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内山克己・増田史郎亮 1.ま え が き

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(1)

江戸中期以降明治三、四十年代に至る

      長崎に見る教育の発展

―(その一)―

内山克己・増田史郎亮

    1.ま  え  が  き

 一昨年来,日本ユネスコ国内委員会はユネスコの要請に応じ「日本の社会経済発達における教育の役割調 査研究」に従事しているが,筆者たち共同研究者はその調査の一端として長崎地区を分担し,第一期目標と して主として,明治初期における長崎市を中心に置いた調査研究から進めることにした。本稿はその全体分 野の一部門,即ち教育関係部門を担当する数名の中の筆者両名に係る中聞報告である(と云っても,うち内 山はこの長崎地区研究分野全体を調整統括する責任者でもあるが)。ただし,中間報告といっても投稿枚数 の制限から本稿を「その一」とせざるを得なかったことを予め断って置きたい。また本稿は,明治以後の教 育発展を追跡する足がかりとして江戸中期から取扱ったが,殊に本文に入るに先立って,素描的に述べてい る人ロ・産業など長崎の諸相は飽迄筆者の立場で展開したものであり,最終的には教育関係をも含めて他の 共同研究牙汐干の調査研究成果 と相侯って綜合調査さるべきものである。

 終りに,文中にもその都度特に傍点を付して其氏名を掲げているように,調査研究の途次多数の方々の援 助を頂いたが之等の方々に対し薙に心から感謝の意を表するものである。

    2.開港以後幕布に至る長崎の諸相   人   ロ

 開港当時,1,500人といわれた長崎の人ロは,文禄4年d595)には8,000人,慶長19年(1614)

       (1)

は25,000人以上と記録される程急激な増加を示した。之は次第に長崎の都市形成が行われつ、

あった事を数的に象徴している。

  行   政

 秀吉がそれ迄耶蘇会領であった長崎を没収して公領とし,奉行,代官を置いて直轄した制度 は江戸時代にも踏襲された。当初の奉行は此処に常駐:せず,外国船の入港期だけ駐在して,出 航後帰府するのを例としたが,切支丹厳禁,鎖国令の実施と共に警備の必要が痛感せられてよ

り,寛永年間幕府は奉行を常駐せしめるのみか,そのいわば後援として肥後,島原,筑前,肥 前等諸藩に港口警備を命ずるに至っナこQそして正保年間諸藩は又其必要上から付人を置き蔵屋 敷を此地に設置するようにもなった事を此処で付加えておこう。

 所で,以上のような行政機構の中で,市民の自治が行われた事は注視すべきであろう。即ち

幕府吏員による支配も実は名目的なもので,行政,司渋,貿易の実際は町年寄を頂点とする:地

役人によって行われ,幕府の干渉を排除していた。無論,此等地役人も世襲であり,市民の選

挙も組頭のそれに止るという事であったので,今日言う自治制とは多少類を異にするが,それ

(2)

にしても,か、る官治制に対する数度の幕府の致勢改革が地役人,市民の反対に逢って皆失 敗に終る外なかった程それは強力なものであっだ。言う迄1もなく,このような強力な唐治制が 存したというのも,貸幣経済の進展による市民的勢力の擁頭,この勢力をバックにする都市,

殊に貿易都市に見られるその自治的雰囲気,そういう支柱があればこその事であった。尤もか

、る現象は長崎だけの事象でなく,全国共通に見ちれた事侭周知の通りである。

  貿易,経済

 長崎が対外折衝の場として政治都市化した事は前述したが,所謂鎖国体制の完成により,日 本唯一の貿易港となった事によって,長崎は何にもまして貿易都市,港湾都市と化した。

 鎖国以後の通商,貿易は先ず白系割符法が行われた。この仕法はし始め対中国,後に対和蘭 貿易にも適用された、当時最も重要な物資であった白糸を中心にして行われる貿易の方法で,

白糸割符商人という特定商人団に買入組合を作ちせ,買入を独占せしめるという,言わば特権 商人団を媒介とする幕府の貿易統制策であったが,之も明暦元年q655)に至って廃止され,

新に相対貿易法が施行された。相対とは所謂自由貿易の謂であるが,かく仕法が変更されたの は,先の方法が遂には中国商人の巨利独占ドいう弊害を招来したからであるが,一つに、は特権商 人群に対する新興商人群の擁頭に幕府が政治的配慮を加え弛からだと考えられる。

 新興商人層の出現はそれ迄,都市や貿易の統制上必要と思われに特権商人層の重要性を弱め る事を意味し,幕府もこれによって利益を一部の特権商人にのみ聾断せしめず,広く一般商人 層にも均噂せしめた方が物価抑制の為にも又新興商人群掌握の為にも良策であると判断したか        (2)

らだと推察されるからである。併し之とても幕府の意図に反して物価の高騰国内商人の競合,

破産,取引に対する外国商人の干渉を招いたので廃し,仕法を変える事とした。寛文12年(1672)

設定され其翌年より施行された市法商売法がそれである。この方法は奉行ど目利の商人とが協 議し,入札して値段をきめ,之を蘭人,中国人に通告して同意ある時は賃取るが,然らざる時 は積戻らせるというのであった。この時期は特権商人も存在せず,貿易商人も6,000人余といわ

 (3)       (4)

れ,それだけに長崎貿易史上最も活況を呈した時であったらしいが,日本側に有利であっても 中,蘭側に不利なこの商法も亦永続すべくもなかった。自由貿易はこ、に終止符が打たれ,貞 享2年q685、定高貿易仕法へ移行した。輸入白糸に就いては割符法に復し,他の商品はすべ て相対貿易による,但し中,蘭船夫汝の売上総額を限定するという方法であった。かく貿易統 制に再び復したというのも幕府財政の衰退と無関係な事ではなかった。元禄11年q698)対外 貿易を長崎会所一手で管理し,貿易官営化を実現するに至ったのも以上の意味に考えてよかろ う。因みに蘭,中両国船の入港乱数合計の概要を述べると,積戻船数を除いて慶安,寛文年間 4,50艘台,延宝,天和年間には落ちて2,30引台,貞享,元禄,宝永年間は激増して7,8α 艘台,正徳享保年間は3,40艘台,以後は元文以降安政5年迄1,20野台となって居り,ぜ        (5)

一クは貞享4年,翌元禄元年の100艘台であった。

 更にこの貿易から上った収益を述べると.1年間の総収入,元禄以前の最盛期には数百万両

に達し,天明以降25,6万両に減少し,安政条約実施の頃には再び100万両にも達したが,其後

(3)

50万両内外に下ったという。か〜る収入が長崎の地役人,市民のみでなく幕府をも潤した事は 言う迄もない。宝暦10年q760)より文化8年q81D迄51年間に幕府に上納した金額はi無慮       (6)

:205万9000余両に達したという。

 かく段汝に見て来ると長崎の港湾都市としての性格が貿易の場から貿易都市へ,更に幕府直

     (7)

轄の貿易地として変貌して行った事が判ると共に,又長崎市民が相当の余恵に与った事も看取 出来るのである。幕府権力の滲透,貿易の官営化に関しては多少述べたので,暫く措き市民が 恩恵を受け,繁栄を誇った事に関しては述べ足りない所があるので,此点今少し補足しておき

ナこい。

 貿易により余恵を蒙り,その繁栄を誇った事は市民の自治,三法商売法の部分で言及し,今 又貿易収益額の箇所で触れた。、が尚以下のような特典があった事は逸すべきでない。開港当初 1からの古い町を内町,新しい町を外町と呼ぶのが古くからの慣例であるが,元禄12年(1699)

迄内町は地子銀を免除されたが,それ以後は内外町共に地子銀,八朔銀の外に課税がなかった のがその一。中国貿易の際支払われる手数料たる口銭銀,和蘭:貿易の場合生ずる金銀両替の差 額,間金,ともに長崎市民全体に分配されたのがその二である。尤も口銭座間金の制は市法 一商売法実施と共に廃止されるが,之に代って出現した市法事銀によって長崎に投下された利潤        (8)

は又莫大なものであったという。

 以上,市民経済の事にも大分触れて来たので,此処で之も補足する意も含んで物価,米価を

・中心に経済的事象を重点的に列挙しておこう。

 寛文3年(1663)大火。同年,米穀欠乏,米価騰貴1升銭100文。延宝2年(1674),節瞼令,米価騰貴4

.斗入1俵銀28匁。翌同3年,磯鯉。天和元年(168D,磯饒,米価騰貴石銀80目。翌同2年,鱗鐘,後米価梢

『下る石銀50目許。元禄11年(1698)大火。正徳3年(1713)米騒動。享保13年(1728)長崎会所会計逼迫。疑 心14年,節険令。同17年,米価騰貴1石銀90匁。翌同18年,米価騰貴1石礫150目小売白米1升銭124文。元 1文元年(1736),幕府市民に救銀,4万両貸与。宝暦元年(1751),節陰令。同13年,節倹令。天明2年

(1782),米価騰貴。翌同3年,米価騰貴1石銀100目小売白米120文。同7年,米価騰貴白米1升銭124文 乃至138文,米騒動。寛政2年(1790),節倹令。文化2年(1805),会所5万両幕府に献上。同10年,会所 歳入出近年平均,歳出超過2710貫目,翌同11年,幕府上納銀延期。同12年,物価騰貴を抑制,白米1升116 丁文。翌同12年,米価騰貴1升銭124文。天保6年(1835),米価騰貴1石弓160目,同13年,節瞼令。職人の

賃銭を定む。例,大工左官1日無賄賃銭4匁。嘉永3年(1850),米価騰貴1石銀160目。同5年,市民に令 し貿易以外で生計の方途を講ぜしむ。安政元年(1854),倹約令。新町2年,節倹令。慶応元年(1865),

詣米1升230文。翌同2年,諸色高価,米価高く白米1升銭520文,そこで物価調節を行う。節倹令。

  文   化      

 鎖国によって唯二の貿易地となつだ長崎は又,日本唯一の西洋,中国文化の取入れ口となつ 旧た。この事も長崎の都市としての性格を強く特徴ずけるものであった事蓉うを侯たない。

 出島は葡人の内地雑居を嫌った幕府が寛永13年q636、完成せしめた人工島であるが,鎖国

完成の後,寛永18年(1640)平戸の蘭商館を此島に移転してから;幕末迄和蘭との貿易が此処で

営まれた事は周知の通りである。商館は奉行が管轄したが,実際の管理は町年寄が当った。此

(4)

処への出入は関係者以外は厳禁されたが,通訳等この関係者を仲介し,医学,蘭,仏,英,露 外国語学,物理,イ七学.天文,暦学,地理,植物学,兵学等所謂西洋先進文化が続汝移入され

るに至った。定点は後で述べる。

 他方中国との通商は慶長5年q600)より始められていだが,中国は同じ東洋人であり且つ 基督教国でもなかった為,彼等に対する待遇と蘭人を遇するそれとでは若干の開きがあった。

慶長9年q604、唐通事を置き,同12年,鎖国体制強化の一環として中国船入港を長崎一港に 限る事とした。次いで元禄元年U688)に至り,それ迄許可していた中国商人の市中分宿が風 紀,密貿易等の余弊を生じた為之を止め,蘭商館の例に倣い十善寺の一区域に分離する事とし た。元禄2年完成した弊館,又は唐人屋敷というのがそれである。管轄が奉行,実際の管理が 町年寄,関係者以外立入禁止であった事蘭商館の場合と同じで,関係者を媒介して語学,天文 学,漢方医学,本草学,美術等中国文化を輸入した点もその文化内容の差異を括孤に包むとこ れも亦蘭商館の場合と大同小異であった。渡来してきた文化人としては唐僧の如定,逸然,隠 元,木蕎,即非や朱呼水,沈塁壁,伊孚九等があった。無論以上で長崎の文化が尽きていたの ではなく,儒学系,国学増発汝の本邦文化があり,且つか〜る思想のみでなく美術も盛んであ った事を忘れてならない。儒学系学者として向井元升,南部草寿,彰城宣義北島雪山,林道 栄,高玄岱,向井元成,南部南山,中野撚謙,盧草拙,岡島冠山,松浦東渓,饒田謙蔵,山本 晴海,長川東洲,田辺茂啓等あり,国学系の学者としては大江宏隆向井去来,青木永弘,大 田南畝,伊奈建彦,中島広足,近藤光輔,青木永章,中島広行,坂本秋下等があった。之も後 述する。

 尚文化に関連して長崎の宗教文化に一言しておこう。

 基督教伝播以後,長崎はそのいわば中心:地となり,隆盛に赴いた基督教は長崎市民の精神的 支柱の一つともなった。神社仏閣の破壊も行われ,為に仏教は圧迫を受け振わなかった。それ でも一一大決意を抱いた僧侶も次汝に出,慶長3年q598)創立の浄土宗悟真寺を始めi数寺がi建 立されたが,総体的にその勢力は微弱であるという外はなかった。

 しかし一旦幕府の切支丹禁制の令が発せられると,情勢は一変し,幕府も切支丹を厳禁の為 仏教擁i護の政策をとったので仏教隆盛の気連が勃汝として起った。慶長19年q614)建立の浄 土宗の大音寺,真宗の大光寺,光永寺の三寺を始めとして続汝多数の寺が建てられるに至っ た。この間長崎在留の中国人が本国より名僧を迎え,寺院を建立した努力も忘れてなるまい。

殊に隠元を通じて黄漿宗が渡来した事は我が禅宗史上劃期的な事でもあったのである。

 他方,仏閣ばかりでなく幕府は神社の建立も奨励した為,前述の世相と相侯って諏訪神社を 始め多くの神社が建立され,隆盛に赴いて行った。殊に諏訪神社に対しては長崎奉行の手厚い 保護,援助が行われたが,それが切支丹の一掃,それの再興絶滅の意を含むものであった事は         (9)

明白である。

  開国前後の長崎

 吾国が鎖国の夢を貧っている間に世界情勢は大きく転換じつ、あっだ。覇権を握っていだス

(5)

ペイγ,ポルトガル両国が17世紀衰退していった後,和蘭が代った。一時和蘭は対日貿易戦で英 国に打勝つ程でもあったが,遂に18世紀には衰え始め,之に代って英,仏,露の列強が覇を 唱えるに至った。中でも英,仏は資本主義の成長で列国の先頭を切った。殊に英国では18世紀 半頃から産業革命が起り,大規模な機械工業による各種商品の大量生産を可能にしたが,この様 相は欧洲列強に波及して行き,これら先進資本主義諸国は原料と海外市場の獲i得,拡張の必要 上から遂には東洋進出を企図するに至った事,周知の通りである。か〜る世界情勢の変動は吾 国をもその渦中に捲込み,吾国鎖国の方針も仲汝堅持し難い情況となって行った。寛政4年

q792)露国使節ラックスマγの箱館来航,文化元年(1804)同レザノブの長崎入港,文化5 年q808)英船ブェートγ号の長崎入港,嘉永6年q853、米ペリーの浦賀来航,露使節プー チャチγの長崎来航。か、る数次に亘る列強の開国開港の要求は以上の事を事実を以て証して いる。安政元年(1854、の再度のペリーの来航によって遂に幕府も鎖国の本針を捨てて,同年 旧米和親条約,同5年(1858、日米通商条約を締結,調印するに至った。翌6年英,蘭,仏諸 国とも同じく調印するに及んでこ、に幕府の鎖国政策も名実共に終りを告げた。

 この五ケ国との通商条約によって6年以降神奈川,長崎,箱館の三港が開かれる事となった ので,長崎はそれ迄日本唯一の貿易港として誇っていた特権的地位も,独占的繁栄も急速に喪      (1①

失して行った。市制六十五年史の筆者が述べるように,一体,長崎の繁栄は鎖国という封建的 経済体制を基盤として築かれたのであって,日本の開国,近代化と共にその繁栄の場を他に奪わ       (11)

れ,近代都市への発展過程に於て却って他の後塵を拝する事となったのである。

 以上縷説して来た事を念頭に置き乍ら,以下教育の諸問題を考えてみよう。その叙述の仕方 は種々あるであろうが,学校教育中心に漢学系,国学系,洋学系の順序に述べ,次にこれらの 系列から洩れた私塾的なもの其他を考えてみたいと思う。但しこ、では枚数の制限等から洋学 系を後に廻し,それは其の2に述べる事とした。こ、で学校教育中心というのは明白に学校教

育という形態をとった文字通り学校教育を中心にという意味で,その他,関係者設立の私塾,

又はそれに近いもの,講習会的なものを含んで考える事は言う迄もない。無論この区分の仕方 は飽迄大綱であって,詳細に就いては叙述の便宜上等からこの区分が厳密に守られていない箇 所も多少ある事を予め付記して置く。

3.教育の発展

  明 倫 堂

 江戸幕府創立以来幕府は文治政策を取り,教育万般の振興を図ったが,就中武士を対象にし

た教育政策には最も重きを置いたようであった。というは武士は士農工商言わば四民の長とし

て範たる人物とならねばなら飛し,江戸時代文官化,地方長官化して来た武士階級にふさわし

い教養を身につけさせなければならなかったからである。而も幕府は民衆に劣らず武士階級自

体にも忠誠を誓わせ統制をしいて行く事を考えていたので,先ず必要ときれだのは武士の教育

(6)

であった。幕府は先ず儒学をとりあげ,これの貫徹を図った。儒学,中でも朱子学は上下尊卑 め不易性と封建倫理を説き,この時代の封建的仕組,幕府の要求に最も答えるものであったか らである。幕府の天領である長崎での教育の方向が以上のような方向に動かない筈はなかっ

た。

 長崎の儒学系官学は名目的には正保4年(1647)向井元升が奉行に請うて東上町に聖堂,学 舎を創建したのに始まる。聖堂は中島聖堂:,長崎聖堂,孔子廟,三二書院等とも呼ぶ。元升は 二二町に慶安年中,三二堂と称する社学も建て,岩原屋敷では出張教授も行った由である。聖堂 では自ら講義して常に堂に溢れる程聴講者を集めたというが,万治元年q658)彼の京都移住 と共に塾主もなくなり,自然消滅の形になって謡った。その後例の寛文の大火で建物も鳥有に 帰し暫く中絶した。寛文11年q671)長崎奉行牛込忠左衛門が,唐通詞彰城宣義を祭酒にして之 を再興し,延宝4年U676)滞在中の京都の儒者南部草寿を祭酒,塾主とし,聖堂,書院を整 備した。之で長崎官学が害質的に出発した事となる。豊津寿留る事数年にして帰郷する事とな

り又も塾師を失うに至ったが,偶汝世理の三子元成が弁理したので奉行は彼に祭酒を嘱する事 とした。而もその任期中,貞享2年(1685)元成が南京船舶載の書籍中に切支丹関係書がある 事を発見,上申したので吊せられて書物改役を兼ねる事を命ぜられる下りか祭酒は向井氏の世 襲とされる事となった。後,設備が狭隆となったので元成の請もあって宝永7年(1710)時の 長崎奉行二人の手で聖堂の移転q日韓陣所跡、を決行した。

 受講者は殆んど奉行所関係者,上流富裕層の子弟で,幕末迄は当初より聴講者堂に盗ると か,狭隆を告げだので移転を決したという事で増加しだ事は黙せられるが在籍者i数は不明であ

る。幕末定員50名であったが,100名近い事もあったらしい。尚在籍者の事に関連して注目すべ き事は享保6年(172D学生10人に教育料,詰り奨学資金を請い許された事と,天保13年(1842)

長崎奉行講義公開を宣し,士農工商の別なく余暇に聴講するよう奨励した事であろう。

 教育内容は四書五経を中心に和学,漢法医学があっだが,元成時代,彼自身算学者でもあっ たので個人的に算学の講義も行われたらしい。教科書は三字経,心経,大学,中庸,論語,孟 子,詩経,書経,易経,礼記,春秋,小学,蒙求,国史略 日本外史,元明史記,文章軌範,

唐二八大家,春秋左正伝,国語,前漢書,後漢書,二二綱目,傷寒論,金匿要略であった。

 教授法は講義法,討論法,演習形式課題詩文の諸方法を取り,素読,点検,講義,会読の順 序を採った。又素読試験,学問試験(素読試験の終了せるものに課するもので,論文スタイル の試験),講義試験(以上の二種の試験の後に来るもので,四書五経に就き講義せしめて之を 験すもの)の三種の試験もあった。

 労ら享保元年(1716)よりは従前唐通詞の子弟の間で行われていた二丁勧学会が聖堂で行わ れ,其後廃止されては天明8年(1788),同10年の2回に亘って再興された。

 職員は書物改役兼祭酒1名の外に,助手初期1名,幕末2名,書物改手伝兼学問世話役2名

書物改付書記兼学問世話役1名の計5乃至6名で構成され,他に教導数名がいたσ束修,謝儀

(7)

は共に年額二百疋程で,祭酒向井氏の俸禄は貞享年間30俵2人扶持,後,受用銀が追加された が,慶応3年当時は30俵2人扶持35両であった。尚幕末頃の助教,世話役,教導への支給額は 夫汝銀15枚から20枚,3枚,5枚であったという。学舎は常に奉行所から営繕せられ,外に長       (12)

崎会所より雑費用として銀20枚の支給を受けた。

 上記向井元成が算学を個人的に教授したというのも,教育内容に儒学の外に和学,漢法医学 を含んでいたという事も,又講義の四民への公開解放,長崎奉行の援助,唐韻勧学会の開催等 もすべて時局の反映であって,之は全国一般の藩讐の傾向と同様である事を示し乍らも長崎の 文化的,地理的,経済的特色をも含んでいると見られよう。かく聖堂教育は天領として又貿易 都市としての反映をその教育の中にみなぎらせ乍ら行われたのであるが,その教育の役目は飽 迄封建体制の維持という点に期待がかけられていたので,聖堂教育はそういう事に役立つ人物 養成を企図していた,超そういう効果を生んだと言っても過言でないと考えられる。又言うな らば貿易都市の性格から来る市民思想の自由な開放性,異国文化に対する寛容性に対する一大 防壁を築かんとするのがこの教育の眼目であったし,又その役割を多分に果したものと思われ

る。ともあれ,長崎人の人間形成には片や異国文化思想の柔軟な解放の側面とともに,それと オーバーラップし乍らというよりも,それよりも強く儒教倫理の固い束縛の側面がより濃厚に 影響したといえるのではなかろうか。

 最後に六十五年史の筆者は明倫堂の事に関し聖堂祭酒が書物改役を兼ねていた事に注意を促 しているが,之は首肯すべき発言であると思う。因みにその要約を掲げておこう。幕府は寛永禁 教以来,切支丹関係書中,禁制書目を掲げて輸入を禁止し,鎖国の窓である長崎で書物改を実施 したが,其目的は御文庫納入書籍の選択と切支丹関係書の除外に置かれ,緩厳の差はあったが 幕末迄続けられた。初期には書物改役という役目はなく,中国船の舶載した書籍は僧侶,学識 者(野離も其一人であった)が寄合って改められ,後には書物目利の書物屋・山形屋も立会う に至った。帰郷後の元成も学識者の一人目して参加したようであるが,そ の際偶汝禁制書目以 外に切支丹関係書がある事を発見し,書物改役となった事は上記の通りである。この禁書事件 は以前の禁書と性質を異にするとさえ言われている。又享保に入って元成生存中に理数関係書 が数部解禁された事実も見逃す事は出来ない。この間の事情は十分明にされていないが解禁に は元成も関与したものと推定されている。とも角書物改めは実は幕府の文教政策,就中儒学教        ⑬

育の政治的一面である云々と。稻汝長い引用をしたが以上の通りである。聖堂祭酒が書物改役 を兼ねるというのも偶発的な事からそうなつだとは言え,幕府の文教政策の論理から言うと必 然的にか〜る結果になるであろう事は予想される所である。然し之も亦長崎ならでは起り得な かったろう事も明白に断言出来るのではなかろうか。

 上記の如く又享保に入り元成生存中に理数関係書が数部解禁され,元成もそれに恐らく関与

したと推定されるとあるが,当時幕府の幕藩体制補強維持の為洋書の一部解禁,即ち技術学的洋

書の解禁政策を行いつ〜あった世相と,元成自身が一方算学の専門家であり,躍増升が儒家で

あり且つ本草学,天文暦数,医学を兼ね修めた博学の人であった事を考えると,以上の推定は

(8)

恐ら《当っているであろうと筆者も考えるr   国学,国文学界

 こ〜で他と均衡のとれぬ国学,国文学界という見出しにしたのは他意あるのではなく,国学 系の教育を総括して述べようという謂に外ならない。

 長崎の国学,国文学を述べるに先立って先ず,国学が勃興して来た情況から述べねばなるま

い。

 周知の如く国学は江戸中期,画虎,戸田茂睡らによって創始され賀茂真淵,本居宣長等によ って集大成された古典の研究による国家の伝統,日本的精神の源流を追求せんとする学問で,

それは儒学,仏教二派を異端として批判攻撃する立場を採って起って来た一派だけに,それら に対抗する一大勢力であった。仏教,就中儒教が封建支配体制を保持し封建倫理を強化正当化 せんとする役割を果したのに対し,国学派は吾民族精神の高揚自覚を促し,既成の固定化せ

る封建倫理,秩序の打破をも啓発したのである。其意味で国学は一種の封建支配権力へのレジ スタγスの表われであり,既成道徳の重圧に悩む民衆に新しい一つの政治的道徳的意味をもた らすものであったと解してもよい。然しその反面,豪農,郷士などの民間出身であっだ彼等国 学者の立場が民衆的というよりも寧ろ地主的であり,封建的秩序の動揺を神や天皇の権威を説

く事によって防止し又それによって秩序を再強化せんとする,詰り権威の絶対化を図ったとい

  (1の

う点等で必ずしも全く民衆的・反封建的と言い切れなかった側面がある事を見逃すべきでない であろう。ともあれ国学の革新的性格,延いては明治維新推進の一大勢力としての意義は認め ねばならぬとしても,そのもつ反動的,保守的側面を又忘れてはならぬであろう。

 倦長崎に於ける国学系の教育に移るが,こ〜での教育は次に述べ又後述もするよう『に他系統 め教育と比べてみても貧弱であり,明白な資料にも乏しい。そこで個人中心に時代を追って逐 一述べて行く事にする。

 長崎の国学は享保の頃,大江宏隆から始まる。宏隆は京都で黄門風早郷に和歌,典故,卜部 定規に神道を学んだ長崎国学の創始者である。伝によると道観を田上に構え,真武廟を建て修 練を事としたとあるから,国学系教育の芽生えが此処から始まつだと見る事が出来る。次いで 諏訪神社宮司青木氏の一族,青木永弘がある。専大は京都吉田家で唯一・神道を学び,国史,国 文,和歌にも長じたというが,彼の行動半径は広く長崎地方に止まらず,全国を巡回講義し,多 大の影響を与えた由である。之は文学博士萩野由之氏が戦前の全国宮司談合会席上の講演で明        (15)

にせられた所であった。彼の思想は晩年の著「六根清浄松風砂」中に「異朝の法を見て,吾神 国の掟をよく守る者は是吾国の宝なり。外国の法を見て吾神国の掟をおろかに見ん者は国賊 也」「仏法儒道も吾神道の潤色とせんには最も好む心なり,神明の掟を儒仏の潤色とすること

    (16)

なかれ」とあるので端的に見る事が出来よう。降って文政,天保以降,長崎国学隆盛iの気運が到

来した。それは以下の人欧が輩出したからである。松森神社神主,伊奈建彦は本居宣長に国学

を学び,帰郷後同学を講じた。長崎国学があるのも次に述べる中島広足と共に彼の力に倹つと

言っても過言ではあるまい。中島広足は世汝肥後侯細川氏に仕えたが,国学を宣長門下の同藩

(9)

長瀬真幸に,和歌文章を橘千蔭門下の江戸の越智千里に学んだ後、長崎に配し教える事20年,

       ⑳

「遠近従い学ぶもの多」かったと言われる。彼こそは長崎国学発展の要であり又その教育中 興の祖であったと評して然るべきであろう。彼の思想は青木永弘と大差なかっだ事は「童子問 答付録」等に明瞭である。尚当時長崎には広足を中心として和歌に巧みな諏訪神社宮司青木永 章,会所役人近藤光輔があり,時人この三人を目して崎陽国学の三雄,長崎の三歌人と称し

た。

 以上国学関係という事に重点を置いてその関係者を列挙したのであるが,次に長崎文芸史の 誇る向井去来,大田南畝に就て言及せねばならない。

 去来は向井元升の二男で承応元年(1652)長崎に生れ,8才の時,父と共に京都に移り住ん だが,周知のように後年芭蕉の門に入り,所謂蕉門十哲の一人に数えられるに至った。崎陽世道 は彼によって開かれ,彼は言わばその祖師とも言うべき人であった。一方大田南畝は文化元年 q804)長崎奉行付支配勘定として来崎し,居る事1年,中国人,当地入を問わず広く文学上 の交際をし当地文人に影響を及ぼす所があったという。

 尚上記の事に関連して我・々共同研究者の一人中西啓氏より香川景樹門下の人目が伊勢の宮に 屡六集合して歌道の修練に励み,松森神社では寛文年間,連歌が開かれた旨の教示を受けた が,之は機会を得ず未だ調査する事が出来なかった。併せて付記して置く。

 このように段六に見て来ると,例えば儒学等の隆盛に比べると国文学を含め国学のみなら ず,その教育が不振を託っていた事が判るのである。国学が沈滞し繁栄を見なかったのは,或 論者もいうように,儒学の繁栄が国学のそれを阻み,基督教的世界観の潜在によるその普遍的 人類意識が国家主義思想を容れなかった事,又長崎の自由港的性格が市民に偏狭な国粋思想の        ⑱

芽生える余地を支えなかった事等に由るものと思われる。かく又考ええればこの貧弱不毛であ った国学,又国学系の教育は洋学系・儒学系のそれの残した影響程強烈には痕跡を残さなかっ たと考えられる。:地元から輩出した幕末維新の志士の数が解く少数に止ったという事はその一 つの例に挙げられようか。例え、ば某地方史研究書に於ける「幕末維新志士の出身地」の分析に よると長崎は高島秋帆唯一人しかとりあげられていず,一人のみ挙げられているのは大分・岡        qg

山・兵庫・和歌山・滋賀・埼玉・群馬・静岡・最野,岩手・山形の諸地方に限られている。

 次にいわぼ自由な立場で而も教師の得意とする学問技術を教授レた教授所,私塾,寺子屋を 考えて見よう。

  教授所,私塾

 漢学系の私塾は寺子屋程明確に判らない。名称,学科,所在地,開業,廃業,教師,生徒,塾 主の身分,氏名全部欠ける所なく調査されているものは今の所一つもなくむ何処かぢ欠けてい る。が乏しい調査の中から明白になっているものを土台に窺ってみると導体次のようになるよ うである。県教育令,、長崎市制六十五年史等を綜合すると私塾と考えられるもの15程数えら       (2①

れるが,うち文化8年頃(或は天保、8年と考うべきか)創立の高島秋帆の塾を最古に,天保年間

(10)

1,安政年間2,明治年間2,他は不明である。廃業は殆んどが不明であるが,高島秋帆の塾 の天保13年(1842)はその稀な例といえようか,教師は無論皆男子で,身分は士6,他は不 明,生徒は武士階級,有産階級,智識階級の子弟が殆んどであったと見られる。収容生徒数,

長川幹蔵の長川整の男200名,女15名が最も多く,長川退蔵の慈鴉山館,山本清太郎の柿蔭古 屋の金目男150名,池田豊蔵の復初訳の男75名だけが明白で他は不明である。学科ば殆んどが2 又は3.4学科制をとり,その諸湘の鵡に灘詩文をとり込んでいるもの3,砲術を課し

ているもの4,習字を課しているもの3,蘭語を課せるもの2,和歌,兵法,算術,洋学,剣 道を夫々に課しているもの3(又は4)古ある。尚剣道云汝というのは振遠海汝士が開いた練         ⑳      …

音場,乃武館を指す。         ;

 私塾の教育活動に関しては若干の資料があるので暫く紹介してみよう。先ず梢汝詳細な高島 秋帆の塾から述べると,文化8年(1811)秋帆の父四郎兵衛が荻野流砲術の免許を得,「教        励         [

授の門を開いた」というから,彼の塾は此辺に胚胎するといってよかろう。其後秋帆父子は       1

西洋砲術を学ぶ必要を痛感し,その心得のある蘭人から手ほどきをして貰い,天保6年頃一流          ㈱       1

を立てるに至った。無論この頃未だ父も在世であり,父子「ともに荻野流師範として既に門戸        ⑳

を開いていたのであるから・彼の鞭科甲はこの母乳鋤たものであった・」この西洋繭

の内容はモルチ地ボムペ棚 xカノンとなっている力場の外歩兵教練と樋

べき西洋耳隠も科目として課していた。後になると荻野流は削除した。入門の際は例によって,

一,高島流の事,一,西洋銃陣の事,一,他流の秘事を替汝に致すまじき事,秘具等一切他見 致すまじき事,一・,御流儀に差加え一流を立て申すまじき事,右の条汝,親子,兄弟たりとも他       1

見炉堅く致すまじく・乱戦くに苓1ま旧本国中大小の神罰を蒙るべき者翻起請

文如件云汝という如き起請文を塾頭に差出して教育が開始されて行った。倦次に,高島流が流 布伝播されて行った情況は次の如くである。西洋軍事学の重要性を認識し,その修得に着手した       1

難騰蠣肇灘勧論莫襟禦篶驚談叢総点嘉

島十左衛門茂義・平山山平・薩摩藩の鳥井平七(後の成田正右衛門)・田原藩の村上範致・田 口加賀守の臣,市川熊男,岩国藩の有坂 蔵父子がある。以上でその一斑を推す事が出来る        ⑳

が,例えば,旧藩後の池部が塾を開き「 術の門人が七,八百人」もいたというのと考え併せ るとその伝播が相当広範囲に亘ったろう が想見される。然し遺憾にも鳥居疑蔵の面訴による 長崎事件に連坐して天保13年春1842)検 された為,秋帆の塾も自然消滅となった。

 福沢諭吉は安政元年(1854)より約1 問山本物次郎という砲術家に学んだ事が「面癖自 伝」に記されている.彼は中灘家老の息奥平壱岐の世話で山本家に入込む力粗金の悪い粧       [

の為に諸家の文章を読んで聞かせる,其処の息子の為に漢書を教える。手紙の代筆から掃除,

水汲みを一人で引受けてやるという八面 Eの活動をする傍で締の魎に励んだという誤

頃の砲術家といえば秘伝の蔵書を貸すか讐せるカ〉して謝料を取って生計を立て諸藩の焔

      l

(11)

の砲術に関する見学等を世話する仕事も請負っていたらしい。眼の悪い先生の代理となって諭       ㈱ 吉はそれらをとりし切って「丸で十年も砲術を学ん」だもののように振舞ったという。之など 特殊な例かも知れないが,当時の私塾の有様を推察するよすがともなろうか。

 以上,塾生に女子を包含した点,学科に砲術,兵法,洋学,蘭語を含んでいた点,この点は日 本全土に見られる現象だったとしても,前述の長崎の文化の取入れ口であった町の性格からし て当然出づべくして現われた特色とも言えるが,矢張り長崎らしい土地色を表わしたと思われ

る。少くとも県内各地では見当らぬ特色であった。

  寺  子  屋

 代表的庶民教育機関ともいうべき寺子屋は長崎市中に23あり,中,12は所在地,開業年 月,主宰者が判明しているのみで他の事は判らない。判明している11の分だけの情況は以下

       (29)

の通りである。開業年月から言うと,市内最初,県下で第2番目の勝木禎輔の嚥濤軒を先頭に 天保年間11,嘉永年間2,安政年間3,慶応年間4,明治年間1,不明1,である。一つの 傾向を見る為ここでは先の所在地,開業年月,主宰者以外不明の分も加えてみた。廃業の点で

は明治年代迄続いだのが7で,うち木下復七郎の木下家塾の明治8年廃業が一番遅く,他は万 延,嘉永迄が伊勢1つある。継続年数では松尾重重の寺子屋の42年間を筆頭に,明白に判明し ているものの中で39年,24年夫汝2,13年,12年夫汝1となっていて永続的なものが多かった

と考えられる。学科では1科制のもの7,2科制のもの4,習字を課しているもの9,読書を 課せるもの2,算術,数学,素読夫・々1となって居る。学科,教科書,教育の情態を明確にす

る資料に乏しいが,次の一文の如き稻・々それを髪髭たらしめようか。「師匠は衆生環座の中央 に出でて教鞭を執り,習字手本の如きは師匠自ら書して各生徒に与うるのであった。その習字 手本に認むべき文字は男児にはいろは往復文,六諭術義,商売往来,曽我状,弁慶状,商家摘 要,長崎雑誌,無心融着,今川状等で,女児にはいろは往復文,孝順父母,女大学,女今川等        (3①

を書き与うるのであった」と。

 師はすべて男子で,其身分職業は地役人1のみで他は皆町人である。此点は県下他地区に見 られぬ特色である。収容せる寺子は市内商家の子女で,寺入は大抵6,7才であっアこ。寺子 100名以上のものを列挙すると,松尾禎重の寺子屋の男のみ110名,木下復七郎の木下家塾の男        (31)

のみ130名(一説では男女併収100以上),勝・木禎輔の嘱濤軒の男のみ180名,秋岡種寿の鳳山        ㈱

:軒の男110名,女30名(一説では150の寺子とある),渡辺一郎の静寿軒の男のみ400名笹山        ㈹

繁の奇石軒の男346名女150名〔之は最盛時には男400名女300名であったという)の如くであっ た。「まだ外にも斯ういう大規模の寺小屋が市内のそこかしこに在って,多くは二階建で,屋     (3の

舎も大き」かったらしいが,乙竹岩造氏も指摘する如く「比較的多数の寺子を有っていたのは        駒

長崎市内の寺子屋だけで」あった。

 又男児は算術の塾などに通い,女児は仕事屋という裁縫を教える一種の学校へ通い,或は検

校,匂当,督女等に就いて琴三味線を学び,長じて寺子屋を卒業すれば当地の歌人,茶湯生花

(12)

      、       (諭 の宗匠等に就いて各自嗜好するものを修めるというのが普通のコースであったらしい。

 町人師匠が多数を占めた事,大規模な寺子屋が多かった点,特に静寿軒の数学のみで400名 もの寺子を集めた如き,何れも長崎の特色を具したものというべく,乙竹氏が「斯る大規模の 且内容充実したる純粋の寺子屋を多く有っていたのは九州に類の無いのは勿論,全国に於ても       (37)

江戸,大阪,名古屋以外には稀有の事であった」と口を極めて評するのも溢美の言でないが,

これらの事も要するに長崎の人口集中,商人層の拾頭,一般民衆の富裕化とそれに随伴する市 民の教育的要求の向上という社会事情に照応する事であったと考えられる。

 以上の事に関連して若干の事を付記して置きたい。一つは当地に於ける数学,算盤の流行で ある。この点は三寿軒の数学のみで400名もの寺子を集めた事,男子が算術の塾などに通った 事などに触れた箇所でも述べた所であるが,本稿の要点にも当る所と思うので今少して補足し てみたい。

 長崎市史,風俗編には概要次の通りにある。男児は算術の塾などに通い,八二,見一,掛割 炭薪利息算等を学んだ。師匠は又算術帳というものを自身又は高弟などが書いて各生に与え.

た。乱用面会と称して加減乗除の速算を競う会を塾又は門人宅に催して,その日の優勝者に与 える算会帳(当日の問題集でもあった)を得べく互に争った。かく述べ更に筆者は元来長崎珠        ㈱

算の速なるは到底他郷の者の企及ぶ所に非ず我邦無二と謂うも差支はあるまいと言っている。

この最後の言葉が当っているか否かは問わぬとしても,これらの事と先の静三軒の事例を併せ 考えるならば当地で算盤が隆盛を極めた事は如何にしても否むべからざる事であったと考えら れる。       一  一体算盤というと長崎には縁が深い。第一その日本渡来の起源にしてからが,足利時代頃港

町であった長崎か堺に入って来たと言われ,その前後天草耶蘇会で出版されたラ・ポ・日辞典 にもそろばんの語が見える。更に正保2年q645、の「二二草」には摂津,長崎が十露盤の産地        (39      ...

として挙げられ,又昨年末市内西日本相互銀行長崎支店で行われた長崎商業専門学校長山口和 幸氏出品の古いソ冒バγ展示会では元禄2年頃忌屋町の伊藤算学塾で使用されていた算盤も出 品され,その説明書には延宝元年より中国算盤として伝えられたもの,算盤製作は銅座町叉は 桜町で作製され,銅座算盤等といって有名であった云汝とあった。尚又「長崎県人物伝」によ ると,例の静寿軒の渡辺一郎は当時数学の大家長谷川善左衛門に従い研鐙して勝山の自邸で教 導に任じたが,此の間多数の学生に同時に学習せしめるのに至便な一種の算盤を作り,世に長       ㈲

崎の長算盤として喧伝されたという。

 筆者も鍛治屋町平石時計店,同町大正堂古書店で長崎算盤なるものを見せて貰った事があるが,何れも中 国算盤を日本化して弾き易い珠にしたものであった。

 このように港町,貿易都市,貿易商人の隆盛,算盤の製作工夫,算盤塾の盛行,かく語を並 べたのみでその間の密接な関係を思わせるに十分であり,商人の教育的要求から生み出された に相違ない算盤塾が多数の商人の卵を生み出しつ、,現場の要求に答えたろう事も亦想像に難

くない所である。

(13)

 もう一一つ,筆者達が寺子屋の事に関して調査を行った事も補足して置ぎたい長崎県立短期大学片山秀賢助 教授にも御協力願い,筆者達自身,又協力学生諸君合同して長崎市内中心に県内寺子屋の塾則,使用教科書等 の調査を行ったのであるが.市内関係では別した資料も出て来なかった。県立図書館奉仕課長永島正一氏の 助言も得て,奇石軒の笹山繁の遺族十八銀行常務取締役笹山輝治氏を訪問したり,その他遺族,文献を刻明 に探すという方法を採ったが筆者が期待する程の資料も出て来なかった。塾則等の所在を共同研究者中西 啓氏,大正堂古書店主唐島喜徳氏より知らせて貰った向があるが,之は時間的余暇がなくて調査未了で次刊 に譲る事とする。

       (未   完)39.1.30

註 1)

 (2)

 (3γ  (4)

 (5)

 (6)

 (7)

 (8)

 (9)

  の

 ⑳

 (12)

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 ⑬  鋤  ⑱

 《19

 ⑳  ⑳

  ⑳

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 (24)

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  ㈱   伽   ㈱

  @9)

箭内健次「長崎」昭和34年至文堂 68頁

「郷土の歴史」九州編昭和34年釈文館 129頁

「長崎市制六十五年史」前編昭和31年藤木博英社 59頁

「郷土の歴史」上掲書 129頁

「長崎叢書・増浦長崎略史上巻3・第1巻年表」より筆者が計算せしもの。大正15年 前掲六十五年史63〜64頁

箭内健次,上掲書71〜72頁 前掲郷土史 130頁

前掲郷土史 153頁,前出六十五年史1081〜1085頁 前出郷土史 159〜161頁・六十五年史 106〜110頁 前出六十五年半 11頁

「長崎県教育史」上巻 30〜37頁 67〜82頁 前出六十五年史 849〜850頁

松島栄一「日本史料集成」

「長崎県人物伝」大正8年・長崎県教育会458頁 同上人物伝 460頁

同上人物伝 470頁 同上六十五年史 961頁

岩波書店「地方史研究必携」1961年174〜179頁

有馬成甫「高島秋帆」昭和33年・吉川弘文館 38頁 90頁 前出県人物伝 135頁

前出高島秋帆 38頁 前出高島秋帆90頁 前出高島秋帆 90頁 前出高島秋帆 92〜93頁 前出高島秋帆 91〜92頁 前出高島秋帆 106頁

岩波文庫版「福翁自伝」32〜33頁

「長崎県教育史」による

(14)

・㊨0)

・⑱1)

・㈱

・13の

・㈲

・㈱

・㈲

「長崎市史風俗篇」大正14年 542〜543頁

乙竹岩造「日本庶民教育史」下巻 昭和4年目黒書店 722頁 同上乙竹岩造著教育史 722頁

同上庶民教育史 722頁 同上庶民教育史 722頁 同上庶民教育史 722頁 同上風俗史 543〜544頁 同上庶民教育史 723頁 同上風俗史 543頁

岩波文庫「毛吹草」 165頁・185頁

同上人物伝 737頁

参照

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