膨張するパリとアンリ・セリエ
1両大戦間期の都市空間をめぐってi中野隆生
はじめに
フランスにおける近代都市史研究の歴史的位相を明らかにするところからはじめよう︒
第二次世界大戦後のフランスにおいて︑歴史学は︑ナチスによる支配の経験︑あるいは冷戦やそのもとでの植民地
の独立という事態を引きうけながら︑国民的なまとまりやアイデンティティーを確保ないし再構築するという課題を
担っていた︒当時における歴史認識としては︑民衆に浸透していた共和主義的にして愛国的な歴史観(たとえばドゴー
ルの歴史観)と︑国民の枠組みこえた広がりで政治のみならず経済︑社会︑文化を視界に組み込み全体史をめざすブロー
デル率いるアナール派の歴史観が並存し︑それぞれの役割を果たしたが︑世界の冷戦構造が揺れるほどに︑共和主義的
歴史観は信頼と有効性を喪失し︑一方でアナール派は多角的に社会や文化を照射する傾向を強めて世界に喧伝される
一派となった︒ところが︑国民国家の歴史性が看取されはじめた一九八〇年代にはいると︑国民的枠組みを基盤とする
歴史認識への疑いは深まり︑アナール派を含む歴史学の全体にたいして根底的な批判が浴びせられるようになった︒
さて︑語るべきは十九〜二十世紀を対象とする都市史研究の歴史性である︒まず︑第二次世界大戦後のフランスにお
ける十九世紀を対象とした歴史研究について︑フランス革命までを扱った研究とくらべれば手薄であったこと︑マルク
ス主義の影響を受けて資本と労働の関係を機軸にした歴史像がつくられがちであったこと︑地域(とりわけ県)を単位
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メトロポリタン史学創刊号二〇〇五年一二月七〇
として全体史をめざすアナール的研究と労働運動史や社会主義運動史に関心を集中する研究に大別できたことを指摘
しておこう︒一九八〇年に前後して社会史的なものへの傾斜が強まると近代都市へ正面から視線が注がれはじめ︑とり
わけ労働運動史・社会主義運動史から多くの研究者が参入して近代都市史研究の中核を形成した︒この中核的潮流は︑
現実の都市問題の深刻化を背景としながら伸張しつづけ︑冷戦の動揺と崩壊︑あるいはグローバル化のゆえに︑国民的
枠組みを自明とした歴史観が相対化されるなかで︑社会学︑地理学などとの協力︑提携を試みつつ︑近代都市史研究を
確固たる研究領域として確立させた︒
歴史研究の重要な一領域となったフランスの近代都市史研究は︑たどってきた道筋のゆえに︑住民(民衆)のあり方
や心性を重視するという特徴をおびていた︒また︑住宅︑街区(カルティエ)︑都市的な広がり(都市ないし都市域)といっ
た重層的に織りなされる諸空間を︑建造物などの物理的な変化︑社会的諸関係︑あるいは人びとの思いや表象や行動に
おいて把握しようとしてきた︒こうした研究のあり方は日本の近代都市史研究とは著しく異なっているといわなけれ
ばならない︒すなわち︑ほぼときを同じくして研究領域として確立した日本の近代都市史研究の場合︑フランスのよう
に住民(民衆)のあり方や心性にそくして都市にかかわる問題がたてられることはほとんどなかったのである︒そうで
はなく︑近代の国民国家ないし社会総体とのからみにおいて都市が検討の対象とされ︑国民︑地方などと関連させて都
市を位置づける努力が積み重ねられてきた︒確かに都市の片隅で認知されてきた下層社会に光があてられはした︒しか
し︑それを包含する住民(民衆)の世界を総体として問い︑そこに内在しつつ課題を設定する意識は希薄であり︑国民 よ国家における都市相互のネットワーク︑都市の政策といった事柄が検討の対象とされたのである︒
以上のようなフランス近代都市史研究の経緯と現状を踏まえるとき︑住宅や街区にそくしながら自らの視線を住民(民衆)の位置にすえ︑都市的な広がり︑そして国民や国家を視界におさめることで︑独自の貢献が可能になりはしない
かと思われてくる︒そこで︑二十世紀前半(ことに両大戦問期)のパリとその郊外における都市膨張を検討対象として
とりあげ︑政策的構想と実態的展開の双方をにらみつつ︑住民の実態や政治・行政の機能の仕方を解明するという目標
を設定しよう︒このようにすれば︑二十世紀における大都市の変容を立体的に生き生きと描き出せるのではあるまいか︒
ただし︑これは最終的な狙いである︒ここではとりあえず︑両大戦間期のパリ都市圏において都市政策をリードした社
会主義者アンリ・セリエ(一八八三〜一九四三)に焦点を合わせ︑彼の著作を中心的な素材として︑都市空間をめぐる思
いや構想を読みとくことに課題を限定しておきたい︒
アンリ.セリエについて若干の説明を加えておこう℃階級対立ではなく階級協調を唱える改良主義的な社会主義者で
あるセリエは労働組合運動や協同組合運動の指導者として頭角を現したが︑一九一〇年にセーヌ県議会議員となって以
ね来︑パリ地方(セーヌ県)の政治や行政に枢要な役割を果たしつづけた︒セーヌ県低廉住宅公社を創設して理事長に就
任したのが一九一五年のことであり︑以後︑死の直前にいたるまで︑パリ周辺の諸市における公的な民衆向け住宅の建
設を主導し︑また︑一九一九年にはパリ西郊のシュレーヌに社会党市政を樹立して市長となり︑ヴィシー政府に罷免さ
れる一九四一年までその職にあった︒本稿でとりあげるシュレーヌ田園都市の建設が数次にわたって進められたのは︑
この間のことである︒
一九〇五年に成立した統一社会党(SF10)は︑第一次世界大戦直後に分裂し︑多数派による共産党の結成を見た︒
このときセリエは共産党に参加したが︑まもなく党の路線と対立するようになり︑一九二二年に除名処分をうけている︒
その二年後に社会党への復帰を果たしたセリエは︑シュレーヌ市長として︑またセーヌ県低廉住宅公社理事長として︑
活動の領域を広げたが︑彼の提起する都市・住宅問題への対応策は︑社会党系の市長はもちろん︑急進主義や共和主義
など︑より保守的傾向の市長にも支持された︒少なくとも反対されることはなかった︒唯一︑共産党にとどまった市長た
ちだけは︑人民戦線成立以前はセリエとの協調を拒否し︑それ以降はセリエから主導権を奪取しようとつとめ芯)︒この
間︑セリエは︑全国の市長をとりまとめつつ国際的な都市連盟に参画し︑並行して︑都市・住宅問題の国際組織でも重要
な役割を担った︒以上のような点から︑セリエを主唱者とする都市・住宅の諸施策が少なくともセーヌ県の市長たちの
あいだでは広範な支持を得ていたと判断することが許されるであろう︒
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メトロポリタン史学創田号二〇〇五年一一月 ヒ一
一九三五年に上院(元老院)議員となったセリエは︑翌年の第一次レオン・ブルム人民戦線内閣で厚生大臣を務めたが︑
成果が出るまえに内閣が倒れ︑セーヌ県へと回帰した︒こうした経歴からすれば︑セリエを国民的レヴェルでのトップ・
リーダーとはみなすのはやや無理があろう︒むしろ︑市や県など自治体のレヴェルに根ざして現実的な改革を志向し能
らけ力を発揮したこと︑その限りでは国際的にも活動したことが記憶される人物なのである︒このようなセリエが改めて研
究者の注目を浴びたのは︑とりわけ一九八一年に誕生したミッテラン社会党政権が地方分権化を推進してゆくなかで︑
真にローカルな民主主義の実践者としての評価をうけたからであった︒ただし︑本稿は︑セリエの都市空間への眼差し
を読みとくことをめざしており︑こうした評価をただちに共有するものではない︒
第一章危機の認識
一八六〇年の市域拡張をへてパリの人口は増えつづけ︑一九二〇年
代にピークを迎えたが︑その後は緩やかな下降線を描くようになった︒
もっとも︑その増加率はすでに十九世紀中葉から直近の郊外(セーヌ県
郊外部分11小環状地帯勺Φ簿ΦOo霞o目Φ)を下回っていた︒小環状地帯の
人口は︑第二次世界大戦前後の停滞期をはさんで︑一定の勢いで上昇し
たが︑一九六〇年代の半ばにははっきりと鈍化し︑その増加率はさらに
外側に広がる郊外(セーヌ・エ・オワーズ県とセーヌ・エ・マルヌ県をあ
わせた地域11大環状地帯の轟昌αΦOo霞o弓①)によって凌駕された︒つま
り︑十九世紀後半以降︑イルーードーーフランス(パリ地方)の人口増加は︑
パリから小環状地帯へ︑そして大環状地帯へと︑焦点となる地域を外側
人 口(百 万 人 10
8 6
4
、"・・ψ"
21
O,5
199◎
1946 19621975 1926
1911 1881 18%
図1:パ リ お よ び そ の 郊 外 に お け る 人 口 動 向 BernardMarchand,Paris,histoired'unei,illeXIXe‑XXe
∫'〜d8,Paris,Seuil,1993,p.162
へ移しつつ展開したので
ある(図1)︒
都心から離れた地域
に入口が拡散する現象
は︑十九世紀半ば以降に
おける公共交通機関こ
とに鉄道網の整備ととも
に顕在化した︒とりわけ
十九世紀末から︑運転数
の増加︑輸送量の拡大︑速
度の上昇︑運賃の低下な
どで郊外鉄道が大衆化す
ると︑いよいよ郊外におけ
る市街地の形成が促され
るようになった︒鉄道や
へ 路面電車(そして道路)に
そって市街地が外側に広
がり︑こうした動きは第一
次世界大戦をへて加速化
した(図2︑図3)︒安価に "簡・如偽
膨張するパリとアンリ・セリエi両大戦閻期の都市空間をめぐって(中野)
蒙
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灘 塾1856年 以 前 翻1908‑1936年ll誓1駐 鑑m
甥1856‑1908年 ■■1936‑1980年 こ ろ
図2:パ リ 都 市 圏 の 拡 大
JeanBasti6,G(lographieditgi'ctiidPai'is,Paris/NewYork/Barcelone/Milan/Mexico/
SaoPaulo,Masson,1984,p.46の 図 に パ リ 市 域 を 実 線 で 、三}:き加 え た
し一︑一
メトロポリタン史学創刊ロゲ︑一〇〇五年一..月
なった交通機関を利用しての通勤が可能
になり︑郊外に住めるようになったこと
ず が大きな理由であった︒ということは︑
パリの郊外に出現した市街地が住宅地と
して形成されたことを示唆している︒事
実︑一九二〇年代には郊外での定住を希
望する人びとに向けて大衆的な宅地分
譲が大規模におこなわれた︒しかし︑実
効性のある法的規制が欠如していたこと
もあり︑多くの分譲宅地で道路︑水道な
どが整備されず︑大きな社会問題となっ
たのである︒パリ郊外における都市化は︑
こうした欠陥分譲宅地の拡大とからまり
げつつ進行した︒
つまり︑都市・住宅問題にたいするセ
リエの関与は︑急激な都市膨張とそれに
よって惹起される諸問題が噴出し生じた
事態に︑郊外諸市の政策担当者が直面し
た時期におこなわれたのである︒深刻な
相貌を呈しはじめた都市や住宅の矛盾
峨裾
.、
融ザ へ
覇膨 \
\
し四
図3:両 大 戦 問1り」の パ リ を め ぐ る 分 譲 宅 地 の 形 成 JeanBasti6,La(b1'eis.scm('edel̀lh(iJilieti(」p̀it'isieiiiie,Paris,PUF,1964,p.230