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内山克己・増田史郎亮 :承前

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(1)

江戸中期以降明治三、四十年代に至る 長崎に見る教育の発展

―(そのニ)―

内山克己・増田史郎亮

:承前

  洋    学

 こ、で洋学というのは無論西洋学という意味であるが,その用いられたのは幕末であり,当 時は蘭学という意味と凡々同様の意味に使用された。但し当時は蘭語のみでなく,英語,露 語,仏語,独語等も学ばれたため,これ等を通し学習,研究された西洋諸外国の学問,思想,

技術を含むものと考えてよいであろう。然しこ\ではもっと広く基督教文化,南蛮学等も之に 含めて考える事とする。そして其内容は六十五年史の筆者も言う如く語学,医学,本草学,天 文,地理学,兵学,造船術,物理,化学,数学の五つに分けられよう。

い,語学

 長崎開港後,貿易の必要から葡萄牙語,西班牙語が用いられ,一部基督教学林では古典語も 学ばれたが,禁教,外国人渡航禁止令,平戸商館出島転入により,それらに代って和蘭陀語が 行われ,其学習の必要が痛感されるに至った。かく言えばとて葡語より蘭語に一挙に移行した のではなく暫く併用の時代が続き,些々に蘭語に移行したのである。沼田次郎氏は蘭館日誌等 の資料に基づいて,延宝,貞享年間頃から蘭語の組織的学習が通詞の間で始められ,当初貧:弱 であった語学力も元禄以後,宝永,正徳から享保にかけて向上したのでないかと言われる。(1)

 当時の語学教育は外人の私塾教育の形でか,いわば通詞の子弟,門人がお家芸としての形で か行われたようである。例えば元禄3年(1690)渡来したケンペルの如きはその著名な一例 で,彼は日本青年に熱心に個人教授を施し,1年後には蘭語の読書,作文をなさしめるのに成 功したという。(2)蘭館日誌延宝元年(1673)1月9日条には長崎奉行は十歳乃至十二歳位の 少年若干名に出島に出入せしめて蘭語を練習せしめたというが之もその一例であり(3),司馬江 漢の「西遊日記」に吉雄幸作を「をぢ様と云う四才位の小童」が「蘭語ヲ能ク覚エテ牛肉をクウベ        ヤレ

イスと云。馬をパールドと云。サツマ芋を与はレツケルレツケルとて喰いける」とあるのも通 詞に於ける其例と見ていいであろう(4)。

 然し,禁教以来洋書の輸入は禁ぜられていたので通詞が蘭語を学ぶと言っても蘭書を読んで

研究するというのではなく,唯会話と普通の読み書きに止っていた。所が徳川吉宗に至り,周

知の如く殖産興業による封建体制補強の為,技術学関係の洋書の一部解禁を策したので,其関

       一1一

(2)

係から青木昆陽が命ぜられで欧洲の文辞を学習するようになった。其後昆陽が長崎で本木仁太 夫,吉雄幸作,西善三郎に師事する事となり,その縁から以上三者の蘭語兼修を将軍に願出,

それが許可された事から蘭語の学習は一段と盛になったのである。

 当時の通詞達は中西啓氏によると語学の暁通なしに西洋学の進歩はあり得ぬとの自覚に立っ ていたと言われ,各々家学として研湿した事は前述の通りであるが,中には文法書の研究を行

うものもあり,舶載の善本は秘して見せなかったものさえあったという。(5)

 この間,四囲の情況が急速に転換しつ\あった事は前記の通りである。英国を先頭とする西 洋資本主義列強は原料獲得と市場拡張の為,その触手を東洋否日本にも伸ばし,我国も亦その 渦中に追込まれる事とはなった。露使節ラックスマンの来航を初めとする列強使臣の来朝がそ れである。これら周囲事情の急転が語学又洋学研究方面の変貌を促した事は勿論である。幕府 は蘭語の研究のみでは時局処理に不充分であると痛感して,文化5年(1808)石橋助左衛門等

6人の通詞に商館長ヅーフに仏語伝習を命じ,同年英艦フェートン号渡来後は満洲語,露語,

英語の修業を通詞等に命じた。更に翌6年には本木庄左衛門等に露語,英語の学習を命じた が,この時の稽古世話役には本木,末永等6人の通詞が当り,英語教師には商館助役プロムホ

フが任ぜられ允。古賀十二郎氏はこれを本邦英語研究の噛矢としている。(6)それだけ,伝習生 め数も増加していためである。同年蛮学の儀は幼年の頃より学ばざれば記憶もあるまじきに付 以来一統申談じ露語及び英語の兼学を致すべき旨の訓諭があったというが,(7)この一文は当時 の教育の模様,時勢の急迫をよく物語っていると思う。次いで翌7年出島の通詞部屋には通詞 の過半数に当る16名が出勤したが,これ以後には語学教育には多少の幽幽が見られた。本来ブ Pムホフ の考えでは年少者に正則的教授法で英語を教え込む積りであったろうが,それに反し 英語の速達を切望する余りに当路者は老幼の混合学級を編成したものと考えられる。併しそれ をやった結果,蘭学未熟の者, 「幼若之衆は,本業と混合,双方共急二藍習二及ひかたく」

「本業成就之輩者還而習熟も速二候」(8)という事でもあったので,蘭学に優秀な者達を抜擢し て英語の教授を受けしめる事としたのである。安政2年(1855)長崎奉行は幕命によって通詞 以外の受講希望者にも学習を許可するに至り,更に同5年(1858)岩原屋敷内に・は英語伝習所 が設立され,通詞2名が頭取,蘭人ウイッ主ルス,デ・フォーゲル,英人フレッチェル等が相 継いで教師となり,「唐通詞,蘭通詞,其外,地役人達の子弟が英語教授を受ける事となった。

同所は爾来次の如く移転,改称している。

 文久2年(1862),片品町に移転,英語稽古所又は英語所と改称。翌3年,江戸町に移転,

洋学所と改称。元治元年(1864),大村町に移転,語学所と改称。慶応元年(1865),新町に 移転,済美館と改称。この間洋学所時代,フルベツキが教師に任じ,英語の外独逸語も教えた といい,語学所時代,英・仏・露語が教えられ,済美館時代は教育内容も外国語め外,歴史,

地理,数学,物理,化学,天文学,経済等も含んだという。

 尚語学教育に関連する事として長崎ハルマと称する蘭日辞書を初めとする,「和蘭二品考」

「英和対訳字書」,「諸厄利亜興業小笙」等の外国語文法書,辞書の編纂があった事は逸すべ

(3)

きであるまい。

ろ,医学・本草学

 前述のように本邦では漢方医学が行われていたが,一方葡萄入アルイメダやフエレーラ(後 に沢野忠庵という)等から南蛮医学が伝えられ,呂宗から帰朝した栗蜻道喜も南蛮医術を伝 え,忠庵の直接間接の門人として西吉兵衛,半田順庵,杉本忠恵,吉田安斎なども輩出すると いう風に,我国医学には新生面が開かれつ\あった。

 然し何と言っても本邦医学に多大の影響を与えたのは後に伝わった阿蘭陀流の医学であっ た。和蘭医学者も屡々来朝したがカスパル・シャムベルゲンに及んで初めて大きな影響を残し た。彼の弟子に通詞猪股伝兵衛,医師の河口良庵がある。先の中西啓氏はカスパルが出島にい る間,日本青年は毎日出島に通って蘭医学を学んだという例があり,又先の西玄甫の如き南蛮 医学を修め,且つ蘭医学にも精通する為来日蘭人中医学の心得あるものに教を請うた例もな いではなかったというが,(9)その当時はそのような状態であった模様である。

 この後ケンペルやツンベルグ(チュンベリー)が来日した。ケンペルは出島蘭館医として赴任 したが,彼の助手に蘭医志望の青年があり,蘭語の読み書きもよくした事は前述の通りであ る。⑳ツンベルグは和蘭通詞達に医学のみならず,薬学,植物学等教えたというが,(1コ次の彼 の日本紀行はその当時の通詞の姿や,医学を含め蘭学研讃の程をよく示していると思われる。

彼はその1部に,通訳の蘭語は可成正しい,通訳達は欧洲の書籍を非常に欲しがり,時には執 拗な程,物理学,医学,博物学に関する質問を行うと言い言い,「通訳は大部分医学の研究に 没頭している……そして彼等は欧洲人の用いる治療法を自分のものにしている。彼等はこれを 和蘭の医者から学ぶのである。彼等にとってこの業は名を高め,産をなすに最もよき方法なの である。一・…出島の通訳はこの島のうちに大きな家を持っている。これを通訳学校という」⑫ と述べている。ツンベルグの弟子としては吉雄耕牛,岡田養仙などがある。

 次に特筆すべきはシーボルトである。彼によって初めて我国に近代的臨床医学の学説,教授 法がもたらされたのであるから,彼は言わば本邦近代医学の開祖といっていい。彼は出島上陸 間もなく其所で毎週医学伝習を行い,時によっては楢林,吉雄等の家で出張教授をしていた が,官の出島出門の許可を得て,鳴滝の別荘で1月何回も患者を診療し,臨床講義,更に博物 学等の教育も行った。之は外人私塾の著名な一例として考えてよいであろう。(13)呉秀三氏はこ の間の事を次の如く述べている。「先生の医師として通暁せしは,医科諸般の学問なれど,分 けて内科,外科,眼科,産科には治療の成功の目立ちしも数多かりければ和蘭屋敷に名医出で 来たりとの評判は近きより遠くへ漸くに弘ごり行きて,初めは長崎の市中より後には近在又は 遠方より……治療を求め,和蘭の科学,就中,医学の修業を志望する書生乃至学者の笈を負い て教を乞わんとて集うもの,日に日に数多くなれり。然れども当時の法規にて和蘭人の出島よ り三つることも和蘭館に日本人を延き入る\ことも禁止されてありしが,初めは内密なりし病 人の治療,学者医者との交際が長崎の上下一般に有益にして良好なる事柄なりとの感情と心証

とを与えたるより,厳格なる日本政府の役人も先生に対しては目をそむけて知らざるを装いた

       一3一

(4)

るが如く……学者の受業の為めに出島に出入する事を許し……。……先生これによりて隔日に 大村高なる楢林塾,樺島町なる吉雄塾に出張して実地的に子弟に教授することを得たるが,そ は医学の学問と技術とに留まらず,動物,植物,鉱物など万有学上の知識より,i薬剤を烹たり 煉たりする方法に迄及びてこれを口述的に説明せしのみならず……。……その後に至りて生徒 の数は次第に多くなり,診断治療の成績も愈々著しくなりしかば,文政7年の頃なるべし,…

…家屋を鳴滝と云う所に購い,そこに校舎をしつらえ,病客を豪き,又生徒に対して医学,万 有学の他に薬物学の三寸を開くに至れり云々」と。圃敢て長い引用をしたのはその実状を如実 に述べたかったが為めである。最後に彼に関して付記すべき第1の事は門人にテーマを与えレ ポートを提出させるという方法をとった事であろう。例えばその一例として門人高野長英には

「鯨魚及び捕鯨に就きて」,「日本に於ける茶樹の栽培二三の製法に就て」,「活花の技法に 就て」等があり,捕鯨関係のはドクトル正門論文であった。㈲

 第2は彼の門人は吉雄幸載,楢林栄健,同宗建,湊長安,美馬順三,岡研介,平井海蔵,岡 泰安,戸塚静海,二宮敬作,高野長英等57名を数え(1⑤,蘭二二中最も多くの門人を持った事で

ある。

 第3は第2回帰国後尚日本の為に尽さんとし,第3回日本渡航を企てバイエルン国的軍制と 商業会社,其付属商業学校を設置せんとする計画があった事である。武藤長蔵氏も言う如く,

無論其商業学校は長崎に設立の計画で,もし実現されていたならば彼は又我国最初の商業学校 創立計画者の名誉を担う筈であった。(17)

 更に続いて商館で医学,気象学を教えたモーニッケ,その後任として医学を教授する傍,物 理,化学,測量,数学の知識を普及したファン・デン・ブルックがあった。本木昌造,楢林栄 左衛門,吉雄圭斎,等が其教を請うた人々である。

 筑前,医師河野養立はシーボルト,モーニッケ,ブルックに学び,舎密便覧,農家二二とい う著述もものしているが,彼はその備要の中で次の如く記している。

 「予響に奉藩命崎陽に客たる事三十三四年目西医般田及び悉依勃爾度等に交り,種芸の道を 問い,荷も稼橋に益ある事は,謹で心に銘じ,尚且西加学(自然)舎密(分析学)の学壌に本

き,和漢蘭の説を集め,其の宜しきを取り,農事より以て救荒医法に至るまで,民間に必要の 事件を記し,分て6巻となし」,(1鋤云々と。之は適当ではないにせよ其一例となろうか。

 尚ブルックの安政2年(1855)の意見書にも通詞,町医など限られたものに教授するより,

青年を選んで教えたがよい,教授も少数より多数がよい,化学,物理には機器,薬味其他の備 付が必要である,差当っては私物と舶載とで以て初学生徒に教授しよう119云々という言葉は我 国教育の貧困を物語るのみでなく彼の心構えをも語っていると言えよう。

 次いで安政4年(1857)ポンペ・ファン・メーデルフォート来朝し長崎奉行所西役所で医学

開講の講演を試み,講座時間表に従って医学の講義を開始した。演説に出席した人,幕府,諸

藩合計14名,講義受講の12藩,136名であったというが,言葉の障害なども伴った事は勿論で

ある。翌5年には生理学,化学,物理学,地質学,砿物学等を講義した。松本良順を介してポ

(5)

ンペに従って学んだ者は土肥晋裕,榊原養蕎,司馬凌海,大槻玄俊,長三石,前田玄造,塚本 道甫,有吉周平,厳佐玄珪,長与専心,楢林三圭,吉雄圭斎,佐々木東洋,等であった。「ポ ンペの指導は誠に行届いたもので,厳しい教育の半面,門弟に対する愛情洵にこまやかなもの があった」⑳という。

 所で先の医学伝習があって間もなく,医学伝習生の数も増加し,而も物理学の受講生には後 述の海軍伝習生も加わったので,教場の広さ,事務上の繁雑さ等の問題もあって教育の場所を 他に求める事が必要となった。そこで開かれたのが大村町の医学伝習所であった。こ\では最 初のプランに従って基礎医学から臨床医学に亘った。同所門人録によれば佐州,上州,長州,

筑前,勢州,防州,播州,予州,豊後,佐嘉,崎陽,等の諸地方より来て居り,司馬凌海,吉 雄雲斎,郡玄之進,橋本節斎らがいた。⑳当時学校は寄宿舎制で,先にも述べるように松本良 順はこれら学生の監督をかねてポンペの補講をし,入学の際も彼良順の許で手続が出来ねば入 学は出来なかったようである。伝習所に入った事のある長与六斎の「松香私志」は当時の姿を 偲ぶにふさわしいと思われるのでこ、でも長い引用をしてみよう。以下はその文の1部であ

る。

 「万延元庚申年1月,松本先生の許に詣りて,伝習傍聴の事を願い出て,許可を得たり。

 伝習所は大村町にありて,2階建の長屋なりき。其頃は諸藩の伝習生増加して,30人余の寄 宿生あり。松本先生も,其中央の1室に住まわれたり。

 伝習生は諸藩の命を受けたる御用書生多く,8畳,6畳位の一間に,2人,3人宛机を構 え,其上に幾冊となく原書を積み,座蒲団を敷き,挟時計を帯びたる有様は適塾自費の寒書生 たりし者の目には只驚くばかりにて,払出忌中の戯言をさえ思い出しぬ。余は姑く入塾を見合 せ,通学する事となしつ。

 翌日は講義の席に列し,松本先生の紹介にて,ポンペ氏に引合されしが,生来始めて外国の 人に乱せし事とて,一言の挨拶も出でず,只無言にて握手せしのみ。

 やがて講義始まりけるが,(中略)通詞の一語一語に口訳して伝うるさえ,しかとは耳にと まらず, 然として酔えるが如く,人々のさまは如何ならんと,見廻しけるに,松本先生と外 に一人は,始終筆を執りて筆記するさまなりしが,其他は手を活きて聴居るもあり,時に鉛筆 を取出して記するもあり。後に聞けば始終筆記し居たるは,司馬凌海なりしとそ(中略)。

 かくて日を経るに従い,ポンペの口演も,略史意味を会得し,時には自己の喉舌を以て,質 疑問答することも出来得るようになり,梢々事情も解するに付き,つらつら学問の仕方を観察 するに,従前とは大なる相違にて,極あて平易なる言語即文章を以て,直ちに事実の正味を説 明し,文字章句の丸瓦の如きは,毫も歯牙にかくる事なく,病症,薬物,器具,其他種々の名 物,記号等の類,曽て冥捜暗索の中に幾多の日月を費したる疑義難題も,物に就き,図に示

し,一目瞭然,掌に指すが如くなれば,字書の如きは,ほとんど机上のかざり物に過ぎず。

 日々の講義を能く理解し,能く記憶すれば,日々に新たなる事を知り,新たなる理を解し,

復た一字一章の阻擬することなく,坦々として大道を履むが如くなりき。

(6)

 但し利のある所は,害の伏する所にして,学問の平易なるにつけ,刻苦練磨の必要少く,随・

て怠慢放逸の弊を生じ,学生中には,往々二業を遂げざるもの出で来りぬ。

 されど,此伝習の事より,蘭学の大勢一変して,摘旬尋章の旧習を脱し,直に文章の大要を 領して,専ら事物の実理を研究するの目的に進み,日孟月将の勢を以て,遂に今日文明の世運 を開くの端とはなれり。前年緒方先生の蘭学一変の時節到来と宣いしそ,建に達人の知言なり

しと,私かに深く感歎したりき。」鋤と。

 これより先,ポンペは医学教授の実地研究の為の施設がないのを遺憾に思い,且つは市民救 憧の設備がないのを憂え付属病院設置の必要を奉行に建議し,安政六年官の許可を得,小島郷 稲荷嶽に敷地を求めて,海軍伝習教官トローエンの設計で工事を進めた。工事が大体進行した 所が,病院兼学校として建物が狭心だというので,更に学舎を建築した。病院を養生所,学舎 を医学所と称し,文久元年(1861)竣工した。

 ポンペは医学所で内科,外科,動物実験等をなさしあたが,講義中彼は独,懊,一気,蘭,英 各国医学の最新学説を収めようと努力したものの如くであっ一た。㈱

 文久2年(1862)ポンペは帰国し代りにボードインが来任する事となった。その折医学教育 機構に若妻の異動があったようであるが,教育そのも・のはポンペの時よりもより精緻になった 模様である。当時学生であった池田謙斎は次のように回想している。「私共の長崎に行て,1 番初めに授かったのが生理学と眼科学で此二つをボードインにやって貰った。ボードィンは点 てドンデルスという人と共に生理学の著述をした事もあって,生理は得意の方であり,又眼科 も大に自得して居たので,私共は当初之れを毎日の正課として,順々に講釈して貰い,夜にな るとその筆記を書き直して勉強したものじゃ。当時生理学をやる「にも,参考書が無いので,ボ ードインに頼で,コステルの生理学,其他内科,外科,眼科などの新版ものの蘭書を注文した が,やがて5ケ月ばかりもか\って,それが到着した時は実に嬉しくてたまらなかった。……

当時学校通いの有様はと云うと,朝8時から10時四六…釈をきく。10時から12時迄が入院患者の 廻診。午後1時から外来患者の診察とがう定めじゃった。……」⑳

 彼に就いて学んだものに,戸塚静伯,緒方洪載,竹内玄庵,佐藤道碩,土生其豊,松本紀三 郎,池田謙斎等があった。

 次でこのボードィンは物理学,化学の基礎学科を医学教育から分離する必要を痛感したので 分析究理所を設立する計画を立て,元治元年(i864)竣工した。

 慶応元年(1865),時の長崎奉行服部左衛門佐は同所を精得館と改称し,分析究理所(化学局)

一棟を建増し,蘭人ハラタマを招聴』してそこの専任教師とした。ハラタマ着任以後,同館の理 化学教育は本格的なものとなり,当初は100虚名の聴講があるという程であったが,講義の不 慣れ,聴講生の身辺の危険等の為,次第にその数を減じ,4,5名になったという。㈲先の池,

田謙斎は又ハラタマ(ガラートマン)の教育に就いて以下のように述懐している。

  「ガラートマンも矢張り非常に厳格な質であった。……其講義中,実地試験をやっても見る

ので,当時の我々は驚かされて居たものじゃ。それから化学専門に学びたい志願のものには,、

(7)

初めは別に何も教えず,唯ラボラトリユームの中で道具をこしらえさせる。たとえば罎の割方 は最初罎に疵をつけて置いて,線香の火で吹いて割る。それを又砥石で磨かせるというような 風であった。だから大抵の奴が嫌がって,2,3ケ月もたつと退学して居た。……ガラートマ ンの厳重な性質というと,たとえば製煉室内の罎には各紙片を貼って,それに内容物の名を表 記して置く規定であるが,この措置が1,2分おくれてもそれはやかましい。たった三水を入 れて持って来た罎にも札を貼り,名を記してないと,直にそれを棄てさせねば承知せぬ。これ は今の今私が持って来たばかりじゃといくら弁解してもなかなかきかぬ。すべてこんな風で,

極めて厳重に仕込まなくちゃいかぬといふ男じゃったから,一体東洋風殊に当時の書生風の粗 放な,杜撰な風習に染で居た学生は,このやかましやの先生には堪えられなかった。当時理化 学の講義は午後に通じてやったが,初めは珍らしいので聴講者も沢山であったけれど,段々聴 手が減って,しまいには僅かなものに成った。併し朝2時間の講釈の時は,精得館の寄宿生は 勿論,市中に下宿して居た生徒も大抵出席していた。……教師の回診の時には皆生徒がついて 廻った。……当時学んだ多くの学科の中には,随分酒屋の前を車で走ったやうな工合のものも

あったろうが,とにかく一通は皆習った積りじゃ」㈱と。

 ポンペの後任として文久2年(1862)に来たボードインは養生所,医学所に教えたが,彼は 主として生理学,解剖学,眼科学を講義した。彼に代ってマンスフェルトが来任した。先の池 田謙斎はマンスフェルトに対して,その教授法は又一段と厳格ではあったが,教え方は旨く,

彼に教わって始めて本当の医者に成れるかと思ったと述べている。

 以上は医学を主として述べて来たが,中に本草学も折込んで述べた積りである。但しも少し 此点に言及すれば,洋学より本草学に寄与したので目に立つのは西吉兵衛,吉雄俊蔵であろ

う。夫々に「諸国土産書」「和蘭草木略」の著がある。

は,天文学,地理学

 日本人が科学的天文暦学に眼醒めたのはいう迄もなく江戸時代からであった。それが切支丹 文化,西洋文化移植の一環としてゴあった事も言を侯たない。この点から言って長崎がやはり 或程度の先進性を持ったのは当然である。

 慶長11年(1606)林羅山が長崎で伴天連フーカンと会見し天文学に関する意見を交換した事 は彼の文集排耶蘇の一節に記載されているが,彼はフーカンの地球円形説を口を極めて否定し た。当時彼に限らず朱子の陰陽五行説を信奉していたので,か\る新説を俄に信ずべくもなか った。これは当時を物語る話柄として考えていいであろう。

 元和4年(1618),肥後の人,池田好運が蛮暦一冊を著したが,これは長崎遊学し,三人エ マヌエル・ゴンサロに学んだ結果であった。蛮暦の外に「元和航海書」も著しているが,これ らには天文・気象に関する文字が散見され,この面の知識が相当あった事が想見せられるとの 由である。㈱

 前述の儒者向井三升は万治3年(1660)本邦最初の西洋天文学の醗訳書たる乾坤弁説を著し

ている。この書は寛永年間筑前に漂着した伴天連,伊太利人ジューゼッペ・キアラ(岡本三右

       一7一

(8)

衛門)の携え来った天文書を例のフェレイラ沢野忠庵が訳し,それを元升が醗訳したものであ るが,特にこの書中,第八世界円相細事に説かれている地動説,地遅霜は著名である。然し元 成は中国天文学を以て南蛮天文学説に反駁している所を見るとその知識の程も偲ばれる。

 長崎の天文学者として逸してならぬのは林吉右衛門である。彼は天文地理暦法に精通してい たが切支丹信奉者として捕縛せられ,遂に正保3年(1646)刑死するに至った。併し彼には多

くの弟子がいたのでその種子は杜絶する事はなかった。弟子に,小林謙貞,小野昌碩,吉村長 蔵,胡麻屋了益,朝日玄義,本山作左衛門,金屋孫右衛門,三島吉左衛門らがいたからであ る。こ\を見てもこの面の教育の形態が語学のそれと同様であった事が知られる。長崎先民伝 巻之上にも小林義信の父久兵,国禁にふれた林先生を家に養い,以って信が師とす,信,日 夜孜々として問い学び,解く。 「先生郷に講授す,弟子梢多し」 (前記の)小野,吉村,胡麻 屋,朝日,本山,金屋,三島,小林等「倶に林生に事え,象緯の学を伝う。当時同門紅血,多 からずと為さず……」㈱とあるのはその一端と見倣してよいであろう。

 弟子中,小林謙貞が高足で最も優れていたらしい。その為か師林氏の事件に連坐し下獄する 事となった。21年の牢獄生活の後禁鋼を許されたのが寛文7年(1667)であった。彼は時の奉 行に愛顧せられ,門人も多く従事した。謙貞は暦の月蝕の誤りを訂正し,その予言が適中した 事もあった。二儀略などの述作がある。

 謙貞の弟子に関庄三郎,盧庄左衛門,その子艸碩,西川如見らがあった。就中,有名なのは 盧氏と如見であった。前述の如く里庄左衛門,艸碩父子は謙貞に学んだが,艸碩の子艸拙は謙 貞の高弟関に学んで言わばこの3代は南蛮天文学で以って知られた。この例を以ってしても家 学形式が成立していた事が知られよう。然し全国的に著:名なのは西川如見に指を屈せねばなる

まい。

 如見は沢野忠庵,林吉右衛門,小林面面に就いて蘭学,天文学を学んだ。彼の名が知られてい た事は時の将軍吉宗に謁見,下間された事からも覗い知る事が出来よう。彼のこの面の著述と しては,両立集説,天文義論等があるが,「座論は彼の西洋天文学説とも云うべきであろ う。」㈲然し彼の学説は中国の天文学に西洋のそれを加味したものであったらしく㈲当時中根 元圭の向うを張るとは言っても元圭には遠く及ばなかったと評されている。㈱一体天文学の基 礎の一つに数学の力が伴わねばならぬという事が言われようが,此点から考えると錦見も盧 氏,将又当時の当地天文学者が数学に通暁していたとはいい難く,その点も望見に限らず当時 の天文学関係者全体に通じて言える事であった。

 以上の外,農書の子忠次郎,父の跡を継ぎ,天経或問訓点,大略天文目録の著述あり,幕府 の天文御用を勤め,蘭通詞今村市兵衛,天文学を心得,向井元升の子元成は当地で北極を測定

した。

 又通詞の中でも吉雄幸作,松村文綱,本木栄之進,志筑忠雄らは熱心に西洋の天文学を研究

した。特に本木と志筑はその優なるものであった。本木は「太陽窮理了解説」で我国で始めて

地動説を唱え,・「和蘭天文学は此の人に創まると謂ってもよく」㈱,天地二球用法,太陽距離

(9)

暦解,日月圭和解,二天儀用法等の著作がある。又吉雄との共著「阿蘭陀永続暦和解」もあ る。二品忠雄は弁説不得手の為,通詞の子として生れたに拘らず本木に就き天文学を専修した が,頗る創意に富んでいた点㈱から当地では第一に彼に指を屈すべきであろう。

 志筑は天明2年(1782)「万国管窺」でニュートンの学説にふれ,ついで発表した「暦象新 書」では二品説を述べた。この説はラプラース,カントの星雲説と大差がなく,江戸時代帝国 斯学の誇りともいうべきであろう。㈹荒木俊馬氏によれば,ラプラスの説は志筑より遅く,カ ントのそれは早いが,種々の点からカントの説が当時の長崎に伝わったとは毫も考えられず,

彼の独創的見解である事は疑を容れない㈲と述べている。天文学のみでなく,彼は「四維図 説」 「八円儀測量法」 「三回提要」等も著わし,数学,物理学でも注目に価する仕事を残し た。私は本研究調査班員の一人である中西啓氏より同氏の所有にか、る暦法新書正続,弘化4 年版を見せて貰った事がある。志筑には高弟,末次忠助があり,蘭学,数学,物理,殊に天文 学に詳しかった。

 訳官家に生れた吉雄常三も天文学に通じ,「西説観象図説」を著わした。

 天文に関係の深い地理学は開港地であった土地柄だけに深い関心が持たれた。長崎の生んだ 地理学者としては先の西川如見が最:も著名であり,彼の著に「華夷通商考」「日本水歯面」等 があり,彼以外には本木良英,上面忠雄,吉雄忠次郎があり,夫々「和蘭地理略説」「万国管 閾」「諸厄利亜人情志」の著述があった。

に,兵学,造船術

 兵学といえば古い所では享保年間2回に亘って来朝したケイルズがある。彼は享保10年(17 25)来日して馬術を吉宗に供覧したが,同12年再渡来の際は出島で通詞 今村氏,奉行所関係者 に馬術を教えた。岡

 所で前述したような事情で,幕末国内外情勢は俄然急迫するに至り,幕府も海軍伝習の必要 を痛感するに至った。幕府がその決意をしたのも時勢の急転もさる事乍ら,蘭政府の援助,海 軍伝習に関する出島蘭館長ドンケル・クルチウスの忠告と軍艦ヘデイの艦将ファビュスの意見 が要路の人々の心を動かしたからに外ならない。幕府は海軍創設を決意すると共に,その伝習 方を長崎に設ける事となり,教師の派遣を和蘭政府に要請した。

 安政2年(1855)蘭軍艦2隻入港し,招聰した海軍教官も渡来した。2隻の中1隻はスーム ピングと呼び,之を和蘭国王が我政府に寄贈したので,受領し観光丸と名付け練習艦とした。

かくて海軍伝習方をこ\に設ける事となり,奉行所の西役所が教場に充てられた。永井玄番頭 が在崎して総指揮に当り,勝麟太郎,矢田堀景蔵,永正享次郎が伝習生書記掛に任ぜられた。

伝習生には幕府から37名,佐賀(46人),福岡(28,以下人は略),鹿児島(16),萩(15),

津(12),熊本(5),福山(4),掛川(1)の諸藩から129名が派遣せられ,その外讃

岐,塩飽島から水夫が募集された。藩士の中に川村純義,佐野常民,五代友厚,中牟田倉之助

らがあった。伝習所の学科目は航海術,運用術,造船学,砲術,船舶学,測量術,算術,機関

学,地理学,築城学,騎馬調練,砲術調練等で,午前8時から午後4時迄がその授業時間であ

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(10)

つた。教師は1等士官(航海術,運用術)ベルヌ・ライケン,2等士官(造船学,砲術)ス・

ガラウエン,2等士官(船具学,測量術)エーグ,2等士官(算術)デ・ヨングで,通訳とし ては楢林栄左衛門,西吉十郎,本木昌造らが当った。

 当時入所していた勝海舟の追想文,中牟田倉之助の伝記よりその情況を一瞥してみよう。

「海舟座談」には伝習所では一々奉行,目付と其下役とが取締ってうるさくそれを彼一流のや り方で退治たと述べ,「伝習所には30人も居たよ。(筆者注,正確には37人)夫は幕府から遣 わされたものサ。溶々から来たものは,傍聴するので,中には願を出したものは質問もした。

夫等はヲゴツタものサ。佐野が其の頭取だっけ。毎日8時から10時,2時から4時と2度つつ 学科があって,学科が6つサ。航海,測量,帆前船,算術,地理,天文と云うような工合サ。

夫が,教師がボールドにかくのを,通訳が反訳するのさ。筆記もさせない,暗諦サ。そして翌 日は前日のを聞くのだ。夫で30人の中で,出来る者は少ない。ソコデ年長のものなどは変っ て,若かいものになった。そして筆記をさせることになった。ワシは2ケ月程もすると,話し

も出来るようになった。聞くことは前から出来た。かわりの時に,己は頭取にせられて,任せ ると云うことになった。奉行が書生の取締を八女しくしていけない。」と語っている。㈱

 後年の子爵中牟田の伝記は上記「海舟座談」と重なる所もあるが,その記述は具体的で詳細 でもあるので再び引用しよう。彼は安政3年佐賀藩の藩命により同所に入所しているが,その 頃同然より同所に遊学していた人としては,佐野常民,田口忠蔵,岡鹿之助らがいたという。

暫く彼の言う事を聞こう。

 勝麟太郎は伝習生の一人にして同時に副督学を兼ねたり。大広間の一室に卓子と腰掛とを排 列し,面素前列に位し,各藩は背後にあり。蘭人の教官壇上に立ち,蘭語を以って講義すれば 通詞之を通訳し,学生をして筆記せしむ。午前8時に課業を開き午後4時に終る。随時伝習艦 に就きて運用の動作,速力の加減,帆具,網具の操作等の実習を行う。之には筆記を許さず。

制度は此の如くなりしも通訳なければ互に言語を理解せざるにより,教官は教示に苦しみ,生 徒は暗講に苦しみ,嚢には昌平蟹にありて才名を馳せたる矢田堀景蔵,塚本恩命等の如き駿足 の士も今は刻苦精励して尚且頻りに困頓するを漏る\能わざりき。況してや他の年少の子弟を や。2,3ケ月の間,彼等は殆んど前途に光明を認めるに由なかりき。(中略)栄寿左衛門は 年歯35才にして,学生諸子よりも14,5才の年長者なるを以て能く統督の任を尽し,傍諸科を 渉猟して知見を広あたりき。加之佐賀藩は正規の課業の外,特に運用術教師ベルスレイキに数 学の予習,温習の董督を嘱したれば,彼は自ら諸生を率いて放課後,出島に行きベルスレイキ の寓に就いて指導を受けしめたりき。と。㈱

 尚中牟田倉之助の実話として伝記は次の事も伝えている。

「自分が少し他と異ったと思うことは,数学に趣味を有ったことである。武士というものは…

…算盤勘定は町人の事として賎んでをるから一層下手になるのである。自分は存外左様でなか

った。長崎で自分の学んだのは航海術で……これには数学の知識が必要であった。・…・数学の

教科書は外国から多く渡って来ない。且又頗る高価なので我々は容易に手に入れる事が出来な

(11)

い。それ故自分は蘭人教師の退出するを窺い,一歩先に門外に出て之を待合せ,次の課業日迄 に返却する約束でその数学書を借受け,下宿に持帰って頻りに写した。」……㈲

 尚歯の家には以下の伝習筆記の稿本が残されていたとの事である。算術稽古反故,航海書,

運用書,和蘭稽古反故,算術伝習録,航海術伝習録,同稽古反故,数理術伝習録,航海書伝習 録,メートコンスト・ゴ旧藩メトリー,船具伝習録,点窟伝習録,航海伝習録,書記度学伝習 録,算術伝習録,図学伝習録。

  grond beginselen der beshryrende meet hurst, Tuig Iyst van de Kotter,

 beginselen der Stelkunst door rC.1. Kempees memoran dum door den jengdi−

 zen zeeofficier, mann−Tafels, yak−almanak door Desima,ユ859

 大砲調練伝習録,航海表,航海問答,口出術則,軍艦内則,蘭語辞書等である。㈲

 唯此処で注意せねばならぬのは伝習所の飽迄主とする所は幕府派遣の学生であった為に,藩 生は実地教授の際は練習艦観光丸に同乗するに止って航海練習の際は同乗出来なかったという 区別があった事である。㈲

 造船学の研究は机上の説明だけでは不充分とあって安政3年(1856)大波止に沿う海岸を苛 め造船所とし,1年余をかけて長さ15間,容積500石の汽船1隻を建造したという㈲此事は後

で詳述する。

 安政4年(1857)此地に於ける海軍伝習が一先ず終了したので,幕府は第1期生を卒業さ せ,観光丸を江戸に廻航させる事とし,学業不充分の学生は長崎に残し,その数は江戸から 補充増加する事にした。ベルス・ライケンは日本人による単独航海は危険である等で反対した が,幕府はそれを強行し,江戸に軍艦教授所を開いた。

 一方幕府は海軍伝習開始して聞もなく,和蘭に対し第2次海軍伝習派遣隊の選抜を依頼し,

和蘭も亦ライケン面心教師達と交代させるべくカッテンディーケを中心としハルデス,トロー エン,ウィッヘルス,ポンペ等37名の新教師団を決定していた。それが実現を見たのは同4年 のことである。同年幕府から製造方面頼めあったヤッパン号にそれら教師達は同乗して渡来し てより言わばこ\での第2次の海軍伝習が開始された。

 先ず木村図書が永井玄番頭の後任となり,和蘭教官の希望によって勝麟太郎は長崎に留り,

新しい伝習生の世話をする事となった。新伝習生は25名,それに旧伝習生中,肥前,伊勢,薩 摩,筑前等の学生が再び伝習に参加したが,学生数は第1次の時より多かった。

 学科は綱索取扱,地文学(カッテンディーケ),艦砲術,造船,艦砲練習(トローエン),

運転術,数学,代数,操帆術(ウィツヘルス),算術(ウムフローベ),蒸気機関学(ハルデ ス),この外,前述の如き医学(ポンペ),馬術(メーストル),歩兵操練,艦上操練,白 帆,蘭語等があった。医学は出島で教授された事は前述の通り,馬術は稲佐郷,砲術は平戸小 屋で実演された。㈲

 所で以上の如く見て来ると第1次伝習と第2次伝習とではその学科目など此んど大差ないと

も考えられるが,それでも学科目は豊富さを加え,そのやり方も徹底して来ていると見てもい

      一11一

(12)

いのではあるまいか。例えば学科目が増加している事は新教科目として築城,馬術,地理学,

蘭語など行われている事に明白であろう。教育が徹底した事は航海実習が大規模化した事に窺 え,又造船実習の実践化に於て考えられる。前者は成臨丸による航海実習が長崎港内外から壱 岐,対馬,五島,九州一周・…・というようにスケールの大きいものになっている如きである。

後者についてはハルデスによる製鉄所,造船所建設が実現している。この後者の事に就いては 後で三々詳しく言及してみよう。

 話を元に戻し幕府が和蘭に向け発注していたエド号が建造され安政5年(1858)入津した。

二二を幕府は朝陽丸と改称して練習艦と為し,先の成臨丸を江戸に廻航した。翌6年には勝は 朝陽丸に同乗して江戸に去り,長崎伝習方中止が幕府より下された。此処で5年に亘った海軍 伝習も終止符を打つ事とはなった。

 筆者は先に造船実習の為に製鉄所,造船所が誕生したかのように述べたが,無論製鉄所,造 船所はそれらの為許りに設けられたのではない。それらが設けられたのは寧ろ蒸気機械修理等 の為にその建設の必要が考えられたのであって,造船実習はその結果の産物として生じたもの であるというべきであるかも知れない。

 ともあれ,軍艦あり,海軍術の練習を開始す,随って必要なるものは造船の業を学び,且軍 艦修理の用に供する工場なり,藪に於てか長崎製鉄所設立の議起ると㈹三菱長崎造船所史は述 べているが,海軍伝習の瑚,機械修理,造船練習の為,造船所建設の必要から製鉄所,造船所 が建設された事は明らかである。

 安政2年(1855),前記の永井玄番頭幕府の許可を得て,前述の事情から製鉄所用器具機械 等の購入と教師の招聰を之も前述のファビュスに依頼した。所が同3年(1856)招聴した教師 が発注した機械類と共に到着したので,時の長崎奉行若尾石見守,水野筑後守の2人は幕府に 伺った上で飽浦に製鉄所を建設した。その建設工事は三人ハルデスが首として担当し,翌4年

(1857)着手した。鋳鉄所の上棟式を行い,長崎製鉄所と改称したのが万延元年(1860),工 事完成したのが翌文久元年であるが,其間我国最初の汽船,喰浦形を新造するという事もあっ たが竣工迄は実は平穏無事ではなかった。ハルデス以下の官舎,諸機械類保存の為の仮舎,伝 習の為の校舎,鍛鉄所,江戸よりの鋳物師の為の宿舎等々急を迫る建設の諸費用は長崎会所の 上納金を遙かに上廻り,その上蘭入よりの船渠建設の建議,観光丸の修覆迄背負わされる恰好 になり,為に鋳物製造所に湿て鉄器及び銅器類を製造して其利益を之に充てんとしたが,思う 程利益が上らなかった事もあり,落成後,諸藩の需めに応じ大小数種の砲磁を製造した事もあ

る。

 因みに文久年中,立神郷に軍艦製造所を新設する計画があった二等も付記せねばならない。

同所はその計画で海面を埋立てたが,文久3年(1863)神戸に海軍操練局軍艦製造局を設置す

べしとの命があって飽浦製鉄所も亦神戸操練:局に付属する事となって,元治元年(1864)軍艦

製造所を造船場と改称し,其工事に着手したが,幕府時代竣工するに至らなかった。今の長崎

三菱造船所の前身は即ちこれである。以上述べた所が長崎製鉄所,造船所設置迄の概要であ

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る。ではその組織,教育の概要はどうであるか,以下その点を一瞥しよう。

 製鉄所は御雇蘭人として教師ハルデス,機械方アーケン,同テス』イト,輔三二ヤンセン,

同ビュルゲル,同ハーフインキ,鎗子職ウエルデブール,鍛冶職マイソル,銅細工職ワイエン フルーク,木型職フエルテカンフ,造罐職アンデレースを抱え,工場の設備には鍛冶場,工作 場,鋳鉄場,蘭人住居等を含み,邦人役員としては御役所現認頭山本惣次郎外, 6名があっ た。立神の軍艦製造所は御雇教師14名,邦人関係者5名を抱え,造船工場用器械類を含んでい た。㈲

 造船術伝習と言えば先に海軍伝習所の項で一年余かけて汽船を作ったと述べたのが実は其最 初に当る。日本近世造船所史によれば,海軍伝習の際,「其教科目の一つとして造船学を置 き,教師スガロウをして之を担任せしめたり。㈲而して造船受理を実地に会得せしめんが忌め,

コトル船1隻を大波止付近の海岸に於て製造せり,是れ我国に於ける正式造船教育の嗜矢と す」というが正しくその通りであろう。スガロウはス・ガラウェンの事であろう。

 次いで長崎製鉄所に於ても造船伝習が行われた事を述べねばなるまい。之も先に述べた安政 4年(1857)新造した硬朝嵐完成が其例に当るであろう。「当時は長崎以外に造船工場なかり しを以って有志者の此地に来りて技術を学びしもの多し。かくて和蘭人は我国造船教育に少か らざる貢献をなせり」㈲「真に造船術練習所とも称すべきものは却って実際の工場に存し,之 によりて我国造船技術者の種子を播けり。其の中に就きて安政4年(1857)汽船を製造したる 長崎製鉄所を以って其最初のものとす。」㈲という先の造船所史の言はよく其問の消息を説明

したものと言えよう。事実その成果は文久2年(1862)石川島で軍艦千田代形を建造した時に 現われ,この時,設計,工事監督に当ったのは長崎伝習生出身の,小野友五郎,春山弁蔵,沢 太郎左衛門,肥田浜五郎,赤松大三郎等であった㈱という。

 上記の色々の事に関連してカツテンディーケの一文があるので問題を考える一助にあげてお きたい。彼は上記の如く第2次海軍伝習の際の和蘭側の統率者であったが,その言には仲々暗 示に富むものを含んでいるとも考えられる。

 「生徒のほうも皆年齢が長じてから始めて勉強するのであるから,一と通りの苦労ではなか

ったと思われる。私には何を標準に生徒の選抜をするのか,よくは呑み込めなかった。日本当

局はあまり生徒の能力といったものには頓着しないで,たゴ門閥がものを言い,一切を決定す

るらしいから,どんなに馬鹿らしくても,どうにも仕様がない。……私の信ずるところによれ

ば,いわゆる海軍軍人に仕立てられるこれら生徒の大部分は,たゴ江戸に帰ってから,立身出

世するための足場として,この海軍教育を選んだに過ぎないのだ。そこで私は当局に対し,真

の海軍将校を作るためには,14・5才の少年を養成するのがよいと勧めたことが一再ではなか

った。我々は40人の旗本出身の生徒に,あらゆる航海学の教育を施したが,これら将来士官に

任用せらるべき運命にある人々は,少くとも何事も大綱だけは,一と通り教わっておくべき筈

なのに,いつも「拙者は運転の技術を教わっているが操練はやらない』とか,あるいは『拙

者は砲術,造船および馬術を学んでいるのだ』という風で,勝手気儘な考えで勉強しているの

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だ。…・・これらの科目の授業および練習は,日本の制度によってたゾ役を帯びる武士と,その 子供および家来だけに限っ七許され,一般市民は絶対に授業を受ける事を許されなかった。…

…幕府は江戸に講…武所を設けて,第1回の長崎海軍伝習所生徒を教官となし,・一・5,又は600回 忌青年に海軍教育を授けているのに,それを1度も私に知らせたことがなかった。」「こ\に 一つ難問題がある。それは日本人は果して,この一切のものがどうなって行かねばならぬか,

よく弁えているかどうかである。・…・彼等がまだハッキリと認識を持っていないことは,彼等 の質問からもそれが察せられるのであって,教育班の人々にも,何だか力抜けを覚えさせるよ うである。……もっとも砲術,帆走ならびに陸上では騎兵や歩兵の教練は目覚ましい成績を挙 げており,また船大工,製帆工,鍛冶工など,立派な職人を作り上げているが,何といっても 一番成績のよいのは機関士の教育である。算術などもかなり上手にできるようになっていた。

 ・・ポンペ氏の教育は……これは確かに多大の貢献をした。しかし代数や運転術,つまり一言 にしていえば理学に関する学課はまず語学の十分な力のある通辞が,自ら十分に研究し知って いて,教官の意志を間違なく生徒に伝えるというのでなければ,到底教育の効果は期待し得ら れない。然るにその肝腎の通辞が非常に不足している。学課の数は教官の数に応じて,勢い増 加せざるを得なかったが,何分にも通詞の不足によって断られることが屡々あった。そこで私 は無味乾燥な理学の原則を教えたところで,生徒の興味をそ\りはしないだろうと思った。私 はドンケル・クルチウス氏の要求もあったので25名ないし30名の生徒を集めて1組を作り,こ れは先生がオランダ語と算術を教えたが,その成績は頗る良好であった。残念なことに出島に 火事があった後,幕府はこの教育を中絶してしまった。大体において,日本人はなかなか努力 したと言える。しかし私が他の手本と成って貰うため,大いに努力して貰いたいと思ったその 人々,すなわち海軍士官たちが,かえって私を最も失望させた。彼等の任務はまた最もむずか

しくもあった。

 実地造船術は既に長足の進歩をとげていたが,つまるところ,これは私の前任者(ライケ ン)が4力年もの間日本に居住していた非常に熟練な棟梁をば教師に雇ったという,人選宜し きを得た結果である。……騎馬の練習に熱心なのもよいが,多少それが海軍教育に対する熱意 を冷めさせる嫌いがあったので,私はそれを防ぐため,できるだけしばしば帆船をもって,港 の内外に練習航海をした。……艦砲及び陸上砲の射撃練習もやった。驚くべき事には,日本人 はスクーネル二成臨丸の艦砲を以って,その射的場にうまく着弾させる事ができた。それは全

くトロイエン氏の功績に帰せねばならない。」㈲

  「要するに幕府がオランダ海軍派遣隊の指導の下に海軍士官の養成を志す,採用した制度

は,全部欠陥だらけであるという一言に尽きる。私の信ずる例を旧記なく言うならば,大抵の

学生はたゴ将来立身出世に役立たしめたいために,何か一般的知識を身に付けたいという目的

だけで長崎へやってきたに過ぎない。たゴ少数の者だけが海軍で身を立てる覚悟で来たのであ

った。しかし私は決して彼等が教育を受けて,何の益にもならなかったとはいわない。むしろ

彼等が何でもよく理解し,又旺盛な記憶力にも恵まれているその天稟の才を以って,せっかく

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覚えた知識を,更に一層拡充し,科学の修練を積まんことをこそ望む次第であるが,或は今日 までの教育が海軍士官としてよりも,教育者の養成に役立つような結果となりはしないかを怪 しむ。果して然らばまことに遺憾なことである。」㈲

 丁一体ヨーロッパ人とは殆んど無交渉に暮し,海軍々人に関する科学は全然知らず,また軍 人精神も彼等の風俗習慣とは全然違っていることを知らないような国民が,僅か4年間に戦斗 海軍を創設しようなどと望むのがそもそもあまり欲が深かすぎるともいえる。しかし彼等はそ ればかりの短期間に4隻の蒸気船を以って,何の故障もなく多大の効果を収めて自ら満足し,

今後は外国人の助力を借りずともやって行けると思うまでに上達した事に対して,寧ろ驚嘆せ ずにはいられない。」㈹以上カッテンディーケの一文は兵学,造船伝習の教育の効果と,その 面に於ける本邦人の長所と共に欠陥をよく描写している文章と考える。敢て長文を引用じた所 以である。

ほ,物理,化学,数学

 物理,化学,数学に関しては上記の所で随所触れて来たのであるが此処では補記し乍ら纒め てみたい。

 天明,寛政の頃,独創的学者,,志筑忠雄がいた事は前述したが,彼は「西洋究理書」「求力 論」「暦象新書」を著し,力学,光学等の説を紹介し,地動説,空気,水,比重,重力,光及 微粒子等を論じている事働は注目すべきであろう。其後,馬場佐十郎は「究理摘要」をものし ている。

 安政年間ファンデン・ブルックは当地教育界で活躍した事は既述の通りで医学の外,物理 学,化学,機械二等広い範囲に亘って教導した。彼は物理,化学の権威でもあり㈹,その造詣 が深い事は和蘭通詞仲間でも評判になり,長崎奉行所も品川藤兵衛,西慶太郎,本木昌造,楢 林栄左衛門,塩谷種三郎,吉雄圭斎6名へ化学,物理,測量,算術,石炭坑,1鉄製造方を手分 けして彼より学習すべき事を命じた程であった。㈲

 次いで医学教育の際.ポンペの指導で化学,物理の教育が行なわれた事は少しく触れたが,

も少し詳しく言うと次の通りである。

 物理学のクラスは学生40名で,その4分の1は幕府派遣学生,他は諸藩学生であった。教 授:時間は1週間に3度,午前9時より1時二半で,彼は物理学の応用をし切りに説いたとい

う。㈲この事に関し古賀十二郎氏は次の如く評する。学生の物理学に於ける進歩は著しいもの があったが,彼等が算術,代数,数学などの初等教育を旧いた事はその研究に大きな障害とな った。しかしその障害に打勝つ努力を彼等は行なったと。㈲当った言であろう。化学の学生は 物理のそれと大差なかった。ただ化学では理論を実験により説明する事は設備不充分で大いに 不便を感じた。又諸地方より分析の依頼があると,ポンペは学生の面前でそれを分析して見せ た。㈲

 次で第1,2次の海軍伝習,又造船伝習で代数学が学習された事も前述したが,それが多少

の成果を挙げた事は中牟田倉之助の実話,カッテンディーケの評からも想像される。

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 最後に慶応2年(1866)ハラタマの着任と共に精得館付属の分析窮理所が開講され,当初受 講者100余名であったものが,種々の理由から4,5名に激減して了つた事は前述した所であ る。翌3年ハラタマも江戸の開成所理化教師に転勤した為同所も殆んど閉鎖同様となって了つ た。㈲

 以上洋学関係を語学,医学・本草学,天文・地理学,兵学・造船術,物理・化学・数学に大 別して夫々述べて来たが,では一体それらは当地の社会,文化,経済体制を如何に反映し,又 それらは当地に如何なる効果,影響を及ぼしたであろうか。

 語学,医学,本草学,天文,地理学,兵学,造船術,物理学,数学等々総じて洋学全体,何 れも港町長崎ならでは生み出され得なかったであろうような事為りである。沼田次郎氏も言う ように長崎は東方の窓,鎖国の窓であり㈲,此処は言わば日本全国の憧れの的,好奇心の対象 であり,有名な文人,墨客,学者,画家等は当地に旅行する事を今日の洋行位に考えていた㈹

のである。かく窓として占める長崎の位置がいわばそれらの異質的西洋文化を移入せしめたと 言えよう。そしてその窓を利用せんとしたのが学者,文人,画家等所謂当時のインテリ層だけ に限らず,幕府,諸藩自体が又そうであった事はいう迄もない。而も又既述のように唯一の貿 易都市,港町という町の開放的性格,市民の自治,直入層の拾頭等の現象からそれらの言わば 異質的とも思われる文化が移入されて来る際に他の都市ならば恐らく生じるであろうような支 障,抵抗にも出会わなかった点も考えねばならぬであろう。

 所で上記の西洋諸文化が全国はもとより長崎にも大きな影響を及ぼした事はいう迄もない。

勿論これらの文化に関係したのは長崎にせよ,全国全土のにせよエリート達であり,エリート に影響を及ぼし,彼等を媒介にして全国に影響を及ぼしたのであるが,何れにせよその効果,

反響は無視しえぬものがあった事は確実である。

 先ず語学が日本蘭学発達に貢献したか測り知られぬものがあろう。周知のように語学は後に 至ると江戸その他に取って代わられた恰好となり,一時長崎の通詞達は「大いに口惜しがった と言われるが」,「何といっても語学の本場は長崎」であり,例えば江戸の蘭学も元を質せば 全く長崎で学んだものであったのである。㈹之は語学のみに限らず言わねばならぬ事である が,語学を始め種々の西洋文化はただ日本の蘭学の発達のみでなく,日本そのものの発展,日 本の体質改善に資した事を考えねばならぬであろう。

 従来漢法医学のみに眼を向けて来た我国人士にとって実証的に人体を見て行く西洋医学の出 現は全く青天の審震の如きショックを与えたに相違ない。それは単に人体の構造や病因,その 治療という事に限らず,人生観,世界観をも転回せしめる体のものであったに相違あるまい。

そう言えば天文学上の地動説にしても然り,それに限らず,物理,化学,数学にして又然り,

兵学,造船伝習にしてもその面の技術の改善という事に限らず,延いては科学的精神の啓培,

日本の近代化に資した事は否定しようにも否定出来ぬ厳然たる事実である。

 以上は日本全土に与えた影響の概略だとして,それが地元の長崎に与えた影響,効果はどう

であったか。

(17)

 この三二にも述べたように当地にも大きな影響を及ぼした事は言うに及ばないであろう。之 も既述のように長崎の土地柄の開放的性格,寛容的性格と市民の自治,自由,富商層の拾頭等 と結び合せて考えるといわば地元の長崎はその誘い水を持っていたし,それを受入れる素地を 又持っていたと考えられる。そう考えると尚更上記の事が考えられるのである。併し一方謙っ てそれが精神の深層に如何程反響を呼起したか考えると,P仲々簡単に云い切れぬものがある事 を感じるのである。

 第一,それに携わり関係した人々は一部の限られた人々ではなかったか。通詞とたかだか奉 行関係者,それに有志のみではなかったか。中西啓氏の指摘によると,例えば通詞,蘭医家と もにその家学を世襲的,秘伝的なものとして第三者に窺わしめず秘し,而もその多くは同族的 結婚をさえ行なってその血統の広がるのを恐れたという。秘伝的家学,学問というあり方はそ れが外部第三者に広まるのを防ぐ作用を及ぼしたであろうし,同族的結婚はその一族内部の身 体的不毛を来し,それが延いてはその一族の家学の断絶を招来したとも考えられ,何れにして も学問的不毛を来した事は或る例外を除き否むべくもない事である。それ許りでない,通詞は 例外として,それら文化に携った人々の中,当地出身者が割合少なかったという事も問題にな ろう。前述のように,当地には潜在している基督教世界観,又顕在している中国儒教イデオロ ギーの存在,之等に無視しえぬものがある。従って上記の西洋新思想から必然的に生い立たね ばならなかったそれ特有の世界観,人生観,宇宙観,又合理的精神,科学的精神がエリートを 含め長崎義士全体に深刻な反響,効果をおし及ぼしたとは速断出来ぬものがあるのである。か くいえばとて無論それの当地市民の人間形成に及ぼした影響がなかった等というのではない。

確かにその影響はあったのであり中には志筑忠雄,西川如見の如き独創的人物を生まなかった 訳でもなく,寧ろ先にも述べたように長崎人は基督教的世界観,人生観と儒教的それ,西洋先 進物質文化のそれ,この三つ巴を描いた渦中でその人間形成が行なわれたのであり,洋学系統 の前記諸文化は言わばその一翼を担う体のものでもあったのである。然しそれだとしても上述 の疑問を筆者は拭い去る事は出来ない。極端に言えば長崎は全国に西洋先進文化の種子をばら 蒔く紹介地,媒介地の役目をこそ果せ,そのもの自体にはそれらの精神の芽ばえ,定着がその 地元である程には行なわれなかったと言えなくもないであろう。宮本又次氏は「九州社会経済 の史的考察」という一文で,先進的と後進的,進歩と停滞・・…そういうものの併立とアンバラ ンスが九州の社会,経済,文化の中では見られ,それは現代迄続いていると言われ,そこでは

「進歩的,先進的なものが現われてもそれが深く根を下して育たない。育たない中に中央に移 ってしまって,寧ろそこですごやかに成長する。こういう事が云えるようである」㈱と見て居 られているが,この表現は今の場合長崎の諸相にも当はめられる事ではないかと思う。

  そ の 他

 以上に落ちたものを掴えるのがこのその他の項なのであるが,此処では紙面の都合などから その中の主なるもののみ述べてみたいと思う。

 「日本陶甕史」によると,甕山(一名亀山)焼は長崎,伊良林郷の桓根山に窯を作り,大神

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甚五平が友人3名と共に文化元年(1804)頃二人向けの水がめ製造を始めたのに胚胎し,利潤 薄かった事から他の者が転業し,残った甚五平が独力で志を新にし同11年頃三三の製造を始め たのに始まるという。時人がその窯所を甕山とも瓶山とも呼んでいたので彼は其の甕,瓶の字 を亀に換えて自己の作品を亀山焼として売出した由である。尚同史によると同焼は2代目に至

り,呉須の上等なものが中国より来なくなり,有田辺で亀山焼の銘を入れた偽物を多く持える ようになったので,其後同焼の声価も下落し遂には廃絶するに至ったという。㈱此処の廃止の 辺りの説明を九州産業発達史は有田の磁法に倣い,天草の陶土を用いて支那焼を模し,天保年 間に至って支那蘇州の陶土を用いて酒器類を造っていたが,其後衰微して全く廃絶していると 述べている。㈲その説明の何れが高なるか,筆者にその面の専門的知識もなく,又只今その研 究の時間的余裕もないので廃絶の模様はこれ位で止ある外はない。同産業史によると他(佐 賀)県下ではあるが,大川内焼,有田焼に於ては江戸期夫々次の如くであったという。前者で は藩営の御細工所で役人監督の下で製陶が行なわれ,細工人,窯焚,下働計47人がそれに当っ た。藩窯職人は「必ずしも世襲ではなく,民窯より良工が抜擢せられる事あり,技術拙劣の職 人は罷免せらるる定」であり,職人は一定数の製品の献上の義務があり,不合格品の隠匿,製 陶技術の漏洩は厳罰に処しそれらの保護を図った由である。後者では初めは生産工程の間には 職業的分化はなかったが,何時の頃からか分化が行なわれ,中でも「本窯業者は上中下3等級 あり,上等の分は職人を抱え,中等の分は2,3の家工を有し,下等の分は時に応じて雇い入 るるを常としていた。之等の職人には細工人と画工との別があり其本窯業者に対する関係は主 従若くは組頭,組子の如き関係にあった。」㈹というのである。之等と同産業史に載せる三河 内濠,上波佐見窯の記事と併せ見ると,甕山焼関係の徒弟教育の文献がない為,明白に言い得 ないとしてもそれに似たものがあったろう事は推察出来る。或は一子相伝的なものであったか も知れぬ。以下述べる諸産業等に於ても大体同様の事が言える。筆者は最近,江崎臨甲店,平 石時計店,カステーラ菓舗松翁軒を探訪したが,之等特産品店の文書,口伝に得られた徒弟教 育も明治以前は必ずしも明瞭でなく,推察の域を出なかった。明治以後の場合は比較的に詳細 であるが之は後に譲る事とする。

 江崎家を訪ねる以前,中西啓氏より同家に伝わる古文書類は随分あるが,只今整理中で当分

披見する事は種々の事情で困難であるとの忠告を得たので,江崎栄一氏に逢い二言による聞込

みのみに止あた。「元来宗旨改踏絵帖」その他の文献によると同家が減ったのは宝永6年(17

09)で,江戸期唯一の貿易港であった当地で唐船によって二二原料を容易に輸入出来た為,竈

甲特有の斑紋のある美甲に着目し鵠甲製造販売業に従事し㈲,現在の6代栄造氏,7代栄一氏

に至っている。当店は本邦竈甲製造輸出の噛矢をもなし,後述する所からも技術上の工夫が種

々なされた事も推察され,明治以後現在に至る迄続いている徒弟教育の目的,内容,方法,名

人気質というか,仕事に熱中するという家憲に当るものがある等の同氏の話から考えて,当家

でも職入を養成するにふさわしい教育が古くから行なわれた事が想像される。筆者の考える所

では未整理の文書の中に入門帳等の資料があるものと見ている。

参照

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