離島教育の研究Ⅰ
―黒島の教育、社会の実態調査―
内山克已・小松昌幸
增田史郎亮・吉村喜好
序
離島僻地教育の実態についての調査は,楽部省始め各大学乃至は各県の教育研究所などによ って,既に,発表されている。そうして,その殆んどのものは大量観察法によるものである が,それ等は離島僻地の教育計画とその実践に科学的な基礎資料を提供している。われわれは これ等の研究を参考にしながら,事例研究法によって,離島教育の実態を明らかにし,離島教 育振興の方途を見出そうとするものである。蓋し,離島教育の実態は,量的な統計的調査と質 的な個別調査と相補ぎなうことによって,ますます明らかにされるからである。
このため,次のような分類に従って,夫汝,事例をとりあげて研究することにした。
(1)離島の離島の教育 (2)離島の漁村の教育 (3)離島の山村の教育 (4)離島の農漁村の教育 (5)離島の農村の教育 (6)離島の都市の教育
本年度は離島の離島についての研究を取りあげた。これを先づ:第一にとりあげる理由は,離 島の離島は最も豊漁に,かっ,プリミチブに離島の性格を示すものであると考えられるが故で
ある。
そこで,離島の事例として,われわれは黒島を取り上げ,その教育について研究することに した。黒島教育のまつ第一段階として,黒島の教育・社会の実態調査に着手した。というの1 は,島の生活は島民の人間形成の基本的な過程であり,かっ,島の教育が,文化の伝達に止ま
らず丈化の創造をめぎすべきものであるとするならば,島の生活の中にひそむ種汝の課題は島 の教育計画の基盤となるからである。
但し,本年度は経費その他の支障のため,この調査を完了すること炉できなかった。したが って,今回の報告は黒島の教育・社会の実態の全貌を明らかにするには到らずその一部分につ いての報告である。
黒島の教育・社会の実態調査
この調査にあたり次のような調査目的を決めた。
島の生活の民主化,近代化のため,島の教育的諸活動が如何なる役割を果しつ、あるか,ま た,果すべきであるかを明らかにするため,島の生活の実態を調査し,島の教育計画に寄与
1
する。
調査の方法は殆んど面接法によった。しかし,時聞的制約から,questionaire interview を主に用いた。
1.島の生活基盤 1.島の自然的環境
長崎県南松浦郡富江町黒島は,富江町の東方,海上約4粁の距離にある周囲およそ5粁の小 島である。富江港から小発動機船で約40、分で達する。黒島は鬼岳火山群に属し,黄島・赤島 と同じく開析臼状火山島である。島の中央に二つの旧噴火口がある。島の一番高い所で,海抜 僅か98米余に過ぎない。島の外貌は低い台形状で,その西・西南の傾熱面を耕地に利用して いる。耕地は更に島の中央上地の火口原にるある・土質は固い玄靖岩の厨イζしたものからでき ている。東,東南の斜面は草地のま、である。東,南,北の海岸線は高き約30米の断崖をな
している。集落は西北部の斜面がゆるやかに海に入る所に集村をなしている。小島のため水に 乏しく,大小二っの溜地を掘って飲料水としている。昭和29年に,天水を貯めるタγクを作 っナこ。しかし,タγクを所有する家は全世帯中,一部分である。
この島の気候については,充分な資料が得られないので正確にご〜に示すことはできない が,対岸の富江の気候によって大体推察できる。第1表をみてもわかるように温暖な気候であ
る。黒潮にとりまかれたこの島は,富江よりは暖く,より海洋性の気候を示すものと考えられ る。降霜も早れであって1月下旬より2月下旬の間に数えるほどもないとのことである。
第1表 富江測候所気象記録
年 月
昭28.1月
2〃
3〃
4・〃
5〃
6〃
7〃
8〃
9〃
10〃
11〃
12〃
平均気温
6.6 7.9 10.5 13.8 18.0
21.3 26.2 27.6 24.5 20.2
14.2 11.5平均最高 気 温
9.0 11.0 14.3 17.7
21.6
23.9 28.9 30.9 27.924.2
17.8 14.4平均最:低 気 温
4,2 5.0 7.6 10.2 15.0 19.8
24.2 25.3 22.0
17.0 11.3 9.2平均湿度
65
70 72
65 79 91 89 83 78 69 6769
%
平均風速 m/sec
4.4 4.0 4.8 4.1
4.2 4.5 3.9 3.7 3.5 3.4 4.2 3.8
最:多風向
北北西 北北西 北北東 北 西南西 西南西 西南西
:東:北東
北北東 北北東
北東
北
平均雲量
7.9 8.0 6.4 6.2 7.1
8.8 7.7 5,7 7.0 5.3 5.9 6.9
降永量
64.3
165.0 153.2
132.1627.7 500.4 494.0 225.3 224.2
66.650.7 114.4
平 均 地面温度
6.8 8.5 12.0 15.4 19.8 22.9
28.0
29.325.5 20.4
13.7 10.8(長崎県統計年鑑昭和29年による)
2.島の歴史的環境
この島は古くは,黒島村として,一村をつくっていた。その頃,庄屋であった家が現に残っ ている。明治22年の町村制実施にあたって,富江町に合併され今日に至っている。この島が,
一 2 一
いっ頃から開発されたかは,記録がないので不明である。恐らく五島藩成立後,福江島より移 住してきたのであろうと推定される。その理由は,いわゆる「海に背を向けた村」であるから である。この島の近海は,富江護岸でも,最も良い漁場である。しかるに,黒島は昔から変ら ぬ純農村部落である。それでは黒島は何故に海にを背向けているのであろうか。その原因は実 に五島藩の治政方針にある。藩は制度として,百姓を三種に分け,地方百姓,浜方百姓,竈百 姓とした。地方は農業を,浜方は漁業を,竈は製塩業と薪炭業を専業とするように定められ た。大浜の浜方百姓が移住した黄島,赤島は昔も現在も漁村部落である。黒島は多分黒瀬部落 から地方百姓として移住して来たのであろうと推定される。従って,この島の開拓は五島藩成 立後と老えてよいであろう。黒島は今も昔も,海に背を向け,麦と甘諸を作って来たと言えよ
う。
人ロ,戸数の推移も明確な資料を欠いでいる故,明からでない。古老の話によると,この島 の言い伝へとして,33戸以上になると火災が起るとして,33戸以上に戸数の増加すること を忌み嫌ったとのことである。明治初年33戸で現在は43である。
3.島の生産構造 第1図年令別人口分布
(イ)人 口
:第1図黒は島の年令別人口分布図で
ある。31才一49才の男女の非対称 性は,勿論,戦争の影響のあらわれで ある。第1図は実はこの島の出稼ぎ人 口を含んだものであって,常時,これ だけの人達が暮しているのではないQ 常時,島に生活している人口について みると,第:1図とはちがった入口分布 を示している。第2図は出稼ぎ人口を 除いた,常時,島に生活している人口 の分布図である。
この分布図でもわかるように,この 島は,平常は老人と女,子供だけの島
と言ってもよいようである。
第2表は37世帯について出稼ぎ状 況を調査したものである。この表でも
わかるように,16才から20才まで の男子の約牛飯,20才から45才ま
(男〉
20 20A
第2図年令別人口分布(出稼ぎ人口を除く)
9〜
20人
95 go 85 80
7565
70 60 5560 4S 40 35
3025 20
5 0
0キO
2叙
一3
での殆んど発部の舅子は出稼ぎに行っている。そうして,出稼ぎ男子の職業は総べて漁業関係 である。
第
(a)出稼ぎ状況(年令別)
2
表
(b)出稼ぎ状況(職業別)
性別1男 子1女 子
年令
.段階
「出惜旧劇購ぎ「在島
16才〜20才 21 〜25 26 〜30 31 〜35 36 〜40 41 〜45 46 〜50 51 〜55 56 〜60
7 10
8 3 1 0 1 0 1
5 0
20
2 06
42
0 1 1 0 0
00 0 0
6
5
65
64
7
20
耀轡i
漁 夫 女 中 教 員
計
男
31
0
031
女
0
1 1
2(c)出稼ぎ状況(出稼ぎ地別)
出稼ぎ地 男 女
奈良尾町
富江町 福 江市
長崎市 鹿児島県 計
9 5 0 16 1
311 0 1 0 0
2調査した37戸のうち,出稼ぎ者を出している戸数は23戸で,出稼ぎ者をもたない戸数は ユ4戸である。更にこれを詳細にみてみると,出稼ぎものを出している23戸のうち,16才 以上の長男で,島に居残っている家は1戸もない。このことは,この島の特異な状況を示して いるものである。普通の農村に於ては,離村者,出稼ぎ人は次,三男が大部分を占め,長男は 稀れである。
次に,出稼ぎものを出していない14戸のうち8戸は母子家族で,而も16才から60才ま での男子を持たない家であり,残りの6戸は戸主を除けば16才から50才までの男子を持た
ない家である。要するに,出稼ぎものを出しでいない14戸は,出稼ぎものを出せないから出 していないだけのことである。これらの家庭も,やがて家族のうち男子が16才以上になれば 当然出稼ぎに出すものと予想される。従って,16才から20才までの在島男子5名は出稼ぎ ものを出している家庭の青年であるから漁夫を志望し待期申のものと考えられる。女子の出稼 ぎについてみるに・男子に較べて著しく少数である。これは特別にrこの島が女子を大切にす るからというわけではなく,この島の農業労働力として必要なためである。
第3表は一世帯当りの人口を示したものである。この二一世帯当りの人口は,県,郡,町の 平均よりも多い。しかし,出稼ぎ人口を除くと,一世帯当り4,4人で,県,郡,町の平均よ
り少ない。この4,4人は全国農家一・世帯当り人口と比較する時,著しく少ない。
職業別戸数についてみるに,島の総戸数43戸中41戸は農業で残りの2戸は無職である。
(この2戸はともに老齢者の独り暮しで,子供は島外で定住している)。
一一
@4
第3表 一世帯当り人口
(県,郡,町,については長崎県新誌による)
長 崎 県 5.0人
南 松浦郡
4.2富 江 町
4.8黒
島 5.3(長崎県新誌一森寿美衛田申大二共著
日召禾028年)
足手まといが1,3人,62才以上の老入0,
3人となるQ普通農村とくらべると,この島の 農家1戸当りの労働力は著しく少ない。しかも
,16才〜61才の働き手をみるに,そのうち の三分の二は女子の働き手で,男子の働き手は 僅かその三分の一一にすぎないQ
次に島の生産活動を規定する大きな要素であ る学歴人口を示すと第5表の通りである。
これは37戸の16才以上の男女残りなく全
第4表は農家35戸について,年令階級別人 口の調査を示したものである。(この表は出稼 ぎ人口を除いたもの。)
この表でもわかるように,働き手となる16 才〜61才のものが4⑪%で,9才以下の足手 まといが30%,62才以上の老人が6%であ る。これを1戸当り平均どれほどの労働力をも っか,みてみると,働き手1,7入,9才以下
第4表 年令階級別農家人口 (出稼ぎ人口を除いアこ)
男 女 計
%
一・ ヒ
:平均 〜
9才i{2〜15 以下
27 2047
301.3
18 21 39 24
1.0 16〜61
21
43 64 40
1.7
62才 以上
6
4
10
60.3
計
72
88 160 100部について調べてみだ。無学歴者は男女とともに老人で ある。小学卒が最も多く,高小卒は僅か6%たらず,旧 制中等学校卒は5%アこらずである。叉,若い世代の教育
・をみるに,新制高校卒は一名もなく,現在,高校に在学 中のものはいない。この地区が地理的悪条件にあるとは いえ:甚汝低調である。
(ロ)土地利用第6表は黒島の農家41戸の経営する 耕地を示したものであるが,表にも示されているように,
この島の耕地は奎部畑地である。1戸当りの耕地面積
第5表 学 才人 口
1馴日計
無学 歴 小学 卒
高小卒 新制中卒
旧制中等卒
新制高卒
計
1
35 6 143 0
595
330 10
2 0
506 68
6
24 5 0 109
は,本県の1戸当り六反五畝よりや、広いが,農家記入に重要な比重をもつ田地が全く無くて 畑地だけである乙とは,却って経済的に不利であろう。
第7表は経営面積別農家数を示したものである。三反未満の農家24%は,長崎県32・7 一%に比すれば少ない。全国23・8%とほぼ同じである。これに五反以下の農家を加えると,
46%となり,長崎県48・1%よりや〜少なく,全国40・8%よりも多くなっている。
島の耕地の大部分を占める古い耕地は30度内外の傾斜地にあって,比較的新しい耕地は島 の中央部の二つの旧噴火口跡にある。古い耕地はや、酸性しているようである。特に驚くべき
ことは,28町歩に渉る耕地には全く道らしい道がないということである。このことは,施肥 牧穫等の作業に著しい障害をもたらしている。
5
栽培作物についてみるに,耕地が畑である関係上,その殆んどが麦と甘諸に限られている。
その他に嬬自家用の疏茱類が作られている。この島の農業も五島農業の特色である自給的性格 を示していると云えるであろう。
第6表 耕 地 面 積 耕 地 1一戸当り 1総醸i田
畑田
畑計 絶倒178,。Ol丁133,。。丁丁145,00ぎ丁1。.21丁1。.3雪丁。.6雪渓
黒島1281 ・1281 ・1・・7r。.7
県のは長崎県産業読本(昭和30年)による黒島のは富江町役場
資i料(1956)による第7表 経営面積別農家数
13反以下:3−515−1・T/−1・5町i1・51側計
農家劃1・lg
{81410i41% 24122144D・1・ 100
(富江町役場資糊956による)
ば牛だけである。農…家35戸について飼育している牛の頭数について調べた。飼育戸数は25 戸で,10戸は飼育していない。総頭数は31頭である01戸で3頭飼育しているのが最高で ある。道らしい道のない島に於ては,肥料,牧獲物等の運搬,或は農耕のため,役牛を必要と することは言うまでもない。又,自給肥料をつくる上からも必要である。
しかし,この島の農家は,単にそれだけのために役牛を飼育しているのではなくて,仔牛を 育て,或は親牛に仲牛を産ませて,五島牛として市場に出すためである。この牧益はこの島の 農家経済に一つのプラスになっている。ちなみに,五島牛の市場価格を示してみよう。勿論,
時によって価格の変動があるが,大体,3才の親牛で四万円から五万円の相場である。仲牛は 六ヶ月飼育のものが,牝牛で二万八千円前後で,牡牛は二万円位のものである。この牛の飼育 は,東部の原野の草が利用されている。
しかし,一戸当り七反歩とはいえ,それは総て畑地であり,原始的に祖先伝来の麦作りと諸 作りに終始しているこの島の農家が,東部の原野を,僅かな牛の飼育のために,或は,採草地 として放棄してよいのであろうか。土質は玄武岩の風化したもので,耕地として,極地とレて 極上でないとしても,決して不適切なものではない。われわれが町の役場資料の調査によって 得アこ黒島の原野総面積は僅か畑町七反田畝二十二歩であった。実地に,現地踏査をしてみると 採草地として利用されている原野は,島の東,東南部一帯で,現在,耕地になっている西,西 南部とほ∫同じ面積であることを知った。この原野は自然村時代は入会地で明治22年の町村−
合併の際,個人所有になったものである。蓋し,当時としては,山林,原野を実面積よりも少 なく土地台帳に記載するのは別に珍らしいことではなかったようである。これもその一例であ ろう。この原野はゆるい傾斜をなし,特に冬季は頗る暖い。それは第1表を見てもわかるよう
勿論,甘藷は五島力γコロとして 商晶化される。但し,それは,種 諸,食糧,牛の飼料等に消費され るものを除いたものについてであ る。従って,その商品化の率もあ まり高いものとは思われない。た だ,最近,百合根の試作がおこな はれていることは,この島の農民 達が商品性作物に関心をもち始め たものとして注目に値することで
ある。
家畜として見るべきものと言え
一 6 一
に,冬季の寒い季節風を中央台地がさえぎってくれるからである。西部よりもむしろ耕地とし て好条件にあるこの地区を開墾すれば,耕地は一挙に現在の二倍となるであろう。しかし,島 一民は開墾に殆んど熱意がない。近年開墾が行われたが,開墾者は,島外から開墾のため移住し て来た者である。三戸移住して,今一戸だけ成功して,一町三反余りの耕地をもっている。他 の二戸は島外へ去った。
(ハ)農業技術
それでは,以上のように経営の現状に対して,島の農民達はどめように考えているだろう か。各農家から,その申心となっている働き手を一名づっ選び出し,35名について調査し アこ。第8.表はその結果である。そうして, 改善すべきだという意見の者に,何故,実行しない 1のかと聴くと,「金がないから」と答えるものが多かった。
第8表 経営に対する意識 第9表
いまあままでよい ■8名 だれでもやれる膝であるい1名 聾し鮪畝れて嫁すべい8名 犠騨力演るという仕癖3名
わからない 19名 不明 目1名
しかし,果して,衷心から改善の意欲をもっているかどうかという ことは疑わしい点がある。
同じ対象35名に,「あなたのおしごとはだれでもやれるものですか。それとも,むつかしい ものですか。」と,質問してみた。第9表はその答である。これによると,農業の仕事は誰に でもやれるやさしい仕事であるとし,日進月歩の農業技術に全く関心のないものが大部分を占 めていると思われる。このことは更に次の調査にもあらわれている。
第10表 技術取得状況 第10表は,この島の農民が農業技術の獲i得に
脹脱翻会で学ぶ巨名 現実にどのような輔をもって来たかを知るアこ 親から習った 118名 めに該禰得の実時棚査し瀦果である・
独力で学んだ 13名 この表に喰われてし るように汰部分のもの
不明 h・名 醐先伝来膿雛襯から学んで齪してい
るようである。独力で学んだというもの、うち 一名は,園芸雑誌などとって研究しているが,他のものは部落の人達がやっているのを,見よ
う見まねで覚えたということのようだ。
以上のような島の農民の技術取得に対する関心の薄さは,現実に,仕事の能率化という点に 現われている。35戸の農家について,その所有の農具について調査してみると,34戸のク
ワ,カマ,スキ・等の農具のみで,唯1戸だけ,畜力カルチベーターと石油発動機付脱穀機とを 所有していナこ。この1戸は,新しく移住して来た開拓農家で二代汝からの農家ではない。この
島は小島とはいえ,五島玄武岩地帯の特色である長い畝と広い面積をもった畑地で,機械力は 充分利用できるのである。これを昭和27年度の全国及び長崎県の状態と比較してみると第11 表の通りである。
一7
第1俵 畜力と動力機械とを (二う共 同 経 営 使った農家の割合
この島では近年まで,殆んど共同経営は行われていなか 畜力と動力と機械
1
とを使つアこ農家 つた。島代々の農家は,家業の農業を見限ったといっても
≧副 37・4% よい程諜鉄望を感じていア、ように思われる.まこと壱こ 長周 15・3% 藷と麦のみの號とい湘先代三山のしかたに縞れ 黒劇 2・8% 膿民にとっては,麦七反作って,七山の牧穫で,これを
長崎県産業読本(昭和30年) 市価に換算しても三万五千円,それから,肥料代,農具損 による
耗費をひくと一家総動員の牛ケ年の牧入としてはあまりに もみじめであると老えられたであろう。この記入は,豊漁期に於ける一漁夫の一ク 月の牧入に もならないほどである。かくて,伝来の家業は,老人,女,子供の仕事として,副業的に老え 一家経済の重点を漁夫としての出稼ぎに置いたのである。この点については前述の「(イ)人 口」のところの出稼ぎ状況を参照されてもわかること㌧思う。この島の殆んどの農家はまさに 第二種兼業農家であると云えよう。唯,出稼ぎ人をもアこない14戸はやむなく専業農家になっ ているにすぎないのであって,子供の成長を待って,第二種兼業農家になることを期待してい
るといっても過言でない。
このような状態からは,共同経営の意識の起らないのは当然である。
しかし,最近は,この事情が少し変って来ナこようである。それは進歩的な開拓農家の移住に よって,共同化の推進がみられるようになったことである。先きにも述べたように,近年,開 拓農家として移住して来た農家3戸のうち,1戸だけこの島に踏みとどまって成功しているが
その農民は現在農業協同組合黒島支部長をしている。昭和30年度には,ついに無電灯地区の この島に部落共同経営の発電所を設立し,各戸に電灯をひくに至った。そうして,部落共同経 営の精麦所を附設するようになった。このことは,農業経営の合理化,近代化のおくれたこの 島の農業に明るい将来をもたらすものとして,注目すべきことである。
4.生産構造とその課題
大内力氏は,その著「農業問題」(岩波新書)の中で,北海道をのぞく府県では,1936年(
昭和11年)ぐらいの経済条件を前提とするならば,凡そ一町五反以上を耕作していなければ,
農業だけで自家の家計をさ〜えるに足りないとし,一町五反が小農の限界であることを明かに している。まして,この島のように畑地僅か七反(平均一戸当り)しか持たない農家は,農業 だけでは家族を養えないのは当然であろう。それだからと云って,この島の農民が農業を副業.
視して,他に牧山を求めるような現状には賛成することはできない。果して,この島の農業生 産はこのま〜でよいであろうか。もっと豊かな島民の生活を保障する農業経営の方途はないも のであろうか。われわれはこの問題について亥のように考えるものである。
この島の気候は頗る浬暖で,降霜も殆んど稀な,海洋性気候である。第12表をみてもわかる ように,対岸富江は周一緯度上の長崎,熊本に較べて平均気浬も高く,最低月も高く却って遙 か南に位置する鹿児島や宮崎と殆んど等しいのである。更に重要なことは地浬である。農作物
一8
の栽培に地温の重大な影響は論ずるまでもないことであろう。富江の地濫は各地の中で最高月 に甚だ高く最低月に最も低い。
第12表気温と地温表
地
名富 長 熊
鼠宮
江 崎 本
誌 島
崎
気 温
鱒均壁高月限低月隊差
16.4
15.6
15.5
16.7
16.6
126.8(皿)}6.9(1)
l I
27.0(V皿) 6.7(丑)l l
26.6(V皿) 5.5(1)1
127.0(V皿) 4.5(1)
26.7(血)
6.8(D
20.3
21.1
22.5
19.9
19.9
均欝呼野鰻
17.8
17.9
18.3
18.7
19.0
25.8(伽)
124.8(D()
i
125.4(ヤ血)
24.9(K)
26.2(皿)
1
10.0(D
11.3(皿)
11.5(D
12.9(皿)
12.Oq)
15.8
13.5
13.9
12.0
14.2 3.3
5.8
7.0
6.0
5.2
備考 富江は富江測候所記録 昭和6〜21年の平均
弛は中央気象台本邦気候表(昭和17年)大正14〜昭和14の平均
これは一見不利に見えるが,地温は気浬と違って昼夜で変らないし,推移は極めて徐六であ るがら,気温の較差の:大きいのと同じような障害を植物体には与えない。むしろ,注目すべき は,最低月の気濫と地濫との差が,他地より著るしく小さいことである。この条件が富江,ひ いては左島を暖地系植物め温存に極めて優れた環境としているのである。黒島は黒潮の中に浮 ぶ小島である故,気温や地濫に於て,富注よりもより広上の好条件を具えていることほ明白で ある。この恵まれナこ気候を作動栽培の上に生かすことほできないであろうか。鹿児島,宮崎と 変らない,否,それ以上の気候は,促成栽培に,採種農業に,商晶性作物の育成を可能ならし むるものと考えられる。市場の遠隔が問題となると思うけれども,この島から長崎市まで僅か 六,七時間の距離である。
ところが,この島は更にもう一つの天与の恵みをうけている。それは土地である。土地利用 のところの開墾の項でも述べたように,実に,現在の耕地に匹敵する広い原野を持っていると いうことである。五島玄武岩地帯の土地利用度を示した
第13表 玄武岩地域の土地利用度
縦鷺瓢郷斎烈烈梗塞地域綱酬集甘地
筈である。 福江183%15%14%18%
それでは,鰍にこの原野醐地化されなかったので富江148%19%17%1・9多
あろうか。そめ:第一め原因は,集落が西部にあるという q952五島列島〜九十九島〜平戸島 学術調査書総編による)
ことである。このことが,中央台地をへだてた東部の開
発をおくらせたのである。勿論,2粁あまりの農道が設けられ、ばこのようなことはなかった であろう。
さて,それでは何故西部に集落が位置しているかについて考察してみよう。それには二つの 理由があげられるQその一つは,この島の先佳者が,島の寂蓼感から,福江島の見える西部に
:先づ安佳の地を求めたということである。このような現象は離島一般にみられる傾向で,山口
9
氏も伊豆諸島の集落についての研究の中で,その集落が何れも本土に直面している側にまつ安 住の地を求めて位置していることを明らかにしている。 (地理学通論Vo1.11, No.12,
PP 981一一1009山口貞夫伊豆諸島の集落型1935)その二には,嘉の東,南,北部は30米 の断崖で,舟着き場を求められない。そこで,舟着き場のある西部に集落をつくったのであ る。実にこの原野開拓のおくれている第二の原因は,明治以来の五島漁業のめぎましい躍進で ある。それに比して,五島農業は市場の遠隔のため旧態依然たる自給的性格のま〜に打捨てら れた。この島も,祖先伝来の藷と麦の栽培を続けるだけで,近代的な農業技術をもって,近代 的な農業経営の:方向に進まなかっナこ。そうして,海に背を向けた島民は,周囲の輝やかしい漁業 の発展に刺戟されて,海の方に向きなをつたのである。今度は島に背を向けた農民となった。
しかし,資本の制約は島民をして漁夫の道に進ましめたのである。かくて,島民は農業への関 心を薄くし,漁夫としての牧入を重視するようになったのである。
このことが,この原野を開拓すれば,おそらく農家一戸当り,一町三四反の耕地をもつよう になるであろう。又,恵まれたこの島の気候条件よりすれば,必ず商品性の高い作物の栽培も 可能となるであろう。その時こそ,この島は豊かな経済をもつであろう。
そのためには,先づ島民が,置かれたま㍉流されるま、の現状から脱して,農業に対する 強い関心と意欲を持つようにならなければならない。更には,近代的な農業経営の技術と識見 を身につ1けなければならない。しかし,率だ,それナζけではいけない。この島の開発と経営の 導代化のためには・意欲と識見と技術に加うるに奪本が問題となる。農業資本の問題は農政の 問題として解決されねばならないとしても・資本確保の前提!ま並並ρ)協同化にみると言ってよ いであろう。
意欲織見も蹄も・さら1こは共同化への導も・すダ鞘9仕事である・島の糖はこの よ至鵬の課騨こナこえる癖轡育計勲用即渓践すべきである・
現在嚥劉燵は・実際は海面を向1ナ丁いる蓼な《・島階を的μ るのである・
もう一度,島民が背を向けかえて,海に背を向け,島の課題に取り組む時,島の輝やしい将来 が約束されるのではあるまいか。
5.生 活 圏
(.イ)交通を中心として
一この島は, 他の地域と往来するには,先づ,一二日往復の小発動機般(定期船)によって富
潮まで出なければならない・その聞ρ腋時間は細。分飾る・富江町から1晶晶略 主要な地域にバスが通っている。五島の玄関であり最大都市である福江市まで,富江からバス で約}時聞の行程であるb福江から長崎市までは汽船で四,五時間を要する。この島には港の 三二がなく,自然の地形を利用して・定期船が発蒲しでいる。.そのため・少し風が強くなると すぐ欠航する。
(ロ)鼻血を中心として
この島も僻地離島の特色である近親結婚が行われている。37戸について調べると,殆んど
一io一
島内で通婚,僅か島外との通学は七件で,その内訳は島外出婚二,島外よりの入婚五である。
出婚は対岸富江町一,玉ノ浦町一,入婚は奈良尾町回,西彼杵三二,富江町二,山口県一とな っているd
(ハ)通商を中心として
3・7世帯につい℃世帯毎に世帯主の昨年度闇の離島回数を調べたのが第14表である。その 離島理由は第15表の示す通りである。
み これを通商面からみてみると,
第14表 離島回数(年間) 、 第15表 離 島 理 由
「蚕剃傲L ォ 三 しか
殆んどない・
2回〜5回 6 〜10 11 〜20 21 州30
30回以上
2
8 6
14 43
病院 にゆ く 床屋 に ゆ く 精 麦 に ゆ く 買物 に ゆ く 子供や主入に面会
公務のため(部落事務)
仕 入 の ため
6.
1 12 23 3 3
2島内にある商店は:二軒で,
も極く僅かな種類の日常品(薬 瀬戸もの,荒物金物は勿論,タ バづさえ売っていないンしか売 ってないから,どうしても一寸 とした買物のためには富江町に 拙なければならな。離島すると 埜っても,殆んど対岸の富江町にゆくのであって,二軒の商店の仕入年きも富江町である。、
行町人が殆んど来ない・富江町より遠隔の土地にゆくのは島民の出稼ぎ先きに家族が面会に ゆく場合だけである。
(二)出稼ぎを中心として
前掲の第2表Cは出稼ぎ地域別にしらべた出稼ぎ人数を表にしたものである。ζすしらの出稼 ぎ人の螂頒アグ1・一ソ蛇キなどの漁業に坐している野夫である・従?て・仕事の関係 上,その帰省は殆んど不定期である。漁船の修理期間とか,特別の休暇の時に帰省するだけで
ある。在島の家族で主人や子供に面会のため,奈良尾町,長崎市などに醜聞一二回面会にゆく のは第15表にも明かである。次三男は結婚して一家を構えると,それぞれ勤務先に定住して,
殆んど島には帰省しないようである。長男は零しい労働にむかない年令になると,或減両親が 老齢になると,勤務をやめて,島に帰り農業に従事する。その時には,その子供達は既に出稼
ぎに行ってい為。
島の二子が殆んど出稼ぎに行くということは,島の社会の閉鎖的惟…格をいちじるしく弱めて
いる。
2.島 の 文 化 1 風 俗 習慣
この島には,普通離島僻:地に見受けられるような旧い風俗習慣の墨守は殆んど見受けられな い。むしろ,旧い風俗習慣の批判とその合理化に努力しつ、ある様子がうかがわれる。このこ
とは,われわれの調査まえの予想を全く裏切ったのである。島民のこのような生活の態度は何 に起因するのであろうかと,調べてみた。ところが,結局,それはこの島の出稼ぎの性格に由
11一
することが明らかになった。普通,農村から都会へ流出する人口は,その殆んどが次,三男で ある。長男は家の跡継ぎとして,村に残り,家業を手伝う。そうして,やがて一家の主となれ ば,父がやったと同じように,家の祖先をまつり,父母弟妹の面倒をみるばかりでなく,村の 風俗習慣を忠実に守って村人とつきあい,慣行どうりの農業生産を行う。もし,これとちがつ た行動をすれば,村人からは白眼視され,親戚からは非難される。かくて,農村社会の保守的 性格は持続されるのである。ところが,この島では,次,三男は勿論,長男も例外なく出稼ぎ にゆく。それは本調査に於ても既に明かにしたところである。この長男はやがて島に帰って島の 社会をつくるのである。しかも,出稼ぎ先は,長崎市が大回を占め,他地方に行っているもの
も,その職業の性格上,種汝の地域の生活を体験する。そうして,アグリ或はソづビキ漁業に 従事する関係上,機械化され,合理化された環境で,長い年月を過すということになる。
このような,この島の出稼ぎの性格が,旧慣に拘泥しない島民の生活態度をつくりあげたの である。ただ・おしむらくは・このような進歩的・合理的態度が・農業生産にまで及んでいな いということである。けだし,それは島に背を向けた島民として,すでに人生の峠を起しとた いう生活感をもつ島民として当然の態度であろう。
それではこの島の風俗習慣の主なものについてみてみよう。
まつ年中行事についてみるに,これは普通の農村とあまり変らない。(1)正月は旧暦の正 月である。特に興味ある行事は,旧暦正月十六日に部落民総出で,男女に別れて綱引きをする 行事である。そうして,必ず女子の組にに勝たせなければならないことになうている。(旧暦 三月三日桃の節句,この日は未婚の女子は三汝五女に海にたむろして御馳走をたべる。未婚の 男子はタコをあげて遊ぶ。(3)五月五,六日氏神祭礼,この島には田地がないから麦の稔る
この季節第一回だけの祭礼となっている。 (4)旧五月五目の節句,しょうぶのかわりにかや をか、げる。(5)旧七月十三,四,五日お盆。似上がその主なものである6
次に冠婚葬祭についてみてみる。
結婚については非常に進んだ考えをもってそれを実行している。まつ部落民37名(主とし て四帯主)について次のような質問をした。
「あなたの子供さんに嫁を貰う時とか,或は嫁にやるときに
(イ)相手の家柄が自分の家柄と同じぐらいか,それ以上でなければならないと思いますか (ロ)家柄よりも本人達同志の気持の方がもっと大切であると思いますか。
(ハ)宗旨がおなじであることが大切ですか。」
この問に対して,:第16表のような回答を得た。この表で 鋼6表結婚に対する意見 も判るよう鴫民の結鞭は非常1眠主的・進歩的なもの (イ塚椰大切であ司4 である・そうして・これが実際に行われているのである・ (葎)李㌶気持猷馴29 特に灘くべきことは・繍魏を一万円酬ですませて (・・)鮨が畑である1・
いることである・かっては・麗+万円以上か・ってい列(一)不 明μ
そうである。それが二,三年前ほどから部落民が相談して
一12一
冗費を省くことになり,結婚披露宴もごく近親者に限られ,花嫁の持参物は本人の力でと、の えられるもので,他の人からの贈物は許さないこと、した。これが厳重に励行されている。
葬儀も著るしく改善され,葬儀用具は部落でと、のえられる。飲み食いは簡素化して費用を かけないようにしている。葬式の形式は仏教の形式をとるが,神官が司祭する。信侶は関係し ない。これは後に述べる。この島の宗教のためである。死体は土葬にする。
冠婚葬祭の改善は言うは易くその実行は困難である。都会でも農村でも,申し合せばするが 実行されないのが今日一般の実状である。この島がこの困難さを克服している点は驚歎すべき ことであるσ
この島の迷信についてしらべてみたが,現在殆んど信ぜられていない。祈濤など信じるもの も殆んどないが,少数の老年の女子にはこれを信じているものもある。 「産婦は・コノシ冒とい う魚を喰ってはならない」というようなものは合理的に解繹して,産婦が脂濃い魚肉を喰べて ならないことを訓えたものとして,これを守っていると島民たちは言っていた。次に,宗教に ついてみる。:第17表は37戸についてその家の宗旨を調べたものである。この島には寺院はな い。小さな祠が一つある。明治初年まで法仙坊という寺があった 第17表 宗 派
の家は神道である。宗教について鳥民達と話し合ったが,概して,宗教に関する関心は薄いよ うである。特に生死については全く淡汝としている。死んでから,とか,死ぬとは,というよ うなことは深刻に考えていないものが非常に多いのに驚かされた。 「舟板一枚下は地獄」の生 活で鍛えられた為であろうか。とにかく太古の民のような,素朴な,現実的な,明るい生死観 である。従って,島民は神を求める必要を感じていない。神社寺院に参拝することも必要とせ ず,神の教を聞く欲求もない。神道と言っても,神官の来島は,氏神の例祭の時と,葬式の時
だけであって,別にそれをもの足りないともしていない。
お産についてみる。小さな孤島という地理的条件のため,助産婦は居ない。それで,昔の農 村がそうであったように,その二又は近隣の女の年寄が産婆役をつとめる。産褥にある記聞は 早いものは一週間,おそくて二週間である。満一才のお誕生日には,赤白の餅を十二かさねて その子供の足で,踏ます風習があったが,不衛生な点を反省して,現在では,筆と紙,或は針 仕事道具の危険でないものをつかませる習となっている。
方言は島民同志では使用するが,我汝のような外来者とは標準語で会話をする。あまり,ひ どい誰は聞かなかった。出稼ぎの生活が影響しているのであろう。
2.社 会意識
この島には東北地方の農村に見られるような同族的結合(このことは福武直著「日本農村の 社会的性格」(1949年)特に34頁から48頁参照)は見られない。既に,地縁的結合に進展してい
る。しかし,その結合度は余り強固とは言えないようである。それは,島の危機(島の経済の
一13一
ゆきづまり)に際して,協同してこの島の農業経済を打開する方向に努力するのではなく,各 自,牧入の道を求めて島外に出稼ぎに出ていることが原因であろう。而も,その勤務先きは漁 業会社であり,或る意味でのサラリーマン的生活を経て来ているからである。このことは同時 に,農村に見られる排他的,閉鎖的性格が著しく弱められ,入村者を異質的なものとして区別 するようなことをなくしている。現に,この部落の農協支部長,育友会長として活躍している 人は,近年入植して来た農家の人である。
しかし,最近では島の社会をよりょくするため,冠婚葬祭の改善に協力して立ち上り,或は 部落協同で発電所をつくり,精麦機を購入するなど,部落結合を基礎とした村づくりが見られ るようになった。このことが全島民の自覚によってなされているかという点は甚だ疑わしいQ むしろ,少数の指導勢力が推進していると言うのが正しいであろう。
われわれは,島民が民主的社会の建設に対して,どのような識見と欲求をもつているかを知 るために,島民の教育観,人間観,ひいては社会観を調べてみた。三十七世帯主に対して,学 校に力を入れてもらいたいと思うことを三つあげ,それに大切なものから一,』二,三,の番号 をつけて貰った。第18表はその結果である。
第18表,a 教育努力点に対する希望 第18表, b
④卑麓きあ臨書談義
⑭礼儀正しくするように
⑧人を敬い大事にするように 自分の考えをはっきりいえる
㊥
ように
㊥企の言うことをよ幽くよう 罐の言うことをよく聞くよう
㊦騨融こ気をつけるよう
18 3 1
可
2 2
1
冠位1第3位1計
11
10 1 1
21
28 8 1 0
74 0
37 21
3
211
7 3
(イ)
(ロ)
(ハ)
(二)
(ホ)
(へ)
(卜)
第1位.第 2位.第3 位.合計
84
37 65 17 12 7
備考 第1位3点 備考 37名を調査したが,うち9名は「学校に一任してい
第2位2点 る」とか「わからない」とか答えて,明瞭な希望を
出さない。上に集計したのは明瞭に答えた28名の希 第3位1点として計算 望意見である。 した。
この表でも判るように,鳥の人達は,学校は,子供達にお勉強と「おぎょうぎ」を教えると ころであるという伝統的な教育観を示している。特に,技能の取得を示す(イ)に第一位の数 に減ても,頻数の合計に於ても,点数の合計に於ても圧倒的な集中を示している。これは教育 とは3R Sを教えることだという考えを現わしている。(ロ)から(ト)までは人格内容に関 するものであるが,このうち特に民主社会人として最も大切な人格尊重と自主性を示す(ハ)
(二)は最も軽視されている。(ホ)(ト)は悪くすると封建的社会人の性格助長を結果する と考えられるものであるが,これを(ハ)(二)と較べると頻数と合計点に於て約三倍,第一 位の数に於て二倍である。我が国民主化に最も大切な,しかも我が国民性に最も欠けるところ
一14一
の(二)(ハ)の人格面こそ,教育の最:二二力点とされねばならないものであろう。この島の 人達は未だ民主社会人としての自覚に徹していないと言ってよいであろう。
次に,島民の国家社会に対する意識についてみてみよう。われわれはこのために,再軍備と 憲法改正との問題をとりあげた。「我が国が軍隊をもっことは賛成ですか,不賛成ですか。」
とたつねたのに対して,37名の世帯主の答は:第19表の通りである。又,r今の憲法を改正す ることに賛成ですか,不賛成ですか。」との問いに対する回答は第20表の通りである。
第19表再軍備に対する意見 第20表憲法改正に対する意見再軍備に対する賛否は大牛のも
賛 劇1・ 賛 劇5の償えている・しカ〉し・どう
1わからない116 1わからない「29憲法改正}こついては・賛否を明
確に答えたもの僅か一九パーセ γトで,どうでもよい,わからないは実に八一パーセγトを示している。蓋し,前者の関心度 の高いのは,戦争の傷手と李ラィγの身近さとのためであろう。この調査をもつてすれば,島 民のより広い社会に対する関心や意識は薄弱であると言ってよいであろう。
3.教 養 娯楽
離島の交通不便は,生活圏の三下をもたらし,諸種の丈化的経験を貧困ならしめる。かつ,
一:交化セγターである都市よりの遠隔性は二化浸透の時間的おくれをもたらしている。しかし,
現代に於ては,も早,そのような後進性もマスコミユニケーシヨγの発達によって容易に克服 できる状態になった。そこで,島民の教養娯楽についてマスコミユニヶーシヨンの面から調査
した。
(イ)新 聞
第21表は三十七世帯について薪聞購読の有無をしらべた表である。購読している世帯は三世 帯で部数も三部である。これを島の一世帯当りの部数に換,算してみると,0,08部である。
叉,一紙あたり何人かを示すと,実に一紙当り54人である。これは離島的条件を考慮しても 想像もできない低率である。ちなみに,これを全国平均と較べてみると,1950年には一世手当
り1,7部であり,1955年には一一紙当り2,48人である。
第21表新聞講読状況 第22表ーラヂオ有無 第23表雑誌講読
i戸数騰 1戸数1台数
略画弔している1313 ラヂ予審【313 購略しているレ1114 蘇していない1341・ ラヂオ鋼341・ 回していない1261・
(ロ)ラ ジ オ
第22表で判るように,これも又,三世帯が所有しているだけである。昭和30年,全国平均 聴取率七八パーセントである。しかるにこの島の聴取率は僅か八パーセントである。
(ハ)映 画
一15一
朕画の観覧も町の教育委員会より,社会教育のため年一,二回映写する時を除けば皆無と言 ってよい。対岸の富江町には常設館もあるから,観覧も容易と思われるが,興行が夜のため,
泊りがけでゆかねばならない不便がある◎小島のこととて巡回映画の興行もないとのことであ
る。
(二)雑 誌
第23表は雑誌の購読世帯数とその部数である6購読雑誌の種類は,家の光(八)園芸雑誌(
一)農業朝日(一)平凡(一)明星(一)婦人クラブ(一)丈芸春秋(一)で総部数十四部で
ある。
(ホ)余暇活動
成人の男女,各汝20名のものについて余暇活動の内容を調査した結果が第24表であるQ 第2俵 余暇活動の内容 これで先づ気づくことは,余暇活動の内容が二
陣1女訓
読 碁
ラ
雑 飲 魚
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