調庸収取の台帳とも云うべき計帳の偽申がある︒天長五年五月 ︵63︶
二
九日官符で﹁有補輸調之輩︑実在注逃亡︑無課影地之徒︑久亡翻
為見在﹂がごとき事態となっていたのであるが︑貞観期に入るとか ︵64︶
かる傾向は更に進行し貞観十七年八月二二日官符では好濫の輩が口
︵65︶分田を倉る目的で計帳を進めるがその実体は無実の戸口であったと 指摘している︒やや時代は降るが寛平三年七月二日官符で︑ ﹁︵河
内︶国例計帳之日︑不進手実無備調物﹂と述べている状況としてよ
く三善清行が﹃意見十二箇条﹄で﹁諸国大帳所載百姓︑大半以上︑
比無身者也﹂と指摘している事態である︒計帳の無実化は取りも直
さず人身支配に基く律令的収取を困難た陥れることになる︒かく
計帳制度の危機が深刻化する一方で︑中央王臣家の人たちが畿内と
そ の
近国に進出して盛んな経済活動を営み計帳を偽申するがごとき
在 地
るようになる︒承和十二年六月二三日の五畿内諸国へ下された官符 ︵66︶の有力農民を配下に組込み国務に対桿することが漸いに多発す
で
得「
摂津国解侮︑収納租税良由郡司︑須先究官物後及私事︑而頃
年
王臣諸家各出家印称有負物︑競封郡司及富豪宅取其所蓄之稲︑若
国司相論却以他故︑非ロバ侵損部内︑還似与公家相争﹂と述べるような事態である︒末端で収納に当る郡司を含めて王臣家が在地有力農 ︵67︶
民 を
配下に収めつつあったのだが︑貞観二年九月二十日官符によれ
ば
得「
摂津国解侮︑此国近京︑雑務繁多︑疲弊未休︑黎民減少︑僅
所 有 土 人 浪 人 皆 称
王臣家人︑無畏国吏之威勢︑不遵郡司之差科︑強
加
追喚︑争致斗乱︑公事擁滞無不由斯︑須科拒拝罪依法決罰︑而築
黙之
徒 不 伏
其罪︑望請︑依法決爵︑以済公事︑謹請官裁者︑右大臣
宣︑徒罪以下国司所決︑宜早下知任令科決︑四畿内宜准此﹂とあ
る︒承和末年で既に大問題となっている王臣家と畿内有力農民との
結 託
が貞観期に入ると﹁争ッテ斗乱ヲ致ス﹂とあるごとく国郡の差
三 八
科に対して暴力的に対拝するようにまでなって来たのである︒貞観
二年九月段階での摂津国司は紀今守で右引官符の発給を求める国解
が
今守の手で為されていると考えられるのは興味深いが︑鋭敏な地
方官にとり畿内の在地状勢が容易ならざる事態に陥っていることが
認
識されたのである︒良吏にして始めてかかる現状認識が可能であ
っ
たとも考えられ︑良吏が良房の支配体制の有力な支柱であったこ
とを如実に示すといってよいだろう︒それはともかく後年昌泰四年 ︵68︶閏六月二五日官符所引播磨国解で﹁此国百姓過半是六衛府舎人︑初
府 牒出国以後︑偏称宿衛不備課役︑領作田疇不受正税︑無道為宗︑
対桿国郡︑或所作田稲苅収私宅之後︑毎其倉屋争懸膀札︑称本府之物︑号勢家之稲︑或事不獲已︑収納使認徴之時︑不弁是非︑捕以凌
蝶︑動招群盗︑恣作濫悪﹂と述べ三善清行が非難している貴顕と結
び 老
拳を振って国衙官長を凌辱するがごとき有力農民の出来が貞観
初段階で大問題となったのである︒延喜元年十二月一二日官符所引 ︵69︶播磨国解では﹁到国諸司諸院諸宮諸家使等︑随身火長各三四人︑或
載注牒中或徒然相従︑即其所行非法無道︑蓋害之事以此為宗︑静尋
事由︑件使者等︑令僕従之輩着侃桃染衣井大刀等︑妄称火長之号︑
︵70︶
等︑勘責禁固殆過囚人︑或渉月不免已絶家業︑或経日被繋遂棄公 院宮諸家偏就田宅資財之事︑不経国宰直放家符︑召捕郡司雑色人 以為威猛之具﹂と述べ延喜五年八月二五日官符所引同国解では﹁件
務︑加以為使之人多率従類︑追喚之間酷加陵蝶︑凡家長独被召捕挙
姻
騒動︑妻子流冗親族逃鼠︑国司之政以誰弁行﹂と述べており︑権
門の進出が律令国家の地方行政を阻擬している状況を具体的に示し
て
いる︒郡司らが権門にょり私的制裁を受ける場合すらあったのだ
が︑伝統的に弱体な畿内・近国の郡司は権門の圧迫を受けたり逆に
積 極 的 に そ
日官符所引河内参河但馬等諸国解では貞観以来在地の有勢者が権門 ︵71︶ れと結びつきを深めていたのである︒延喜二年四月十一
と結びついた結果国衙支配機構から遊離し収納ないし収納物の輸送
にも事欠く有様だと述べている︒畿外辺境の場合は権門の進出も未
だ
少く伝統的に郡司に在地首長としての性格が強いことから畿内・
金沢大学教育学部紀要
〈九世紀における私物貢納による授位老〉
容
位1内
官国
名人
年
8°5 1生部連広成「常剰 1貧民救済
・2・
惨侯部衣良由1⇒俘 囚陣救済
〃 已侯部良佐司豊後1俘
囚惨救済
833
ぽ和利別公砒1⇒夷五等1貧民救済 一他田継斗酬雀領外従全惨救済 叶真髪部福益1肥後1白 丁1〃
・4・
1壬生直広主1相模巳領位外劉〃
叶物部已波美陣1舞従奏位割〃
・41
1‥道継1大⇒正六位上|助国用
〃 1壬部直黒成1相蝦従六位雫1調庸代輸
・4・
惨臣立岡已狭1白 丁i〃
8501物部連道吉1伊予1力
田1貧民救済伊予1力
『
越前ぼ正六位割充公用 近江1変正六位璽1助国用 下総1変正六位劉調庸代輸
越中謄盛割〃
鴨部首福主
〃
生江臣氏緒
866
佐々貴山公是野 877
他田日奉直春岳 885
8861伊ホ項互貞益
ごとく貧民救済ないし調庸代輸により国家に協力する傾向が強かっ 近国の場合に見るごとき深刻な危機は出来しておらず︑表に見る
た の
である︒知られる九世紀の貢献授位者十九人のうち三人を除い
て
も猶律令支配に忠実な郡司もいたのである︒かく畿外.辺境におい 挙げれば﹃将門記﹄に見える足立郡司武芝のごとく十世紀に入って 畿外・辺境であることから明らかである︒辺境では極端な場合を
て は 小
康を得ているにしても畿内・近国の在地状勢は深刻な危機を
迎えていたのであり︑しかもその地域が律令国家の直接的な支配の
及 ぶ
膝下であるだけに︑貞観の頃の中央支配者の間には異常な危機
感 が広まって︑いたのである︒
在
地秩序の動揺は官人社会にも影響を与えたことと考えられる
が︑貞観前後において官人の綱紀の緩みが目立つようになったらし
い︒官人の不正を禁め汚吏を糺し良吏を勧める政令は律令時代を通
じて出されているが︑集中的に出される時期があり貞観初前後もそ
れ
に当る︒例えば貢調使・大税帳使等が不正を匿す為上
京しても式部省等に参上しないことがあり延暦九年ないし大同五年に無故不上の場合公癖を奪い考に預からしめ れ ないことにしたが︑良房体制の固まって来ている仁寿二
年
四月には貢調使が無故不上の時は先規を改めて解官処
︵73︶分とし斉衡二年九月には大税帳使も貢調使に准ずるとし
て
いる︒また京進されてくる調庸が地方官の怠倦により
ゆ 違期未進となることが多かったが︑延暦十四年.大同二
年等にそれを禁ずる官符が出されたあとを承けて斉衡二
年
五月︑貞観四年三月・同六年十二月と立続けに違期未
進 の ね 場合官人の公癬を奪うという趣旨の官符が発給され
て
いる︒諸国雑米の京進についても宝亀四年格ないし延
暦 十
出されている︒地方官の任地での最たる任務の一つに出 四年格を承けて貞観四年九月に未進を責める官符が
挙の班給と収納があるが︑雑任国司が﹁依私宿負︑裁取 り
︵78︶挙稲﹂とあるごとく不正を犯すことが多かったらしく貞 観 十 二 年
八月と同十四年七月に禁断の官符が出されている︒かく貞
観初を中心にして地方官の綱紀粛正を目指す官符が頻りに出されて
されるとともに漸く深刻化しつつある在地状勢の危殆とそれに影響 いるのだが︑右大臣ないし太政大臣としての良房の政治意欲が観取
された綱紀の緩みを見てよいと考える︒佐藤宗諄氏が貞観期における良吏の変貌として挙げられた弘宗王はかかる官人社会の雰囲気の バカ
産 み出した一例であろう︒
三
︵
前節で述べた畿内の危機的状況と官人の綱紀の緩みが文徳朝以降
確 立していく良房政権の直面した課題であった︒
文 徳 天 皇 が 即
位し良房の専権が可能になると直ちに着手したのは
先
述したごとく山野占定の禁令を布告し︑淳和.仁明朝を通じて盛
行していた勅旨田と皇族賜田の新設を停止し皇室ないし皇族の経済
三 九
森田‡九世紀中期の政治についての考察 211
的 基 盤 を
殺ぐことであった︒良房の人物評にその権謀家としての性
格
を強調することが多く右の政策もその一例とできようが︑危機に
直面した支配者として公卿以下の体制固めを行い自由に施策し得る条件を確保する必要があった︒仁明朝末期の議政官の構成を見ると
左
大臣源常︑右大臣藤原良房︑大納言源信︑中納言源定︑源弘︑安
倍 ぼ 安仁︑権中納言橘峯継︑参議源明︑滋野貞主︑藤原助︑小野篁︑
藤 原 長良︑藤原良相︑伴善男で十四人のうち五人まで源氏であり︑
しかも最上席の左大臣は源常であった︒常は伝に﹁容儀閑雅︑言論
置く必要があり︑常に率いられた源氏が大中納言の過半を占めてい 相之器也﹂とあり良房より八才も年少であったが良房としては一目 れ 和順︑才能之士︑推引而進︑議俵之徒︑悪而不親︑時人以為︑是丞
る状態では良房の専権も脅かされる可能性が多分にあったと思われ
る︒源氏は天皇の子孫であることから文字通りの貴公子で﹁未嘗知
世 俗 之 ま 顛敵エ︶と言われながらも一世源氏の場合弱年にして公卿・納
言となっていることが多く九世紀貴族社会で特殊な存在だが︑特に
貞観初前後のごとき国家財政の破綻と在地状勢の危機が深刻化して
いる時期を乗切る為に相応しい政治家としての資質を備えている人
方源融のごとく﹁ちかき王胤をたつねば︑とほるらも侍は﹂と主張 たちとは必ずしも思われず︑しかもその生活は往々にして奢修で他
す翻野心家的性格をもつ場合もあり︑先引貞観四年勅に見るごとく
な存在で抑圧する必要があった︒常が仁寿四年六月に四三才の若さ 九世紀中葉の危機を正確に認識していたらしい良房にとっては邪魔
で
莞去し玲断と太政官で源氏の中心になるのは嵯峨源氏信である
が︑信について通常温和な貴公子で風雅を好み政治的には大して能 力が無かったとされている︒かかる理解に対し佐伯有清氏は信を政
治 的 無 能 扱 い を ぽ するのは誤で良房にとり警戒すべき危険な存在であ
っ
たと説かれている︒決定的な史料がなく僅かな状況史料が知られ
るのみなので如何とも決し難いが︑佐伯氏が詳細に論じられた貞観
初年に再度に渉り布告された飼鷹の禁が鷹狩を好む信を始めとする
源 氏ないし皇族への抑圧策だったとする見解は傾聴に値する︒猶︑
四
〇
飼鷹の禁の発案者を佐伯氏は藤原良相としている︒良相の莞伝輪︶﹁
貞観之初︑専心機務︑志在匡済︑当時飛鷹従禽之事︑一切禁止﹂と
あり佐伯氏の見解に誤ないが︑良房と相通じた上で立策しているこ
とも確かであろう︒いずれにしても源氏は異色な存在で良房として
は 政 治 的
能力の有無を問わず︑一貫して抑圧する必要があった︒か
く源氏を抑圧する一方で文徳朝に入ると新任公卿五人のうち源氏は
仁明源氏多のみで三人を藤原氏で占め一族である良相・長良を納言
に
配置し︑清和朝に入ると前節で論じたごとく早くから親密な間柄
であった伴善男を納言に登用し︑ここに至り良房の主導する太政官
公卿体制は完成したことになる︒公卿以下の人事について見ると良
房の意を承けていると思われる良相が貞観四年十二月二七日に上表して﹁中外之国︑小大之政︑所以治而不乱者︑唯以任得其人也︑脱
非其人︑則錐有峻法厳令︑然是為乱之階︑終非為治之備﹂と述べ︑
さらに良吏の誉高い紀今守ないし豊前王・藤原冬緒.弘宗王らの意見を上らしめるべきだとしている︒かつて良房.良相らの父冬嗣が
天
長初年に上表した﹁択良吏事﹂と同一趣旨の見解で︑有能な官人
を地方官に任用して治国の績をあげようというのである︒紀今守に
つ い て
は前節で述べたが︑良相の上表の出された翌貞観五年二月の
除臨で左京大夫兼山城守のまま大和守を兼ねているのは今守が良房
・良相らにとり正に期待する良吏だからで︑天長初在卯の良峯安世の
奏状に﹁令一良守兼帯諸国︑小大之政従其所請﹂とあることの実例
年には伊予守となり卒伝に﹁才学早彰︑資歴滝久︑無他異跡︑足謂 である︒豊前王は天安二年に民部大輔となり地方政治に通じ貞観三
老成﹂と評され︑夏冬衣服を支給される諸王の員数が不定で国家財
政 ロ うにとどめるべきだと献策し︑豊前王卒後になるが貞観十二年二月 にとり過度の負担となっている点を改め員数を定めあとは闘を補 二
十日の公卿奏で採用されている︒諸王への夏冬衣服支給の削減
で︑皇族への抑圧策を採っている良房.良相らにとり甚だ好都冷紘
献策である︒冬緒は弁官に勤務し貞観三年五月には太宰大弐となり あ
後
元慶五年には著名な元慶官田の立策に当っている官人︒弘宗王は
第22号 昭和48年 金沢大学教育学部紀要
︵96︶貞観二年正月の除目で散位から左京大夫に就任し八月には大和守と ︵97︶ ︵99︶なり貞観五年二月十日には左中弁に転じ十六日には再度大和守とな
り︑その後散位を経て貞観七年に越前守となっている︒貞観六年八 (︶ ︷皿︸
月三日に仁明女御である藤原三守女貞子が莞じた時葬事を監護して
亘
おり三守ないし貞子を介して何らかの関係を当時の政界中枢部とも
っ て い
たらしいが︑左京大夫ないし大和守という重要な地方官や短
期間とはいえ弁官を歴任しており政務に通じた官人であった︒良房
体制下の地方政治は今守以下四人のごとき良吏により治績をあげよ
うとしたのである︒仁和三年六月八日に卒し﹁治大帰放紀今守之 西体︑勧督農耕︑軽其租課︑民下楽業﹂と言われた良吏橘良基もその
官歴の大半が良房治下で︑仁寿三年に左京少進となり間もなく民部
少
丞となり貞観期に入り地方官を歴任していることから知られるご
とく良房により才能を認められ登用され期待された官人であった︒
そ れ で は 太
政官から諸国の支配を委任された良吏は如何なる政治を
現 地 で行ったか︒例えば橘良基の卒伝に見・てる今守の政治として農 耕
を勧め租課を軽くしたとあるが︑甚だ抽象的で把え難い︒ただ天
長期以降見られる良吏と称される人の伝記には簡政ないしそれに類
する政治を行ったと記されている場合が多い︒例えば藤原衛が﹁貴 ︷脚一 ︹坐 ︷些
貞守が﹁以簡静自守﹂し紀安雄が﹁政貴簡恵﹂びたとある︒これま 蓮 ︷迎 寛政﹂び小野恒桐が﹁治貴簡要﹂び正躬王が﹁以清簡見称﹂れ坂上
囚われることなく臨機応変的な行政を行い治績をあげたということ た抽象的な表現だが︑字義から考えてみるに煩雑な律令行政方式に
であろう︒元来律令法がそのまま施行されたとは限らず現実の古代
日本ではかなり即応的に修正された上で実施されていたと考えられ蓮るが︑それでも慣例的に行われていた行政実例がいつしか実情にそぐわなくなっている場合があり︑かかる場合にそれを墨守せず適宜
修
正して現実にあわせるのが簡政であろう︒今守が美濃国司時代に
校
班田の実施過程で先ず校田の結果を太政官に伝達し符報の下るの
を待って班田を開始すると何年も待たねばならず吏民の煩いであ
る︑今後は符報を待つことなく校班田に直ちに着手したい︑と述べ
て
と称される改革案が畿内諸国を対象に出されている︒出挙を停止し 三 いるのは簡政の一例であろう︒貞観四年三月二六日に貞観の新制
それに見合った田租増徴を行い更に短縮して三十日となっている雑
緒を十日とする案で︑当時山城守で新制布告の一カ月前に左京大夫
となっている紀今守が立案に参画していると推測されているが︑出
挙を停廃する理由として﹁凡所以嫌出挙政者︑将以除吏民之苦︑仮使
昔之十分︑今行其一者︑論之物情︑豊為煩擾﹂と述べていることが
注
意される︒出挙の班給と収取が膨大な事務量を必要としたであろ
うことは容易に想像される所だが︑それを省こうというのであり︑
良 吏今守に相応しい簡政の一例である︒
ところで先にも述べたごとく簡政という表現は抽象的でしかない
が︑九世紀の地方政治の先端を担う良吏層の採った政策には二つの
方向性を指摘できそうである︒一つは土地対策で権力による土地把
握
を強化し土地に対する課税を強めていく方向である︒よく挙げら
れる出挙の地税化として弘仁十三年十二月二八日の中納言良牛安世
︷m︶ の奏状に﹁河内国︑諸家庄園︑往々而在︑土人数少︑京戸過多︑伏 望 不 論京戸土人︑営田一町者︑出挙正税光束︑云々︑許之﹂とあり︑
従 来 人 頭 別 に 班 給されていた公出挙が土地割となったのであるが︑
計帳による人身把握が困難となっている時代を反映して河内国に限
られることなくかかる方式は諸国に広ったと考えられる︒土地課税
︷≡ の強化であるが︑天長二年十月二十日官符で田租地子の未進者の処 分
垂 を強化し既に林陸郎氏が指摘されていることだが文徳朝において
不
堪佃田がクローズ・アップされているのも課税物件としての土地
の 比 重
が増して来た結果であろう︒先引貞観四年三月六日新制で失
敗したとはいえ田租の増徴を図っているのもかかる動きの一環をな
四一
森田3九世紀中期の政治についての考察 209
している︒かかる動向が顕著になってくると国衙で把握している見
営耕田数を詐って不正を犯す国司の増加が予想されるが︑国司の報
告
する不堪佃田の増加もかかる傾向の表れであり︑貞観三年に班田
事 三 務を開始した際諸国から報告されて来た校田帳に損田の膨大な発 生
が見られたのもその一例である︒すなわち貞観四年六月五日官符
で は
「得
民 部 省
解侮︑検諸国所進校田帳︑損多益少︑相折両数︑所
損或国四千町巳下︑或国二百町以上︑式云︑凡勘大帳者損進同数無
所 増
益者︑即申省返帳︑夫一両損丁其責不軽︑況件校損公田三四千
町︑応輸租稲且四五万束︑一損之後再復無期︑是則格式無制︑国郡
忘 公 所
致也︑望請︑自今以後︑准大帳不許損減︑若有所損︑為例返
帳︑但非常損者︑同別録言上者︑右大臣宣︑依請﹂と述べている︒
数 千
町という膨大な校損田の発生理由としては末端の村落において
田堵のごとき有勢者が好偽をなして公田を横領して私田化している
場 ︷巴 合もあったであろう︒例えば貞観元年の近江国依智庄検田帳によ れ ば
寺田が公田化されている場合があるが︑その逆の場合の可能性
もあろう︒それとは別に国司の不正により︑例えば三年以上の不耕の
土地である常荒地は延喜民部式に﹁凡諸国校田者︑皆校応堪見営之田
其常荒成川不用等地︑各造別簿︑並倶申上﹂と規定されていて合法的
に
校田帳から除くことができたのであるが︑かかる規定の悪用され
た
であろうことも容易に推測される所である︒前節で論じたごとく
官人の綱紀の緩みの目立って来ている時期でもある︒やや時代は降 ︹鵬︸るが延喜二年三月十三日の班田の励行を指示する官符で﹁国宰ロバ見
図内之荒廃無知帳外之墾開﹂と述べるごとき︑既製国図所載内の田地
を
現状の如何を問わず常荒扱いとし他方新開墾地を太政官に報告し
なければ国司は私腹を肥やすことが可能になるのである︒かかる動
きを禁断しようというのが右引貞観四年官符で後論する大帳に准じ
て非常損の場合を除き損田の増加はもとより損益同数でも校田帳を
受
理しないことにしたのである︒逆に言えば校益の場合しか受理し
四 二
ないことになるが︑校損が増加している状況下で十分な校益を期待
し得たとは考えられず実質的には損益同数に終るような傾向を生み
出したのではなかろうか︒非常損の場合の例外規定を設けていると
は
いえ原則として校益でなければ校田帳を受理しないということは
校田帳と実態との遊離を齎らし前者のフィクション化を促進し︑結
果として校田帳の固定化を招いたのではないかと思われるのであ
る︒坂本覚三氏により提唱されたことに本来の律令体制下で班年ご
とに変動していた国図が前期王朝国家体制の下では基準国図が作成 ︹旦され本数ないし本田の固定化がなされたとあるが︑かかる固定化を
促した政策の一として貞観四年官符を考えてよいと思う︒固定した
本田数として﹃倭名抄﹄以下に見える諸国田積があるが︑仮に一国
一万
町
歩とすれば右引官符で三・四千町の租稲四・五万束とあるこ
とから十二〜十五万束程度の租入を図ればよく︑それにより国司は
国務を全くすることになる︒国政を国司に一任することからくる当
然の帰結だが︑国司の徴税請負化の推進であり煩雑な律令行政事務
の簡略化という性格があったであろう︒猶︑貞観四年官符を起案し
て
ことが注目される︒貞観期の良吏層を構成する一員である伴善男に ≡ いるのは民部省官人だが︑当時の民部卿を調べると伴善男である
より後の王朝国家体制下の土地政策を準備するがごとき立法が為さ
れ て
いるのである︒かく土地政策の面で公田数の固定化を図り租入
を一定化する一方で︑簡政のもう一つの方向として本来の律令制下
で人身課税を原則としていた調庸収取について見ると︑前稿で指摘
したごとく天長初年以来認められる大帳の固定化と調庸の地税化傾
向の進展を見ることができる︒弘仁式で大帳所載人員の減少を認め
ないことになりかつ大帳所載課丁の無実化の進む中で大帳の固定化 ︷旦
は 免 れ 難 か
っ
たと思われるが︑貞観九年五月八日官符で式条に認め
られている符損を別にすれば課丁数に増減が殆んど無いとしている
の
はこの頃の大帳の固定化状況を如実に示していると考える︒元慶
金沢大学教育学部紀要 208
五 年
十月二六日に紀伊国大帳の勘出百姓一六二人を免除している
座
介興道春宗の言上によれば﹁承和年中以隆無請調庸返投僅
請損益帳︑而従元慶元年︑不請其帳︑勘出逐年狼積之所致也﹂と述
べ て
いる︒民部省被管の主計寮で大帳を勘査するか︑承和の頃から
損益帳のみで調べ元慶以降になるとそれさえ参照しないということ
で大帳勘査の弛緩ぶりが判り︑大帳の形式化ないし固定化を示すと
思 わ
れる︒元慶五年に至り紀伊国で一六二人の勘出が判明したこと
の
理由は判らないか︑この年に至り何らかの大帳枝文を調べそれと
の
⌒迎 齪酷が見出されたのだろうか︒貞観三年に伊勢国で大帳所載百姓
の員数の不正で国郡司が在地の百姓に告発されているが︑固定化し
て
いるとはいっても建前上は実態を表すべきものとされており︑在
地 の 政 治
的緊張によっては大問題化されることがあった︒貞観十七
年
亘 入月ご二日官符では右京職の要請に基いて﹁応令顕申絶戸田人三
箇 年間免半地子耕食其田事﹂を指示している︒ ﹁無実之戸空附公帳
」と述べ大帳の形骸化を示すとともに計帳を偽進するがごとき人が
絶
戸田を横領している現状を糾弾し摘発者に三ケ年間地子免半の条
件で耕作させることにしている︒かくして得られた地子は大帳で無 亘実とされる入たちの調庸に当てられ式たと推測されるのであり︑調庸
の 地 税 化 の 進 ⌒旦 展を見てよいだろう︒貞観十七年当時の右京太夫は伝
に
「性
聰敏有学渉︑以吏幹見称﹂と評されている源覚だが︑かかる
良 吏
により計帳の偽進ないし大帳の形骸化という現状が認識されて
太 政官へ上申されそれへの有効な方策として無身課丁の調庸を地 子
収納に振替える案が出されているのである︒私は以上に見た二つ
の方向︑課税物件としての土地の比重の増大と本田数の固定化およ
び
大帳の固定化と無身戸口の身役の地子化とを貞観期の良吏層が進
め た 政
治としてよいと考え︑かっそれらは校班田ないし大帳の作成
や
調庸の収取において簡略化と実質化を齎らし﹁吏民ノ苦ヲ除﹂くが 亟 ごとき簡政となったであろう︒猶︑九世紀後半に至ると郡司による
徴 税
請負化のすすむことが米田雄介氏により指摘されているが︑中
央と国衙の関係を示す校田帳ないし大帳の固定化の結果後者による
前者への徴税請負化がすすみ更にそれが国衙と郡衙との間にも及ん
だと考えることができよう︒
かく貞観期においては良房指導下で公卿体制を固め良吏層の官
人を起用して意欲的な政治が進められ良房莞後は基経に引継がれ且
つそれは十世紀王朝国家体制を準備するものではあったが︑貞観初
前後において良房らが直面した危機を克服し得た訳ではない︒権門
と結合して国郡の行政に対桿する在地土豪は跡を絶たず時期を降れ
ば降る程深刻化し寛平・延喜に至り再度クローズアップされる問題
︷塑 安問題について見ても王臣家が盛んに兵馬を集め︑強雇のごとき乱 ⌒旦 であり︑官人の綱紀の緩みも次代の問題として引継がれていく︒治 亘 ⌒旦 暴な振舞に出ることも屡であり︑王臣家と結んだ市籍人が市司で狼 籍
を為し︑貞観九年には盗賊を絶つ為に結保の強化を図っている程
で良好とはいい難いのであるが︑良房・基経による初期摂関政治期
にあっては応天門の変のごとき政変の発生にも拘わらず概して安定
しており︑良吏を先導とする地方政治が一定程度の成功を収あたか
らであると思われる︒
32
1注654
日本史研究L二二五号︑以下小稿で前稿と称するのはこの論文であ『
る︒
石 門脇禎二﹁天長期の政治史的位置﹂ ︵﹃奈良女子大学文学部研究年報 母田正﹁古代史概説﹂ ︵可岩波講座・日本歴史﹄1所収︶
﹄六号所収︶
る︒今竹内理三氏に従い藤原氏に賜ったとされる永世功封をあげると 藤原氏に賜給された封戸にっいては議論のある所なので少しく細説す 竹内理三﹁律令制と貴族政権﹄ ﹁貴族政治とその背景﹂ 北山茂夫﹁摂関政治﹂ ︵﹃岩波講座・日本歴史L4所収︶
④ 先 ず 鎌 足 がその功により一五〇〇〇戸を賜い世々子孫に伝えしめ︑
四 三