一般価値理論の要請
‑I.A.Richards の価値理論の批評的研究‑
内田義郎
A Critical Examination of I.A.Richards's Theory of Value YOSHIRO UCHIDA
現代文学批評の創始者とよばれるI.A.Richardsが英米文学批評に与えた影響はいうまで もなく大きい.しかしながら,その影響は刺激という意味での影響にとどまったように思われ る.これは,批評の領域に「より純粋な科学」(1)を建設したいと願い,みずからの主著に「文芸 批評の原理」という名称を与えたRichardsにとっては,不本意なことであると思われる.
°ヽいうまでもなく,原理(principles)とは,そこから他の一切のものが導きだされ,それによ って他の一切のものが規定されることを予想した言葉であるからである.たとえば,r文芸批 評の原理」でもっとも強調されている価値理論はRichardsから大きな影響をうけたNew Criticsによって攻撃されているばかりでなくNewCriticsに属しない他の批評理論家から も否認されているのである(2)さらに,その否認のされかたもおそらくRichardsにとっては不 本意であろう.「西暦紀元3000年の人間の知識からみれば,あらゆる現代の価値理論はみすぼ らしいものに見えるかもしれないということは,心に銘記しておかねばならない(3)
・Jと書いた
Richardsは,自己の価値理論が永遠に絶対的原理としてとどまるとは考えなかったにもせよ それが修正されて新しい価値理論を生むことになるのを期待したであろう.あるいは,かりに, 否認される場合にしても,自己の理論が虚偽あるいは偽であることを論証あるいは検証される ことを期待したであろう.ところが,実際に起ったのは,修正でもなければ論証あるいは検証 による否定でもなく,全く頭からの否認なのである.このようなことは,Richardsが模範と する自然科学の理論においては起りえないことである.したがって,これはまた,批評理論と か自然科学理論とかいう場合・「理論」の意味になんらかの違いがあるのではないかという考 えをも暗示するのである
°°°°e °ヽ°°°
私はRichardsco価値理論を理論として検討してみたい.理論としてという修飾句を加えた のは,これまでRichardsの価値理論に対して試みられた批評は・ほとんどすべて結論先取の 議論であったと私には思われるからである・そしてRichardsの価値理論の検討とは,論者 の関心のありかたにしたがって,次のいずれをも意味しうるであろう.(1)Richardsの批評 理論において一般価値理論が要靖されるいきさつの検討,(2)Richardsの提示する一般価値 理論の検討.(3)一般価値理論の応用としての倫理的価値理論の検討,(4)倫理的価値理論の 応用としての芸術経験の価値理論の検討・本稿では(1).すなわち、Richardsの批評理論にお
いて一般価値理論が要請されるいきさつの検討を試みることにする.
*
Richardsの批評理論の中心をなすものは価値理論である.しかも,その価値理論はいわゆ る芸術的価値理論ではない.それは一般価値理論(general theory of value)(4)である.
Richardsはこれをさらに「一般価値」理論(theory.of ordinary values)とも,また倫理的 芸術理論(moral theory of art)(6)ともいいかえる.この三つは彼にとっては同じ意味をもつ のである.つまりRichardsの批評理論においては,一般価値理論‑ 「一般価値」理論‑檎 理的芸術理論が中心をなすのである.これは,ある人々,例えばKant美学の影響をうけてい
る人々,にとっては不可解なことであろう.それゆえサRichardsの批評理論において一般価 値理論が要請される理由の説明からはじめることにする.
その理由の第「はサRichardsにおける批評という言葉の意味であり,その第二は, Rich‑
ardsの芸術経験の解釈のしかたである.
「批評とは何か? 」この間に対するRichardsの答を,彼が芸術や詩,批評や批評家につい て述べているところから要約すれば,次のようになる. 「批評とは,芸術経験‑芸術作品に ょって鑑賞者の精神の内部にひきおこされる経験‑の価値の判断である.」(7)ただし,ここで
「経験」という言葉の意味は, Richardsが6章の注で述べているように, 「精神の中で起る あらゆる現象」ということであり, 「精神状態,あるいは精神過程」と同じ意味である.この ように,批評における芸術作品を,知覚対象としての芸術作品によって喚起される鑑賞者の精
(8) (9)
神現象と等置する点において, RichardsはPaterやValeryと軌を一にしているのである.こ れによってRichardsの批評理論において「芸術的価値理論」が要請される理由はわかったの
° °
であるが,これだけでは,なぜそれが「一般価値理論」でなければならないか,はわからない.
それを説明するのが第二の理由である.
では,第二の間「芸術経験‑つまり,芸術作品によって鑑賞者の精神の内部にひきおこさ れる経験‑とは,どのような種類の経験か?」にうつろう.この間はRichardsにとっては
「芸術経験はあらゆる経験のうちで独自な経験か?」という問と同じ意味をもつのである.こ の間に対しては, 「審美的状態という幻影」と題する2章にRichardsの回答がみられる.題 にみられる通り,この章でRichardsは,審美的状態‑この言葉は!他のどんな経験にもは いってこないで審美的経験にだけはいってくるある特殊な精神能力ないしは精神要素があると 仮定された場合の審美的経験,という意味で用いられている‑というものは幻影にすぎない
として,その存在を否定しているのである.審美的経験に「美的判断力」という独自の精神能
力の存在を仮定するKantの説や, 「審美的情動」という独自な精神要素の存在を仮定する
Clive Bellの説などが,その批判の対象としてあげられている.それではRichardsは芸術経
験の特異性を全く認めないのであろうか.芸術経験と日常経験の差を全く認めないのであろう
か.そうではない. Richards自身に答えさせよう.ここでは, Richardsは,独自な構成要
素は含まないが,形態において特殊である審美的経験があるという説(つまり, KantやBell
とは違った意味で審美的経験の特殊性を認めようとする説)に対して答えているのである.
「これに関しては,私はそのような審美的経験が識別されうることを認めながらも,次の点 を強調しておこう.すなわち,審美的経験は他の多くの経験と酷似していること,その相違 点は主として構成要素間の関連のしかたにあるということ,および審美的経験は日常経験が さらに発展したもの,日常経験がより精妙に組織されたものであるにすぎず,けっして新し い異種の経験ではないということ,を強調しておこう.われわれが絵を眺めたり'詩を読ん だり,音楽を聴いたりするとき,われわれは,美術館への途中にしていることや,朝,服を 着るときにしていることと全く異なったことをしているのではない.ただ,経験がわれわれ の内部にひきおこされる場合のひきおこされかたが違うだけである.そして一般的には,前 の経験〔‑審美的経験〕の方が後の経験〔‑日常経験〕よりも複雑であり,その経験がうま くおこなわれた場合には,よりよく統一されているのである.だが前の場合の活動は後の場 合の活動と根本的に異なった種類の活動ではないのである00)
.J
かくしてサRichardsによれば,芸術経験と日常経験は本質的に異なるものではなく,程度 において異なるにすぎないということになる芸術経験は、日常経験外の特殊な経験ではなく て,日常経験内の特殊な経験なのである.
このように芸術経験を解釈するRichardsに,芸術経験の価値判断(これが彼にとっては批 評の意味である)の基準がかりにあるとするならば,その価値基準は同時にあらゆる日常経験 の価値基準でもなければならないという考えがうまれてきたことは,理解できることである.
私はいま「理解でき̲る」といって,「必然である」とはいわなかった.というのは,私はここ に論理的必然性を認めることができないのである.もともとサRichardsが「芸術経験と日常 経験は本質的に同じである」という場合の「同じ」という言葉は,「芸術経験と日常経験を科 学的事実として観察した場合,芸術経験のみに含まれて日常経験には含まれない心理的構成要 素を発見できない」ということ、の記号として用いられているのである.「同じ」という言葉を このような記号として用いることに異議をとなえることができないのはいうまでもない.しか しながら,さらにゆずって,かりに芸術経験を含めてあらゆる日常経験が共通の心理学的構成 要素から構成されているという意味で「同じ」であることを認めても,そこから《だから,め らゆる日常経験‑そのなかにはもちろん芸術経験も含まれる‑の「価値」が同じ価値基準 によって判断されなければならない》という結論は論理的にはでてこないのである.それは,
《ダイアモンドという物質と木炭という物質が共通の物理学的構成要素から構成されていると いう意味で「同じ」である》という前提から,《だから,ダイアモンドの「価値」と木炭の
「価値」が同じ価値基準によって判断されなければならない》という結論が論理的にはでてこな いことや,(舞踊という身体運動と100メートル卓走という身体運動が共通の生理学的構成
要素から構成されているという意味で「同じ」である》という前提から,《だから,舞踊の
「価値」と100メートル競走の「価値」が同じ価値基準によって判断されなければならない≫
という結論が論理的にはでてこないのと,全く同様なのである.
およそ,この種のことをいいうるためには,価値と事実との間になんらかの関係が設定して あることが前提条件として必要なのである.この論理的な問題をRichardsがよく考えたこと があるかどうかはわからない.しかしながら, 『文芸批評の原理』においても,また以後の著 書においても,私の見るかぎりでは,彼がこの問題を正面から論じているところはなく,彼は いつもこの問題をかるくとびこえて事実から価値‑と論を進めているので,私自身は, Rich‑
ardsはこの論理的な問題を徹底的に考えたことはなかったであろうという見解に傾いている.
おそらくRichardsがこの問題にもっとも接近しているのは, r文芸批評の原理」の2年後 に書かれたr科学と詩』の次の一節であろう.ただし,これは, 「詩」 (poem)を「正当な読
8t)
者が詩行(verses)を熟読したときにもつ経験」と定義したあとにでてくる文章であやので, 引用文中においては「詩」 ‑ 「詩の経験」として読まれたい. 「詩とはどういうものであるか
は,以上の説明で十分わかっていただけたと思う.では次の間r詩はどのような有用性をもつ のか?J r詩はなぜ価値をもつのか,またどのようにして価値をもつのか?Jに進もう.こう いった問題を考える場合,まず第‑に銘記しておかねばならないのは,次の点である.すなわ ち,詩の経験は(それが価値をもつ場合には)他のあらゆる経験が価値をもつのと同じ意味で 価値をもつという点である.つまり,詩の経験と詩以外のあらゆる経験は,同一の基準で価値 判断されなければならないのである.では,その同一の価値基準とはなにか?」このように問 題を提起して, Richardsはさらにつづけていうのである. 「この問題に関してこれまで多種 多様の見解がいだかれてきた.それも当然といえる.なぜなら,経験とはいったいどういうも のかについての見解が,これまたひどくまちまちだったからである.よい経験とわるい経験と はどう違うか,という問に対してわれわれが与える回答は,われわれが経験というものをどう いうものとみなすか,という解釈のしかたによって決まらざるをえないからである.?ここで ち, Richardsは,あの論理的な問題をかるくとびこえてしまうのである.
r文芸批評の原理jにもどろう.さきに私は,価値と事実の間になんらかの関係を設定せず には,事実についての前提から,価値についての結論は論理的にはひきだせない,といった。こ こまでの私の論点を次の四つの点に要約することもできるであろう. (1加ヒ評理論において一般 価値理論が要請される理由はサRichardsが明白に述べているかぎり,二つある(2)その二つ の理由は,それ自体としては,異議をとなえることはできない.すなわち,第一の理由は,全 く言葉の定義の問題であり,また第二の理由も,究極的には,やはり言葉の定義の問題に帰着 してしまうのであるから,言葉にはアプリオリに意味があると信じないかぎり,だれも異議を となえることはできない・(3)けれども,一般価値理論が要請されるためにはサRichardsが明 白に述べている二つの理由だけでは十分ではない・すなわち,そのほかにサRichardsが述べ ていない第三の理由が‑たとえば,価値は事実によって規定されることは自明の理である, などが‑論理的に必要である. (4)そして,じっさいには、 Richardsはこの第三の理由を自 分の議論のうちで暗黙のうちに用いている.
しかしながら,ここまでのところではRichardsは,まだ「価値」の定義をしていない‑
「価値」の定義は「7章心理学的価値理論」ではじめてでてくる‑のであるから,次のよ うに考えられなくもない・すなわちRichardsは,私が指摘したことをよく知っていて,早 に議論のすすめかたの便宜のために「価値」という言葉をかりに用いているにすぎないのであ って,価値と事実との間の関係設定をわざと後にまわしたのだ,と。かりにそうであるとする ならば,この点を十分批判することができるのはRichardsが「価値」の定義をくだした後
Iである,ということになる.それゆえここでは,私にとってはもっとも重要であると思われ
I
るこの問題を指摘するにとどめ,この点についてのよりくわしい批判は別の機会に試みること にする.そして本稿の主な目的は,Richardsにとって一般価値理論が要請される「いきさつ」
‑この場合の「いきさつ」とは,論理的過程という意味ではなくて,ある特定の人間の心 理的事件の間のつながり,という意味である.すでにみたように,私は,論理的必然性をみい
だそうとして,ついにみいだせなかったのであるから,私としては,もはや「いきさつ」を問 題にするよりほかしかたがなくなったのである.‑を述べることにあるのだから,これを, Richards自身の言葉で語らしめるのがよいであろう.ただし,私自身も,引用したRichards
の言葉に簡略な批評をつけ加えることにする.このような批評のやりかたには,この場会には ある利点がともなう.というのは, Richards自身の議論は,さきに私が解説のために再講成 して提示したほどには,論理的に明確な形では述べられてはいなくて,主な議論から脱線して いる部分や,説得のために論点を他に移して自己の主張を補強している部分など,雑多な部分 をかなり多く含んでいるのである.批評の対象である議論がこのような性質のものである場合 には,その場,その場での批評がどうしても必要となってくる・これが,このような批評のや りかたには,この場合,ある利点がともなう,と私がいった意味である.ただし, Richards の言葉全部を引用することは,この小論の範囲では,不可能であるから,どの部分を引用する かが問題となってくるが,私は,彼の議論全体の論旨からみてもっとも重要であり,かつ「い きさつ」をもっとも明らかにすると私が判断する部分を引用することにする.
r文芸批評の原理』は, 「批評理論のカオス」と越される1章をもってはじまる.あらゆる 現存の批評理論はRichardsによれば,文字通りのカオスなのであり, 「ほとんどからっぽ
の穀倉」なのである.
「いくつかの臆説や忠告,鋭いが断片的な多くの観察,才気あふれる省察,とうとうたる雄 弁と詩的な美文,はてしない混乱,たくさんのドグマ,おびただしい偏見,思いつきと酔狂 うんざりするほどの神秘主義,ほんの少しばかりの本格的な思索,やたらに霊感をふりまわ す迷論,意味ありげを暗示とでたらめな概説‑現存する批評理論は,このようなもので成
.(13)
り立っているといっても過言ではない.」
そしてRichardsは, AristotleからCroceにいたる古今の批評家から,実に2 4種の 詩の定義を引用した後、次のようにいうのである.
「このような言葉が,批評理論の頂点であり,過去における貴高の思想家たちが芸術の価
値を説明しようとして達しえた高峰である。そのあるものは,いやじっさいその多くが考察
をすすめる出発点としてたしかに役立つものではある.だが,それら全部をいっしょにして ち,個々にとりあげてみても,またそれらをどう組み合わせてみたところで,ついに必要な 答は出てこない.なるほど,その上や,その下や,そのまわりに,なにかほかのもの,ある 請,ある芸術作品の鑑賞にとって役に立つなにかほかのものは,いくつかみつかることであ ろう.つまり,注釈とか,解説とか,評価といった思弁型の精神がおこなうにふさわしい多 くのもの.は,みつかるであろう.しかし,いま述べた程度の漠然としたヒント以上には,こ れらの言葉は,なにも説明していないのである.芸術の価値とはなにか?なぜ芸術は最高 の精神が長高度に緊張した時間をささげるに価するのか?人間活動の仝体系の中で芸術は
どのような位置を占めるのか?こういった中心問題は,ほとんど触れられないままに残さ れているのである. ‑‑ところで,こういった問題の研究をく批評〉文学に期待することが 見当ちがいなのかもしれない̲.哲学者,倫理学者,美学者,こういった人々のほうが,権威 筋ではないだろうか?たしかに, 「美」と「善」について, 「価値」について,あるいは
「審美的状態」について書かれた論文にはこと欠かないし▲これらの問題に関して惜しみなく はらわれた真剣な努力が,すべてむだであったわけではない.少なくとも, 「理性」と「直 観」と「論理の必然」だけに頼って,必要な事実というものを手にしないまま,問題と取り 組んだ学者たちがいてくれたおかげで,そういう方法が全く信用できないものだということ がはっきりしたのである・彼らの努力がなければ,その方法が不毛なものだとは気づかなか ったかもしれない・ 」(lD
このように、 Richardsは,過去および現存の批評理論のいっさいを清算してしまうのであ る.そしてRichardsの意企は,この神話的混沌から,経験論の立場にたつ論理的で無時間的 な秩樺,すなわち「原理」を確立することなのである.このような徹底した理論の清算は,批 評理論家にはまれにしかみられないことであるが,哲学者にはときどきみられることである.た とえば, Descartesは,これまで権威によって伝えられてきたスコラ哲学のいっさいを清算 することによって,自己の哲学を築きはじめようとしたのであった・しかしながら,このよう な清算は,哲学の場合であろうと批評理論の場合であろうと,この清算をささえる理由がとも なわないならば,ニヒリズムに陥ってしまうことは明らかである.では,Richardsの場合, その理由はなにであろうか.
その理由は, 「批評の言語」と揺する3章に述べられている.そこでは, 「詩も,生命と同 じく, ̄個の統一体である・本質的に持続的な実体あるいはエネルギーである詩は・歴史的に は,一つの関連する運動であり,継起的な,統合的な顕現の‑連鎖である. ‑」にはじまる.
J.W.Mackailの形而上学的な詩論の一節を引用したのちRichardsは次のようにいうので
*3Em
「言語に対して現在のような態度をとり続けるかぎり,言葉の亡霊によるこういった障害
は,いつまでも跡を絶たないであろう.使いなれた自然な言いまわしは,すべて誤りのもと
になる.芸術作品を論ずるときには特にそうである.これはよく認識しておかねばならない
ことである.自然な言いまわしというものにわれわれはあまりにも慣れ親しんでいるために われわれは,それが省略語法であることに気づいているときですら,それが省略語法である ことをつい忘れがちである.そして,省略語法が用いられていることをみつけることは,多
くの場合,きわめてむつかしいことだったのである.われわれは,絵が美しいという言い方 には慣れているが,絵がある点で価値のある経験をわれわれの内部にひきおこすという言い 方には慣れていない. 『これは美しい』という言葉が,われわれがその絵を是認していると いうことを合図する単なる騒音以上のものとなるためには,その前に,この言葉に上のよう な敷街的な言い換えをほどこさなければならないのである.これが発見されたことは,偉大 な,困難な進歩だった.」Oの
いま引用した個所にRichardsはさらに次のような自注をつける.
「この誤謬を図式的に示すと,次のようになる.現実に起ることは,芸術作品Aがわれわ れの内部にbという憧質をもったEという効果をひきおこすということである.すなわち,
° ° ° ° °
AはEbをひきおこす.ところが、われわれは,あたかもAが性質B(美)をもっていると われわれが知覚しているかのように話す.すなわち,われわれはABを知覚している,と話 す.そして,よく注意しなければ,じっさいにもそのように考えてしまう.最近の思想上の 革命的変化のうちで,われわれがなにを話しているかということについての,この進歩的な 再発見ほど重要なものはない. 」(1¢
それゆえRichardsにとっては,どの芸術分野でも使われる「構造」 , 「形式」 「釣り合
∫
い」 I 「意匠」 , 「統一」 I 「表現」というような言葉,また、絵画の批評に用いられる「深
きめ
さ」 , 「動き」 , 「肌理」, 「立体感」というような言葉,また,文学批評における「リズム」,
「強勢」,「プロット」, 「性格」というような言葉,また・音楽批評における「‑‑モニー」,
「雰囲気」 , 「展開」と.いうような言葉は,すべて,内部の精神状態について述べる言葉であ るにもかかわらず,まるで心の外の事物に内在する性質をあらわすかのように使われており, したがってこのような言葉の使用法は批評における誤りのもとになるということになる.事実, Richardsの主張によれば,このような言葉の混同した使用法が,現にみるような批評のカオ スを生みだしたのである.
いままでその要旨を述べてきた1章と3章における,いっさいの批評理論の清算について, またその清算の理由について語るRichardsの文章は,私の脳裡に一つの名前とその名前を冠 したいくつかの文章をよみがえらせる. PaulValeryと,その「詩学叙説」 , 「詩と抽象的 思考」 ,その他の詩論である.イギリスとフランスで,ともに1920年代に,詩についての 理論的考察を・たがいに他を知ることなく独自に,おしすすめていたこの二人の考え方には, 基本的な類似性がみいだせるのである.ともにこれまでのいっさいの理論を清算せんと欲し,
ともに学説,公式,ついに事実に換算することのできない純粋に言語的な展開のいっさいを換
えるに,自己が観察し,自己が定義し,自己が推論するいっさいをもってしようと決意するの
である.比較を具体的におこなうために,Valeryの詩論の一例として, 「詩等叙説」の一節
をとってみよう.
「以上のことから,次のように結論しなければなりません.すなわち,生産者,作品,消 費者という三つの項の間の関係を示すような判断は‑そうして,この種の判断は批評の過 程においてまれではありませんが‑ことごとく,どのような意味をもおぴることのできな
い,また少しく反省するだけでただちに崩壊してしまうような,空虚な判断であると結論し なければなり手せん・われわれは,作品とその作品の生産者との関係,もしくは・作品が一 旦できあがった場合,その作品によって変様をうける人間とその作品との関係しか考察する
ことができないのであります.第一のものの働きと,第二のものの反応とは,けっして混同 されることができないのであります.両者が各自作品について抱いている観念は,相互に相 容れないものなのであります. 」O力
このValeryの一節は′Richards的であるといってよいと思う.もっとも,いま引用した個 所に関するかぎりでは, Valeryの方は,知覚されるものとしての作品を生産する精神活動 の考察と,その作品を消費する‑そしてその作品の価値を生産する一一精神活動の考察とを 混同すべきでないという点に力点をおいているのに対してRichardsの方は;知覚されるも のとしての作品の考察と,その作品を消費し,その作品の価値を生産する精神活動の考察とを 混同すべきでないという点に力点をおいているので,強調のおかれている点が少しずれてはい る.
しかしながら,実はValeryも「詩学叙説」のこのあとの部分で, Richardsが強調してい る混同に言及して'それを「精神の作品を,物と同列におき,その列の中にひきとめ,それに 対して,限定されうる一つの存在をおしつけるJO申行為と呼んでいるのである.そして,このよ
° ° ° ° ° °
うな混同の慣習は, Va16ryによれば,学校教育によって助長されている慣習であり,それは, 要するに,芸術作品に含まれている本質的なものを,芸術作品を他のいかなるものでもない,
まさに現にあるところのものたらしめ,それにその固有の力と必然性とを与えているものを除 去するような慣習なのである.そしてValeryは,このような「嫌悪すべき慣習を攻撃するこ ことをやめない」脚と公言しているのである.また,一方, Richardsも, 「伝達と芸術家」と 題する4章の一節で,次のように述べているのである. 「たとえ心の働きについて現在よりも
はるかに多くのことがわかったとしても,作品だけを証拠にして芸術家の心の内部の働きを示 そうとすることは,この上なく大きな危険を招くにちがいない.そして, FreudのLeonardo daVinci論や, JungのGoethe論から判断すると,精神分析学者は批評家として特に不適 格ということになりそうである. 」軸ここではRichardsも, Val6ryが強調している混同の危 険性を指摘しているのである.
これを要するに. (1柄者が.「批評」という言葉によって抽象せんと欲するものは同じなので
あり,また, (2)「批評」という精神的行為が,他のいかなる精神的行為と誤って混同されやす
いかという点についての,両者の観察,お.よび警告も同じなのである.しかしながら,類似性
はこれにとどまらない. (3柄者は,さらに,このような混同を生じせしめる原因を,ともに言
葉の不正確な使用法のうちにもとめている点においても,一致しているのである。これらの類 似性は,この二人がたがいに他を知ることなく,独立して自己の仕事をおしすすめていたがゆ
えに,それだけいっそう注目および強調に値するであろう.
もっとも,最後にあげた類似性,すなわち(3)は,これをもっとつきつめてゆけば・おのずか ら崩れてゆき,その中から異質的なものがあらわれてくることも見落してはならないであろう.
Richardsの眼は,Valeryの眼と同じく,言葉の不確定性を見つめていても,これは,いっ さいがついには絶対的な用語に帰着し,終了し,万物の究極に「言葉」があることを信じてい る眼である. Richardsにも「貴初に自分の手を消毒して手術局部の準備をする外科医の流儀 にならう言語的状況の清潔法」¢カはある.しかし,′それはVal6ryのあの極度の潔癖には達して いない・Richardsの文章からおのずと浮かんでくる姿は, 「私は,自分に必要なものをその 場で発明するよりほかに能がない. 」¢串と自己の無知を自覚し,しかも,蓄積された知識の宝よ
りも,蓄積された知識の宝をいささかも利用しえぬ自己の無知そのものにあえて頼ろうと決意 し,それに誇りをおぼえる「四辺無知に囲まれた肉体と精神の孤島に住む」帥知的渦obinson Crusoeの孤独な姿ではない.
もしこの異質的な点に思いをとどめているならば,私の脳裡のPaul Valeryとその詩論は やがて消えうせて,ほかのものになってしまう.それは, Immanuel Kantとr純粋理性批判J
の「第二版序文」になってしまうのである.
「理性の営みに属するところの認識を取扱う仕方が,学としての確実な道を歩んでいるか どうかということは,その成果を見れば直ちに判定できる.もしこの取扱いが,諸般の準備 を調えたうえいざ目的に達しそうになって頓挫するとか,あるいは目的に到達するためにた びたびあと戻りしてはまた元の道をとらねばならないとか,あるいはまた同じ学問に携わっ ている人達を共同の目的を追求する仕方について一致させることができないなどという場合 には,かかる研究はまだまだ学としての確実な道を歩んできたとは,とうてい言い得ないの であって,まだまったく模索にすぎないと言って差支えない.それだから,できればこうい う確実な道を発見するということだけでも,すでに理性に対する功績なのである」軸
「‑形而上学においては,われわれは実に数えきれないほどたびたび錘を返さざるを得な
い.その道がどれもこれもわれわれの目的とするところ‑通じていないことが判るからであ
る.また形而上学の信奉者たちが,各自の主張に関して一致しているかといえば,どうして
まだなかなか一致するどころではない.むしろ形而上学は一つの競技場であり,しかもこの
競技場はもともと兼技者たちが闘技によってただ各自の力を練磨するためにのみ設けられた
もののようにさえ思われるのである.この場内では,いかなる競技者も,いまだかつていさ
さかの地歩をも戦い取ることができなかったし,またいったんは勝利を占めてもこれを永く
持ち続けることもできなかった.それだから形而上学のやり方が,これまで模索にすぎなか
ったということ,また最も悪いことには単なる概念のなかでの模索であったということには
まったく疑いをさしはさむ余地がないのである.」㈱
その視線の注がれている領域は,批評理論とは全く異った形而上学という領域であっても, Kantの眼も,言葉のカオスを見つめているという点においては, Richardsの眼, Valery の眼と同じである.そして,かりに他のすべての点を考慮の外におくならば,言葉のカオスを 一時的なものとみなしている点においては,すなわち,言葉のカオスの向うには,やがて到達 しうべき絶対的用語が存在しうると信じている点においてはKantとRichardsは同質なの であって,それを信じていないValeryは異質なのである.それゆえ, Kantの「序文」は, その中にでてくる「形而上学」という言葉を「批評理論」という言葉におき換えてみれば,Rich‑
ardsの文章に似てしまうのである.さらに.Richardsの心理学‑の信頼はサKantの自 然科学(自然科学とはKantにおいては古典力学を意味する)と数学(数学とはKantにお いては幾何学を意味し,またKantは幾何学を現象空間の科学であると考えた)㈱への信頼に対 応する. (もっとも,この貴後の対応関係は,細部においては完全でない. Kantの方は,数 学と自然科学とがすでに確立された科学に達していることを前提として,その方法を模倣する ことによって形而上学という新しい科学が建設されるであろうことを夢みているのに対し, Richardsの方は,心理学が将来確立された科学になるであろうことを予想して,その方法を模 倣することによってではなく,そのやがてあげうるであろう成果を基礎として,批評理論の科 学という新しい科学が建設されるであろうことを夢みているのであるRichardsは,ずっ
と後(10章の注)で幾分脱線的に次のようにいう. 「じっさいのところ,今日の美学は,先
° ° ° °
輩が残したものを土台として,そこから研究を進めることができるような科学的な段階には, まだ達していないのである.」的(傍点は本論の筆者)この行文は,その中における「科学的 な」という言葉の使用法からみれば, Kant的,そして非Valery的発言ということになる.
Richardsにとって一般価値理論が要請されるいきさつを述べようとして,私はその出発点 において,幾分長すぎる批評をつけ加えたと思われるかもしれない.そこで,ふたたびRich‑
ards自身にそのいきさつを続けて語らしめることにする. 1章で過去および現在のいっさい の批評理論を清算した後, Richardsは, 「2章審美的状態という幻影」において,特に近 代の美学を批判の対象とする.
「近代の美学は,すべて一つの仮定の上に立っている.しかも不思議なことに,それが問 題としてとりあげられたためしはほとんどない.その仮定というのは,審美的経験とよばれ るものの中には一種独特な精神のはたらきがある,という仮定である. 「美についての最初 の合理的な言葉」がKantによって語られて以来, 「審美的判断」というものは,ある非個 人的で,普遍的で,非理知的な喜びに関するものだと定義されてきた.それは感覚の喜びや ふつうの情動の喜びと混同されてはならない,とされている.要するに審美的判断を独自な
ものにしようとする試みが続けられてきたのである.ここから生まれてきたのが,審美的様 式とか審美的状態とかいう幻影のような問題である..いわば,それは,く善)やく美)やく真) を観念的抽象的に考えようとした時代からの遺産なのである. 」¢ゆ
このように,審美的状態という「幻影」あるいは「観念」の発生と歴史をドイツ観念論的思
弁の伝統のうちにたどりながらRichardsは,彼にとって中心的な問題に到達する.それは 次のような問題である.
「しかし,問題は依然として解かれないままである.審美的状態というようなものがはた して存在するか?経験の審美的性質という独自な性質がはたして存在するか?この問題 に対してはっきりした議論が述べられたためしはあまりない. (中略)問題は,ある種の経験
° e ° ° °
が他の種の経験と似ているかいないかということである.明らかに,これは類似性の程度に 関する問題である. ‑‑」㈲
この行文において批判すべき点を二つとりあげてみよう.一つはRichardsが経験あるい
Iは状態の「同一性」あるいは「独自性」,あるいは「類似性」というような言葉をなんらの注 釈もつけずに用いている点であるRichardsは,これらの言葉に関するかぎり,言葉の意味 はそれを使用する人間に内在し,言葉そのもに内在するのではないということを忘却している のである.
これらの言葉は,いずれも,われわれの意識が対象から何を抽象したかという記号にすぎな いのであって,この意識の抽象作用を離れてはいかなる意味ももたないのである.したがって, ある種の経験(芸術作品によってよびおこされる経験)は他の種の経験(日常生活における経 験)と似ているか,似ていないか,というRichardsの提出している問題は, 「似ているJと
いう言葉を何を抽象したことの記号として用いるかを前もって決めておかなければ,実は答え られない問題なのである. 「明らかに,これは類似性の程度の問題である」というRichards の言葉は誤りである. 「明らかに,これは類似性の意味の問題である」というべきなのである.
そしてRichards自身,みずから提出した問題に対して,やがて,芸術経験と日常経験は類 似していると答えるとき(これを述べるRichardsの議論は本稿のはじめにすでに引用した) われわれはRichardsが「類似している」という言葉に与えている意味に対して異議をとな
えることはできない.しかしながら,それはサRichardsが「類似している」という言葉を'
「ある種の意識の抽象作用(つまり, Richardsの意識がこの発言をするとき実施している抽 象作用)にしたがえば類似している」の省略語法として用いているということを,われわれが 承認するということにすぎないのである.したがって,このことは,̀同じ対象に対して別の種 類の意識の抽象作用がありうるということを否定するものでもなければ., 「類似している」と
° ° ▼ ° ° i ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° I °
いう言葉が「別の種類の意識の抽象作用にしたがえば類似している」の省略語法としても用い られうるという可能性を排除するものでもないのである.
私の批判の第二の点は, Richardsが審美的経験あるいは審美的状態の独自性の主張は,す べて,直接あるいは間接に, Kant哲学的仮定‑人間精神は認識,感情,意志という独立し
た三つの能力からなるとし,さらに真,莱,善をその三つの能力にそれぞれ対応する独立した
三つの領域であるとする仮定‑から派生しているとみなしている点である.この点に関して
は,Richardsの指摘があてはまる例が多くあることは認めながらもかならずLもドイツ観念
I論的立場に立たなくても・審美的経験の「独自性」を主張しうることをつけ加え.Tおこう鯛
Richards自身,いま引用した行文に続く部分で, (本稿のはじめに引用したように)経験の
「構成要素」の関連のしかた(これは,彼にとっては・経験をつくりあげるさまざまの「衝動」
の体制化のされかたを意味する)に注目することによって,ある意味において審美的経験の
「独自性」を認めるにいたるのである.しかしながら, Richardsが想定したのとは全く別の 意味での経験の「構成要素」を考えうること,そしてそのような「構成要素」の関連のしかた あるいは継起のしかたに注目して(この場合, 「ある人がある対象のある性質に注目する」と は「ある人の意識がある対象からあるもののみを抽象する」ことである)審美的経験の「独自 性」を主張することもできるということを,さらにつけ加えておく.この最後の点は,要する に, 「独自性」という言葉を意識が対象からなにを抽象したことの記号として用いるかという 問題に帰着するのであり,したがってまた,私の批判の第‑の点に還元されるのである.
以上検討してきた'議論は, Richardsが批評理論にとって一般価値理論が要請される理由を 述べている議論のうちで,経験的でかつ論理的な部分である.もっとも,その論理が十分では ないというのが私の批判の主旨だったのであるが.ところが, Richardsは続いてこれとは別 の種類の議論をもちだすのである.
「特殊な審美的状態があると仮定することには,さらに次のような点で反対しなければな らない.すなわち,そういう仮定は,特殊な審美的価値とか,純粋な芸術的価値とかいった 観念を容易に生みだすという点である.審美的経験という特殊な経験があることを前提とし て認めれば,日常経験のもつ価値とは種類も異なり,それとは全くかけはなれた特殊で独自 な価値があることを容易に認めてしまうことになる.そのあいだはほんの一歩の差である書 そして, Richardsは,審美的経験は独自性をもつものであり,審美的経験の価値は日常経 験の価値とは別種であると主張する芸術論の一例とし′て,A.C.Bradleyのrオクスフォード 詩学講義Jから次の一節を引用する. 「詩の本性は,それが実在の世界(われわれが普通理解 する意味における実在の世界)の一部でもなければ,またその模写でもなく,独立した,完全 な、自律的な,一つのそれ自体の世界であるということである.雪この「審美的」芸術論に対 するRichardsの反論は,次の通りである.
「芸術とは唯美主義者に私的楽園を与えるものだとするこの芸術観は,あとでわかるよう に,芸術の価値の研究を進める際に大きな障害となる.こういった芸術観が,これを無批判 に受けいれているひとびとの一般的な生活態度に及ぼしている悪影響ち,また慨嘆すべきこ とである.また一方,この芸術観が文学や芸術に及ぼしている悪影響も,はっきりと認めら
I
れるのである.すなわち,それは,活発な関心を狭く制限してしまい,あまりにも技巧に凝 りすぎた,高踏的な態度を装った作品を生みだしているのである.雪
さて,以上二つの引用においてRichardsが提出している議論に対して批判を試みてみよう.
この議論は,論理的な議論ではなくて,倫理的な議論である,この種の議論は,他の人の場合
はともかく, 「倫理」を(そしてより一般的には, 「価値」を)論理によって事実に還元しう
るという仮定の上に立つ「科学的価値理論」の提唱者としてのRichardsの立場とは奇妙に矛
盾するはずである.ここでRichardsが提出している議論に含まれている推論が正しいとする ならば,たとえば次のような推論も正しいということになる. 1.ある信条がひとびとを不道徳 にするということがわかっていると仮定するならば,そこからその信条は偽でなければならな いという結論が出てくる. 2ある信条がひとびとを道徳的にするということがわかっていると 仮定するならば,そこからその信条は真でなければならないという結論が出てくる.このよう
な推給(1 ,2)はRichardsの受けいれるところではあるまい・しかしながら, Richards 自身が提出している議論も,究極的には,これと同種の議論なのである.
しかしながら,この彼の倫理的な論議のうちに(そして彼の経験的、論理的な議論のうちに ではなく)私は一Richardsにとって一般価値理論が要請される「いきさつ」をもっとも明瞭に みる思いがするのである. r文芸批評の原理J出版の二年後に, Richardsはr科学と詩jに おいて自己の「科学的価値理論」を再説するにいたる.そのとき,彼はその冒頭に「1章一 般的状況JOOと題する現代文明批評の一文をおくという述べ方をとる.これは自己の「いきさつ
」に非常に忠実なRichardsの述べ方である,と私には思えるのである.
Richardsが一般価値理論を要請するために展開している議論はまだ続く.それらは主として
「倫理的な」 (上に述べた意味で)議論である.したがって,倫理的な議論に対して私がすで に試みた批判と大体同じ種類の批判があてはまると思うので,以下ではその種の批判は省略し て, Richardsの議論を引用することにする.
「批評家は,価値についてのなんらかの観念を用いないですますことはどうしてもできな い.批評家の仕事は,すべて自己の価値観念を適用し,行使することなのである. (中略)
[批評にとって]必要なのは,芸術は価値あるものだと信じているひとびとがよりどころと することができる‑つの防衛陣地である.価値の全体系の中で芸術はどのような位置と機能
をもつか,それを示してくれるような一般価値理論だけがそのような砦を与えてくれるであ ろう
「批評家に批評家としての資格をえさせるためには,認められた基準をTolstoy的な攻撃 から守るためには,認められた基準と大衆の好みとの‑だたりを狭めるためには,清教徒や 倒錯者の粗野な倫理から芸術を守るためには,一つの一般価値理論がつくりだされなければ ならない.すなわち, rこれはよい,あれはわるい」という[価値判断の]命題の意味を唆 咲.不定のままに放置しておかないような一つの一般価値理論がつくりだされなければなら ない・それ以外にとるべき道はない.このような一般価値理論は,芸術の本性の探究からの 脱線であると思われるかもしれないが,けっしてそうではないのである.というのは,批評 にとって一つの十分根拠のある価値理論が必要になるのと同様に,その価値理論にとっては 芸術作品の中でなにが起っているかを理解することが必要となるからである.
r善[‑よい]とはなにか?jという問題と, r芸術とはなにか?jという問鳶は,たがい
に解明の光を投げかけあう.じっさい,そのいずれもが,他方を考えずには十分に答えるこ
とのできない問題なのである.望かくして, Richardsにとっては,批評が批評として成立
しうるためには,芸術経験をも含めて,あらゆる経験の価値を斉一に判断する共通の基準を与 える一般価値理論が要請されることになる.そして,やがてきづかれるべき一般価値理論がみ たすべき貴小の必要条件は,すでに明示されている.しかしそれがどのような内容をもつ一
I
般価値理論であるかは・まだ明らかにされてはいない・それが明らかにされるのは, 「7章 心理学的価値理論」においてである. 7章で提出されるRichardsの‑般価値理論の解説と批 評は,稀を改めて試みることにしたい.
注
1. I.A.Richards, ̀̀Preface'to Principles of Literary Criticism, (1928) ̀Pref‑
aceは1924年の初版にはなく1928年の版からつけられた.
2.Cf. David Daiches, Critical Approaches to Literature (London, 1956) pp.129
‑42; Rene Wellek and Austin Warren, Theory of literature (New York, 1949 3rd ed. 1962) pp. 142‑57; Rene Wellek, Concepts of Criticism (New Haven, B63) pp.265‑6.
3 ・ ̀Preface'to Principles.
4. Principles, Chapter V.
5. Principles, Chapter X.
6. Principles, Chapter X.
7.Cf. Principles, Chapters III, XI.
8.Cf. Walter Pater, ̀Preface'to The Renaissance (London, 1873)
9. Cf. Paul Valeryぅ̀Le90n inaugurate du Cours de Poetique du College de France'
(1938) , Variete V (Paris, 1944) 10. Principles, Chapter II.
ll.I. A. Richards, Science and Poetry (London, 1926; 2nd ed. 1935) Chapter2.この詩V)定義はPrinciplesにおける定義の簡略化である. (ef Prin‑
ciples, Chapter XXX. )それゆえ,この(前者の)定義の中にでてくる「正当な読者」
(the right kind of reader)という言葉は後者の定義によ・1て定義されねばならないこ とになる.だが,この間題をここではこれ以上深く論じないことにする.
なお,その定義に対してはWellekの批判がある(cf. Theory of literature, p, 147)
12. Science and Poetry, Chapter 2.
13. Principles, Chapter i 14. Principles, Chapter 1.
15. Pricniples, Chapter III.
16. Principles, Chapter III.傍点は原著者(ただし原著ではitalics).以下本論中の他の著
作からの引用文中における傍点は,特に本論の筆者のものであることを明記しないかぎり 原著者のものである.
17. Paul Valery, ・Leqon inaugurate du Cours de Poetique.'訳文はr現代世界文学全 集J 25 (新潮社. 1955)中の河盛好蔵訳によるp.109.
18. ・Lecon inaugurate du Cours de Po6tique.'世界文学全集j 25,p.112.I
19. ・Lecon inaugurale du Cours de Poetique.サ世界文学全集j 25,p.113.
I20. Principles, Chapter IV.
21. Paul Valery, ・Poesie et pensee abstraite'(1939) , Variete V (Paris, 1944).
訳文はrヴァレリー全集J 6 (筑摩書房1967)中の佐藤正彰訳によるp.68.
22. Paul Valery, ̀Petite Lettre sur les Mythes'(1928),VarietelKParis, 1929).
訳文はrヴァレリ‑全集J 9 (筑摩書房, 1967)中の伊吹武彦訳によるp. 291.
23. ̀Petite Lettre sur les Mythes.'ヴァレリ‑全集J 9, p.291.
24. Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft ( 2nd ed.1787).訳文は篠田英雄訳r 純粋理性批判J (岩波文庫, 1961)によ争.p.25.なお引用文中にでてくるr学」の原 語̀Wissenschaft'はKantの英訳書におけるその訳語̀scienceと同じく「科学」
を意味することに注意.
25. Kritik der reinen Vernunft.純粋理性批判j pp.31‑2.
26.したがって,Kantにおいては,数学と自然科学の境界は不分明である. Kantの信念に したがうならば,幾何学自体が,ーたがって数学自体が自然科学の一分野であるというこ とになるはずであるCf.A.D.Lindsay, ̀Introduction'to Critique of Pure Reason
(London, 1934) , pp.vii一双.
27. Principles, Chapter X.
28. Principles, Chapter II.
29. Principles, Chapter II.
30・ここでは可能性のみを問題とした.具体的な例を一つあげるならばPaul Va16ryの詩論.
31. Principles,Chapter II.
32. A.C.Bradley, Oxford Lectures on Poetry (London, 1909)の巻頭の̀Poetry for Poefry's Sake'(1901)からの引用・
33. Principles, Chapter II.
34. Science and Poetry, Chapter I.
35. Principles, Chapter V.
36. Principles, Chapter V.ここで用いられている防衛陣地(defensible position)守る (defend, protect砦(stronghold)などの隠職に注意.これらの隠喉は, Richardsの
「いきさつ」を,彼の理論の発生期を,もっとも直接にあらわしているように私には思える.
(昭和44年9月22日受理)