﹁﹃産業革命﹄という概念は︑イギリス経済史上の一時期を
指示するものとして一般に認められるようになって来た︒そ
れが今日のように広く用いられるようになったのは︑トイン
ビが自分の講義の題目として使用してからであるが︑この講
義案は︵彼の死後の︶一八八四年出版されることとなった︒
またそれが経済学上の文献に確乎たる地位を占めたのは︑そ
れから二十二年後に︑フランスの学者マントゥーが︑その入
念且つ内容豊富な論著に同じような表題を用いたことによる
のである︒勿論この言葉の最初の使用が︑疑いもなくトイン
ピに始まるというのではない︒彼より数年前に︑当時非常な
注意をひいた﹃石炭問題﹄という著書の中で︑ジェヴォンズ
は︑﹃十八世紀の著者たちは増大しつつある負債について最
も暗い見通しをもっていたが︑唯一つ彼らが誤っていたの
歴史
に
おける連続性の問題
I産業革命論を中心としてI
は︑当時進行しつつあった産業革命を軽視していたことであ
る﹄と注意しているし︑またジェヴォンズ以前にさえ多くの
著者が同じように記述された言葉を用いていたことは殆んど
︵○J︶疑いを容れ難い︒然しトインビが対象とした時期の出来事
が︑実際﹃革命﹄の名に値いする程徹底的且つ急激な変化で
あったという考え方をはっきり理解させるようになったの
は︑彼がこの言葉を用いたからである︒トィンピやマントゥ
︵⑨己︶−が用いた言葉については︑何ら誤は見出せない﹂︒
アシュリが産業革命について述べている右のような見解
は︑最早や何の疑いもない定説かのように通常教科書風の概
︵Q⑫︶説書に多く述べられているところである︒
然しながら︑今日の産業革命に対する研究の成果は︑必ず
しも吾々をして何らの反省もなくその儘これを受けいれるこ
とを許さないかのようである︒それは宛かもプラムも︑﹁最
近産業革命という言葉は非常に非難されるようになって来
西井克己
48
︵a恐︶た﹂と吾々に教える如くである︒吾国においても︑五島茂氏
は戦前の︑また矢口孝次郎氏は戦後における世界のトインビ
説批判を中心とした産業革命研究の動向をそれぞれ雑誌に詳
︵Ru︶細に紹介し︑鈴木成高氏︑小松芳喬氏らまた各々著書などに
︵︽○︶よってそれらについて言及しておられるが︑これらによって
も吾々は︑そのことの更に重要さを痛感させられる許りであ
る︒而して問題の所在は︑畢寛するところ︑その連続性如何
にあるかのようである︒
私は素よりイギリス経済史については全く無知に等しい者
である︒而もこの問題についても︑殊に矢口孝次郎氏の論文
について示唆せられること最も多く︑私の努力の大半も同氏
紹介の原典に再び目を通すことに注がれたかの観さえある
が︑若し私なりの提起の仕方や論旨の運び方の中にも︑たと
い解明など借越なことは到底思いも及ばないとはいえ︑私も
亦かねて久しく関心を寄せつつある歴史的発展における量
と質︑連続と切断の関係︑ないしは歴史学の客観性とその限
界など︑広く歴史学一般の基本問題にも繋がるものが些少な
りとも秘んでいるとすれば倖せである︒
︵1︶既にエンゲルス︑J・S・ミル︑マルロ︑マルクスなどによって用いられていることは︑マントゥーも第一版への序論の脚註で注意している︒
︵2︶三国画己さロ桝一自営の胃ロQ巨巽風里宛のぐ巳巨感︒旨冒寺匿の同侭冨の①昌彦
○の自首風雷弓崗画冒巴.ず望ぐ関口◎国.匡言胃ご己3m.FopgoP乞画P
己.画亟︒ 一一
ところで︑プラムのいうような産業革命という言葉に対す
る非難は︑一体どこから出たのであろうか︒吾々は先ず︑こ
のことについて最も精力的な発表をしているネフの見解紹介
から始めることにしよう︒
﹁イギリスには産業革命は一つでなく︑二つあった︒最初
の産業革命は︑一五三五年及び同三九年に行われた修道院の
解散につづく百年間に起ったものである﹂とその著﹁フラン
ス及びイギリスにおける産業と政治一五四○一六四○
︵2︶Pの三の鷺目置の因8画︒B旨○圖頤画昌の異さ邑具画自彊四口e雪冨昏
昏届ののロロ巳の旨の冒冨ご○冨冒の耐ず雪凄屋のPa因島﹃.Fo冒号厚
﹄の↑ぬ.己︒﹄埠一︒︵3︶尤もアシュリも﹁歴史学の進歩は︑最初は強調から広汎な一般化へ︑次で均整の調整を行いつつ限定に必要な重点をおくことにある︒このことがこの際特に必要なのは︑トインビやマントゥーにとって﹃十八世紀の産業革命﹄であったものが︑通俗化した人々に﹃産業革命﹄として認められている﹂と注意して
いる︒シ普后昌一opo岸.p匡F
︵4︶四口目頁因目哩四目Q冒書の国億三の①口昏○の冒冨昼︵雪匡1畠孟︶・
目壷の詞堅旨四国出勝さご呉両冒函毎回9の己風員.ご霊.p弓︒
︵5︶五島茂稿英吉利産業革命︑社会経済史学第十巻第十一・二号︑社会経済史学の発達下巻所収︑矢口孝次郎稿産業革命における連続性の問題一つの展望I社会経済史学第十八巻第五号所載︒︵6︶鈴木成高著産業革命弘文堂アテネ新書昭和二十五年︑小松芳喬著英国産業革命史一条書店昭和二十八年︒︵屯上︶l﹂の冒頭で述べるネフの見解は︑論文﹁イギリスにおける
︵ワ︶工芸学の進歩と大規模工業の発達一五四○︲︲一六四○l﹂
にょって更に詳細に知られる︒即ち彼の主張の要点となる︾べ
きものは次のようなものである︒
﹁アーノルド・トインビが五十年前オックスフォードであ
の有名な講義を行ってから︑革命的性格を多分にもった﹃産
業革命﹄という概念から出発して︑一層綿密な研究がなされ
て来た︒︵然し︶恐らく一七六○年から一八三二年にいたる
時期に関しての当初の考に対する修正は︑産業技術や組織の
変化とか︑規模について程︑どこでもそれほど突き進んで徹
底的には行われなかった︒問題はここにある︒二︑三十人︑
時には数十ないし数百人にも上る労働者を雇っている︑国の
保護を受けていない私営資本家達の所有する産業施設は︑嘗
て考えられていたように新規なものではなかった︒こうした
意味での大規模産業は︑十八世紀中葉を遡って見ても︑鉱業
や各種製造部門で見られたことを示す証拠が︑次から次へと
積承累ねられて来たのである︒⁝⁝若しトインビが生存して
おり︑﹃産業革命﹄に対するいくつもの批判に答えたとすれ
ば︑彼はその短い生涯に影響を与えたと思われるマコーリの
あの有名な第三章の文章︑十八世紀中葉頃経済的進歩は驚く
ほど急激だったを援用して自己の立場を守ったかも知れな
い︒然しこれが果してイギリス史での産業発達の著しい急速
化の最初の時期であったのであろうか︒もっと以前に︑少く とも変化の速度がそれに劣らず著しかった一時期があったという意見が有力となって来ている︒この時期は修道院の解散雁始まり︑産業の発達は︑エリザベス治世の後半︑ジェームズ一世の治世に最も急速になって来ている︒当時活動し始めた急速な変化の勢は︑十七世紀及び十八世紀初期を通じて続いていたが︑シェークスピア生存時代と同じ速さに再び回復するには︑十八世紀後半をまつまでもなかった︒かかる産業の歴史についての見解に対する賛成意見は︑ワァズワァース氏やマン夫人の木棉織物業に関する優れた研究書の中に見られる︒そこで示唆されているように︑仲介人の念入りな組織網の拡張は:.⁝十六世紀末︑十七世紀始余りにも著しいので︑産業州ランカシャーの様相の変化は︑その州が木棉製造部門の﹃革命﹄の典型的な場所となった一七六○一八三二年間に劣らず重要であった︒十六世紀中頃に始まる石炭︑塩︑ガラス︑船舶などの生産において非常に大きな膨脹が見られたという証拠︑及び他に明碆︑石鹸︑火薬︑金属製品並びに装飾品のような多くの工業品生産への著しい増大の証拠が︑石炭産業に関する私の研究書にも見られるであろう︒国民経済における鉱業及び製造業の重要性の増大については︑十六世紀中頃から内乱にかけての間は︑十八世紀中葉から第一回選挙法改正の間と︑その急激さにおいて何ら劣るところがないように思われる︒他の最近の幾つかの研究は︑エリザ
ベス時代に始まった産業の急速な成長︑及び家内工業組織の
50
重要さ︑複雑さの著しい増大は︑産業技術並びに企業規模に
おける同様の著しい変化によって伴われていたことを明かに
しているように思われる︒︵而して︶三種類の技術的発展が︑
一五四○一六四○年間の大規模産業の発達を助けた︒先ず
宗教改革以前にはイギリスで地歩を占めること殆んど困難で
あった一連の資本主義的産業の導入である︒第二は旧来の産
業へ︑以前に大陸のある地方でとくに知られていたがイギリ
スでは余り使用されてはいなかった種々の技術過程の導入で
︵画︾︶ある︒第三は新らしい技術方法の発明及び適用である﹂︒かく
﹁十六世紀最後の六十年間にこれらあらゆる製造業が導入せ
られたことは︑産業資本主義の成長に全く新らしい分野を開
︵β経︶いた﹂が︑﹁エリザベス期に始まる顕著な技術の変化並びに
資本の集中は︑直接十八世紀末及び十九世紀の急速な産業の
進歩に通じていたcイギリスにおける工業制度の勃興は︑十
六世紀の中頃まで遡ると共に︑十九世紀末頃の産業状態の最
終的勝利にまで降る永い過程と見る方が︑十八世紀末及び十
九世紀初期と結びついた突発的現象として見るよりも︑より
︵巨四︶妥当と考えられる﹂と説き来ったネフは︑最後に︑﹁産業資本
主義の継続的な急激な発展は︑イギリスでは最も永い期間に
亘って現われたから︑﹃産業革命﹄の概念は︑イギリスにお
ける産業文明の勝利の説明には特に不適当のように見える︒
産業革命の概念は︑他の如何なる諸国よりも︑全然といって
いい程もっと継続的である時︑その過程は特に突然行われた ︵︽⑥︶ような印象を与えるからである﹂と述べ︑この論文を結んで
いる︒
なおネフは︑他の論文では先の論文で問題とした一五四○
一六四○年のイギリス産業の大きな発展を﹁初期イギリス
︵句I︶産業革命﹂ともよんでいるが︑産業革命に対する彼の一貫し
た論旨は︑要するに︑その長期間に亘る連続性の資料的実証
に基づく産業革命の概念に対する蔽い難い疑義の開陳である
ことは明かであろう︒而もそれが立論の最も主な根拠とする
ところは︑技術の導入︑発明に基づく各分野に及ぶ大規模産
業の勃興並びに資本の著しい集中が︑遠く遡って一五四○
一六四○年に歴然と認められるからであるとするこというまでもない︒この間彼の論述の中には︑資本主義という社会構
成に関する概念も見られない訳ではないが︑然し私の見た三
論著の中には︑特に彼の資本主義に対する深い分析の跡は素
より︑大規模産業と資本の集中による資本主義機構への影響
の考察も殆んど認められず︑同時に用いられている工業制度
と左程異った用法とは思われないようであることをここに注
意することは︑今後の問題展開上無意義ではあるまい︒
ネフが︑技術の導入による大規模工業の発達と資本の集中
をもって特徴づけられるような産業革命︑ないし産業革命的
なものの発展の跡を十六世紀半ばまで遡ろうとする者とすれ
ば︑彼の右二論文の編者で自らの論文もそれに収録している
ケアラス・ウィルソンは︑更に遥か遡ってこれを十三世紀に
︵R︾︶まで探れようとし︑また鈴木成高氏は逆に現代にまで下降せ
︵Q︾︶しめようとするが︑年代設定に差はあれ︑何れも産業革命の
連続性支持の立場にあることはいうまでもない︒
ケアラス・ウィルソンの論文の主旨は︑畢寛﹁十三世紀イ
ギリスには初期毛織物業に一つの衰退が見られたと一般に考
えられてはいる﹂が︑然しそれは﹁都市の記録だけがこれに
関連して探究せられた﹂結果によるもので︑﹁田舎の記録も
また実際当時の産業史に多くの光明を投ずるものであり︑両
者を結合して考察するならば︑この世紀が産業的に一つの著
しい発展を遂げたことは明白であり⁝⁝事実それは科学的発
見や技術上の変化による一種の産業革命であることを立証し
︵︑︶ている﹂と主張するところにあるかのようであるが︑その論
拠となるものは︑彼が毛織物工業の第四過程とする縮絨の機
︵皿︶械化ただ一つであり︑而もここでは縮絨機が主として教俗領
主の経営に基づいて動いていることが併せ留意されなければ
︵池︶ならない︒またたといその間︑都市工業の衰退と農村工業の
︵過︶著しい膨脹など産業の中心の推移も見られたとはいえ︑ここ
でも亦彼の十三世紀における産業革命主張には生産技術上の
変化偏重の感は免れず︑否その立論が縮絨機ただ一つの究明
に終っているにすぎないところに︑一層その感を深くせざる
をえない︒私にはケアラス・ウィルソンの論文は最も説得力
の弱いもののように読承とられたが︑ネフ説よりも遙かに遡
って産業革命発展の跡づけを試玖ようとしたものとして︑兎 も角注目させられた︒
これに反し︑﹁産業革命はまだ終っておらない︑というこ
とは重要ではないだろうか︒・・⁝.いまだ完了せざる革命︑否
永遠に終なき革命︑それが十八世紀以来︑人類の歴史にはじ
まっている産業革命というものの根本性格なのではないだろ
うか︒⁝⁝産業革命の性格がもしそういうものだとするなら
ば︑われわれの慣用しているこの概念こそは︑歴史そのもの
の進展とともに︑たえず再把握されその内容を新たにしてい
︵鰹︶かねばならない動的な概念なのではないだろうか﹂と提言す
る鈴木成高氏の所説は︑﹁十八世紀末の英国に産業革命がは
じまった﹂とする点︑また﹁それは二つの点において革命的
な意味をもった︒まず第一にそれは近代資本主義生産におけ
る工場制度を確立した︒⁝⁝第二に零産業革命は機械の出現
に劃されるものとされている︒換言すればそれは︑生産手段
︵嘔︶の︑器具から機械への転換として理解せられている﹂とする
など︑年代設定に通説よりの遡及が見られず︑また必ずしも
技術偏重ではなく︑社会機構への深い洞察も窺われて︑前二
者の立場と甚だしい隔りがあるかのようである︒事実吾々
は︑氏の著書の重要部分の一つをなす﹁第二章イギリスの産
業革命﹂の分析は︑﹁産業革命が技術革命であるといわれる
とき︑それは学問の革命ではなく︑社会の革命であるという
︵嘘︶ことが意味せられているのである﹂との観点にたって貫かれ
ているのを知ることが出来る︒
52
然らば︑それにも拘らず︑産業革命は未だ終らずとして現
代への連続性を強調する点に︑等しく連続説に繋がるものを
もっているのは何故だろうか︒氏の立論の根拠となる﹁第三
章第二次産業革命﹂を読む者は︑恐らく先の第二章を読んでえ
た印象と︑その理論構成︑論述の運び方について甚だしい差
異のあることを感ずるに相違ないcそれは寧ろ異質的かとさ
え思わしめるほどであるが︑そのよって来る所以は︑氏が第
一次産業革命には妥当した﹁産業革命史は科学史でなく社会
史であるという命題﹂を﹁過度に一般化するとぎ︑われわれ
は第二次産業革命というものにたいする根本的な認識不足に
︵Ⅳ︶陥らざるをえないであろう﹂と考えられたからであろう︒氏
はまた﹁二十世紀において︑アメリカは先進国でありイギリ
スはすでに後進国にまで転落した︒この変化が国運の隆替と
いうだけのものでなく︑世界史の質的転換を意味するもので
あるこというまでもない︒そしてこの世界史的転換こそは︑
まさに第二次産業革命がもたらした結果にほかならない︒嘗
て第一次産業革命はイギリスにヴィクトリア期の繁栄をもた
らし︑また近世を通じての世界史の特徴であったョ−ロッ・ハ
の優越に︑その頂点を劃した︒しかるに第二の新しき産業革
命は⁝⁝アメリカとソ連という欧州外の世界の新しき優越を
もたらしたのである︒⁝⁝それは産業革命自体が一つの新た
なる質的転換を遂げたことにもとづく︒いわば石炭の時代が
去って石油の時代が現われ︑蒸気の時代が去って電気の時代 ︵畑︶が現われた結果であるといえる︒﹂従って﹁第二次産業革命は︑第一次産業革命のような急激さをもって︑生産組織を変革し︑生産関係を革命化したわけではなかった﹂ため︑﹁第二次産業革命は第一次革命に矛盾なく連続し﹂︑両者の間に﹁年
︵四︶代的な一線をひくということは⁝⁝実は不可能にちかい﹂と
も説かれているが︑氏の論理からすれば︑素より当然の帰結
ともいえよう︒
私は今巧承に展開され来った氏の所説の一々について触れ
る考えは毛頭ないただここでも︑連続性を主張する人々の
立場に共通するものは︑矢張り社会構造との関連軽視か無視
による生産技術上の発展︑従って生産力の発達の承への異常
なまでの重視にあることを認めざるをえない︒
矢口孝次郎氏は︑リプソンも連続説に鑿がる人として紹介
︵︶し︑小松芳喬氏はアシュトン亦トインビ説の積極的支持では
︵瓢︶ないと注意される︒
私がリプソンについて読んだのはその最も新しい著﹁イギ
︵理︶リス社会の発達﹂だけであって︑必ずしもその全貌を知るこ
とは出来ないが︑﹁若し吾々が︑諸発明は突如としてイギリ
スの社会を変革し新しい社会秩序を誕生せしめたとの︵産業
革命に対する︶伝説を破るならば︑吾々は少くともその代り
にゞ︑機械の変化は歴史的発展のコースに副った自然な発達︑
即ち幾世紀に亘る健実な成長の絶頂として現われたという︑
︵羽︶もっと合理的な解釈をおきかえることが出来る﹂とか︑﹁ア
−クライト︑ワット︑スティーヴソソン︑その他多くの人々
の名と不可分離な著名な発明は︑そ氷に先立つ二世紀以上に
︵型︶及ぶ産業上の永い経験の絶頂ともいうべきものであった﹂と
の見解の中には︑確かにそれを裏書きするものが認められ
る︒然し仔細にこれを読むならば︑トインビなどの説く如
く︑いわゆる産業革命を矢張り一つの絶頂期として何らかの
意義を見出している点に︑ネフ以下の人々の説とは必ずしも
同一ではないといいうるのではなかろうか︒﹁この著書の中
で論じている﹃産業革命﹄についての解釈は︑諸発明の劃期
的な状態を軽視するものではない﹂︒ただ﹁諸発明に先立つ
経済的発展の程度を過少評価するような誤った見解に基づく
︵弱︶その意義の誇張や歪曲をしてはならない﹂などの彼の叙述の
ニュアンスからも︑若しそこに私の単なる速断ではなく若干
の正当さがあるとすれば︑その一つは︑確かにネフらとは異
り︑リプソンの同著二一七頁以下に見られるような諸発明に
伴うイギリス社会への影響に対する極めて深く且つ広汎に亘
︵妬︶る洞察の態度とは全く無関係とは到底思われ難い︒
またアシュトンの︑﹁かかる一連の変化が﹃産業革命﹄と
よばるべきか否かについては︑いくらでも論議せられるかも
知れない︒即ちかかる変化は︑単に﹃産業上﹄だけではなく︑
社会的且つ思想上の変化でもあった︒また﹃革命﹄という言
葉は︑変化の急激を意味するが︑それは実際経済的過程の特
徴とはならないものである︒また資本主義と瘻々よばれる人 間関係は︑その起原を遠く一七六○年以前にもち︑且つそれが更に完成は一八三○年以後のことに属した︒従ってここに噂連続性の重要な事実を見逃す危険がある︒然し︑﹃産業革命﹄という語法は幾人もの歴史家によって伝統的に用いられ来ったし︑日常会話の中にも深く根を下しているので︑今更それに代るべき語法を用い出すのは・ヘダンティックというべ
︵︺きものであろう﹂との主張の中にも︑産業革命の連続説に対
する細心の考慮は確かに察しうるが︑ネフなどのような連続
性の積極的主張とは決していいえず︑寧ろ連続説を契機とし
た自己批判を経てのトインビ説肯定と見る方が︑より正当の
ように思われる︒それは︑﹁すでに十八世紀の人々は︑イギ
リスの産業の進歩は︑単に﹃発達﹄とか︑﹃発展﹄とかいう
言葉で表現するには︑あまりにも急速であるように思われ
た︒そこで﹃産業革命﹄という新語が︑フランスの著述家ア
︵記︶ルジャンソン侯によって作り出されたのである﹂とのアシュ
トンの﹁日本版への序﹂の中で更に明かに窺いうるようであ
るが︑ここでもリプソン同様︑いなそれ以上に技術的革新よ
り進んで︑社会経済各汎に一旦る思盧が払われていることが注
目されねばならない︒﹁ジョージ三世の即位からその子ウィ
リアム四世の即位にいたる短い期間に︑イギリスの様相は一
変した︒幾世紀もの間︑開放耕地として耕作されるか共同牧
地として放任されていた土地は︑すっかり囲いこまれてしま
った︒小さな村は人口豊かな都市に成長し⁝⁝公道が建設さ
54
れた︒⁝⁝北海やアイルランド海や⁝⁝諸河川の航行可能の
部分は︑互いに運河の網で結びつけられた︒北部では新しい
機関車のために最初の鉄道が敷かれ︑蒸気船が河口や海峡に通い始めた︒それと平行して︑社会の構造にも変化が起っ
た︒人口の著しい増大⁝⁝人口密度の重心の東南部から北部
及びミッドランドヘの移行・・・⁝農村に育った男女の工場にお
ける労働力の単位化⁝⁝それと同時に原料の新しい資源の開
発︑新市場の開拓︑新しい取引手段の案出⁝⁝資本の量と流
動性の増大⁝⁝銀行制度の誕生︑多くの古い特権や独占の排
除⁝⁝かくて人々は過去よりも未来に眼を注ぎ始め︑社会生
︵羽︶活の本質や目的に対する彼らの考え方は変ってしまった﹂と
﹁第一章序説﹂で説く態度が︑彼の著書を貫く態度なのであ
る︒
以上私は産業革命の連続説を若干紹介しつつ︑また素より
それぞれ視角は異にしながら︑それらが共通の主張となりえ
たのには︑何かそこに論旨展開の仕方において相通ずるもの
があるからではないかを尋ねようとしたが︑然し未だ必ずし
もその当否を問題とした訳ではない︒だが果してかかる連続
説が正しいか否かを知るためには︑先ず産業革命とは一体何
を意味するのかを明確にする必要があろう︒蓋し︑産業革命
の概念内容を厳密︑明快に規定せずして︑それが連続を主張
したり︑また否定したとしても︑決して建設的論争︑問題の
具体的発展にはなりえないからである︒従って吾々は︑ネフ などが批判の対象としたトインピ︑マントゥーなどが︑産業革命を実際如何なるもととして把握したかをも知るべきである︒
︵1︶z①騨冒回巨異国四口︒の◎ぐ寓目国の具言蜀3回8四画ロ両国頤毎回g
孟全I畠色.FopQoP電雪.ロF
︵2︶zの的周彦の甸吋◎ぬ愚のゆ︒冷弓の︒彦旨gom望画邑邑寺壷の⑦g言菩◎閑F閏胴?の8行冒房言ご旨の吊騨国凰冨旨や温きI届き.なおこの論文は︑目富国8昌昌o震の8国詞①急の急.ぐ﹄︵乞筐︶に褐
●載せられたが︑のち○胃易三匙g員漂圏蔚言因89冒局函重︒ご・冒呂目ゞ毛呂.に収録された︒拙稿の頁数は後者に
よる︒
︵3︶zの鴬︒ロ︒笄.○胃匡のと勇涜◎員opo夢ロロ雷I雪.
︵4︶z①功OPO写○関屋のIご塞涜︒p−opo罫pのP
︵5︶z①津opo夢○胃匡のIご冨后op−opo罫回二回
︵6︶zの鴬opo言○関口二三房◎目麺opo夢ロこ式
︵7︶zの勇宅昼︒①四国色盲邑匡異国里○画凰冨﹄勝己旨田圃目︒①四国回
国冒哩四三.ぶちI孟色.この論文も目富国89且︒雪印sご胃菖2﹃・言.画︵乞雪︶に掲載せられたが︑前論文同様○画旨い︲三房︒鴬8.鼻.に収録されている︒ここで示す頁数も後者による︒p匡吟
︵8︶○禺匡イ三富厨︒冒一渥口旨口巨騨凰巴詞のぐ︒旨威○口呉昏の弓冨鼻①①ロ菩
○①口冨埼湧○閏巨のIご霞涜◎貝固めの画昌印旨因︒︒自白員︒出騎さご・圏○口POP
﹄⑲回画︒︵9︶鈴木成高著産業革命弘文堂アテネ新書昭和二十五年︒︵川︶岳冒の︲二言o員8.塁.ロ全.
︵皿︶○画目のI雲誇︒貝8.鼻.ロ全.
︽皿︶○画目三建切◎員○℃.︒夢も.罎司.己︑9.℃.堅・
︵咽︶g日切〜童詩o員8.号.p認.︵M︶鈴木成高著前掲書﹁序﹂一頁︒︵帽︶鈴木成高箸前掲書一八一九頁︒
55
一一一
周知の如く︑かく多彩な論争の起点となったトィンビの著
書﹁イギリスにおける十八世紀の産業革命についての講義﹂
は︑彼の死後︑彼自身の本講義に関するノート及び他の聴講
者のノートを参照にしつつ︑アシュリ及びボルトン・キング
両人の優れたノートを基にして一八八八年出版せられたもの
︵毛且︶であることは︑トインピ夫人も述べている通りである︒而も
これらは︑もともと﹁出版を考えての形で残されたものでは ︵脇︶鈴木成高著前掲書二一頁︑なお五四︑六○頁参照︒︵Ⅳ︶鈴木成高著前掲書二五頁︒︵肥︶鈴木成高著前掲書一六一七頁︒︵畑︶鈴木成高箸前掲書一六八七九頁︒︵別︶矢口孝次郎稿産業革命における連続性の問題一つの展望l社会経済史学第十八巻第五号二○頁以下︒︵別︶小松芳喬著英国産業革命史一条書店昭和二十八年七頁︒︵勉︶屋cmo員弓豈の︒g急言昌国自哩勝彦の︒gのど.画目Q因島↓︐FopQo目.
﹄の︒﹄︒
︵邪︶巨己g員︒?︒琴ロ孟要︵別︶F巷8胃8.o津.pご学
︵妬︶屋ロのo員︒po罫軍画誘.︵邪︶匡己g目○回︒夢ロ匿蔚︒
︵町︶シの茸○国亜目壷の旨Q巨騨風巴罰①ぐ巳昌ざご.雪91届き.目彦①
国自国の己冒ご閏凰ごぽぎ国ご呉冨︒α関口属国o急行・ぬの.F○口go国
﹄ぬ画一︒己.画︒︵邪︶アシュトン著中川敬一郎訳産業革命岩波現代叢書昭和二十八年日本版への序一頁︒
︵鮒︶津呂さ員︒ロ︒笄.でロ﹄IP なく⁝⁝ノートその儘の姿で残されていたものであり︑殊に
︵ワ︶後半の講義は前半よりも不完全なものであった﹂とされる︒
また﹁彼の本来の自然な発表方法は︑著作よりは講義の方で
あった﹂ことなどから︑﹁完全ということを愛すること類い
稀﹂だった夫を想い︑夫人が﹁出版を非常に檮曙﹂さえした
︵@⑫︶程のものであった︒本書を通読して私も些かその感なぎをえ
ないが︑兎もあれ吾々は︑先ず彼の著書に直接ついて産業革
命に対する理解の仕方を探れて見よう︒
﹁以下の講義の主題は︑十八世紀終から十九世紀始にかけ
ての工業並びに農業革命についてである︒それは次の三部分
にわかたれる︒第一部はアダム・スミスとその時代に関する
ものである︒それは産業革命の前夜におけるイギリス︑及び
一七六○年存在していた産業規制並びに保護制度について述
べられる︒それはまたアダム・スミスの著書の概略︑その目
的と性格︑殊に自由貿易についてのスミスの理論について説
明する︒第二部はマルサスの労作を中心として論ずるが︑マ
ルサスは富の原因よりは貧困について︑富の生産よりは寧ろ
富の分配について多く取扱っている︒ここでは産業革命の真
只中にあるイギリスについて述べ︑且つ貧困の問題及びそれ
と関連した主題を検討しようと思う︒第三部はリヵードの名
と結びつくもので︑平和の時代のイギリスと関連するものである︒またここでは経済的発展についての若干の理論と共に
地代や賃銀の教説について論議されるし︑当時非常に騒ぎた
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てられた通貨の問題︑及び平和の次に来った通商並びに金融
︵△坐︶上の変化の歴史についても論ぜられる﹂と︑その遺著の最も
主要部分を占める﹁第一篇産業革命﹂の冒頭で先ず意図を明
かにしようとした彼の講義内容は︑更に細分されて︑﹁序
論﹂︑.七六○年のイギリスー人口﹂︑三七六○年のイギリ
スー農業﹂︑﹁一七六○年のイギリスー製造業と通商﹂︑︒七
六○年のイギリスーョーマン層の没落﹂︑﹁一七六○年のイギ
リス︑賃銀労働者の状態﹂︑﹁重商主義とアダム・スミス﹂︑
﹁産業革命の主要な特徴﹂︑﹁貧困の増大﹂︑﹁マルサスと人口
法則﹂︑﹁賃銀基金説﹂︑﹁リカードと地代の増大﹂︑﹁経済的進
歩についての二つの説﹂︑﹁労働階級の将来﹂の十四章よりな
︵民︾︶るこというまでもないが︑彼の講義がかかる構成をもつ所以
は︑彼の眼には︑.七六○年のイギリス産業と今日のイギ
リス産業との間の対照は︑単に外的状態についての対照だけ
ではない︒この世紀間に︑生産の方法や組織の中に行われた
革命と並んで︑人間の経済的原則及び国家の個人企業に対す
︵︽b︶る態度の中にも︑それに劣らぬ激しい変化が起った﹂と映じ
たからである︒.七六○年のイギリスは︑なお非常に広汎
に︑細かく且つ雑多な産業規制の中世的制度下にあった︒こ
の制度は実際衰えたが︑然し未だ産業自由の近代的原則にと
︵6︶って代えられはしなかった﹂と思われた彼にとって︑﹁産業
革命の本質は︑競争が︑従来富の生産と分配とを支配してい
︵︒︒︶た中世的規制にとって代ったことである﹂と考えられたのも 当然であろうが︑然し彼の産業革命に対する考察は︑視野更に大︑且つ深く︑有機的関連をもって掘り下げられる︒
﹁産業革命の諸事実に接して吾々を驚かす最初の事実は︑
人口の増加を示す余りにも異常な急激さである︒⁝⁝次に吾
︵ハゴ︶々は︑農業人口の相対的且つ絶対的減少に注意しよう﹂とし
たトィンビは︑﹁農業革命は︑注意が常に多く向けられてい
る製業工業における革命がなしたと同じような大きな役割
を︑十八世紀の終の偉大な産業上の変化の中で演じた︒吾々
の考察は︑従って次の如きものでなければならない︒即ちこ
の農村人口の注目すべき減少に導いた農業上の諸変化とは︑
一体何かということである︒その内最も有力な三つの原因
は︑共同耕地制度の破壊︑共有地及び荒蕪地の非常に大規模
な囲込承︑及び小農地の大農地への統合である︒⁝⁝耕地の
統合は農民の数を減少し︑他方囲込承は労働者を土地から離
れしめた︒何故なら︑彼らにとって︑共有地における羊や篶
烏の飼育権を喪っては生存しえないからである︒然しこれら
の諸変化は︑農村人口に被害を与えたけれども︑疑いもなく
農業上の観点からは明かに改良を齋らした︒それは非科学的
︵︑︶耕作に代えるに科学的耕作が行われたことを意味する﹂と述
べる︒また﹁製造業へ眼を移すと︑吾々はここでは︑この時
代の機械上の諸発見の結果︑工場制度が家内制度にとって代
︵︑︶ったという顕著な事実を見出す︒四つの大きな発明が木綿工
雅の性格を変えてしまった︒⁝⁝︵恐らく︶これらの何れも
は︑それ自体工業を革命化はしなかったであろう︒然し一七
六九年⁝⁝ジェームズ・ワットが蒸気機関の特許権をとっ
た︒それから十六年後それが木綿工業に応用された︒..⁝・同
じ年アークライトの特許権は満期となった︒これら二つの事
実が一緒になって工場制度導入の機縁をつくったが︑それら
の内有名な発明で︑家内工業に致命的だったのは力織機であ
る︒⁝⁝他方鉄工業も同様に︑一七四○五○年の間に実用
に供された石炭による製錬法の発明︑及び一七八八年の蒸気
︵廻︶機関の熔鉱炉への応用によって革命化された﹂とも説く︒更
に﹁工場制度の一層の発達は︑機械にかかわりなく行われた
が︑それは商業の拡大に帰因している︒而も商業の拡大は︑
この時代に交通機関の中でなされた大きな躍進の結果であ
る︒運河制度が全国に亘って急激に発展しつつあった︒.⁝:
道路の非常な改良⁝⁝一八三○年の鉄道の開通⁝⁝これら改
善せられた交通機関は︑商業の非常な増進を齋らしたが︑商
品の充分な供給を確保するためには︑織工達を多数自分の周
囲に募集したり︑工場に織機を集めたり︑縦糸を自ら織工達
に渡すことが商人達の関心事となった︒この制度は︑職工達
にとっては︑独立から隷属への変化を意味した︒・・・⁝商業の
かかる拡張の他の直接的な結果は︑生産過剰と不況との規則
的な循環であった︒このような現象は古い制度の下では全く
︵週︶知られなかったものである﹂とも︑﹁これら富の生産におい
て変化した諸条件は︑分配の中でも同様な革命を内包してい た︒農業において顕著な事実は︑地代の非常な高騰があったということである︒⁝⁝然しながら︑その原因が何であれ︑それは大きな社会的変革のあったこと︑即ち政治力の均衡及び諸階級の相対的地位の変化を示した︒農業家達は地主の繁栄の分前にあづかつた︒何故なら︑彼らの多くは農場を有利な借地契約で保有し︑それで巨大な利益をあげたからである︒その結果︑彼らの性格は全く変ってしまった︒彼らは労働者と共に働いたり︑一緒に住むことを止め︑また別の階級となった︒⁝⁝その間︵農業︶労働者の状態へ及ぼしたこれらすべての農業上の諸変化の結果は︑正に正反対であり︑最も惨めなものであった︒彼らは高物価の全負担を感じていたが︑賃銀は低下し︑且つ共同権を喪った︒農業家と︵農業︶労働者との間の疎隔が始ったのはこの時期︑即ち今︵十九︶世紀の始からである︒︵他方︶製造工業の世界でも︑全く同様な現象が現われた︒大きな資本家的雇傭者は莫大な富をつくり︑彼ら自らは︑自分の工場の仕事には殆んど︑乃至は全く関与せず︑彼らの数百の労働者は︑個人的には彼らを知らない︒そしてその結果は︑親方と職人との関係は消え喪せて︑﹃金銭関係﹄が人間的結合にとって代った︒労働者達は
トレイド・ユニオン自分だけで団結し︑労働組合は共同生産者というよりは︑
寧ろ不倶戴天の敵対関係にあるかのように斗争し始めた︒⁝
⁝︵かく︶産業革命の諸結果は︑自由な競争は︑福祉を齋ら
すことなく富を生むものであることを証明した﹂とも論述を
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累ね来ったトインビは︑﹁産業革命の主要な特徴﹂の章を結
ぶに当って︑﹁産業革命の諸結果は︑自由な競争は福祉を齋
らすことなく︑富を生むものであることを実証した︒吾々は
すべて︑法律や団結によって自由競争が制限せられる以前に
︵鰹︶イギリスで起った恐怖を知っている﹂の章句をもってしてい
る︒
遺著として出版されたトインビの産業革命に対する叙述の
仕方が︑必ずしも充分とはいえなかったのは︑それが本来講
義案であったことからも当然であるが︑然し右に紹介した幾
つかの所説からも︑彼の産業革命把握の仕方︑ないし論点の
中心が︑連続説に拠る人々とは可成りの隔りがあることが窺
われよう︒連続説にたつ人々が︑主として技術上の革新や生
産規模の拡大︑即ち生産力の異常な増大に論駁の焦点を合
し︑いわば量的視野に多くたっているものとすれば︑それら
批判の第一対象となったトインビは︑生産力上の顕著な変化
への注意と同時に︑それに伴う社会経済組織または構造への
劃期的影響や変革に対する各汎に亘る深い観察の眼を注いで
︵喝︶いる︑即ち質的にも把えようとしているからである︒
このことは︑トインピに繋がるマントゥーについても略ご
同様なことがいえるのではなかろうか︒
﹁産業革命は︑歴史研究にとって大きな︑且つ部分的に厳
なお未開拓な分野を残している︒吾々は時にそれを踏承越え
たいと思うことさえあっても︑この研究のために明確な限界 を定めておくべきである︒従って地理的限界についていえば︑吾々はイギリスに限定した︒⁝⁝そこには従って年代的限界がある︒この歴史を天採で倒れる前に書き始めていたアーノルド・トインビは⁝⁝それを一七六○年に始め︑一八二○年ないし三○年まで筆を運ぼうと望んだ︒吾々は︑吾々にとって結論的と考えられる理由によって︑十九世紀初の数年で
︵妬︶終る方法をとった﹂とするマントゥーの立場は︑年代の下限
などにおいて若干の差異はあるけれども︑然し産業革命は十
八世紀後半から十九世紀の初に先ずイギリスに起り︑それが
︵︶﹁全世界における産業革命への端緒となった﹂ものとして︑
換言すれば一つの歴史的特殊現象として把えようとし︑そこ
に明かに歴史的区分を認めている点では︑トインビと基本的
に何ら異るところはない︒而して彼のかかる立論の拠り処と
なったものの要旨は︑その著の最後の﹁結語﹂の中で︑﹁吾
々が研究のために設定した時期が終る十九世紀の最初の十年
の頃には︑産業革命は完成には程遠かった︒機械の使用はな
お若干の産業に限定されていたし︑それらの産業でもある部
門やある地域に限られていた︒:.⁝それにも拘らず近代の産
業制度は︑その本質的特徴をすべて具えて既に存在していた
し︑またその頃起った発展の中で大きな変化の主要な特徴を
見出すことは可能である﹂︒これを﹁技術的観点からすると︑
産業革命は発明及び生産を早め且つ恒常的に増大することを
可能ならしめる諸工程の適用の中にある︒﹂⁝⁝経済的観点か
らすれば︑産業革命は資本の集中や大企業の成長によって特
徴づけられ︑それらの存在や活動は︑ただ例外的であったも
のから産業の正常状態にまでなるにいたった︒⁝⁝社会的観
点からすると︑産業革命は非常に広汎且つ深甚な結果を齋ら
したので︑それらを一つの短い一定形式に総括しようと試承
ることは︑吾々にとっては無思慮の識を免れまい︒政治革命
とは異って︑それは実際社会の法形態を変えたりはしない
が︑然しその実体そのものは修正した︒そして︑その進歩及
び相互の対立が吾々の時代を満している社会の諸階級を生ん
だのである﹂︒﹁十九世紀の初から工場制度の発達は凡ての者
に明かとなった︒それは既に物質的条件同様︑人口の分布に
も影響した︒その頃までは︑その地方の最も貧しい部分の内
に属すると考えられていたランカシャー︑南ウェールズ及び
スコットランドの低地方の一部のような諸地方の重要性と急
激な繁栄は︑工場制度によるものである︒土地財産の再分配
についで農村人口の工場への移住を早めたのも工場制度であ
る︒⁝⁝富と貧困との対照的な極端をもつことによって非常
に活気に溢れていたこれらの新しい中心地で︑今日吾々が知
︵麺︶っている数多くの社会問題の資料が既に記録されていた﹂と
纒められている︒
右によって吾々には︑マントゥーの産業革命論がトインピ
に強く繋がる許りか︑更にそれを入念且つ内容豊富に体系づ
けて一層発展せしめたものである所以の一つは︑確かに彼も 亦産業革命を単に産業上の量的発展の面においてだけ把えようとはせず︑それが質的転換の姿をも併せ綜合的に見ようとする歴史研究に対する立場の共通性にあること最早や明かであろう︒素よりマントゥーもまた︑産業革命の余りにも単純な切断説に対しては︑﹁この著書の中であげた事実の若干をあげることによって︑この観点からそこに革命はなかった︑同じ社会的階級が既に存在していたし︑彼らの対立は早くから始まり︑その性格や原因は常に同じように存在していた︑といい且つ示すことは容易なことであろう︒吾々がいつも念頭においている目的の一つは︑最も急激な諸変化にさえ︑その基礎となっている歴史的過程の継続を正確に示すことである︒これらの変化は︑奇蹟によってのように突如として起ったのではなく︑それらはそれぞれ実際起る前に期待され︑準備され︑下書きされていた︒これらの諸準備を過少評価することも︑ただ前兆的なものとして把えることも共に誤であろう︒吾々は機械の時代の前に機械の色々が︑工場の前にマニュファクチュアが︑産業資本主義や﹃工場労働者﹄の形成の
︵⑲︶前に団結やストライキのあったこと知っている﹂と細心の注
意を怠ってはいない︒それにも拘らず彼は︑﹁然し︑徐々に
動きつつある社会の大部分の中にあって︑新しい要素は直ち
にそれ自体感ぜられるものではない︒そして吾々はただそれ
が出現を注意すべきである許りか︑それが周辺との関係や︑
実際歴史の中で占めたス・ヘースをも示すべきである︒産業革
60
命は未発達の力の膨脹︑永年蔽われ且つ眠っていた種子の突
︵︶如たる成長と開花なのである﹂と︑そこに量より質への発展
を明かに注意し︑産業革命を飽くまでも歴史的概念としての
承理解しようとしているのである︒
アシュトンの見解については既に触れたところであるが︑
﹁普通産業革命の始期と考えられている一七六○年以前に︑
産業生活の速度が夙に永い期間に亘って変りつつあったこと
は事実とはいえ︑その当時の洞察力のない人々には︑このよ
うな速度をもった変化はイギリス社会の全性格及び構造に根
本的に影響したように思われた︒︵然し︶一七六○年と一七
九○年との間には︑古い世界と新しい世界の二つの世界があ
ったことは極めて明瞭なことであった︒この新しい世界は技
術的変化の産物であり︑また成功を確信していたが︑新しく
且つ従来とは異ったイギリスを生んだことは間違いなかっ
た︒またその過程も緩慢なものではありえなかった︒尤も︑
激烈で急激な変化に慣れている今日の吾々にとっては︑そ
の変化もあるいは緩慢に思われるかも知れないし︑勿論一八○○年︑否︑一八五○年においてさえ︑十六世紀及び十七
世紀の人々には日常的であったような生活様式をもった古
いイギリスの飛地があることが指摘されうる程である︒だ
が十八世紀後半の工業︑農業及び社会生活における諸変牝
は︑それに先立つ幾世紀かに比べると︑共に激烈且つ革命的
︵別︶なものであった﹂と述べるプラムや︑﹁産業革命を一回限り の変化としてよりは︑十九世紀よりも永くつづいた継続的な一連の変化として叙述しようとする多くの人々は︑この言葉を純粋に技術的革命と同義語に用いているように思われる︒そのような使い方をしたため︑彼らは産業の構造や︑或る一定の規準に達した技術上の変化の結果たる生産社会的関係に
︵︶おけるその特殊な意義を見喪ってしまった﹂︒だが実際︑﹁い
くつかの面におけるかかる形態変化は︑非常に決定的なもの
であったから︑それは経済革命の名を受けるだけの価値は充
分ある︒トインビのかかる変化に関する古典的叙述を制限す
るためにその後書かれたものの何れもは︑連続性の信奉者た
ちが望んでいたようなかかる名称の廃棄を正当づけるには充
分ではなかった︒革命という言葉を用いてよい理由は︑その
技術的変化の早さにあるよりは︑寧ろ技術的変化と産業及び
経済的︑社会的関係の構造との間の緊密な結合の中に︑また
新しい諸発明が後者に与えた広汎且つ重要な影響の中に秘ん
︵羽︶でいるのである﹂と説くドッブなど︑産業革命の連続性に充
分なる注意を払い︑自己批判を試ゑつつ︑なお且つそこに明
確に一線を劃しうるものありとして︑これを飽くまで歴史的
概念として把握せんとする人達の何れもに︑生産力への分析
にとどまらず︑生産関係の考察をも併せた歴史の綜合的ない
し構造的観察の態度を見出しうることは︑洵に興味あること
でなければならない︒
︵1︶○.富.目◎望冒すの2℃吊註さ吋雪zo誌.淫.目◎望ロヴの2F①9月の︑︒口
62
したかに向けられざるをえなかった︒而してそれが手懸り
は︑所詮彼らの論著そのものの中から求めらるべきはいうま
でもない︒
﹁私は上来︑労働者の物質的状態は︑今日の社会的条件の
下では改善されうることを示そうと試ゑて来た︒私はここで
は︑一八四六年以来実際行われた改善に役立った原因を説明
しようと思う︒これらの原因の中最も重要なものは自由貿易
であった︒:⁝・自由貿易以外にかかる改善を資らすのに役だ
ったのは︑他にどんな力であろうか︒工場立法は婦人や子供
の条件を労働時間の制限によって高めたが︑特に労働者の衞
Qrレオ0ド●ユニ孝剣ソ生環境は改善された︒⁝⁝労働組合はまた社会的及び産業
的混乱を避けるために大いに貢献したが︑労働者に組織や自
立によって自らに頼ることを教えた︒⁝⁝最後に吾々は︑偉
大な協同組合のことを述べるのを忘れてはならない︒.⁝..今
や吾々に最も深い関係のある問題は︑これら同じ原因が将来
においても作用するであろうかということである︒自由貿易
は依然として有益でありつづけるであろうか︒吾々の富は増
加︑貿易は拡大をしつづけるであろうか︒.⁝:この点につい
て︑労働者の前途は希望に満ちている︒移民についてもまた︑
少くとも次の五十年間は労働者への救済を阻害することにな
ろうと想像される如何なる理由も断じてない︒更に協同組苔
や生産的協同組合も︑将来に大きな進歩を遂げる見込承が何
れもある︒⁝⁝労働者の道徳的状態についていえば︑彼らの 物質的進歩よりも遙かに大きな改善を見出す︒再び労働者と雇傭の関係についていえば︑確かに非常に改善されている︒⁝⁝︵ただ︶そこに問題がなお残っているとすれば︑労働者のかかる政治的独立が物質的独立と結合しうるかということにある︒このことがなされるまでは︑労働者は常に雇傭者の自由になり⁝⁝雇傭主は実際労働者の投票を左右することに
︵ワ﹄︶よって労働者の政治力を無効にするかも知れない︒﹂要之︑
﹁吾々の目的は人口の大多数を改善することにある︒・・⁝.然
しかかる計画を論ずる際吾々は︑真の問題は︑労働者の状態
において如何にして若干の改善を行うべきかについてでは
なくI何故なら︑それは既に若干達成せられているから
I︑労働者の物質的独立を如何にして確保すべきかについ
︵処⑫︶てであることを銘記すべきである﹂︒従って﹁吾々が︑より
高い賃銀を要求しているのは︑未来に対する不安と不安定と
を︑より少からしめるために︑労働者階級を︑より純粋で︑
より価値ある生活に入らしめうるためにほかならない︒高賃
銀は彼らにとって究局目的どころではない︒吾々が労働者の
ためにそれを要求するのは︑ただ労働者が劣悪な唯物主義を
惹起せしめるような一切の金銭に対して夢中になることから
︵a詮︶解放されんことを願うからである﹂︒
右のトインビの所説によって吾々の直ちに感知しうること
は︑彼の産業革命研究の立脚点が人口の最大多数を占める労
働者階級の立場にあるということであろう︒吾々は彼の︑そ
の幸福を希って已まない労働者に対する限りなき愛情をそこ
に見出すことさえ出来るが︑彼の産業革命研究の問題意識も
ここに秘んでいるのではなかろうか︒
それは兎も角︑トインビは︑何故自ら抱いた問題解決の鍵
を経済学にではなく︑産業革命の歴史的研究を通して探れよ
うとしたのであろうか︒それは彼によって︑﹁経済学者によ
ってなされた見解の多くは︑抽象的な点で誤っている許り
か︑労働者の側から見れば最も有害なものである︒恐らく経
済学者によってなされた誤った見解の内最も顕著な例は︑賃
銀の率を決定する原因に関する説であろう︒⁝⁝その説と
は︑労働組合や他の組織によって自らの条件を改善しようと
する労働者の努力へ潮笑を投げかけようという如きものであ
る︒経済学者は︑労働組合は馬鹿げている︑そして恐らく不
可避な自然法則への悪い抵抗であると説いた︒︵政治︶経済
学者達は︑この点について大きな変説をしなければならなく
︵医J︶なっている﹂と非常な不信の念を抱かれた﹁イギリスで究明
された近代︵政治︶経済学の弱点は︑歴史から余りにも引離
されたところにある﹂ことが痛感せられると共に︑頁政治︶
経済学と歴史の二つの研究を結合することの中に二重の利益
がある︒先ず︵政治︶経済学はこの方法をとることによっ
て︑より良く理解せられる︒⁝・・・第二に︑歴史もまた︵政治︶
︵症0︶経済学との結合の中において︑よりよく理解せられる﹂と信
ぜられたからである︒かくて︑彼の講義案が拙稿第三節で既 ︵f︶に紹介したような構成をとった訳でもあるが︑トインビのかかる学問的意欲については︑同著に収録の一八九四年十一月星十七日︑トインビ・ホールで会員を前にして行われたミルナー卿の次のような追憶講演によって更に認識を新たにさせられる︒
﹁若し嘗て人類の奉仕に自己を使い果した者があるとすれ
ば︑それは正しくトインビであった﹂︒﹁然し人間への奉仕は
熱心と献身以上のものを必要とした︒当時︑即ち︵一八︶七
○年代の終頃︑たとい徐々にではあるが︑一方では労苦しつ
つある大衆の側における新しい要求︑他方に富裕な人々の側
における新しい責任観念というような大きな社会的動乱の徴
候が︑凡ゆる分野に見られた︒この際︑トインビは常に労働
者階級の切望に同情を寄せていた︒彼は彼らの物質的条件の
大改善の理想に燃えていたが︑それは実際それ自体目的とし
てではなく︑より高い生活の可能性を開くものとしてであっ
た︒然しその大まかな理想主義を絶えず矯正していた彼の実
際的な常識は︑彼をして︑かかる改善は知識なき情熱によっ
ては達成されえないことを認めしめた︒彼には精力と情熱は
豊富にあった・・必要なのは指導であった︒而してかかる指導
は︑富の生産と分配を支配する法則を研究し︑且つ競争と利
己心という盲目の力が共通の利益のために︑団体行動によっ
て如何にして︑またどれ程までに利用されるかを知っている
者からだけ得られたのである︒彼が︵政治︶経済学の研究に